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いつも見てます!!最近日本史が楽しいです☺️
歴史書の頼朝の死のページだけ消されているっていうのはとても興味深いですよね!やっぱり他者を排斥することが多かったので恨みを持ってる人も少なくは無かっただろうと推測出来ます。
北条家が使い捨てしたんだよ
@@net1057 北条家というよりも、朝廷に接近しようとした頼朝を、東国武士団全体が切り捨てたのかも。
義経郎党の1人である鈴木重家は出羽国へ逃げ延びたと言われているので、出羽国で地元民から頼朝上洛の知らせを聞いた重家が、密かに鎌倉へ赴き、弓で暗殺したと考えます
ほっこりした話の流れで頼朝が馬から落ちて死んだ。なるほど、義経ファンとしてはほっこりした話ですね。
いろいろと呪われてたんでしょうね
@@bbbbittto_ii9911そりゃ、そうでしょ、大姫の件もあるから。大姫へ多分、父親である頼朝を呪ったと思うよ?
正直、望んでた情報より詳細過ぎましたが、圧倒的センスと息遣いで見入ってしまいました、、、日本史は何故か入りづらいのですが、芸術観賞しながら学ばせて頂きますm(_ _)m!
地元には清水冠者源義高終焉の地の標柱とともに八幡宮がひっそりと佇んでいます政子が義高をしのんで建立したそうですが、今は誰も知らないような感じで国道わきにポツンとあるだけです
鹿の話だけで走らされる梶原ほんま草
頼朝は割と怖いイメージだったんですが、家庭内はかかあ天下だったとは驚きです笑
頼朝のめちゃくちゃを抑えるのに政子が活躍してるイメージ。義経の彼女の静御前を余興で踊らさせたら義経を慕う見事な舞いを舞った。それを頼朝は俺への当て付けかと激怒して殺そうとしたのを政子が離れ離れの旦那を想うのは当たり前だ!そんな横暴があるか!と頼朝を抑えたなんて話を聞いた。
怖い? 北条家の傀儡なだけだよ頼朝は アクマで名前だけだ
@@net1057 言わば頼朝をはじめ、源氏は東国武士たちが立ち上がる時に担いだ神輿のような存在。
YAP遺伝子の入った民族です。怖くないですよ…情にあつい
武家政権が始まり、戦のない平和な世の中がやってきて、身分の低い農民などの人たちにとっても待ちに待ったときだったことでしょう。 富士川の戦いで頼朝が大活躍し、鎌倉幕府の支配体制がどんどん固まっていって次の回からもっといい世の中ができてきそうな予感がするみたいですね。
塾に居てほしい
独特のイントネーションですね。
御家人は「一所懸命」 で家族を守ってきた が元寇後 土地問題などで鎌倉時代が衰退したという印象があります。 元寇後 孔子配分=くじに従って土地を配分すること。恩賞配分ここから、鎌倉幕府に大変マイナスな印象があります。一所懸命から 一生懸命という言葉が生まれたかもしれませんね。(間違っていたらすいません。)
鎌倉幕府衰退期は色んな要素があると思ってますが、有名なのは土地問題ですよね一生懸命の語源の話はぼくも聞いたことありますし正しいのではないかなと思います
First General‼️
頼朝の最期、「馬から落ちて落馬した」は、日本語の間違った用法としても有名ですねw
父義朝を褒美欲しさに清盛に売った長田忠致、影致親子をに対して「懸命に働いたのであれば美濃尾張を褒美として取らせよう」と言っておきながら、奥州征伐後の義朝の法要の時に親子を処刑する際に抗議してきた二人に対して「約束通り身の終わり(美濃尾張)をくれてやるんだよ今から」と長田親子も確かに非はあったとはいえ約束反故にするの見たら、頼朝死後に一番得をした妻の実家でなくても後の足利義教を葬った赤松氏なり織田信長に謀反起こした明智光秀なり「やられる前にやってしまおう」と思っていた御家人もいたのでは?
この頃の鎌倉は頼朝に全ての権力が集中している、言わば独裁のような状況でしたので頼朝に対して反感を抱いていた東国武士がいたのはほぼ確実でしょうそういう武士たちは「土地所有権を保証してもらうだけで良かったのに、いつの間にか主従関係にされていた」という思いを持っていたのではないかなと思います有力御家人の中にもそう感じる人はいたでしょうから「それらの人物が頼朝の死をきっかけに、独裁の色を薄くしようとした」↓「十三人の合議制」という因果関係だとぼくは捉えています正しいかはわかりませんが
清盛も「義朝討った褒美に壱岐国やろうか?」と打診したのに、「天下の大乱になるのを未然に防いだのだからその朝敵の元々の領地か最低でも自分たちの住んでいるところの周りを」と欲張ったこと言って清盛からも「恩賞目当てで主君を売っておいて、こちらが用意した褒美もいらないいうなら取らすべき褒美はない」と家来に売られた義朝憐れんでいたのだろうか?
いつもとても勉強させていただいています!ふと疑問になったのですが、後白河法皇は頼朝を征夷大将軍にしないように、何か手を打って崩御したのでしょうか?遺言を残したり周りの部下に邪魔をさせるようにするなどしていたら、そのあたりの面倒な処理も頼朝は行わなければならなかったのかなぁと…
確か落馬も怨霊が原因だと言われてましたね。
頼朝が落慶供養(政子の妹で稲毛重成の妻に当たる人物)に参加した際に乗っていた鎌倉黒という馬は、実は奥州藤原氏の猛将藤原国衡の愛馬でもあり、奥州一の駿馬とも言われた高楯黒の子供で、頼朝が落馬したのは藤原氏の恨みや、その藤原氏投手泰衡自身にとって都合のいい解釈をした(義経を追討すれば頼朝の心証をよくするだろう)事で滅びた義経一行の恨み等を、その高楯黒の子供が果たしたと囁かれている程もっというなら、鎌倉にいた頃の義経に対して一家来として扱う証拠という意味で大工たちに馬を引いて与えさせた(義経に理解を示していた御家人の一人畠山重忠と組んだ)ことで馬がらみで義経や藤原氏は恨みを果たした?
最近の研究では頼朝は征夷大将軍にはあまりこだわっていなかったということも出てきてますよね。頼朝が征夷大将軍の官職を欲しがったのは奥州征伐の際の軍司令官として一時的に欲しがっていたとも言われていますね。そして征夷大将軍は消去法で与えられたと近年の研究で分かってきたらしいですね。朝廷には「惣官」、「征東大将軍」、「上将軍」、「征夷大将軍」とありましたが「惣官」は平宗盛・「征東大将軍」は源義仲が就いていた為、凶例として却下、「上将軍」は先例がないとして却下、「征夷大将軍」はあの蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂が就いていた為、吉例として「征夷大将軍」が選ばれたと近年では言われていますよね。
源氏の悲願は東北の資産と富だったようです。だから、陸奥守か鎮守府将軍の官職が欲しかったのではないでしょうか?
今回の大河ドラマの頼朝の最期はゼンジがやるのか?
征夷大将軍の位をもらうことは、奥州を平定して討伐する相手もいなかったのに、そんなに意味があったのですかね。この頃から武家の最高位と言うブランドになっていたのでしょうか?
この頃の征夷大将軍は「武家の最高位」というより「東国の覇者」っていうイメージに近かったのかな?と思います(個人的見解です)とはいえ臨時職である征夷大将軍は常設の役職である右近衛大将よりも格上だと思われていたのは頼朝がこだわったことから考えても事実でしょう
なるほど。Wikiも見てみましたが、それに近い解釈が載っていました。で、本当は「大将軍」という地位が欲しかったけれども、前例がないから昔の官職を持ち出されて「征夷大将軍」にしたという話も。いずれにせよ、これで「天下人」の称号に変わってくのですね。
頼朝が大姫の入内を考えていた行為は藤原氏や清盛がやってきたことと同じ事です。それを行おうとしたことが東国武士の反感を買ったのかもしれませんね。
鎌倉殿の十三人の数人が出てきましたね
かっきる!かっきる!
娘を自分の猜疑心の犠牲にしても詫びるどころか、追手として差し向けた家来を晒し首(八つ当たり)とか親としては頼朝はダメなところがあったのかと足利の初代尊氏も義詮の異母兄の直冬を世継ぎ争いになること恐れていたのか子供として認知しなかったり、徳川も信長に好きなようにしていいという説もあったとはいえ信康事件で信康諦めたり、次男の秀康も信康のとりなしで面会と実子としては認知したものの秀吉との和睦の条件としてあっさり人質に出したりと子供にはある程度冷酷でないとダメなら兎も角、頼朝の場合は弟や同じ源氏でも厳しかっただけで頼家には甘いというのがまさか自分の死後にそれが降りかかるとは思っていなかっただろうな
😑💭うーん、義経の方がいい^^;義経なら…頼朝のようにやらないし一途で日本を変えてくれていたかも知れない…。源頼朝の性格は、あんまり好きじゃないわ。もし義経が生き残って鎌倉の時代を義経が作ったら…どんな時代になっただろうか…。きっといい時代だったかも知れない…。
義経が後白河法皇に惑わされなかったとしても今度は頼朝に不満持ってる零細御家人や有力御家人が「義経がトップになっても変わらないのでは」と思い始める→頼朝派と義経派で分裂してバック次第では頼朝が地盤固めしていた頃に難癖つけて粛清した千葉上総介広常のように義経の方が下手したらもっと早く粛清されてた可能性もありそうなだけに頼朝が兄だったのが義経にとっては不幸かも
@@樋熊落とし 頼朝じゃなくて兄の 義平や朝長だったら 義経を鎌倉に入れなかったと言う事は無いし強固な源氏幕府が出来ていた頼朝の母は 所詮由良御膳(藤原氏)義平(三浦氏)義経(雑使女)多少なりとも 母親の影響は受けるはず頼朝は完全に母親のノンノンとした気質を受け継いでしまいそれが他の兄弟だったらそれなりに分別が分かる母親故シャキットしている 頼朝は 絶対 源氏幕府を継続させる為にはどーみても不向き全て 北条家の傀儡で言いなり 特に政子は政に名前通り たけてるから頼朝(源氏)の名を使い北条家有利の 政策を打ち出して言った頼朝より義経は圧倒的に 源氏として武人として あるべき物を持ち合わせておりもし あの勝利の後鎌倉に帰還出来たらそれこそ 頼朝と名声ある義経が協力して 強固な源氏幕府が完成してしまい北条家の出る幕は無くなっていたそれ故 頼朝を焚き付け少々の嫉妬心を擽りそれに 頼朝本人は当初大きな問題と見ていなかった検非違使(官位)就任を大きな問題 大義名分として義経を糾弾する事に成功
北条家さえ 居なければ頼朝じゃなくて 嫡男義平が将軍だったなら
義仲追討の褒美を頼朝が「自分から法皇様に対して推挙する」という条件だして追討軍の総大将範頼(頼朝異母弟、義経異母兄)は三河を賜ったの大して義経には褒美がなかった↓後白河法皇「兄貴がお前の働きに見合ったものをよこさないのであれば自分が大した官職ではないが検非違使別当用意する(後に昇殿を許可)」↓頼朝「(自分が褒美というか対価を用意していなかったのを棚に上げて)俺の許可もなく任官しやがって他の奴らが真似したら困るじゃねえか」身内でも特別扱いしないことで権威を示そうとした頼朝でも主力が板東平氏(畠山、三浦、和田、千葉、北条etc)だったから実際は外様を贔屓しないとバランスを保てなかったという悲運
俺的には頼朝好きになれねぇよなぁ。大姫や義高の件があるから…時代は好きだけどねぇ…頼朝自身は好きになれん
頼朝は平氏本家の北条氏の力をかりて平氏分家の清盛平氏を倒しましたね~
北条氏は鎌倉を退き伊豆に逼塞した平直方の子孫と言われてますもんね、当時は直方が嫡流と言われていたようですし。
大泉頼朝ではだるま屋ウイリー事件で落車して死んだ
え!?落馬なんかで死んだの???現代で言えば、交通事故だよね。人の死って、誠にあっけないですなぁ・・・
大倉幕府って?
わかりにくくてすみません鎌倉幕府成立時に頼朝が住んでいた場所のことです
頼朝が死んで北条氏が幕府を引き取ったらしい…よくわからんけど
大蔵御所と 呼ばれる所に住んでいた故
落馬だっつーの
未だに足利直義の肖像を源頼朝として出してる時点で時代遅れの説を採用し続ける紋切り型のチャンネルだとわかるな
それ言っちゃうと今の歴史の教科書にも同じことが言えちゃうやん…
いつも見てます!!
最近日本史が楽しいです☺️
歴史書の頼朝の死のページだけ消されているっていうのはとても興味深いですよね!やっぱり他者を排斥することが多かったので恨みを持ってる人も少なくは無かっただろうと推測出来ます。
北条家が
使い捨てしたんだよ
@@net1057
北条家というよりも、朝廷に接近しようとした頼朝を、東国武士団全体が切り捨てたのかも。
義経郎党の1人である鈴木重家は出羽国へ逃げ延びたと言われているので、出羽国で地元民から頼朝上洛の知らせを聞いた重家が、密かに鎌倉へ赴き、弓で暗殺したと考えます
ほっこりした話の流れで頼朝が馬から落ちて死んだ。なるほど、義経ファンとしてはほっこりした話ですね。
いろいろと呪われてたんでしょうね
@@bbbbittto_ii9911そりゃ、そうでしょ、大姫の件もあるから。大姫へ多分、父親である頼朝を呪ったと思うよ?
正直、望んでた情報より詳細過ぎましたが、圧倒的センスと息遣いで見入ってしまいました、、、日本史は何故か入りづらいのですが、芸術観賞しながら学ばせて頂きますm(_ _)m!
地元には清水冠者源義高終焉の地の標柱とともに八幡宮がひっそりと佇んでいます
政子が義高をしのんで建立したそうですが、今は誰も知らないような感じで国道わきにポツンとあるだけです
鹿の話だけで走らされる梶原ほんま草
頼朝は割と怖いイメージだったんですが、家庭内はかかあ天下だったとは驚きです笑
頼朝のめちゃくちゃを抑えるのに政子が活躍してるイメージ。
義経の彼女の静御前を余興で踊らさせたら義経を慕う見事な舞いを舞った。それを頼朝は俺への当て付けかと激怒して殺そうとしたのを政子が離れ離れの旦那を想うのは当たり前だ!そんな横暴があるか!と頼朝を抑えたなんて話を聞いた。
怖い? 北条家の傀儡
なだけだよ
頼朝は アクマで
名前だけだ
@@net1057
言わば頼朝をはじめ、源氏は東国武士たちが立ち上がる時に担いだ神輿のような存在。
YAP遺伝子の入った民族です。怖くないですよ…情にあつい
武家政権が始まり、戦のない平和な世の中がやってきて、身分の低い農民などの人たちにとっても待ちに待ったときだったことでしょう。
富士川の戦いで頼朝が大活躍し、鎌倉幕府の支配体制がどんどん固まっていって次の回からもっといい世の中ができてきそうな予感がするみたいですね。
塾に居てほしい
独特のイントネーションですね。
御家人は「一所懸命」 で家族を守ってきた が元寇後 土地問題などで鎌倉時代が衰退したという印象があります。
元寇後 孔子配分=くじに従って土地を配分すること。恩賞配分
ここから、鎌倉幕府に大変マイナスな印象があります。
一所懸命から 一生懸命という言葉が生まれたかもしれませんね。(間違っていたらすいません。)
鎌倉幕府衰退期は色んな要素があると思ってますが、有名なのは土地問題ですよね
一生懸命の語源の話はぼくも聞いたことありますし正しいのではないかなと思います
First General‼️
頼朝の最期、「馬から落ちて落馬した」は、日本語の間違った用法としても有名ですねw
父義朝を褒美欲しさに清盛に売った長田忠致、影致親子をに対して「懸命に働いたのであれば美濃尾張を褒美として取らせよう」と言っておきながら、奥州征伐後の義朝の法要の時に親子を処刑する際に抗議してきた二人に対して「約束通り身の終わり(美濃尾張)をくれてやるんだよ今から」と長田親子も確かに非はあったとはいえ約束反故にするの見たら、頼朝死後に一番得をした妻の実家でなくても後の足利義教を葬った赤松氏なり織田信長に謀反起こした明智光秀なり「やられる前にやってしまおう」と思っていた御家人もいたのでは?
この頃の鎌倉は頼朝に全ての権力が集中している、言わば独裁のような状況でしたので
頼朝に対して反感を抱いていた東国武士がいたのはほぼ確実でしょう
そういう武士たちは「土地所有権を保証してもらうだけで良かったのに、いつの間にか主従関係にされていた」
という思いを持っていたのではないかなと思います
有力御家人の中にもそう感じる人はいたでしょうから
「それらの人物が頼朝の死をきっかけに、独裁の色を薄くしようとした」
↓
「十三人の合議制」
という因果関係だとぼくは捉えています
正しいかはわかりませんが
清盛も「義朝討った褒美に壱岐国やろうか?」と打診したのに、「天下の大乱になるのを未然に防いだのだからその朝敵の元々の領地か最低でも自分たちの住んでいるところの周りを」と欲張ったこと言って清盛からも「恩賞目当てで主君を売っておいて、こちらが用意した褒美もいらないいうなら取らすべき褒美はない」と家来に売られた義朝憐れんでいたのだろうか?
いつもとても勉強させていただいています!ふと疑問になったのですが、後白河法皇は頼朝を征夷大将軍にしないように、何か手を打って崩御したのでしょうか?遺言を残したり周りの部下に邪魔をさせるようにするなどしていたら、そのあたりの面倒な処理も頼朝は行わなければならなかったのかなぁと…
確か落馬も怨霊が原因だと言われてましたね。
頼朝が落慶供養(政子の妹で稲毛重成の妻に当たる人物)に参加した際に乗っていた鎌倉黒という馬は、実は奥州藤原氏の猛将藤原国衡の愛馬でもあり、奥州一の駿馬とも言われた高楯黒の子供で、頼朝が落馬したのは藤原氏の恨みや、その藤原氏投手泰衡自身にとって都合のいい解釈をした(義経を追討すれば頼朝の心証をよくするだろう)事で滅びた義経一行の恨み等を、その高楯黒の子供が果たしたと囁かれている程
もっというなら、鎌倉にいた頃の義経に対して一家来として扱う証拠という意味で大工たちに馬を引いて与えさせた(義経に理解を示していた御家人の一人畠山重忠と組んだ)ことで馬がらみで義経や藤原氏は恨みを果たした?
最近の研究では頼朝は征夷大将軍にはあまりこだわっていなかったということも出てきてますよね。
頼朝が征夷大将軍の官職を欲しがったのは奥州征伐の際の軍司令官として一時的に欲しがっていたとも言われていますね。
そして征夷大将軍は消去法で与えられたと近年の研究で分かってきたらしいですね。
朝廷には「惣官」、「征東大将軍」、「上将軍」、「征夷大将軍」とありましたが
「惣官」は平宗盛・「征東大将軍」は源義仲が就いていた為、凶例として却下、「上将軍」は先例がないとして却下、「征夷大将軍」はあの蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂が就いていた為、吉例として「征夷大将軍」が選ばれたと近年では言われていますよね。
源氏の悲願は東北の資産と富だったようです。だから、陸奥守か鎮守府将軍の官職が欲しかったのではないでしょうか?
今回の大河ドラマの頼朝の最期はゼンジがやるのか?
征夷大将軍の位をもらうことは、奥州を平定して討伐する相手もいなかったのに、そんなに意味があったのですかね。この頃から武家の最高位と言うブランドになっていたのでしょうか?
この頃の征夷大将軍は「武家の最高位」というより「東国の覇者」っていうイメージに近かったのかな?と思います(個人的見解です)
とはいえ臨時職である征夷大将軍は常設の役職である右近衛大将よりも格上だと思われていたのは頼朝がこだわったことから考えても事実でしょう
なるほど。Wikiも見てみましたが、それに近い解釈が載っていました。で、本当は「大将軍」という地位が欲しかったけれども、前例がないから昔の官職を持ち出されて「征夷大将軍」にしたという話も。いずれにせよ、これで「天下人」の称号に変わってくのですね。
頼朝が大姫の入内を考えていた行為は藤原氏や清盛がやってきたことと同じ事です。
それを行おうとしたことが東国武士の反感を買ったのかもしれませんね。
鎌倉殿の十三人の数人が出てきましたね
かっきる!かっきる!
娘を自分の猜疑心の犠牲にしても詫びるどころか、追手として差し向けた家来を晒し首(八つ当たり)とか親としては頼朝はダメなところがあったのかと
足利の初代尊氏も義詮の異母兄の直冬を世継ぎ争いになること恐れていたのか子供として認知しなかったり、徳川も信長に好きなようにしていいという説もあったとはいえ信康事件で信康諦めたり、次男の秀康も信康のとりなしで面会と実子としては認知したものの秀吉との和睦の条件としてあっさり人質に出したりと子供にはある程度冷酷でないとダメなら兎も角、頼朝の場合は弟や同じ源氏でも厳しかっただけで頼家には甘いというのがまさか自分の死後にそれが降りかかるとは思っていなかっただろうな
😑💭うーん、義経の方がいい^^;
義経なら…頼朝のようにやらないし一途で日本を変えてくれていたかも知れない…。源頼朝の性格は、あんまり好きじゃないわ。もし義経が生き残って鎌倉の時代を義経が作ったら…どんな時代になっただろうか…。きっといい時代だったかも知れない…。
義経が後白河法皇に惑わされなかったとしても今度は頼朝に不満持ってる零細御家人や有力御家人が「義経がトップになっても変わらないのでは」と思い始める→頼朝派と義経派で分裂してバック次第では頼朝が地盤固めしていた頃に難癖つけて粛清した千葉上総介広常のように義経の方が下手したらもっと早く粛清されてた可能性もありそうなだけに頼朝が兄だったのが義経にとっては不幸かも
@@樋熊落とし
頼朝じゃなくて
兄の 義平や朝長
だったら 義経を
鎌倉に入れなかったと言う事は無いし
強固な源氏幕府が出来ていた
頼朝の母は 所詮
由良御膳(藤原氏)
義平(三浦氏)
義経(雑使女)
多少なりとも 母親の影響は
受けるはず
頼朝は完全に母親の
ノンノンとした気質を
受け継いでしまい
それが他の兄弟だったら
それなりに分別が分かる
母親故
シャキットしている
頼朝は 絶対 源氏幕府を
継続させる為には
どーみても不向き
全て 北条家の傀儡で
言いなり 特に政子は
政に名前通り たけてるから
頼朝(源氏)の名を使い
北条家有利の 政策を
打ち出して言った
頼朝より義経は
圧倒的に 源氏として
武人として あるべき
物を持ち合わせており
もし あの勝利の後
鎌倉に帰還出来たら
それこそ 頼朝と名声ある
義経が協力して
強固な源氏幕府が完成してしまい
北条家の出る幕は無くなっていた
それ故 頼朝を焚き付け
少々の嫉妬心を擽り
それに 頼朝本人は
当初大きな問題と
見ていなかった
検非違使(官位)就任を
大きな問題 大義名分として
義経を糾弾する事に成功
北条家さえ 居なければ
頼朝じゃなくて 嫡男
義平が将軍だったなら
義仲追討の褒美を頼朝が「自分から法皇様に対して推挙する」という条件だして追討軍の総大将範頼(頼朝異母弟、義経異母兄)は三河を賜ったの大して義経には褒美がなかった
↓
後白河法皇「兄貴がお前の働きに見合ったものをよこさないのであれば自分が大した官職ではないが検非違使別当用意する(後に昇殿を許可)」
↓
頼朝「(自分が褒美というか対価を用意していなかったのを棚に上げて)俺の許可もなく任官しやがって他の奴らが真似したら困るじゃねえか」
身内でも特別扱いしないことで権威を示そうとした頼朝でも主力が板東平氏(畠山、三浦、和田、千葉、北条etc)だったから実際は外様を贔屓しないとバランスを保てなかったという悲運
俺的には頼朝好きになれねぇよなぁ。大姫や義高の件があるから…時代は好きだけどねぇ…頼朝自身は好きになれん
頼朝は平氏本家の北条氏の力をかりて平氏分家の清盛平氏を倒しましたね~
北条氏は鎌倉を退き伊豆に逼塞した平直方の子孫と言われてますもんね、当時は直方が嫡流と言われていたようですし。
大泉頼朝ではだるま屋ウイリー事件で落車して死んだ
え!?落馬なんかで死んだの???
現代で言えば、交通事故だよね。
人の死って、誠にあっけないですなぁ・・・
大倉幕府って?
わかりにくくてすみません
鎌倉幕府成立時に頼朝が住んでいた場所のことです
頼朝が死んで北条氏が幕府を引き取ったらしい…よくわからんけど
大蔵御所と 呼ばれる所に住んでいた故
落馬だっつーの
未だに足利直義の肖像を源頼朝として出してる時点で時代遅れの説を採用し続ける紋切り型のチャンネルだとわかるな
それ言っちゃうと今の歴史の教科書にも同じことが言えちゃうやん…