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岐阜城は立て籠るための守りの城ではない、攻める為の城。いち早く敵の動きを発見して自軍に有利な場所で迎え撃つ時間を産み出すための立地。登ればわかるが濃尾平野一帯はもちろん関ヶ原まで一望できる。いかに信長が京都を狙っていたかよくわかる。
まあ ポンコツではあるんだろうが、当時の土木技術でこれだけの遺構を築いたのは素直に凄い。重機なんてない時代だからね。
岐阜城は映像でも言われてる様に籠城には不向き。だから信長は「見せる城」として築き、自分の力を誇示するための城です。だから城に近寄らせない戦法を取るつもりだったのでしょう。現に、信長時代は美濃は安泰で攻め込まれることは無かった。
稲葉山城時代も難攻不落と言われながら竹中半兵衛に搦手(裏口)攻められてあっさり落ちてるもんな
6度も落城といってもまともに戦ったのは信長の時と関ヶ原の時くらいですしね。
大河ドラマ「国盗り物語」では尾張の織田信秀の猛攻を斎藤道三が何度も退け、難攻不落の名城として描かれていました。
@@user-sy1ow2bl4p さん岐阜城は敵陣容や配置を見るには絶好の城。道三は城外に伏兵(むしろこっちが主力)を配置して撃退したのです。
あとはセンゴクで言及されてたけど、三方ヶ原の戦いの後ノッブは岐阜城を一度捨てたらしいしw
地元のお城が出てきて、知らなかったことが知れて益々好きになりました😍
城って援軍来るまで時間稼ぎするためのものであって、援軍も無いのに籠城したらどんな城でも落ちるよね
荒木村重の有岡城とかまさにそれ。村重自身が城を抜け出して毛利に援軍の依頼をしても断られたらしいし
兵站が前提条件となるでしょう。
「援軍が来ないと城は落ちる」ってよく聞くけど、守り切った城たくさんあるよねなんでこんな説が生まれたんだろ?攻城戦の天才だった秀吉が攻め手なら別だけど
@@user-zm2kx6uy8b 第一次上田合戦時の沼田城とかです
@@user-zm2kx6uy8b いやいや石川数正が秀吉に寝返ったからでしょまた結局真田を潰したところで沼田は北条に持ってかれるしそこまで徳川方にやる気があったのかってのもあるし 信濃で大活躍してた依田信蕃が大井攻めで戦死してるのもでかいと思う
信長は基本、籠城策を採らないから。「籠城に不向き」という弱点は、案外と問題じゃなかったのかも知れない
コロナ禍になる前は息子達と、よく日本の城を見に行きました。富山城や金沢城や彦根城、大阪城、名古屋城、岐阜城、長浜城、大野城、丸岡城、勝山城に行きました。コロナ禍が、いつか終わったら竹田城跡や姫路城にも行きたいな。🏯
まあ城も道具の一つとも言えるわけで、結局使いようだよね。大坂城や小田原城みたいになまじ立派過ぎるとマインドが保守的になり戦略を見誤ることもある。
五稜郭が駄目なことにあとから気がついたわけではないです五稜郭で戦うことは不可能なことはすでにわかっており、近くの草原が最後の戦いの場所になります。だから五稜郭が残っています
関係ないけど、岐阜城からの景色は絶景だった。
名古屋の超高層ビル群がよく見えました。360°の大展望でしたね!
景色も良く、歴史を感じることができ、最高の場所です。岐阜に行くと必ず行きます。長良川温泉に浸かり、稲葉山に登り、夜は金津園。
どんな名城でも環境次第では残念な城になってしまう可能性があると思う。
城は色々な意味を持って作られてますからね 遠くまで見渡せる情報源 守り抜いて時期を見る時間稼ぎ 攻撃のタイミングと兵を常備する詰所 権力誇示にて威圧する 等々 時代に沿って意味違いに作られてることが大切ですね
人は城、人は石垣、人は堀・・
岐阜城は物見櫓としては最高だからねあそこからだとかなり遠くまで見渡せて敵の配置や陣容がよく分かるだから守りづらいと分かっててもあの場所に城作って守るしかなかった
そうですよね。現地に行けばよく分かる。それにこの動画を作った人は時代背景などまったく分かっていないのでしょう。信長時代はここに籠って守るなんて必要はなかった。
ポケモンをやろう
@@bb4884 写真でしか見たことないですけど実際高いですか?
道三も馬鹿じゃ無いしね。金華山だけぐるり平地の中の山。4人で見張れば1時間前に侵入、進軍に気が付く。しかしながら、私は無類のポンコツ、住宅もポンコツ。どの城、大名と比べても私よりポンコツは居ない。一条兼定以下。自分がポンコツって認識できた時こそ開眼の瞬間。ポンコツに期待すんなよってサラっと言える。すなわち楽。
岐阜城の解説は酷い。山城なんてそういうものだし。織田信孝はあっさり開城なんてしてない。
なんかわからないが、どれも工期がめちゃくちゃ早い。重機も無いのにすごいなマンパワー。
岐阜城の籠城方法は城内に立て籠もるのではなく、城外に伏兵を置き攻城側を挟撃するのが正しい方法。山上からは敵の布陣が丸見えになるため伏兵を配置/指揮しやすい。斎藤道三はこの方法で敵(織田信秀ら)を撃退している。また、長良川の水運を使って援軍を呼びやすいという利点も。(信濃の海津城も千曲川の水運を利用していた)新府城のように「籠城しなかった」が「残念」の理由になるのであれば、徳川大坂城や徳川江戸城が入っていても良いと思う。愚かな息子(織田信雄)のせいで理由もなく焼かれてしまった安土城が、最も「(本来の意味での)残念」であると思う。
籠城しなかった、のではなく出来ずに勝頼自ら焼き落とすしかなかったので、江戸城とは違うかなと思います。籠城出来なかったのは城の構造のためではなく兵員不足だったことを考えると、残念な城というよりはお城さんにとって無念の方がぴったりかもですが。
@@mcanthe さん德川江戸城は正確には「籠城できない城」です。あの広大な城域を完全に守備するには30万以上の兵力が必要(大坂冬の陣での豊臣方が約9万。江戸城は大坂城の3倍以上の面積がある。)でしょう。幕末はもちろん、最盛期の徳川家でさえそんな動員力はなく、城の規模に対して兵員不足という点では新府城と変わりません。また、仮に動員でき、弾薬兵糧も確保できたとしても、江戸城は水の手が脆弱で、神田上水や玉川上水を遮断してしまえば落城しかありません。ただし、30万も動員出来るなら出撃した方がましですがw新府城が「無念の城」というのは大いに同感です。天正壬午の乱において家康が新府城を本陣にしてくれたことで少しは無念がはれてくれればと思います。
信雄はなんか病んで放火したのかね〜
伏兵で思い出した…ゲーム「信長の野望戦国群雄伝」で美濃国の武将は大抵伏兵できる足軽隊の設定です。稲葉山城(岐阜城の別名)は足軽隊だと楽勝ですし(それが竹中半兵衛=足軽隊の理由)。
平隆盛:同意。役立たずの城というかなり挑発的な題目だけど、堅実に明石から始まるにせよ、最後は天下の安土城なりで豪華に締めくくってほしかった。安土城は普請の精巧さを含め天下の名城だけど、本能寺の変の後の混乱であっさり消失しているし。しかし、ワースト一位に選ばれた新府城は、できてもいなかったのにポンコツ呼ばわりされひどい。ただ、見ると動画主は、新府城に愛着があるようにも。武田の兵力と真田の城と戦術が結びついて、天下を窺う織田相手に奇跡の善戦があったかもしれないという残念さの裏返しなのかな。
いや、新府城はまだ未完成で、とても籠城出来る状態じゃなかったですから。未完成の城を取り上げて役立たずというのは如何な物かと。
5位見た感じで1位はメジャーな大坂城かと思ったけど最後までマニアックでちょっと嬉しい
大変勉強になりました。
ルイス・フロイスの記録によると岐阜城時代の信長は昼は麓の館で政務を執り夜になると山を登って山頂の城まで帰るといった生活が日課だったそうだ・・・
この人もっと伸び欲しいです。すごい面白いのに…僕は友達とか周りにおすすめしてます!もっと伸びますように…
なんだか定期的に見たくなるよね
個人的に残念な城と言えば難攻不落の七尾城が思い浮かびます。1度に二万人もの将兵と領民が籠城したために厠不足で衛生状態が悪化し、疫病が蔓延し城主の春王丸も病死してしまいます。
リアルに私の先祖です。七尾市田鶴浜に菩提寺があります。たしかに現地へ足を運ぶと山城です。現代の衛生面から考えると兵糧攻めにあってしまったらコレラとか赤痢が蔓延するでしょうし干殺しにもされてしまうでしょう。
五稜郭は設計時には最新技術の塊だったようですが、着工までに時間がかかり、財政難からの設計改悪なども相俟って時代遅れとなった部分も大きいようです。特に、城郭内に作る予定だった本部を函館奉行のメンツから立派な奉行所に変更させられ、その屋根が敵から視認できたことで砲撃の格好の的になってしまったという話も聞いたことあります。また、当時の欧米の軍事技術がすさまじい勢いで革新していた時期でもあるようですね。
新府城は、未完成のままだったので、ポンコツ扱いは、酷い話。
うん
今は土塁と空堀しかないけど、縄張りは要塞と言えるほど立派だね
岐阜城はどちらかと言えば、見張り台のイメージだわ。あそこから尾張方面からくる敵の位置を把握するためのほうが役に立ってる&鉄砲がなく、動員数が少ない時代なら守れないわけでもなかったのだろう。(逆に見えないところだと、マイナーだけど牧田合戦では山で浅井軍の動きが見えなくて、援軍が遅れている。)新府城は完成途中だったのと、一気に内部が瓦解したからしょうがない。
なかなか楽しい作品でした
ポンコツとは言うが、濃尾平野を見渡せて城に立てこもる前に決戦する岐阜城、実際に西国から攻められず目的を果たした明石城。ここでのポンコツの定義は「いざ城を囲まれた最終局面になると脆い城」ってことなのかな
明石城が入るなら福山城も入っておかしくない。北を除く三方向は防備が硬いが、北が酷い。北の山塊から丘が伸びてきており、北を占領されると城より高所を容易に占拠出来る。しかも、本丸がほぼ城の北端にあり、本丸を取り巻くまともな郭がない(縦深が浅い)。そのため天守北面には大砲対策で鉄板を貼り付けているが、水野家(幕府)も弱点を知りながら他に効果的な対策を講じていない予算不足だったのか最初から山陽道(城の南側)を通る大名への虚仮威しとしていたのか。いざ籠城となればまともな抗戦は出来なかったでしょうね
幕府が造った対西国大名の城はどこもそうですよね。西への守りは堅いが、どこか欠陥があるというwこないだ福山城行ったけど、天守が改装中で見れなかった(-。-;
岐阜県民です。岐阜城天守閣の水不足と疫病は納得…斎藤義龍も一時期占拠した竹中半兵衛もそれが理由で早世したんかな。あと城主の頭脳が問われるから…信長や半兵衛の地頭の良さがわかるわホンマ(両社ともIQ高いとみた)。武田信玄の名言「人は城人は生垣人は堀」がこの城にも言えるくらいマンパワーが必要かな。
何かの番組で最強城郭を考察するときに大阪城を推してた研究者が、「今なら大砲を外から撃てばあっさり落ちますけどね」って番組の主旨を完全に破壊する発言でスタジオを爆笑の渦に放り込んでいましたねぇ。歴史を見るときは「その時その状況で見ていた現実と未来」を確認するのが大事。そうしないと全部笑い話に陥るから。
現代において城郭が存在しない理由は空と大砲の性能によるものでしょうが築城して300年近くたった明治になっても落ちなかった城もあるからなぁ
@@yansono1030 そりゃ、守る方が火力が高ければ城郭なんて有ろうが無かろうが守れるだろ。西郷軍の火力が低いから落とせないだけだ。
広島城は僅か原爆一発で壊滅しましたからね。
これを見ると名城と呼ばれる熊本城がなぜ名城なのかわかるね…1四方の守り、よし2近代の火砲による攻城戦に耐える(西南戦争)3城の面積は十分、水もある4廃城にならなかった&落城しなかった!
一部の城ファンからは「過剰防衛」とも言われる素晴らしい城です。
西南戦争終結直後の謎の大火で焼失しなければ、日本一の名城は姫路城ではなく熊本城だったと思う。
当時の評価だと江戸城は別格で大阪、名古屋、熊本が真の三名城だからね。
名古屋、大阪、松本、熊本、松山、、単なる層塔型ビルディングは要らない。やはり入母屋の上に望楼を乗せたオーセンティックなスタイル、彦根、松江、犬山、安土、高知あたりが美しいね。姫路は望楼と言われてるが見た目が層塔に近いので残念。
明石城の本来の目的が明石海峡の監視やから余計に東の防備の必要性が無かったんでしょうね
明石周辺の地域は台地と平地が多いからそもそも難しい
岐阜城の麓に信長は居館を構えてたし、城としての機能はあまり無いかなと思います。何度か登ったことありますが、城に至るまでの険しさだけは他の追随を許さない気がしますね。
武田でいう躑躅ヶ崎館と要害山城の関係みたいなもんやね
居館は領主の住まい、政務の場所であって、軍事行動の建築物である城とは別にあってもおかしくないと思うが。
@@tetePenguin そうそう「人は城・人は生垣・人は堀」の思想が共通点かな。
絶対新府城あるやろと思って開いたら案の定あって満足ですわ
光秀の居城だった亀山城(京都府)本能寺の変の後亀山城廃城の命があり間違えて壊された亀山城(三重県)が一番残念
山頂の天守はさぞ雷が落ちたと思うので、大規模天守そうそう立てれないのが残念。
名古屋城天守閣は銅瓦葺の屋根に金の鯱。「雷様、どうぞ落ちてください」と言わんばかりの構造なのに、米軍の空襲で焼けるまで健在だったという不思議。やっぱり天守最上層屋根から天守台石垣まで続いていた銅製の雨どいのおかげか?
最上家改易後に次第に維持するのが難しくなって三の丸が畑にされていた山形城。
そりゃあ57万石からいきなり半分以下になって、維新直前には1/10くらいなわけですし。
山形城は左遷の城、のイメージが有ります。
新府城は遅すぎましたよね。非常に勿体無いですね。
戦火にあってないだけで、見た目だけ立派だけど実際はポンコツそうな城が他にもありそう
仙台城とかですかね…。
名古屋城はエレベーターはあるし蛍光灯が付いているし耐火構造で堅固だし見て感動しました。さすが家康様は素晴らしいと思います。売店まであって庶民にも配慮してくれています。
名古屋城の木造再建計画、どうなるんでしょうね?
いやいやいや、道三は稲葉山にロープウェイを設置しましたから。こちらの方が素晴らしい。家康殿には負けてはおらぬ。
@@etsuminansen-channel さん空襲で焼失する前の姿に完全復元したら、トイレが無くて観光には大変でしょうね。もし最上階でモヨオシたら・・w
@@user-qm8bo4qs6e さん昔岐阜城に登った時は平幹二郎さんが道三でした。
いやー熱海城なんて素晴らしいですよ温泉まで付いているしゲームで暇つぶし出来るしコンクリの耐火構造に加えて引けを取りません笑笑
現在の岐阜城は、現代人の城戸教授が設計したもので、信長には縁もゆかりも無く、歴史的価値の全く無いただの展望台です。天守を加納城に移したという御三階櫓の設計図がありながら、それを無視した当時のお役人の歴史に対する無頓着さに、憤りを隠せません。
ポリゴン家康じわじわくる
個人的にはポンコツと言うより可哀想な城って感じかな。別に手抜き工事や土台が傾くとか建てたのに自然と崩壊したわけでもないし
松前城は表は立派だけど、裏は貧相で実際そっから攻められて、箱館戦争で簡単に落城してる。
海からの備えに重きを置いてて後背の陸路から攻められて落城でしたっけ
五稜郭はたしか予算不足で本来の形で作れなかったというのもありましたがどちらにしても時代遅れでしたね
まったく関係無いけど、ニチレイの前進であった会社が日本で一番最初に製氷に成功したのが五稜郭の掘り割りだったそうです。幕末に異人館街で商売をはじめた人が肉を扱うために氷が必要になったけど、富士の氷穴は将軍専用で使えず、あちこちで氷を作って横浜に運んだが、すべて失敗(氷が運搬中に溶けた)、五稜郭は船で運べたのと、水が良かったそうで、明治天皇にも献上されて喜ばれたそうです。
新府城は、城というより武田家の常の略奪の祟りがでたみたいに、甲州征伐のときにも浅間山の噴火や防御力高い城で戦っていた勝頼弟が火縄銃あたりすぐ戦死するとか信長に言われるぐらいにとことこ運がないですからね。上杉家と組めば上杉お家騒動、武田信玄も坊主にさせた四男だから朝廷から官位買ってないから家臣よりも身分が下なために家臣が裏切りしても官位持ちの家臣だと家臣のほうが官位上だから下克上にならず裏切り扱いにならなかったりで家臣が裏切りやすかったりと信玄のミスも勝頼にのしかかりましたからね。
全て機械やコンピュータもなくて、人力で組んだと考えたら充分凄いと思いますよ。少なくとも私達現代人では、同じ条件下なら間違いなく築くことは出来ません。
小田原城などが良い例だが、昔は百姓兵を農繁期には帰す必要があったので長期の包囲戦が出来なかった。籠城側はそれまで粘れば勝ちだったが、秀吉などの常備軍には籠城は意味がなく援軍もなければ確実に落ちる。
秀吉さんの伏見城天守跡地が明治天皇陵になったのは伏見が大好きだったのでしょうね。(´・ω・`)
しかし鳥居元忠が伏見城籠城した結末からしたら役割は
明石城は海まで縄張りにしている。姫路の池田家が鳥取に移封され播磨が小区分化された為に作られた。譜代大名が維持するには大きな城です。東をケアしなければならない状況は幕府がほぼ崩壊していると思われます。東を強化すれば、譜代大名が入る様になった姫路城と共に維持が困難になるでしょうw
ナレーターさんの声、いいですね!
「五稜郭」…。未完の城だからね。1ヶ所の半月堡(馬出堡)は、本当は5ヶ所になければならず、土塁も未完成。台場も1ヶ所ではなく6~7ヶ所ぐらい有って、(五稜郭並みの築城の)四稜郭の様な支城が5~6ヶ所に有って、初めて「城」として機能する「城」だと思います。
大砲の登場で城郭は完全に陳腐化したからねぇ観光名所としてはかなりの効果だけど
熊本城は明治の時代になっても機能しましたよ。難攻不落でしたw西南戦争時に西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻を城郭を事前に燃やして守り抜いてるはずです。守備側の政府軍が幕末に幕府側最強を謳われた元会津藩士を中心に構成されていたのも歴史を感じますね。
伏見城のジェームズボンド並の代替わりよw
岐阜城は、権威誇示&見張台としての役割で、長良川と木曽川を天然の堀にして、迎撃をする目論見だったのでは。事実、関ヶ原の前兆戦で、迎撃していたはず。
観音寺城はいかがですか?
こんにちは残念・・・というワードで明石城あるだろうなーと思ったら5位にランクインやっぱりなぁと思いました小さいころから見てたので愛着はあります☆震災の時はちゃんと修復もされて明石の人には愛されているはず!!だと思います。
現代の残念すぎたお城といえば「首里城」、ポンコツ防火装置にポンコツ管理会社。死人が出なかったのが唯一の救い。
首里城の別名、中国🇨🇳紫禁城のミニチュア版(笑)。
@@user-uv8tx3on6z ネズミーランドと同じく戦争用の城じゃないのでしかたなし。
新婚旅行の思い手が…
福山城も、北側の守りが手薄で天守閣の北側に鉄板を貼ってあった。
6:44 岐阜城のポンコツさ・・・実に参考になったわい。☝☝☝☝☝☝☝☝
五稜郭は他のコメントにもあるように確かにその形の構想をした時代では時期的に合っていたんです。ただ着工と時間が更にかかり最終的に完成した時はほぼ意味がない形の城となってしまっていたのが1番致命的なミスだと思う。
たしかに明石城は東からは攻めやすいと思いますね。地元なので小さな頃からあの辺りは良く知ってますが、東からは高低差がないですから、たぶん力攻めでも押し切れると思いますね。
明石城は主家徳川からの援軍ありきのお城小笠原氏単独では主郭部分だけを守備して徳川の後詰めを待つ徳川からに援軍を得て守備するときにはその援軍の規模に応じて弱点の東側を拡張し外堀を掘り御土居を盛る城の規模を可変的に変えていく構造と思われます内の近所にも日出藩暘谷城が有ってこの城は敵来攻予想方向の西側がほぼ無防備で城主木下氏の寄親の細川氏主導で造られ細川氏の援軍ありきで造られたと言われています同じような時代に同じコンセプトで造られたお城と思います
@@matudono なるぼどね。とはいえ、マジでド素人でもここ弱点てわかるのも笑えるし、幕末は親藩のくせに戦わず新政府軍に恭順ですからね、何のために城を作ってたのかww
おそらく明石城は未完成、或いは計画変更された城だと思います。本来は柿本神社の辺りまでを防衛線(城内?)として構想されていたと思われます。「戦国」が完全に終焉したので築城計画が変更されたのではないでしょうか。松江城、仙台城、伊賀上野城なども未完といわれています。
未完と言うより先にも書いたように徳川氏からの援軍規模によってフレキシブにギャバが替えられる仕様じゃないかと考えてますうちの近所の豊後日出藩の暘谷城も主要守備方向の西側ががら空き状態で完成しています築城時に寄親である細川氏が全面協力で完成しており関ヶ原直後の細川氏の最前線の城として築城していますで考えられるのが元々、細川からの援軍ありきで築城されているのではないかということ明石城も徳川の援軍ありきで築城されていると考えれば似たような構造が理解できます確か、北関東に一方向がら空きのお城があった記憶それも徳川将軍からの援軍の規模により大きくできる構造と思えば同じコンセプトのお城だと思われます豊臣大阪城も同じコンセプトかと
@@matudono さんおっしゃることも一理あると思います。ただ、暘谷城は絶妙の立地だと思います。東は河口(湾?)、南は海、北はJR線沿いに川とため池があり、そのまま西に向かって水田地帯が伸びていました。城と城下は海岸段丘上に築かれていますが城外を西にいくにつれ幅が狭くなり、「八日市」の交差点あたりでは南北幅が120mほどしかありません。「西側はがらあき」とおっしゃるほど手薄ではないように思えます。もちろん万一の時細川家からの援軍も期待できますが、当時の日出にとっての仮想敵は近隣に存在していません。援軍が必要なほどの大敵は想定していないので決して「援軍ありき」の城ではなく充分に相応な(石高からすると相応以上の)城郭だと思います。家柄のおかげでしょう。
五稜郭好きですが函館のシンボルでもあり城数のない北海道の誇りです😅
岐阜城はでっかい見張り櫓ですからね。当時は海まで見えていたので尾張から兵が来ればすぐにわかる。そのため迎撃は川を挟んで対峙というのが美濃防衛の基本戦術。竹中半兵衛に16人で落とされた話が有名ですが元々は安藤守就が反乱を起こして半兵衛はその部下として動いていたわけですから半兵衛が16人で落としたというのはちょっと違うと思います。
愛媛が地元なんですが、松山城、今治城、大洲城、宇和島城はどうでしょうか?あまり難攻不落には思えませんが。
まあ、あまり難攻不落ではありませんね。
伊予はもともと水軍の多い地域。陸上の城は重視されていなかったのかもしれませんね。
天下泰平の世にあまり堅固な城を作ると幕府から謀反の疑いありと見られる時代だからあえて堅固な城を作らなかったんだろうね。そういう城はたくさんあるよ。伊達政宗の仙台城とか。それに天下泰平の時代に堅固な城なんて不便でしょ。守りが固い城は平時には移動するだけでも一苦労だから、時代に合わないという事情もあったんだと思う。
その中に現存天守が二つも入ってるのが凄い!
@@2romekiti996 さん同感です。高知城、丸亀城も現存天守ですから、四国の天守保有率は全国の1/3にもなります。すごいですよねぇ。
岐阜城を半兵衛が攻略できたのは、別に守りづらいとかではない。半兵衛は別に敵兵でなく家臣だったし
城主の龍興がボンクラだったし。
支城というのが有りまして群馬県の 尻焼温泉に行く道路の道すがら真田氏の砦の看板が結構有ります籠城も楽ではないと思います
城は言わば囲い、名将が指揮すれば柵一筋でも敵を撃退出来る、また凡将が指揮すればどんなに柵を廻らした城でも、攻め手が名将なら呆気なく落ちる、孫氏の時代から、同じ事。
観音寺城も規模はデカいが防御面は貧弱でよく落城してましたね今のところ名前が挙がってないので案外です
というか六角の戦い方が甲賀でゲリラだし、、
昔、明石に住んでいて、明石公園へは自電車ですぐだったからほぼ毎日遊びに行ってたな☺️
黒沢明監督の7人の侍という映画を知っていますか。映画の中でいい城というのは、一か所必ず弱い所がある。と知勇勘兵衛のセリフがあるのですが、明石城の場合、残念なのではなく名城の証かも。是非一度7人の侍を見てみることをオススメします。
岐阜城は信長、信忠、時代で外部に多くの情報があるから落としやすいのは仕方ないと思う
そうですね。最初は落とすのにすごいかかったらしいけど、何回も攻略されたせいでどう落とせば簡単かバレてしまったことも大きいよね。
@@kikokikokun さらに家臣の謀反で落ちる弱点もさらけ出した…「人は城/人は池垣/人は堀」を斎藤義龍が心がけてりゃエエけど竹中半兵衛を侮辱し怒らせたからアウトww美濃三人衆も見限るわなぁ(安藤守就は半兵衛の味方)。斎藤道三「我が子らは将来織田信長に降伏するであろう」発言も稲葉山城の弱点が分かってたで。知らんけど。
@@hirataz3 さま義龍の子の龍興ですね。義龍はなかなかの名将ですが、35歳で死んでしまいました。
@@user-yl9ek9le7m さんへ:×義龍⇒〇竜興(失礼)。竜興が半兵衛の能力を高く見てたら悲劇はなかったですよホンマ。義龍の早世も不運だと思います。
岩殿城は大月にありますね
若き日の小遊三さんがビデオで出迎えてくれますw
今のゲームは知らんけど、小さい頃やったノブヤボで七尾城がやたら強かったのが謎やったちな七尾市生まれ
遊園地はなくなって、建物は残ってますが耐震基準が満たせずに立ち入り禁止の伏見城。将来どうなるんでしょうかねぇ。。?
新府城は確かに残念かも知れません。地元山梨では武田縁の城跡というよりも、心霊スポットとして有名なくらいですからね。
知名度の割に思ってたんと違うかったNo1は清洲城
埼玉の天神山城はランクインしなかったのかぁ残念だぁ
なんで、こんなに城に惹かれるんだろう?
それは、人間のことを好きだから。 強い男たちが人生をオールインして張り合う、その気持ちが形となって残ったのが城跡なんだと思う。
城プロ殿必見の動画ですね。
ポンコツはちょっと語弊があるかな。。。伏見キャッスルランドは倒産しましたね。もう建物の中にも入れない。見えるけど幻の城になってしまいました。行っておいてよかった。
薩英戦争で城として認識されず英軍は誤認して近隣の寺に砲弾を撃たれた鶴丸城もある意味残念。維新公に止められたのに海から砲撃が届くとこに忠恒が築城しちゃった。
五稜郭に必要だったのは迫撃砲だった。新政府軍を蹴散らしたかったなぁ…。
明石城、10万石程度の割に…弘前城(やぐら)と色々似ていますね。
安土城もかなり残念。
安土城はどっちかと言うと権威の象徴的な物だったからなぁ
でもそれ以上に残念なのは、安土城を敵軍である明智軍が攻めて来たと勘違いし、不本意にも燃やしてしまうと言った失態を犯した、信長の次男の信雄の方だったけどね…。
最近の研究では安土城も実は相当軟弱だったと言う事が判明している。安土城は天下統一を見越して建てた城だから守りの事は考えてなかったのかも?
だって山麓から天守まで一直線で道が伸びてたっていうじゃない。まるで参道ですよね
天守閣がそびえていたのは六年くらいかな。
信長様の安土桃山城があったら、人気のお城No.1に選ばれていたかもしtれませんね。
私のご先祖様の築いたお城が岐部城という城が大分県九重町にあります
躑躅ヶ崎館から新府城に移るのは現実的だし分かるけど、この頃から既に臣下達の間では不満が募っていたらしいしね
お金かかりますからね。
明石城は近くにある城です。僕は西明石駅の近くに住んでいます。
岐阜城、今はロープウェイだけど、昔は大変だったろうなぁ。
岐阜城はいってみたけど水の確保が困難だと思った。あと、チャートで硬いから建物や道を普請するのはたいへんだったろうと。なお、1位のは泥流層の上だから開削は比較的容易だったと思う。まあ、完成前に侵攻を受けて放棄しちゃったからなあ。そりゃ、役に立たなかったわ。
地下水の井戸は無くても、岩肌に生えている下草や苔が空気中から吸収したり結露した水が貯まる水場があったかもしれませんね。
新府城があまり活躍出来なかったのは武田氏が落ち目になったからであってタイミングの問題なのでは
水と最後の脱出が足りないのは周りに援軍が無いと無理だわ
新府城は既に謀反を決めた穴山が木曽の負担増と本家を経済破綻させるため、更には穴山にとって邪魔な存在の昌幸に命じた城よ。
一見すると3層の貧相な城、弘前城天守は実は辰巳櫓。本来は5層の大きい天守があった。しかし落雷が直撃し火薬に引火爆発炎上。時は江戸時代、城の新規築城が謀反の恐れあり、と認められない時代。天守がないのは恥ずかしい、と築城を幕府に嘆願。実はかつて家康の養女、満天姫が輿入れしている関係上関係が良好なため最初の築城時も人的支援があったと言われる。しかし他の大名の手前天守再建を認める訳にはいかないので(辰巳櫓の改築)名義で認めた、と言われています。ちなみに初代藩主津軽為信は秀吉、家康どちらにも取り入っており、石田三成の息子が関ヶ原敗戦後津軽に逃げ延び名前を変え藩士となり、大石内蔵助の息子も身を隠していた寺から津軽まで逃れて藩士となった。奥羽越列藩同盟からあっさり脱退し新政府側に付き、最前線基地となり戦利品替わりに廃藩置県後実質的に分割された南部領の北側を合併して現在の青森県が出来た、と言われてます。
前橋城(酒井氏時代)「利根川を天然の堀として、河岸段丘上に城と城下町作るんゴ」「ぎゃぁぁぁ、利根川が崖を侵食してきて城が崩れはじめたんゴ」「老中首座やからコネで姫路に国替えするわ、越前松平はん知行交換しようや」(越前松平氏時代)「もう侵食ヤバすぎてあかんわ。前橋放棄して、川越に陣屋を作って移るんゴ」「開国したら生糸貿易で大儲けした領民がお城を建て替えてくれたんやで。前橋に戻るんゴ」「去年、前橋に戻ってきたとこなのに、幕府が大政奉還したぞファ」「川越から戻ってまだ4年なのに、廃藩置県で城を新政府に明け渡さなあかんくなった涙」(明治以降)「とりあえず、前橋県の県庁になったんで」「上野一国が一県に再編されるが、高崎県がほかを吸収する形で高崎城に県庁設置されるらしいで」「高崎県て名前はまず気に食わんな。陳情して群馬県にさせよう」「高崎城が軍の管轄になって連隊置かれるで、これを機に前橋に県庁持ってこさすんゴ」「と、思ってたら県庁が熊谷に移転した・・・」「と、思ったら県庁がまた高崎の町に仮移転したぞ」「ワイら生糸で相変わらずガッポリや。県庁、持ってこさすんに金に糸目付けないで、 県令はん、病院も学校も全部自前で用意さっしゃりますで」「見事、前橋城に県庁を持ってきたぞ。高崎の奴らがギャァギャァうるせぇな」それから100年・・・「高崎が城跡に21階建ての新市庁舎作るらしいな。県庁を33階建ての超高層に建て替えようや 都庁舎に次ぐ高さ、県庁舎では全国1の高さやで」
BGMが知りたい…
岐阜城は立て籠るための守りの城ではない、攻める為の城。
いち早く敵の動きを発見して自軍に有利な場所で迎え撃つ時間を産み出すための立地。登ればわかるが濃尾平野一帯はもちろん関ヶ原まで一望できる。
いかに信長が京都を狙っていたかよくわかる。
まあ ポンコツではあるんだろうが、当時の土木技術でこれだけの遺構を築いたのは素直に凄い。重機なんてない時代だからね。
岐阜城は映像でも言われてる様に籠城には不向き。だから信長は「見せる城」として築き、自分の力を誇示するための城です。だから城に近寄らせない戦法を取るつもりだったのでしょう。現に、信長時代は美濃は安泰で攻め込まれることは無かった。
稲葉山城時代も難攻不落と言われながら
竹中半兵衛に搦手(裏口)攻められてあっさり落ちてるもんな
6度も落城といってもまともに戦ったのは信長の時と関ヶ原の時くらいですしね。
大河ドラマ「国盗り物語」では尾張の織田信秀の猛攻を斎藤道三が何度も退け、難攻不落の名城として描かれていました。
@@user-sy1ow2bl4p さん
岐阜城は敵陣容や配置を見るには絶好の城。道三は城外に伏兵(むしろこっちが主力)を配置して撃退したのです。
あとはセンゴクで言及されてたけど、三方ヶ原の戦いの後ノッブは岐阜城を一度捨てたらしいしw
地元のお城が出てきて、知らなかったことが知れて益々好きになりました😍
城って援軍来るまで時間稼ぎするためのものであって、援軍も無いのに籠城したらどんな城でも落ちるよね
荒木村重の有岡城とかまさにそれ。村重自身が城を抜け出して毛利に援軍の依頼をしても断られたらしいし
兵站が前提条件となるでしょう。
「援軍が来ないと城は落ちる」ってよく聞くけど、守り切った城たくさんあるよね
なんでこんな説が生まれたんだろ?
攻城戦の天才だった秀吉が攻め手なら別だけど
@@user-zm2kx6uy8b 第一次上田合戦時の沼田城とかです
@@user-zm2kx6uy8b いやいや石川数正が秀吉に寝返ったからでしょ
また結局真田を潰したところで沼田は北条に持ってかれるしそこまで徳川方にやる気があったのかってのもあるし 信濃で大活躍してた依田信蕃が大井攻めで戦死してるのもでかいと思う
信長は基本、籠城策を採らないから。「籠城に不向き」という弱点は、案外と問題じゃなかったのかも知れない
コロナ禍になる前は息子達と、よく日本の城を見に行きました。富山城や金沢城や彦根城、大阪城、名古屋城、岐阜城、長浜城、大野城、丸岡城、勝山城に行きました。コロナ禍が、いつか終わったら竹田城跡や姫路城にも行きたいな。🏯
まあ城も道具の一つとも言えるわけで、結局使いようだよね。
大坂城や小田原城みたいになまじ立派過ぎるとマインドが保守的になり戦略を見誤ることもある。
五稜郭が駄目なことにあとから気がついたわけではないです
五稜郭で戦うことは不可能なことはすでにわかっており、近くの草原が最後の戦いの場所になります。
だから五稜郭が残っています
関係ないけど、岐阜城からの景色は絶景だった。
名古屋の超高層ビル群がよく見えました。360°の大展望でしたね!
景色も良く、歴史を感じることができ、最高の場所です。岐阜に行くと必ず行きます。長良川温泉に浸かり、稲葉山に登り、夜は金津園。
どんな名城でも環境次第では残念な城になってしまう可能性があると思う。
城は色々な意味を持って作られてますからね 遠くまで見渡せる情報源 守り抜いて時期を見る時間稼ぎ 攻撃のタイミングと兵を常備する詰所 権力誇示にて威圧する 等々 時代に沿って意味違いに作られてることが大切ですね
人は城、人は石垣、人は堀・・
岐阜城は物見櫓としては最高だからね
あそこからだとかなり遠くまで見渡せて敵の配置や陣容がよく分かる
だから守りづらいと分かっててもあの場所に城作って守るしかなかった
そうですよね。
現地に行けばよく分かる。
それにこの動画を作った人は時代背景などまったく分かっていないのでしょう。
信長時代はここに籠って守るなんて必要はなかった。
ポケモンをやろう
@@bb4884 写真でしか見たことないですけど実際高いですか?
道三も馬鹿じゃ無いしね。金華山だけぐるり平地の中の山。4人で見張れば1時間前に侵入、進軍に気が付く。
しかしながら、私は無類のポンコツ、住宅もポンコツ。どの城、大名と比べても私よりポンコツは居ない。一条兼定以下。
自分がポンコツって認識できた時こそ開眼の瞬間。ポンコツに期待すんなよってサラっと言える。すなわち楽。
岐阜城の解説は酷い。山城なんてそういうものだし。織田信孝はあっさり開城なんてしてない。
なんかわからないが、どれも工期がめちゃくちゃ早い。重機も無いのにすごいなマンパワー。
岐阜城の籠城方法は城内に立て籠もるのではなく、城外に伏兵を置き攻城側を挟撃するのが正しい方法。山上からは敵の布陣が丸見えになるため伏兵を配置/指揮しやすい。斎藤道三はこの方法で敵(織田信秀ら)を撃退している。
また、長良川の水運を使って援軍を呼びやすいという利点も。(信濃の海津城も千曲川の水運を利用していた)
新府城のように「籠城しなかった」が「残念」の理由になるのであれば、徳川大坂城や徳川江戸城が入っていても良いと思う。
愚かな息子(織田信雄)のせいで理由もなく焼かれてしまった安土城が、最も「(本来の意味での)残念」であると思う。
籠城しなかった、のではなく出来ずに勝頼自ら焼き落とすしかなかったので、江戸城とは違うかなと思います。籠城出来なかったのは城の構造のためではなく兵員不足だったことを考えると、残念な城というよりはお城さんにとって無念の方がぴったりかもですが。
@@mcanthe さん
德川江戸城は正確には「籠城できない城」です。あの広大な城域を完全に守備するには30万以上の兵力が必要(大坂冬の陣での豊臣方が約9万。江戸城は大坂城の3倍以上の面積がある。)でしょう。幕末はもちろん、最盛期の徳川家でさえそんな動員力はなく、城の規模に対して兵員不足という点では新府城と変わりません。
また、仮に動員でき、弾薬兵糧も確保できたとしても、江戸城は水の手が脆弱で、神田上水や玉川上水を遮断してしまえば落城しかありません。
ただし、30万も動員出来るなら出撃した方がましですがw
新府城が「無念の城」というのは大いに同感です。
天正壬午の乱において家康が新府城を本陣にしてくれたことで少しは無念がはれてくれればと思います。
信雄はなんか病んで放火したのかね〜
伏兵で思い出した…ゲーム「信長の野望戦国群雄伝」で美濃国の武将は大抵伏兵できる足軽隊の設定です。稲葉山城(岐阜城の別名)は足軽隊だと楽勝ですし(それが竹中半兵衛=足軽隊の理由)。
平隆盛:
同意。役立たずの城というかなり挑発的な題目だけど、堅実に明石から始まるにせよ、最後は天下の安土城なりで豪華に締めくくってほしかった。
安土城は普請の精巧さを含め天下の名城だけど、本能寺の変の後の混乱であっさり消失しているし。
しかし、ワースト一位に選ばれた新府城は、できてもいなかったのにポンコツ呼ばわりされひどい。ただ、見ると動画主は、新府城に愛着があるようにも。武田の兵力と真田の城と戦術が結びついて、天下を窺う織田相手に奇跡の善戦があったかもしれないという残念さの裏返しなのかな。
いや、新府城はまだ未完成で、とても籠城出来る状態じゃなかったですから。
未完成の城を取り上げて役立たずというのは如何な物かと。
5位見た感じで1位はメジャーな大坂城かと思ったけど最後までマニアックでちょっと嬉しい
大変勉強になりました。
ルイス・フロイスの記録によると岐阜城時代の信長は昼は麓の館で政務を執り
夜になると山を登って山頂の城まで帰るといった生活が日課だったそうだ・・・
この人もっと伸び欲しいです。
すごい面白いのに…
僕は友達とか周りにおすすめしてます!
もっと伸びますように…
なんだか定期的に見たくなるよね
個人的に残念な城と言えば難攻不落の七尾城が思い浮かびます。
1度に二万人もの将兵と領民が籠城したために厠不足で衛生状態が悪化し、
疫病が蔓延し城主の春王丸も病死してしまいます。
リアルに私の先祖です。七尾市田鶴浜に菩提寺があります。
たしかに現地へ足を運ぶと山城です。現代の衛生面から考える
と兵糧攻めにあってしまったらコレラとか赤痢が蔓延するで
しょうし干殺しにもされてしまうでしょう。
五稜郭は設計時には最新技術の塊だったようですが、着工までに時間がかかり、財政難からの設計改悪なども相俟って時代遅れとなった部分も大きいようです。特に、城郭内に作る予定だった本部を函館奉行のメンツから立派な奉行所に変更させられ、その屋根が敵から視認できたことで砲撃の格好の的になってしまったという話も聞いたことあります。
また、当時の欧米の軍事技術がすさまじい勢いで革新していた時期でもあるようですね。
新府城は、未完成のままだったので、ポンコツ扱いは、酷い話。
うん
今は土塁と空堀しかないけど、縄張りは要塞と言えるほど立派だね
岐阜城はどちらかと言えば、見張り台のイメージだわ。
あそこから尾張方面からくる敵の位置を把握するためのほうが役に立ってる&鉄砲がなく、動員数が少ない時代なら守れないわけでもなかったのだろう。
(逆に見えないところだと、マイナーだけど牧田合戦では山で浅井軍の動きが見えなくて、援軍が遅れている。)
新府城は完成途中だったのと、一気に内部が瓦解したからしょうがない。
なかなか楽しい作品でした
ポンコツとは言うが、濃尾平野を見渡せて城に立てこもる前に決戦する岐阜城、実際に西国から攻められず目的を果たした明石城。
ここでのポンコツの定義は「いざ城を囲まれた最終局面になると脆い城」ってことなのかな
明石城が入るなら福山城も入っておかしくない。北を除く三方向は防備が硬いが、北が酷い。北の山塊から丘が伸びてきており、北を占領されると城より高所を容易に占拠出来る。しかも、本丸がほぼ城の北端にあり、本丸を取り巻くまともな郭がない(縦深が浅い)。そのため天守北面には大砲対策で鉄板を貼り付けているが、水野家(幕府)も弱点を知りながら他に効果的な対策を講じていない
予算不足だったのか最初から山陽道(城の南側)を通る大名への虚仮威しとしていたのか。いざ籠城となればまともな抗戦は出来なかったでしょうね
幕府が造った対西国大名の城はどこもそうですよね。西への守りは堅いが、どこか欠陥があるというw
こないだ福山城行ったけど、天守が改装中で見れなかった(-。-;
岐阜県民です。岐阜城天守閣の水不足と疫病は納得…斎藤義龍も一時期占拠した竹中半兵衛もそれが理由で早世したんかな。あと城主の頭脳が問われるから…信長や半兵衛の地頭の良さがわかるわホンマ(両社ともIQ高いとみた)。
武田信玄の名言「人は城人は生垣人は堀」がこの城にも言えるくらいマンパワーが必要かな。
何かの番組で最強城郭を考察するときに大阪城を推してた研究者が、「今なら大砲を外から撃てばあっさり落ちますけどね」って番組の主旨を完全に破壊する発言でスタジオを爆笑の渦に放り込んでいましたねぇ。
歴史を見るときは「その時その状況で見ていた現実と未来」を確認するのが大事。そうしないと全部笑い話に陥るから。
現代において城郭が存在しない理由は空と大砲の性能によるものでしょうが築城して300年近くたった明治になっても落ちなかった城もあるからなぁ
@@yansono1030
そりゃ、守る方が火力が高ければ城郭なんて有ろうが無かろうが守れるだろ。西郷軍の火力が低いから落とせないだけだ。
広島城は僅か原爆一発で壊滅しましたからね。
これを見ると名城と呼ばれる熊本城がなぜ名城なのかわかるね…
1四方の守り、よし
2近代の火砲による攻城戦に耐える(西南戦争)
3城の面積は十分、水もある
4廃城にならなかった&落城しなかった!
一部の城ファンからは「過剰防衛」とも言われる素晴らしい城です。
西南戦争終結直後の謎の大火で焼失しなければ、
日本一の名城は姫路城ではなく熊本城だったと思う。
当時の評価だと江戸城は別格で大阪、名古屋、熊本が真の三名城だからね。
名古屋、大阪、松本、熊本、松山、、単なる層塔型ビルディングは要らない。
やはり入母屋の上に望楼を乗せたオーセンティックなスタイル、彦根、松江、犬山、安土、高知あたりが美しいね。
姫路は望楼と言われてるが見た目が層塔に近いので残念。
明石城の本来の目的が明石海峡の監視やから余計に東の防備の必要性が無かったんでしょうね
明石周辺の地域は台地と平地が多いからそもそも難しい
岐阜城の麓に信長は居館を構えてたし、城としての機能はあまり無いかなと思います。何度か登ったことありますが、城に至るまでの険しさだけは他の追随を許さない気がしますね。
武田でいう躑躅ヶ崎館と要害山城の関係みたいなもんやね
居館は領主の住まい、政務の場所であって、軍事行動の建築物である城とは別にあってもおかしくないと思うが。
@@tetePenguin そうそう「人は城・人は生垣・人は堀」の思想が共通点かな。
絶対新府城あるやろと思って開いたら案の定あって満足ですわ
光秀の居城だった亀山城(京都府)
本能寺の変の後亀山城廃城の命があり間違えて壊された亀山城(三重県)が一番残念
山頂の天守はさぞ雷が落ちたと思うので、大規模天守そうそう立てれないのが残念。
名古屋城天守閣は銅瓦葺の屋根に金の鯱。
「雷様、どうぞ落ちてください」と言わんばかりの構造なのに、米軍の空襲で焼けるまで健在だったという不思議。やっぱり天守最上層屋根から天守台石垣まで続いていた銅製の雨どいのおかげか?
最上家改易後に次第に維持するのが難しくなって三の丸が畑にされていた山形城。
そりゃあ57万石からいきなり半分以下になって、維新直前には1/10くらいなわけですし。
山形城は左遷の城、のイメージが有ります。
新府城は遅すぎましたよね。
非常に勿体無いですね。
戦火にあってないだけで、見た目だけ立派だけど実際はポンコツそうな城が他にもありそう
仙台城とかですかね…。
名古屋城はエレベーターはあるし蛍光灯が付いているし耐火構造で堅固だし見て感動しました。さすが家康様は素晴らしいと思います。売店まであって庶民にも配慮してくれています。
名古屋城の木造再建計画、どうなるんでしょうね?
いやいやいや、道三は稲葉山にロープウェイを設置しましたから。こちらの方が素晴らしい。家康殿には負けてはおらぬ。
@@etsuminansen-channel さん
空襲で焼失する前の姿に完全復元したら、トイレが無くて観光には大変でしょうね。
もし最上階でモヨオシたら・・w
@@user-qm8bo4qs6e さん
昔岐阜城に登った時は平幹二郎さんが道三でした。
いやー熱海城なんて素晴らしいですよ温泉まで付いているしゲームで暇つぶし出来るしコンクリの耐火構造に加えて引けを取りません笑笑
現在の岐阜城は、現代人の城戸教授が設計したもので、信長には縁もゆかりも無く、歴史的価値の全く無いただの展望台です。
天守を加納城に移したという御三階櫓の設計図がありながら、それを無視した当時のお役人の歴史に対する無頓着さに、憤りを隠せません。
ポリゴン家康じわじわくる
個人的にはポンコツと言うより可哀想な城って感じかな。
別に手抜き工事や土台が傾くとか建てたのに自然と崩壊したわけでもないし
松前城は表は立派だけど、裏は貧相で実際そっから攻められて、箱館戦争で簡単に落城してる。
海からの備えに重きを置いてて後背の陸路から攻められて落城でしたっけ
五稜郭はたしか予算不足で本来の形で作れなかったというのもありましたがどちらにしても時代遅れでしたね
まったく関係無いけど、ニチレイの前進であった会社が日本で一番最初に製氷に成功したのが五稜郭の掘り割りだったそうです。幕末に異人館街で商売をはじめた人が肉を扱うために氷が必要になったけど、富士の氷穴は将軍専用で使えず、あちこちで氷を作って横浜に運んだが、すべて失敗(氷が運搬中に溶けた)、五稜郭は船で運べたのと、水が良かったそうで、明治天皇にも献上されて喜ばれたそうです。
新府城は、城というより武田家の常の略奪の祟りがでたみたいに、甲州征伐のときにも浅間山の噴火や防御力高い城で戦っていた勝頼弟が火縄銃あたりすぐ戦死するとか信長に言われるぐらいにとことこ運がないですからね。
上杉家と組めば上杉お家騒動、武田信玄も坊主にさせた四男だから朝廷から官位買ってないから家臣よりも身分が下なために家臣が裏切りしても官位持ちの家臣だと家臣のほうが官位上だから下克上にならず裏切り扱いにならなかったりで家臣が裏切りやすかったりと信玄のミスも勝頼にのしかかりましたからね。
全て機械やコンピュータもなくて、人力で組んだと考えたら充分凄いと思いますよ。
少なくとも私達現代人では、同じ条件下なら間違いなく築くことは出来ません。
小田原城などが良い例だが、昔は百姓兵を農繁期には帰す必要があったので長期の包囲戦が出来なかった。籠城側はそれまで粘れば勝ちだったが、秀吉などの常備軍には籠城は意味がなく援軍もなければ確実に落ちる。
秀吉さんの伏見城天守跡地が明治天皇陵になったのは伏見が大好きだったのでしょうね。(´・ω・`)
しかし鳥居元忠が伏見城籠城した結末からしたら役割は
明石城は海まで縄張りにしている。
姫路の池田家が鳥取に移封され播磨が小区分化された為に作られた。
譜代大名が維持するには大きな城です。
東をケアしなければならない状況は幕府がほぼ崩壊していると思われます。
東を強化すれば、譜代大名が入る様になった姫路城と共に維持が困難になるでしょうw
ナレーターさんの声、いいですね!
「五稜郭」…。
未完の城だからね。
1ヶ所の半月堡(馬出堡)は、本当は5ヶ所になければならず、土塁も未完成。
台場も1ヶ所ではなく6~7ヶ所ぐらい有って、(五稜郭並みの築城の)四稜郭の様な支城が5~6ヶ所に有って、初めて「城」として機能する「城」だと思います。
大砲の登場で城郭は完全に陳腐化したからねぇ
観光名所としてはかなりの効果だけど
熊本城は明治の時代になっても機能しましたよ。難攻不落でしたw
西南戦争時に西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻を城郭を事前に燃やして守り抜いてるはずです。
守備側の政府軍が幕末に幕府側最強を謳われた元会津藩士を中心に構成されていたのも歴史を感じますね。
伏見城のジェームズボンド並の代替わりよw
岐阜城は、権威誇示&見張台としての役割で、長良川と木曽川を天然の堀にして、迎撃をする目論見だったのでは。
事実、関ヶ原の前兆戦で、迎撃していたはず。
観音寺城はいかがですか?
こんにちは
残念・・・というワードで
明石城あるだろうなーと思ったら5位にランクイン
やっぱりなぁと思いました
小さいころから見てたので愛着はあります☆
震災の時はちゃんと修復もされて明石の人には愛されているはず!!だと思います。
現代の残念すぎたお城といえば「首里城」、ポンコツ防火装置にポンコツ管理会社。
死人が出なかったのが唯一の救い。
首里城の別名、中国🇨🇳紫禁城のミニチュア版(笑)。
@@user-uv8tx3on6z ネズミーランドと同じく戦争用の城じゃないのでしかたなし。
新婚旅行の思い手が…
福山城も、北側の守りが手薄で天守閣の北側に鉄板を貼ってあった。
6:44 岐阜城のポンコツさ・・・実に参考になったわい。☝☝☝☝☝☝☝☝
五稜郭は他のコメントにもあるように確かにその形の構想をした時代では時期的に合っていたんです。ただ着工と時間が更にかかり最終的に完成した時はほぼ意味がない形の城となってしまっていたのが1番致命的なミスだと思う。
たしかに明石城は東からは攻めやすいと思いますね。地元なので小さな頃からあの辺りは良く知ってますが、東からは高低差がないですから、たぶん力攻めでも押し切れると思いますね。
明石城は主家徳川からの援軍ありきのお城
小笠原氏単独では主郭部分だけを守備して徳川の後詰めを待つ
徳川からに援軍を得て守備するときには
その援軍の規模に応じて弱点の東側を拡張し
外堀を掘り御土居を盛る
城の規模を可変的に変えていく構造と思われます
内の近所にも
日出藩暘谷城が有って
この城は敵来攻予想方向の西側がほぼ無防備で
城主木下氏の寄親の細川氏主導で造られ
細川氏の援軍ありきで造られたと言われています
同じような時代に
同じコンセプトで造られたお城と思います
@@matudono
なるぼどね。
とはいえ、マジでド素人でもここ弱点てわかるのも笑えるし、幕末は親藩のくせに戦わず新政府軍に恭順ですからね、何のために城を作ってたのかww
おそらく明石城は未完成、或いは計画変更された城だと思います。
本来は柿本神社の辺りまでを防衛線(城内?)として構想されていたと思われます。
「戦国」が完全に終焉したので築城計画が変更されたのではないでしょうか。
松江城、仙台城、伊賀上野城なども未完といわれています。
未完と言うより
先にも書いたように
徳川氏からの援軍規模によって
フレキシブにギャバが替えられる仕様じゃないかと考えてます
うちの近所の豊後日出藩の暘谷城も
主要守備方向の西側ががら空き状態で完成しています
築城時に寄親である細川氏が全面協力で完成しており
関ヶ原直後の細川氏の最前線の城として築城しています
で考えられるのが
元々、細川からの援軍ありきで築城されているのではないかということ
明石城も徳川の援軍ありきで築城されていると考えれば
似たような構造が理解できます
確か、北関東に一方向がら空きのお城があった記憶
それも徳川将軍からの援軍の規模により大きくできる構造と思えば
同じコンセプトのお城だと思われます
豊臣大阪城も同じコンセプトかと
@@matudono さん
おっしゃることも一理あると思います。
ただ、暘谷城は絶妙の立地だと思います。
東は河口(湾?)、南は海、北はJR線沿いに川とため池があり、そのまま西に向かって水田地帯が伸びていました。城と城下は海岸段丘上に築かれていますが城外を西にいくにつれ幅が狭くなり、「八日市」の交差点あたりでは南北幅が120mほどしかありません。「西側はがらあき」とおっしゃるほど手薄ではないように思えます。
もちろん万一の時細川家からの援軍も期待できますが、当時の日出にとっての仮想敵は近隣に存在していません。援軍が必要なほどの大敵は想定していないので決して「援軍ありき」の城ではなく充分に相応な(石高からすると相応以上の)城郭だと思います。家柄のおかげでしょう。
五稜郭好きですが函館のシンボルでもあり城数のない北海道の誇りです😅
岐阜城はでっかい見張り櫓ですからね。
当時は海まで見えていたので尾張から兵が来ればすぐにわかる。
そのため迎撃は川を挟んで対峙というのが美濃防衛の基本戦術。
竹中半兵衛に16人で落とされた話が有名ですが元々は安藤守就が反乱を起こして半兵衛はその部下として動いていたわけですから半兵衛が16人で落としたというのはちょっと違うと思います。
愛媛が地元なんですが、松山城、今治城、大洲城、宇和島城はどうでしょうか?あまり難攻不落には思えませんが。
まあ、あまり難攻不落ではありませんね。
伊予はもともと水軍の多い地域。陸上の城は重視されていなかったのかもしれませんね。
天下泰平の世にあまり堅固な城を作ると幕府から謀反の疑いありと見られる時代だからあえて堅固な城を作らなかったんだろうね。そういう城はたくさんあるよ。伊達政宗の仙台城とか。
それに天下泰平の時代に堅固な城なんて不便でしょ。守りが固い城は平時には移動するだけでも一苦労だから、時代に合わないという事情もあったんだと思う。
その中に現存天守が二つも入ってるのが凄い!
@@2romekiti996 さん
同感です。
高知城、丸亀城も現存天守ですから、四国の天守保有率は全国の1/3にもなります。すごいですよねぇ。
岐阜城を半兵衛が攻略できたのは、別に守りづらいとかではない。半兵衛は別に敵兵でなく家臣だったし
城主の龍興がボンクラだったし。
支城というのが有りまして
群馬県の 尻焼温泉に行く道路の道すがら真田氏の砦の看板が結構有ります
籠城も楽ではないと思います
城は言わば囲い、名将が指揮すれば柵一筋でも敵を撃退出来る、また凡将が指揮すればどんなに柵を廻らした城でも、攻め手が名将なら呆気なく落ちる、孫氏の時代から、同じ事。
観音寺城も規模はデカいが防御面は貧弱でよく落城してましたね
今のところ名前が挙がってないので案外です
というか六角の戦い方が甲賀でゲリラだし、、
昔、明石に住んでいて、明石公園へは自電車ですぐだったからほぼ毎日遊びに行ってたな☺️
黒沢明監督の7人の侍という映画を知っていますか。映画の中でいい城というのは、一か所必ず弱い所がある。と知勇勘兵衛のセリフがあるのですが、明石城の場合、残念なのではなく名城の証かも。
是非一度7人の侍を見てみることをオススメします。
岐阜城は信長、信忠、時代で外部に多くの情報があるから落としやすいのは仕方ないと思う
そうですね。最初は落とすのにすごいかかったらしいけど、何回も攻略されたせいでどう落とせば簡単かバレてしまったことも大きいよね。
@@kikokikokun さらに家臣の謀反で落ちる弱点もさらけ出した…「人は城/人は池垣/人は堀」を斎藤義龍が心がけてりゃエエけど竹中半兵衛を侮辱し怒らせたからアウトww美濃三人衆も見限るわなぁ(安藤守就は半兵衛の味方)。
斎藤道三「我が子らは将来織田信長に降伏するであろう」発言も稲葉山城の弱点が分かってたで。知らんけど。
@@hirataz3 さま
義龍の子の龍興ですね。義龍はなかなかの名将ですが、35歳で死んでしまいました。
@@user-yl9ek9le7m さんへ:×義龍⇒〇竜興(失礼)。竜興が半兵衛の能力を高く見てたら悲劇はなかったですよホンマ。義龍の早世も不運だと思います。
岩殿城は大月にありますね
若き日の小遊三さんがビデオで出迎えてくれますw
今のゲームは知らんけど、小さい頃やったノブヤボで七尾城がやたら強かったのが謎やった
ちな七尾市生まれ
遊園地はなくなって、建物は残ってますが耐震基準が満たせずに立ち入り禁止の伏見城。
将来どうなるんでしょうかねぇ。。?
新府城は確かに残念かも知れません。地元山梨では武田縁の城跡というよりも、心霊スポットとして有名なくらいですからね。
知名度の割に思ってたんと違うかったNo1は清洲城
埼玉の天神山城はランクインしなかったのかぁ
残念だぁ
なんで、こんなに城に惹かれるんだろう?
それは、人間のことを好きだから。 強い男たちが人生をオールインして張り合う、その気持ちが形となって残ったのが城跡なんだと思う。
城プロ殿必見の動画ですね。
ポンコツはちょっと語弊があるかな。。。
伏見キャッスルランドは倒産しましたね。もう建物の中にも入れない。見えるけど幻の城になってしまいました。行っておいてよかった。
薩英戦争で城として認識されず英軍は誤認して近隣の寺に砲弾を撃たれた鶴丸城もある意味残念。
維新公に止められたのに海から砲撃が届くとこに忠恒が築城しちゃった。
五稜郭に必要だったのは迫撃砲だった。新政府軍を蹴散らしたかったなぁ…。
明石城、10万石程度の割に…弘前城(やぐら)と色々似ていますね。
安土城もかなり残念。
安土城はどっちかと言うと権威の象徴的な物だったからなぁ
でもそれ以上に残念なのは、安土城を敵軍である明智軍が攻めて来たと勘違いし、不本意にも燃やしてしまうと言った失態を犯した、信長の次男の信雄の方だったけどね…。
最近の研究では安土城も
実は相当軟弱だったと言う事が判明している。
安土城は天下統一を見越して建てた城だから
守りの事は考えてなかったのかも?
だって山麓から天守まで一直線で道が伸びてたっていうじゃない。まるで参道ですよね
天守閣がそびえていたのは六年くらいかな。
信長様の安土桃山城があったら、人気のお城No.1に選ばれていたかもしtれませんね。
私のご先祖様の築いたお城が岐部城という城が大分県九重町にあります
躑躅ヶ崎館から新府城に移るのは現実的だし分かるけど、この頃から既に臣下達の間では不満が募っていたらしいしね
お金かかりますからね。
明石城は近くにある城です。僕は西明石駅の近くに住んでいます。
岐阜城、今はロープウェイだけど、昔は大変だったろうなぁ。
岐阜城はいってみたけど水の確保が困難だと思った。あと、チャートで硬いから建物や道を普請するのはたいへんだったろうと。
なお、1位のは泥流層の上だから開削は比較的容易だったと思う。まあ、完成前に侵攻を受けて放棄しちゃったからなあ。そりゃ、役に立たなかったわ。
地下水の井戸は無くても、岩肌に生えている下草や苔が空気中から吸収したり結露した水が貯まる水場があったかもしれませんね。
新府城があまり活躍出来なかったのは武田氏が落ち目になったからであってタイミングの問題なのでは
水と最後の脱出が足りないのは周りに援軍が無いと無理だわ
新府城は既に謀反を決めた穴山が木曽の負担増と本家を経済破綻させるため、更には穴山にとって邪魔な存在の昌幸に命じた城よ。
一見すると3層の貧相な城、弘前城天守は実は辰巳櫓。本来は5層の大きい天守があった。しかし落雷が直撃し火薬に引火爆発炎上。時は江戸時代、城の新規築城が謀反の恐れあり、と認められない時代。天守がないのは恥ずかしい、と築城を幕府に嘆願。実はかつて家康の養女、満天姫が輿入れしている関係上関係が良好なため最初の築城時も人的支援があったと言われる。しかし他の大名の手前天守再建を認める訳にはいかないので(辰巳櫓の改築)名義で認めた、と言われています。
ちなみに初代藩主津軽為信は秀吉、家康どちらにも取り入っており、石田三成の息子が関ヶ原敗戦後津軽に逃げ延び名前を変え藩士となり、大石内蔵助の息子も身を隠していた寺から津軽まで逃れて藩士となった。奥羽越列藩同盟からあっさり脱退し新政府側に付き、最前線基地となり戦利品替わりに廃藩置県後実質的に分割された南部領の北側を合併して現在の青森県が出来た、と言われてます。
前橋城
(酒井氏時代)
「利根川を天然の堀として、河岸段丘上に城と城下町作るんゴ」
「ぎゃぁぁぁ、利根川が崖を侵食してきて城が崩れはじめたんゴ」
「老中首座やからコネで姫路に国替えするわ、越前松平はん知行交換しようや」
(越前松平氏時代)
「もう侵食ヤバすぎてあかんわ。前橋放棄して、川越に陣屋を作って移るんゴ」
「開国したら生糸貿易で大儲けした領民がお城を建て替えてくれたんやで。前橋に戻るんゴ」
「去年、前橋に戻ってきたとこなのに、幕府が大政奉還したぞファ」
「川越から戻ってまだ4年なのに、廃藩置県で城を新政府に明け渡さなあかんくなった涙」
(明治以降)
「とりあえず、前橋県の県庁になったんで」
「上野一国が一県に再編されるが、高崎県がほかを吸収する形で高崎城に県庁設置されるらしいで」
「高崎県て名前はまず気に食わんな。陳情して群馬県にさせよう」
「高崎城が軍の管轄になって連隊置かれるで、これを機に前橋に県庁持ってこさすんゴ」
「と、思ってたら県庁が熊谷に移転した・・・」
「と、思ったら県庁がまた高崎の町に仮移転したぞ」
「ワイら生糸で相変わらずガッポリや。県庁、持ってこさすんに金に糸目付けないで、
県令はん、病院も学校も全部自前で用意さっしゃりますで」
「見事、前橋城に県庁を持ってきたぞ。高崎の奴らがギャァギャァうるせぇな」
それから100年・・・
「高崎が城跡に21階建ての新市庁舎作るらしいな。県庁を33階建ての超高層に建て替えようや
都庁舎に次ぐ高さ、県庁舎では全国1の高さやで」
BGMが知りたい…