【鎌倉時代】74 守護地頭設置の理由と勧進帳【日本史】

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 10 січ 2025

КОМЕНТАРІ •

  • @熊野旭
    @熊野旭 2 роки тому +78

    静御前がこの時どんな気持ちで舞を舞ったのか、弁慶がどんだけ辛い気持ちで義経公を殴ったか、なんかめちゃくちゃ泣けました😭😭😭

  • @丘みどり-b7u
    @丘みどり-b7u 4 роки тому +21

    ドラマで義経のドラマを見たりすると、安宅関の役人たちは義経の正体を見抜いていたのに義経たちを通過させてる描写が多いね。これが武士の情けというものなのかとしみじみ思っちゃうね。

  • @のま-o4q
    @のま-o4q 3 роки тому +21

    すごく分かりやすかったです!
    鎌倉時代は特に苦手だったので助かりました!

  • @machazard
    @machazard 4 роки тому +12

    義経捕縛の名目で守護と地頭を設置したから、あまり簡単に義経がつかまってしまったら都合が悪かったっていう話もありますよね。

  • @marnie8022
    @marnie8022 4 роки тому +23

    もし難破していなければどうなっていたかめっちゃ気になりますね😉歴史にもしは無いですけど。静御前本当に可哀想でしたね😭

  • @三代目輝之助
    @三代目輝之助 2 роки тому +3

    歌舞伎で一時年に3、4回のペースで勧進帳が上演されてたから「またかの関」なんて揶揄されてたこともあったり

  • @乃乃乃乃乃naonao
    @乃乃乃乃乃naonao 2 роки тому +2

    ガチ分かりやすい!

  • @ひゃっはろー-q9r
    @ひゃっはろー-q9r 4 роки тому +6

    05:30守護地頭

  • @﨑村昇平
    @﨑村昇平 4 роки тому +17

    守護地頭を設置した理由は、義経を捕まえるためだったんですね。今まで鎌倉幕府の成立は1192年と言われてきたのが、最近の研究で1185年だったと分かったみたいですが、その年が守護地頭が設置された年だから、鎌倉幕府の成立には守護地頭の設置が大きなカギを握っていたんですね。
    あと、義経と弁慶のエピソードには感動しました。
    義経一行が平泉に行くために身を隠しながら現在の石川県にある関所を通るとき、そこにいた人から義経が荷物持ちに変装していたのを気づかれてしまったとき、弁慶が「お前が義経に似てるから怪しまれるんだ!! なんならお前を殺そうか?」といって義経を殴ってそれをみた関所の人からそこを通る許可をもらったみたいで、主君のために主君をわざわざ殴るとか、主君想いの人にはなかなかそこまでできない気がします。 それでも義経は申し訳ない気持ちでいた弁慶に、「私を守るためにあえてそうしたのなら」と言うなんて、なんて素敵な主君と家来の関係なんでしょう。 こういった信頼しあえる人と人との関係を築き上げると良いことがたくさんありそうですね。

    • @Y_Eschool
      @Y_Eschool  4 роки тому +3

      ここらへんはまさに大きな転換期だと思います
      安宅の関での話は伝説とはいえとてもいい話ですよね
      初めて知った時もかっこいいと思った覚えがあります
      当時小学生くらいだったと思うので
      子供にも理解できる忠義の話代表格だと思います

    • @yokos.9030
      @yokos.9030 4 роки тому +2

      @@Y_Eschool
      こんにちは とても面白くわかりやすい解説ですね。守護地頭の設置の件ですが、これが義経たった一人を探し出すためというのは、面白いけれどもあまりにも大掛かりすぎる話なので、ちょっと納得できないのですが、これは定説なのでしょうか?それともUA-cam高校さんの自説なのでしょうか?

    • @Y_Eschool
      @Y_Eschool  4 роки тому +2

      @@yokos.9030 こんにちは わかりやすいと感じていただき嬉しく思います。
      守護地頭の件ですが定説だと認識しておりますが、もしも情報が古かったら申し訳ありません。
      以下引用になります
      (全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集A・B共用』山川出版,2016)
      [守護] (略)1185(文治元)年,源義経追討を理由として国ごとに設置を公認され,有力御家人が任命された。(略)
      [地頭](略)1185年,源義経追討を機に,後白河法皇に諸国の公領・荘園への設置を求め容認された。(略)

    • @yokos.9030
      @yokos.9030 4 роки тому +2

      @@Y_Eschool
      お返事ありがとうございます。定説なのですね。もしかして頼朝は義経追討の院宣が出たことを利用して、それを口実に守護地頭を置き、自分の権力基盤を作り上げようとした、ということなのでしょうか?そういうことなら理解できるのですが。

    • @Y_Eschool
      @Y_Eschool  4 роки тому +2

      まさにその通りだと僕も思います
      義経追討は名目として利用しただけで、頼朝の真の狙いはその先にある全国的な統治だったのでしょう

  • @user-nk5kd5xc5q
    @user-nk5kd5xc5q 4 роки тому +23

    頼朝にとって梶原景時は命の恩人ですものね

  • @junesunshine417
    @junesunshine417 4 роки тому +36

    1185年は「一戦一夜後、源氏の世」という語呂合わせで覚えていました。

  • @永山-p5v
    @永山-p5v 3 роки тому +8

    富樫仕事しろ(褒め言葉)

  • @Poussin_de
    @Poussin_de 4 роки тому +17

    こんばんは😌
    いつも楽しく見させていただいております!
    そこ質問なのですが、鎌倉時代に国司と郡司はどうなったのですか??
    教科書など読んでもよくわかないので教えていただけたら幸いです😢

    • @Y_Eschool
      @Y_Eschool  4 роки тому +22

      おそらく守護地頭の登場で
      「元々いた人たちはどうなったの!?」
      と混乱されたんだと思います笑
      国司と郡司は律令での役職なので
      律令国家が続く限り存続しています
      つまり江戸時代までは一応いますね!
      でも平安時代頃には代わりの国司を送り込むようになり(遙任)
      実際に現地に行く人は減少していきます
      守護地頭の登場で減少はさらに進んで
      どんどん「名前だけの役職」になっていき
      江戸時代頃には「一応任命するけど仕事は無い」
      という状態までなってしまい
      明治時代に入った頃に「名前すら無くなる」
      という流れです

    • @Poussin_de
      @Poussin_de 4 роки тому +6

      UA-cam高校
      そうなのですね!!てっきり守護地頭に変わったと勘違いしていました💦
      丁寧な返信ありがとうございます😌

    • @カエルケロケロ-x1r
      @カエルケロケロ-x1r 4 роки тому +2

      @@Y_Eschool 動画のテーマは面白いのですが、動画主の非社会観が不思議でなりません。
      守護、地頭=課税権が登場し、その今までの国司郡司の『権力』は低下しただろうけど国司郡司の収入(給料)はどうなったかと言うのは大きな問題です。
      国司郡司は無給なのですか?無給だから仕事のやる気が無いのか??その辺をし著者は知りたいと思うんですが。

    • @shakikakitori5613
      @shakikakitori5613 4 роки тому +7

      @@Poussin_de
      UA-cam高校さんの説明だと、郡司等と地頭、それぞれ別の人が任命されていたように解釈されてしまうと思うので以下補足致します。

    • @shakikakitori5613
      @shakikakitori5613 4 роки тому +16

      @@Poussin_de
      当時の国は公領と荘園が国の中に共在している荘園公領制でしたね。
      公領は、国司の下、郡司・郷司・保司が年貢等の徴税を担当し、荘園は本家の下、下司・公文が年貢等の徴税を担当していました。
      さて、地頭の役職の登場により、同じ「徴税」という任務を担当する郡司・郷司・保司、下司・公文等はどうなったかと言いますと、その内実は彼等の殆どが地頭に任命してもらっていたようです。
      つまり、☆公領の郡司を務めるAさんが、そこの地頭もするようになったということです。
      というのも、郡司等は元々富農や地方豪族の出身で、その多くはこの頃には武装化して武士となっていました。
      しかし、荘園領主に搾取されたり、貴族の勝手で解任されたり、と荘公領主と田堵の板挟みに遭う彼等の地位は決して高いものではありませんでした。
      そんな在地の土地経営を支える郡司・郷司・保司、下司・公文、つまり武士達が待ち望んだのが、武士による武士のための政治機関「幕府」でした。
      彼等は鎌倉将軍に忠誠を誓い、御家人となる代わりに地頭という立場を貰い、将軍にその権利を保証してもらいました。
      これにより、これを解任しようとしても、将軍の後ろ盾を得ている郡司等を解任することは難しく、地頭職に関しても幕府に訴え出て裁判を行わなければならないため実質解任することはできません。
      このように御家人の権益を保証することを「本領安堵」と言い、御恩と奉公の御恩にあたります。
      ちなみに、守護は御成敗式目によれば、国司と権限を分け合って折り合いをつけていたようです。

  • @足立知子-u3e
    @足立知子-u3e 3 роки тому +1

    嬉しいです♥️

  • @あいうえお-s1w
    @あいうえお-s1w 3 роки тому +10

    動画によって声が変わってる気がする…?

  • @名前なし-d5z
    @名前なし-d5z 2 роки тому +2

    わかり易すぎます、、
    音楽でやった勧進帳、中田のあっちゃんが話していたガチムキ👊( ¨̮💪)弁慶、などが繋がってすごくすっきりしました。
    生まれたばかりの子を取り上げられたのが可哀想すぎる、、。😢

  • @plus-ko5qn
    @plus-ko5qn 3 роки тому +7

    守護、地頭、義経追討に関係していたのですね。

  • @NN-ry6zs
    @NN-ry6zs 2 роки тому

    0:57 字幕が「冥福を祝う」となってますね。

  • @user-nepur
    @user-nepur 2 роки тому +7

    これから訪れる平穏な日々(嘘)

  • @御手洗団子花粉症
    @御手洗団子花粉症 4 роки тому +6

    個人的には 御家人といえば 「鉢木」北条時頼の時代 物語が印象的ですね。
    忙しいかもしれませんが 鉢木時間あれば紹介して欲しいです。

  • @matsukaze1001
    @matsukaze1001 3 місяці тому

    室町幕府や江戸幕府が征夷大将軍になったことで幕府を開いたので鎌倉幕府も同じように考えられたのでしょうね。
    でも、実際は幕府の機構は守護・地頭の設置で確立されていました。

  • @sa-oq7ci
    @sa-oq7ci 3 роки тому +8

    地頭こそ鎌倉幕府の根幹であり存在理由。律令制度の下未開地に入り込み耕作地を作った開墾領主は自分の血と汗を振り絞って作り上げた美田を自分のものとしたいと考えた。しかし公地公民の律令制の下では土地の所有ができない。存在する耕作地を誰に耕作させるかという人事権は国司が持っていた。国司が耕作者と認めなければ土地を手放さなければならない。それに対抗するために彼らは武装し暴力で国司の権力に対抗し一所懸命を貫徹した。地頭の設置の意味は土地の耕作者たる地頭の任命権を朝廷ではなく鎌倉幕府が持っていたということ。ということは土地を誰に耕作させるかを決めるのは朝廷ではなく幕府ということになる。冷酷で執念深く人から好かれるタイプではない頼朝が武士から圧倒的な支持を受けた理由がここにある。この地頭設置がどれほど武士に希望を与えたかは承久の乱を見ればわかる。日本史上朝敵にされてなおかつ戦いに完勝したのは北条義時だけであろう。

  • @かがみ純
    @かがみ純 2 роки тому +4

    簡単にいうと、守護=軍隊兼県警、地頭=地栽兼税務署か。
    守護はやがて国人を従え、荘園領主となって独立性を強め、守護大名化していくが、それは次の室町時代の話。日本はもともと地方分権国家

  • @丘みどり-b7u
    @丘みどり-b7u 4 роки тому +9

    静御前は釈放された後に、京に帰ったとか平泉に行ったという説もありますな。途中で山賊たちに輪姦され殺されたとかという話もあるし、平泉にたどり着く前に病死したとか、たどり着いて後追い自殺したとか、出家して尼さんになったとか。

    • @pontarou01
      @pontarou01 2 роки тому +2

      私の実家のある会津の河東には、義経を追って来たお姫様(義経に利用されて捨てられた)の伝説があります。源平合戦以前のお話です。

  • @りあ-w5z
    @りあ-w5z 2 місяці тому

    やばい、おもろいもっと知りたい、、

  • @fujiwaragayouato9303
    @fujiwaragayouato9303 4 роки тому +4

    その後 安徳天皇と天雲の剣は どう成ったんでしょうか~?

  • @ウエムラユーセン
    @ウエムラユーセン 3 роки тому +2

    土佐坊様は渋谷金王丸様✨

  • @discovery-defender
    @discovery-defender 2 роки тому

    勧進帳。歌舞伎役者・松本幸四郎の十八番ですよね。

  • @J-Excel
    @J-Excel 2 роки тому

    シュゴジアタマ と読んでしまいそうです。

  • @budaibaseball
    @budaibaseball 4 роки тому +5

    昔はわかりませんが現在は鶴岡八幡宮は「つるおか」ではなく「つるがおか」と読むと思います。

  • @hisayoshiyamada2044
    @hisayoshiyamada2044 3 роки тому +4

    静御前といえば石原さとみ。
    大河ドラマ義経

  • @足立知子-u3e
    @足立知子-u3e 3 роки тому +1

    そんな感じ

  • @しおり-l1g
    @しおり-l1g 4 роки тому +1

    Twitterはやってますか??

    • @Y_Eschool
      @Y_Eschool  4 роки тому +1

      Twitterやっていますよ
      @Y_Eschool
      が僕のアカウントです

  • @hototogisu185
    @hototogisu185 2 роки тому +1

    半済令が出る前の地頭の収入は何ですか?武士が荘園持ってたという理解であってますか?
    そうすると南北朝時代の寺社への横領は横領でなくて強奪みたいだし…

  • @バードウォチャー玉井
    @バードウォチャー玉井 Місяць тому

    政子つよ

  • @penmodel
    @penmodel 2 роки тому +1

    結局、守護地頭が警察と税を集めるということ以外、どういうものかわからなかった
    具体的にどういう行動してたのかな?

  • @なぬなぬ-t6e
    @なぬなぬ-t6e 4 роки тому +4

    奥州藤原氏の家臣が義経に成り済ましていたらしい…。
    頼朝と義経は似てないしね、肖像画が後世に作られたものにしても、あまりにも似てない。
    義経の肖像画は、どちらかというとチンギスハンに似てるよ。

    • @pontarou01
      @pontarou01 2 роки тому +1

      母親が違いますからね。
      私の親父には腹違いの弟4人居ますが全然似てませんよ。

  • @kazooo5057
    @kazooo5057 3 роки тому +1

    😀😀😀

  • @k.furuuchi
    @k.furuuchi 3 роки тому +1

    ん?
    弁慶なんて存在したんだっけ?

  • @gorzafarm-wx3ji
    @gorzafarm-wx3ji 4 роки тому +6

    ちょっと滑舌が悪くて聞き取りにくいです。
    もう少しゆっくりお話することをお勧めします。

  • @メッカ軍曹
    @メッカ軍曹 2 роки тому

    富樫働け