関ヶ原の戦いを再現!天下分け目の大決戦の真実
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- Опубліковано 6 вер 2024
- 豊臣秀吉没後の1600年、徳川家康と石田三成が関ヶ原を舞台に戦いました。
勝者は新時代を切り開き、敗者は処刑されたこの戦いは、わずか6時間で終わったそうです。
なぜ西軍は東軍に敗れたのか?衝撃的な裏切りの背景で一体何が起こっていたのか?
地図上で武将たちの動きを再現しながら、天下分け目の戦いの真実を見ていきましょう!
関連動画↓
• 徳川家康|人生75年で成し遂げた圧倒的功績と...
• 石田三成|秀吉に忠誠を誓いすぎた結果!打倒家...
台湾人です、アメリカのドラマSHOGUN見て、関ヶ原の戦い興味あります、この動画見つけました、日本語半分しかわかりませんけど、分かりやすいで、ありがとうございます
ありがとうございます。
そう言っていただけてとても嬉しいです☺️
今後ともよろしくお願いします🙇♂️
京都市生まれ滋賀県南部育ちです。
三成公は昭和中頃迄は「嫉妬逆賊」と教科書にも記載されてましたが司馬遼太郎先生のお陰で名誉を回復。滋賀県北部長浜市では三成公出生地を誇りにされてます。
滋賀県人です、石田三成公は誠にお気の毒な武将であります。
私は、三河蒲郡生まれ育ち、亡母は岡崎生まれで当方も岡崎在住40年、どうしても家康びいきになってしまいますが、今は、戦国時代からの史跡を巡るのが楽しみな爺です。
動画面白かったです。又、別角度での関ケ原見たいですね。
関ヶ原の戦いは豊臣家臣の争いですが、いつの間にか天下分け目の戦いに?家康副社長と三成部長では三成部長に対しての裏切り者が出ても仕方が無いわな。現代社会も同じ事ですなぁ。
石高が250万石もあって、豊臣家中は分裂してどうしようもない。このままだとまた戦乱となり、まかり間違えばせっかく築いた自分の地位も危うくなる。豊臣秀頼は戦乱の時代を知らず、戦の中を生きてきた武将たちを心酔させるだけの説得力も無い。家康としては秀吉逝去の時はたとえ野心が無かったとしても、結局のところ天下取りに向かうしか選択肢は無かったでしょうね。
利家が長生きしてれば徳川の世にはなってないと思う。
秀吉が家康に関東250万石を与えた時点では、大陸出兵の望みもあり、まさか10年後にこの様な政局になるとは思わなかったのでしょうね。
日本が空なら家康に抑えてもらわなければなりませんから。
死ぬのが早かったのも秀吉の計算違いで、死の間際には家康に頼むしかなくなっていたのかも知れません。
しかしやはり家康はそんな善人ではなかったという事です。
そもそも秀頼なんて十中八九秀吉の実子じゃないしね
イラストと武将たちの肖像画が入り混じってわかりやすかったです👍
ありがとうございます!
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「誰じゃ!仕掛けたのは?」「井伊直政殿にござります!」「おのれぇぇぇぇ....!」
でわ、戦国無双2の関ヶ原の戦い~徳川軍シナリオ見たいですね。
楽しく拝見させていただきました。関ヶ原は何回も行ってます!動画の島津の退き口は痺れました!次回行く時は訪れたいです!
ありがとうございます!
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今後ともよろしくお願いします🙇♂️
とてもわかりやすかったです。
ありがとうございます!
今後ともよろしくお願いします🙇♂️
時代とは面白いですなぁ。我々も又、時代を生きているわけですな。
ドライブ中、家康初陣付近を通って、ちょうど聞きたので臨場感を感じつつ楽しみました。
私は滋賀県生まれの滋賀県育ちです。
滋賀県はこの時代の表舞台だが今では静かな大人しい悪く言えば目立たない県で…
でもそんな郷土が大好きです。
なぜ、家康が秀吉恩顧の大名武将中心で天下分け目の関ヶ原を戦わなければならなかったのか?
それが論功行賞にどう影響を及ぼし、後の明治維新を誘因していると言えば大袈裟か…
徳川の直臣武将は何してた?
誰に遅れを取らされた?
そう真田の大ファンです!
そんな角度でもまた動画を流していただければ嬉しく思います。
車もない時代に、400キロ500キロも大軍を引き連れて、良く移動出来たといつも感心する。
関ヶ原の戦いは豊臣政権内の争いと言う定義が良くされますが、関ヶ原の戦い後に豊臣が領地を大幅に削られているのはなぜでしょうか⁇
関ヶ原合戦の後の所領配置で元豊家臣の処遇が解りやすい
島津義弘公は鹿児島の誇り。
正直、西郷隆盛よりも島津義弘公の方が薩摩への貢献度が高い。
いろんな説があるからどんな話を作っても間違ってる感じになっちゃいますが、個人的には語り継がれている関ヶ原の戦いをうまくまとめて作ってあって面白かったです。
次は広家の話をもっと入れながら秀秋が先陣を切って戦った新説バージョンでお願いします。
大谷様の声めっちゃかっこいいw
わかりやすい❤
ありがとうございます!
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関ヶ原という映画かま三成川に立ってよく描かれていますよ
歴史って面白い!
問い鉄砲とか後から作った架空の話しなのにこれからも何度も映像化されるんでしょうね。関ヶ原もあとの時代に出てきた事らしいし、まあ徳川の都合の歴史なんでしょうね。
大谷吉継は小早川の裏切りに備えて対策取ってたけど脇坂・赤座・朽木まで裏切る想定はしてなかった・・・この話は抜けてますけど。
あと、小山評定も創作で実際は三成の挙兵でかなり家康は危機的状況だったて話もありますけど、どうお考えですか?
秀忠本隊が到着してないのに勝ったんだから元々東軍が勝つようになってたんでしょう
武断派は家康につく事は豊臣政権を危うくする事は薄々分かっていながら家康に近づいたのですから、豊臣政権との関係では裏切り者という事にはなるでしょうね。
加藤清正も福島正則も馬鹿ではないのですから、せいぜい家康が豊臣家を悪く扱わないで欲しいと願望していた程度でしょう。
一方西軍は豊臣政権に敵対する家康を叩こうとしていたのですからその限りで豊臣政権との関係では忠義者と言って間違いないと思います。
戦国武士は戦さで領地を得ていた。家康の佐渡金山は圧倒的、三成さんの忠義では味方いない。
徳川の勝ちに決まっている風な描き方がドラマで多いがそうだろうか?もちろん家康は当時すでに250万石・正二位内大臣だが三成はたった19万石・従五位下・治部少輔に過ぎず「もはや象と犬」というくらい力に差があった。家康も上杉征伐で「わざと留守」にしても問題無いと思ったのだろう。
ところがである何と毛利ほか他の大老・奉行を取り込んで大軍勢を仕立て上げた。しかも戦いでも前半優位という展開だ。小早川の「裏切りが遅れた」のは有名だが、当たり前だが「勝つ方に付こう」と思って様子を見たのだろう。それくらい微妙な展開だったわけで、東軍は秀忠の徳川本軍の遅れもあり「本音はヤバイ」と考えていたはずだ。また三成子孫は江戸時代生き延びているが家康も「三成は特別な人間」と評価していた可能性もある。それほどの知将なのだ。
家康にとって天下分け目の戦って小牧長く手の闘いやろ、、、、、
もし、三成が勝っていたら、歴史は日本の首都は大阪で東京は地方都市レベル。仮に、家康が関東に国替えせずに岡崎に住んでいたら岡崎が日本の首都?まさか〜、あり得ん。
うん~ん……昔の説やね
諸説あり。
1600年10月21日
【東軍】
徳川家康
伊達政宗
最上義光
前田利長
加藤清正
福島正則
黒田長政
池田輝政
浅野幸長
加藤嘉明
細川忠興
藤堂高虎
田中吉政
京極高知
山内一豊
家康の本隊は居てませんよ‼️
小早川が、家康がじれてるからヤケクソぎみに石田側に攻撃を仕掛け、勝敗が決したってのがウケる。天下分け目の決戦なんだから、もっと熟考してから来いよと思った。
【西軍】
上杉景勝
毛利輝元
長宗我部盛親
島津義弘
真田昌幸
宇喜多秀家
石田三成
長束正家
増田長盛
前田玄以
大谷吉継
小西行長
安国寺恵瓊
大野治長
島左近
佐竹義宣
唐突ですが。
日本人は、天下分け目の戦い決戦が好きとか言われますが。
今日バスケットボールBリーグの日本一決定戦ゲーム第1試合がありましたが。
日本一決定戦ゲームが出来やすい?野球やバスケの方が国民の関心を引きやすいのかな?とか考えたり。
多分、サッカーJリーグより。
サッカーも出来ない事は無いけれど。
前期後期制にするのはね。。。
(他の案とかが多分ある分けじゃあ無いだろうし多分。)
「そんなの知らないよ(正論)」
柿は身体が冷えるからいらぬでは❓