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お詫びと訂正年表で利家の誕生年の元号が天正となっていますが、正しくは天文となります又、38:05あたりで魔理沙が桂離宮が二条城にあると言う発言をしておりますが、誤りです。桂離宮は桂に所在しており、二条城にあるのは桂宮家が京都御所の北に建てた御殿を明治時代に移築したものになります。お詫びして訂正します
地元の加賀藩百万石の解説ありがとうございます!🎉前田家三代とその功績を、これ程わかりやすく濃厚に解説して下さるとはとても嬉しいです!今も石川県民は前田家が大好きで、利家公か御殿様と呼んで慕い誇りに思ってます😆昨年は前田宗家の代替りがあり、加賀八家の当主が勢揃いして儀式が行われ、地元メディアでも大々的に取り上げられました。現前田家御当主は徳川宗家の御当主と同じ会社で同僚として働いていたこともあり、今も徳川と関係があるんです😌
やっぱり現在の地域の発展は戦国や江戸時代の領主によるんかなぁ。地元の福井は徳川家康の次男が藩主なのに、石川とは雲泥の差。福井は二代藩主か馬鹿だったから仕方ないか。前田家と徳川家の当主か会社の同僚だったのは有名な話ですよね。
@@tanima-gn3zm 福井藩は二代目以降は苦難の歴史でしたからね…安定した藩政が続かず、減封と財政難にあえぐことになってしまったのは悲しいことです。豊かな福井で安定した藩政が実現していれば、金沢にも負けない文化都市となってたと思います。それでも、福井県は小藩がいくつもあったおかげで、鯖江や武生には古い町並みや昔ながらの仕出し料理や料亭も残っていて、自分は大好きですよ。
今でも、「前田さまのご恩、子々孫々、ゆめ忘るべからず」と言われますよね。実高百万石と言われる仙台藩、長州藩と比べても、加賀百万石の文化レヴェルの高さは段違い。それはやはり、京都から学者や工芸職人を招聘し、加賀ルネッサンス時代を築いた利常公とそれを引き継いだ四代綱紀公の御蔭なのではないでしょうか。私の母の実家は、曽祖父の代まで加賀藩御文庫係で、家紋は加賀梅鉢紋。恐らくは前田家から拝領した家紋だったのでしょうが、新井白石に天下の書庫と称された御文庫に関わる下級武士まで大切にされていた前田のお殿様の気概が窺われます。
@@tanima-gn3zm上司が「前田と徳川を部下に従えたのは太閤以来だ!」と言った話が面白いですね。
@@erikasono565 その影響からか、読書に力をいれてる学校も多いですからね。通ってた小学校の蔵書の幅と質がとても良かったのを覚えてます。新しい県立図書館もそうですが、過去の偉人たちの事業が受け継がれて行くのはとても感慨深いです…
加賀前田氏の居城金沢城は最初は尾山城として佐久間盛政が治めていましたが、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅び一族だった盛政が自ら処刑を望んで滅んだ後前田利家が封じられて金沢城を居城としてそこから歴史が始まりました。
最近他のチャンネルで加賀藩筆頭家老本多家がやたら取り上げられてたから本家大元がしっかり取り上げてるのは非常に良いと思います!
いつも、話の組み立て方が上手くて、終盤にすごく得をした爽やかな気持ちにさせられます。語りべとしての才能の高さに脱帽です
利家は兄から家督を奪った形で前田を継いだ訳だけど、最後まで兄をたてて、お兄ちゃんの墓を自分のより標高の高い位置に立派に作ったんだよね。そういう律儀な所好き。
北陸一帯は秀吉の時代まで一向宗に支配され、一揆となったら30万が動いたなんて話も。百万石規模の国となったのも、生半可な国力では支配しきれない土地という事なんでしょうね。
利家公が越前に赴任したての頃は、一向一揆を力で抑えようとしたこともあったようですが、その後の善政で、領民の信頼を得たことが大きいですよね。特に四代綱紀公が、藩の財政を圧迫すると反対されながらも、小石川療養所に先駆けて、領民の無償治療や貧民救済のために設置したお救い小屋の効果が大きかったように思います。-焼失した江戸城天守閣再建のための土台を築いたのは加賀藩。天守閣再建停止を命じた保科正之は、加賀藩四代藩主綱紀公の岳父であり、藩政改革の指南役でもありました。天守閣再建停止命の裏には、このまま天守閣再建計画を進めれは、結局加賀藩の負担になり、藩財政を圧迫して、綱紀公肝いりのお救い小屋計画が頓挫しかねないという正之公の懸念があったのではないかとも思われます。その正之公、綱紀公の想いを汲んで、加賀藩士末裔が提唱した江戸城天守閣再建計画が進んでいます。加賀藩が幕府に先駆けて着手した領民福祉の象徴として見守っていただきたく思います。
北海道は少しずつあったかくなってきたと思えば突然の豪雪です。投稿主さんも風邪をひかぬようにお気をつけ下さい
利家視点の戦国時代は物語りとして面白いな主人公視点と言うか
利家の妻まつが亡くなった後、まつの化粧料だった近江国弘川村も飛び地として前田家に与えられた。
こんばんは。前田家のお話を丁寧に解説くださりありがとうございます。神奈川は北条五代を大河に推していますが、前田三代もいけそうな気がしました。石川県の更なる発展と激励のためにも前田三代もっと推してもいいかなと思いました😊
ありがとうございます!
書籍だと前田利家・利長 創られた「加賀百万石」伝説とかなかなか面白かったです加賀藩といえば幕府ほぼ公認の密貿易してたロシアとの関係が複雑で面白いですよね
加賀藩御文庫係だった曽祖父は、御文庫にあったアングルの絵を見たそうです。長崎から手に入れたものかと思っていたのですが、もしかしたら、ロシア経由だったかもしれませんよね。
3月になったこの土日が今年1番の寒さに感じる😱外様で100万石を超える領地を維持できたのは凄い
タイムスクープハンターで加賀藩が将軍家に氷を毎年献上していたってあったよね
暖かいって聞くけど、大阪だと昨日(2024/03/02)に泉州辺りで雪がちらついてたりとわけわかめ()w
センゴクでも家康が前田家切り崩しする描写あったな
震災復興のシンボルとして金沢城二の丸御殿と本丸を整備してほしいあと原寸大サイズのマジンガーZとGマジンガーも永井豪先生は石川県出身です
QPコーワゴールドα、パブロン、味噌汁(ネギ入り)が効くみたいです…。
今回は加賀前田になっている正月早々能登地震があったもんな
戦国時代、家臣の領地替えをほいほい行ったのは信長公だけとされるのに、戦国末期ともなればその領地替えが大名単位で行われるように。先住の人と後住の人の確執たるやすさまじいものがあったでしょうねぇ。
来年の大河ドラマは、葵三代ならぬ「加賀三代」でいいんじゃないですか?能登半島地震の復興応援のためにも。
雪が少ないとスキー場も困るだろうけど、夏の水が減るんだよ。今年の夏も取水制限とかする地域も出てくるんじゃないの?
最大の大名が幕末動乱期に全く存在感を示せなかったのは天下に関わる事を厭んだからなのか明君なしと言われる所以なのか明治以降素晴らしい軍人を排出しているのが面白い
辻政信が何だって?
大日本帝国陸軍最強を誇った第九師団が編成された地が金沢。
前田利為大将でしょうか。かつて外交官を目指しながらも「前田の当主が軍人にならないなんて」と反対され。東條英機と同期で、論争に落ち着いて勝ち(東條は「この殿様が!」と悔しがった)
戦国時代を扱っていても何故か殺伐とせず、いつものように温泉宿で華やかな歴史残り香を見たような気分になれます。それにしても、前田家も伊達家も人望を集めた三代目が若くしてなくなっているのですよね。この件で松島の瑞巌寺に隣りする円通院は色々と見ものです。
信長による越前や加賀での虐殺の上に、尾張の武将が作った町が金沢。金沢はなんて悲しい町なんだろう。
利常が隠居した時隠居領として23万石、前田本家は80万石になった。利常死後隠居領は本家に返還され、それ以降102万石が表高となったはず
前田利家の次男利政が改易されて領内の寺に隠棲した時に、兄利長の死後に加賀国への帰参を赦された実母芳春院まつと利政はどのような顔合わせをしたのでしょうね。加賀前田家二代利常は本編にもある通り利家と芳春院まつの侍女の息子であって、まつと直接の血縁は無いだけに…。なお利政の息子前田直之の代になって、ようやく德川幕府からの許しを得て、本家陪臣の加賀前田家筆頭家老 前田土佐守家1万石(後に高直しで1万1千石)として明治の世まで存続します。明治の授爵では德川御三家の付家老職を務めた家同様に、維新当時の前田土佐守家当主も男爵位を授爵しています。個人的には参勤交代の中継地として、加賀前田家、富山前田家、大聖寺前田家各藩の参勤交代往復とも、物心両面で支え続けなければならなかった、利家五男前田利孝を藩祖とする上州七日市藩1万石を治めた前田丹後守家が不憫でなりません。
前田利家ばかりが目立つけど、利長・利常の腹違いの兄弟と、五代藩主が凄いんですよね❗️ 利長は織田信長の娘と結婚していて、別の領地を持ち、それが百万石への礎となってますし。 二代藩主と四代藩主の祖父と孫の舵を取った文化殖産業は、形を変えて現代まで受け継がれていますし。 特に、側室の子供は頑張るの如く、後水尾天皇に接近し、桂離宮の造営にかなりの資金の援助をしてますし。他にも、建築・造園、九谷焼(古九谷のほう)、加賀友禅、蒔絵、能楽、他の産業を根付かせています。 五代・綱紀は、三歳で藩主となり、徳川将軍では家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗の五代に及ぶ長寿の八十二歳❗️特に、書物奉行を置き、内外の書物を収集させ、原本の買えない物は写本をさせる。非人小屋(お救い小屋とも)という生活困窮者に、飢饉が起きた時、コメを始めとした食、医者も派遣して医療体制をおいていたこと。藩内で年長者である人達には、ご褒美として扶持米を与えてます。 こうした土壌を知ってか知らずか、江戸時代後期にも、飢饉が起こった時のこと。乳飲み子を抱えた母親が母乳が出ず、困り果てた姿を見た、雑穀屋・俵屋次右衛門。良質のコメと大麦を混ぜて作った軟らかいアメを思いつき、作ったと言うもの。現代でも、「俵屋」として、健在です。
功業より守成がいかに難しいか、ですね。
3代目から日蓮宗となり 現在も忍者寺として寺町にある
妙立寺ですね。水戸黄門第32部の2時間SPで舞台になってましたね。
石川県民の前田家への崇敬の念を舐めてはいけませんよ。安易にネガティブコメするのは思う所がありますので…😏我が家は武士ではありませんが、足軽として末端の末端ながらも禄をはんでおりました。立派な名字も頂き、前田家と藩士の皆様には御恩がありますので。
家康「将軍 (秀忠) に何度もお主 (利常) を56すよう勧めたが将軍は肯かなかった。ワシに関してはどうでもよいが、将軍の厚情には感謝せよ」だから自身の妻珠姫 (秀忠実娘) が亡くなった後、利常孫の綱利には保科正之 (秀忠隠し子) の娘を正室に迎えさせて幕府との関係を修復した。
そういえば、金持ちのお嬢様と夫婦になったダメ夫がお嬢様の持参金を飲み干し働かず、しまいにはDVを働くと言う始末でしかし、なんか金鉱脈を掘り当てて夫婦仲良く暮したとさって言う今じゃ放送倫理に触れる内容の日本昔話でそれで地名が「金沢」になったとさって、なんか思い出したわw
高山右近を一時期召し抱えていたのに、金沢にキリスト教は根付かなかったんだよな。やっぱり一向宗のメッカだったからか。
一向宗というか浄土真宗もキリスト教と似たようなところありますからね→原罪(生きるための殺生・神への不信)の自覚と絶対的な存在の無限の恩寵(愛等)への帰依、生前の行いは天国地獄かの判定に関係ない 右近が加賀に来たのは追放令発令後辺りで、個人の信仰は良いけど「他人が信仰を強制するのはダメ」だったのもありましたただ影響ないわけではない→利常はキリシタン陶工と交流して九谷焼を創作し、洗礼用の盃として使われてた説ある&七尾市の本行寺はキリシタン寺(仏像の中に十字架)
浄土真宗がめちゃくちゃ強くて、駅から近江町市場に向かう途中に浄土真宗本願寺派のクソデカ寺院がそびえ立ってるくらいです。
地図上からは江戸に近い北陸に何故100万石もの外様大名が?というのは幼少からの疑問で、念願かなってやっと行った能登加賀越中の平野の広い事広い事。そりゃ100万石あるわと。そしてあそこから江戸に出るには一旦は越後に出なければならず、越中から越後へはちょうど山があり大軍が通れず、加賀から越前へ抜ける道も険しい山があって、大軍を擁してもそもそもその大軍を簡単には動かせない土地。直線距離だと近く見えるが大きく迂回しなければならず、地理的にはかなり遠い。だからといって100万石を許されていたわけではなかろうが、存続し続けられた理由の一つに遠さと不便さはあったのではないかな。
北陸新幹線開通で、今でこそ東京金沢間は2時間になりました。でもそれ以前は、東海道新幹線、東名高速、どちらも米原乗り換え。しかも冬場は豪雪で米原から先へはいけないことが多かった。金沢に住む父方の祖母が危篤になった際にも、駆け付けた両親は、米原で足止めされ、死に目には会えなかったそうです。江戸時代以前の大変さは想像以上です。-加賀百万石は、平野が広いだけではない。豪雪地帯の雪解け水が、美味しい米を作る。加えて、白山を頂く山の幸、日本一ともいえる能登半島の海の幸。そして利常公、綱紀公が推進した工芸と学問。加賀友禅、九谷焼、輪島塗、宝生能、徳川将軍家に次ぐと言われる書庫。それに、自ら人質として江戸に下ったまつの外交手腕、その後の徳川家との何重もの血縁関係。簡単に築かれたものではありません。
信長は秀吉を警戒してたはずだ。
信長はネコだったなんて話もあるから利家がタチ側でやることやっててもおかしくない
「加賀ら100万石」といってほしい。加賀だけだと35~44万石越中38~53万石・・・・・・・・!!!
寛政ではなくて寛永では?
利常と珠姫との仲は良く3男5女に恵まれましたちなみに子供達は全員無事に成人しました
でも長男の光高は親父や叔父より先に亡くなるんですよね。変わって藩主になるのが綱紀。彼は祖父利常や叔父黄門様や舅保科正之のいい影響を受け名君へと成長しますね😊
一番、特筆すべき藩主・綱紀公。後世からみて、御救小屋と言われる類いの施設など、画期的なことをしているので、著名人に入れたいですね。 寛文の飢饉の際、それが効果テキメン。生活困窮者だけではなく、お産施設も併設していたとか。飢饉の際、コメを支給したり、医者も派遣して医療体制も整えた、2000人以上を収容できたとも。 このアイデアは、就任してから、かねがね考えていたらしく、巨大な施設と維持費が藩の財政を圧迫する可能性もあったので、飢饉が起きて初めて、認められたようです。 また、長寿を保っている者には、褒美として扶持米を与えていたとも。現代のあるやり方に似てますし。 加賀国は、一向宗徒の国。前田利家が治める時期、門徒は他の地域より刑罰が苛烈であったのが、→180度転換して減刑へと寛容になってもいる。 その時代にしては及ばない分野にも感心を持ち、
あひゃひょわーーーーー‼️
桂離宮は二条城にはありません!桂にあります
コメントありがとうございます仰る通り桂離宮は桂に所在しておりました。お詫び致します
わざわざありがとうございます🙏
今本丸にある本丸御殿が、旧桂宮の屋敷からの移築建物だから、それと勘違いしたのでしょうね!
@@克幸田母神 その通りです。ご指摘頂きありがとうございました
利家の生まれは天正じゃなくて天文ですよ。
加賀百万石といえばローカル役満
花粉?で鼻と目元がががが😂
ロリ佐が真っ先に出てくる風評?被害無双のお国柄有能の前に単なるヘムタイ扱い草生える
『利家とまつ~加賀百万石物語~』は陳腐で駄作だったけど、ジェームス三木が脚本書いてたら傑作になれる題材だったと思う。
江戸時代は百万石の大大名として隆盛を極めた加賀金沢も、幕末から明治の立ち回りが悪かったのか、近代から現代に至るまで他の大都市に比べて発展から取り残された感じがします。
加賀前田藩は、もともと、天下を狙わず、独立独歩、争わず、それでいて自分たちなりの床哉文化を楽しむ気風があります。信長死後、秀吉死後も、利家公は天下を狙わなかったし、関ケ原合戦や大坂の陣でも、目立った動きはしていないではありませんか。それでいて、徳川幕府に謀反を疑われば、まつがみずから人質として江戸に赴き、藩主の正室には積極的に将軍家ゆかりの姫を迎え、家光の信頼が厚かった保科正之の娘も正室に迎えて、藩政改革を行った。だから加賀前田藩は、取り潰されることもなく大大名として江戸時代を生き延びたのです。-幕末から明治期にかけても同じです。前田家は、準親藩の立場でありながら、会津藩のようにあくまで新政府軍と戦うようなことはせず、明治維新後は、前田侯爵家として、都内に豪華な洋館を建て、一世を風靡しました。藩主が東京に移った後も、金沢は小京都と言われる文化的風情を保ち、外国人観光客にも人気です。明治以降、東海道沿線の太平洋岸が工業都市として発展はしましたが、果たして文化的に金沢に匹敵する街がどれほどあるでしょうか?むしろ、やたらとコンビナートなどを並べて工業都市になるのは、金沢には似合わない。それを「取り残された」という言い方をするのは違うと私は思います。-母の実家は加賀藩士の末裔で、母は母方の祖父が役人だった関係で、東京生まれで、中学からは金沢育ち。ピアノと声楽を習っていて、カトリック教会のミサでソロを歌っていたという母は、90歳近くになって、まだ合唱団で歌っています。以前は東京シュナイトバッハ合唱団で歌っていたのですが、今歌っている合唱団はカナダを大学大学院教授である声楽家が金沢から東京まで教えに来ているのだとか。その先生の解釈が素晴らしいのだそうです。金沢にはいいオーケストラもできたそうですし、加賀百万石の江戸時代以前の伝統文化だけではない、新たな文化が生まれているのだと思います。-それに、南海トラフ巨大地震と首都直下型地震が同時に起きたら、首都圏から京阪神地域に至る日本の製造拠点のほとんどが壊滅すると言われている昨今。今年は能登震災に見舞われましたが、南海トラフ巨大地震や首都直下型地震の影響は受けにくいと言われる日本海側では、金沢は京都と並んで重要な文化都市です。高度成長期を過ぎたこれからの日本にとって、ますます重要になるはずですよ。
利家をメジャーにしたのは花の慶次
金沢て自分の街に対して天井知らずのプライドの方多い…(汗)特に京都からきた・名古屋からきたというと、ぴきーんと張り合いセンサーが反応してしまうらしいので、2度目からは適当に誤魔化しておいたけど。まあこれだけ自慢できる領主を持ち、それを連綿と伝えてきたのは凄いし、そのぐらいのプライドがあるから伝えてこれた面もあるだろう。本当にそこは尊敬するし、感心もする。ただ。同じように数百年伝えてきたのに空襲ですべて失った土地も沢山ある事を、後者側の町に暮らす私はしみじみと「古都・金沢」を歩きながら思った。よりによって共に百万石を構成した一翼の富山の悲劇よ…。そして、空襲は免れたのに地震。雪の中を2年通った輪島朝市、いつも自宅への土産にする蟹を買ってたお店のおばさん、どうしていらっしゃるだろう。
京都の着倒れ、大阪の食い倒れに対し、金沢は着倒れ、かつ食い倒れと言われます。加賀友禅は京友禅に匹敵する、新鮮な山海の珍味が揃うから、食の質は大阪を上回る、と。-今年の能登震災でも、ミシェラン一つ星レストランのシェフが、「能登を世界一の食の名所に育てて復興させる」と言っていましたよね。日本一ではない、世界一ですよ?でも確かに、在欧38年の私の目から見ても、そもそも本は南北に細長く、気候の変化に富むから農作物の種類も豊富。そして周囲を海に囲まれた島国で、暖流と寒流が交わり、近海魚種類も豊富。更には本州の中央に日本アルプスが走るから、山草やジビエも豊富。加賀藩は、その本州のほぼ中央にあり、日本アルプスの麓なのに、日本海の幸に恵まれた能登半島を従えている。食材の豊富さでも日本有数です。*****あとは、徳川将軍家と比べても、学問文化を大切にしてきたことでは、加賀前田家は人語に落ちない。加賀前田家が育てた宝生能は、徳川将軍家御用の観世能と並んで、今日でも能楽の二代流派の一角ですし。京都には公家文化がありますが、京都を除けば、名古屋を含めて、そこまで江戸の将軍家と張り合える文化を育てた街は、日本にはありません。-そもそも前田藩の加賀梅鉢紋は、菅家ゆかりの家紋を利家公が勝手に拝借したもの。それだけ、文武両道に優れた菅家に対する憧れがあった。江戸時代に入って、準親藩扱いとなり、松平姓と葵紋の使用を許されたのに、前田家は、葵紋を替え紋としてすら使用しなかったのですよね。それだけ、菅家ゆかりの梅鉢紋に誇りを持っているのです。もともと、前田家は菅家とは関係ないはずなのにね。-東大の赤門が加賀藩上屋敷の門であったことは有名。三四郎池のある庭も、名勝兼六園を模した、加賀藩上屋敷の庭園跡です。金沢から東大に進学した者は、東大本郷キャンパスの三四郎池のある庭園を散策して故郷に思いを馳せる。だから私などは、首都圏の私立中学の合格発表直後、父に一人、東大本郷キャンパスの散策に誘われ、赤門や三四郎池、安田講堂などを案内されて、「いいか、学問というのは、こういう環境があってはじめて育つものなんだ。ろくなキャンパスもない、都心にビルだけ建っているような大学に進学しても、学問はできない」と、滾々と言い含められたものです。都内の前田侯爵家邸宅跡も博物館になって公開されていますが、さすがにそこまではいきませんでしたが。東大本郷キャンパスは、不忍池を挟んで、将軍家ゆかりの寛永寺がある上野公園に続いている。江戸城跡である皇居を除けば、江戸時代の繁栄を最も色濃く残す地区です。これは、誇りに思っても仕方がないと思います。-ちなみに私は、両親の故郷は金沢ですが、私自身は東京生まれの首都圏育ちで、日本より欧州の方が長い。金沢にも夏場には行ったことは何度かありますが、金沢育ちではありません。金沢弁も、聴けばある程度は分かりますが、私自身は全くといいほど話せません。それでもそう思うのだから……。(笑)
弟が東京で何気無く「~がいや」を使ってしまい。周囲が固まったそうです。新潟の「~だっちゃ」よりはきつくないのに。
金沢市は単なる中堅都市に過ぎないのだが未だに加賀百万石と言う江戸時代の栄光に囚われて発展速度が遅い。
お詫びと訂正
年表で利家の誕生年の元号が天正となっていますが、正しくは天文となります
又、38:05あたりで魔理沙が桂離宮が二条城にあると言う発言をしておりますが、誤りです。
桂離宮は桂に所在しており、二条城にあるのは桂宮家が京都御所の北に建てた御殿を明治時代に移築したものになります。お詫びして訂正します
地元の加賀藩百万石の解説ありがとうございます!🎉
前田家三代とその功績を、これ程わかりやすく濃厚に解説して下さるとはとても嬉しいです!
今も石川県民は前田家が大好きで、利家公か御殿様と呼んで慕い誇りに思ってます😆
昨年は前田宗家の代替りがあり、加賀八家の当主が勢揃いして儀式が行われ、地元メディアでも大々的に取り上げられました。
現前田家御当主は徳川宗家の御当主と同じ会社で同僚として働いていたこともあり、今も徳川と関係があるんです😌
やっぱり現在の地域の発展は戦国や江戸時代の領主によるんかなぁ。地元の福井は徳川家康の次男が藩主なのに、石川とは雲泥の差。福井は二代藩主か馬鹿だったから仕方ないか。前田家と徳川家の当主か会社の同僚だったのは有名な話ですよね。
@@tanima-gn3zm 福井藩は二代目以降は苦難の歴史でしたからね…
安定した藩政が続かず、減封と財政難にあえぐことになってしまったのは悲しいことです。
豊かな福井で安定した藩政が実現していれば、金沢にも負けない文化都市となってたと思います。
それでも、福井県は小藩がいくつもあったおかげで、鯖江や武生には古い町並みや昔ながらの仕出し料理や料亭も残っていて、自分は大好きですよ。
今でも、「前田さまのご恩、子々孫々、ゆめ忘るべからず」と言われますよね。
実高百万石と言われる仙台藩、長州藩と比べても、加賀百万石の文化レヴェルの高さは段違い。
それはやはり、京都から学者や工芸職人を招聘し、加賀ルネッサンス時代を築いた利常公とそれを引き継いだ四代綱紀公の御蔭なのではないでしょうか。
私の母の実家は、曽祖父の代まで加賀藩御文庫係で、家紋は加賀梅鉢紋。
恐らくは前田家から拝領した家紋だったのでしょうが、新井白石に天下の書庫と称された御文庫に関わる下級武士まで大切にされていた前田のお殿様の気概が窺われます。
@@tanima-gn3zm
上司が「前田と徳川を部下に従えたのは太閤以来だ!」と言った話が面白いですね。
@@erikasono565
その影響からか、読書に力をいれてる学校も多いですからね。
通ってた小学校の蔵書の幅と質がとても良かったのを覚えてます。
新しい県立図書館もそうですが、過去の偉人たちの事業が受け継がれて行くのはとても感慨深いです…
加賀前田氏の居城金沢城は最初は尾山城として佐久間盛政が治めていましたが、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅び一族だった盛政が自ら処刑を望んで滅んだ後前田利家が封じられて金沢城を居城としてそこから歴史が始まりました。
最近他のチャンネルで加賀藩筆頭家老本多家がやたら取り上げられてたから本家大元がしっかり取り上げてるのは非常に良いと思います!
いつも、話の組み立て方が上手くて、終盤にすごく得をした爽やかな気持ちにさせられます。
語りべとしての才能の高さに脱帽です
利家は兄から家督を奪った形で前田を継いだ訳だけど、最後まで兄をたてて、お兄ちゃんの墓を自分のより標高の高い位置に立派に作ったんだよね。そういう律儀な所好き。
北陸一帯は秀吉の時代まで一向宗に支配され、一揆となったら30万が動いたなんて話も。百万石規模の国となったのも、生半可な国力では支配しきれない土地という事なんでしょうね。
利家公が越前に赴任したての頃は、一向一揆を力で抑えようとしたこともあったようですが、その後の善政で、領民の信頼を得たことが大きいですよね。
特に四代綱紀公が、藩の財政を圧迫すると反対されながらも、小石川療養所に先駆けて、領民の無償治療や貧民救済のために設置したお救い小屋の効果が大きかったように思います。
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焼失した江戸城天守閣再建のための土台を築いたのは加賀藩。天守閣再建停止を命じた保科正之は、加賀藩四代藩主綱紀公の岳父であり、藩政改革の指南役でもありました。
天守閣再建停止命の裏には、このまま天守閣再建計画を進めれは、結局加賀藩の負担になり、藩財政を圧迫して、綱紀公肝いりのお救い小屋計画が頓挫しかねないという正之公の懸念があったのではないかとも思われます。
その正之公、綱紀公の想いを汲んで、加賀藩士末裔が提唱した江戸城天守閣再建計画が進んでいます。
加賀藩が幕府に先駆けて着手した領民福祉の象徴として見守っていただきたく思います。
北海道は少しずつあったかくなってきたと思えば突然の豪雪です。投稿主さんも風邪をひかぬようにお気をつけ下さい
利家視点の戦国時代は物語りとして面白いな主人公視点と言うか
利家の妻まつが亡くなった後、まつの化粧料だった近江国弘川村も飛び地として前田家に与えられた。
こんばんは。前田家のお話を丁寧に解説くださりありがとうございます。
神奈川は北条五代を大河に推していますが、前田三代もいけそうな気がしました。石川県の更なる発展と激励のためにも前田三代もっと推してもいいかなと思いました😊
ありがとうございます!
書籍だと前田利家・利長 創られた「加賀百万石」伝説とかなかなか面白かったです
加賀藩といえば幕府ほぼ公認の密貿易してたロシアとの関係が複雑で面白いですよね
加賀藩御文庫係だった曽祖父は、御文庫にあったアングルの絵を見たそうです。
長崎から手に入れたものかと思っていたのですが、もしかしたら、ロシア経由だったかもしれませんよね。
3月になったこの土日が今年1番の寒さに感じる😱
外様で100万石を超える領地を維持できたのは凄い
タイムスクープハンターで加賀藩が将軍家に氷を毎年献上していたってあったよね
暖かいって聞くけど、大阪だと昨日(2024/03/02)に泉州辺りで雪がちらついてたりとわけわかめ()w
センゴクでも家康が前田家切り崩しする描写あったな
震災復興のシンボルとして金沢城二の丸御殿と本丸を整備して
ほしいあと原寸大サイズのマジンガーZとGマジンガーも
永井豪先生は石川県出身です
QPコーワゴールドα、パブロン、味噌汁(ネギ入り)が効くみたいです…。
今回は加賀前田になっている
正月早々能登地震があったもんな
戦国時代、家臣の領地替えをほいほい行ったのは信長公だけとされるのに、戦国末期ともなればその領地替えが大名単位で行われるように。先住の人と後住の人の確執たるやすさまじいものがあったでしょうねぇ。
来年の大河ドラマは、葵三代ならぬ
「加賀三代」でいいんじゃないですか?
能登半島地震の復興応援のためにも。
雪が少ないとスキー場も困るだろうけど、夏の水が減るんだよ。
今年の夏も取水制限とかする地域も出てくるんじゃないの?
最大の大名が幕末動乱期に全く存在感を示せなかったのは天下に関わる事を厭んだからなのか
明君なしと言われる所以なのか
明治以降素晴らしい軍人を排出しているのが面白い
辻政信が何だって?
大日本帝国陸軍最強を誇った第九師団が編成された地が金沢。
前田利為大将でしょうか。かつて外交官を目指しながらも「前田の当主が軍人にならないなんて」と反対され。東條英機と同期で、論争に落ち着いて勝ち(東條は「この殿様が!」と悔しがった)
戦国時代を扱っていても何故か殺伐とせず、いつものように温泉宿で華やかな歴史残り香を見たような気分になれます。
それにしても、前田家も伊達家も人望を集めた三代目が若くしてなくなっているのですよね。
この件で松島の瑞巌寺に隣りする円通院は色々と見ものです。
信長による越前や加賀での虐殺の上に、尾張の武将が作った町が金沢。金沢はなんて悲しい町なんだろう。
利常が隠居した時隠居領として23万石、前田本家は80万石になった。利常死後隠居領は本家に返還され、それ以降102万石が表高となったはず
前田利家の次男利政が改易されて領内の寺に隠棲した時に、兄利長の死後に加賀国への帰参を赦された実母芳春院まつと利政はどのような顔合わせをしたのでしょうね。加賀前田家二代利常は本編にもある通り利家と芳春院まつの侍女の息子であって、まつと直接の血縁は無いだけに…。
なお利政の息子前田直之の代になって、ようやく德川幕府からの許しを得て、本家陪臣の加賀前田家筆頭家老 前田土佐守家1万石(後に高直しで1万1千石)として明治の世まで存続します。明治の授爵では德川御三家の付家老職を務めた家同様に、維新当時の前田土佐守家当主も男爵位を授爵しています。
個人的には参勤交代の中継地として、加賀前田家、富山前田家、大聖寺前田家各藩の参勤交代往復とも、物心両面で支え続けなければならなかった、利家五男前田利孝を藩祖とする上州七日市藩1万石を治めた前田丹後守家が不憫でなりません。
前田利家ばかりが目立つけど、利長・利常の腹違いの兄弟と、五代藩主が凄いんですよね❗️
利長は織田信長の娘と結婚していて、別の領地を持ち、それが百万石への礎となってますし。
二代藩主と四代藩主の祖父と孫の舵を取った文化殖産業は、形を変えて現代まで受け継がれていますし。
特に、側室の子供は頑張るの如く、後水尾天皇に接近し、桂離宮の造営にかなりの資金の援助をしてますし。他にも、建築・造園、九谷焼(古九谷のほう)、加賀友禅、蒔絵、能楽、他の産業を根付かせています。
五代・綱紀は、三歳で藩主となり、徳川将軍では家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗の五代に及ぶ長寿の八十二歳❗️特に、書物奉行を置き、内外の書物を収集させ、原本の買えない物は写本をさせる。非人小屋(お救い小屋とも)という生活困窮者に、飢饉が起きた時、コメを始めとした食、医者も派遣して医療体制をおいていたこと。藩内で年長者である人達には、ご褒美として扶持米を与えてます。
こうした土壌を知ってか知らずか、江戸時代後期にも、飢饉が起こった時のこと。乳飲み子を抱えた母親が母乳が出ず、困り果てた姿を見た、雑穀屋・俵屋次右衛門。良質のコメと大麦を混ぜて作った軟らかいアメを思いつき、作ったと言うもの。現代でも、「俵屋」として、健在です。
功業より守成がいかに難しいか、ですね。
3代目から日蓮宗となり 現在も忍者寺として寺町にある
妙立寺ですね。水戸黄門第32部の2時間SPで舞台になってましたね。
石川県民の前田家への崇敬の念を舐めてはいけませんよ。
安易にネガティブコメするのは思う所がありますので…😏
我が家は武士ではありませんが、足軽として末端の末端ながらも禄をはんでおりました。
立派な名字も頂き、前田家と藩士の皆様には御恩がありますので。
家康「将軍 (秀忠) に何度もお主 (利常) を56すよう勧めたが将軍は肯かなかった。
ワシに関してはどうでもよいが、将軍の厚情には感謝せよ」
だから自身の妻珠姫 (秀忠実娘) が亡くなった後、利常孫の綱利には保科正之 (秀忠隠し子) の娘を正室に迎えさせて
幕府との関係を修復した。
そういえば、金持ちのお嬢様と夫婦になったダメ夫がお嬢様の持参金を飲み干し
働かず、しまいにはDVを働くと言う始末で
しかし、なんか金鉱脈を掘り当てて夫婦仲良く暮したとさって言う今じゃ放送倫理に触れる内容の日本昔話で
それで地名が「金沢」になったとさって、なんか思い出したわw
高山右近を一時期召し抱えていたのに、金沢にキリスト教は根付かなかったんだよな。
やっぱり一向宗のメッカだったからか。
一向宗というか浄土真宗もキリスト教と似たようなところありますからね→原罪(生きるための殺生・神への不信)の自覚と絶対的な存在の無限の恩寵(愛等)への帰依、生前の行いは天国地獄かの判定に関係ない 右近が加賀に来たのは追放令発令後辺りで、個人の信仰は良いけど「他人が信仰を強制するのはダメ」だったのもありました
ただ影響ないわけではない→利常はキリシタン陶工と交流して九谷焼を創作し、洗礼用の盃として使われてた説ある&七尾市の本行寺はキリシタン寺(仏像の中に十字架)
浄土真宗がめちゃくちゃ強くて、駅から近江町市場に向かう途中に浄土真宗本願寺派のクソデカ寺院がそびえ立ってるくらいです。
地図上からは江戸に近い北陸に何故100万石もの外様大名が?というのは幼少からの疑問で、念願かなってやっと行った能登加賀越中の平野の広い事広い事。そりゃ100万石あるわと。そしてあそこから江戸に出るには一旦は越後に出なければならず、越中から越後へはちょうど山があり大軍が通れず、加賀から越前へ抜ける道も険しい山があって、大軍を擁してもそもそもその大軍を簡単には動かせない土地。直線距離だと近く見えるが大きく迂回しなければならず、地理的にはかなり遠い。だからといって100万石を許されていたわけではなかろうが、存続し続けられた理由の一つに遠さと不便さはあったのではないかな。
北陸新幹線開通で、今でこそ東京金沢間は2時間になりました。
でもそれ以前は、東海道新幹線、東名高速、どちらも米原乗り換え。しかも冬場は豪雪で米原から先へはいけないことが多かった。
金沢に住む父方の祖母が危篤になった際にも、駆け付けた両親は、米原で足止めされ、死に目には会えなかったそうです。
江戸時代以前の大変さは想像以上です。
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加賀百万石は、平野が広いだけではない。
豪雪地帯の雪解け水が、美味しい米を作る。加えて、白山を頂く山の幸、日本一ともいえる能登半島の海の幸。
そして利常公、綱紀公が推進した工芸と学問。加賀友禅、九谷焼、輪島塗、宝生能、徳川将軍家に次ぐと言われる書庫。
それに、自ら人質として江戸に下ったまつの外交手腕、その後の徳川家との何重もの血縁関係。
簡単に築かれたものではありません。
信長は秀吉を警戒してたはずだ。
信長はネコだったなんて話もあるから利家がタチ側でやることやっててもおかしくない
「加賀ら100万石」といってほしい。加賀だけだと35~44万石
越中38~53万石・・・・・・・・!!!
寛政ではなくて寛永では?
利常と珠姫との仲は良く3男5女に恵まれました
ちなみに子供達は全員無事に成人しました
でも長男の光高は親父や叔父より先に亡くなるんですよね。変わって藩主になるのが綱紀。彼は祖父利常や叔父黄門様や舅保科正之のいい影響を受け名君へと成長しますね😊
一番、特筆すべき藩主・綱紀公。後世からみて、御救小屋と言われる類いの施設など、画期的なことをしているので、著名人に入れたいですね。
寛文の飢饉の際、それが効果テキメン。生活困窮者だけではなく、お産施設も併設していたとか。飢饉の際、コメを支給したり、医者も派遣して医療体制も整えた、2000人以上を収容できたとも。
このアイデアは、就任してから、かねがね考えていたらしく、巨大な施設と維持費が藩の財政を圧迫する可能性もあったので、飢饉が起きて初めて、認められたようです。
また、長寿を保っている者には、褒美として扶持米を与えていたとも。現代のあるやり方に似てますし。
加賀国は、一向宗徒の国。前田利家が治める時期、門徒は他の地域より刑罰が苛烈であったのが、→180度転換して減刑へと寛容になってもいる。
その時代にしては及ばない分野にも感心を持ち、
あひゃひょわーーーーー‼️
桂離宮は二条城にはありません!
桂にあります
コメントありがとうございます
仰る通り桂離宮は桂に所在しておりました。お詫び致します
わざわざありがとうございます🙏
今本丸にある本丸御殿が、旧桂宮の屋敷からの移築建物だから、それと勘違いしたのでしょうね!
@@克幸田母神 その通りです。ご指摘頂きありがとうございました
利家の生まれは天正じゃなくて天文ですよ。
加賀百万石といえばローカル役満
花粉?で鼻と目元がががが😂
ロリ佐が真っ先に出てくる風評?被害無双のお国柄
有能の前に単なるヘムタイ扱い草生える
『利家とまつ~加賀百万石物語~』は陳腐で駄作だったけど、ジェームス三木が脚本書いてたら傑作になれる題材だったと思う。
江戸時代は百万石の大大名として隆盛を極めた加賀金沢も、
幕末から明治の立ち回りが悪かったのか、
近代から現代に至るまで他の大都市に比べて発展から取り残された感じがします。
加賀前田藩は、もともと、天下を狙わず、独立独歩、争わず、それでいて自分たちなりの床哉文化を楽しむ気風があります。
信長死後、秀吉死後も、利家公は天下を狙わなかったし、関ケ原合戦や大坂の陣でも、目立った動きはしていないではありませんか。
それでいて、徳川幕府に謀反を疑われば、まつがみずから人質として江戸に赴き、藩主の正室には積極的に将軍家ゆかりの姫を迎え、家光の信頼が厚かった保科正之の娘も正室に迎えて、藩政改革を行った。
だから加賀前田藩は、取り潰されることもなく大大名として江戸時代を生き延びたのです。
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幕末から明治期にかけても同じです。
前田家は、準親藩の立場でありながら、会津藩のようにあくまで新政府軍と戦うようなことはせず、明治維新後は、前田侯爵家として、都内に豪華な洋館を建て、一世を風靡しました。
藩主が東京に移った後も、金沢は小京都と言われる文化的風情を保ち、外国人観光客にも人気です。
明治以降、東海道沿線の太平洋岸が工業都市として発展はしましたが、果たして文化的に金沢に匹敵する街がどれほどあるでしょうか?
むしろ、やたらとコンビナートなどを並べて工業都市になるのは、金沢には似合わない。
それを「取り残された」という言い方をするのは違うと私は思います。
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母の実家は加賀藩士の末裔で、母は母方の祖父が役人だった関係で、東京生まれで、中学からは金沢育ち。
ピアノと声楽を習っていて、カトリック教会のミサでソロを歌っていたという母は、90歳近くになって、まだ合唱団で歌っています。
以前は東京シュナイトバッハ合唱団で歌っていたのですが、今歌っている合唱団はカナダを大学大学院教授である声楽家が金沢から東京まで教えに来ているのだとか。
その先生の解釈が素晴らしいのだそうです。
金沢にはいいオーケストラもできたそうですし、加賀百万石の江戸時代以前の伝統文化だけではない、新たな文化が生まれているのだと思います。
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それに、南海トラフ巨大地震と首都直下型地震が同時に起きたら、首都圏から京阪神地域に至る日本の製造拠点のほとんどが壊滅すると言われている昨今。
今年は能登震災に見舞われましたが、南海トラフ巨大地震や首都直下型地震の影響は受けにくいと言われる日本海側では、金沢は京都と並んで重要な文化都市です。
高度成長期を過ぎたこれからの日本にとって、ますます重要になるはずですよ。
利家を
メジャーにしたのは
花の慶次
金沢て自分の街に対して天井知らずのプライドの方多い…(汗)
特に京都からきた・名古屋からきたというと、ぴきーんと張り合いセンサーが反応してしまうらしいので、2度目からは適当に誤魔化しておいたけど。
まあこれだけ自慢できる領主を持ち、それを連綿と伝えてきたのは凄いし、そのぐらいのプライドがあるから伝えてこれた面もあるだろう。
本当にそこは尊敬するし、感心もする。
ただ。
同じように数百年伝えてきたのに空襲ですべて失った土地も沢山ある事を、後者側の町に暮らす私はしみじみと「古都・金沢」を歩きながら思った。よりによって共に百万石を構成した一翼の富山の悲劇よ…。
そして、空襲は免れたのに地震。
雪の中を2年通った輪島朝市、いつも自宅への土産にする蟹を買ってたお店のおばさん、どうしていらっしゃるだろう。
京都の着倒れ、大阪の食い倒れに対し、金沢は着倒れ、かつ食い倒れと言われます。
加賀友禅は京友禅に匹敵する、新鮮な山海の珍味が揃うから、食の質は大阪を上回る、と。
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今年の能登震災でも、ミシェラン一つ星レストランのシェフが、「能登を世界一の食の名所に育てて復興させる」と言っていましたよね。
日本一ではない、世界一ですよ?
でも確かに、在欧38年の私の目から見ても、そもそも本は南北に細長く、気候の変化に富むから農作物の種類も豊富。
そして周囲を海に囲まれた島国で、暖流と寒流が交わり、近海魚種類も豊富。
更には本州の中央に日本アルプスが走るから、山草やジビエも豊富。
加賀藩は、その本州のほぼ中央にあり、日本アルプスの麓なのに、日本海の幸に恵まれた能登半島を従えている。
食材の豊富さでも日本有数です。
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あとは、徳川将軍家と比べても、学問文化を大切にしてきたことでは、加賀前田家は人語に落ちない。
加賀前田家が育てた宝生能は、徳川将軍家御用の観世能と並んで、今日でも能楽の二代流派の一角ですし。
京都には公家文化がありますが、京都を除けば、名古屋を含めて、そこまで江戸の将軍家と張り合える文化を育てた街は、日本にはありません。
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そもそも前田藩の加賀梅鉢紋は、菅家ゆかりの家紋を利家公が勝手に拝借したもの。
それだけ、文武両道に優れた菅家に対する憧れがあった。
江戸時代に入って、準親藩扱いとなり、松平姓と葵紋の使用を許されたのに、前田家は、葵紋を替え紋としてすら使用しなかったのですよね。
それだけ、菅家ゆかりの梅鉢紋に誇りを持っているのです。もともと、前田家は菅家とは関係ないはずなのにね。
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東大の赤門が加賀藩上屋敷の門であったことは有名。
三四郎池のある庭も、名勝兼六園を模した、加賀藩上屋敷の庭園跡です。
金沢から東大に進学した者は、東大本郷キャンパスの三四郎池のある庭園を散策して故郷に思いを馳せる。
だから私などは、首都圏の私立中学の合格発表直後、父に一人、東大本郷キャンパスの散策に誘われ、赤門や三四郎池、安田講堂などを案内されて、「いいか、学問というのは、こういう環境があってはじめて育つものなんだ。ろくなキャンパスもない、都心にビルだけ建っているような大学に進学しても、学問はできない」と、滾々と言い含められたものです。
都内の前田侯爵家邸宅跡も博物館になって公開されていますが、さすがにそこまではいきませんでしたが。
東大本郷キャンパスは、不忍池を挟んで、将軍家ゆかりの寛永寺がある上野公園に続いている。
江戸城跡である皇居を除けば、江戸時代の繁栄を最も色濃く残す地区です。
これは、誇りに思っても仕方がないと思います。
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ちなみに私は、両親の故郷は金沢ですが、私自身は東京生まれの首都圏育ちで、日本より欧州の方が長い。
金沢にも夏場には行ったことは何度かありますが、金沢育ちではありません。
金沢弁も、聴けばある程度は分かりますが、私自身は全くといいほど話せません。
それでもそう思うのだから……。(笑)
弟が東京で何気無く「~がいや」を使ってしまい。周囲が固まったそうです。
新潟の「~だっちゃ」よりはきつくないのに。
金沢市は単なる中堅都市に過ぎないのだが未だに加賀百万石と言う江戸時代の栄光に囚われて発展速度が遅い。
加賀前田藩は、もともと、天下を狙わず、独立独歩、争わず、それでいて自分たちなりの床哉文化を楽しむ気風があります。
信長死後、秀吉死後も、利家公は天下を狙わなかったし、関ケ原合戦や大坂の陣でも、目立った動きはしていないではありませんか。
それでいて、徳川幕府に謀反を疑われば、まつがみずから人質として江戸に赴き、藩主の正室には積極的に将軍家ゆかりの姫を迎え、家光の信頼が厚かった保科正之の娘も正室に迎えて、藩政改革を行った。
だから加賀前田藩は、取り潰されることもなく大大名として江戸時代を生き延びたのです。
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幕末から明治期にかけても同じです。
前田家は、準親藩の立場でありながら、会津藩のようにあくまで新政府軍と戦うようなことはせず、明治維新後は、前田侯爵家として、都内に豪華な洋館を建て、一世を風靡しました。
藩主が東京に移った後も、金沢は小京都と言われる文化的風情を保ち、外国人観光客にも人気です。
明治以降、東海道沿線の太平洋岸が工業都市として発展はしましたが、果たして文化的に金沢に匹敵する街がどれほどあるでしょうか?
むしろ、やたらとコンビナートなどを並べて工業都市になるのは、金沢には似合わない。
それを「取り残された」という言い方をするのは違うと私は思います。
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母の実家は加賀藩士の末裔で、母は母方の祖父が役人だった関係で、東京生まれで、中学からは金沢育ち。
ピアノと声楽を習っていて、カトリック教会のミサでソロを歌っていたという母は、90歳近くになって、まだ合唱団で歌っています。
以前は東京シュナイトバッハ合唱団で歌っていたのですが、今歌っている合唱団はカナダを大学大学院教授である声楽家が金沢から東京まで教えに来ているのだとか。
その先生の解釈が素晴らしいのだそうです。
金沢にはいいオーケストラもできたそうですし、加賀百万石の江戸時代以前の伝統文化だけではない、新たな文化が生まれているのだと思います。
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それに、南海トラフ巨大地震と首都直下型地震が同時に起きたら、首都圏から京阪神地域に至る日本の製造拠点のほとんどが壊滅すると言われている昨今。
今年は能登震災に見舞われましたが、南海トラフ巨大地震や首都直下型地震の影響は受けにくいと言われる日本海側では、金沢は京都と並んで重要な文化都市です。
高度成長期を過ぎたこれからの日本にとって、ますます重要になるはずですよ。