守護大名たちの末路ワースト5

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 15 січ 2025

КОМЕНТАРІ • 75

  • @hidenorif9440
    @hidenorif9440 Рік тому +12

    戦乱の南北朝時代の名家であっても次の戦乱の時代に凋落するのは実力こそすべてですね。
    今回のテーマ非常にツボです、ありがとうございます。

  • @最初の名字で活動します

    「歴史じっくり紀行」様、動画を拝見しました。
    「室町幕府」屈指の「名門守護」でも没落してしまう程、「戦国期」は怖い時代だと思います。
    でも江戸時代、「高家」でも家名を保てる家もそこそこ存在してて安心した考えです。

  • @えいろく-j9v
    @えいろく-j9v Рік тому +4

    興味深く見させて頂きました
    戦国以前の歴史も面白いですね
    詳しく調べてみようと思いました

  • @提督オルタ
    @提督オルタ Рік тому +4

    鎌倉・室町期の守護大名はシガラミだらけ…。まさに御屋形様はつらいよ😢

  • @SMK皇帝ファントム陛下Japan

    投稿お疲れ様です!
    if系で
    もし黒田官兵衛と小早川隆景が手を組み秀吉に謀反を起こしたらお願いします🙇

  • @鼻毛-b8q
    @鼻毛-b8q Рік тому +3

    大内義隆公の子孫は石見の浜田藩の庄屋で残りました。大寧寺の変で亡くなった大内義隆公の遺児で、大石義胤という人物がいます。彼の子孫は帰農し、江戸時代は浜田藩の庄屋、割元庄屋を務めました。

  • @明石則実
    @明石則実 Рік тому +6

    赤松宗家は没落したけど、支流の有馬氏は江戸時代を通じて大名として存続しましたね。
    あと、剣豪・宮本武蔵も赤松の血統を継いでたりする。

    • @PAPARetroGameCh
      @PAPARetroGameCh Рік тому +2

      有馬家に後継者が絶えた時に旗本赤松家から養子を迎えてその血脈が現在まで続いてますね。

  • @じの-w4p
    @じの-w4p Рік тому +7

    確かに昔は名門が没落した家ばかり。
    時代が悪かったかもしれんがなんでこうなったとはどの家も思いますな(汗)

    • @ひろたかし-w8m
      @ひろたかし-w8m Рік тому +3

      そう考えると明治維新まで残った大名家は領地領民と家臣団は失ったけど華族となり、現代に至るまで勝ち組扱いですからね。時代が違うとはいえ守護大名始め足利系の大名家の没落度はあまりにも気の毒です。

    • @提督オルタ
      @提督オルタ Рік тому +1

      この時代の名門大名にマネジメントという概念がそもそも無かったから時代と共に衰退した。

    • @市村雄基-w9n
      @市村雄基-w9n 7 місяців тому

      俺もそう思う

  • @細谷達洋
    @細谷達洋 11 місяців тому +1

    会津守護の芦名氏も入れて欲しかった。湘南に芦名と言う地名があったので調べたら、やはり会津守護の芦名氏と関係があったので驚きました。奥州藤原氏を攻める時に参陣してその恩賞の土地の会津に移り住んだのですね。鎌倉時代から続く名家が滅んでしまうのですからこの時代は激しすぎる。

  • @mikurasus
    @mikurasus Рік тому +3

    兵庫県姫路市の安室校区の中に御立と横関と言う隣り合っている
    町が有りますが其処は昔から赤松と言う苗字の家が多く大抵の家が親戚らしいです。
    代々地主の家系で先祖は播磨の赤松氏に繋がるらしいですよ。
    尚、御立には置塩家も多くこの家も代々が地主の家系です。

  • @小田三典-m7p
    @小田三典-m7p Рік тому +1

    室町時代の守護職で、戦国時代に守護大名になった家ってだいたい没落してますよね。残ったのは島津家くらい。上杉家も居ることはいるけど、あれは元々、越後の守護代の長尾だし。細川も本流とはかなり離れた家柄だし。

  • @29食べよう
    @29食べよう Рік тому +4

    大内氏はとても好きな氏族。九州に渡海せず、安芸から備前方面に伸ばしていれば歴史は変わっていたと思う。
    その点では、九州方面を早々に見切って中国地方を固めた毛利元就は地理センスが有る。
    山名氏は足利の差配が上手かった。国数は多いが延喜式で粕みたいな国だけ多いから、デカいが国力は無い。

    • @鼻毛-b8q
      @鼻毛-b8q Рік тому +5

      大内氏は毛利氏と違って貿易の権益を守らないといけませんでしたからね...

    • @提督オルタ
      @提督オルタ Рік тому +1

      そもそも何故毛利は博多を諦めたのか🤔

    • @tmm3211
      @tmm3211 Рік тому +3

      ​@@提督オルタ
      大内氏が滅んで勘合貿易を明側から打ち切られたから。

  • @ikedasingo5074
    @ikedasingo5074 Рік тому +6

    戦国大名は有名ですが、守護大名はというと・・・
    毛利元就と関わりある尼子・大内と、応仁の乱の山名宗全くらいしか知らなかったので勉強になりました。

    • @hirohiro1770
      @hirohiro1770 Рік тому +8

      尼子氏は出雲の守護代で、守護大名は京極氏ですよ。

    • @ikedasingo5074
      @ikedasingo5074 Рік тому +1

      @@hirohiro1770
      ありがとうございます。守護代とか守護大名とか、その辺もほとんど知らないので 調べてみます。

    • @hirohiro1770
      @hirohiro1770 Рік тому +1

      いえいえ、とんでもない。守護大名はほとんどが京都にいたらしく、現地には守護代を派遣してたらしいです。だから守護代に下克上されてる家は結構あるみたいです。

    • @matukawatositane
      @matukawatositane Рік тому

      @@hirohiro1770 一応幕府の許可とって守護になってるから尼子さん…

    • @hirohiro1770
      @hirohiro1770 Рік тому +1

      @@matukawatositane 戦国時代に、バリバリ戦国大名が幕府に8ヶ国の守護に任じられただけだと思いますがね。守護大名では無いでしょう。守護大名の定義から外れてます。

  • @森川慎理-m6c
    @森川慎理-m6c 2 місяці тому

    大内義興は間違いなく、最優秀のレベルなんだけどなぁ…今一、評価が追い付かない

  • @rKK-p1f
    @rKK-p1f Рік тому +2

    越後上杉家はどうなんだろう。山内上杉家は景虎を養子にして続いたけど、越後家のひっそりとした終わりは諸行無常を感じさせる。

  • @crybabyhito
    @crybabyhito 10 місяців тому +1

    一番悲惨なのは一向一揆に滅ぼされた富樫氏では?

  • @moikeru1
    @moikeru1 Рік тому +17

    斯波氏は両国が飛地過ぎて統治がハードモードに見えてます

    • @市村雄基-w9n
      @市村雄基-w9n Рік тому +2

      それな((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

    • @提督オルタ
      @提督オルタ Рік тому +1

      そもそも斯波は足利泰氏の庶子(長男)である家氏を祖としているから、管領家でも畠山・細川と違って家臣としてよりも「足利の分家」という側面が強すぎたのとそもそもの領国である東北地方に地盤が築けなかったから越前や尾張と言った経済力のある筈の領国でも確固たる地位が築けず守護代の台頭を許してしまった。

    • @pianochandaisuki
      @pianochandaisuki Рік тому

      ​@@提督オルタあれ最上は⁉️

    • @秋田祐樹-p4h
      @秋田祐樹-p4h Рік тому

      ​@@pianochandaisuki分家の分家じゃねぇ…。それ言ったら大崎もだし

  • @星建盞天目
    @星建盞天目 Рік тому +3

    肥後の菊池……

  • @盆暗粕男
    @盆暗粕男 Рік тому +6

    三管領、四職のうち細川のみ大大名として生き残ったね。

    • @matukawatositane
      @matukawatositane Рік тому +7

      熊本細川家は細川だけど守護職であった細川家って言われると違和感があるなぁ…

    • @物見兵偵察隊
      @物見兵偵察隊 Рік тому +5

      応仁の乱時点で細川家臣だった松平家が江戸時代立場が主従関係逆転したという事実

    • @hiropon9
      @hiropon9 Рік тому

      本家の吉兆家は三好長慶に下剋上されましたが

    • @hirohiro1770
      @hirohiro1770 Рік тому +6

      熊本藩の細川氏は分家だしなあ…守護大名がそのまま戦国大名になり江戸時代の大名として残ったのとは訳が違うから、そう言われても違和感が…

    • @matukawatositane
      @matukawatositane Рік тому +2

      @@hirohiro1770 なんならここは佐々木源氏の末裔だったという話もありますね

  • @黒猫の一輝
    @黒猫の一輝 Рік тому +5

    薩摩の島津嫡流家もですね。

    • @アウトローという者
      @アウトローという者 Рік тому

      島津の場所は何故か分家出身者の方が大成しやすいみたいですね。(貴久・島津4兄弟、篤姫 etc)

  • @みなと-j7e
    @みなと-j7e Рік тому +5

    斯波が一番哀れな漢字するなぁ❗

  • @友之森田
    @友之森田 Рік тому +2

    下剋上や内紛の挙げ句に撲滅ってのが、目に見えたけれど、

  • @SMK皇帝ファントム陛下Japan

    真っ先に朝倉が浮かんだ

    • @hirohiro1770
      @hirohiro1770 Рік тому +10

      朝倉氏は越前の守護代で、越前の守護大名は斯波氏ですよ。

    • @hiropon9
      @hiropon9 Рік тому

      応仁の乱で東軍についたことで守護にしてもらった

    • @じの-w4p
      @じの-w4p Рік тому +2

      あたしは少弐氏
      そのあたりな人間なんで(汗)

    • @hirohiro1770
      @hirohiro1770 Рік тому +4

      言い分はわからなくもないが、応仁の乱あたりから戦国時代なんだから、力ある戦国大名が守護に任命されただけなんじゃ?というのが私の見解。

  • @アウトローという者
    @アウトローという者 Рік тому +1

    弱いクセに名門だ殿様だと威張っていたから家臣に乗っ取られるんだよなあ…

    • @ひろたかし-w8m
      @ひろたかし-w8m Рік тому +7

      弱くない。最初は強かった。強いから何ヵ国も守護に任じられたわけで。ただ守護大名は京に滞在することが多かったから時代が下るにつれて守護代や国人が力を付けていって守護を駆逐するケースが多かった。

    • @アウトローという者
      @アウトローという者 Рік тому +2

      @@ひろたかし-w8m様 まあ花の御所での酒宴やら出世争いにかまけて民を顧みなかったのが痛かったですね…😟

    • @ひろたかし-w8m
      @ひろたかし-w8m Рік тому +3

      @@アウトローという者 特に室町幕府は民衆を放置していた印象はありますね。だから下剋上したり守護から転身した戦国大名は治水等をして人心掌握に力を入れたのでしょう。

  • @清水肇-c2k
    @清水肇-c2k Рік тому +2

    武田氏は六位辺りになるんでしょうか。武田信玄の活躍と武田勝頼の滅亡。これは斯波、畠山、赤松、大内等に比べても遜色ないです。

    • @アウトローという者
      @アウトローという者 Рік тому +3

      武田の場合は斯波や大内みたいな“内政の失敗“と言うよりは信玄の“外交の失敗“が原因で滅びたようなもので、内政に関しては斯波・畠山・赤松・大内とは比べものにならないほど進んでいました。

    • @清水肇-c2k
      @清水肇-c2k Рік тому +1

      @@アウトローという者  それでも、武田勝頼の時代に外交で大失敗し、内政でも新府城なんぞ作り、木曽、穴山等を離反させたのだから、時代を見る目に欠けていたのだろう。信玄の負の遺産プラス勝頼の失点で武田は終わった。トドメが織田信長の武田潰し。勝頼と言うより武田家臣団の失敗でもある。根本の原因は武田信玄がはっきりと武田勝頼に家督を譲ると言ってない事。結局、甲斐国の国人達には裏切られ、最期まで戦ったのは諏訪出身のものや、勝頼の側近達。古い体質のまま、戦国大名になった武田氏の結末。ある意味、斯波、山名達よりも内部崩壊しているよ。

    • @清水肇-c2k
      @清水肇-c2k Рік тому +1

      @@アウトローという者  長篠の戦いで大敗北した時点で、三河や遠江から引き、北条と上杉の和睦をさせておけばね。上杉謙信を味方にしておけば、織田信長と交渉出来たかもしれん。武田信玄も強引に戦をしたから、その流れで勝頼も戦をして負けた。そんなに戦ばかりしていたら、兵隊や農民達は疲れきってしまう。外交をもっとするべきだった。そういう考えが出来なかった時点で、武田氏は古い体質のまま、戦国の嵐に消えていった。山名、赤松等と大して変わりないよ。没落して傍流が残っただけだし。今、武田氏を名乗っている本家は江戸時代に養子で繋いだから、武田信玄の血は引いていない。傍流の仁科氏、米沢武田氏の方が武田信玄の血を引いています。

    • @提督オルタ
      @提督オルタ Рік тому

      まあ武田は戦と治水は良かったけど、でもあんな土地ではなぁ…

  • @kongosp
    @kongosp Рік тому

    今更だけど、bgmがうるさいから内容が入りにくいかな

  • @キーパーアント
    @キーパーアント Рік тому +1

    ぶにん

  • @matukawatositane
    @matukawatositane Рік тому +4

    そもそも守護大名とはなんなのかという話をし始めるのがメンドクサイ歴ヲタ