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奈良行きたい…1週間くらい使って遺跡や博物館を見て回りたい…。
待ってました🎉坂谷さん頑張れ🎉
関東民ですが、このチャンネルで関西を中心にあちこちの歴史を学ぶのをとても楽しく観ています。五十嵐さん東京異動…!寂しいですが、新天地でも御活躍を祈ってます😭穏やかでにこやかでいやみなところのない雰囲気と、若一先生との楽しそ~~~なのんびりした会話の数々がとっても好きでした…🥲あたらしいPさんとも楽しい番組を待ってます!
竜馬さん転勤なんですね東京でも活躍してください🎉
娘と行きましたー!行く前にこの動画見たかったです!また行きます!
長年大好きな人気コーナーです!坂谷さん頑張って下さいねー!
竜馬さんの笑顔が見られなくなってさみしい。
先生と五十嵐さんのやり取りが凄く楽しかったので、東京へ異動なのも納得ですがお2人がチームでなくなるのは少し寂しいですね😢東京は大変ですけどこれからも頑張って欲しいです👍
勉強になるいい番組
追伸、青玉は徳島県からはたくさん出土していて、徳島県の博物館に展示されている。卑弥呼の時代には、それを矢尻に使用していた。
今後楽しみだな
あれー五十嵐さん!東京でも頑張ってください〜😢
五十嵐プロデューサーのファンでした。寂しいです。
卑弥呼=姫命=倭迹迹日百襲姫命のこと。日本書紀の崇神紀に登場する皇族の最長老の巫女が倭迹迹日百襲姫命。
てか奈良も徳島も九州も3つ共卑弥呼ちゃうの?卑弥呼やったら家も墓も別荘も何個あってもええやろ🎉
橋本さんだ
おそらくここが邪馬台国なんでしょうね
入れ墨があるんだから自分も海人族の連合体と考えてる
たしかに……
当時の中国にとって南蛮東夷には刺青が入っているものという認識がありましたので毛外の地という意味になりますもっと言えば実際に刺青があったかは別の話になります
11:24 「径百余歩」の発音おかしくね?「けいひゃく/よほ」と区切るんじゃなくて、「けい/ひゃくよほ」と区切らなきゃだめでしょ。「計100m」みたいな抑揚で読むべき。誰だか知らないけど、アナウンサーちゃんと仕事してよ!
判らんでもないというか、少し思ったけども別にねえ
居たかもしれんけど九州へ行ったとか?
もっと掘ってみてください、銅鏡10枚ぐら出土したら、邪馬台国であることが証明されますね。
畿内に卑弥呼の墓を置きたい気持ちはわかるが、どう考えても無理がある。神武天皇も九州なのだから、卑弥呼も九州では。
宮内庁がその気になるまでずっと論争やってるんだろうな。多分永遠に終わらない気がする😂😂
重要なのは、マスコミや文部科学省かも
おみみ おめめ ひみこ
纏向に倭国大乱の痕跡はあるのですか?一大卒はどこにあったのだろう。
一大卒は魏志倭人伝にあるように伊都国なのでは。魏志倭人伝と同じく三国志の蜀で言えば傀儡の劉禅がいる成都に対し、政治・軍事・司法の全てを握る諸葛亮がいる漢中の丞相府のような関係かも知れません。
@@nekono_mimikon 徒歩か手漕ぎ舟での移動手段しかない時代の畿内と糸島を結ぶ連絡手段は何ですか。糸島で中国王朝からの品を改め、再梱包後に畿内へ送るのは現代の感覚で考える仕組みでしょう。全く合理性に欠けます。少なくとも若狭か難波の辺りでしょう。
@@KeCN 若狭か難波?文献でも考古学でも、何か根拠はあるのですか?
@@hisashi626 文章をちゃんと読んだかな。徒歩か手漕ぎ船の移動手段しかない古代なら糸島、畿内間に距離的合理性がない。邪馬台国が畿内であれば一大率を置く場所が海岸ならば若狭か難波だろうということ。
>纏向に倭国大乱の痕跡はあるのですか?纏向は、2世紀終わりに始まる、魏志倭人伝で描かれている堀も柵もない平和な街です。なにしろ、出土した土器から見れば、九州を除く全国から人が来ているのですから。当然、倭国大乱の痕跡はありません。加えて、前方後円墳以前の時代には、王墓と呼べる墓もありませんし、鏡も出ていません。畿内説は、箸墓を含む前方後円墳を作った大和政権の前には、当然、その前身として魏志倭人伝で描かれる王国があったと信じて生まれた説ですが、期待は裏切られました。なので、前後の脈略がなくても、卑弥呼の墓=箸墓でないといけないのです。
纏向遺跡 の敷地・・自然農・・・の故川口由一さんの 圃場だったけど 遺跡調査に協力されたとかいってましたね・・・
安田靱彦の絵を勝手に貼るな!
それはそう
奈良県立橿原考古学研究所の土器の説明では、『また纒向遺跡からは、西部瀬戸内沿岸地域から北陸・東海に及ぶ広範囲の古式土師器が出土する。古墳時代初等の同遺跡が、列島の極めて広範囲に及ぶ交流の中心地であったことを示している。[奈良県立橿原考古学研究所] 』と九州は含まれていません。一方、これらの土器にはヤマトの土で作られた地方の土器が含まれるため、地方の人が纏向に持ってきたものとされています。他地域の土器の割合から、他地域の人が2~3割纏向にいたとされています。しかし、北部九州の土器がほぼ出ていないということは、逆にこの時代(古墳時代初頭)に九州とは人的交流がなかった物証ということになります。九州と交流のない邪馬台国はありえないわけです。
九州の遺跡から畿内由来の庄内式土器が出土しているので畿内から九州に人が流入しているのは明らかですよ
纒向遺跡で九州の人の流入がないことの反論として、北九州では庄内式土器が見られ、畿内から九州への人の移動がみられるという指摘もある。纏向に九州以外の地方から来た人々はその建設にあたったと考えられるが、九州に入った近畿の人々の目的はなんだったのか。それは以下の論文に参照された内容をみれば推測できる。九州に前方後円墳を造りにきたのだ。 したがって、九州と近畿が交流を閉ざしていた時期と、近畿から人が九州に入った時期は違う。近畿からの流入があった時期に、九州が大和のネットワークに組み込まれたことをしめしている。佐々木憲一2010「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」p.254『 この古墳出現前後の時期,各地独特の土器が移動することが知られている。従来この現象は,その古墳出現と何らかの関係があるように理解されてきた。例えば岩崎卓也(1984)は,外来系土器が質・量ともに多い地域と古式前方後円墳の分布に「ある種の相関関係が存在した可能性」を認める。 また井上裕弘(1991)も,北部九州において古墳出現前後に畿内系の土器が流入する地域に出現期の古墳が存在することを指摘し,弥生後期以来の伝統的でない四本柱の住居の出現と考え併せ,古墳を創出したヤマト勢力の動向を背景の一つに挙げている。』
@@buluemoon2008 さん おっしゃるとおり北部九州に畿内の庄内土器が見られるのは卑弥呼の死後の古墳時代初頭からなのです。考古学的に畿内の勢力が北部九州の倭国を倒して、ヤマト王権が成立したことを示しています。二世紀末の倭国大乱と三世紀後半の建国の戦いの痕跡を発見しています。よろしければ「刮目天の古代史 鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください!これによって卑弥呼の正体が玄界灘を支配していた縄文海人ムナカタ族の姫巫女(和邇氏の祖)宗像女神市杵島姫であったことが推理できます。最も大事なことは、記紀が天皇の歴史書ではなく勝者藤原氏の歴史書だったことに気付けば、様々な謎が解けてきます。乱暴者の神スサノヲが高天原から追放された神話は、一〇七年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(正しくは奴国宮廷楽師 師升)に宋史王年代紀第十八代奴国王スサノヲが殺されて倭国を乗っ取られた史実を誤魔化すために作られた話だったのです。ここからイモずる式に謎が解けてきます。詳しくは「刮目天の古代史 王年代紀は記紀神話を正した」をご参照ください。
『また纒向遺跡からは、西部瀬戸内沿岸地域から北陸・東海に及ぶ広範囲の古式土師器が出土する。』この地域が、古墳時代の東アジアからの渡来人の血が濃い地方(古墳人)と重なることに、気づいてしまいました。この時の渡来人は中国を出て真東に向かい、黒潮に乗って日本の太平洋側に着いたのでしょう。紀湊から紀路を通れば纏向地域へは一直線です。
言語的にも魏志倭人伝の時代と奈良時代の日本語にはヒナモリ等連続性が認められており、この後にトライ人なるものがやってきて列島を征服したんだーは不成立ですね残念
➡➡ 日本人よ。この遺跡周辺で・・・アメリカ軍の空襲がなくて・・・ホンマに良かったな。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
なんでまた男性なんですか?
箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫の墓です。卑弥呼なる怪しげな人物の墓ではない。
百襲姫の別名が日女命なのはご存知ですか?
纒向珠城宮は第11代天皇垂仁天皇の都です
前方後円墳の前の古墳とされる円形墓、箸墓と同時期の前方後円墳が東四国にいくつもあります。纏向のように潤沢な発掘資金を当てられることもなく簡単な調査で埋められたり、開発という名のもと壊されたりしています。畿内ありきの学術で本当の日本の成り立ちが解明されるのでしょうか。本当の事が知りたいと皆さん思われないのでしょうか。単なる町おこしと馬鹿にする頭の堅い方々がその解明を阻んでいるように見えて仕方ありません。利権に絡んでいる人以外は真実が知りたいのです。纏向は重要な遺跡ですが、それ以前がありません。突然、人が流入し都市が形成されたかのようです。ただの素人の一意見です。
纏向遺跡のどこに都市跡があるんですか集落跡さえもありませんよ
邪馬台国は七万戸の国なのを理解してますか?これは畿内が全て邪馬台国でも足りない規模なんですよ。つまり邪馬台国の位置論に関して言えば纏向遺跡に住居跡なんて全く必要もないですよ。証拠にかなり広範囲の土器なら確認出来てますよね?
畿内説では、「箸墓」や「桃の種」を卑弥呼との関係の立証もなく、C14による年代推定をもとに、卑弥呼の時代に合わせようとしてきた。しかし、C14の年代推定に使う校正表が、2020年に日本の提案を含めたINTCAL20に改定された。例えば、2011年3月歴博はC14の校正表INTCAL09を使い、「箸墓古墳の築造」を240~260 年と発表し、いまでもそれが参照されている。しかし、最新の校正表INTCAL20だとAD250 年頃と4世紀前半(AD300~AD350 年)の二つ候補がある。したがって、古墳時代では、単純にC14を使った年代推定ができなくなっている。現在では他の古墳との関係で、箸墓古墳の築造年代は4世紀初めを中心とする時代に戻っている。「桃の種」についても、名古屋大学と山形大学がINTCAL13の較正曲線を使いAD135~AD230年と判定した。(2018) しかし、INTCAL20だと、AD220~AD260年とAD290~AD340年程度の二つが候補となる。したがって、推定が100年も後ろにずれたことになる。これも、箸墓と同じ4世紀はじめと推定するのが妥当だろう。結局、箸墓古墳の築造年代を卑弥呼の時代に引き上げようとする動きは無駄に終わった。
箸墓の年代特定の決め手は古墳上部に散乱していた特殊器台の存在ですが?これは吉備との関係が深い事を証明しており年代も三世紀半ばとされています。四世紀は特殊器台との関係からはあり得ない話でミスリードは良くないですね。
はいはい。何が言いたいのか、さっぱり分からない。
大型建物群の年代は、弥生時代のB.C.2世紀始め頃と、年代測定されたのですか?きっと、年代測定は、されていないでしょうね。C14 の年代測定が判明してから、配信して下さい。
学者の先生方もいつまで「ヤマタイコク」なんて言ってるかね~最初から「ヤマトコク」って読むことは判ってただろうにね~
邪は、卑字では「じゃ」としか読めません壹も、臺も、「と」とは読めませんヤマトと読む事は不可能です
奈良説は、魏志倭人伝の記述に合致しない点が多いのでは?女王国から東に海を渡るとそこにも倭人がいるとあるが、女王国の東には海がないといけないのでは?桃の種が多く出土したからと言ってそれは邪馬台国の証拠とならないのでは?それより、青玉(サファイヤ)が全く出土しないのは何故か?邪馬台国にはそれが採れるとあるが。箸墓古墳が卑弥呼の墓なら何故、日本書紀に卑弥呼の記述がないのかの疑問があるのでは?阿波国名西郡神山町神領字高根に卑弥呼のお城があったという説、そして気延山山頂に卑弥呼の墓があったという。それは山を削って前方後円墳の形に整形されている。江戸時代に、卑弥呼の墓から遺物を持ち出して、現在の八倉姫神社の裏に新しい墓を設けて、ここにその遺物を埋葬している。何故なら、気延山山頂までいちいち卑弥呼のお参りに上るのが村人が疲れるから、下にその墓を新しく設けたのであると。その他阿波国説のほうが倭人伝記述に合致することが多くあるのでは?阿波国の東は紀伊水道、その東が現在の近畿エリア。このように考えると阿波国説が合致するのでは?邪馬台国とはヤマトの国。奈良盆地には日の本という国があった。そこはヤマトよりは小国だったと文献にある。そしたら、そこより大きいヤマトとはどこか?それは阿波国では?そこがヤマトの国で、奈良盆地は日本だった。この説はいかがでしょう?
資料は魏志倭人伝頼りで、その資料を正しいとしている限る判明しないでしょうね。倭人=日本人としいる事も誤解を呼んでいる気がします。魏志倭人伝の道程に従うと海に出るのですが、倭人が海洋民族ならそうなってもおかしくないです。
海に出ません
箸墓古墳と鍵唐古遺跡付近の鏡作神社掘って魏の時代の鏡が出土しないことには決定的な証拠にはならない
魏の時代の鏡が九州や近畿で出土しても、そこに在った決定的な証拠にはならないなぜなら、遺物はどういう経緯でそこに埋められたのかが判らないから元々は誰がどうしてたものか不明です
邪馬台国をヤマタイと読むからおかしくなる。あれはヤマトと発音するんだよ。ただトの発音は今のトとは少し違うらしい。早く教科書などでヤマトと読ませないと。
邪は、卑字では「じゃ」としか読めません壹も、臺も、「と」とは読めませんヤマトと読む事は不可能ですええ。はい。
隋書倭国伝では古のヤマタイなる国はヤマト、とわざわざ訂正してくれてますよ。
卑弥呼の次の代のトヨも台の字でトと読みますね。私もヤマト読みを押しています。
➡➡ 卑弥呼が・・・ア😍カン・・・しておった場所・・・かいな。彼女の喘ぎ声が・・・響き渡っておったかもしれへんな。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
え???
➡➡ 15:02 卑弥呼が・・・ア😍カン・・・しているときの・・・喘ぎ顔・・・かもしれへんワイ。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
「倭」という呼称は中国からの見下した表現なので、日本人である我々が使うのは違和感を覚えます。
一々、現代語に置き換えてたら訳が分からなくなります使っているというよりは、歴史の専門用語にしているだけです
邪馬台国(やまとこく)の中心地は、物証的には、纏向及びその周辺で決まりだと思いますが(九州説などは比定し得る場所がない)、本当に、箸墓の早期の本格的発掘調査を願いたい。 宮内庁、早よしてや!
>物証的には、纏向及びその周辺で決まりだと思いますがその物証とは何でしょうか?出来れば教えてください。
@@KeCN まず、現代の年代測定に係る科学技術(DNA全ゲノム解析、同位体法、年輪年代法など)の発展に伴い人類史の様々な事象の発生年代が、よりピンポイントで分かってきたこと。 それに関して、日本の古代で言えば、遺跡や物品の歴史が、従来より早い時代(古い時代)にあったと分かってきた。 たとえば、弥生時代の始まりは、教科書的には、まだ紀元前350年頃になっているが、今の研究者の間では、これはもっと古いというのが主流で、前1000年頃までさかのぼるというのもあり、私はそれに賛成だ。 そして、魏志倭人伝に記載されている卑弥呼の邪馬台国の時代は、紀元後180年頃から250年頃だが、畿内の従来の弥生や古墳時代の遺跡が、もうこの頃には、十分発達した社会や技術を持ち、もっと古いものであると分かってきた。 逆に、北部九州のものは、邪馬台国の時代よりもさらに古くなっていった。 そして、この動画でもあるように、卑弥呼の墓(箸墓)の造営年代が、魏志倭人伝の卑弥呼の死期と同じ年代になってきたことや纏向遺跡の存在など、『事実』としての証拠が整った。(※魏志倭人伝は、270-280年頃に書かれており、その他の部分は別にしても、それよりたった20-30年前の卑弥呼の魏への朝貢や卑弥呼の死を裏付ける年代は、極めて正確である、と私は考える。) そして、もっと言えば、卑弥呼から次の女王・壱与、そして、崇神大王の系譜が、最初期のヤマト王権の始まりであり、応神・仁徳期から雄略の頃までは、河内地方に勢力を伸ばすが、これは、崇神系の本流から離れた傍系・姻系の系譜である、と私は考える。 そして、継体王朝は、完全に別なる豪族の系統であると思う。 まあ、とにかく、宮内庁は、重要な古墳の本格的発掘を阻害するのは止めて、日本の科学発展に協力してもらいたいものだ!
@@masaya6403 畿内説では魏志倭人伝の内容に全く合致しませんね。邪馬台国や卑弥呼と同時代の遺物が出土してもそれが邪馬台国に関わるものとは言えない。関わるものとしては具体的に何があるのかな?
@@KeCN もう、あなたのようなコチコチの九州説の人間とは、議論しても無駄だと思いますが、この動画にいろいろ示していることが、具体的な例です。 魏志倭人伝での記述で、南行きを東行きにさえ変えれば、邪馬台国に行きつきます。 投馬国は、出雲です。 さて、九州説では、魏志倭人伝の記述に合う候補地はありますか? 遺跡はありますか? 水行10日なんと言えば、種子島以南になってしまうのでは? 別の関係では、初期ヤマト王権下では、崇神大王以下の大きな前方後円墳群が、のちの山の辺の道の沿道に並び、その時代は4世紀前半だと比定されています。 九州説の場合、このヤマト王権と九州説の邪馬台国との関連は、どうなるのですか? まあ、これで、私からは、こんな建設的でない議論は止めときますが、繰り返しになりますが、良かったら、九州説で、200ー250年頃の有力な候補地を挙げてみてください?
紀元前210年徐福は3千人の若者職工と共に有明湾に上陸、絹を織り水田稲作を普及させました。弥生時代の幕開けです。後に邪馬台国となります。😌
それは無理ですね、投馬国の先にあるのが邪馬台国。魏志倭人伝の戸数記述を忘れていますよ。
帯方郡から一万二千里で女王国。行程で水行10日、陸行一月。投馬国は帯方郡から水行20日、里程で二万里。水行は1日水行千里の規定を適用😊
投馬国でさえ五万戸です。五万戸といえば魏志韓伝における半島の辰韓国と同じ、つまり九州の半分位の国でもおかしくない。邪馬台国は更に大きな七万戸もあります。そもそも奴国以下九州に収まるはずがないですよ。基本的に魏志倭人伝の戸数を無視するしか成立しない説なんですよ、九州説は。
それは否定されている。ただの都市伝説。
畿内には倭人伝に書かれている倭国大乱の跡が何も無い。環濠集落にしても楼観まで考古学的に発見されたのは吉野ケ里のみである。畿内の環濠集落は倭国大乱の跡もなければ、楼観にしても土器に書かれていた絵を参考に、想像で作り上げた模造品を陳列しているに過ぎない。ちなみに吉野ケ里では首の無い遺体や矢の刺さった遺体が大量に発見されている。軍事力に関係する鉄器の発見も福岡県のみで700個以上、これに対し奈良県は弥生時代全体でもわずか5個にすぎない。つまり当時の九州は強国だったのに比べ、纏向は弱国だったと判明している。この比率は年代測定法を変更しても、更に広がる可能性があるだけでしょう。 畿内説の致命的欠陥は、結成の大半を担ってきた奈良式年輪年代測定法にある。これが法隆寺などでテストした結果、100年の違いがあると指摘されている。30年以上も基礎データの開示要求を無視し続け、現在は東京地裁で裁判沙汰になっています。肝心の年代測定の根拠が無く、畿内説は全くの想像・希望で作られたと言われても反論できないでしょう。その他、九州説の具体的根拠もまだまだありますが、それらを言うまでもなく結論は出ています。
唐古鍵遺跡の楼閣は楼閣船にあった楼閣。徐福(ニギハヤヒ)は楼閣船(天磐船)に乗り奈良へ。水田稲作を普及させました。畿内における弥生時代の幕開けです。😌
阿波説に1票🖐️(24/9/11)
学術の世界では、近畿説以外はすでに無視されているに近しい。
上に書きましたが、記紀神話は江戸時代にできたものなのですよ。ほとんどの日本人は騙されていますが、江戸時代以前の神話はこれと全く違うものだったのです。江戸時代に国学者本居宣長が古事記を発掘して絶賛したので神道家平田篤胤が復古神道を提唱しました。それが幕末の志士たちに人気となり、明治新政府が神仏分離令を出したら、廃仏毀釈運動が起こり、全国の神を祀っていた寺院が打ちこわしに遭い、僧侶は無理やり還俗させられたのです。そして国家神道が創設されて国史が学校で教えられるようになって日本人に浸透したのです。伊勢神宮の神様は男神です。奈良時代から南北朝まで未婚の皇女が神の妻として奉仕する斎王制度が伊勢と加茂神社にありました。共に同じ神様を祀っていたので、近場の賀茂神社の斎院に位の高い内親王が行きましたが、遠い伊勢神宮の斎宮は人気が無かったのです。伊勢神宮には持統天皇は創建前に行っていますので、参拝していません。その後明治になるまで、天皇はどなたも伊勢神宮には行幸していないのですよ(^_-)-☆申し訳ないですが、卑弥呼=アマテラス女神説は妄想なのですよ(^^;)
@@koukouyamada2726 因みに、学術の世界では、埼玉県や熊本県の鉄剣を「ワカタケル大王」としている教科書でも記載して教えているしかし、教科書を見ると「鹵」とは書いていない西の異体字が書いて有る
卑弥呼は特定の人間じゃなくて、第13代金村玉三郎みたいに、日ノ御子として、世襲だったんじゃないかな。すると、もともとあった九州にも、遷都後の奈良にもいたって説は納得がいく。卑弥呼よりㇳヨさんが誰だったのかを否定した方が、謎は解けやすいのではないかな。
卑弥呼=ヒメ説は音韻上も有力の様ですね。魏志倭人伝には複数の国の官として男性首長と考えられる卑狗=ヒコの名が登場しますが、卑弥呼も女性首長を指すもので固有名詞では無かった可能性がありそうです。
壹輿です仮に、臺輿でも、「臺」は「と」とは読めません
@@majesty164 卑弥呼は上古音で「ぴえみは(ぴえみか?)」か、魏晋音で「ぴみふ(ぴみく?)」です卑狗は「ぴえく」か「ぴかう」です
魏志の現存最古の版では"壹"となっていますが、それ以前に刊行された史書への魏志からの引用はほぼ"臺"ですから壹は臺の誤記と考えるのが妥当です。
@@yamataikoku4in8miyazaki7zaki 魏志の人名記述は上代日本語の再建音と概ね対応します。
「卑弥呼」というのは、魏の役人の当て字であり、「卑」なんて「ヒミコ」の僕である使者がいうはずがありません。とするならば、「ヒミコ」とは「ヒメ」の「ミコ」となります。卑しいという字を当てるのは、がまんなりませんね。
卑弥呼は上古音で「ぴえみは(ぴえみか?)」か、魏晋音で「ぴみふ(ぴみく?)」です仮に、「ひみこ」でも、「ヒメみこ」にはなりません「め」は?
当時の奈良盆地を中心に大きな勢力があり、おそらくは大和王権の前身なのだろうとは思いますが、それが魏志倭人伝で言うところの邪馬台国なのかはちょっと分かんないですね🤔日本側の歴史、神話に卑弥呼が全く登場しないそうなので。邪馬台国と奈良盆地の大和は全く別の国という可能性も普通にあると思います。
纒向遺跡の規模と先進性が三世紀の日本で最大で、かつ大陸との交流もしてますので、まず間違いないとみられていますこの時代、大陸との外交は壱岐と対馬を経由するしかなく、敵対する勢力が同時にこのルートを使用する事はあり得ませんから
@@kubo0621 何がまず間違いないのかは判りませんが九州の倭国を通して交流してたのでは
@@yamataikoku4in8miyazaki7zaki 規模と先進性が纒向の方が遥かに上ですのでイニシアチブは畿内がとっていたとみられています。つまり後の日本の形が既に作られかけていたとみられています。
邪馬台国のわけがない笑議論の余地もない笑100%畿内ではありません笑
奈良県だと、東に海が有るというより、陸地に囲まれた盆地だと書かれるべきだし
纒向は邪馬台国の集大成だと思っています。是非、復刻してモニュメント造って欲しいですね。
纏向遺跡の規模からすると 卑弥呼の時代より後世の気がする 炭素年代測定法は数万年単位の測定が可能で 2000年前位だと不確実だ 径百余歩の卑弥呼の墓は円墳だと以前から言われていたが 箸墓に決めたとたん 前方後円墳に適用した この地域は ヤマト政権の前の政権の神々が宿る地域 のちに天津神の政権が征服したと思えてならない
素人が考える事くらい、専門家は当然考えた上で言ってんだよ。
@@koukouyamada2726 若一調査隊の動画は毎回観ていて 彼を尊敬しています しかし 私は九州説に傾倒しています その意見を言うなとするなら あなたは意見の多様性を認めない単なる盲従者に過ぎない 反論するべきならまだしも 上から目線で感情を吐露するなんて哀れですね
@@Harutoshi86104 トンデモ学説には、多様性は適用されません。科学的、学樹的研究の結果の違いにのみ、多様性が認められます。
纏向の規模など意味が無い、箸墓古墳の大きさもどうでも良いし、年代も正直もうどうでも良い。纏向が最大の遺跡箸墓が最大の土木建造物とかも、いい加減やめて欲しい。そしたら、築年、西暦240年±の鑑定結果も出ている、版築の壁での周囲50㌔以上ある、総構えの城の太宰府羅城はどう説明するのか?太宰府羅城こそが、纏向や、その他の遺跡とは隔絶した規模の、邪馬台国時代最大の遺跡であり、最大の土木建造物だろう。また、魏志倭人伝の伊都國の官 爾支と一大率ならび持衰の関係は、後の大和朝廷の物部氏の祖先の記述である事は、確率的な証明方法で、蓋然性に足る客観的事実に認定できる。つまり、そうなるとニギハヤヒなりニニギは九州島に居たと考えられ、それよりあとと考えられる、神武東征の時期や事実にも疑義が生じる。神武天皇やニギハヤヒよりも前に崇神天皇が居たの?太宰府羅城という巨大城郭を造営できうる、断トツの列島最大の勢力でかつ、農業や工業ににも鉄器を使用する、鉄器文明に至っていた、北部九州を筆頭に、同じく鉄器文明に至っていた丹後半島と高志、青銅器文明であった出雲、それに比べ青銅器文明にも至っていないレベルの纏向や奈良近辺は金石文明のレベルだが、卑弥呼は、そんな文明の遅れた土人の酋長だったの?そんな鉄器文明の先進地域から見たら、極めて遅れた文明で且つ、武装解除されているレベルの地域が邪馬台国の本拠地で、魏国と外交してたの?そんな極めて遅れた文明で武装解除されているような國が、先進地域から共立されるとか連立され邪馬台国連合(女王国)のトップになり、差配するなど、トンデモ説でしかない。どの先進地域がそのような極めて遅れた文明で、武装解除されているような國の支配など受け入れるのか?全くナンセンスである。そして、纏向・近畿からは、他の先進地域に魏国へのルート、魏国から来るルートも遮断されている地勢であり、全く、極めて遅れた文明で、他の先進地域は極めて強大且つ脅威でしかない。そんな纏向勢力が倭国の代表として魏国と外交など非現実的である。纏向勢力が、他の先進地域を支配していた形跡はない。何なら、その逆の方がまだ有り得る。
箸墓古墳の歴史博物館による炭素年代法14での調査結果は240~260年となったのですが 2020年の検査結果から この精度は16%とされ 寧ろ別の専門家の別のモデルによる検査結果で 箸墓古墳の築造年代は400年頃となっています 邪馬台国近畿説は古書からも 遺跡からも 根拠が薄い訳です
三国志時代の呉は滅亡(280年)の際に、晋との決戦前夜に大船に乗った2万の大軍は逃亡、行方不明(孫皓伝)その大軍は九州に上陸し霧島の高千穂峰で鉾を突き刺した(天の逆鉾、天孫降臨)。その大軍(漳州人)は小舟に乗り換えて奈良(纒向)に移動してヤマト政権の樹立。崇神天皇即位286年。ヤマト政権は呉の復興であった。漳州人、小舟に乗り換えて奈良はアビラ・ヒロンの日本王国記より😌
状況証拠を幾ら積み重ねても纏向が邪馬台国ではないという結論にしか辿り得ないんですけどね。
➡➡ 10:00 ふん・・・えらそうに。たかが・・・サルの子孫の遺体が・・・あるかどうか・・・という場所・・・だけのことではないけ。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
え?はい?
残念ですが、卑弥呼は、ここにはおりませんでした。地理的にも、時代的にも違い過ぎます。
被葬者はヤマトトヒモモソヒメ、ですよね。でもこの百襲姫の別名に日女命、日神、神大市姫という海部氏系図という日本側の文献史料もあります。まあ百襲姫は太陽神的な巫女王でヒミコと呼ばれていた可能性はかなり大です。
まきむく遺跡が卑弥呼の墓?時期尚早ですよ。北九州説が唯一無二の候補。
何故 邪馬台国 卑弥呼という言葉を日本人が使う 最悪の差別言葉だろう こんな差別まみれろ言葉平気で使うなんて いつもおもうやまとのくに ひのみこと呼べと思う たとえば天皇は昔から天皇であり みこさんもむかしからみこさんである
そう差別言葉です邪は、卑字としては「じゃ」としか読めませんで、普通に読めば、後漢書倭伝は上古音で「邪馬臺国じゃまだ」魏志倭人伝は「邪馬壹国じゃまいち」です
巻向はトミとヤマトの起源。卑弥呼は関係ない。私は、卑弥呼は沖縄論。
私は、卑弥呼アイヌ論。
@@koukouyamada2726 卑弥呼は縄文系のムナカタ海人族の太陽神信仰の姫巫女です。アイヌはたしかに縄文系ですがオホーツク人との混血で、文化も違いますから、成立はずっと後なのですよ(#^.^#)
同感です。箸墓古墳の被葬者はヤマトトトビモモソヒメですが、大物主大神(大国主)の妻という伝承ですから卑弥呼ではないですね(#^.^#)沖縄は卑弥呼のムナカタ海人族と同じ太陽神信仰が伝えられています。琉球神道はかなり卑弥呼の太陽神信仰に近いものだと思います。ヲナリ神信仰やマレビトなどは同じものだと思います。
@@katumoku10 真面目に言っている訳ないし、そのムナカタ海人なんていう、学術的に一般的では無い名称はなんなんだ。
@@koukouyamada2726 縄文時代中期からから隠岐の黒曜石などを沿海州や半島北部などに運び、遼河人などと交易で活躍していた海人族ですよ。彼らは体に刺青をしていたので胸かたと呼ばれていた海洋民族として知られていますよ。主に、日本海沿岸部の根拠地において海外の文化を取り入れて園耕民となって生活していました。ヤポネシア・プロジェクトの斎藤教授が提唱する日本の民族形成の三段階モデルの二段階目です。かれらの子孫が、弥生時代や古墳時代初頭で活躍して、ヤマト王権が成立したのですよ(詳細は「日本列島に集まった人々とは?」参照)。blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/f8983dbe5cb50bfe6cbce5dafe276fef
奈良行きたい…1週間くらい使って遺跡や博物館を見て回りたい…。
待ってました🎉
坂谷さん頑張れ🎉
関東民ですが、このチャンネルで関西を中心にあちこちの歴史を学ぶのをとても楽しく観ています。五十嵐さん東京異動…!寂しいですが、新天地でも御活躍を祈ってます😭穏やかでにこやかでいやみなところのない雰囲気と、若一先生との楽しそ~~~なのんびりした会話の数々がとっても好きでした…🥲あたらしいPさんとも楽しい番組を待ってます!
竜馬さん転勤なんですね
東京でも活躍してください🎉
娘と行きましたー!行く前にこの動画見たかったです!また行きます!
長年大好きな人気コーナーです!坂谷さん頑張って下さいねー!
竜馬さんの笑顔が見られなくなってさみしい。
先生と五十嵐さんのやり取りが凄く楽しかったので、東京へ異動なのも納得ですがお2人がチームでなくなるのは少し寂しいですね😢
東京は大変ですけどこれからも頑張って欲しいです👍
勉強になるいい番組
追伸、青玉は徳島県からはたくさん出土していて、徳島県の博物館に展示されている。卑弥呼の時代には、それを矢尻に使用していた。
今後楽しみだな
あれー五十嵐さん!
東京でも頑張ってください〜😢
五十嵐プロデューサーのファンでした。寂しいです。
卑弥呼=姫命=倭迹迹日百襲姫命のこと。
日本書紀の崇神紀に登場する皇族の最長老の巫女が倭迹迹日百襲姫命。
てか奈良も徳島も九州も3つ共卑弥呼ちゃうの?卑弥呼やったら家も墓も別荘も何個あってもええやろ🎉
橋本さんだ
おそらくここが邪馬台国なんでしょうね
入れ墨があるんだから
自分も海人族の連合体と考えてる
たしかに……
当時の中国にとって南蛮東夷には刺青が入っているものという認識がありましたので毛外の地という意味になります
もっと言えば実際に刺青があったかは別の話になります
11:24 「径百余歩」の発音おかしくね?
「けいひゃく/よほ」と区切るんじゃなくて、
「けい/ひゃくよほ」と区切らなきゃだめでしょ。「計100m」みたいな抑揚で読むべき。
誰だか知らないけど、アナウンサーちゃんと仕事してよ!
判らんでもないというか、少し思ったけども
別にねえ
居たかもしれんけど九州へ行ったとか?
もっと掘ってみてください、銅鏡10枚ぐら出土したら、邪馬台国であることが証明されますね。
畿内に卑弥呼の墓を置きたい気持ちはわかるが、どう考えても無理がある。神武天皇も九州なのだから、卑弥呼も九州では。
宮内庁がその気になるまでずっと論争やってるんだろうな。多分永遠に終わらない気がする😂😂
重要なのは、マスコミや文部科学省かも
おみみ おめめ ひみこ
纏向に倭国大乱の痕跡はあるのですか?
一大卒はどこにあったのだろう。
一大卒は魏志倭人伝にあるように伊都国なのでは。
魏志倭人伝と同じく三国志の蜀で言えば傀儡の劉禅がいる成都に対し、政治・軍事・司法の全てを握る諸葛亮がいる漢中の丞相府のような関係かも知れません。
@@nekono_mimikon 徒歩か手漕ぎ舟での移動手段しかない時代の畿内と糸島を結ぶ連絡手段は何ですか。
糸島で中国王朝からの品を改め、再梱包後に畿内へ送るのは現代の感覚で考える仕組みでしょう。全く合理性に欠けます。少なくとも若狭か難波の辺りでしょう。
@@KeCN 若狭か難波?
文献でも考古学でも、何か根拠はあるのですか?
@@hisashi626 文章をちゃんと読んだかな。徒歩か手漕ぎ船の移動手段しかない古代なら
糸島、畿内間に距離的合理性がない。邪馬台国が畿内であれば一大率を置く場所が海岸ならば若狭か難波だろうということ。
>纏向に倭国大乱の痕跡はあるのですか?
纏向は、2世紀終わりに始まる、魏志倭人伝で描かれている堀も柵もない平和な街です。なにしろ、出土した土器から見れば、九州を除く全国から人が来ているのですから。当然、倭国大乱の痕跡はありません。
加えて、前方後円墳以前の時代には、王墓と呼べる墓もありませんし、鏡も出ていません。畿内説は、箸墓を含む前方後円墳を作った大和政権の前には、当然、その前身として魏志倭人伝で描かれる王国があったと信じて生まれた説ですが、期待は裏切られました。なので、前後の脈略がなくても、卑弥呼の墓=箸墓でないといけないのです。
纏向遺跡 の敷地・・自然農・・・の故川口由一さんの 圃場だったけど 遺跡調査に協力されたとかいってましたね
・・・
安田靱彦の絵を勝手に貼るな!
それはそう
奈良県立橿原考古学研究所の土器の説明では、
『また纒向遺跡からは、西部瀬戸内沿岸地域から北陸・東海に及ぶ広範囲の古式土師器が出土する。古墳時代初等の同遺跡が、列島の極めて広範囲に及ぶ交流の中心地であったことを示している。[奈良県立橿原考古学研究所] 』
と九州は含まれていません。一方、これらの土器にはヤマトの土で作られた地方の土器が含まれるため、地方の人が纏向に持ってきたものとされています。他地域の土器の割合から、他地域の人が2~3割纏向にいたとされています。しかし、北部九州の土器がほぼ出ていないということは、逆にこの時代(古墳時代初頭)に九州とは人的交流がなかった物証ということになります。九州と交流のない邪馬台国はありえないわけです。
九州の遺跡から畿内由来の庄内式土器が出土しているので畿内から九州に人が流入しているのは明らかですよ
纒向遺跡で九州の人の流入がないことの反論として、北九州では庄内式土器が見られ、畿内から九州への人の移動がみられるという指摘もある。纏向に九州以外の地方から来た人々はその建設にあたったと考えられるが、九州に入った近畿の人々の目的はなんだったのか。それは以下の論文に参照された内容をみれば推測できる。九州に前方後円墳を造りにきたのだ。
したがって、九州と近畿が交流を閉ざしていた時期と、近畿から人が九州に入った時期は違う。近畿からの流入があった時期に、九州が大和のネットワークに組み込まれたことをしめしている。
佐々木憲一2010「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」p.254
『 この古墳出現前後の時期,各地独特の土器が移動することが知られている。従来この現象は,その古墳出現と何らかの関係があるように理解されてきた。例えば岩崎卓也(1984)は,外来系土器が質・量ともに多い地域と古式前方後円墳の分布に「ある種の相関関係が存在した可能性」を認める。
また井上裕弘(1991)も,北部九州において古墳出現前後に畿内系の土器が流入する地域に出現期の古墳が存在することを指摘し,弥生後期以来の伝統的でない四本柱の住居の出現と考え併せ,古墳を創出したヤマト勢力の動向を背景の一つに挙げている。』
@@buluemoon2008 さん おっしゃるとおり北部九州に畿内の庄内土器が見られるのは卑弥呼の死後の古墳時代初頭からなのです。考古学的に畿内の勢力が北部九州の倭国を倒して、ヤマト王権が成立したことを示しています。二世紀末の倭国大乱と三世紀後半の建国の戦いの痕跡を発見しています。よろしければ「刮目天の古代史 鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください!これによって卑弥呼の正体が玄界灘を支配していた縄文海人ムナカタ族の姫巫女(和邇氏の祖)宗像女神市杵島姫であったことが推理できます。
最も大事なことは、記紀が天皇の歴史書ではなく勝者藤原氏の歴史書だったことに気付けば、様々な謎が解けてきます。
乱暴者の神スサノヲが高天原から追放された神話は、一〇七年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(正しくは奴国宮廷楽師 師升)に宋史王年代紀第十八代奴国王スサノヲが殺されて倭国を乗っ取られた史実を誤魔化すために作られた話だったのです。ここからイモずる式に謎が解けてきます。詳しくは「刮目天の古代史 王年代紀は記紀神話を正した」をご参照ください。
『また纒向遺跡からは、西部瀬戸内沿岸地域から北陸・東海に及ぶ広範囲の古式土師器が出土する。』この地域が、古墳時代の東アジアからの渡来人の血が濃い地方(古墳人)と重なることに、気づいてしまいました。この時の渡来人は中国を出て真東に向かい、黒潮に乗って日本の太平洋側に着いたのでしょう。紀湊から紀路を通れば纏向地域へは一直線です。
言語的にも魏志倭人伝の時代と奈良時代の日本語にはヒナモリ等連続性が認められており、この後にトライ人なるものがやってきて列島を征服したんだー
は不成立ですね
残念
➡➡ 日本人よ。この遺跡周辺で・・・アメリカ軍の空襲がなくて・・・ホンマに良かったな。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
なんでまた男性なんですか?
箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫の墓です。卑弥呼なる怪しげな人物の墓ではない。
百襲姫の別名が日女命なのはご存知ですか?
纒向珠城宮は第11代天皇垂仁天皇の都です
前方後円墳の前の古墳とされる円形墓、箸墓と同時期の前方後円墳が東四国にいくつもあります。
纏向のように潤沢な発掘資金を当てられることもなく簡単な調査で埋められたり、開発という名のもと壊されたりしています。
畿内ありきの学術で本当の日本の成り立ちが解明されるのでしょうか。本当の事が知りたいと皆さん思われないのでしょうか。
単なる町おこしと馬鹿にする頭の堅い方々がその解明を阻んでいるように見えて仕方ありません。利権に絡んでいる人以外は真実が知りたいのです。纏向は重要な遺跡ですが、それ以前がありません。突然、人が流入し都市が形成されたかのようです。
ただの素人の一意見です。
纏向遺跡のどこに都市跡があるんですか
集落跡さえもありませんよ
邪馬台国は七万戸の国なのを理解してますか?これは畿内が全て邪馬台国でも足りない規模なんですよ。つまり邪馬台国の位置論に関して言えば纏向遺跡に住居跡なんて全く必要もないですよ。
証拠にかなり広範囲の土器なら確認出来てますよね?
畿内説では、「箸墓」や「桃の種」を卑弥呼との関係の立証もなく、C14による年代推定をもとに、卑弥呼の時代に合わせようとしてきた。しかし、C14の年代推定に使う校正表が、2020年に日本の提案を含めたINTCAL20に改定された。
例えば、2011年3月歴博はC14の校正表INTCAL09を使い、「箸墓古墳の築造」を240~260 年と発表し、いまでもそれが参照されている。しかし、最新の校正表INTCAL20だとAD250 年頃と4世紀前半(AD300~AD350 年)の二つ候補がある。したがって、古墳時代では、単純にC14を使った年代推定ができなくなっている。現在では他の古墳との関係で、箸墓古墳の築造年代は4世紀初めを中心とする時代に戻っている。
「桃の種」についても、名古屋大学と山形大学がINTCAL13の較正曲線を使いAD135~AD230年と判定した。(2018) しかし、INTCAL20だと、AD220~AD260年とAD290~AD340年程度の二つが候補となる。したがって、推定が100年も後ろにずれたことになる。これも、箸墓と同じ4世紀はじめと推定するのが妥当だろう。
結局、箸墓古墳の築造年代を卑弥呼の時代に引き上げようとする動きは無駄に終わった。
箸墓の年代特定の決め手は古墳上部に散乱していた特殊器台の存在ですが?
これは吉備との関係が深い事を証明しており年代も三世紀半ばとされています。四世紀は特殊器台との関係からはあり得ない話でミスリードは良くないですね。
はいはい。何が言いたいのか、さっぱり分からない。
大型建物群の年代は、弥生時代のB.C.2世紀始め頃と、年代測定されたのですか?
きっと、年代測定は、されていないでしょうね。
C14 の年代測定が判明してから、配信して下さい。
学者の先生方もいつまで「ヤマタイコク」なんて言ってるかね~最初から「ヤマトコク」って読むことは判ってただろうにね~
邪は、卑字では「じゃ」としか読めません
壹も、臺も、「と」とは読めません
ヤマトと読む事は不可能です
奈良説は、魏志倭人伝の記述に合致しない点が多いのでは?
女王国から東に海を渡るとそこにも倭人がいるとあるが、女王国の東には海がないといけないのでは?桃の種が多く出土したからと言ってそれは邪馬台国の証拠とならないのでは?それより、青玉(サファイヤ)が全く出土しないのは何故か?
邪馬台国にはそれが採れるとあるが。箸墓古墳が卑弥呼の墓なら何故、日本書紀に卑弥呼の記述がないのかの疑問があるのでは?阿波国名西郡神山町神領字高根に卑弥呼のお城があったという説、そして気延山山頂に卑弥呼の墓があったという。それは山を削って前方後円墳の形に整形されている。江戸時代に、卑弥呼の墓から遺物を持ち出して、現在の八倉姫神社の裏に新しい墓を設けて、ここにその遺物を埋葬している。何故なら、気延山山頂までいちいち卑弥呼のお参りに上るのが村人が疲れるから、下にその墓を新しく設けたのであると。その他阿波国説のほうが倭人伝記述に合致することが多くあるのでは?阿波国の東は紀伊水道、その東が現在の近畿エリア。このように考えると阿波国説が合致するのでは?邪馬台国とはヤマトの国。奈良盆地には日の本という国があった。そこはヤマトよりは小国だったと文献にある。そしたら、そこより大きいヤマトとはどこか?それは阿波国では?そこがヤマトの国で、奈良盆地は日本だった。この説はいかがでしょう?
資料は魏志倭人伝頼りで、その資料を正しいとしている限る判明しないでしょうね。倭人=日本人としいる事も誤解を呼んでいる気がします。魏志倭人伝の道程に従うと海に出るのですが、倭人が海洋民族ならそうなってもおかしくないです。
海に出ません
箸墓古墳と鍵唐古遺跡付近の鏡作神社掘って魏の時代の鏡が出土しないことには決定的な証拠にはならない
魏の時代の鏡が九州や近畿で出土しても、そこに在った決定的な証拠にはならない
なぜなら、遺物はどういう経緯でそこに埋められたのかが判らないから
元々は誰がどうしてたものか不明です
邪馬台国をヤマタイと読むからおかしくなる。あれはヤマトと発音するんだよ。ただトの発音は今のトとは少し違うらしい。
早く教科書などでヤマトと読ませないと。
邪は、卑字では「じゃ」としか読めません
壹も、臺も、「と」とは読めません
ヤマトと読む事は不可能です
ええ。はい。
隋書倭国伝では古のヤマタイなる国はヤマト、とわざわざ訂正してくれてますよ。
卑弥呼の次の代のトヨも台の字でトと読みますね。私もヤマト読みを押しています。
➡➡ 卑弥呼が・・・ア😍カン・・・しておった場所・・・かいな。彼女の喘ぎ声が・・・響き渡っておったかもしれへんな。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
え???
➡➡ 15:02 卑弥呼が・・・ア😍カン・・・しているときの・・・喘ぎ顔・・・かもしれへんワイ。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
「倭」という呼称は中国からの見下した表現なので、日本人である我々が使うのは違和感を覚えます。
一々、現代語に置き換えてたら訳が分からなくなります
使っているというよりは、歴史の専門用語にしているだけです
邪馬台国(やまとこく)の中心地は、物証的には、纏向及びその周辺で決まりだと思いますが(九州説などは
比定し得る場所がない)、本当に、箸墓の早期の本格的発掘調査を願いたい。 宮内庁、早よしてや!
>物証的には、纏向及びその周辺で決まりだと思いますが
その物証とは何でしょうか?
出来れば教えてください。
@@KeCN まず、現代の年代測定に係る科学技術(DNA全ゲノム解析、同位体法、年輪年代法など)の発展に伴い人類史の様々な事象の発生年代が、よりピンポイントで分かってきたこと。 それに関して、日本の古代で言えば、遺跡や物品の歴史が、従来より早い時代(古い時代)にあったと分かってきた。 たとえば、弥生時代の始まりは、教科書的には、まだ紀元前350年頃になっているが、今の研究者の間では、これはもっと古いというのが主流で、前1000年頃までさかのぼるというのもあり、私はそれに賛成だ。 そして、魏志倭人伝に記載されている卑弥呼の邪馬台国の時代は、紀元後180年頃から250年頃だが、畿内の従来の弥生や古墳時代の遺跡が、もうこの頃には、十分発達した社会や技術を持ち、もっと古いものであると分かってきた。 逆に、北部九州のものは、邪馬台国の時代よりもさらに古くなっていった。
そして、この動画でもあるように、卑弥呼の墓(箸墓)の造営年代が、魏志倭人伝の卑弥呼の死期と同じ年代になってきたことや纏向遺跡の存在など、『事実』としての証拠が整った。(※魏志倭人伝は、270-280年頃に書かれており、その他の部分は別にしても、それよりたった20-30年前の卑弥呼の魏への朝貢や卑弥呼の死を裏付ける年代は、極めて正確である、と私は考える。)
そして、もっと言えば、卑弥呼から次の女王・壱与、そして、崇神大王の系譜が、最初期のヤマト王権の始まりであり、応神・仁徳期から雄略の頃までは、河内地方に勢力を伸ばすが、これは、崇神系の本流から離れた傍系・姻系の系譜である、と私は考える。 そして、継体王朝は、完全に別なる豪族の系統であると思う。
まあ、とにかく、宮内庁は、重要な古墳の本格的発掘を阻害するのは止めて、日本の科学発展に協力してもらいたいものだ!
@@masaya6403 畿内説では魏志倭人伝の内容に全く合致しませんね。邪馬台国や卑弥呼と同時代の遺物が出土してもそれが邪馬台国に関わるものとは言えない。関わるものとしては具体的に何があるのかな?
@@KeCN もう、あなたのようなコチコチの九州説の人間とは、議論しても無駄だと思いますが、この動画にいろいろ示していることが、具体的な例です。 魏志倭人伝での記述で、南行きを東行きにさえ変えれば、邪馬台国に行きつきます。 投馬国は、出雲です。
さて、九州説では、魏志倭人伝の記述に合う候補地はありますか? 遺跡はありますか? 水行10日なんと言えば、種子島以南になってしまうのでは?
別の関係では、初期ヤマト王権下では、崇神大王以下の大きな前方後円墳群が、のちの山の辺の道の沿道に並び、その時代は4世紀前半だと比定されています。 九州説の場合、このヤマト王権と九州説の邪馬台国との関連は、どうなるのですか?
まあ、これで、私からは、こんな建設的でない議論は止めときますが、繰り返しになりますが、良かったら、九州説で、200ー250年頃の有力な候補地を挙げてみてください?
邪は、卑字では「じゃ」としか読めません
壹も、臺も、「と」とは読めません
ヤマトと読む事は不可能です
紀元前210年徐福は3千人の若者職工と共に有明湾に上陸、絹を織り水田稲作を普及させました。弥生時代の幕開けです。後に邪馬台国となります。😌
それは無理ですね、投馬国の先にあるのが邪馬台国。魏志倭人伝の戸数記述を忘れていますよ。
帯方郡から一万二千里で女王国。行程で水行10日、陸行一月。
投馬国は帯方郡から水行20日、里程で二万里。水行は1日水行千里の規定を適用😊
投馬国でさえ五万戸です。五万戸といえば魏志韓伝における半島の辰韓国と同じ、つまり九州の半分位の国でもおかしくない。邪馬台国は更に大きな七万戸もあります。
そもそも奴国以下九州に収まるはずがないですよ。基本的に魏志倭人伝の戸数を無視するしか成立しない説なんですよ、九州説は。
それは否定されている。ただの都市伝説。
畿内には倭人伝に書かれている倭国大乱の跡が何も無い。環濠集落にしても楼観まで考古学的に発見されたのは吉野ケ里のみである。畿内の環濠集落は倭国大乱の跡もなければ、
楼観にしても土器に書かれていた絵を参考に、想像で作り上げた模造品を陳列しているに過ぎない。ちなみに吉野ケ里では首の無い遺体や矢の刺さった遺体が大量に発見されている。
軍事力に関係する鉄器の発見も福岡県のみで700個以上、これに対し奈良県は弥生時代全体でもわずか5個にすぎない。つまり当時の九州は強国だったのに比べ、纏向は弱国だったと
判明している。この比率は年代測定法を変更しても、更に広がる可能性があるだけでしょう。
畿内説の致命的欠陥は、結成の大半を担ってきた奈良式年輪年代測定法にある。これが法隆寺などでテストした結果、100年の違いがあると指摘されている。30年以上も基礎データの
開示要求を無視し続け、現在は東京地裁で裁判沙汰になっています。肝心の年代測定の根拠が無く、畿内説は全くの想像・希望で作られたと言われても反論できないでしょう。
その他、九州説の具体的根拠もまだまだありますが、それらを言うまでもなく結論は出ています。
唐古鍵遺跡の楼閣は楼閣船にあった楼閣。
徐福(ニギハヤヒ)は楼閣船(天磐船)に乗り奈良へ。水田稲作を普及させました。畿内における弥生時代の幕開けです。😌
阿波説に1票🖐️
(24/9/11)
学術の世界では、近畿説以外はすでに無視されているに近しい。
上に書きましたが、記紀神話は江戸時代にできたものなのですよ。ほとんどの日本人は騙されていますが、江戸時代以前の神話はこれと全く違うものだったのです。
江戸時代に国学者本居宣長が古事記を発掘して絶賛したので神道家平田篤胤が復古神道を提唱しました。それが幕末の志士たちに人気となり、明治新政府が神仏分離令を出したら、廃仏毀釈運動が起こり、全国の神を祀っていた寺院が打ちこわしに遭い、僧侶は無理やり還俗させられたのです。そして国家神道が創設されて国史が学校で教えられるようになって日本人に浸透したのです。伊勢神宮の神様は男神です。奈良時代から南北朝まで未婚の皇女が神の妻として奉仕する斎王制度が伊勢と加茂神社にありました。共に同じ神様を祀っていたので、近場の賀茂神社の斎院に位の高い内親王が行きましたが、遠い伊勢神宮の斎宮は人気が無かったのです。伊勢神宮には持統天皇は創建前に行っていますので、参拝していません。その後明治になるまで、天皇はどなたも伊勢神宮には行幸していないのですよ(^_-)-☆
申し訳ないですが、卑弥呼=アマテラス女神説は妄想なのですよ(^^;)
@@koukouyamada2726
因みに、学術の世界では、埼玉県や熊本県の鉄剣を「ワカタケル大王」としている
教科書でも記載して教えている
しかし、教科書を見ると「鹵」とは書いていない
西の異体字が書いて有る
卑弥呼は特定の人間じゃなくて、第13代金村玉三郎みたいに、日ノ御子として、世襲だったんじゃないかな。すると、もともとあった九州にも、遷都後の奈良にもいたって説は納得がいく。卑弥呼よりㇳヨさんが誰だったのかを否定した方が、謎は解けやすいのではないかな。
卑弥呼=ヒメ説は音韻上も有力の様ですね。
魏志倭人伝には複数の国の官として男性首長と考えられる卑狗=ヒコの名が登場しますが、
卑弥呼も女性首長を指すもので固有名詞では無かった可能性がありそうです。
壹輿です
仮に、臺輿でも、「臺」は「と」とは読めません
@@majesty164
卑弥呼は上古音で「ぴえみは(ぴえみか?)」か、魏晋音で「ぴみふ(ぴみく?)」です
卑狗は「ぴえく」か「ぴかう」です
魏志の現存最古の版では"壹"となっていますが、
それ以前に刊行された史書への魏志からの引用はほぼ"臺"ですから壹は臺の誤記と考えるのが妥当です。
@@yamataikoku4in8miyazaki7zaki
魏志の人名記述は上代日本語の再建音と概ね対応します。
「卑弥呼」というのは、魏の役人の当て字であり、「卑」なんて「ヒミコ」の僕である使者がいうはずがありません。とするならば、「ヒミコ」とは「ヒメ」の「ミコ」となります。卑しいという字を当てるのは、がまんなりませんね。
卑弥呼は上古音で「ぴえみは(ぴえみか?)」か、魏晋音で「ぴみふ(ぴみく?)」です
仮に、「ひみこ」でも、「ヒメみこ」にはなりません
「め」は?
当時の奈良盆地を中心に大きな勢力があり、おそらくは大和王権の前身なのだろうとは思いますが、それが魏志倭人伝で言うところの邪馬台国なのかはちょっと分かんないですね🤔
日本側の歴史、神話に卑弥呼が全く登場しないそうなので。邪馬台国と奈良盆地の大和は全く別の国という可能性も普通にあると思います。
纒向遺跡の規模と先進性が三世紀の日本で最大で、かつ大陸との交流もしてますので、まず間違いないとみられています
この時代、大陸との外交は壱岐と対馬を経由するしかなく、敵対する勢力が同時にこのルートを使用する事はあり得ませんから
@@kubo0621
何がまず間違いないのかは判りませんが
九州の倭国を通して交流してたのでは
@@yamataikoku4in8miyazaki7zaki 規模と先進性が纒向の方が遥かに上ですのでイニシアチブは畿内がとっていたとみられています。つまり後の日本の形が既に作られかけていたとみられています。
邪馬台国のわけがない笑
議論の余地もない笑
100%畿内ではありません笑
奈良県だと、東に海が有るというより、陸地に囲まれた盆地だと書かれるべきだし
纒向は邪馬台国の集大成だと思っています。是非、復刻してモニュメント造って欲しいですね。
纏向遺跡の規模からすると 卑弥呼の時代より後世の気がする 炭素年代測定法は数万年単位の測定が可能で 2000年前位だと不確実だ 径百余歩の卑弥呼の墓は円墳だと以前から言われていたが 箸墓に決めたとたん 前方後円墳に適用した この地域は ヤマト政権の前の政権の神々が宿る地域 のちに天津神の政権が征服したと思えてならない
素人が考える事くらい、専門家は当然考えた上で言ってんだよ。
@@koukouyamada2726
若一調査隊の動画は毎回観ていて 彼を尊敬しています しかし 私は九州説に傾倒しています その意見を言うなとするなら あなたは意見の多様性を認めない単なる盲従者に過ぎない 反論するべきならまだしも 上から目線で感情を吐露するなんて哀れですね
@@Harutoshi86104
トンデモ学説には、多様性は適用されません。科学的、学樹的研究の結果の違いにのみ、多様性が認められます。
纏向の規模など意味が無い、
箸墓古墳の大きさもどうでも良いし、年代も正直もうどうでも良い。
纏向が最大の遺跡
箸墓が最大の土木建造物
とかも、いい加減やめて欲しい。
そしたら、築年、西暦240年±の鑑定結果も出ている、
版築の壁での周囲50㌔以上ある、総構えの城の
太宰府羅城はどう説明するのか?
太宰府羅城こそが、
纏向や、その他の遺跡とは
隔絶した規模の、
邪馬台国時代
最大の遺跡であり、
最大の土木建造物だろう。
また、
魏志倭人伝の伊都國の官 爾支と一大率ならび持衰の関係は、
後の大和朝廷の物部氏の祖先の記述である
事は、確率的な証明方法で、
蓋然性に足る客観的事実に認定できる。
つまり、そうなるとニギハヤヒなりニニギは九州島に居たと考えられ、
それよりあとと考えられる、
神武東征の時期や事実にも疑義が生じる。
神武天皇やニギハヤヒよりも前に崇神天皇が居たの?
太宰府羅城という巨大城郭を造営できうる、
断トツの列島最大の勢力でかつ、農業や工業ににも鉄器を使用する、鉄器文明に至っていた、
北部九州を筆頭に、同じく鉄器文明に至っていた丹後半島と高志、
青銅器文明であった出雲、
それに比べ青銅器文明にも至っていないレベルの
纏向や奈良近辺は金石文明のレベルだが、
卑弥呼は、そんな文明の遅れた土人の酋長だったの?
そんな鉄器文明の先進地域から見たら、極めて遅れた文明で且つ、
武装解除されているレベルの地域が邪馬台国の本拠地で、魏国と外交してたの?
そんな極めて遅れた文明で武装解除されているような國が、
先進地域から共立されるとか連立され邪馬台国連合(女王国)のトップになり、差配するなど、
トンデモ説でしかない。
どの先進地域がそのような極めて遅れた文明で、武装解除されているような國の支配など受け入れるのか?
全くナンセンスである。
そして、纏向・近畿からは、他の先進地域に魏国へのルート、魏国から来るルートも遮断されている地勢であり、
全く、極めて遅れた文明で、他の先進地域は極めて強大且つ脅威でしかない。そんな纏向勢力が倭国の代表として魏国と外交など非現実的である。
纏向勢力が、他の先進地域を支配していた形跡はない。
何なら、その逆の方がまだ有り得る。
箸墓古墳の歴史博物館による炭素年代法14での調査結果は240~260年となったのですが 2020年の検査結果から この精度は16%とされ 寧ろ別の専門家の別のモデルによる検査結果で 箸墓古墳の築造年代は400年頃となっています 邪馬台国近畿説は古書からも 遺跡からも 根拠が薄い訳です
三国志時代の呉は滅亡(280年)の際に、晋との決戦前夜に大船に乗った2万の大軍は逃亡、行方不明(孫皓伝)その大軍は九州に上陸し霧島の高千穂峰で鉾を突き刺した(天の逆鉾、天孫降臨)。
その大軍(漳州人)は小舟に乗り換えて奈良(纒向)に移動してヤマト政権の樹立。崇神天皇即位286年。ヤマト政権は呉の復興であった。漳州人、小舟に乗り換えて奈良はアビラ・ヒロンの日本王国記より😌
状況証拠を幾ら積み重ねても纏向が邪馬台国ではないという結論にしか辿り得ないんですけどね。
➡➡ 10:00 ふん・・・えらそうに。たかが・・・サルの子孫の遺体が・・・あるかどうか・・・という場所・・・だけのことではないけ。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
え?
はい?
残念ですが、卑弥呼は、ここにはおりませんでした。地理的にも、時代的にも違い過ぎます。
被葬者はヤマトトヒモモソヒメ、ですよね。でもこの百襲姫の別名に日女命、日神、神大市姫という海部氏系図という日本側の文献史料もあります。
まあ百襲姫は太陽神的な巫女王でヒミコと呼ばれていた可能性はかなり大です。
まきむく遺跡が卑弥呼の墓?時期尚早ですよ。北九州説が唯一無二の候補。
何故 邪馬台国 卑弥呼という言葉を日本人が使う 最悪の差別言葉だろう こんな差別まみれろ言葉平気で使うなんて いつもおもう
やまとのくに ひのみこと呼べと思う たとえば天皇は昔から天皇であり みこさんもむかしからみこさんである
そう
差別言葉です
邪は、卑字としては「じゃ」としか読めません
で、普通に読めば、後漢書倭伝は上古音で「邪馬臺国じゃまだ」
魏志倭人伝は「邪馬壹国じゃまいち」です
巻向はトミとヤマトの起源。卑弥呼は関係ない。私は、卑弥呼は沖縄論。
私は、卑弥呼アイヌ論。
@@koukouyamada2726 卑弥呼は縄文系のムナカタ海人族の太陽神信仰の姫巫女です。
アイヌはたしかに縄文系ですがオホーツク人との混血で、文化も違いますから、成立はずっと後なのですよ(#^.^#)
同感です。箸墓古墳の被葬者はヤマトトトビモモソヒメですが、大物主大神(大国主)の妻という伝承ですから卑弥呼ではないですね(#^.^#)
沖縄は卑弥呼のムナカタ海人族と同じ太陽神信仰が伝えられています。琉球神道はかなり卑弥呼の太陽神信仰に近いものだと思います。ヲナリ神信仰やマレビトなどは同じものだと思います。
@@katumoku10
真面目に言っている訳ないし、
そのムナカタ海人なんていう、学術的に一般的では無い名称はなんなんだ。
@@koukouyamada2726 縄文時代中期からから隠岐の黒曜石などを沿海州や半島北部などに運び、遼河人などと交易で活躍していた海人族ですよ。彼らは体に刺青をしていたので胸かたと呼ばれていた海洋民族として知られていますよ。主に、日本海沿岸部の根拠地において海外の文化を取り入れて園耕民となって生活していました。ヤポネシア・プロジェクトの斎藤教授が提唱する日本の民族形成の三段階モデルの二段階目です。かれらの子孫が、弥生時代や古墳時代初頭で活躍して、ヤマト王権が成立したのですよ(詳細は「日本列島に集まった人々とは?」参照)。
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