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元整備士です。クーペ9大昔お客さん(女性!)で乗ってる方みえて車検等で良く運転しました。排ガス検査はアイドル特殊と言って、特別に緩和されていた車種の一台でした。ドライサンプでエンジンオイルが大量に必要だった覚えがあります。しかし当時の女性ドライバーは、今よりはるかに運転テクニックもマナーも良かったんじゃないですかねー?。パワステ無しのマニュアル、神経質なキャブレター車乗りこなしてたんですから。何でも簡単便利になる事は良い事ばかりではないですね。
元クーペ9のオーナーとして一言。もとはと言えばNコロで「ホンダファン」になったのですが、クーペ9は「走らせる」と言う意味では良くも悪くも楽しい車でした。Sメーターが230まで有り(1300で出る訳が無い)、試しに「東名高速」に乗り、実際にどこまで出るか試した事が有りましたけど、スピードの限界が来る前に、あれだけ「フロントヘビー」で、重かったステアリングがどんどん軽く成って行き、ラック&ピニオンのクイックさも手伝って「弩アンダー」が「弩オーバー」に成って行き、車線変更が「恐怖其の物」に成り、それ以上アクセるを踏み続けることが出来ませんでした。今となっては「笑い話」ですけどね。
7に乗っていました、加速は非常に良かったです。そのかわり、交差点でアクセルを踏み込むとハンドルが戻らず危なかった思い出が有ります。それと、空冷の弱点ヒーターが効かない冬は3~4入乗ると窓ガラスが曇ってしまいました。クセがあったけれど2000ccにも劣らず楽しかったです。50年前の思い出です。👍
藤沢副社長の根回しで、本田社長に水冷の件で話に行かされたのは、久米さんです。本人が話すのを、テレビで見たことがあります。(やりたきゃ やればいいだろう) と言われて 拍子抜けしたと!久米さんは水冷の件で本田社長と対立、ストレスがたまり出社拒否、四国霊場金剛福寺(足摺岬)で、瓦を屋根に上げる ボランティアしてた。
58歳です。子供のころの写真を見ると N360 1300クーペと乗り継いでいます。1300は坂道が登らない、オーバーヒートするし冬は寒いと言っていました。エアコンもないので夏は窓全開で走ってたことは覚えています。今から思うと、高回転型エンジンで下のトルクが無かったのでしょうね。
技術者としては中村さんの言われたとおりだが、人間味という点では空前絶後のカリスマ経営者でしょうね。お行儀の良さではなく、破天荒だが愛される人柄。社員のみならず、お客さんまで宗一郎さんのファンとか今考えられない話です。正に余人に代えがたいという言葉は宗一郎氏のためにある言葉。
HONDA1300くーぺで参戦中の79歳、デビュー当時からHONDA1300から、それからのライセンス59年も継続、2023もJCCAのレースに参戦中。この車が奇跡の車なので認知度が上がることを望みます。よく解説されていて感動しました。
空冷エンジンへの過剰なまでの固執があったとはいえ本田宗一郎氏は日本の自動車史に於いて重要な人物なのは間違いない
現在62歳。高校生の頃市場でバイトしてたが、迎えに来てくれた兄ちゃんが乗ってた。加速の凄さに驚いた思い出がある。
三本和彦氏が直接「あの車はダメですね」といったという話がありましたね。DDACエンジンは技術ばかり追いかけて、実質的なものを見なかったといわれていました。しかし空冷エンジンが消えた最大の要因は排気ガス規制と言われています。燃焼温度のコントロールがしやすい点で水冷には全く歯が立ちませんでしたから。同様に「おわいや(汲み取りやかな?)になるな」という言葉で後処理システムのないCVCCをつくりました。しかし触媒の信頼度が上がったことで、これも触媒採用に至るなど時代の流れには逆らえませんでしたね。ちなみに1300シリーズはリアにリーフスプリングを使用しながら独立懸架な、クロスビームという珍しいサスペンションだったのもマニア心をくすぐる一つ。
1300クーペは幼少時にマイカーとして我が家に在籍してました。さっきまで軽快に峠道を走っていたかと思えば、その先で少し渋滞にハマると必ずオーバーヒートしていた思い出。あの気難しいスポーツクーペにこんな大きなヒストリーが詰まっていたとは。何だか色んな感情で涙が止まらなくなりました。ありがとうございました。
空冷式のエンジンは画期的でしたね、元ホンダSFのピットマンでした。オヤジさんが引退前に全国安行の旅に出て当工場に来訪され直接お会いする事が出来ました。時は1976年ヨーロッパ2輪耐久レースが全盛だったRCB1000の時代で当工場のショウルームにも飾られたことが有り、内緒でエンジンを掛けさせて頂いたことは良い思い出です、あの時のサウンドは忘れません。
おお、私も元SFマン(^^♪ 鈴鹿工場に中東向けシビックのクーラー取り付け応援で出向とか安八水害で名古屋に応援出向とか、何だか遠い昔で懐かしいw
八重洲のホンダビルに宗一郎氏が使っていた社長室が残されているけど、再開発で取り壊しになるんですよねホンダコレクションホールあたりに、社長室を再現した部屋を作れないもんかと思うそもそもホンダコレクションホール自体が、宗一郎氏は「過去の車を保存するような施設なんかいらない」って否定してたのに、諸々あって死後に作られたもんだから、そこに社長室を移設するのは色んな意味でありじゃないかと
知り合いのホンダ1300クーペ9を、何度か運転させて貰った事が有ります。エンジンのレスポンスが、非常に良かった印象が残っていますが、タイヤが発売当時より高性能なので、弱アンダーでタックインを使うと良く曲がりました。私の初代プレリュードを知り合いが運転してついてきましたが。
親父が77に乗っていたのですが子供だったのであまり覚えていませんでした。この動画でどのような車だったのか勉強になりました。浜松製作所の近くで育ちホンダ好きですが今のホンダ社員の方々にもこの動画を観てもらいたいなと思いました。私はバイクは空冷が好きで今も乗っています。暑いしすべてが良いとは言い切れませんがエンジンの見た目が美しく眺めていても良いものです。水冷ののっぺりしたブロックは美しくないねえ。50過ぎのオッサンはそう思うのです。ハハハ。
バイクの空冷エンジンって良い造形してるよね。あのフィンの並びがなんとも言えない。しかしあれにアルミ洗濯ばさみをベタベタ挟んでた輩が多かった。興ざめ
さすが、藤沢武夫。
幅が現規格の軽自動車並みで、長さも4mを大きく切る、旧マーチ位。昔の車って、本当に小さかったのですね。
あれ?145は「いちよんご」と僕は読んでました。1300クーペはカッコ良すぎる~♪
ホンダの空冷1300エンジンを積んだレーシングカーは、ワークスのR1300の他にも、カーマン・アパッチやEVA-CanAmに1300エンジンを積んだ2座席レーシングカーがありました。
クーペ1300を見て伊フィアット社長がとんでもねぇ技術を持つ会社が現れたと感心したそうだ。
@@モンジローパパそのフィアットの127?を基にして初代シビックが開発されたんですよね。
このクルマで エンジン以外に忘れてはならないのは ボディの組み立て方法。左右のサイドパネルに ルーフパネルを溶接して その痕をゴムのモールで隠す 所謂『モヒカン構造』を最初に採用したクルマでもあります。アメリカのとあるメーカーの製造ラインを視察したホンダの技術陣が ルーフパネルから伸ばされた足(各ピラー)を ボディパネルにハンダ付けしている工程を見て「もっと作業性の良い方法はないものか?」と考案し 特許も取った工法で その後のホンダ車の特徴ともなり 後には世界の他メーカーも採用したボディ構造です。同じくホンダ車の象徴だった Aピラーに埋め込まれたロッドアンテナもこのクルマからで これもホンダの特許です。因みにセダン77の角目のフロントマスクは イギリス車の『ボクスホールビバ HB・HC』に似ているような気もします。
この車ホンダ1300クーペ9だったかは、ウチの兄が買って小生も時々乗り回していたけど兎に角、曲がりにくい車だった。直角に曲がって橋を渡ろうとしても、曲がらず、アッ!欄干にぶつかる!とアクセルから足を離したら、その瞬間、クルリと回る。FFの癖が強すぎる車だった。後、近くの車屋に持って行っても、エンジンが複雑すぎて手を出せず、ホンダSFしか故障を直せなかった。今では、こんなピーキーな車は発売できないだろう。
親父がホンダ1300GTLに乗っていました。フロントヘビーとか言うけれど、自分が乗っていたシャレードディーゼルターボはフロント66%リヤ34%だったから昔のFF車としては言うほど悪くはないと思う。セカンドでメーター読み100Km/h出ました。(多分85Km/hくらい?)あの頃の自家用車はどのメーカーも120Km/h超すと命懸けっぽい感じがしたね。ローレルSGL、コスモロータリーとかも乗ったけど今とは比べ物にならない。高速での最高速はコスモロータリーが一つ抜けていた。HONDA1300の4キャブとニッサンGTRが何度やっても最高速同じくらい。ずーっと並行で走る。馬力はGTRだが前影投影面積と空力はHONDA1300が良い。高速でフロントが上がるという意見があるけどセダンやクーペタイプは現在でもそう。フロントリフト(FL値+)は避けられない。対象にミニバンはFL値はマイナスになる。....最後に私のハンドルネームは「hondacoupe」
正に偉人伝ですね。個人的には空冷エンジンの音って本当にカッコ良くて好きです。確かに静粛性には難があるかもだけど、いかにもブロックの金属一枚向こうで爆発してる、そして沢山の部品達がoilて潤滑されながら滑らかに擦れあって濁りが無いのにハスキーな、そんな音。
学生時代に乗ったことがあります。あまりに売れないので販売促進モニターで一日借りることが出来ました。空冷エンジンを高回転させるのには無理があり、リッター当たり6~7kしか走らない車でした。OHVの1600㏄のトヨタの二代目コロナの完成度には全く敵わない、成長期のホンダ車という感じでした。
DDACは水冷エンジンのウオータージャケットに空気を流したようなもの。水と空気の熱容量が3000倍ほど違うため、常にオーバーヒート気味。
そうですよね。どう考えても理屈が合わない。素人の私でもわかるのに当時の本田の技術者達が分からないはずが無い。本田宗一郎さんってきちんとした技術知識も無い、それでいて社員の正論も聞かない相当な頑固親父だったんでしょうね。
水冷を主張する社員に「砂漠で水がなくなったらどうするんだ!」と一喝した本田社長が好き。
すばらしいです よくここまで調べましたね 感動しました。
3:26からの事は本田さんの限界を示してます。すごい人ではあるんだけど。他にもクランクシャフトの軸受にメタルでなくころがり軸受にすることに固執したり(多分剛性やコンパクトさで不利、重さも・・・)もそうですが。後に自分の限界を自覚したか口出ししなくなったらしいですね。でも氏の影響が少なくなるにつれて昔のような本田らしさは失われた気がする。時代が変わったせいで社を取り巻く環境が変わったという事も関係あるでしょうが。
ホンダはむしろ藤沢武夫の会社だと思ってます。情熱のあるエンジニアである本田宗一郎にもう時代遅れである事を冷静に見て引導を渡せた事はホンダにとって良かった事だと思います。確かに面白い車です。
日本のモータリゼーション黎明期に二輪開発事業に参入し、当時オートバイレースの最高峰英国マン島TTレースで入賞し世界に「HONDA」の名前を轟かせた胸熱エピソードもぜひ動画にあげてください。
創業者の闘志がよかった。最後もまた立派。
この動画を現在のHONDA社長に見てもらいたいなぁ…。
子供の頃、この車はPCDが特殊なサイズで社外ホイルを履かそうとすると大変だった、と聞いた事があります。
強すぎる拘りが凝縮されたこのクルマは 結果 製造原価が物凄く高くなり かといって高い値段で売るわけにもいかず 売れば売るほど赤字が増えたクルマでもあったそうですね。
ホンダ1300ですね。私の個人的に好きな車です。ホンダ1300を取り上げてくれてありがとうございます。確かにエンジンを水冷にするか、空冷にするか揉めた車です。私はホンダ1300の99と77とホンダ1300の145とホンダH1300のデザインが大好きです。
H1300を巡っての宗一郎、藤沢のやり取りと西田の引退の提案交渉は伝説として聞いた事ありましたが、車のスペックをわかりやすく解説して頂いた事でホンダがなぜヒトがワクワクする様なモビリティーを作り続ける事理由が少しわかった気がしました。解説ありがとうございます。
引き際潔い…☺️かっけーな
「エスで水冷認めたクセに」とツッコミたくなりますね😅
入交さんが、キャブレターの調整で手を焼いたと新聞のインタビューに掲載されてました。
ホンダの空冷F1は オイルをジャブジャブ入れてオイルクーラーで冷やしたと聞いたことがある。もはや空冷でなく油冷式エンジンというこだそうです。
見応えのある素晴らしい動画でした。ありがとう!
性能云々ではなく……、私も空冷が大好きです。クルマもバイクも大戦期のレシプロプロペラ戦闘機も。ポルシェ911空冷式(993型まで)、ポルシェ917、カワサキ空冷Z、零戦……、あのフィン、サウンドがたまらん😆
元ホンダマンです。ご存命の時に本物❗をお見掛けしました。🎉🎉
引退したのが総一郎氏65歳、藤沢武夫氏61歳!引き際が見事ですね。
下の者からの苦情を聞き「技術の事に口を出さない」の誓いを破り「空冷は止めろ」と苦言を呈し身を引いた藤沢。藤沢の退職を知ると宗一郎は「ホンダは藤沢あっての会社だ。藤沢が辞めるなら俺も辞める」と聞きました。
当時友達のお姉さんが99を乗ってました、タコメーター読で9500rpm迄回るエンジン強烈なタックイン癖で走る凶器でした。
F1も参入当時は毎年エンジンのレイアウトが変える本田宗一郎らしい発想です空冷ほど設計変更ができシンプルで軽量部品点数が少ないしいてはコストが下げられ生産性もいいで貫いていたがアメリカに打って出るには環境性能は絶対だった、その代わりマスキー法をアメリカでもあと最低10年かかると言われたものをホンダ世界で最初にクリアした。その節目に出た名車だと思う、ただし当時の空冷エンジン加工精度がまだまだでシールが追いつかずオイル漏れ多発でした。
CVCCのアイディアはトヨタがライセンス買ったくらいでたいしたもんだったけどねぇ。馬力がでなかった。今はCVCCなんかカタチもないわな。
1300クーペ、乗ったことがある。速かった、特に加速が凄かった記憶がある。あの頃の車は皆個性が強く乗りこなしてなんぼの存在。今の車はつまらないと思う。
SSのダイブツの最初の車、1300 99 S!あっ、あとちびまる子ちゃんの穂波氏の車だw
この車はエンジンにばかり話題が集まりましたが あと一つのトピックはリアサスペンションです。板バネながら左右ロアアーム(ビーム)を交差させて支点を反対側まで伸ばし、キャンバー変化を極限まで減らしています。実は車の操縦安定性を決めるのは後輪の動きであることで開発されました。残念ながらそのクロスビームサスペンションをもってしても重すぎたエンジンがこの車の命運を決めました。しかし、リアのキャンバー変化に拘ったホンダの姿勢は継承され二代目プレリュードはリア・ストラットながらロアアームは車体中央からのロングアームそして独自のダブルウィッシュボーンへ進化しました。ちなみに、N360、単にバイク用空冷と言われますが実際は冷却フィンをハウジングで囲んで後部のベルト駆動ファンで排気する強制冷却となっており、後のホンダ1300、DDACと一部が共通する構造となっています。
あまり知られていませんが、カジキと言うニックネームがあったと思います。
ホンダ145は「いち よん ご」が正規の呼び方です。当時のCMでもそのように表現していました。
1300クーペは、マンションのひとつ下の階に住む家族が引っ越して来たときにこれに乗っていた記憶が。この流れを行くセダンもありましたね…
初めまして🍀、プラモデルで中学生の頃 HONDA1300作った覚えています🐇確かタミヤでわなくバンダイだったかな😮豆球を入れてヘッドライト4灯!実感ありました🚙 そうフロントは前輪駆動 プラモデルにしては、リヤは力を分散する見たことないバネ HONDAえらい❗😂 爺ですが、乗車経験無し、🎉(バイクは、SL230乗ってました。🌸🧊)。
H1300で宗一郎さんを横に公道を1.5h走行した果報者です。エンジニアでない私に設計の悪い箇所を数々指摘され困惑!翌夜宴会に同席の栄を賜りました。但しお開き後、「俺に幇間をさせやがって」とお叱りを受けた元社員です。
That’s a wonderful story.
貴重なお話を有難うございました。HONDA社は創業者の花道を準備したいのは当然としても元帝国海軍技術者から見れば総一朗社長には穏やかに引退していただきたい理由があったことも頷けます。ただし周囲の人々に恵まれて類まれな成功を遂げられたお人であったことは認めたいと思います。
GTの『1300』の解説文は何度か読んだなー。最後の『こんなに(※熱害的意味で)熱いエンジンは作っていない』の一文は、そりゃそーだ!と毎回思った(^^;)
いつもこの動画を見ると泣けてくるのはなぜだろう
小学生の時に1300のプラモデルが出て、すぐ買ってもらったなぁ。同時期にあったのが初代のロータリーファミリア。
友人が1300セダン77を買いシリンダーヘッドごと99の載せ替え乗ってましたが、エンジンをぶん回せば走る走る、1300とは思えないほど走りましたね、エンジンもドライサンプなのでオイルの心配も無かったので、ぶん回しながら走りましたね。でもタイトコーナーはドアンダーでしたね。
1300ccながら最高速度は190kmオーバーと当時としてはぶっ飛んだ車でしたね。但し耐久性に問題が有ったのか中古市場にも短い間しか出なかったし町からも消えた。性能は可成り落ちるが日産チェリークーペを2台乗り継いだ感想としてFF特有のタックインは可成り改善されて乗り難さは無かった。9の不評の部分もマニアに取ってはアバタもエクボの個性にゃw
徳大寺有恒さんは友人の本田博俊さんの実家に行くと家に止まっている車にホンダ車デザインが似ている傾向を語っていた。その頃イーグルマスクのアメ車があったのかと。
Pontiacs
かなり年上の従兄弟が、中古のファーストカーで載っていました。おっしゃるとおり、ウルトラフロントヘビーらしく「全然、曲がらない」と言っておりました。
フロントが重すぎて停車しててもストラットのゴムが抜けると聞いたことがあります、911は排ガス規制で苦心の末排気量アップで近年まで逃げましたけどN360に乗ってましたがキャブの温度管理に空冷はついてゆけず冬季な温まるまで信号のたびにエンストしてました。
高校3年の夏休みに免許取得、近所のバイク屋さんで車検残り半年の1300セダン77を5万で売って貰った、夏はキャブレターのべーパーロックでエンジンよく止まったよ。
引退の本当は CVCCですね
高校出た時にクーペ9の発売記念プレゼントで、クーペ9のフォルムを刻んだカフスボタンとネクタイピンがあたりました。それから五、六年後に初めての車で、中古のクーペ9を手に入れ子供が出来るまで乗っていました。ヒーターは効かない、プラグはすぐカぶる、サスはへたる、そのくせエンジンだけはよく回る。優等生の車ばかりの時代、こんな欠陥ばかりの車はもう出ないでしょう。クーペ9は無くなったけどカフスとタイピンは今も大事に残しています。
発売されたホンダクーぺ初めて見た時カッコイーと思ったよ それと大学の先輩が乗ってたトヨタ初代セリカ 良かったよ 当時学生だった高齢者です
若い頃ホンダN360Sに乗っていました、高速道路では130キロのスピードが出る車でした。当時16歳で軽免許が取れました。でも故障したら一般の車修理屋では断わられました。ホンダの車は修理が難しくてダメだよと、SFでないと修理出来ませんでした。もう半世紀前の話しですが。当時は飲酒運転してもおとがめ無しの時代でした。恐ろしい話しですね。
すみません、このクルマMAZDAの車だと思ってました😅このクルマのエンジンをチューニングし様としてた吉村秀夫さん(POPヨシムラ)は、このエンジンをバラしてみて本田宗一郎氏の思想が入ったエンジンと思ったとか?
2タイプあったよね!!クーペ7とクーペ9
鈴鹿製作所での「お礼の会」に行ったなぁ。
1300クーペの元オーナーとしての感想っですが、欠点も含めて、「操るのが楽しかった」車ですね。しかし高速走行は正直に言って「恐怖」でした。ムチャクチャフロントヘビーにもかかわらず、スピードが上がるほどフロントが浮いてきて、あれだけ重かったハンドルがどんどん軽く成って行き、チョット切っただけで横Gを感じる位の勢いで車線変更するのはビビりました。1300なのにSメーターが230まで有ればアクセルを踏みたくなりません? あの頃のホンダファンは「欠点」とは思わず「ホンダ車のクセ」で有り、「面白さ」と捉える人が多かった様な気がして居ます。
私の車はたかが1000cc、なのにメーターは200kまで刻んである。国内では実用120kが限度だから、Max140か160kくらいで良いと思うのだが、その方が見やすいし。初代N360に乗っていました。走りは良いけど緩い下り坂の緩いカーブでも下手するとケツを振るので気を遣いました。高速道でスピンやらかして横になったこともある。周りに車いなくて助かりました。
油量をもっと増やしていわゆる油冷にすればもっと冷却性能が上がったんだけどね。
のちのスズキのバイクみたいに開発陣がデカいオイルクーラーを付けてたら「これじゃあ水冷と変わらんじゃないか!」とオヤジさんがまた激怒しそう(笑)
70年代後半ですが親父のお下がりで Coupe7乗ってました。高速域でのブレーキジャダーが怖かった思い出~
❤1300エンジン重いからフロントが沈みボンネット内のストラットサスを抑えてるラバーをストラットが下から持ち上げボンネット内に徐々に突き出してくるんで車庫入れしたらジャッキでフロント持ち上げてる人いたらしい。
Nコロに関しても開発者はミニと同じようにグリルの外にライトを配置したかったがオヤジさんがグリル内に拘ったから、何度目かのマイナーチェンジの時にコソッと分けたとか。
当時ガキだったからメカの何たるかをしらず「カッコいい車だな」と思った。
空冷エンジンで暖房まともはポルシェだけだったな、寒いワガラスは曇るワ酷かった😢
半世紀前に、しかも軽四輪トラックに、ダブカムの床下エンジンを搭載してきたずば抜けた先進性の発想力と具現化させる技術を共に持つユニークな技術集団が、HONDAのエッセンスN360軽自動車も、小型ジェット機も、客室から設計始めたというエピソードは、面白い。HONDAの軽四輪乗用車がデビューしたときも、ボンネット開けたら、オートバイのエンジンがズドーンと、真ん中に居座ってたなぁ(笑)バイクそのままで、車輪を2つにして、後ろにキャビンを足した配置。走りの癖も強かったが、それを越える面白さに魅了された
どうも本田宗一郎さんはバイクやレーシングカーとロードカーの境界線が一般ユーザーとは違っていた嫌いがありましたね。N360がバイクのエンジンの延長線上の設計のエンジンによりハイパワー化され成功したことが一つのきっかけだったのだと思います。今なら欠陥車扱いされて炎上したのでしょうがまだまだ日本も若かったですね。
よく言えば野性的、アクの強いデザインがマツダっぽい。サバンナの兄弟車と言われてもすんなり認めそう。
親父がホンダのディーラーと関係があったので、ずっとホンダ車に乗っていましたホンダ1300の話題が取りあげられてうれしいです親父がシビックに乗り換えたのでお下がりでホンダ145も3年間運転しました空冷エンジン懐かしいですほとんどの人は知らないと思います
145は水冷なのでは?
4灯式1300クーペって悪顔ですね!
悪顔デザインのモチーフになったのは初代ポンティアックファイヤーバードの'67ハーフイヤー〜'68のフロントマスク。本田宗一郎云く「おお、焼鳥か!」。
本田宗一郎さんは、真似をするのが大嫌いだったらしいですからね。
この頃のHONDAのデザインは嫌いじゃないんだけど…駆動方式がねぇ…今でこそFFは良くなっては来たけ当時のはねぇ…😥
RA302も造ったからね!
リアのサスペンションが特殊でしたね❓🤔。
911もビートルもこの後空冷で生き延びたので、空冷エンジンそのものはもう少し生き延びたのかも知れません。でも、生き延びた両車がRRである様に、全体のパッケージ、重量バランス、空冷のシンプルな利点、などが活かせなかったのも原因かと思います。
あまりよくわかりませんが、当時ニックネームで「カジキ」と呼ばれたみたいですね。
確か この車は知り合いの元 ホンダに勤めてた経営者 オーバーヒート する 上 まっすぐ走らない ろくな 車 じゃないと言ってたの思い出しました。
親父さんの空冷式が天下をとった未来もパラレルワールドで存在するかもしれん
空冷99エンジン×FIが見たかったですね
FIはエスハチで計画してましたが没。
ほぼ同時期に発売されたスバル1000のライバルだったと言えるかもしれないが、名車として知られるスバル1000に比べるとあまり知られていないように思う。
本田のオヤジは失敗を、云わば「捨て石」にしてノシ上がってきた方。空冷の件にせよ、当時は客観的に意見してくれる誰かを欲していたのだと思う。
思い出しました。ホンダにはトップトークスという本が有りました。この中には色々、考えが書いてありました。本田宗一郎氏が仰ったことばに、社名を「HONDA」にしたのは間違いだったと•••。
Nコロの正式な愛称がNっコロって知らんかった
9と7があったよね。R26の宇治~大久保間の草むらにセダンが雨ざらしになっていた。まだあるかな?
子供の頃、車に興味を持ち始めた。向こうから走ってくる車で音だけで分かる車が2種類。「フゥォアーー、フォォアーーーーー」って感じのホンダ1300クーペと、「ちょぇーーん、ちょぇーーーーーーーん(ギヤ音)の日産チェリー。懐かしい
本田宗一郎氏尊敬している筆頭人物です。独創的で、先進的で、夢があり、何より、妥協を許さない。それでいて、面白い。だから、今でもHONDA車(バイク含む)しか乗らないし、他車は乗りたくもない。だが、最近の量産中のHONDA車は、どれも面白くないです。性能は良いと思いますが、デザインが最悪!乗りたい気にさせないです。早く、昔のような、トキメキのあるHONDAに戻って欲しい。
勿論F1も凄かったけど、CVCCエンジンでアメリカの排ガス規制法を最初にクリアした事は間違いなく日本車の金字塔。アメリカのオールドユーザーにとってシビックとDATSUNフェアレディZは特別な存在。
1300クーペ。当時小学生だったから、メカも操縦性も知らずかっこいい車と思った。
I owned one in Australia. It was fantastic and very reliable.
HONDA1300のニックネームが「カジキ」って呼ばれたみたい。
元整備士です。クーペ9大昔お客さん(女性!)で乗ってる方みえて車検等で良く運転しました。排ガス検査はアイドル特殊と言って、特別に緩和されていた車種の一台でした。ドライサンプでエンジンオイルが大量に必要だった覚えがあります。
しかし当時の女性ドライバーは、今よりはるかに運転テクニックもマナーも良かったんじゃないですかねー?。パワステ無しのマニュアル、神経質なキャブレター車乗りこなしてたんですから。何でも簡単便利になる事は良い事ばかりではないですね。
元クーペ9のオーナーとして一言。もとはと言えばNコロで「ホンダファン」になったのですが、クーペ9は「走らせる」と言う意味では良くも悪くも楽しい車でした。Sメーターが230まで有り(1300で出る訳が無い)、試しに「東名高速」に乗り、実際にどこまで出るか試した事が有りましたけど、スピードの限界が来る前に、あれだけ「フロントヘビー」で、重かったステアリングがどんどん軽く成って行き、ラック&ピニオンのクイックさも手伝って「弩アンダー」が「弩オーバー」に成って行き、車線変更が「恐怖其の物」に成り、それ以上アクセるを踏み続けることが出来ませんでした。今となっては「笑い話」ですけどね。
7に乗っていました、加速は非常に良かったです。そのかわり、
交差点でアクセルを踏み込むとハンドルが戻らず危なかった思い出が有ります。
それと、空冷の弱点ヒーターが効かない冬は3~4入乗ると窓ガラスが曇ってしまいました。クセがあったけれど2000ccにも劣らず楽しかったです。50年前の思い出です。👍
藤沢副社長の根回しで、本田社長に水冷の件で話に行かされたのは、久米さんです。本人が話すのを、テレビで見たことがあります。(やりたきゃ やればいいだろう) と言われて 拍子抜けしたと!久米さんは水冷の件で本田社長と対立、ストレスがたまり出社拒否、四国霊場金剛福寺(足摺岬)で、瓦を屋根に上げる ボランティアしてた。
58歳です。子供のころの写真を見ると N360 1300クーペと乗り継いでいます。
1300は坂道が登らない、オーバーヒートするし冬は寒いと言っていました。
エアコンもないので夏は窓全開で走ってたことは覚えています。
今から思うと、高回転型エンジンで下のトルクが無かったのでしょうね。
技術者としては中村さんの言われたとおりだが、人間味という点では空前絶後のカリスマ経営者でしょうね。お行儀の良さではなく、破天荒だが愛される人柄。
社員のみならず、お客さんまで宗一郎さんのファンとか今考えられない話です。正に余人に代えがたいという言葉は
宗一郎氏のためにある言葉。
HONDA1300くーぺで参戦中の79歳、デビュー当時からHONDA1300から、それからのライセンス59年も継続、2023もJCCAのレースに参戦中。この車が奇跡の車なので認知度が上がることを望みます。よく解説されていて感動しました。
空冷エンジンへの過剰なまでの固執があったとはいえ本田宗一郎氏は日本の自動車史に於いて重要な人物なのは間違いない
現在62歳。高校生の頃市場でバイトしてたが、迎えに来てくれた兄ちゃんが乗ってた。加速の凄さに驚いた思い出がある。
三本和彦氏が直接「あの車はダメですね」といったという話がありましたね。DDACエンジンは技術ばかり追いかけて、実質的なものを見なかったといわれていました。しかし空冷エンジンが消えた最大の要因は排気ガス規制と言われています。燃焼温度のコントロールがしやすい点で水冷には全く歯が立ちませんでしたから。同様に「おわいや(汲み取りやかな?)になるな」という言葉で後処理システムのないCVCCをつくりました。しかし触媒の信頼度が上がったことで、これも触媒採用に至るなど時代の流れには逆らえませんでしたね。ちなみに1300シリーズはリアにリーフスプリングを使用しながら独立懸架な、クロスビームという珍しいサスペンションだったのもマニア心をくすぐる一つ。
1300クーペは幼少時にマイカーとして我が家に在籍してました。さっきまで軽快に峠道を走っていたかと思えば、その先で少し渋滞にハマると必ずオーバーヒートしていた思い出。
あの気難しいスポーツクーペにこんな大きなヒストリーが詰まっていたとは。
何だか色んな感情で涙が止まらなくなりました。
ありがとうございました。
空冷式のエンジンは画期的でしたね、元ホンダSFのピットマンでした。オヤジさんが引退前に全国安行の旅に出て当工場に来訪され直接お会いする事が出来ました。時は1976年ヨーロッパ2輪耐久レースが全盛だったRCB1000の時代で当工場のショウルームにも飾られたことが有り、内緒でエンジンを掛けさせて頂いたことは良い思い出です、あの時のサウンドは忘れません。
おお、私も元SFマン(^^♪ 鈴鹿工場に中東向けシビックのクーラー取り付け応援で出向とか安八水害で名古屋に応援出向とか、何だか遠い昔で懐かしいw
八重洲のホンダビルに宗一郎氏が使っていた社長室が残されているけど、再開発で取り壊しになるんですよね
ホンダコレクションホールあたりに、社長室を再現した部屋を作れないもんかと思う
そもそもホンダコレクションホール自体が、宗一郎氏は「過去の車を保存するような施設なんかいらない」って否定してたのに、諸々あって死後に作られたもんだから、そこに社長室を移設するのは色んな意味でありじゃないかと
知り合いのホンダ1300クーペ9を、何度か運転させて貰った事が有ります。
エンジンのレスポンスが、非常に良かった印象が残っていますが、タイヤが発売当時より高性能なので、弱アンダーでタックインを使うと良く曲がりました。
私の初代プレリュードを知り合いが運転してついてきましたが。
親父が77に乗っていたのですが子供だったのであまり覚えていませんでした。この動画でどのような車だったのか勉強になりました。
浜松製作所の近くで育ちホンダ好きですが今のホンダ社員の方々にもこの動画を観てもらいたいなと思いました。
私はバイクは空冷が好きで今も乗っています。暑いしすべてが良いとは言い切れませんがエンジンの見た目が美しく眺めていても良いものです。
水冷ののっぺりしたブロックは美しくないねえ。50過ぎのオッサンはそう思うのです。ハハハ。
バイクの空冷エンジンって良い造形してるよね。あのフィンの並びがなんとも言えない。
しかしあれにアルミ洗濯ばさみをベタベタ挟んでた輩が多かった。興ざめ
さすが、藤沢武夫。
幅が現規格の軽自動車並みで、長さも4mを大きく切る、旧マーチ位。昔の車って、本当に小さかったのですね。
あれ?145は「いちよんご」と僕は読んでました。
1300クーペはカッコ良すぎる~♪
ホンダの空冷1300エンジンを積んだレーシングカーは、ワークスのR1300の他にも、カーマン・アパッチやEVA-CanAmに1300エンジンを積んだ2座席レーシングカーがありました。
クーペ1300を見て伊フィアット社長がとんでもねぇ技術を持つ会社が現れたと感心したそうだ。
@@モンジローパパ
そのフィアットの127?を基にして初代シビックが開発されたんですよね。
このクルマで エンジン以外に忘れてはならないのは ボディの組み立て方法。
左右のサイドパネルに ルーフパネルを溶接して その痕をゴムのモールで隠す 所謂『モヒカン構造』を最初に採用したクルマでもあります。
アメリカのとあるメーカーの製造ラインを視察したホンダの技術陣が ルーフパネルから伸ばされた足(各ピラー)を ボディパネルにハンダ付けしている工程を見て「もっと作業性の良い方法はないものか?」と考案し 特許も取った工法で その後のホンダ車の特徴ともなり 後には世界の他メーカーも採用したボディ構造です。
同じくホンダ車の象徴だった Aピラーに埋め込まれたロッドアンテナもこのクルマからで これもホンダの特許です。
因みにセダン77の角目のフロントマスクは イギリス車の『ボクスホールビバ HB・HC』に似ているような気もします。
この車ホンダ1300クーペ9だったかは、ウチの兄が買って小生も時々乗り回していたけど兎に角、曲がりにくい車だった。直角に曲がって橋を渡ろうとしても、曲がらず、アッ!欄干にぶつかる!とアクセルから足を離したら、その瞬間、クルリと回る。FFの癖が強すぎる車だった。後、近くの車屋に持って行っても、エンジンが複雑すぎて手を出せず、ホンダSFしか故障を直せなかった。今では、こんなピーキーな車は発売できないだろう。
親父がホンダ1300GTLに乗っていました。フロントヘビーとか言うけれど、自分が乗っていたシャレードディーゼルターボはフロント66%リヤ34%だったから昔のFF車としては言うほど悪くはないと思う。セカンドでメーター読み100Km/h出ました。(多分85Km/hくらい?)あの頃の自家用車はどのメーカーも120Km/h超すと命懸けっぽい感じがしたね。ローレルSGL、コスモロータリーとかも乗ったけど今とは比べ物にならない。高速での最高速はコスモロータリーが一つ抜けていた。HONDA1300の4キャブとニッサンGTRが何度やっても最高速同じくらい。ずーっと並行で走る。馬力はGTRだが前影投影面積と空力はHONDA1300が良い。高速でフロントが上がるという意見があるけどセダンやクーペタイプは現在でもそう。フロントリフト(FL値+)は避けられない。対象にミニバンはFL値はマイナスになる。....最後に私のハンドルネームは「hondacoupe」
正に偉人伝ですね。
個人的には空冷エンジンの音って本当にカッコ良くて好きです。
確かに静粛性には難があるかもだけど、いかにもブロックの金属一枚向こうで爆発してる、そして沢山の部品達がoilて潤滑されながら滑らかに擦れあって濁りが無いのにハスキーな、そんな音。
学生時代に乗ったことがあります。あまりに売れないので販売促進モニターで一日借りることが出来ました。空冷エンジンを高回転させるのには無理があり、リッター当たり6~7kしか走らない車でした。OHVの1600㏄のトヨタの二代目コロナの完成度には全く敵わない、成長期のホンダ車という感じでした。
DDACは水冷エンジンのウオータージャケットに空気を流したようなもの。水と空気の熱容量が3000倍ほど違うため、常にオーバーヒート気味。
そうですよね。どう考えても理屈が合わない。素人の私でもわかるのに当時の本田の技術者達が分からないはずが無い。本田宗一郎さんってきちんとした技術知識も無い、それでいて社員の正論も聞かない相当な頑固親父だったんでしょうね。
水冷を主張する社員に「砂漠で水がなくなったらどうするんだ!」と一喝した本田社長が好き。
すばらしいです よくここまで調べましたね 感動しました。
3:26からの事は本田さんの限界を示してます。すごい人ではあるんだけど。他にもクランクシャフトの軸受にメタルでなくころがり軸受にすることに固執したり(多分剛性やコンパクトさで不利、重さも・・・)もそうですが。後に自分の限界を自覚したか口出ししなくなったらしいですね。でも氏の影響が少なくなるにつれて昔のような本田らしさは失われた気がする。時代が変わったせいで社を取り巻く環境が変わったという事も関係あるでしょうが。
ホンダはむしろ藤沢武夫の会社だと思ってます。情熱のあるエンジニアである本田宗一郎にもう時代遅れである事を冷静に見て引導を渡せた事はホンダにとって良かった事だと思います。確かに面白い車です。
日本のモータリゼーション黎明期に二輪開発事業に参入し、当時オートバイレースの最高峰英国マン島TTレースで入賞し世界に「HONDA」の名前を轟かせた胸熱エピソードもぜひ動画にあげてください。
創業者の闘志がよかった。最後もまた立派。
この動画を現在のHONDA社長に見てもらいたいなぁ…。
子供の頃、この車はPCDが特殊なサイズで社外ホイルを履かそうとすると大変だった、と聞いた事があります。
強すぎる拘りが凝縮されたこのクルマは 結果 製造原価が物凄く高くなり かといって高い値段で売るわけにもいかず 売れば売るほど赤字が増えたクルマでもあったそうですね。
ホンダ1300ですね。私の個人的に好きな車です。ホンダ1300を取り上げてくれてありがとうございます。確かにエンジンを水冷にするか、空冷にするか揉めた車です。私はホンダ1300の99と77とホンダ1300の145とホンダH1300のデザインが大好きです。
H1300を巡っての宗一郎、藤沢のやり取りと西田の引退の提案交渉は伝説として聞いた事ありましたが、車のスペックをわかりやすく解説して頂いた事でホンダがなぜヒトがワクワクする様なモビリティーを作り続ける事理由が少しわかった気がしました。解説ありがとうございます。
引き際潔い…☺️
かっけーな
「エスで水冷認めたクセに」とツッコミたくなりますね😅
入交さんが、キャブレターの調整で手を焼いたと新聞のインタビューに掲載されてました。
ホンダの空冷F1は オイルをジャブジャブ入れてオイルクーラーで冷やしたと聞いたことがある。
もはや空冷でなく油冷式エンジンというこだそうです。
見応えのある素晴らしい動画でした。
ありがとう!
性能云々ではなく……、私も空冷が大好きです。クルマもバイクも大戦期のレシプロプロペラ戦闘機も。ポルシェ911空冷式(993型まで)、ポルシェ917、カワサキ空冷Z、零戦……、あのフィン、サウンドがたまらん😆
元ホンダマンです。ご存命の時に本物❗をお見掛けしました。🎉🎉
引退したのが総一郎氏65歳、藤沢武夫氏61歳!引き際が見事ですね。
下の者からの苦情を聞き「技術の事に口を出さない」の誓いを破り「空冷は止めろ」と苦言を呈し身を引いた藤沢。藤沢の退職を知ると宗一郎は「ホンダは藤沢あっての会社だ。藤沢が辞めるなら俺も辞める」と聞きました。
当時友達のお姉さんが99を乗ってました、タコメーター読で9500rpm迄回るエンジン強烈なタックイン癖で走る凶器でした。
F1も参入当時は毎年エンジンのレイアウトが変える本田宗一郎らしい発想です空冷ほど設計変更ができシンプルで軽量部品点数が少ないしいてはコストが下げられ生産性もいいで貫いていたがアメリカに打って出るには環境性能は絶対だった、その代わりマスキー法をアメリカでもあと最低10年かかると言われたものをホンダ世界で最初にクリアした。
その節目に出た名車だと思う、ただし当時の空冷エンジン加工精度がまだまだでシールが追いつかずオイル漏れ多発でした。
CVCCのアイディアはトヨタがライセンス買ったくらいでたいしたもんだったけどねぇ。馬力がでなかった。今はCVCCなんかカタチもないわな。
1300クーペ、乗ったことがある。速かった、特に加速が凄かった記憶がある。
あの頃の車は皆個性が強く乗りこなしてなんぼの存在。
今の車はつまらないと思う。
SSのダイブツの最初の車、1300 99 S!
あっ、あとちびまる子ちゃんの穂波氏の車だw
この車はエンジンにばかり話題が集まりましたが あと一つのトピックはリアサスペンションです。
板バネながら左右ロアアーム(ビーム)を交差させて支点を反対側まで伸ばし、キャンバー変化を極限まで減らしています。
実は車の操縦安定性を決めるのは後輪の動きであることで開発されました。
残念ながらそのクロスビームサスペンションをもってしても重すぎたエンジンがこの車の命運を決めました。
しかし、リアのキャンバー変化に拘ったホンダの姿勢は継承され
二代目プレリュードはリア・ストラットながらロアアームは車体中央からのロングアーム
そして独自のダブルウィッシュボーンへ進化しました。
ちなみに、N360、単にバイク用空冷と言われますが実際は冷却フィンをハウジングで囲んで
後部のベルト駆動ファンで排気する強制冷却となっており、後のホンダ1300、DDACと一部が共通する構造となっています。
あまり知られていませんが、カジキと言うニックネームがあったと思います。
ホンダ145は「いち よん ご」が正規の呼び方です。当時のCMでもそのように表現していました。
1300クーペは、マンションのひとつ下の階に住む家族が引っ越して来たときにこれに乗っていた記憶が。この流れを行くセダンもありましたね…
初めまして🍀、プラモデルで中学生の頃 HONDA1300作った覚えています🐇確かタミヤでわなくバンダイだったかな😮豆球を入れてヘッドライト4灯!実感ありました🚙 そうフロントは前輪駆動 プラモデルにしては、リヤは力を分散する見たことないバネ HONDAえらい❗😂 爺ですが、乗車経験無し、🎉(バイクは、SL230乗ってました。🌸🧊)。
H1300で宗一郎さんを横に公道を1.5h走行した果報者です。エンジニアでない私に設計の悪い箇所を数々指摘され困惑!
翌夜宴会に同席の栄を賜りました。但しお開き後、「俺に幇間をさせやがって」とお叱りを受けた元社員です。
That’s a wonderful story.
貴重なお話を有難うございました。HONDA社は創業者の花道を準備したいのは当然としても元帝国海軍技術者から見れば総一朗社長には穏やかに引退していただきたい理由があったことも頷けます。ただし周囲の人々に恵まれて類まれな成功を遂げられたお人であったことは認めたいと思います。
GTの『1300』の解説文は何度か読んだなー。
最後の『こんなに(※熱害的意味で)熱いエンジンは作っていない』の一文は、
そりゃそーだ!
と毎回思った(^^;)
いつもこの動画を見ると泣けてくるのはなぜだろう
小学生の時に1300のプラモデルが出て、すぐ買ってもらったなぁ。同時期にあったのが初代のロータリーファミリア。
友人が1300セダン77を買いシリンダーヘッドごと99の載せ替え乗ってましたが、エンジンをぶん回せば走る走る、1300とは思えないほど走りましたね、エンジンもドライサンプなのでオイルの心配も無かったので、ぶん回しながら走りましたね。でもタイトコーナーはドアンダーでしたね。
1300ccながら最高速度は190kmオーバーと当時としてはぶっ飛んだ車でしたね。
但し耐久性に問題が有ったのか中古市場にも短い間しか出なかったし町からも消えた。
性能は可成り落ちるが日産チェリークーペを2台乗り継いだ感想としてFF特有のタックインは
可成り改善されて乗り難さは無かった。9の不評の部分もマニアに取ってはアバタもエクボの個性にゃw
徳大寺有恒さんは友人の本田博俊さんの実家に行くと家に止まっている車にホンダ車デザインが似ている傾向を語っていた。
その頃イーグルマスクのアメ車があったのかと。
Pontiacs
かなり年上の従兄弟が、中古のファーストカーで載っていました。おっしゃるとおり、ウルトラフロントヘビーらしく「全然、曲がらない」と言っておりました。
フロントが重すぎて停車しててもストラットのゴムが抜けると聞いたことがあります、
911は排ガス規制で苦心の末排気量アップで近年まで逃げましたけど
N360に乗ってましたがキャブの温度管理に空冷はついてゆけず冬季な温まるまで信号のたびにエンストしてました。
高校3年の夏休みに免許取得、近所のバイク屋さんで車検残り半年の1300セダン77を5万で売って貰った、夏はキャブレターのべーパーロックでエンジンよく止まったよ。
引退の本当は CVCCですね
高校出た時にクーペ9の発売記念プレゼントで、クーペ9のフォルムを刻んだカフスボタンとネクタイピンがあたりました。それから五、六年後に初めての車で、中古のクーペ9を手に入れ子供が出来るまで乗っていました。ヒーターは効かない、プラグはすぐカぶる、サスはへたる、そのくせエンジンだけはよく回る。優等生の車ばかりの時代、こんな欠陥ばかりの車はもう出ないでしょう。クーペ9は無くなったけどカフスとタイピンは今も大事に残しています。
発売されたホンダクーぺ初めて見た時カッコイーと思ったよ それと大学の先輩が乗ってたトヨタ初代セリカ 良かったよ 当時学生だった高齢者です
若い頃ホンダN360Sに乗っていました、高速道路では130キロのスピードが出る車でした。当時16歳で軽免許が取れました。でも故障したら一般の車修理屋では断わられました。ホンダの車は修理が難しくてダメだよと、SFでないと修理出来ませんでした。もう半世紀前の話しですが。当時は飲酒運転してもおとがめ無しの時代でした。恐ろしい話しですね。
すみません、このクルマMAZDAの車だと思ってました😅
このクルマのエンジンをチューニングし様としてた吉村秀夫さん(POPヨシムラ)は、このエンジンをバラしてみて本田宗一郎氏の思想が入ったエンジンと思ったとか?
2タイプあったよね!!クーペ7とクーペ9
鈴鹿製作所での「お礼の会」に行ったなぁ。
1300クーペの元オーナーとしての感想っですが、欠点も含めて、「操るのが楽しかった」車ですね。しかし高速走行は正直に言って「恐怖」でした。ムチャクチャフロントヘビーにもかかわらず、スピードが上がるほどフロントが浮いてきて、あれだけ重かったハンドルがどんどん軽く成って行き、チョット切っただけで横Gを感じる位の勢いで車線変更するのはビビりました。1300なのにSメーターが230まで有ればアクセルを踏みたくなりません? あの頃のホンダファンは「欠点」とは思わず「ホンダ車のクセ」で有り、「面白さ」と捉える人が多かった様な気がして居ます。
私の車はたかが1000cc、なのにメーターは200kまで刻んである。国内では実用120kが限度だから、Max140か160kくらいで良いと思うのだが、その方が見やすいし。
初代N360に乗っていました。走りは良いけど緩い下り坂の緩いカーブでも下手するとケツを振るので気を遣いました。高速道でスピンやらかして横になったこともある。周りに車いなくて助かりました。
油量をもっと増やしていわゆる油冷にすればもっと冷却性能が上がったんだけどね。
のちのスズキのバイクみたいに開発陣がデカいオイルクーラーを付けてたら
「これじゃあ水冷と変わらんじゃないか!」
とオヤジさんがまた激怒しそう(笑)
70年代後半ですが親父のお下がりで Coupe7乗ってました。高速域でのブレーキジャダーが怖かった思い出~
❤1300エンジン重いからフロントが沈みボンネット内のストラットサスを抑えてるラバーをストラットが下から持ち上げボンネット内に徐々に突き出してくるんで車庫入れしたらジャッキでフロント持ち上げてる人いたらしい。
Nコロに関しても開発者はミニと同じようにグリルの外にライトを配置したかったがオヤジさんがグリル内に拘ったから、何度目かのマイナーチェンジの時にコソッと分けたとか。
当時ガキだったからメカの何たるかをしらず「カッコいい車だな」と思った。
空冷エンジンで暖房まともはポルシェだけだったな、寒いワガラスは曇るワ酷かった😢
半世紀前に、しかも軽四輪トラックに、ダブカムの床下エンジンを搭載してきたずば抜けた先進性の発想力と具現化させる技術を共に持つユニークな技術集団が、HONDAのエッセンス
N360軽自動車も、小型ジェット機も、客室から設計始めたというエピソードは、面白い。
HONDAの軽四輪乗用車がデビューしたときも、ボンネット開けたら、オートバイのエンジンがズドーンと、真ん中に居座ってたなぁ(笑)バイクそのままで、車輪を2つにして、後ろにキャビンを足した配置。走りの癖も強かったが、それを越える面白さに魅了された
どうも本田宗一郎さんはバイクやレーシングカーとロードカーの境界線が一般ユーザーとは違っていた嫌いがありましたね。N360がバイクのエンジンの延長線上の設計のエンジンによりハイパワー化され成功したことが一つのきっかけだったのだと思います。今なら欠陥車扱いされて炎上したのでしょうがまだまだ日本も若かったですね。
よく言えば野性的、アクの強いデザインがマツダっぽい。
サバンナの兄弟車と言われてもすんなり認めそう。
親父がホンダのディーラーと関係があったので、ずっとホンダ車に乗っていました
ホンダ1300の話題が取りあげられてうれしいです
親父がシビックに乗り換えたのでお下がりでホンダ145も3年間運転しました
空冷エンジン懐かしいです
ほとんどの人は知らないと思います
145は水冷なのでは?
4灯式1300クーペって悪顔ですね!
悪顔デザインのモチーフになったのは初代ポンティアックファイヤーバードの'67ハーフイヤー〜'68のフロントマスク。本田宗一郎云く「おお、焼鳥か!」。
本田宗一郎さんは、真似をするのが大嫌いだったらしいですからね。
この頃のHONDAのデザインは嫌いじゃないんだけど…駆動方式がねぇ…今でこそFFは良くなっては来たけ当時のはねぇ…😥
RA302も造ったからね!
リアのサスペンションが特殊でしたね❓🤔。
911もビートルもこの後空冷で生き延びたので、空冷エンジンそのものはもう少し生き延びたのかも知れません。でも、生き延びた両車がRRである様に、全体のパッケージ、重量バランス、空冷のシンプルな利点、などが活かせなかったのも原因かと思います。
あまりよくわかりませんが、当時ニックネームで「カジキ」と呼ばれたみたいですね。
確か この車は知り合いの元 ホンダに勤めてた経営者 オーバーヒート する 上 まっすぐ走らない ろくな 車 じゃないと言ってたの思い出しました。
親父さんの
空冷式が天下をとった未来も
パラレルワールドで存在するかもしれん
空冷99エンジン×FIが見たかったですね
FIはエスハチで計画してましたが没。
ほぼ同時期に発売されたスバル1000のライバルだったと言えるかもしれないが、名車として知られるスバル1000に比べるとあまり知られていないように思う。
本田のオヤジは失敗を、云わば「捨て石」にしてノシ上がってきた方。
空冷の件にせよ、当時は客観的に意見してくれる誰かを欲していたのだと思う。
思い出しました。ホンダにはトップトークスという本が有りました。
この中には色々、考えが書いてありました。本田宗一郎氏が仰ったことばに、社名を「HONDA」にしたのは間違いだったと•••。
Nコロの正式な愛称がNっコロって知らんかった
9と7があったよね。R26の宇治~大久保間の草むらにセダンが雨ざらしになっていた。まだあるかな?
子供の頃、車に興味を持ち始めた。向こうから走ってくる車で音だけで分かる車が2種類。
「フゥォアーー、フォォアーーーーー」って感じのホンダ1300クーペと、
「ちょぇーーん、ちょぇーーーーーーーん(ギヤ音)
の日産チェリー。
懐かしい
本田宗一郎氏
尊敬している筆頭人物です。
独創的で、先進的で、夢があり、何より、妥協を許さない。
それでいて、面白い。
だから、今でもHONDA車(バイク含む)しか乗らないし、他車は乗りたくもない。
だが、最近の量産中のHONDA車は、どれも面白くないです。
性能は良いと思いますが、デザインが最悪!
乗りたい気にさせないです。
早く、昔のような、トキメキのあるHONDAに戻って欲しい。
勿論F1も凄かったけど、CVCCエンジンでアメリカの排ガス規制法を最初にクリアした事は間違いなく日本車の金字塔。
アメリカのオールドユーザーにとってシビックとDATSUNフェアレディZは特別な存在。
1300クーペ。当時小学生だったから、メカも操縦性も知らずかっこいい車と思った。
I owned one in Australia. It was fantastic and very reliable.
HONDA1300のニックネームが「カジキ」って呼ばれたみたい。