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重機もない時代によくこんなに壮大なものを作れるなと感心するばかりです。
いや、本当に凄かったです。今残っているのですら驚きますが、これも実際には堀は数メートル埋まり、土塁も削られているでしょうから、当時はもっと凄かったでしょうね。
地元民でも 小田原城や北条氏の歴史への誤解が 散見するので こうした動画は ありがたい限りです。 北条好きの私自身も 良い勉強になります。 ありがとうございます。
ご覧いただきありがとうございます。丘陵部分にこんなに凄い堀と土塁が残っていて驚きました。そんなに多く見ているわけではありませんが、私が今まで見た中では一番だと思います。小田原市の誇れる歴史的遺産として活用されるといいですね。
当時の土木技術が凄いですね 地下の地質まで熟知していたのでしょう 頭の良い家臣が多くいたのではないか、と思いました大規模な溝を造るだけの求心力とか北条氏の政治手腕、教育など色々興味が新たに湧く内容でした
これだけの堀と土塁を作ったこともそうですが、この遺構が残っている事も凄いと思いました。私など全然見て回っていませんが、今まで見た土づくりの城の中では1番見応えがありました。小田原城というとどうしても三重の天守がイメージされてしまいますが、今でもこれだけのものが残っているのは小田原の財産ですね。あれだけの領国を有したのですから、有能な家臣も多くいたんでしょうね。
こんにちは、そうですね、父親の北条早雲が凄かっただけで、後の子供達が駄目駄目だった様です
動画では触れられていませんでしたが。小田原城外曲輪城壁のうち約1/4はまるで防潮堤かのように海岸に迫っています。それ以前の城壁がどのあたりかは不明ですが、いずれにせよ主郭部から海岸まではあまり距離はありません。攻城側がこの方面に軍勢を布陣させようとすると、足場の悪い浜につま先上がりの高低差、前後に狭い文字通りの「背水の陣」になってしまいます。北条家は伊豆や三浦を中心とした東国最強の水軍をもっていたため、攻め手が背後の海から逆に攻められる危険もあります。逆に北条側は相模湾の制海権を握っておけば籠城中も物資や兵力の補充はもちろん、水軍を使って攻め手軍の後方攪乱もできます。信玄が小田原を攻めたときの武田家は駿河併合の前だったため水軍がなく、越後から山を越えてきた謙信も充分な水軍を伴ってはいなかったでしょう。戦国最強の両雄が小田原を攻略できなかった理由はここにもあります。秀吉の関東攻略は前田利家らによる支城の攻略だけでなく、事前に北条水軍を壊滅させておくことが最重要でした。
詳しい説明ありがとうございます。海側には堀があったんですかね? 小田原市のパンフレットには土塁だけ表現されていましたが、土を他から持ってくるのは大変ですし、堀を掘って、その土で土塁を作れば一石二鳥のように思うのですが。また何かご存知でしたらご教示ください。
400年前に掘った堀がまだ面影あるの凄いし実際そこで戦ってた歴史もあるのリアリティないくらい凄い。歴史やばい
こんなに凄い規模の堀と土塁が今まで残されてきたことは本当に凄いと思います。小田原市さんも整備に積極的だと感じますので、これからの整備が楽しみですね。
めちゃ面白いUA-camやん!ありがとう!こう言うの大好き
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
地方大名に過ぎなかった北条氏が資金力も人もある天下人が総力掛けて作った安土城や大坂城より壮大な規模ってのがすごい!こんなデカくて深い堀に囲まれてて、もう城塞都市に近いよね!笑
城塞都市でいいのではないでしょうか。小田原城の総構えは秀吉の城づくりにも影響を与えていますし、規模も本当に凄いですね。
ちょうど小田原を旅行中で只今天守の前にいます!これから天守閣に上ります🎉うっぴ〜😊
いいですね!私は登る時間が取れませんでしたので、羨ましいです。天守閣からの景色、楽しんでください!
最初からワクワクです
凄いです。分かりやすくて面白い。ありがとうございます。😊
動画up有難うございます。総構の構造と見どころが良く分かり、嬉しいです!私事で恐縮ですが、司馬遼太郎氏の「箱根の坂」が大好きで、もう10年以上前に興国寺~韮山~小田原と巡る旅をしました。しかし、肝心の総構を見逃しまして、、笑。
私も何度となく新幹線から小田原城の天主閣は見ていましたが、まさか総構えがこんなによく残っいているとは思いもよりませんでした。是非見に行ってください。本当に凄いですよ。
小田原の総構を詳しく説明されていて、とても素晴らしいです。このとき包囲した秀吉方の武将達はこの広大な総構を見て圧巻したんだろうと思います。後北條が大好きなので楽しんで見させてもらいました。
ありがとうございます。そう言っていただけると作ったかいがあります。総構えの遺構は本当に凄いですね。今のように部分的に残っているだけでも凄いですから、当時ぐるりと城を取り囲んでいた姿は圧巻だったでしょうね。
八幡山の高校に3年間通っていました。百段坂という階段を毎日上がり降りしてました。父方、母方共に小田原で百姓をやっていたようです。 母方は唐津から大久保の殿様についてきたらしいです。韮山城は比較的持ったけど、山中城が力攻めで、数日で落ちてしまいむき出しになったのが痛かった。子飼いの家来ばかりなら、小田原城も力攻めもあったかもしれないが、、。家康の陣があったところは案内板があります。 まあこのあと領地になったんだから、、。
そうなんですね。駅周辺のにぎやかさから、丘陵を上がると静かな環境になるのが対照的ですね。しかしそれなりに勾配がありました。秀吉もやってやれないことはなかったんでしょうが、山中城でもかなりの被害を出したようですので、あえて力攻めはしなかったんでしょうね。
関東ローム層だからこれだけできたのであってもし、武田信玄のように金堀人夫を動員して複数口から城内へ向けて掘削、侵攻したらどうなっていただろうと妄想します。豊臣側も兵糧不足で脱走兵が相次いでいたから後世で思われているほど一方的な戦いでもなかったとのことです。
両側が河だから、穴掘り作戦は穴そのものが出水して不可能じゃね?
鉱山の採掘で地下水に当たることはままあるから川の下を掘り進めるのは問題ないと思うけど。
@@林信彦-x9u 蒸気機関より前の時代に坑道から水が出たら排水できないよ。
@@林信彦-x9u実際にやろうとしても不可能でしょう。土竜攻めというものでしょうが、それはどの道力攻めに繋がり寄せ手側は甚大な被害になるでしょう。それだけではなく、寄せ手側の全軍全てが秀吉に忠誠がある訳ではありません。時間をかけてイタズラに兵を減らす行為はかえって反旗を翻しかねません。信玄がやっても同じです。イタズラに兵を減らしたくないから野戦に持ち込んで(三増峠の戦い)勝利を収めているのです。資金だって莫大な費用にかかります。兵が多ければ多いほど尚更です。まとめ・土竜攻めは力攻めに繋がる事で被害甚大・寄せ手側全てが豊臣軍ではなく、従属した上での大名がちらほらいる(時間をかけると反旗を起こす可能性も…)・資金費用が莫大
やってみなはれの精神でして欲しかった。戦史の教訓として後年の203高地で犠牲の抑止になったと思うから。
小田原城は20回以上行きましたが、こんなにしっかりした丘になっているとは認識していませんでした。確かに本丸に行くにつれて階段を結構登りましたね😂この動画を見た上でまた遊びに行きたいです
いつもありがとうございます。そんなに通ってらっしゃるんですね。私もこんなに凄い堀と土塁は初めて見ました。市街化されずに開発から取り残されたことが幸運でしたね。何とか活用してさらに発信され、小田原城の魅力が伝わるといいですね。
現在の小田原城址は江戸時代以降に平野部に近い部分だけを利用し大久保氏が整備したもので、北条期の小田原城本丸は小田原駅西側の丘の上にある小田原高校に本丸が有りました。
@@qzp01467 そうだったのですね😃
この動画は 素晴らしい。ありがとうございました。
こちらこそありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てください。
東海道を仰ぎながらの小田原城はさぞ立派だったろうな!これ、城と言うより要塞!
大軍で攻めても兵が堀で分断されるから守りやすかったんでしょうね。
今見ても凄い堀なので、当時はもっと深く、攻めにくかったでしょうね。
真田の城取ったのは決定打でこの一件だけで小田原征伐を決めたわけではなく、幾度も上洛を要請されたが拒否し秀吉を怒らせ、焦った北条はすぐ会いに行くと言いつつ約束の期限を伸ばしに伸ばし秀吉の堪忍袋の尾が切れようかと言う時に沼田城攻めが起きてブチ切れて小田原征伐という感じ。
滝川を攻撃したことを根に持っていたのか?まあ、その可能性は低いだろうけど。
氏政が上洛したら人質に取られるってデマが流れてたって話もあるみたいだし、当時の遠距離間の意思疎通って今以上に大変だったろうねぇ
面白い動画でした。
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね!
8:16この図、地味に興味深いな逓減率がほぼなく最上階だけ屋根がある三層櫓が4基ほど描かれてるけど後代ではまずみられない様式
確かに気になりますね。何らかの重層の建物があったのは間違いないと思いますが、この図がどこまで実際の建物に忠実に描いているのか、これだとちょっと微妙かもしれませんね。
小田原城について、わかり易く説明してくれて感謝してます。特に、現在の天守閣と 総構築え との関係は 初めて聞きました。現役の頃は 小田原市内の会社に通勤して、週末は小田原駅前の居酒屋通いでしたが、あらためて 高齢者年金生活者に なって小田原城の歴史を これからも、調査したく、よろしくお願いいたします。
コメントありがとうございます。御鐘の台大堀切、凄いですね。それほど回っているわけではないですが、今まで見た中では規模と残り具合は一番凄いと感じました。現地の案内看板もかなり充実していましたし、ちょうど撮影に行った時は御用米曲輪の調査もされておられましたので、小田原市さんはとても精力的に取り組んでおられると感じました。今はどこの自治体も財政的に大変な時代になりましたが、少しでも小田原城の魅力を見出して、発信して欲しいですね。
姫路城域も凄く広いですが、攻めにくさで行ったら小田原の方が凄まじそうですね。土だからこそぬかるんでいる所が有るでしょうから、堀から上がる事はかなり困難に思えます。
当時としては最大規模のようですね。ぬかるみはどうなんでしょう? 作った直後は仰る通りだと思いますが、史跡整備された山中城を見ますと、びっしりと草に覆われていますので、しばらくすると草が生えてきて、少しは登りやすくなるような気がしますが、どうなんですかね? ただ、草が生えていたとしても、登ることが困難なことには変わりないでしょうね。
北条氏以降は大久保忠世と嫡男忠凛隣や春日局稲葉正成の長男正勝など徳川譜代大名が歴任するなど実質直轄地となっていった。あと小田和合戦の際 井伊直政等は先方として夜襲をかけて城内にまで進撃したとWikに書いてあった。
幕府も小田原は関東の入り口ですし、重要視していたんでしょうね。
昨日、信長の野望で10万の大軍で小田原城に攻め入ったのに、防衛された。余りにチートぶりにコントローラー投げつけたよ。
新生だと1660年には、小田原城の耐久が13000になるというカチカチな城。
古い烈風伝だと、忍者がいないと巨城は無理ゲーだな。
なお天道では大軍の前にはかなり呆気なく落城する。
今の小田原城からは当時の規模はとてと想像できないよな
どうしても復興天守の方に目が行ってしまいますので、北条氏の小田原城の凄さが伝わっていないかもしれないですね。でもぜひこれらの堀と土塁も見てみてほしいですね。
@@yamajiro そうですね、やはり前提知識がないと掘りなどの方には行かなかったり通り過ぎて気付けなかったり、こう言う動画は大変勉強になります。
うおぉぉぉーー名城やな。遺跡の中に街があるってええなーーほんまどでかい城やな。死ぬまでに一度は行ってみたい。
小田原城の天守はJR小田原駅からも歩いて5分と近く、ほぼほぼ観光地化しております、便利で近い為かお子さん連れも多く適度に親しまれています。私が感じた事は小田原市が「大河ドラマ」を誘致したいんだろうなぁと、毎回ヒシヒシと伝わってきますw
秀吉は力攻めで落とせないというより、物量戦の方が城攻めには効率がいいと考えていたと思う。
そうですね。私もそう思います。
秀吉の凄い所は数十万の規模の軍の兵站を整えたこと、まぁ石田三成が凄いんだろうけど。でもギリギリで結構危なかったらしいね。
八幡山から現在の城を見ると、東海道本線の線路の辺りも堀なんじゃないかと思ってしまうんよね。
おそらく堀の跡だろうと思う。そういう噂は昔からあった。
小田原市さんの刊行物では、東海道本線の部分は、基本的には北西から伸びてくる丘陵が緩やかに南東に下っていく途中に当たりますので、八幡山古郭東曲輪と本丸方面の曲輪は、一連の丘陵に続いて作られていますが、ちょうどその部分には堀があったようですね。
実は今ある城は当時の位置では内容です。その八幡山が本来の位置になります
どれだけ防備を固めた巨城でも後詰がなくひたすら兵糧攻めにあえば(または長期間そうなる事実が動かせないと)陥落するというのは後世に残る教訓ですね。今の日本も本質的には同じじゃないかな。
いくらはじめは意欲が高くても、ずっとそれを削がれるようなことをされ続けると、精神的にやられる可能性が大きいですね。現在に生かせる教訓ですね。
石垣城に登ってわかった事なのだが、この戦は苦戦した訳ではない、これは、わざと秀吉が自分が天下人であると、敵味方に知らしめるために、あえて、時間をかけた、そろそろ全国に知れ渡るだろうと思った秀吉が、官兵衛に交渉してこいと、命令したまで、難攻不落だったわけではない、その証拠に石垣城に公家や茶々まで呼んで、遊んでいた、つまり、テレビやネットのない時代に、自分の力を全国津々浦々まで伝えさせるための戦いである、間違いない
ご教示ありがとうございます。今後の参考にさせていただきます。
中国では都市のことを城市というように城壁が街を囲んで作られおり、これは中国のみならず西洋でも一般的でした。西安市の城壁は長さ13.7キロ。城壁の高さは12メートル、上部の幅だけでも12メートルあり軍隊が容易に移動できます。
ご教示ありがとうございます。中国はスケールが違いますね!
城の解説は素晴らしいものでしたが、北条氏の領国がちょっと広すぎますね。小生の地元・常陸の国は佐竹氏の領国でしたし、下野・上野も全部が北条氏のものではなかったはずです。
ご教示ありがとうございます。私の確認不足です。今後の動画づくりの際には気を付けます。今後ともよろしくお願いいたします。
一年中どこかを修復してそう。雑草は生えるし大雨になれば土塁も緩やかになりそうだし、平常時は不便そう。象徴となるような城は必要だろうけど、ここまで大きくする必要性が素人にはわからん。
どの城でも日常的な修繕は行っていたでしょうね。小田原城はやはり秀吉の攻撃に備えるために総構えを作ったんじゃないでしょうか。
民に愛されていた殿様を放り出すとは😢今でも北条の名前は小田原中で目にしますね。今も愛されている。
そうなんですか。地元では愛されているんですね。外から見ていますと、氏政がもっとうまく立ち回れば生き残れたんじゃないかって思えます。もったいなかったですね。
小田原城は北条氏が大森氏から割譲された城で石垣のある平山城に分類されるらしいですが、北条氏が改装するまでは、どのような風格だったのでしょうか?やはり太田道灌が構築した初期の江戸城のように石垣のない連格式の御城だったのでしょうか?
北条氏が居城とする前の小田原城の縄張りについては、ほとんどわかっていないのではないでしょうか。石垣はなかったと思います。
秀吉の場合、土木戦が得意というか好んだ傾向があるし、派手さを考えれば力攻めで小牧長久手のような展開を再現したくなかったから、最初から圧倒的兵力(諸国を従えるというデモンストレーション込)で包囲が基本路線じゃない?普通に
おはようございます、小田原城🏯を取り上げて頂いてありがとうございます。小田原城🏯は、地元ですので、本当の小田原城は、ありませんが、現在のなんちゃってお城よりも後ろの山に本当の小田原城🏯はあり、本当の小田原城は、カラスの色と茶色が入った城🏯で、非常に堅固でかの武田信玄も落とせなかったと言われて居ます、小田原攻めの前の小田原城🏯は秀吉も好きで良く訪れていたそうですが、小田原城🏯攻め以後の小田原城🏯は、秀吉からも忘れ去られ、お城としての機能を失い、他のお城🏯を再建する為の材料として使われ、小田原城は、終わりました、そして戦後小田原に誰が作ったかは?知りませんが、!?コンクリートのなんちゃってお城🏯が出来たと言う事です、😮小田原市も財政が無いと言うのに偽物のお城🏯を作って恥ずかしくなかったのでしょうか?😮
ありがとうございます。今でこそ木造でという流れになってきていますが、当時は鉄筋コンクリートが当たり前の時代だったので、仕方なかったんじゃないでしょうか。小田原市さんは、今でも復元整備に力を入れておられて、頑張っておられるなと感じました。
こんばんわ、ありがとうございます。しかし小田原城には、本物のお城🏯の図面その物がありません、本物の小田原城は、私が高校の時に小田原の地元の本屋の壁に小田原城を本の中で再現した物が立て掛けられて置いてありました、本物の小田原城は、真っ黒なカラスの様な色で所何処に金箔があしらわれ、まるで西洋的な感じに城の周りを漆黒の高い壁で覆いその中にも低い建物を配置した城だったので、それだけ防御が固かったのですから、落とせなかったんだと思います
大山につながる東海道の要衝だったのが強い。
そうですね!
総構えがデカ過ぎ(笑)こりゃ力攻めは困難だ。やれても攻撃側も相当の兵力と損害を覚悟しないと無理ですね。大阪城や江戸城とも異なり街一つ全部囲ってる城なんて、南京城みたいに中国の城とかヨーロッパの城みたい。すごいな。
秀吉は小田原城の総構えを大阪城に取り入れたようですので、小田原城がその後の城づくりに与えた影響は大きかったんでしょうね。
大阪城も江戸城も総構えを採用してますので城下町を囲んでる城ですね。小田原城の場合はその総構えが国内最大級なのでそりゃもう…。
@@山城守-u6z すみません。大阪城も江戸城も、元は町を丸ごと外郭で囲んだ総構えの城だったのを最近知りました。現在残っている本丸・二の丸・三の丸だけ見て勘違いしてました。現在も所々に見附の地名や石垣・濠の跡が江戸城から遠い場所に残っているのは、その名残だったんですね。
この防御力を試したくて豊臣と戦う事にした気がする。
もしかしたら力攻めもすれば落とせたかもしれない。ただその選択を避けさせたのは間違いない。
その通りだと思います。
カッコ良いです🍮高知県の丁野ふみかずです🍮
ありがとうございます。
備蓄兵糧と守備兵力からして、籠城した場合、包囲軍の心理的圧力を除外して考えたら、どのぐらい耐えられる予定だったのでしょうね。
どうなんでしょうか。判断材料を持ち合わせていませんので、お答えすることが出来ませんが、感覚的にはあまり長くは持ちこたえられなかったんじゃないですかね?
こういう地道に研究した成果の共有って、かつては〇〇教育委員会〇〇周年記念行事や自称郷土史研究家たちによる細々とした自費出版に頼っていましたが、世界中に発信できる良い時代になりましたね。
そうですね。だれでも自由に発信できる時代が来るとは、凄い時代になりましたね。
「秀吉も力攻めでは落とせなかった城」とありますが秀吉が力攻めで落とした城って何城がありますか?
すいません、UA-camのタイトルと割り切っていただき、そこはあまり突っ込まないでください。
小田原市は小田原城、忍者風魔党などに力入れてますね。後北条氏の大河ドラマをやってもらいたいのだと思います😊戦国時代のドラマじゃだいたい何時も脇役、悪役、やられ役みたいな扱いですからね。
撮影に行った時、案内看板の多さ・内容の詳しさ、御用米曲輪の発掘調査など、市として小田原城の魅力の掘り起こしと発信に力を入れているなと感じました。計画的に整備が進んで、なおかつ大河ドラマでも取り上げられるといいですね。
見せ場と見せ場の間が長すぎてドラマが作りにくいんだと思います。
小田原城を力攻めして多く損害を出すより囲んで根負けするのんを待って降伏させるのが最高の戦略と謀略で降伏した方がいい考えていた‼️
おっしゃる通りです! すいません。
これ北西南西南東はわかってるとして北の尾根がしっかり深い堀になってるか崖になってないと防御力にならない気がするのだけどその辺どうなの?山削ったんかなあ?
恐らくそれで北西の尾根が堀で取り囲まれて、その部分だけ突出して城内に取り込まれているのではないでしょうか。
小田原合戦かあ☆
こんにちは😊
こんにちは☺
秀吉が力攻めで攻め落とさなかったのは、鳥取城、高松城、三木城もかな。秀吉の凄さは落城能力が、力攻めの単なる戦闘能力ではない点にある話だから、タイトル盛り過ぎるかな。松田が裏切って城内を疑心暗鬼にもしてたんだし。
仰る通りです(笑)。でもタイトルとサムネで注目をしてもらいたいので、お許しを。
もし、秀吉が大砲などを仕掛けたら。どうなる。
門司城の戦いのように土の城に対し大砲では余り効果は無いでしょうね。大阪城では天守へのラッキーヒットがありましたが、後北条氏の小田原城に天守は無いので標的にしやすい高い建物がありません。力攻めするのならセオリー通りに仕寄り人海戦術により惣構の堀を埋め、櫓などは侍筒のような大口径銃の集中射で沈黙させてしまえば良いでしょう。もっとも、籠城方もセオリー通りに惣構内に更に堀を掘って対抗するとは思いますが…堀を全て埋めようと最終的には城内に斬り込む必要があり、お味方にも相応の損害が予想されるので、戦略的手腕と視覚的な威圧で降伏に追い込んだ秀吉の方針が最善手だったと言えるかと。
なぜあんなところにと思える大きさですね。鎌倉を守る地としては最適だけれど海まで近すぎて配置がなさすぎる。
凄いの一言でした。全部残っていたら圧巻だったでしょうね。
真田領攻めたときからケチのつけ始めか……。
こうすれば良かったああすれば良かったってのは後世の人間が結果を知ってるから言えることだ。動員力を見誤ったか伊達や徳川があっさり豊臣になびいてしまったのは大きな誤算だっかもしれない
そうですね。氏政の誤算と判断ミスが北条氏を滅亡に導いてしまった気がします。
遂に地元の小田原城へ来てくれた!ありがとうございます(^_^)
待っていてくれたんですか(笑)? いつも通過地点で天守があるなくらいにしか思っていなかったんですが、丘陵部分にこんなに凄い堀と土塁が残っていて驚きました。開発の手が丘陵地に及ばなくて、城の保全の意味では幸運でしたね。小田原市の文化遺産として広く知ってもらえるといいですね。
秀吉が10万人位の損失を覚悟できれば、力技でも行けたと思う。
そうですね。秀吉は多くの犠牲を払うよりは、包囲網を築いて長期戦に持ち込んだんでしょうね。
クソデカ小田原城
個人的意見ですが、北条も豊臣も堅固な城が有ったのか滅亡だったと考えます両氏とも相手の大将の首を挙げる以外の勝ちは無い白兵戦以外の勝ちは無いのに籠城は戦術間違いだ
北条は小田原城があるが故に、秀吉に臣従しなくても負けることはないと考えてしまったんでしょうかね?
別に秀吉は力攻め出来なかった訳では無い。ただ、被害の少ない攻め方を採用しただけ。関白に叙任され、権威が確立されていただけに、圧勝しなければならなかった。だからこその包囲戦だった。実際に、北条氏の半農半武の兵と秀吉の専業の兵の間でかなりの兵力差があった。だからこそ諸侯が秀吉に従った。婚姻を結んでいた徳川でさえ、婚姻破棄し小田原攻めに参戦した。別に小田原城の堅牢さは関係なかった。
この言い方だと秀吉は力攻めが得意だったように聞こえますがそもそも秀吉って力攻めしたことあるんですか?🙂
いや、そこはあまり追求しないでください(;^_^A。
大阪城もマネして作られた。
総構え・障子堀は小田原城の影響でしょうかね。
城の前に猿のオリがあるところですよね。ものすっごい小さい城という印象でしたが、見る方向がよくなかったのかなと思います・・・たぶん。
昔は天守閣すらありませんでした。城だけなら小さい方です。「城」だけなら…。問題は天守閣を中心とした巨大な総構が簡単に敵を近づけさせないようになっているのです。ちなみに今ある城は、戦国時代にあった場所とは位置が少し違うようです(地元民より)
豊臣秀吉が、20万の兵力があるんだから、無駄な兵の損傷を避けたからで、豊臣秀吉は、兵糧攻めを得意としていたし🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉
秀吉はこの城だと城攻めは海に逃げられないから兵糧攻めで楽に勝てると踏んでいたんだよね大阪城も福岡城も江戸城も海に面してる事でも分かるけど退路がなきゃ大した事ないんだよね
その為の支城が周りにいくつもあるわけです(ただし、支城が先に落とされては意味がないのですが)。とどめに一夜城を建てる事により、北条の心を折った、という人間の心理を利用して降伏させています。
島津攻めたときに、秀吉側の問題点もかなり改善されましたのも、痛かったですね゙。島津が豊富な金で、秀吉側の兵士買収して、秀吉が島津兵糧攻めしている間、島津氏は、沢山の支城が密売されて輸送された秀吉軍の兵糧と領内に沢山植えられている食べられる木の実でいきのびていたから、石田三成が九州征伐以後汚職兵士をかなり処罰しましたからね。そのために秀吉側の問題点がかなり改善されましたからね。島津みたいに秀吉があきれるほど、降伏後も暗殺者おくりこみまくるほどの暗殺者も養成しでませんでしたしね。秀吉が飲むだろう川に毒流されたり、本陣に、まぐれあたり狙いずっと弓矢や火縄銃打ち続けたり、硫酸とか硫黄使い毒ガス流したりと島津がやばかったのもありますね。
落とせなかったのと、被害が大きくなるから落とさなかったは違う
天然の要害
ですね。
難攻不落を目指したでしょうに。天下のビジョンを持っていなかったのでしょうね。国は城で、落ちない城を作れば国を守れる時代が終わったということですね。
結果を知っている私達から見ると、勝てるわけがないので、服従していれば滅亡はせずに生き残れたのにと思いますが、氏政と氏照、氏直は、負けるとは思っていなかったんでしょうかね?
@@yamajiro北条が負けたのはそもそも官僚政治の悪い所がでたって感じで氏政自体は実は上洛しようとしてた
なんかこういうのって、あとから言えるだけなのに明日をも知れず生きていた当時の人をバカにするコメント残す人って、考えが浅いんだなと思う。
城の防御力 vs 兵の動員力のせめぎ合いにおいて、攻城3倍の原則を超えた動員を掛けられたら、そりゃ想定外だわな。
城に籠もらず関東平野全域を守れば勝てたって事?
始めから秀吉に叶うわけない。負ける確率100%。
関東唯一の城
唯一ですか(;^_^A。でも凄い城ですね。もっと小田原城の魅力が発信されるといいですね。
@@yamajiro 城都のことを城というのなら当時唯一でしょう。
素晴らしい内容で、ちゃんと下調べされており好感持てるチャンネルなのだが…短いBSを延々と繰り返されるのはちょっと……高評価は押したけど、改善してほしい。
なかなか手が回らなくてすいません。今後ともよろしくお願いいたします。
高松も力ずくでは落としてないよねw
UA-camのタイトルですので、あまり突っ込まないでください(笑)。
@@yamajiro おけおけ!了解でございます!
小田原なんにもねえからなあと思ってたらテレビで割と頻繁に紹介されていてびっくりした。お城は昔のほうが良かった。今は城の形だけど中が博物館で城の良さが完全に消えた。松本城みたいにとは言わないけど、なんか…うーん…。
近世城郭の方は知られていると思いますが、あの山の中にあんなに凄い堀と土塁が残っていることは、あまり知られていないのではないでしょうか。でも小田原市の財産ですよね。
大阪城の方が硬いぞ
んー、五分五分じゃないですかね……
『大阪城』or『大坂城』
秀吉殿はそもそも力攻めは好まなかったとか
おっしゃる通りです! UA-camのクリック率の向上の一環(なっているかどうかわかりませんが) ですので、お手柔らかにお願いします。
秀吉が力攻めで落とせなかった訳ではなく、しなかったが正解勝つのがわかっているのに無駄に攻めて被害を拡大させる事はない死に物狂いだとこちらの被害も大きくなるし北条には他に味方もいないから兵糧の尽きたほうが負けるけど秀吉は全国を押さえていたので、まぁ北条が世の中の動きを読めていなかっただけ一年早く氏直に上洛させておけばなんてことはなかったのにアホやな
馬で越後からコメを運ぶ謙信は兵糧がなくなって撤退したが、秀吉は船で兵糧を運ぶので20万の軍勢も養える。最後は巨大な付け城を作り、小田原の年貢を横取りする体制を作った。これでは北条氏は降伏するしかない。
被害出るのが嫌で攻めなかったけど無理攻めでも落とせたでしょう流石に
だからこそ力攻めをしないんですよ〜
無理。堀の深さ舐めてる😮
タイトルあれやがそもそも力攻めしたんか?
徳川方の井伊直政などが小競り合いを起こしてます。その後秀吉から力攻めをしない様に命じられ、包囲に発展します。その点の事を指しているのだと思います。
補足していただき、ありがとうございます。ちょっとその辺りについても触れた方がよかったですね。
どーなんやろ。力攻めしなくて逆に成功と言える
小田原城より秀吉一人の方が立派だったって事か
結局小田原城は戦闘では落城していないので、やはり凄い城だと思いますが、政治力で負けたというか、なぜ臣従しなかったのか不思議ですね。やはり負けることはないだろうと思っていたのでしょうか。
@@yamajiro 北条家は信長には一度臣従していたけど、直後に本能寺の変が起きて混乱に乗じて破棄した位だから成り上り者の秀吉相手に舐め切っていた部分があるのと、動画の通り徳川や伊達が味方になって長期戦になれば豊臣方に反乱が起きる可能性もあったので、ワンチャン掛けていたのかも知れません。とはいえ、北条方も条件次第では北条に臣従する考えがあったようで、一族の氏規を使者にして豊臣方と交渉は続けられてはいたようでしたが、まぁ色々と悪条件が重なりましたね。
エズマエビスが日本人に屈した戦いか
伊勢新九郎盛時 が 初代 なのだから、後北條氏 が エズマエビス なのかは わかりませんね。
落とす必要、メリットがなかったのでは。
小田原城は北条の本城とも言える最大の城です。メリットがないにしろ、北条は自ら滅ぼされる口実を作ってしまっています。攻められる口実がなく、かつ氏政、氏直が秀吉の上洛に従えば、落とす必要も無かったと思います。
伊勢宗瑞な
ですね!
日本の城っぽくなくて、古代中華の城郭都市みたい
土作りの城ですし、これだけの規模の城はあまり類例は多くないかもしれませんね。
×秀吉も力攻めでは落とせなかった◯別に本気出したら落とせた
無理😊
北条早雲はやめて😂
みんながわかる通称で言うてるだけでは?
真田信繁より真田幸村と言うようなもんかなと
すいません、自分がなじんでいるのと、伊勢 宗瑞(北条早雲)みたいに言い換えると長くなるので、これで通してしまっています。
@@yamajiro あ〜ごめんなさい🙏イチャモンつけるつもりじゃないんです。自分も子供の頃から北条早雲、伊勢の素浪人で覚えてきて、ゆうきまさみ先生の漫画、新九郎奔るで初めて知ったクチです。いつも楽しく見させていただいております。お気を悪くなさらないで下さい。
そもそも力攻めする必要がない😅
小田原に住んでるから小田原城なんて庭みたいな感じだけど大したことないよ
いや、こんな凄い城はそんなにないと思いますよ。あまりにも身近過ぎて感じなくなっているのだと思います。
それ今の小田原城だろ😂
規模を履き違えていますね…。400年前の小田原城はまさに難攻不落といえる強さを誇っていました。堀の深さ、城門の数、昔はなかった二の丸に続く赤い橋だって後年に作られたものです。
話は時代と共に盛られているが、中世の城では難攻不落だと思う。約総延長9㎞なので包囲軍は20万を擁した。1年以上の20万人以上の食料の用意は当時では不可能である。秀吉も徹退を考えたが、平和ボケ井の中の蛙の優柔不断な氏直親子は降伏してしまった。あと3カ月籠城していたら有利な和議を結べた。
どうなんでしょうかね? 結構切り崩しもされていたみたいですし、難しかったような気もしますが。氏政が秀吉に臣従するのを潔しとせずに対決したのが最大の失敗のような気がします。臣従していれば滅亡しなかったと思います。
重機もない時代によくこんなに壮大なものを作れるなと感心するばかりです。
いや、本当に凄かったです。今残っているのですら驚きますが、これも実際には堀は数メートル埋まり、土塁も削られているでしょうから、当時はもっと凄かったでしょうね。
地元民でも 小田原城や北条氏の歴史への誤解が 散見するので こうした動画は ありがたい限りです。 北条好きの私自身も 良い勉強になります。 ありがとうございます。
ご覧いただきありがとうございます。丘陵部分にこんなに凄い堀と土塁が残っていて驚きました。そんなに多く見ているわけではありませんが、私が今まで見た中では一番だと思います。小田原市の誇れる歴史的遺産として活用されるといいですね。
当時の土木技術が凄いですね 地下の地質まで熟知していたのでしょう 頭の良い家臣が多くいたのではないか、と思いました
大規模な溝を造るだけの求心力とか北条氏の政治手腕、教育など色々興味が新たに湧く内容でした
これだけの堀と土塁を作ったこともそうですが、この遺構が残っている事も凄いと思いました。私など全然見て回っていませんが、今まで見た土づくりの城の中では1番見応えがありました。小田原城というとどうしても三重の天守がイメージされてしまいますが、今でもこれだけのものが残っているのは小田原の財産ですね。あれだけの領国を有したのですから、有能な家臣も多くいたんでしょうね。
こんにちは、そうですね、父親の北条早雲が凄かっただけで、後の子供達が駄目駄目だった様です
動画では触れられていませんでしたが。
小田原城外曲輪城壁のうち約1/4はまるで防潮堤かのように海岸に迫っています。それ以前の城壁がどのあたりかは不明ですが、いずれにせよ主郭部から海岸まではあまり距離はありません。攻城側がこの方面に軍勢を布陣させようとすると、足場の悪い浜につま先上がりの高低差、前後に狭い文字通りの「背水の陣」になってしまいます。
北条家は伊豆や三浦を中心とした東国最強の水軍をもっていたため、攻め手が背後の海から逆に攻められる危険もあります。逆に北条側は相模湾の制海権を握っておけば籠城中も物資や兵力の補充はもちろん、水軍を使って攻め手軍の後方攪乱もできます。
信玄が小田原を攻めたときの武田家は駿河併合の前だったため水軍がなく、越後から山を越えてきた謙信も充分な水軍を伴ってはいなかったでしょう。戦国最強の両雄が小田原を攻略できなかった理由はここにもあります。
秀吉の関東攻略は前田利家らによる支城の攻略だけでなく、事前に北条水軍を壊滅させておくことが最重要でした。
詳しい説明ありがとうございます。海側には堀があったんですかね? 小田原市のパンフレットには土塁だけ表現されていましたが、土を他から持ってくるのは大変ですし、堀を掘って、その土で土塁を作れば一石二鳥のように思うのですが。また何かご存知でしたらご教示ください。
400年前に掘った堀がまだ面影あるの凄いし実際そこで戦ってた歴史もあるのリアリティないくらい凄い。歴史やばい
こんなに凄い規模の堀と土塁が今まで残されてきたことは本当に凄いと思います。小田原市さんも整備に積極的だと感じますので、これからの整備が楽しみですね。
めちゃ面白いUA-camやん!
ありがとう!
こう言うの大好き
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
地方大名に過ぎなかった北条氏が資金力も人もある天下人が総力掛けて作った安土城や大坂城より壮大な規模ってのがすごい!
こんなデカくて深い堀に囲まれてて、もう城塞都市に近いよね!笑
城塞都市でいいのではないでしょうか。小田原城の総構えは秀吉の城づくりにも影響を与えていますし、規模も本当に凄いですね。
ちょうど小田原を旅行中で只今天守の前にいます!これから天守閣に上ります🎉うっぴ〜😊
いいですね!私は登る時間が取れませんでしたので、羨ましいです。天守閣からの景色、楽しんでください!
最初からワクワクです
凄いです。分かりやすくて面白い。ありがとうございます。😊
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
動画up有難うございます。総構の構造と見どころが良く分かり、嬉しいです!
私事で恐縮ですが、司馬遼太郎氏の「箱根の坂」が大好きで、もう10年以上前に興国寺~韮山~小田原と巡る旅をしました。しかし、肝心の総構を見逃しまして、、笑。
私も何度となく新幹線から小田原城の天主閣は見ていましたが、まさか総構えがこんなによく残っいているとは思いもよりませんでした。是非見に行ってください。本当に凄いですよ。
小田原の総構を詳しく説明されていて、とても素晴らしいです。このとき包囲した秀吉方の武将達はこの広大な総構を見て圧巻したんだろうと思います。後北條が大好きなので楽しんで見させてもらいました。
ありがとうございます。そう言っていただけると作ったかいがあります。総構えの遺構は本当に凄いですね。今のように部分的に残っているだけでも凄いですから、当時ぐるりと城を取り囲んでいた姿は圧巻だったでしょうね。
八幡山の高校に3年間通っていました。百段坂という階段を毎日上がり降りしてました。
父方、母方共に小田原で百姓をやっていたようです。 母方は唐津から大久保の殿様についてきたらしいです。
韮山城は比較的持ったけど、山中城が力攻めで、数日で落ちてしまいむき出しになったのが痛かった。
子飼いの家来ばかりなら、小田原城も力攻めもあったかもしれないが、、。
家康の陣があったところは案内板があります。 まあこのあと領地になったんだから、、。
そうなんですね。駅周辺のにぎやかさから、丘陵を上がると静かな環境になるのが対照的ですね。しかしそれなりに勾配がありました。秀吉もやってやれないことはなかったんでしょうが、山中城でもかなりの被害を出したようですので、あえて力攻めはしなかったんでしょうね。
関東ローム層だからこれだけできたのであってもし、武田信玄のように金堀人夫を動員して複数口から城内へ向けて掘削、侵攻したらどうなっていただろうと妄想します。豊臣側も兵糧不足で脱走兵が相次いでいたから後世で思われているほど一方的な戦いでもなかったとのことです。
両側が河だから、穴掘り作戦は穴そのものが出水して不可能じゃね?
鉱山の採掘で地下水に当たることはままあるから川の下を掘り進めるのは問題ないと思うけど。
@@林信彦-x9u 蒸気機関より前の時代に坑道から水が出たら排水できないよ。
@@林信彦-x9u実際にやろうとしても不可能でしょう。土竜攻めというものでしょうが、それはどの道力攻めに繋がり寄せ手側は甚大な被害になるでしょう。
それだけではなく、寄せ手側の全軍全てが秀吉に忠誠がある訳ではありません。
時間をかけてイタズラに兵を減らす行為はかえって反旗を翻しかねません。
信玄がやっても同じです。イタズラに兵を減らしたくないから野戦に持ち込んで(三増峠の戦い)勝利を収めているのです。
資金だって莫大な費用にかかります。兵が多ければ多いほど尚更です。
まとめ
・土竜攻めは力攻めに繋がる事で被害甚大
・寄せ手側全てが豊臣軍ではなく、従属した上での大名がちらほらいる(時間をかけると反旗を起こす可能性も…)
・資金費用が莫大
やってみなはれの精神でして欲しかった。戦史の教訓として後年の203高地で犠牲の抑止になったと思うから。
小田原城は20回以上行きましたが、
こんなにしっかりした丘になっているとは認識していませんでした。
確かに本丸に行くにつれて階段を結構登りましたね😂
この動画を見た上でまた遊びに行きたいです
いつもありがとうございます。そんなに通ってらっしゃるんですね。私もこんなに凄い堀と土塁は初めて見ました。市街化されずに開発から取り残されたことが幸運でしたね。何とか活用してさらに発信され、小田原城の魅力が伝わるといいですね。
現在の小田原城址は江戸時代以降に平野部に近い部分だけを利用し大久保氏が整備したもので、北条期の小田原城本丸は小田原駅西側の丘の上にある小田原高校に本丸が有りました。
@@qzp01467 そうだったのですね😃
この動画は 素晴らしい。ありがとうございました。
こちらこそありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てください。
東海道を仰ぎながらの小田原城はさぞ立派だったろうな!
これ、城と言うより要塞!
大軍で攻めても兵が堀で分断されるから守りやすかったんでしょうね。
今見ても凄い堀なので、当時はもっと深く、攻めにくかったでしょうね。
真田の城取ったのは決定打で
この一件だけで小田原征伐を決めたわけではなく、幾度も上洛を要請されたが拒否し
秀吉を怒らせ、焦った北条はすぐ会いに行くと言いつつ約束の期限を伸ばしに伸ばし秀吉の堪忍袋の尾が切れようかと言う時に沼田城攻めが起きてブチ切れて小田原征伐という感じ。
滝川を攻撃したことを根に持っていたのか?まあ、その可能性は低いだろうけど。
氏政が上洛したら人質に取られるってデマが流れてたって話もあるみたいだし、当時の遠距離間の意思疎通って今以上に大変だったろうねぇ
面白い動画でした。
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね!
8:16この図、地味に興味深いな
逓減率がほぼなく最上階だけ屋根がある三層櫓が4基ほど描かれてるけど後代ではまず
みられない様式
確かに気になりますね。何らかの重層の建物があったのは間違いないと思いますが、この図がどこまで実際の建物に忠実に描いているのか、これだとちょっと微妙かもしれませんね。
小田原城について、わかり易く説明してくれて感謝してます。特に、現在の天守閣と 総構築え との関係は 初めて聞きました。現役の頃は 小田原市内の会社に通勤して、週末は小田原駅前の居酒屋通いでしたが、あらためて 高齢者年金生活者に なって小田原城の歴史を これからも、調査したく、よろしくお願いいたします。
コメントありがとうございます。御鐘の台大堀切、凄いですね。それほど回っているわけではないですが、今まで見た中では規模と残り具合は一番凄いと感じました。現地の案内看板もかなり充実していましたし、ちょうど撮影に行った時は御用米曲輪の調査もされておられましたので、小田原市さんはとても精力的に取り組んでおられると感じました。今はどこの自治体も財政的に大変な時代になりましたが、少しでも小田原城の魅力を見出して、発信して欲しいですね。
姫路城域も凄く広いですが、攻めにくさで行ったら小田原の方が凄まじそうですね。
土だからこそぬかるんでいる所が有るでしょうから、堀から上がる事はかなり困難に思えます。
当時としては最大規模のようですね。ぬかるみはどうなんでしょう? 作った直後は仰る通りだと思いますが、史跡整備された山中城を見ますと、びっしりと草に覆われていますので、しばらくすると草が生えてきて、少しは登りやすくなるような気がしますが、どうなんですかね? ただ、草が生えていたとしても、登ることが困難なことには変わりないでしょうね。
北条氏以降は大久保忠世と嫡男忠凛隣や春日局稲葉正成の長男正勝など徳川譜代大名が歴任するなど実質直轄地となっていった。あと小田和合戦の際 井伊直政等は先方として夜襲をかけて城内にまで進撃したとWikに書いてあった。
幕府も小田原は関東の入り口ですし、重要視していたんでしょうね。
昨日、信長の野望で10万の大軍で小田原城に攻め入ったのに、防衛された。
余りにチートぶりにコントローラー投げつけたよ。
新生だと1660年には、小田原城の耐久が13000になるという
カチカチな城。
古い烈風伝だと、忍者がいないと巨城は無理ゲーだな。
なお天道では大軍の前にはかなり呆気なく落城する。
今の小田原城からは当時の規模はとてと想像できないよな
どうしても復興天守の方に目が行ってしまいますので、北条氏の小田原城の凄さが伝わっていないかもしれないですね。でもぜひこれらの堀と土塁も見てみてほしいですね。
@@yamajiro そうですね、やはり前提知識がないと掘りなどの方には行かなかったり通り過ぎて気付けなかったり、こう言う動画は大変勉強になります。
うおぉぉぉーー名城やな。
遺跡の中に街があるってええなーー
ほんまどでかい城やな。
死ぬまでに一度は行ってみたい。
小田原城の天守はJR小田原駅からも歩いて5分と近く、ほぼほぼ観光地化しております、便利で近い為かお子さん連れも多く適度に親しまれています。私が感じた事は小田原市が「大河ドラマ」を誘致したいんだろうなぁと、毎回ヒシヒシと伝わってきますw
秀吉は力攻めで落とせないというより、物量戦の方が城攻めには効率がいいと考えていたと思う。
そうですね。私もそう思います。
秀吉の凄い所は数十万の規模の軍の兵站を整えたこと、まぁ石田三成が凄いんだろうけど。でもギリギリで結構危なかったらしいね。
八幡山から現在の城を見ると、東海道本線の線路の辺りも堀なんじゃないかと思ってしまうんよね。
おそらく堀の跡だろうと思う。
そういう噂は昔からあった。
小田原市さんの刊行物では、東海道本線の部分は、基本的には北西から伸びてくる丘陵が緩やかに南東に下っていく途中に当たりますので、八幡山古郭東曲輪と本丸方面の曲輪は、一連の丘陵に続いて作られていますが、ちょうどその部分には堀があったようですね。
実は今ある城は
当時の位置では内容です。
その八幡山が本来の位置になります
どれだけ防備を固めた巨城でも後詰がなくひたすら兵糧攻めにあえば(または長期間そうなる事実が動かせないと)陥落するというのは後世に残る教訓ですね。今の日本も本質的には同じじゃないかな。
いくらはじめは意欲が高くても、ずっとそれを削がれるようなことをされ続けると、精神的にやられる可能性が大きいですね。現在に生かせる教訓ですね。
石垣城に登ってわかった事なのだが、この戦は苦戦した訳ではない、これは、わざと秀吉が自分が天下人であると、敵味方に知らしめるために、あえて、時間をかけた、そろそろ全国に知れ渡るだろうと思った秀吉が、官兵衛に交渉してこいと、命令したまで、難攻不落だったわけではない、その証拠に石垣城に公家や茶々まで呼んで、遊んでいた、つまり、テレビやネットのない時代に、自分の力を全国津々浦々まで伝えさせるための戦いである、間違いない
ご教示ありがとうございます。今後の参考にさせていただきます。
中国では都市のことを城市というように城壁が街を囲んで作られおり、これは中国のみならず西洋でも一般的でした。
西安市の城壁は長さ13.7キロ。城壁の高さは12メートル、上部の幅だけでも12メートルあり軍隊が容易に移動できます。
ご教示ありがとうございます。中国はスケールが違いますね!
城の解説は素晴らしいものでしたが、北条氏の領国がちょっと広すぎますね。
小生の地元・常陸の国は佐竹氏の領国でしたし、下野・上野も全部が北条氏のものではなかったはずです。
ご教示ありがとうございます。私の確認不足です。今後の動画づくりの際には気を付けます。今後ともよろしくお願いいたします。
一年中どこかを修復してそう。雑草は生えるし大雨になれば土塁も緩やかになりそうだし、平常時は不便そう。
象徴となるような城は必要だろうけど、ここまで大きくする必要性が素人にはわからん。
どの城でも日常的な修繕は行っていたでしょうね。小田原城はやはり秀吉の攻撃に備えるために総構えを作ったんじゃないでしょうか。
民に愛されていた殿様を放り出すとは😢今でも北条の名前は小田原中で目にしますね。今も愛されている。
そうなんですか。地元では愛されているんですね。外から見ていますと、氏政がもっとうまく立ち回れば生き残れたんじゃないかって思えます。もったいなかったですね。
小田原城は北条氏が大森氏から割譲された城で石垣のある平山城に分類されるらしいですが、北条氏が改装するまでは、どのような風格だったのでしょうか?やはり太田道灌が構築した初期の江戸城のように石垣のない連格式の御城だったのでしょうか?
北条氏が居城とする前の小田原城の縄張りについては、ほとんどわかっていないのではないでしょうか。石垣はなかったと思います。
秀吉の場合、土木戦が得意というか好んだ傾向があるし、派手さを考えれば力攻めで
小牧長久手のような展開を再現したくなかったから、最初から圧倒的兵力(諸国を
従えるというデモンストレーション込)で包囲が基本路線じゃない?普通に
おはようございます、小田原城🏯を取り上げて頂いてありがとうございます。小田原城🏯は、地元ですので、本当の小田原城は、ありませんが、現在のなんちゃってお城よりも後ろの山に本当の小田原城🏯はあり、本当の小田原城は、カラスの色と茶色が入った城🏯で、非常に堅固でかの武田信玄も落とせなかったと言われて居ます、小田原攻めの前の小田原城🏯は秀吉も好きで良く訪れていたそうですが、小田原城🏯攻め以後の小田原城🏯は、秀吉からも忘れ去られ、お城としての機能を失い、他のお城🏯を再建する為の材料として使われ、小田原城は、終わりました、そして戦後小田原に誰が作ったかは?知りませんが、!?コンクリートのなんちゃってお城🏯が出来たと言う事です、😮小田原市も財政が無いと言うのに偽物のお城🏯を作って恥ずかしくなかったのでしょうか?😮
ありがとうございます。今でこそ木造でという流れになってきていますが、当時は鉄筋コンクリートが当たり前の時代だったので、仕方なかったんじゃないでしょうか。小田原市さんは、今でも復元整備に力を入れておられて、頑張っておられるなと感じました。
こんばんわ、ありがとうございます。しかし小田原城には、本物のお城🏯の図面その物がありません、本物の小田原城は、私が高校の時に小田原の地元の本屋の壁に小田原城を本の中で再現した物が立て掛けられて置いてありました、本物の小田原城は、真っ黒なカラスの様な色で所何処に金箔があしらわれ、まるで西洋的な感じに城の周りを漆黒の高い壁で覆いその中にも低い建物を配置した城だったので、それだけ防御が固かったのですから、落とせなかったんだと思います
大山につながる東海道の要衝だったのが強い。
そうですね!
総構えがデカ過ぎ(笑)こりゃ力攻めは困難だ。やれても攻撃側も相当の兵力と損害を覚悟しないと無理ですね。
大阪城や江戸城とも異なり街一つ全部囲ってる城なんて、南京城みたいに中国の城とかヨーロッパの城みたい。すごいな。
秀吉は小田原城の総構えを大阪城に取り入れたようですので、小田原城がその後の城づくりに与えた影響は大きかったんでしょうね。
大阪城も江戸城も総構えを採用してますので城下町を囲んでる城ですね。小田原城の場合はその総構えが国内最大級なのでそりゃもう…。
@@山城守-u6z
すみません。大阪城も江戸城も、元は町を丸ごと外郭で囲んだ総構えの城だったのを最近知りました。現在残っている本丸・二の丸・三の丸だけ見て勘違いしてました。
現在も所々に見附の地名や石垣・濠の跡が江戸城から遠い場所に残っているのは、その名残だったんですね。
この防御力を試したくて豊臣と戦う事にした気がする。
もしかしたら力攻めもすれば落とせたかもしれない。ただその選択を避けさせたのは間違いない。
その通りだと思います。
カッコ良いです🍮高知県の丁野ふみかずです🍮
ありがとうございます。
備蓄兵糧と守備兵力からして、籠城した場合、包囲軍の心理的圧力を除外して考えたら、どのぐらい耐えられる予定だったのでしょうね。
どうなんでしょうか。判断材料を持ち合わせていませんので、お答えすることが出来ませんが、感覚的にはあまり長くは持ちこたえられなかったんじゃないですかね?
こういう地道に研究した成果の共有って、かつては〇〇教育委員会〇〇周年記念行事や自称郷土史研究家たちによる細々とした自費出版に頼っていましたが、世界中に発信できる良い時代になりましたね。
そうですね。だれでも自由に発信できる時代が来るとは、凄い時代になりましたね。
「秀吉も力攻めでは落とせなかった城」とありますが秀吉が力攻めで落とした城って何城がありますか?
すいません、UA-camのタイトルと割り切っていただき、そこはあまり突っ込まないでください。
小田原市は小田原城、忍者風魔党などに力入れてますね。後北条氏の大河ドラマをやってもらいたいのだと思います😊戦国時代のドラマじゃだいたい何時も脇役、悪役、やられ役みたいな扱いですからね。
撮影に行った時、案内看板の多さ・内容の詳しさ、御用米曲輪の発掘調査など、市として小田原城の魅力の掘り起こしと発信に力を入れているなと感じました。計画的に整備が進んで、なおかつ大河ドラマでも取り上げられるといいですね。
見せ場と見せ場の間が長すぎてドラマが作りにくいんだと思います。
小田原城を力攻めして多く損害を出すより囲んで根負けするのんを待って降伏させるのが最高の戦略と謀略で降伏した方がいい考えていた‼️
おっしゃる通りです! すいません。
これ北西南西南東はわかってるとして北の尾根がしっかり深い堀になってるか崖になってないと防御力にならない気がするのだけどその辺どうなの?山削ったんかなあ?
恐らくそれで北西の尾根が堀で取り囲まれて、その部分だけ突出して城内に取り込まれているのではないでしょうか。
小田原合戦かあ☆
こんにちは😊
こんにちは☺
秀吉が力攻めで攻め落とさなかったのは、鳥取城、高松城、三木城もかな。
秀吉の凄さは落城能力が、力攻めの単なる戦闘能力ではない点にある話だから、タイトル盛り過ぎるかな。
松田が裏切って城内を疑心暗鬼にもしてたんだし。
仰る通りです(笑)。でもタイトルとサムネで注目をしてもらいたいので、お許しを。
もし、秀吉が大砲などを仕掛けたら。どうなる。
門司城の戦いのように土の城に対し大砲では余り効果は無いでしょうね。
大阪城では天守へのラッキーヒットがありましたが、後北条氏の小田原城に天守は無いので標的にしやすい高い建物がありません。
力攻めするのならセオリー通りに仕寄り人海戦術により惣構の堀を埋め、櫓などは侍筒のような大口径銃の集中射で沈黙させてしまえば良いでしょう。
もっとも、籠城方もセオリー通りに惣構内に更に堀を掘って対抗するとは思いますが…
堀を全て埋めようと最終的には城内に斬り込む必要があり、お味方にも相応の損害が予想されるので、戦略的手腕と視覚的な威圧で降伏に追い込んだ秀吉の方針が最善手だったと言えるかと。
なぜあんなところにと思える大きさですね。鎌倉を守る地としては最適だけれど海まで近すぎて配置がなさすぎる。
凄いの一言でした。全部残っていたら圧巻だったでしょうね。
真田領攻めたときからケチのつけ始めか……。
こうすれば良かったああすれば良かったってのは後世の人間が結果を知ってるから言えることだ。動員力を見誤ったか伊達や徳川があっさり豊臣になびいてしまったのは大きな誤算だっかもしれない
そうですね。氏政の誤算と判断ミスが北条氏を滅亡に導いてしまった気がします。
遂に地元の小田原城へ来てくれた!ありがとうございます(^_^)
待っていてくれたんですか(笑)? いつも通過地点で天守があるなくらいにしか思っていなかったんですが、丘陵部分にこんなに凄い堀と土塁が残っていて驚きました。開発の手が丘陵地に及ばなくて、城の保全の意味では幸運でしたね。小田原市の文化遺産として広く知ってもらえるといいですね。
秀吉が10万人位の損失を覚悟できれば、力技でも行けたと思う。
そうですね。秀吉は多くの犠牲を払うよりは、包囲網を築いて長期戦に持ち込んだんでしょうね。
クソデカ小田原城
個人的意見ですが、北条も豊臣も堅固な城が有ったのか滅亡だったと考えます
両氏とも相手の大将の首を挙げる以外の勝ちは無い
白兵戦以外の勝ちは無いのに籠城は戦術間違いだ
北条は小田原城があるが故に、秀吉に臣従しなくても負けることはないと考えてしまったんでしょうかね?
別に秀吉は力攻め出来なかった訳では無い。ただ、被害の少ない攻め方を採用しただけ。関白に叙任され、権威が確立されていただけに、圧勝しなければならなかった。だからこその包囲戦だった。
実際に、北条氏の半農半武の兵と秀吉の専業の兵の間でかなりの兵力差があった。だからこそ諸侯が秀吉に従った。婚姻を結んでいた徳川でさえ、婚姻破棄し小田原攻めに参戦した。別に小田原城の堅牢さは関係なかった。
この言い方だと秀吉は力攻めが得意だったように聞こえますがそもそも秀吉って力攻めしたことあるんですか?🙂
いや、そこはあまり追求しないでください(;^_^A。
大阪城もマネして作られた。
総構え・障子堀は小田原城の影響でしょうかね。
城の前に猿のオリがあるところですよね。ものすっごい小さい城という印象でしたが、見る方向がよくなかったのかなと思います・・・たぶん。
昔は天守閣すらありませんでした。
城だけなら小さい方です。「城」だけなら…。
問題は天守閣を中心とした巨大な総構が簡単に敵を近づけさせないようになっているのです。
ちなみに今ある城は、戦国時代にあった場所とは位置が少し違うようです
(地元民より)
豊臣秀吉が、20万の兵力があるんだから、無駄な兵の損傷を避けたからで、豊臣秀吉は、兵糧攻めを得意としていたし🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉
秀吉はこの城だと城攻めは海に逃げられないから兵糧攻めで楽に勝てると踏んでいたんだよね
大阪城も福岡城も江戸城も海に面してる事でも分かるけど退路がなきゃ大した事ないんだよね
その為の支城が周りにいくつもあるわけです(ただし、支城が先に落とされては意味がないのですが)。
とどめに一夜城を建てる事により、北条の心を折った、という人間の心理を利用して降伏させています。
島津攻めたときに、秀吉側の問題点もかなり改善されましたのも、痛かったですね゙。
島津が豊富な金で、秀吉側の兵士買収して、秀吉が島津兵糧攻めしている間、島津氏は、沢山の支城が密売されて輸送された秀吉軍の兵糧と領内に沢山植えられている食べられる木の実でいきのびていたから、石田三成が九州征伐以後汚職兵士をかなり処罰しましたからね。
そのために秀吉側の問題点がかなり改善されましたからね。
島津みたいに秀吉があきれるほど、降伏後も暗殺者おくりこみまくるほどの暗殺者も養成しでませんでしたしね。
秀吉が飲むだろう川に毒流されたり、本陣に、まぐれあたり狙いずっと弓矢や火縄銃打ち続けたり、硫酸とか硫黄使い毒ガス流したりと島津がやばかったのもありますね。
落とせなかったのと、被害が大きくなるから落とさなかったは違う
天然の要害
ですね。
難攻不落を目指したでしょうに。天下のビジョンを持っていなかったのでしょうね。国は城で、落ちない城を作れば国を守れる時代が終わったということですね。
結果を知っている私達から見ると、勝てるわけがないので、服従していれば滅亡はせずに生き残れたのにと思いますが、氏政と氏照、氏直は、負けるとは思っていなかったんでしょうかね?
@@yamajiro北条が負けたのはそもそも官僚政治の悪い所がでたって感じで氏政自体は実は上洛しようとしてた
なんかこういうのって、あとから言えるだけなのに明日をも知れず生きていた当時の人をバカにするコメント残す人って、考えが浅いんだなと思う。
城の防御力 vs 兵の動員力のせめぎ合いにおいて、攻城3倍の原則を超えた動員を掛けられたら、そりゃ想定外だわな。
城に籠もらず関東平野全域を守れば勝てたって事?
始めから秀吉に叶うわけない。負ける確率100%。
関東唯一の城
唯一ですか(;^_^A。でも凄い城ですね。もっと小田原城の魅力が発信されるといいですね。
@@yamajiro 城都のことを城というのなら当時唯一でしょう。
素晴らしい内容で、ちゃんと下調べされており好感持てるチャンネルなのだが…短いBSを延々と繰り返されるのはちょっと……高評価は押したけど、改善してほしい。
なかなか手が回らなくてすいません。今後ともよろしくお願いいたします。
高松も力ずくでは落としてないよねw
UA-camのタイトルですので、あまり突っ込まないでください(笑)。
@@yamajiro
おけおけ!
了解でございます!
小田原なんにもねえからなあと思ってたらテレビで割と頻繁に紹介されていてびっくりした。お城は昔のほうが良かった。今は城の形だけど中が博物館で城の良さが完全に消えた。松本城みたいにとは言わないけど、なんか…うーん…。
近世城郭の方は知られていると思いますが、あの山の中にあんなに凄い堀と土塁が残っていることは、あまり知られていないのではないでしょうか。でも小田原市の財産ですよね。
大阪城の方が硬いぞ
んー、五分五分じゃないですかね……
『大阪城』or『大坂城』
秀吉殿はそもそも力攻めは好まなかったとか
おっしゃる通りです! UA-camのクリック率の向上の一環(なっているかどうかわかりませんが) ですので、お手柔らかにお願いします。
秀吉が力攻めで落とせなかった訳ではなく、しなかったが正解
勝つのがわかっているのに無駄に攻めて被害を拡大させる事はない
死に物狂いだとこちらの被害も大きくなるし
北条には他に味方もいないから
兵糧の尽きたほうが負けるけど
秀吉は全国を押さえていたので、まぁ北条が世の中の動きを読めていなかっただけ
一年早く氏直に上洛させておけばなんてことはなかったのにアホやな
馬で越後からコメを運ぶ謙信は兵糧がなくなって撤退したが、
秀吉は船で兵糧を運ぶので20万の軍勢も養える。
最後は巨大な付け城を作り、小田原の年貢を横取りする体制を作った。
これでは北条氏は降伏するしかない。
被害出るのが嫌で攻めなかったけど無理攻めでも落とせたでしょう流石に
だからこそ力攻めをしないんですよ〜
無理。堀の深さ舐めてる😮
タイトルあれやがそもそも力攻めしたんか?
徳川方の井伊直政などが小競り合いを起こしてます。
その後秀吉から力攻めをしない様に命じられ、包囲に発展します。
その点の事を指しているのだと思います。
補足していただき、ありがとうございます。ちょっとその辺りについても触れた方がよかったですね。
どーなんやろ。力攻めしなくて逆に成功と言える
小田原城より秀吉一人の方が立派だったって事か
結局小田原城は戦闘では落城していないので、やはり凄い城だと思いますが、政治力で負けたというか、なぜ臣従しなかったのか不思議ですね。やはり負けることはないだろうと思っていたのでしょうか。
@@yamajiro 北条家は信長には一度臣従していたけど、直後に本能寺の変が起きて混乱に乗じて破棄した位だから成り上り者の秀吉相手に舐め切っていた部分があるのと、動画の通り徳川や伊達が味方になって長期戦になれば豊臣方に反乱が起きる可能性もあったので、ワンチャン掛けていたのかも知れません。とはいえ、北条方も条件次第では北条に臣従する考えがあったようで、一族の氏規を使者にして豊臣方と交渉は続けられてはいたようでしたが、まぁ色々と悪条件が重なりましたね。
エズマエビスが日本人に屈した戦いか
伊勢新九郎盛時 が 初代 なのだから、後北條氏 が エズマエビス なのかは わかりませんね。
落とす必要、メリットがなかったのでは。
小田原城は北条の本城とも言える最大の城です。
メリットがないにしろ、北条は自ら滅ぼされる口実を作ってしまっています。
攻められる口実がなく、かつ氏政、氏直が秀吉の上洛に従えば、落とす必要も無かったと思います。
伊勢宗瑞な
ですね!
日本の城っぽくなくて、古代中華の城郭都市みたい
土作りの城ですし、これだけの規模の城はあまり類例は多くないかもしれませんね。
×秀吉も力攻めでは落とせなかった
◯別に本気出したら落とせた
そうですね。私もそう思います。
無理😊
北条早雲はやめて😂
みんながわかる通称で言うてるだけでは?
真田信繁より真田幸村と言うようなもんかなと
すいません、自分がなじんでいるのと、伊勢 宗瑞(北条早雲)みたいに言い換えると長くなるので、これで通してしまっています。
@@yamajiro あ〜ごめんなさい🙏イチャモンつけるつもりじゃないんです。
自分も子供の頃から北条早雲、伊勢の素浪人で覚えてきて、
ゆうきまさみ先生の漫画、新九郎奔るで初めて知ったクチです。
いつも楽しく見させていただいております。お気を悪くなさらないで下さい。
そもそも力攻めする必要がない😅
小田原に住んでるから小田原城なんて庭みたいな感じだけど
大したことないよ
いや、こんな凄い城はそんなにないと思いますよ。あまりにも身近過ぎて感じなくなっているのだと思います。
それ今の小田原城だろ😂
規模を履き違えていますね…。400年前の小田原城はまさに難攻不落といえる強さを誇っていました。堀の深さ、城門の数、昔はなかった二の丸に続く赤い橋だって後年に作られたものです。
話は時代と共に盛られているが、中世の城では難攻不落だと思う。約総延長9㎞なので包囲軍は20万を擁した。1年以上の20万人以上の食料の用意は当時では不可能である。
秀吉も徹退を考えたが、平和ボケ井の中の蛙の優柔不断な氏直親子は降伏してしまった。あと3カ月籠城していたら有利な和議を結べた。
どうなんでしょうかね? 結構切り崩しもされていたみたいですし、難しかったような気もしますが。氏政が秀吉に臣従するのを潔しとせずに対決したのが最大の失敗のような気がします。臣従していれば滅亡しなかったと思います。