【ゆっくり解説】纏向遺跡は卑弥呼の都なのか!?

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  • Опубліковано 26 січ 2025

КОМЕНТАРІ • 126

  • @nekozame_history_fan
    @nekozame_history_fan Рік тому +27

    イエズス会は本部に対し大友宗麟を日本の王と紹介していたというような内容を聞いたことがありますが、大友宗麟はイエズス会と交流しやすい地域の支配者だったにすぎず、日本の最大勢力になったことすらありません。それと同じように外国と交流しやすい地域の勢力が、外国に過大評価をされていることもあると思います。
    私たち日本人も、漢や隋、唐も宋も明もまとめて中国と呼んでいますからね。欧州文明は長い間東の国のことをペルシャと呼んでいたという話を聞いたことがありますし、ムスリムは長い間ヨーロッパをフランクと呼んでいたらしいです。外国に対する呼び方は、相手の性質が変化しても、簡単には変わらないのかもしれません。

    • @りゅ-d7l
      @りゅ-d7l Рік тому +1

      とはいえ魏が金印まで与えたクニはクシャーナ朝と倭国のみ。記載内容をみるとクシャーナ朝とも負けず劣らずの大国扱いです。
      東夷伝をみても朝鮮半島の国々よりも扱いは上で記載文量も特別扱いです。朝鮮半島のクニグニに金印など与えていません。使者が長期に渡り滞在しているのも異常。

    • @天草屋
      @天草屋 11 місяців тому

      そういえば、たしかに1971年の台湾の国連脱退、あるいは72年の日中国交回復までは、台湾が「中国の正統政府」でしたよね。

  • @りゅ-d7l
    @りゅ-d7l Рік тому +14

    纏向遺跡の全体像をみると大型建物等が見つかった位置や箸墓の場所、また三輪山、大神神社の位置は景行天皇陵、崇神天皇陵とは区画が違うエリアだと感じます。
    また箸墓の規模も同時代の崇神天皇陵より巨大で五段築成。そしてなによりも国内初の大型前方後円墳であり日本書記でも他の古墳にはみられない神秘的な記述。
    とてもただの皇女の墓には見えません。卑弥呼の墓であるかどうかは別にして今後の解明に期待します

    • @majesty164
      @majesty164 Рік тому +7

      私は最近、崇神天皇の在位前期を、
      "239〜240年:百襲姫卑弥呼への親魏倭王号の授与=崇神即位年、
      247年頃:百襲姫卑弥呼没後の倭国内の混乱=百襲姫没後の男王(統治王で崇神在位初期の崇神のモデル的人物・桜井茶臼山古墳被葬者の可能性)
      が祭祀王の役職を統治王に統合しようとした(その正当化の為に流布された物が百襲姫没時のおかしなエピソードとして残った)
      元々卑弥呼共立で合意していた連合国の反発を招き
      (魏志の「国中服さず」)、
      男王はそれを収める為に卑弥呼の後継となる祭祀王=臺与を立てる(崇神と豊鍬入姫の説話の基となり、
      宮中祭祀の分離、笠縫邑などへの分祀を経て伊勢神宮へ繋がっていく)"
      概ねこの様な流れでは無いかと推測し、
      上記の崇神在位初期が邪馬臺国(纒向辻地区の第一期居館運用期)としてのヤマトで、
      その後、宮が纒向から離れる一時期(崇神の磯城瑞籬=桜井茶臼山古墳と至近)、
      纒向(穴師山周辺、垂仁纒向珠城、景行纒向日代に該当する想定・纒向第二期王都)
      この辺りにヤマト王権成立時期が該当する流れを想定しています。
      三輪山=辻地区居館から見て概ね収穫期(新嘗祭の原型を想定)に太陽が昇る方角であり、
      三輪山信仰は元々太陽信仰・祭祀から転じた物なのかも知れません。
      陵墓築造のエピソードの存在や規模の隔絶性から、
      箸墓が日本書紀編纂時にも別格の認識をされていた事は間違い無いですね。

    • @りゅ-d7l
      @りゅ-d7l Рік тому +6

      @@majesty164
      考古学の世界では邪馬台国論争は終了しヤマト王権との繋がりの考察へと移行していますね。謎の大王墓桜井茶臼山古墳や謎の鉄製品出土の黒塚古墳の解明等に期待しています。
      祭祀王、統治王の2系統の解明も面白そう。
      ネットでは今だに魏志倭人伝の解読や浅い、古い考古学的知見からの推察ばかりで温度差を感じます。

    • @hayek218
      @hayek218 9 місяців тому

      ​@@りゅ-d7l
      考古学でもどの分野でも、学者は細分化された小さな小さな分野を突き詰めているだけで、まだ到底全体解明とはほど遠いと思いますよ。遺跡だって、まだ全体のたった数パーセントしか掘り起こしていませんから、こんなんで全体が分かるわけ有りません。だいたい、自分たちが信奉している魏志倭人伝の邪馬台国の記述と、纒向の様子がまったくといっていいほど違うではないですか。
      そもそも史学を無視して考古学だけで全体をとらえようとする試みが無理だと思います。記紀があるのに、それを見て見ぬふりをする。モモソヒメは認めても、親の孝霊天皇や前後八代は欠史とする。神武東征もなかったという意見を持つのは構わないが、その論拠の源泉を追い詰めていくと、「神武天皇なんていたわけないでしょ」という学問とは思えない理由以外はない。こんなご都合主義では自然科学をやった人間から見れば、全然ダメですね。こんなレポートは自然科学の世界だったら読まれもしませんよ。
      そのデタラメの根底にあるのが、戦後GHQが行った日本史否定。その最先端を担ったのが東京大学。彼らはまず、古代史を調べる前に、自分たちの歴史を調べるべきだと思います。
      考古学としていえることは、あくまでも、考古学的な知見ははこうですということのみ。それ以上ではないし、あってもいけない。

  • @yaizudamashii
    @yaizudamashii Рік тому +8

    纏向遺跡は本当に卑弥呼と同時代なのでしょうか。纒向で出土した桃の種数千個で年代確定されたのが12個、しかも当然炭素同位体測定なので数十年の誤差があると聞きました。あとは邪馬台国は環濠集落であるべきなのに纏向遺跡には環濠がありません。ひょっとしたら邪馬台国より後の時代の遺跡かもしれません。今後の研究を待ちます。

    • @海原かもめ
      @海原かもめ 11 місяців тому

      炭素14 での年代測定はかなりの誤差がある。特に250〜350年頃は、炭素14では確定できない。図5参照
      www.jrias.or.jp/books/pdf/201912_HOUSYASENRIJUKU_SAKAMOTO.pdf

  • @toyoashihara6242
    @toyoashihara6242 Рік тому +1

    非常に説得力があります

  • @yuichironakamura1642
    @yuichironakamura1642 Рік тому +15

    私はそこまで歴史に詳しい訳ではないですが、邪馬台国畿内説の人の根拠の多くが「当時の日本の中心が近畿だったと考えられる」ことに基づくのには、以前から違和感を覚えていました。魏志倭人伝には、あれだけ九州の地名が出て来て来る一方、畿内や、九州〜畿内間の地名が全く出て来ないところからも畿内説への違和感は強い。
    長年私がモヤモヤしつつも、自分ではそこまできっちり言えなかった部分を、深い知識を基にしっかりまとめて下さったことに感謝!すっきりしました。

    • @Mr.Nobody-rk3eo
      @Mr.Nobody-rk3eo Місяць тому

      邪馬台国畿内説は、考古学でも歴史学でも、今の大学の学会では圧倒的に主流だよ
      九州の大学の先生でも、殆ど畿内説
      九州説を唱える人は殆どが在野の歴史愛好家が殆ど

  • @blaukreuzer
    @blaukreuzer Рік тому

    いつも楽しく視聴しております。
    ご参考ですが、朝日カルチャーセンターの歴史系の講座などを受講するとまだ書籍化されていない最新の話なども聞けて参考になりますよ(そのまま引き写し・転載して動画化したら問題になると思いますが)。
    私は考古学関係の講座を受講して、(お金はかかりますが)結構楽しんでいます。

  • @ぐりま-y2p
    @ぐりま-y2p Рік тому +4

    「やまたいこく」っていう名称というか読みが話をややこしくしてるの…あると思います😂

    • @jsetagaya1482
      @jsetagaya1482 Рік тому +4

      九州の山門なのか大和なのかややこしいところはありますね。読みが同じだから大和王権=卑弥呼みたいに考えてる人は多いと思います。

    • @くじらん-w7l
      @くじらん-w7l Рік тому +2

      私も「やまと」が本来の読み方だと思っています。
      ある説がありまして、当時「やまと」は一般名詞として使われていて、
      山で人の多いところが「やまと」と呼ばれ、
      水辺で人が多いところが「みなと」と呼ばれていたという説です。
      日本中に「やまと」と呼ばれる地名がある理由としてとても納得できました。

    • @綿帽子-x4s
      @綿帽子-x4s Рік тому

      魏の人が日本人の発音から漢字を当てたと思うんだけど、はたして今の発音と当時の発音は同じなのかな?
      今の発音から「やまと」に似てるから、前身と言われてるけど。
      勿論「やまと」も当時の発音は今と違うかも知れないけど。

  • @malkotoisu9730
    @malkotoisu9730 Рік тому +6

    しかしそうすると大和と魏が国交がないなら魏の年号の入った鏡をどうやって手に入れていたのかという疑問が生じることになるけど

    • @ねおぞえ
      @ねおぞえ Рік тому

      「俺は魏の皇帝の臣下やぞこれが証拠や。」といって邪馬台国が周りの大国に配った可能性はどうです?

    • @malkotoisu9730
      @malkotoisu9730 Рік тому +3

      @@ねおぞえ うーん。そうなると九州のライバル国が滅んだ後も同じ鏡を大和が全国に配り続ける理由もよくわからんけどな

    • @Arthur-en7jm
      @Arthur-en7jm Рік тому +7

      魏の年号で3年で終わったのに景初4年とある鏡が複数見つかっているので、年号が変わったことを知らずに日本で中国の技術者が作ったんじゃないかと言われていますね。
      三角縁神獣鏡は魏から下された鏡ではないですね。

    • @ねおぞえ
      @ねおぞえ Рік тому +1

      自分は邪馬台国九州説派。

    • @malkotoisu9730
      @malkotoisu9730 Рік тому +4

      @@Arthur-en7jm ただコピー元と言われている画紋帯神獣鏡も畿内からでてくるので、やはり畿内が手に入れて三角縁にして大量に配ったんだと思うけど

  • @nekono_mimikon
    @nekono_mimikon Рік тому +6

    纏向遺跡の防備に関して言えば、後背に谷津を持つ山が迫り前面には川が流れる堅固な地形ですし、他国より多く人口(=兵力)を抱える邪馬台国であればわざわざ環濠で狭く囲う必要が無かった可能性もあります。
    戦国時代の城の様に切所だけ重点的に守れば、あとは惣構を構成する天然の要害で対応できるのでしょう。
    防備=環濠と考えてしまいがちですが、障害としては自然地形の方がより強大で堅固なのですから。

  • @下手の横好き-l2i
    @下手の横好き-l2i Рік тому +1

    纏向遺跡と唐古・鍵遺跡は、別個の遺跡と捉えるのが正しいんだけれど、徒歩で2時間の距離なので、同じ勢力圏の中にある2つの都市遺跡と捉えるべきだと思うんですが、邪馬台国がらみになると、そういう考察にはならない。これは不思議です。なお、唐古・鍵遺跡と纏向遺跡の中間あたりでは、昭和初期まで大阪からの物資が船で運ばれていたとの話もあり(亡き祖母の思い出話)、遺跡と遺跡を結ぶ流通路に関しての考察も、学界でももっと進めてほしいところです。

  • @影森治-e1h
    @影森治-e1h Рік тому +3

    3世紀前半の近畿圏の遺跡から中華王朝の元号が刻まれた金属器でも出てこないことにはなぁ

    • @Mr.Nobody-rk3eo
      @Mr.Nobody-rk3eo Місяць тому

      出てきているよ、とっくにね
      東大寺山古墳出土の中平銘鉄刀

  • @ぷくぷく-s9k
    @ぷくぷく-s9k Рік тому +1

    時系列の問題もありますよね、邪馬台国があった年代には邪馬台国が最大の国家だったと仮定したとしても
    その前後の時代にもっと大きな国があったかもしれないし、同一の勢力だったとしても遷都などする可能性もありますから
    よほど記述などが一致していない限りは厳しそうには感じます

  • @toshirouhorino
    @toshirouhorino Рік тому +1

    その通り、纒向が邪馬台国なら、皇統のヤマト王権は魏の冊封下にあったことになる。

  • @kooota7455
    @kooota7455 Рік тому +1

    国がどういった経緯で大規模化していったのかがカギになりそう。
    市町村レベル→県レベル→地方レベル→国家レベル・・・
    3世紀あたりは地方レベルでの統廃合が進んだ時代じゃないかな?

  • @縄文カピバラ
    @縄文カピバラ Рік тому +3

    知人が発掘に携わってましたが、期待した成果(つまり邪馬台国の痕跡)は得られずでした
    と落胆述懐してました。
    まだ桜井まほろば線の線路沿いの遺跡が残ってますが、
    観光地域でもあり運行停めてまでやるとは到底思えません。
    というか、このような非邪馬台国の風潮の中で辻地区発掘の予算はもう簡単には降りないのではと思います。
    この方面での今後の進展はあまり期待できそうにはないかと思われます。
    私自身は
    巻向遺跡は大和と関係なく「ニギハヤヒ(大物主)の王都」と考えています。
    因みに辻地区の建物Cの
    大型建物は、
    識者の見解でも宮殿跡(大社造り)との見解です。それと、
    ホケノ山古墳は出土遺物等から布留Ⅰ期の推定300年前後との比定が一般的です。

  • @kyokatayama1845
    @kyokatayama1845 Рік тому +3

    戦時中の参謀本部の天皇陵認定がホント邪魔してるなぁ
    景行天皇の「美濃から帰られた」の記述は東海地方の土器の多さ(結びつきの強さ)を示してるので、裏付けがとれているようにも見えますね。

    • @古屋公夫-s9s
      @古屋公夫-s9s 4 місяці тому

      邪馬台国はヤマト国と発音して、現在も奈良県を指しています。
       魏志倭人伝の時代に奈良県では第10代崇神天皇を中心として大和政権があり政治及び祭祀が行われたいました。
      この大和政権は神武天皇が橿原神宮で紀元前60年に即位されて以来、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇、崇峻天皇、清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武烈天皇、継体天皇、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇、敏達天皇、推古天皇、用明天皇、崇峻天皇、舒明天皇、孝徳天皇、皇極天皇、斉明天皇、天智天皇、弘文天皇、天武天皇、文武天皇などと歴代天皇が続き、都が京都に遷都されるまでの間大和政権が継続しました。

  • @hototogisu185
    @hototogisu185 Рік тому

    日本全土が倭国の領域であったというと平安時代とかまだ坂上田村麻呂が統一するまでは独立勢力だったし。倭国大乱の範囲とかも違うのでしょうね

  • @dauny08
    @dauny08 6 місяців тому

    個人的に景行天皇の土蜘蛛討伐とか日本武尊の熊襲討伐は倭国大乱と何らかの関係性があるきがする

  • @浅見広明
    @浅見広明 10 місяців тому +4

    邪馬台国が当時の日本列島の中で最大規模の国であると云う事自体が間違いであると考える。
    もし最大規模を持つのなら、邪馬台国は東日本側である。これは縄文時代初期から継続して文化と主権を持ち続けられたのが西日本側ではなく、東日本側であるから。だが、それでは九州北部の勢力の事を検証付けられない。そして西日本は鬼界カルデラ噴火により過疎地化した後、大陸からの再入植により国が興ったと考えるべきなので、この入植者は多民族の傾向があり、大陸からの渡来人が主体と考える。
    九州北部は多様な人々が中華の戦乱により難民として上陸し、これに加えて朝鮮半島に逃げていた元縄文人も帰還して、混沌と混乱に平和が乱れていたと想定する。これを危機と感じたのが東日本側の有力国。東日本連合は出雲を筆頭として西日本の「平和化」を目的に前線拠点を畿内に置く。すでに出雲は交易のための拠点を出雲と丹波にあるため、大陸からの入植者が日本海側に進出して来なかった。そのため山陽地域に入植が延びていく。
    纏向がいつ使われたのかは不明。たが、大和王権の拠点こそが畿内であると考えるから、纏向は必ず主要都市であったはず。

    • @あいう工夫
      @あいう工夫 4 місяці тому

      あなたの主張は、
      小説としては面白いかもしれないが
      Xファクターや、仮説に仮説を何十にも重ねており、
      正直、無理筋と思います。
      邪馬台国時代最大の遺跡が纏向でもないし、
      最大の土木建造物が箸墓古墳でもない。
      また、纏向周辺は、鉄器の出土が著しく少なく、
      同時代の北部九州等に比べると、武装解除されているレベルです。 
      北部九州・丹後半島・高志はその時代、鉄器文明に突入していた。
      出雲は青銅器文明
      それに対すると、
      纏向周辺は青銅器文明にも至っていないレベルで、
      金石文明といえる。
      だから、纏向を政治都市とか、
      前線基地だとかナンセンスなのです。
      そして、邪馬台国時代最大の遺跡であり、
      最大の建造物は
      築年、西暦240年±の鑑定結果も出ている、
      太宰府羅城と考えられます。
      太宰府羅城は、版築の壁での周囲50キロ以上ある、
      巨大城郭都市(総構えの城)
      なのです。
      太宰府羅城は、女王国(邪馬台国連合)の構成する國の中でも、超重要國の伊都國と、それに近接する日本列島最古の國の奴國に近接するか、
      そのどちらかの國の可能性もある位置にある。
      筑後平野と福岡平野を司る位置に有ることも併せ、
      そこに有る地政学的意味は、
      邪馬台国連合の
      核心的巨大軍事施設であり、
      核心的巨大城郭都市(総構えの城)
      と考えるのが自然である。
      また、邪馬台国連合は狗奴国と戦争をしており、
      かつ、西暦240年前後に.
      支那のテクノロジーである版築工法による壁で、
      空前の巨大城郭を造営するのは、
      それこそ、
      魏国から女王国(邪馬台国連合)に派遣された使者である、
      軍人の張政ら、
      実質の軍事顧問団の関与が強く疑われる。
      なぜなら、西暦240年前後に、
      倭国や邪馬台国連合だけ(純倭製)で、
      支那のテクノロジーである版築工法での壁で、
      空前の規模の巨大城郭を建造する為の、
      知識や経験・ノウハウが無い可能性が極めて高いと考えられるから。
      そして、北部九州・丹後半島・高志は邪馬台国時代、鉄器文明に突入しており、
      それと併せ、
      北部九州の空前の巨大城郭都市を造営するだけの、動員力なり政治力戸その権力構造なり、それを可能とさせるだけの人口が居たと考えられる。
      結論
      邪馬台国時代
      北部九州は他の地域と相対し、
      隔絶した巨大勢力があり、
      近畿・東日本の勢力とは、隔絶した存在であり、問題にならないレベルである。
      北部九州が隔絶した国力差から、
      出雲・近畿・東日本に影響を与える事は有ってもその逆は無いと言えよう。
      しかし、邪馬台国時代には、広域に、政治力を行使できるとは思えない。
      なぜなら、
      数百年後の継体天皇時代でも、
      最速の伝達手段かつ、
      強力な機動兵器である、
      馬が導入されていたが、
      近畿から、北部九州をグリップ出来ていなかった為、
      筑紫野君
      磐井の乱が起こったからだ。
      邪馬台国時代は馬も導入されていない、
      さらに昔の物事である、
      尚更、無理がある

    • @浅見広明
      @浅見広明 4 місяці тому

      教科書通りに検証すればその通りです。
      僕は九州北部が一国にまとまったのは難しいと思っています。中華の歴史を見れば秦朝の統一までの経緯を見れば渡来人の出身地がイチ地域であると考えられません。そして多地域に及べば他民族の状態による混乱は避けられません。渡来人が日本列島に渡海した理由が学説ではどうなっているのか?僕は戦乱による追放、迫害による逃亡者がほとんどだったと思うのです。
      問題は渡来人が渡海して日本列島に上陸し始めてからの縄文人達の動向です。
      考古学ではそういう事は追求しません。地中から出て来た物から推測検証します。また古文書の読解に依存しなければなりません。
      日本列島において縄文人の生活は「交易」と云う経済活動によって生活や文化レベルの均一化が長い時間をかけてされてきた特殊な地域だと思っています。それが一万年を超える平和を維持出来、ないものねだりをしない社会、簒奪を否定する民族へと育ったと考えます。
      その民族社会の真隣に無いものは奪えと云う歴史を繰り返す民族がやって来たら…どうしますか?
      縄文末期から弥生時代と云う時代はそういう悪い方向への変化の時代だと言えると思っています。
      僕は考古学に関してど素人もいいところです。
      なので、ご説明いただいた内容がよくわかりません。
      そんなに人口の多くはなかった時代に纏向遺跡が古代の大都市と言えなかったら、あの遺跡は何?ですか?別に纏向遺跡が何でも僕は重要視してはいないのでどうでもいいんですけれど。
      僕は単に卑弥呼の墓(居住地等)ではないと言ってるだけですから。
      本当に知りたいのは、邪馬台国がどの民族が主体の国(地域)だったのか?です。
      僕は縄文人の国(地域)ではないと考えているからなのです。

    • @あいう工夫
      @あいう工夫 3 місяці тому

      倭人とは、日本列島や韓半島南部に居ただけではない
      支那大陸(ユーラシア大陸)にも居たと考えられる
      倭人の居住域は狭くなったり広くなったりしたが、
      大まかな流れで見ると日本列島側に後退している
      そして白村江の戦いでユーラシア大陸への足掛かりを遂に失った
      鉄の加工方法や、埋葬方法を考慮すると長江流域の春秋時代の呉や楚の国との文化の親和性が高いと思います。
      春秋前期までは、呉や楚は中華ではなく、蛮族と考えられていた
      中華に入るまで、彼らが何人と言われていたか分からないが、その一部は、倭人と呼ばれていた可能性はあります
      そして呉の国の王族の姓は「姫」姓であり、
      楚の国の王族は「熊」である。
      卑弥呼や卑弥弓呼の「卑弥」は当て字だと考えられるが、
      邪馬台国時代の音韻的には「姫」とも読める
      そして九州には「隈」とか「熊」のつく地名が多い
      余計なお世話ですが、
      興味があれば、調べてみたらどうでしょう
      あと、
      纏向が小さいとは言って無い
      太宰府羅城が断トツで最大だと言っているだけだ
      また、纏向が鉄器時代に至っていないのは考古学的に明白であり、
      鉄器文明に至っていない纏向のような金石文明や石器文明が、
      日本海側の北部九州・丹後半島・高志の鉄器文明地域を政治的・軍事的に凌駕する事は
      単に、文明の逆転現象となるので、
      極めて考え難いと主張しているだけである。

  • @kyupytarou
    @kyupytarou Рік тому +3

    ざっくりのお話ありがとうございます。
    諸説あります。
    九州説 近畿説との違いなど分かりやすく説明されていました。
    門前の小僧にも理解できて古代に関心持たれる方が増える事を期待します。
    近畿説を唱える人は大学関係だったり専門家だったりが多く見受けられます。  真偽の追求と言うより邪馬台国と卑弥呼をネタに盛り上がらせて発掘調査を強行させたいように思っています。 いつかは発掘調査される日が来るとは思いますが神聖なお墓を暴くのに躊躇いもあります。
    神聖な場として発掘調査の出来ない古墳や神社が各地にあります。 学術的な進展を妨げているのは事実ですがむやみに掘り起こすのには反対します。  高松塚古墳の壁画の保存があんな事だった様に後世に残す事の難しさをもっと知るべきと思います。

  • @たにぴょん-b4y
    @たにぴょん-b4y Рік тому +1

    めっちゃまわって回って本居宣長に戻った。て感じ。

  • @無茶我トオル
    @無茶我トオル 2 місяці тому

    纏向遺跡から出土して無い土器は一地域しかない。
    氷川紋土器を使う、出雲系安曇族の姫川から信濃川流域の民、纏向ヤマト大王家と全面戦争しててゲリラ戦や頂上作戦つまり天皇家アンサツ作戦なんかもしてたから、戦争終わっても、怖くて居住を認められなかった、ただ一つと種族集団である。

  • @shou-sho
    @shou-sho Рік тому +5

    卑弥呼の時代、福岡平野からは畿内系の土器が見つかっています。
    畿内から北部九州への一方通行で、最終的に在地系の土器は駆逐されてしまうんです。
    ということで、畿内説否定に土器の話題を持ってくるのは逆効果かな?
    あと今まで目に入らなかったということはたぶん読みたくないでしょうけどw
    畿内説の考古学者としては、西谷正・白石太一郎・都出比呂志・寺沢薫・福永伸哉(敬称略)
    が代表的なところでしょうか?

    • @りゅ-d7l
      @りゅ-d7l Рік тому +6

      というか現役の考古学者で九州説の人を探すほうが難しい。
      UA-camでは九州説で溢れていますが素人が考える否定内容ぐらい専門家が知らないはずがない。第一に国内最大勢力だけが理由ではないですけどね。
      土器や墓の分布だったり遺跡の流れだったり。専門家なら纏向だけをみず全国の考古学的知見があります。
      専門家にも間違いがあるかもしれないがネットに溢れる素人の九州説も眉唾。九州説に都合のいいことしか言わないから。

    • @majesty164
      @majesty164 Рік тому +4

      @@りゅ-d7l
      様々な動画で見かける"畿内説の弱点"って、
      実は同様に"九州説の弱点"にもなってしまう物が結構ある様に思います。
      環濠集落の有無は、却って九州に倭国乱収束後の安定期が無かったと解釈できてしまいますし、
      纒向・箸墓などの年代を4世紀以降にする解釈では土器編年などの兼ね合いから九州方面の多くの遺跡年代も後代にスライドしてしまう可能性もある筈なんですが、
      その辺りを加味した考察はネット上には余り見られない印象を受けます。

    • @りゅ-d7l
      @りゅ-d7l Рік тому +6

      @@majesty164
      おっしゃる通りです。全国に数多ある遺跡の中で纏向遺跡だけ炭素年代測定からのみで年代測定しているかの論調(動画主は違います)当然土器編年等からも年代を推定しているわけで。纏向の年代がおかしいなら多くの遺跡の年代もズレます。
      また素人が簡単に土器編年の間違いを指摘するような動画もありますが全ての遺跡の膨大なデータから編み出したものなのにデータ収集すらままならない素人が簡単にくずせるわけありません。

    • @あいう工夫
      @あいう工夫 4 місяці тому

      纏向・近畿説に都合の良いように捉えるとそうなるの?
      地域間の、交易なり移動と捉えると
      そうはならないね
      基本的に先進国は、輸入超過
      人口も、転入が超過となりやすい。
      そして、邪馬台国時代最大の遺跡かつ、最大の建造物は太宰府羅城であり、版築工法の壁の周囲50キロ以上の巨大城郭都市(総構えの城)だ。
      昔も、今も
      都会に人・モノが集まる
      当たり前の事を表しているだけでないの?
      そして、
      纏向に外来土器中、九州の土器が
      1%もないのは、
      九州方面から、纏向に来る魅力が著しく無いド田舎(鉄器文明の先進地域からしたら、青銅器文明にも至らないレベルの後進国)か、
      纏向権力が、九州方面からの通行を遮断するか、同地域の人モノを所払いするかだ。
      九州方面から、纏向に行くことを阻止するのは現実的ではないから。
      そして、そのうちの
      後者もあり得る、
      同時期の、上地青井谷遺跡から脊椎カリエスの人骨が出土している。
      疫病は移動により起こる、
      そして、列島での起点は当然、列島外部との接触が頻繁な北部九州からの可能性は高くなる。
      そのための、対策かどうか、、
      また、
      コモディティを
      先進国の、その高度人材に担当させるのは人的資源の浪費となる。
      コモディティは後進国なり、先進国への移民、高度人材でない層に担当させるのが全体としては効率的である。
      そして、そのような事をしなくても
      「神の見えざる手」が働く
      現代でもMade inなんたら国の
      コモディティが溢れているが
      古代ではそうではないと?
      土器は先進国が作るべき付加価値の高いモノ(高級品)?
      民草にも必要な日用品ではないの?

  • @jsetagaya1482
    @jsetagaya1482 Рік тому +8

    纏向遺跡は垂仁天皇の宮廷という伝承があるのになぜ卑弥呼にすり替えてるのか不思議ではあるよね。

    • @りゅ-d7l
      @りゅ-d7l Рік тому +6

      ①纏向遺跡の出現年代が垂仁天皇、景行天皇、崇神天皇の在任時期と合わない
      ②纏向遺跡はあまりにも巨大な為に1世代限りの遺跡ではない
      ③箸墓古墳や大型建物があるエリアと崇神、垂仁、景行天皇陵のエリアとは離れている

    • @hayek218
      @hayek218 9 місяців тому +2

      @@りゅ-d7l
      ①自分たちが考えている在任時期と合わないだけで、確定された在任時期はない。
      ②一代で都を創ったとはどこにも書いていない。
      ③それらの天皇陵も推定の域を越えていない。

  • @gc8zacc3
    @gc8zacc3 Рік тому +1

    あと絹も追加で

  • @keeperofthe7keyspart
    @keeperofthe7keyspart Рік тому +2

    大塚初重氏の「邪馬台国をとらえなおす」を読むと現時点の考古学上の証拠から箸墓古墳を卑弥呼の墓だと断定できる状況にないと書いておられますね。
    実際に発掘して埋葬者が女性であることや奴婢百人の骨などが出てこないとはっきりとしたことは言えないのではないかと考えています。

    • @りゅ-d7l
      @りゅ-d7l Рік тому +5

      ただし大塚初重氏は同書において畿内説を支持しております。箸墓はまだ調査不足であり断定はできませんね

  • @kappanouen
    @kappanouen Рік тому +2

    一番の太客(大富豪)が初回来店時選んだ嬢が必ずしも(その選ばれた段階では)その店のNo1ではない、って話ですよね笑
    もちろん最強の太客をバックに付けた嬢がその後その店のNo1に昇り詰める”かも”しれませんが🙃

  • @海原かもめ
    @海原かもめ 11 місяців тому +2

    桃太郎の都

  • @gorinbasi
    @gorinbasi 5 місяців тому

    「卑弥呼の都」なんて未来永劫見つからんでしょうね、この場所が当時の天皇の政治的中心都であればソコが祭祀王たる卑弥呼の所在地でしょうね。

  • @SK-dj6zd
    @SK-dj6zd Рік тому

    織田信長が尾張→美濃→近江へと本拠地を移転したように、邪馬台国も東進した説ってないのかな
    この動画で東海地方の土器が多く出てるって言ってるとこ考えると纏向遺跡は西進してるようにも感じるけど

    • @shangtian-i3c
      @shangtian-i3c 10 місяців тому +1

      自分はないと思いますね。
      大陸という当時の先進地域に近い場所から遠い場所へ遷都って、大陸から攻められてとかじゃないとしないと思います。
      移民集団の移住ならばありえると思いますが

    • @golpie
      @golpie 4 місяці тому

      あるにはありますが、時代考証的には神武東征の話と被ってくるので定説にはなっていません。

  • @えっちゃんあるばむ

    読み、が、かなり難しい😂

  • @bobuGsan
    @bobuGsan 6 місяців тому

    邪馬台国とありますが、元の記載では台ではなく壹という字が使われています。
    壹(いち)と読みますがあしには豆という字があるので、当時はトウと読んだ可能性があります。
    すなわちヤマトウ国ですね。
    これが奈良の大和を指すと考えがちですが、そもそもヤマトは最初は山門だと言われてます。
    山が門のように構えている地形を考えると中央構造線によって南北の山に囲まれた吉野川流域を思い描くのです。
    これは私の個人的な考えです。
    倭国大乱があったとされる時期に瀬戸内海周辺に高地生集落が増えました。
    おそらく大乱の中心は山陽地方、四国地方だったのではないかと推察します。
    中央構造線の先に奈良盆地が有り、そこが大和になったとはこじつけでしょうか。

  • @亜紀小山
    @亜紀小山 Рік тому

    その頃って大陸と沖縄所謂琉球との交流とかはまだまだだったんでしょうか?

  • @abeyoshihiro0921
    @abeyoshihiro0921 Місяць тому

    纏向は普通に大和の都です

  • @ロドリゲス-q1h
    @ロドリゲス-q1h 11 місяців тому +5

    やはり纒向がただの大きな都市ではなく方角をそろえて計画的に作られた先進都市というのが決め手になりますね
    纒向が大陸の都市づくりの技術を学んでいたのは確実で、もし九州の国が対馬を抑え魏への交易ルートを独占していたなら纒向はどうやって魏へ渡っていたのか?となってしまう
    当時の最先端の都市が九州を飛び越えて畿内から始まっている以上、その時点ですでに九州北部や対馬は畿内の勢力範囲に入っていたのでしょう

    • @あいう工夫
      @あいう工夫 4 місяці тому

      無知を宣言するのはどんな気分?
      太宰府羅城と較べたら
      纏向は小規模
      太宰府エリアに他の地域と隔絶した勢力がいたと考えられる

  • @bakermaria3231
    @bakermaria3231 Рік тому +1

    糸島→伊都
    この説は、正論だが…
    この時代は、九州と大和王権で軸を持ったことになりそう。

  • @takeshi492
    @takeshi492 Рік тому +3

    ごめんなさい、前漢から晉の時代が行ったり来たりして分かりづらいです。編年から発表者様なりの時系列を明確にしてからじゃないと混乱してしまう😢

  • @愛国者-f2u
    @愛国者-f2u Місяць тому

    纒向遺跡→近畿説の根拠
    佐賀県吉野ヶ里遺跡→九州説の根拠
    そしてあらたに四国説出てくる
     とりあえず纒向エリアが繁華だった=邪馬台国?とは限らない 魏の使者が知らないエリアがあったかも

  • @may23k68
    @may23k68 Рік тому +1

    邪馬台国が首都とか支配とか
    違うと思うけどね。
    まあ、邪馬台国は九州以外と思います。
    卑弥呼が九州にいたと思いますよ。

  • @show_kazitani
    @show_kazitani Рік тому

    倭国関連が一万再生平均的に出してたり、
    始皇帝が一万行かなかったり
    番吾が回ってたり
    わからんなぁようつべは

  • @messer-zj1pk
    @messer-zj1pk 7 місяців тому +1

    目くそ鼻くそ…かなあ

  • @toshirouhorino
    @toshirouhorino Рік тому

    魏志倭人条は、倭人の住む倭国を舞台に書かれている。では倭国とはどの範囲だったかだが、、
    多くの論者の場合、倭国は畿内ヤマト朝廷の地まで広がっていたとか、神武東遷が紀元前であったとかいう江戸期以来の皇国認識が根底にある。しかし倭人条の「末盧国からの方角里数」及び「倭国の東渡海千余里復国有り、皆倭種」の記述からして、帯方東南大海中の九州島を舞台に書かれた地誌・地理書であること明白。ヤマト朝廷や神武東遷とは無関係なのである。

  • @MsIrina24
    @MsIrina24 8 місяців тому

    そもそも卑弥呼と神武天皇が大雑把に考えて同一時代ですよね

  • @古屋公夫-s9s
    @古屋公夫-s9s 4 місяці тому

    纏向遺跡は第11代垂仁天皇、第12 代景行天皇の時代であり、唐古・鍵遺跡は第10代崇神天皇の時代の都です。
     又、初代邪馬台国女王卑弥呼は正式な名前を倭母母曽毘売命と言います。
     倭母母曽毘売命は第7代孝霊天皇の皇女であり、紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
     従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。

  • @成子坂酔郷
    @成子坂酔郷 8 місяців тому

    邪馬台国の時代、鉄器の出土数などから九州の軍事力が他の地域を圧倒していたと思います。
    纏向遺跡を長年発掘している関川尚功さんによると、纏向遺跡が大きくなるのは4世紀になってからだそうです。
    だとすると、4世紀前後に九州と瀬戸内地方の連合軍が近畿地方を征服して(神武の東征)、纏向に新しい都市を建設したのではないでしょうか。
    また同時期に、銅鐸が近畿地方で作られなくなる謎も解けるような気がします。

    • @buluemoon2008
      @buluemoon2008 4 місяці тому

      纏向では北九州系の土器や、鉄器がほぼ出土していないので、纏向に北九州の勢力(邪馬台国)の足跡はありません。またこの時代大阪・奈良を含めても、九州の土器は破片を含めこれまで7個しか出ていないそうです。なので、邪馬台国の東遷はないと思います。また、北九州では、後に、前方後円墳などと伴に畿内系土器が入ってきます。なので、九州の勢力が、4世紀初めに畿内を中心とする大和王権の勢力に吸収されたと見るしかないと思います。そして大和王権は九州を足がかりに、朝鮮半島へ鉄をもとめて進出していきます。邪馬台国時代に無かった、沖之島の祭祀も始まります。
       問題は貧弱だった纏向を中心とする当初の大和王権が、突然、前方後円墳をつくるような、強固な勢力に発展したことです。そこに断絶があるのです。この謎は、箸墓の築造年代を、不確実な年代推定法を使って遡らせて、卑弥呼の墓と言ってみても解決しないですが、それにやっきなのが、現代の学者さんたちですね。なぜ邪馬台国の場所にこだわるのでしょうかね。

  • @寿野郎0610
    @寿野郎0610 Рік тому

    邪馬台国が大和王権の時代と被るとしたら同じ奈良県内でそんな至近距離に二つの勢力があったとも思えないんだけどホントこれだけはサッパリ分からんなあ💦
    どちらかと言や大和王権の勢力の及ばない九州説の方がまだ有力のような気もするけど········

  • @ばんぱわなはさ
    @ばんぱわなはさ 2 місяці тому

    アホに何百回言ってもわからないのを前提で言うね邪馬台はヤマトって読むんだよわからないのはわかってるよ何回もいってわりーねデートリッヒ

  • @yoshitome6648
    @yoshitome6648 Рік тому +3

    纒向は四世紀だよ。
    北部九州の卑弥呼が248年没だから、無理やりの三世紀なんだ。😂
    あとはこのチャンネルが正解を全部言っちゃってるんだな。笑

    • @あいう工夫
      @あいう工夫 4 місяці тому

      魏志倭人伝、伊都國の爾支と一大率ならびに持衰の関係は
      物部氏の祖先を記述している事の証明
      魏志倭人伝には、
      一大率は女王国以北の諸國を監察
      持衰は、航海の際、随行し、
      厳しく見張られており、航海が不首尾なら、宗教的/祭祀的な価値観から殺されることもある掟が有る、
      と記述されており
      一大率が女王国以北を監察しているそのエリアにおける航海での、
      持衰も監察の対象と考えられる。
      現代で言うと、
      一大率とは、警察権・検察権と、神官として宗教的/祭祀的な事も司る事をマージした役割なり働きといえる。
      そして、その役割なり働きは、大和朝廷での物部氏の役割なり働きと同じくし、
      その為、邪馬台国時代に既にそのプロトタイプが有った事を強く示唆しています。
      曹魏や西晋が、未来の大和朝廷の物部氏や、その役割を知る筈が無いし、
      大和朝廷の物部氏がニギハヤヒを祖先としていることも、
      曹魏なり西晋は、当然、未来の事なので知る訳が無い。
      つまり、魏志倭人伝における、
      大和朝廷の物部氏の祖先と目される爾支との名前の一致、
      ならびに大和朝廷の物部氏と、一大率・持衰の役割の記述の一致することを、事象の発生確率として思考したなら、
      簡単なモデルで説明すると、
      抽象概念となるが
      極めて多い面を持つサイコロが2つあり、2個のサイコロ共に3回続けて任意の面(数)が出る確率と同じ、事象の発生確率と言える。
      ①爾支 ↔ニギハヤヒ(名前の一致)
           AND
      ②一大率↔警察権・検察権(役割の一致 その1)
           AND
      ③持衰から↔祭祀的・宗教的関わり(役割の一致 その2)
      確率の最大値/上限値(必然に起きる事)の数を1とするなら、
      AND(〜で且つ)で、物事が一致する事象が3重であり、3回続けて
      2つの超多面体(巨大数のサイコロ)の同じ任意の面(数)が出る事なので
      1÷(①の確率 ✕ ②の確率 ✕ ③の確率)
      で表され、
      事象の発生の確率は、極小となり、明らかに
      偶然一致は考えづらく
      私の概算より、客観的に場合の数を測るため、
      人口知能におおよその確率を
      求めてもらった所、
      P= 1/100 ✕ 1/50 ✕ 1/30  となり、
       (名前の一致x役割の一致1x役割の一致2)
      =1/150000
      の発生確率となりました。
      逆に言えば、必然に起こる事象の数1に対して
      逆数の、150000倍、偶然の一致は考えづらいと言えます。
      1/150000発生確率でも、確定ではないと言われるかも知れませんが、
      私は、偶然の一致は、非常に考えづらい確率だと言えると思います。
      よって、客観的事実の証明として差し支えないと考えます。
      そのため、魏志倭人伝の爾支や一大率と持衰の関係の記述は
      逆説的に、当事者にしか知り得ない秘密の暴露となっており、
      その記述の、客観的証明になってしまっています。
      採用しなかった他の例として、
      投馬國の官 彌彌も天忍穂耳尊と名前から同一人物の可能性が考えられますが、
      物事が一致する事象が、幾つか重なっていない事象は、確度が下がるので、確定的との判断はとどまるべきと考えました。

  • @FREEDOM-vv3wu
    @FREEDOM-vv3wu Рік тому

    海外→アトランティスの場所やローマ滅亡で大論争
    日本→邪馬台国論や本能寺の変黒幕で大論争
    うーん…

  • @toshirouhorino
    @toshirouhorino Рік тому

    倭の末盧国に上陸したら、東南ー東南ー東ー南ー南、と書かれている。しかも中華4大史書がそうだ。
    ひたすら東の奈良盆地はありえないねえ。

  • @fushichoupeter
    @fushichoupeter Рік тому +1

    奈良はあり得ない。

  • @YO-high
    @YO-high Рік тому +3

    なるほど、纏向が邪馬台国ではないって言うのはよくわかりました。
    ですが、ワイ的には、「纏向」こそ「邪馬台国」だと思っております。((もっと言えば「狗奴国」かなぁと。))
    魏志倭人伝の記載は全部「女王国」または「女王」であり、「卑弥呼が都とするのが邪馬台国」だと書かれてるからです。
    つまり、女王卑弥呼は「九州」に居るんだけれど、倭人の首都は「纏向」ってこと。
    女王卑弥呼が邪馬台国に「居」とも「治」とも書かれてない。「都」と書かれてるってことは、「都:したがえる」というだけ。
    倭種を含む倭人は、「纏向」を中心にまとまってるんだけれど、卑弥呼は「九州」ってのが一番しっくりくるかと思います。
    (都督とかを見れば、都:したがわせるという意味になります。「都市牛利」は、市を司る「牛利」さんってこと。)
    魏志韓伝では、なぞの「辰王」が、「辰韓」や「弁辰」じゃなくて「馬韓」の「月支国」で「治」すると書かれてる。
    ということは、辰王が「辰韓」に居なくても「辰王」であるのならば、倭国の女王卑弥呼が邪馬台国に居なくてもいいってこと。
    さらに言えば、狗奴国は南部九州にあって、神武東征で「纏向」を押さえたように感じます。(※卑弥呼の時代より前の話。)
    纏向は「東国連合」の主張機関であり、それまでは近江の「伊勢遺跡」あたりが主な「出張機関」だったと思うんですよね。
    それが、北部九州の「饒速日」が先に「纏向」に出張してて、焦った狗奴国(神武)が、あとから連合に「参加」したって経緯。
    神武は言われるほど「纏向」を支配した訳じゃなく、やっと「崇神」のあたりで大勢力になったはず。それはれーしさんの動画の通り。
    卑弥呼の時代には、狗奴国の化身のような「邪馬台国」が奈良にあったということ。時代的には「崇神」「垂仁」あたりか。
    後漢書にあるように「狗奴国」が「東」にあるのは、「纏向」が「邪馬台国」だったけど「狗奴国」になった理由にはなるかなぁと。
    中国史書を読む限り、ワイはこのように考えます。
    中国史書は面白いですなぁ。偏見に満ちてるけれど、分かりやすい。
    面白かったです。

  • @yasu6669
    @yasu6669 Рік тому

    実在が確定している天皇は16代からで、11代、12代天皇が纏向作ったって話自体微妙だと思います。
    吉野ケ里遺跡は人口1200人、周辺人口合わせても5400人程度の小さな集落なので軍事基地とかだっただけだと思います。
    魏志倭人伝の中には邪馬台国以外の国もたくさん出てきますが、纏向勢力がそんなに大きかったのに魏志倭人伝に書かれていない事はおかしいと思います。

    • @shangtian-i3c
      @shangtian-i3c 10 місяців тому +1

      大和勢力を書かなくてもおかしくないと思いますよ。
      というより三国志の作者が東夷伝のさらに一部にそんな熱意を持って書いてると思えない。
      色々な報告書を繋ぎ合わせただけで、話のメインは魏に朝貢した国の話なんだから関係ない国の話出さないでしょ