【どうする家康】第33回「裏切り者」

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  • Опубліковано 24 жов 2024

КОМЕНТАРІ • 34

  • @原重夫-d7i
    @原重夫-d7i 6 місяців тому +1

    先生、今日もなかなか鋭い解説ですね!。😊

  • @コン-n2e
    @コン-n2e Рік тому +1

    石川数正の出奔理由の本当のところは分かりませんが、大河ドラマの、家中の誰よりも現状が良く見えていたので出奔したという描かれ方は、これまでの見方が大きく変わり面白かったです。いづれにしても、上田合戦を撤退するほどの衝撃だったのでしょうね。

  • @yukkowoopy600
    @yukkowoopy600 Рік тому +13

    ドラマの補足説明、ありがとうございました!いつもドラマ本編のあと、必ず見てます。
    先生の、今日のTシャツ素敵です❤

  • @まんまるあやちゃん
    @まんまるあやちゃん Рік тому +4

    おね様が登場されましたね。
    豊臣政権内での役割がはっきりとした登場の仕方でした。
    これからが楽しみです。

  • @issyhomeconnection9316
    @issyhomeconnection9316 Рік тому +1

    第一次上田合戦で秀吉方が直接真田にてこ入れしたことになってましたが、その辺りは実際はどうなんでしょうか。真田丸でも上杉からの援軍はあったことは示唆された程度で秀吉方と真田が密約したり秀吉から直接の支援があったようには描かれてませんでした。
    この辺りこの数年で新しい発見があったのか古沢さんの独自解釈なのか詳しく知りたいです。

  • @バルーン折紙アートマン

    上田合戦こそ、家康が北条との盟約で真田領を勝手に渡して家康と紛争になり、後々の関ヶ原や大阪冬・夏まで続く因縁なのに、あまりにもあっさりした描写でした。
     その後、家を残すために親子が豊臣、徳川に分かれる流れも詳しく描写すべきと思いました。
     なお、歳を取らない家康と家臣団に比べて、家康より年下のはずの真田昌幸が老人であり、時代考証的にももっと真田との関わりを描写するように指導して欲しかった、と思います。

  • @KKKKK-yq2xi
    @KKKKK-yq2xi Рік тому +1

    よく秀吉は将軍になりたかったが、源氏の血筋でないのであきらめて、近衛家の養子に入り関白になったと言われますが、真実でしょうか? 普通に考えると征夷大将軍より関白の方が位はかなり上ですし、将軍の源氏の血筋なんかより、関白の摂関家の血筋の方が遥かにハードルが高いと思いますが。正直、当時の秀吉と朝廷の力関係ならどうにでもなったような気がしますし、信長も秀吉も将軍の位にそんなに魅力を感じてなかった気がします。征夷大将軍の位は江戸時代に徳川の力が強く、長かったから現在、過剰評価されているような気もしてます。

  • @mytube8929zgtr
    @mytube8929zgtr Рік тому +3

    BS放送出演の先生を時々拝見させて頂いて折ります。👍

  • @sigeoishida1847
    @sigeoishida1847 Рік тому +1

    こんにちは。初めて投稿します。先生の解説は背景と紐づけわかりやすいです。質問ですが、何話か前ですが信長と家康が会談中にろうそくが、錨型の朱ろうそくを使っていたのですが、なぜですか。私は、真宗大谷派の門徒なので興味があり質問しました。教えてください。よろしくお願いします。

  • @明智実光秀嫡流と作-t9d

    今日、8月28日22時25分から、NHK100分で名著「覇王の家」(徳川家康)の第4回(最終回)があります。徳川が後世を作る話です。作者は司馬遼太郎。案内でした。

  • @じょーうん
    @じょーうん Рік тому +3

    真田昌幸登場しましたね✨
    でも…昌幸は、家康よりも5才下、秀吉よりも10才下で、この時は40才にもなっていませんが、どう見ても60才くらいにしか見えませんね😂

  • @Milanista224
    @Milanista224 Рік тому +2

    石川数正の方聞きたかったなー
    あんなに言いたいこと言って出奔したら驚きもなかったのではと思いました。。。

  • @mikuni-juso
    @mikuni-juso Рік тому

    幸綱? あれ? 幸隆?  Wikipediaで見てみたら同じ人でした。

  • @motoyasushimizu7107
    @motoyasushimizu7107 Рік тому +11

    この辺、本編であっさりだったので解説がありがたいです。

  • @せとまちかいぎ
    @せとまちかいぎ Рік тому +8

    今日も、小和田先生
    早いな

  • @イシイマチコ
    @イシイマチコ Рік тому +3

    織田信長も豊臣秀吉も武家の役職には縁遠く、何とかして関白に滑り込んだ感じですね。
    徳川方からすれば重臣の石川数正と真田昌幸は裏切り者ですね。

    • @nekoshamamogi
      @nekoshamamogi Рік тому +1

      真田からみて、徳川が裏切ったんじゃないですか。

    • @イシイマチコ
      @イシイマチコ Рік тому +1

      @@nekoshamamogi 天正壬午の乱の終結の条件からすれば裏切ってなどいない。

    • @トカゲの尻尾-i7x
      @トカゲの尻尾-i7x Рік тому +2

      石川数正は裏切りというより、本当に秀吉には敵わないからお家(徳川家)存続の為にも臣従してほしいと願い出ていたのではと考えています。
      そして、そのような発言によって家内で浮いてしまい出奔した。
      って感じかなぁって思ってます。

    • @イシイマチコ
      @イシイマチコ Рік тому +1

      @@トカゲの尻尾-i7x 出奔理由には諸説あり、どれが正しいのか不明。

  • @cancan5892
    @cancan5892 Рік тому +8

    もし足利義昭が秀吉を猶子にしていたら、秀吉は征夷大将軍になったかもしれないのですね。朝廷に代わり政治を行う武士の最高権威なので、こちらの方がより適しているように感じますが、関白は別の意味で秀吉の作戦にかなったと思います。関白とは、天皇を補佐し権限を代行し政務を行う天皇の代理人なので、秀吉は事実上持っている武士としての軍事力の上に、関白になることで得られる権威を両有したのだと思います。それに対し、家康は武士の最高権威で幕府のトップである征夷大将軍を選んだ。征夷大将軍は鎌倉以来世襲で継承されるものだったのが、江戸時代以降武士の棟梁のイメージが定着し、事実上徳川政権は世襲で継承されていった。二人の思惑の違いが際立ちます。秀吉の全てを飲み込んで上に立とうとする姿勢と家康の関東を基盤に地道に手堅く制度を通して固めて行く武家政権。ダイナミックな総括と地道ではあるが強固な永続性を持つ単体。日本史上では、その勝敗が明確ですね。

    • @nekoshamamogi
      @nekoshamamogi Рік тому +1

      徳川家は明治維新後も続いてますし、家康が江戸を世界一の人口都市としたのも、大きな功績ですね。鎖国は江戸文化を花開かせました。

    • @森田慶勝
      @森田慶勝 Рік тому +1

      秀吉の政権イメージは、同時代に誕生した欧州主権国家型の中央政権政体だったように感じます。
      事実、スペインのフェリペ2世の存在やフィリピン征服もよく知っていたようですし(朝鮮出兵はその対抗策だったとする説もあるようです)。
      とすると、朝廷(中央政権)の外に私的政権を作る幕府型よりも、中央政権そのものを実体化(関白を中心とした政権)する方が外交・対外政策には相応しいと考えられます。
      しかし、大きな島国・日本の民衆にはそれが理解できなかったようです。
      主に地政学的要因から、そんな対外政策の歴史を持たなかったから。
      事実、スペインのフィリピン→東アジア征服は、英西戦争によって後退します。
      元寇よろしく、日本の政策と関係ないところで日本は救われました。
      だから誰もリアリティを持たなかった。
      秀吉の失敗を見て、家康は封建制(かなり中央政権的だけど)を選択した気がします。
      実際、日本列島の人々にはそれが相応しかったようです。
      もっと言えば、今もその癖は変わらず、主権国家の先の国民国家(民主主義国家)は日本人には馴染まない様子です。
      やはり、日本型身分社会の外からやってきたような秀吉の政権イメージが、日本列島社会に受け入れられなかったのは、必然だったような気がします。

    • @cancan5892
      @cancan5892 Рік тому

      @@森田慶勝 さん 学術的で壮大な解説、日本史と世界史の交錯するダイナミズムを感じます

    • @まかいチャンネル
      @まかいチャンネル 4 місяці тому

      猶子にならなくても秀吉は天正12年に朝廷より征夷大将軍の打診を受けてます。なので征夷大将軍より上である関白になりますが、普通の関白と違うのが、秀吉は朝廷権威と武家政権を融合させた武家関白制と呼ばれる政権を作り上げたのが特徴です。なので秀吉政権の場合、朝廷政権内の関白、征夷大将軍=武士政権とは考えない方がいいと思います。
      参考文献
      堀越祐一2016
      矢部健太郎2011.13.23

  • @モートン-o7y
    @モートン-o7y Рік тому +1

    石川数正が秀吉の家臣に出奔したはっきりした理由が何で伝えられてないんでしょうね?本人は理由も言わなかったんでしょうか🤔

  • @y--sizuki
    @y--sizuki Рік тому +6

    いつも本当に簡潔にご解説していただきまして勉強になります。
    徳川を利用して上田合戦に巧く持ち込んだ眞田安房守ですが、家康に勝手に旧領沼田を後北条に引き渡すなんて昌幸からしたら承服する訳がないのに、やはり眞田氏を侮ったんですね…。

  • @リエ-l3f
    @リエ-l3f Рік тому +1

    家康は真田を少しなめていたのかな?真田はしたたかだし、昌幸も源氏の血が入ってるし子供の頃から信玄公の近くにいたから、寺の小僧けさを詠むとかで、一応侮れないのに。それにあの狸親父の、(家康ではない、違うタヌキ)信玄公の重臣の飯富虎昌の孫だよ!飯富さん、後に切腹させられたとは言え。でもまあ、最後には家康に、高野山のふもとに、九度山に追いやられたけど。 後、小和田さんは髪型が少しいつもと違うね?フワッとして、パーマかけたみたいな!?普段のペチャッと貼りついた様な髪より、垢抜けた感じだね。

  • @明智実光秀嫡流と作-t9d

    三職推任、日本史の奥義ですね。

  • @明智実光秀嫡流と作-t9d

    徳川も、四天王以外は強くないな。

    • @nekoshamamogi
      @nekoshamamogi Рік тому +2

      徳川は野戦には強いですが、城責めは苦手と道の駅に書いてませんでしたか?