Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
家康と秀吉、ともに戦国武将らしい風格が出て来て、ますます面白くなって来ましたね。かつては、家康をねらった井伊直政も武田の旧臣をまとめる実力をつけて徳川家を大いに助けているし、家康をうった本多正信も軍師としての智略を発揮しての大活躍、ときたら、かつて謀反を企てた大岡弥四郎も、もしも直政や正信と同じように許していたら、実際の家康の天下取りがもっと早まっていたかもしれない。そんなことを考えて、歴史の流れに思いを馳せています。
大河ドラマでここまで気になってきた「月代どうした問題」も無事解決し、落ち着いて毎週観ております。が、ここに来て2つばかり気になるのは。織田信雄ってこんな奴だったのかなぁ。これはまぁ、分からなくもないのですが、もう一つの方が気になって。それは…おね様が全く出てこない!女性目線の脚本のこのドラマなのに、何故?おね様は豊臣の世から徳川の世に移りゆく歴史のキーパーソンなのに。これから登場して家康と関わってくるのか、それともこのまま存在ごと無視されるのか。気になって気になって夜も眠れないので昼寝します。
頼山陽曰く、「家康公の天下を取るは大阪にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」 森長可の功名心が豊臣家の滅びに至ったのか。
池田恒興、森長可が討死というだけでも、家康の大勝利ですね。ここまで名のある武将が討死にするのは秀吉絡みではあまりないですよね。
初花肩衝の名付け方も日本人の美的センスを感じましたし、森長可と池田恒興との関係性も詳しく解説されたのは良かったです。池田恒興の実子である輝政は関ヶ原の戦い前から接近して西国将軍と渾名され、あの世界遺産でもある姫路城城主になるというのは歴史の不思議です。
池田&森の解説ありがとうございます。
ガス状流星群という曲の動画をアップしたので、ご覧ください。
石川数正は秀吉の家臣になってからどのような活躍をしたのですか?教えて下さい。ドラマでは名前がそれ以後ーーー。家康の家臣だった時と比べてどうですか?戰場での活躍は?徳川家中での実際の評価は?お願いします。
関ヶ原の戦い。真田を抑えるために3万8千。真田はせいぜい4ー5千。そんなに必要なのですか?いくら真田でもこの大軍相手にマトモにやれば、何日保つか。この時期、加賀の前田の動きは。大谷刑部とは何を話し合ったのですか?上杉との関係は。小諸は北国街道との。それとーーー。関白秀次事件で処刑された側室たちの履歴を教えて下さい。どの大名の縁者ですか。この事件に関与したと思われる大名たちは。秀吉に対する謀叛をという説もあるらしいですが。秀頼を廃して秀次を。それが本当ならば、やはり秀頼があとを継ぐと。となると家康を裏切る可能性は低いのでは。最上などは上杉相手に。思い込みです。8月24日秀忠3万8千の軍を率い、宇都宮を出発。9月5日真田昌幸が東軍に対し、抗戦を表明。砥石城から上田城へる。この間、約十日ですか。何をしていたのですか?秀忠は上田にはいつ着いたのですか?普通なら降伏した真田軍を伴い、すぐにでも関ヶ原へ。上田にとどまる理由は?それに真田が仕掛けても。攻める気があるのかないのか。関ヶ原の戦いは9月15日ですか。まあいいか。9月14日,赤坂に着いた家康。大津城が田辺城が落ち2万の西軍が、間もなく加勢に大垣へ。まあこの時期。マトモに西軍と戦っているのはこの方面だけですか?東北では最上も上杉と。伊達は動かず。加賀も。いくら手紙を書けど反応は。各武将たちはどうだったのですか。全国的に見て家康側の兵力は?家康の根拠地の江戸は敵か味方かわからない有力大名に囲まれ。周囲には伊達、上杉。前田もいますか。北は宇都宮あたりまで、東は?西は美濃、大垣の手前までですか?これでは動けませんか。それで一月余りも。その間に伏見城は落ち、伊勢方面や滋賀方面でも落城の知らせが。なにをしているんだ。日和見な戦国武将はこれを見て、どう思ったことか。まあーーー。西軍側はどうだったのですか。似たようなものですか?それにーーーどういう訳か、大垣へ行かず、南宮山へ陣取った毛利の本軍が動き出せば。東軍の福島たちも気が気では。伊勢方面を平定し、9月7日に南宮山まで来ていて、どういう理由で毛利の本軍は大垣へ行かなかったのですか?行けば福島たちの東軍を圧倒できたはず。滋賀方面からの増援を待ってーーー(何をするの?)の可能性は?家康本隊の情報は入っていたのか。この場合。西軍が決戦を挑むなら何処で。まあいいか。それで9月14日に赤坂に到着した家康。赤坂は大垣と南宮山の間ですか?それと関ヶ原の戦い。こういう作戦はどうですか。赤坂に着いた家康。この時の状況は。大垣に石田勢。南宮山に毛利勢。そしてーーー西軍の増援2万が滋賀方面から(それに続いてーーーはいたのですか?)。家康か、西軍が陣取った笹尾山や天満山に先に布陣し。ここに東軍が陣取れば西軍の増援もーーー阻止でき。西軍の増援も伊勢方面から迂回してくるしか。その上で。小諸の秀忠軍3万8千を呼び寄せ。大垣の石田軍と南宮山の毛利軍を挟み撃ち。しかしそれを察知した西軍。家康より先に笹尾山に。霧が晴れて。家康軍。敵に囲まれ、「周囲、声なく」「秀秋に裏切られたか」どういう意味か。まあ秀秋が、天満山、笹尾山への家康の進出を掩護してくれれば。石田勢も家康に先んじて笹尾山等へ布陣することは難しいのでは。大谷刑部が先に出張って来ていたというーーーまあいいか。まあ冗談です。しかしーーーあの状況で。笹尾山の石田勢を攻めても攻めあぐね、逆に押し返される始末。他も似たようなもの。どう考えても敗勢の濃い東軍。松尾山、南宮山と、山の上から見れば、一目瞭然、家康に攻めかかるのを逡巡するような者がはたしているのか。そればかりか、家康に加勢しようとする戦国武将がいたとは。勝ち馬に乗るなら。毛利秀元。小早川秀秋の戦歴を教えて下さい。この2人。全くの素人扱い。毛利秀元は毛利の家督を継ぎ。その戦歴は?吉川広家、毛利輝元もお願いします。 戦いには勝ったものの。「秀忠に合わせる顔がない」と、しばらくはーーー会わずに。まあ冗談です。
つくもかみなすと はつはなかたつきと 普通の壺と何がどう違うんでしょうか
初花肩衝は、一度は家康の元を離れまた戻って来て、さらに所有者を変えながら最終的に徳川家のものとなるんですね。こういう事物の変遷は、所有者の栄枯盛衰を語っているようで個人的に響きます。池田恒興、森長可、共に小牧・長久手の戦いで敗死してしまうので、長可の遺書はちょっと哀しく拝聴しました。
果たして三好信吉、後の羽柴秀次は次回に出てくるのであろうか?
初花肩衝、なんて面白い名前!字、間違ってたら、あしからず!!海津城、元は高坂さんが守っていた所だね!美男の高坂弾正。
安土桃山時代の茶器の高騰と遠い欧州のチューリップ·バブルが当たらずとも遠からずは気の所為やろか?天下泰平になって特産焼き物が出回ると国が買えるほどの茶器が鳴りを潜めてお蔵入りした感覚やし現存茶器が国宝なのはおいといて
茶器にお詳しいですね。博物館に展示があれば見てます。
家康と秀吉、ともに戦国武将らしい風格が出て来て、ますます面白くなって来ましたね。かつては、家康をねらった井伊直政も武田の旧臣をまとめる実力をつけて徳川家を大いに助けているし、家康をうった本多正信も軍師としての智略を発揮しての大活躍、ときたら、かつて謀反を企てた大岡弥四郎も、もしも直政や正信と同じように許していたら、実際の家康の天下取りがもっと早まっていたかもしれない。そんなことを考えて、歴史の流れに思いを馳せています。
大河ドラマでここまで気になってきた「月代どうした問題」も無事解決し、落ち着いて毎週観ております。
が、ここに来て2つばかり気になるのは。
織田信雄ってこんな奴だったのかなぁ。
これはまぁ、分からなくもないのですが、もう一つの方が気になって。それは…
おね様が全く出てこない!
女性目線の脚本のこのドラマなのに、何故?
おね様は豊臣の世から徳川の世に移りゆく歴史のキーパーソンなのに。
これから登場して家康と関わってくるのか、それともこのまま存在ごと無視されるのか。
気になって気になって夜も眠れないので昼寝します。
頼山陽曰く、「家康公の天下を取るは大阪にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にあり」 森長可の功名心が豊臣家の滅びに至ったのか。
池田恒興、森長可が討死というだけでも、家康の大勝利ですね。ここまで名のある武将が討死にするのは秀吉絡みではあまりないですよね。
初花肩衝の名付け方も日本人の美的センスを感じましたし、森長可と池田恒興との関係性も詳しく解説されたのは良かったです。
池田恒興の実子である輝政は関ヶ原の戦い前から接近して西国将軍と渾名され、あの世界遺産でもある姫路城城主になるというのは歴史の不思議です。
池田&森の解説ありがとうございます。
ガス状流星群という曲の動画をアップしたので、ご覧ください。
石川数正は秀吉の家臣になってからどのような活躍をしたのですか?
教えて下さい。
ドラマでは名前がそれ以後ーーー。
家康の家臣だった時と比べてどうですか?
戰場での活躍は?
徳川家中での実際の評価は?
お願いします。
関ヶ原の戦い。
真田を抑えるために3万8千。
真田はせいぜい4ー5千。
そんなに必要なのですか?
いくら真田でもこの大軍相手にマトモにやれば、何日保つか。
この時期、加賀の前田の動きは。
大谷刑部とは何を話し合ったのですか?
上杉との関係は。
小諸は北国街道との。
それとーーー。
関白秀次事件で処刑された側室たちの履歴を教えて下さい。
どの大名の縁者ですか。
この事件に関与したと思われる大名たちは。
秀吉に対する謀叛をという説もあるらしいですが。
秀頼を廃して秀次を。
それが本当ならば、やはり秀頼があとを継ぐと。
となると家康を裏切る可能性は低いのでは。
最上などは上杉相手に。
思い込みです。
8月24日秀忠3万8千の軍を率い、宇都宮を出発。
9月5日真田昌幸が東軍に対し、抗戦を表明。砥石城から上田城へる。
この間、約十日ですか。
何をしていたのですか?
秀忠は上田にはいつ着いたのですか?
普通なら降伏した真田軍を伴い、すぐにでも関ヶ原へ。
上田にとどまる理由は?
それに真田が仕掛けても。
攻める気があるのかないのか。
関ヶ原の戦いは9月15日ですか。
まあいいか。
9月14日,
赤坂に着いた家康。
大津城が田辺城が落ち2万の西軍が、間もなく加勢に大垣へ。
まあこの時期。
マトモに西軍と戦っているのはこの方面だけですか?
東北では最上も上杉と。
伊達は動かず。
加賀も。
いくら手紙を書けど反応は。
各武将たちは
どうだったのですか。
全国的に見て家康側の兵力は?
家康の根拠地の江戸は敵か味方かわからない有力大名に囲まれ。
周囲には伊達、上杉。
前田もいますか。
北は宇都宮あたりまで、
東は?
西は美濃、大垣の手前までですか?
これでは動けませんか。
それで一月余りも。
その間に伏見城は落ち、伊勢方面や
滋賀方面でも落城の知らせが。
なにをしているんだ。
日和見な戦国武将はこれを見て、どう思ったことか。
まあーーー。
西軍側はどうだったのですか。
似たようなものですか?
それにーーーどういう訳か、大垣へ行かず、
南宮山へ陣取った毛利の本軍が動き出せば。
東軍の福島たちも気が気では。
伊勢方面を平定し、9月7日に南宮山まで来ていて、どういう理由で毛利の本軍は大垣へ行かなかったのですか?
行けば福島たちの東軍を圧倒できたはず。
滋賀方面からの増援を待ってーーー(何をするの?)の可能性は?
家康本隊の情報は入っていたのか。
この場合。西軍が決戦を挑むなら何処で。
まあいいか。
それで9月14日に赤坂に到着した家康。
赤坂は大垣と南宮山の間ですか?
それと関ヶ原の戦い。
こういう作戦はどうですか。
赤坂に着いた家康。
この時の状況は。
大垣に石田勢。
南宮山に毛利勢。
そしてーーー西軍の増援2万が滋賀方面から(それに続いてーーーはいたのですか?)。
家康か、西軍が陣取った笹尾山や天満山に先に布陣し。
ここに東軍が陣取れば西軍の増援もーーー阻止でき。
西軍の増援も伊勢方面から迂回してくるしか。
その上で。
小諸の秀忠軍3万8千を呼び寄せ。
大垣の石田軍と南宮山の毛利軍を挟み撃ち。
しかしそれを察知した西軍。
家康より先に笹尾山に。
霧が晴れて。
家康軍。
敵に囲まれ、「周囲、声なく」
「秀秋に裏切られたか」
どういう意味か。
まあ秀秋が、天満山、笹尾山への家康の進出を掩護してくれれば。
石田勢も家康に先んじて笹尾山等へ布陣することは難しいのでは。
大谷刑部が先に出張って来ていたというーーーまあいいか。
まあ冗談です。
しかしーーーあの状況で。
笹尾山の石田勢を攻めても攻めあぐね、逆に押し返される始末。
他も似たようなもの。
どう考えても敗勢の濃い東軍。
松尾山、南宮山と、山の上から見れば、一目瞭然、
家康に攻めかかるのを逡巡するような者がはたしているのか。
そればかりか、家康に加勢しようとする戦国武将がいたとは。
勝ち馬に乗るなら。
毛利秀元。
小早川秀秋の戦歴を教えて下さい。
この2人。
全くの素人扱い。
毛利秀元は毛利の家督を継ぎ。
その戦歴は?
吉川広家、毛利輝元もお願いします。
戦いには勝ったものの。
「秀忠に合わせる顔がない」
と、しばらくはーーー会わずに。
まあ冗談です。
つくもかみなすと はつはなかたつきと 普通の壺と何がどう違うんでしょうか
初花肩衝は、一度は家康の元を離れまた戻って来て、さらに所有者を変えながら最終的に徳川家のものとなるんですね。こういう事物の変遷は、所有者の栄枯盛衰を語っているようで個人的に響きます。
池田恒興、森長可、共に小牧・長久手の戦いで敗死してしまうので、長可の遺書はちょっと哀しく拝聴しました。
果たして三好信吉、後の羽柴秀次は次回に出てくるのであろうか?
初花肩衝、なんて面白い名前!字、間違ってたら、あしからず!!海津城、元は高坂さんが守っていた所だね!美男の高坂弾正。
安土桃山時代の茶器の高騰と
遠い欧州のチューリップ·バブルが
当たらずとも遠からずは気の所為やろか?
天下泰平になって特産焼き物が出回ると国が買えるほどの茶器が鳴りを潜めてお蔵入りした感覚やし
現存茶器が国宝なのはおいといて
茶器にお詳しいですね。博物館に展示があれば見てます。