【第1回:禅僧の逸話に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2024年5月7日(火)

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  • Опубліковано 16 гру 2024
  • 「建学の精神」である禅仏教による人格の陶冶をテーマに、「禅・仏教講座」として開設しています。
    禅の世界をあらゆる角度から捉え感得するため総長、学長、仏教学科教員を中心に授業を展開し、その他、いす坐禅・読経など実践を行います。
    「知識としての禅」から「感じとる禅」への転換をテーマとし、「自分だけにしかないいのちを生きる」ことを目標とした講義です。
    なお、学生向けに配信している総長講義のみ、順次公開させていただきます。
    禅とこころ 禅僧の逸話に学ぶ 
    令和六年五月七日 花園大学総長 横田南嶺
    第一回 達磨大師の話
    『碧巌録』 第一則
    梁の武帝、達磨大師に問う、如何なるかこれ聖諦第一義。磨云く、廓然無聖。
    帝云く、朕に対する者は誰ぞ。磨云く、不識。
    帝、契わず、達磨ついに江を渡って魏に至る。帝後に挙して誌公に問う。
    誌公云く、陛下、還ってこの人を識るや。帝云く、不識。
    誌公云く、これは是れ観音大士、仏心印を伝う。帝悔いて、遂に使いを遣し去って請ぜんとす。誌公云く、道うことなかれ、陛下、使いを発し去って取らしめんと、闔国の人去るとも他また回らず。
    『無門関』 第四一則 達磨安心 
    達磨面壁す。二祖雪に立つ。臂を断って云く、弟子心未だ安からず。乞う、師安心せしめよ。磨云く、心を将(も)ち来れ、汝が為に安んぜん。
    祖云く、心を覓(もとむ)むるに了に不可得なり。磨云く、汝が為に安心し覓んぬ。
    二入四行 (鈴木大拙『禅の思想』より)
    理入 すべてのものには同一の真性が具わって居るが、それが妄想(迷)と云う外来の汚塵に覆われてしまって、顕われ出ることが出来ないと云うことが、深く信ぜられる。それで妄想を捨てて、真性に帰って、壁観に凝住すると、自分と云うものも他人と云うものもなく、凡人も聖者も、一等であると云うことがわかる。
    行入
    報怨行とはどんなのかと云うに、それは、道を修行して居る人の身の上に、何か苦厄が出来たとせんに、その人はこう考えなくてはならぬ。自分は過去無量劫に渉りて、本を棄てて末に走って居た。而して色々の世界を流浪して来て、他をして自分に対して怨憎の心を抱かしめた、その心を違害したことが限りなくあった。この一生では別に罪業を犯すようなことをしないにしても、自分の過去の罪業に対しての果報は、今や成熟し来たって、この身に加わりつつある。これは天からのわざでもない、また人間が加えるのでもない。誰も知らぬのである。それで自分は何等不平の心を持たないで忍受しなければならぬ。誰をも恨むべきでない。御経に、苦しみに逢っても、心を変えぬ、何故かと云うに、その道理をきわめると、ちゃんと、わかるからであると書いてある。誰でもこんな心になれると、自然の理と相応するようになる、それは怨を経験することによりて道に進み得るからで、それでこれを報怨行と云う。
    第二に随縁行と云うのはこうである。衆生の本質は元来無我であるから、因果を超越して居るが、而かもみな縁業に転ぜられるのである。そうして苦を受けたり、楽を受けたりする。それは、その場その場での業縁から出るのである。それ故、何か世間的に好いと思うことがあっても、それは自分の過去の宿因で今それを感得するのである。縁尽きてしまえば、何もなくなるのであるから、特に喜ぶべきものはない。得失は何れも心から出るのだから、心に増減(即ち喜憂)を抱くことなく、泰然として動かずに居ればよいのである。それで冥冥に道に順うから、これを随縁行と云う。
    第三に無所求行とはこうである。世間の人々は久しく迷って来たので、到るところに貪著して居る。これを求むると云うのである。智者は真を悟って居るので、自ら俗人と違って居る。心に安んずるところがあるので、何かとあせらない。形のあるに任せて行為する。万有すべてのものは(その本質において)空であるから、それに対して願楽を抱かぬ。功徳天と黒暗天とはいつも形影相随うものである。三界に永居することは火宅に居るようなもの。身と云うもの(心と云うもの)があると思うと、みな苦の種子になって、安心が不可能になる。此処に了達すると、諸有において想をやめて貪著せず、自ら求むるところがなくなる。御経に、求むるところがあるとみな苦で、それがないと楽だと云われるが、その無求と云うことがよくわかれば、それが本当に道を行くと云うもの。
    第四に称法行と云うはこうである。性(即ち絶対的実在)は本来清浄(絶対的)である、それを法と云うが、この理を信解すると、すべて相(相関的)あるものが空であることがわかる。即ち染著を離れ、彼此に囚えられぬ。御経に、法には衆生(相)がないが、衆生垢を離れて居るからだ、法には我(相)がない、我の垢を離れて居るからだと説いてある。智者もし能くこの理を信解するならば、法の理に称うた行為をすることが出来よう。
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