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信虎信玄の親子二代の天下取り論とても興味深かったです!
とても面白いお話です!
大河ドラマ「武田信玄」での晴信と信虎(中井貴一さんと平幹二朗さん)の度重なる確執シーンはお二人の名演技もあって緊張感がみなぎってましたね😅
甲斐国民です。面白いですね。信虎は富士山に登頂したという記録があるそうなので、80過ぎまで生きたというし、頑健で体力もあったんでしょうね。ついていく家来は大変だったかも。
確かに、娘に会いの大名自ら行くのは変ですよね。新説とても面白かったです。
今日の教訓は、より良い人生を送る上で非常に重要な考えだと思いました。
信虎最晩年を描いた寺田農さん主演の映画がありましたね
この新説、面白い😂
中西悠理さんというの? いやあ、和服美人ですね。伊東潤さんは、加山雄三みたいだ。
加山雄三さんご母堂のご先祖は岩倉具視です🎉
流石に信虎が追放された1541年の時点で信虎が天下取りのために駿河に追放されたという茶番を演じたという説は首肯できませんね。実際、義元が陣没する1560年まで、武田家は今川家に圧倒されているわけで、信玄が天下取りを意識し出すのは第五回川中島以降でしょう。そうでなかったら、第四回川中島で信玄が謙信と決戦した意味がなくなりますね。
そもそも信虎を追放したのは信玄ではなく、信玄を担いだ武田家臣団のはずだが。
甲斐国武田はいなか大名じゃ
ちと無理がある仮説かと。
武田父子の誤算は、上杉謙信がやたらと強い上に独自の理論で行動する変人だったということでしょうか
小生も同感です。甲斐が山国であったうえ、しばしば謙信に邪魔だてされてついに天下が取れなかったと察します😢
越後と甲斐は離れてるのでは。
信虎追放は上洛のための工作…息子の方を追放させたふりして自分が天下を取る、と言う手を取らずまだ若いのに自分が追放された体にしたのはなぜか?等の疑問は残りますが、面白い説ですね!だとすると晴信の嫁に京都の公家の娘を迎えたのもその構想の第一歩だったのかな?なんて思ってしまいます
信虎はわざと信玄に家督を譲ったのかな~?信玄の策略で駿河に追放したとなっていたけど。
川中島で12年にも及ぶ謙信との争いがその後の信玄、謙信にとって大きい痛手になり、その間に信長が台頭して行くという西上作戦、時、既に遅し、勿体ない😢
信虎が信玄を操っていたとしたら面白い
私の先祖は当時九州を南朝として統一した菊池武光であり、その末裔が足利義稙から足利義晴の時代に里見入道を頼り、肥後国から上野国茂呂に移ってきた菊池武盛となります。その後、茂呂に移った菊池一族は山内上杉氏傘下である長野業政の配下に下りました。長野業政は武田信玄に対して6回戦い、退却させている実績があります。菊池武盛のひ孫である菊池武信の代で上野国伊勢崎に移り、私の祖母(菊池美佐)の代で上野国(現在の群馬県)伊勢崎から東京に移ってきました。菊池武光の先祖が光る君へに登場する藤原道隆であるため、少なくとも自分の先祖が藤原鎌足であることだけは自覚しておきなさいと、小学生のときによく母から言われました。
すごいお血筋ですね。飛鳥時代に活躍した中臣家から枝分かれしたのが摂関政治でお馴染みの藤原家、そこから更に生じた御一門が菊池家の皆さんだったのですね。スケートの織田選手は平家、総理大臣を生んだ細川家も源氏。平安後期の動乱を体験した源平藤3氏の血筋がこうして令和の時代にも脈々と続いているのを想像すると、歴史の壮大さを感じます。
信虎が内藤家や工藤家を処分したのは、人材整理も理由のひとつだったと聞いてますが、それでも厳しすぎますね。外孫の今川氏真の事は、信虎にとってはどうでも良かった辺り、長女の定恵院には愛情がなかったのが伺えます。先立った定恵院や信玄らの父親である前に、一介の戦国武将である事を優先した訳ですね。
伊藤さんの推理が正しいとしたら信虎ってすごい人だなぁ。ただもしそうだとしたら2の手3の手はどんな策だったのかなぁ🤔
織田信長も 徳川(松平)信康に嫁いだ娘(五徳)が子ども👶を産んだら 初孫誕生に喜んで 浜松まで見に行った話があるね🤔
大前提として今川義元が横死する前提の説だから無理筋だよね
隠密だったのか。元祖。放浪ドラマ。家臣に嫌われて隠居するくらいなら・・・。
信虎信玄の親子二代の天下取り論とても興味深かったです!
とても面白いお話です!
大河ドラマ「武田信玄」での晴信と信虎(中井貴一さんと平幹二朗さん)の度重なる確執シーンはお二人の名演技もあって緊張感がみなぎってましたね😅
甲斐国民です。面白いですね。信虎は富士山に登頂したという記録があるそうなので、80過ぎまで生きたというし、頑健で体力もあったんでしょうね。ついていく家来は大変だったかも。
確かに、娘に会いの大名自ら行くのは変ですよね。
新説とても面白かったです。
今日の教訓は、より良い人生を送る上で非常に重要な考えだと思いました。
信虎最晩年を描いた寺田農さん主演の映画がありましたね
この新説、面白い😂
中西悠理さんというの? いやあ、和服美人ですね。伊東潤さんは、加山雄三みたいだ。
加山雄三さんご母堂のご先祖は岩倉具視です🎉
流石に信虎が追放された1541年の時点で信虎が天下取りのために駿河に追放されたという茶番を演じたという説は首肯できませんね。実際、義元が陣没する1560年まで、武田家は今川家に圧倒されているわけで、信玄が天下取りを意識し出すのは第五回川中島以降でしょう。そうでなかったら、第四回川中島で信玄が謙信と決戦した意味がなくなりますね。
そもそも信虎を追放したのは信玄ではなく、信玄を担いだ武田家臣団のはずだが。
甲斐国武田はいなか大名じゃ
ちと無理がある仮説かと。
武田父子の誤算は、上杉謙信がやたらと強い上に独自の理論で行動する変人だったということでしょうか
小生も同感です。甲斐が山国であったうえ、しばしば謙信に邪魔だてされてついに天下が取れなかったと察します😢
越後と甲斐は離れてるのでは。
信虎追放は上洛のための工作…
息子の方を追放させたふりして自分が天下を取る、と言う手を取らずまだ若いのに自分が追放された体にしたのはなぜか?等の疑問は残りますが、面白い説ですね!
だとすると晴信の嫁に京都の公家の娘を迎えたのもその構想の第一歩だったのかな?なんて思ってしまいます
信虎はわざと信玄に家督を譲ったのかな~?
信玄の策略で駿河に追放したとなっていたけど。
川中島で12年にも及ぶ謙信との争いがその後の信玄、謙信にとって大きい痛手になり、その間に信長が台頭して行くという西上作戦、
時、既に遅し、勿体ない😢
信虎が信玄を操っていたとしたら面白い
私の先祖は当時九州を南朝として統一した菊池武光であり、その末裔が足利義稙から足利義晴の時代に里見入道を頼り、肥後国から上野国茂呂に移ってきた菊池武盛となります。その後、茂呂に移った菊池一族は山内上杉氏傘下である長野業政の配下に下りました。長野業政は武田信玄に対して6回戦い、退却させている実績があります。
菊池武盛のひ孫である菊池武信の代で上野国伊勢崎に移り、私の祖母(菊池美佐)の代で上野国(現在の群馬県)伊勢崎から東京に移ってきました。
菊池武光の先祖が光る君へに登場する藤原道隆であるため、少なくとも自分の先祖が藤原鎌足であることだけは自覚しておきなさいと、小学生のときによく母から言われました。
すごいお血筋ですね。
飛鳥時代に活躍した中臣家から枝分かれしたのが摂関政治でお馴染みの藤原家、そこから更に生じた御一門が菊池家の皆さんだったのですね。
スケートの織田選手は平家、総理大臣を生んだ細川家も源氏。
平安後期の動乱を体験した源平藤3氏の血筋がこうして令和の時代にも脈々と続いているのを想像すると、歴史の壮大さを感じます。
信虎が内藤家や工藤家を処分したのは、人材整理も理由のひとつだったと聞いてますが、それでも厳しすぎますね。
外孫の今川氏真の事は、信虎にとってはどうでも良かった辺り、長女の定恵院には愛情がなかったのが伺えます。
先立った定恵院や信玄らの父親である前に、一介の戦国武将である事を優先した訳ですね。
伊藤さんの推理が正しいとしたら信虎ってすごい人だなぁ。ただもしそうだとしたら2の手3の手はどんな策だったのかなぁ🤔
織田信長も 徳川(松平)信康に嫁いだ娘(五徳)が子ども👶を産んだら 初孫誕生に喜んで 浜松まで見に行った話があるね🤔
大前提として今川義元が横死する前提の説だから無理筋だよね
隠密だったのか。元祖。放浪ドラマ。
家臣に嫌われて隠居するくらいなら・・・。