【麒麟がくる】5月31日放送「家康への文」

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  • Опубліковано 21 жов 2024

КОМЕНТАРІ • 26

  • @samurairomance
    @samurairomance 4 роки тому +22

    宝永山の話しは、非常に面白いですね。時代考証というのは当時の地形まで考えなけばならない。本当に感服いたしました。

  • @blueblue9942
    @blueblue9942 4 роки тому +11

    小和田先生、更新ありがとうございます。今年の大河をとても楽しみにしております。撮影再開をお祈りしています。

  • @mitsutaka8592
    @mitsutaka8592 4 роки тому +2

    先生、応援しております!!

  • @bearao4958
    @bearao4958 4 роки тому

    大変勉強になっています。有難うございます。

  • @aya-ff1fl
    @aya-ff1fl 4 роки тому

    小和田先生ありがとうございます。義元の三河をガードあわよくば尾張奪取説非常に面白かったです。私も上洛ついでに尾張をと思ってました。大変勉強になりました。

  • @suzukinaoya7100
    @suzukinaoya7100 4 роки тому +1

    戦国時代の中でも桶狭間の本戦あたりが一番興味を持ちます。深い解説ありがとうございました。

  • @_zdaiske8135
    @_zdaiske8135 4 роки тому +3

    宝永山。確かに江戸時代の噴火でできた山ですからね。言われないと気づかないけど、言われてみれば有るわけがない山です。そこまで考えてるとは、感服します。

  • @03iemitsu
    @03iemitsu 4 роки тому

    小和田先生。いつも楽しく、興味深く拝見しております。
    刈谷市民としては於大の方や水野家の話はテンション上がります。

  • @HIDEO1480
    @HIDEO1480 4 роки тому +12

    冒頭の富士山、静岡生まれ、静岡育ちの私としては「違うんじゃないの」という感じでした。
    先生の事後解説をお聴きして理解が深まり、これから益々楽しくなります。

    • @cahsydjsudbrdyd9616
      @cahsydjsudbrdyd9616 4 роки тому

      静岡は地元の地理歴史を教えないのか…残念だな

    • @HIDEO1480
      @HIDEO1480 4 роки тому +1

      戦国時代には宝永山はなく、宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生しました。しかし、大河ドラマで写っていた富士山は私の記憶では、中央に大噴火で出来た凹みが写っていました。その角度では確かに宝永山は見えません。その点に違和感がありました。しかも、その凹みが見えるということは御殿場あたりから見た角度です。ドラマでは駿河(現静岡市)が舞台になっていたと思います。
      この二点で「違うんじゃないの」と感じた訳です。
      勿論、宝永4年以前の富士山の画像は無いと思いますが。

  • @kiriehyakkimaru0568
    @kiriehyakkimaru0568 4 роки тому

    時代物の絵を描く人間なんですが、大河ドラマで月代が、あるドラマと、総髪にしているドラマがありますが、僕は月代をするのが本当だと思うんですが、撮影上の都合で、総髪茶筅とかにしているんでしょうか?

  • @ミューちゃん-y4o
    @ミューちゃん-y4o 4 роки тому +4

    小和田先生 チャンネル登録いたしました。 「月山富田城」山城フェスティバルでの講演会 本当にありがとうございました。

  • @kotai2003
    @kotai2003 4 роки тому +1

    ありがとうございます。マイクの音量レベルを少し上げて頂くと、ファンが更に増えると思います。よろしくお願い致します。

  • @男長谷川眞-f8c
    @男長谷川眞-f8c 4 роки тому

    こんにちは✨😃❗
    いつもお仕事ご苦労様です
    麒麟がくるいつも楽しく拝見させて頂いております。

  • @7bunnsi
    @7bunnsi 4 роки тому +14

    於大の方や帰蝶の登場が多いのはストーリーに新鮮味を持たせたいのと、「女性の活躍」を描きたいという制作陣の思惑があると思うね。まあドラマだから「架空の話し」でも面白ければ気にしないです。

  • @ryutsuka533
    @ryutsuka533 4 роки тому +1

    小和田先生の3DCGでよみがえる「信長公記」の中で桶狭間の戦いの中に、コラムとして家康の桶狭間の戦いの事が書かれてあり織田方についた叔父・水野信元の力を借りて大高城を退去し岡崎城に向かったという事が書かれてありました。信長公記にも家康が岡崎城に帰還した事が書かれてあるので。先生の説を支持いたします。
    今後も時代考証楽しみにしております。

  • @秋野直重-q3f
    @秋野直重-q3f 4 роки тому

    那古野城を築城したのは義元の父である今川氏親であり
    尾張東部は今川家の勢力圏だったので、義元としては
    尾張遠征は旧領回復の意味合いも含まれていたのかもしれませんね。

  • @defibrillator100
    @defibrillator100 4 роки тому

    松平元康(家康)は人質時代、今川義元を烏帽子親として、今川館(駿府城)近くの静岡浅間神社で元服し、初能を奉納しておりますから、三河領主(近習出頭人)として義元に対する忠誠(対織田最前線)には自負があったのではないでしょうか?
    また、義元が出陣した他の戦闘と違って、烏帽子+狩衣(光源氏風の公家衣装)で輿に載って(上洛意図あり)25,000人の大軍勢ですから、①は消えますし、②だけでは動機として弱い気が。
    ③尾張奪取+上洛説 は如何でしょうか(^^

  • @長田清司-z2h
    @長田清司-z2h 4 роки тому

    宝永火口スルー…
    なるほどですね!
    こういう時系列合わせ目的の時代考証は
    たとえ些細なことでも大事ですね。
    大河ドラマも勿論ですけど
    フィクションである鬼平犯科帳やら剣客商売でも
    かの池波正太郎はTVドラマ化については
    生活やら風俗文化の考証に厳しかった…
    だからこそ五鉄や富士楼に出てくる消えモノ料理にリアリティーがありました。
    小和田先生の学識分野も
    阿部孤柳、近藤文夫両氏のようなプロの料理人の料理文化に通じた人々も
    時代劇には欠かせないスタッフですね。

  • @ロクエモン
    @ロクエモン 4 роки тому

    軍勢の数で圧倒的に不利な中で、出来ることといったら知り合いに手紙を送るなどして調略するしかないですね。

  • @つるかめ-y4c
    @つるかめ-y4c 4 роки тому +1

    「桶狭間」……この戦いが、歴史の境目の一つであった……と、ひしひしと感じます。
     飯尾連龍没後の曳馬城城主お田鶴の方は今川義元の姪、家康の正室の築山殿は井伊直平(井伊直虎の祖父)の孫、お田鶴の方と築山殿は母同士が義理の姉妹。
     お田鶴の方は、家康の遠江進攻で攻め入られ、果敢に戦うも敗北し自害……家康は、のちに築山殿も亡くするわけですから、家康の苦悩もいかばかりか。
     男は城(城下に暮らす人々=その土地、国)を守ろうと。
     女は家(家督、家系、家族=夫=城主=城)を守ろうと。
     命をかけたのですね。
     直虎、お田鶴の方、築山殿……桶狭間の戦いで、今川義元が討ち取られたが故に……親戚関係▪親族関係のお付き合いが、微妙になったのでしょうか……💦

  • @wakabanomidori
    @wakabanomidori 4 роки тому

    今回気になってしまったことがありますが、駒ちゃんが明智家に荷物を送ったくだりで、
    誰かに頼んだのか、そうゆう物流システムがあったのか?
    同盟国でもなく適正ルートでない場合、見つかったら結構なお咎めがあるとは思いますが、
    危険を冒してでも送るような物でもなかったとも思います。

  • @ソニー株主
    @ソニー株主 4 роки тому

    今川義元公はやはり高烏帽子に狩衣菅田で無いとさまにならんわ

  • @黒田松寿丸
    @黒田松寿丸 4 роки тому

    小和田先生、あるイベントの公演で、きゃいきゃいしていた、おばちゃんです。
    今回のテーマとは、関係ないのですが、どうびっくり返されようと、あざいは、ともかく、私は、史実が、どうあれ、断固、寧々で、幸村です。

  • @gyu63
    @gyu63 4 роки тому

    家康調略は、ちょっと納得できませんね。