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やっぱり115系が好き!
2:41 1977年に長野地区松本に投入が初めてだと思います。4:00 高崎のリニューアル車は冷房装置もAU720Bに換装しています。長野で運用されていた5Bにクモニ143、クモユ143が連結された碓氷越えの列車やR窓初期車をクハ化した600番代の編成、加速が良かった2Bなど色々思い出深いです。
伯備線電化直前に岡山へ行った時、山陽本線で既に活躍していた。当然電化後に伯備線で活躍。
地元が岡山で就職している県外に出ていますが115系を見る度に地元に帰ってきたなと思ってる
やはり115系はキングオブ名車ですね!高崎線や宇都宮線を11両や15両で走っていた頃が懐かしいです!
115系ってただ呼ぶだけじゃなく、この動画みたく番台区分で呼んであげましょう。この1000番台は115系であって115系ではない車両ですからね?。
115系の塗色としては湘南色に次ぐ人気のスカ色だが、1000番代でスカ色を纏い誕生したのはたった4両である。
塩山〜韮崎間の区間運転用のMcM'TTc4連1編成でしたね。(1000番台の投入前は身延線の戦前型旧型国電を間合い運用で充当していた。)国鉄時代最後の「61−11」ダイヤ改正で転出。(転出先は高シマだったかな?)代わりに6連貫通編成組成の為にTMM'が転入してきたけど、このうちの2ユニットに1000番台モハが含まれていました。
そうだ!しなの鉄道に乗りに行こう!
115系は自分にとっては鉄道好きになるきっかけの車両でもあります。特に初めて父親と一緒に乗った時の頃がとても忘れられません。
長野地方でこの115系1000番代の登場は1978年1月。当時私が20歳になるかならないかの時期であった。爾来、長野県内の旧国鉄~JR主要線区の地場輸送の近代化に大きく貢献して45年余り。初登場当時残存していたモハ80系の全金属車体300番代車が20年程で廃車された事を思えば実に息の長い車輌群であったが、いよいよ全車終焉の時が近づいてきた。私自身も齢を取ったものだと、この歳月の長さを改めて実感する。
湘南新宿ラインに115系が、走っていた時があります。京浜東北線の列車を待っている時に、本線を、15両編成が、猛スピードで通過していくのは、迫力満点でした。
湘南新宿ライン開業当時の全区間通しで走ってましたね
@@hiroakiishii3986 鎌倉車両センターで休んでいる姿もよく見かけました。
高崎地区では最後まで湘南カラーを維持してましたね。初期製造にはデカ目がありました。
新潟の115系。最初は冷房準備車で投入され、JR後に冷房が取り付けられた。突貫工事のせいだったか、屋根にAU75の冷房装置を付けたは良いが室内の風道が無く、冷房装置の下からゴーっと強烈な冷風が出ていた車両があった。
40年以上岡山エリアを走ってきた1000番台も、かなり数が減ってきましたが、下関にも2連のT編成が数本残ってますね。
残存、この言葉が一番似合う現在の立場…
かつて御殿場線ユーザーだった私的には静岡運転所N10編成(のちにクハを差し替えS8編成へ改番)Mc115-1523+M’114-1171+T’c115-18の編成が思い出深いですね。0番台で構成された他のN編成とはシートビッチ、車端ロングシートが異なりある意味異色の存在でした。
4:07 確かに西日本は延命更新で屋根や窓周りや扉の半自動押しボタン改造、に加えて内装も原型から様変わりした。5:45 6:52 ただ、パンタグラフに関しては東と違って西日本が原型を維持している。せっかくの原色塗装、湘南色や横須賀色を維持してきただけに余計シングルアームは目立ってしまう。
@@himegu0906 シングルアームは雪害対策の意味合いも強かったのでしょう。小田急では先代5000形以降の通勤形車両もほぼすべてシングルアームに取り替えましたし。
115系と言ったら思い出す、宇都宮線の快速ラビットの事を。185系とはいえ特急だった「なすの」を格下げして増発しただけあって、やたらと飛ばしていた印象。より横揺れの大きい車端部のボックス席の窓側に座ろうものならガンガン窓に頭を打ちつけ、その乗り心地の悪s・・・迫力ある走りに休日ともなると子供の泣き声が聴こえてくるような凄まじい列車だった。西の新快速なんて足元にも及ばない熱い走りは本当に大大大好きだった。そして115系はモーターサウンドも素晴らしかった。そんな列車で黒磯駅で買った九尾の釜飯を食べるのが旅行の醍醐味だった。しかしそんなラビットもE231系に置き換わると遅っせーと感じるようになるのだからE231系恐るべし。
115系も引退まであと数年みたいですね、、、岡山の115系も227系に少しづつ置き換えられてますから乗るなら今の内ですよね
私も幼稚園の頃は宇都宮線115系(たまに211系)に乗っていましたね1000番台は高崎地区は兎も角、小山地区は雪がとにかく多いという訳でもなかったため、JR化後211系の新製配置によって小山115系の一部は1000番台を中心に他区へ置き換えられていましたそしてE231系登場後も1000番台の多くと状態の良かった方の300番台は長野へ土地を移動し、その後2015年で長野から全撤退となったそうです
小山から松本→長野へと移動した1000番台と300番台は中央東線の「山スカ」300番台の置換えに用いられたため、結果として「115系で115系を置換える」形になっていましたね…。
当時Jリーグ初期のころジェフ市原のカラーリング車両の115系列車が走っていた時期があった。しかし、走っていたのは千葉でも秋田でもなく(エンブレムに秋田犬が描かれていた)全く縁もゆかりもない新潟だった。あえて言うならJR東管内ということくらい。なぜ新潟だったのかは今でも謎。
山スカいいね〜
かっこいいです
111系よりライトが小さくてスマートな感じがしたな。ついこの間まで東海道線や横須賀線で見た記憶があったけど、今考えるとずいぶん前だったんだな。
昔、子供の頃新宿駅で夜行アルプスに乗る時、隣の山スカの登山客が床に新聞紙を敷いてごった返して寝てたのは衝撃だった😁🤘
登山客御用達の長野行き普通441Mかな。登山客は寝ておかないと翌日の登山に影響するからな。
@沢田典広-r5b 当時父も同じ事言ってたし、父も若い頃やってたらしい。
小山電車区に1000番台冷房車が配属され 非冷房の0番台が岡山地区に転属する際 岡山へ回送する車両を引き取りに行った宇田賢吉さんは「いやぁ〜 お陰でこちらの冷房化が進みましたよ。」と 区長から言われて複雑な気持ちになったとか。その岡山地区では 夏の朝ラッシュ時 満員の山陽本線が非冷房の0番台で 全然空いてる伯備線が1000番台冷房車と なんとも皮肉な現象も起きていたそう。その1000番台は冬の運転では隙間風対策で 貫通扉のシールゴムがエアで膨張して密閉するタイプだったのが有り難かったそうです。
昔々、山陽本線岡山地区で乗車した0番台、灰緑色に塗りつぶされた[半自動ドア扱い]のプレートが、関東流れ者の悲哀感を漂わせていました。
自分にとっての115系は山スカこと中央本線に投入された車両が好きでした。又、山梨、長野方面に行く際はよく利用しました。
3:00の70系スカ色の写真は高崎地区70系でなく中央東線の71型@上野原単線時代だね。置き換えたのは1000番台でなく300番台
78年に 上田駅で見た1000番台 上り方からMc M'+Mc M'Tcと 4M1Tの強力編成なのが凄いと思った。(逆にサムネの列車は2M3T?)但し その長野の1000番台には『冷房準備車』のまま年老いてしまった個体も多かった。
サムネの列車はクモハの2両+3両ですのでなんと実質4M5Tになりますね!強力な115系のイメージです
@@watagasi583TV さま拡大して良〜く見たら 右側背中合わせの先頭車の片方にパンタが。ダブルMcだったんですね。スカ色だから油断してました。
国鉄時代、長モトに集中配置されていた長野地区の1000番台は「60−3」ダイヤ改正までは基本5連(高崎方からMcM'MM'TcまたはMcM'McM'Tc)、付属3連(McM'Tc)の構成で、列車によっては高崎方にクモニ143 +クモユ141orクモユ143を連結して6M1Tや6M2T、8M2Tといった堂々たる編成を見せていました。「60−3」改正でサハ115−0番台改造車のクハ115−600番台が転入してきたものの、翌年の「61−11」改正で当該の編成は神領へ転出して東海に引き継がれ、更には静岡へと移動して飯田線でも姿を見せていましたね。冷房準備車の冷房化も当初予定通りのAU75系集中式クーラでの本改造の他に新潟地区のAU712や東海のC−AU711と様々だったのも特徴でした。
連投失礼します。松本に新規投入された1000番台は1978(昭和53)年の5月から短期間かつ片道の1本のみながら急行運用にも就いていました。その列車はそれまで神領の80系4連で上諏訪→長野間で運転されていた「天竜1号」。同年10/02のダイヤ改正では他の「天竜」と同じく神領の165系4連グループで運用される様になりました。115系を用いた「遜色急行」というと「なすの」「かいじ」が有名なところですが、この「天竜1号」も意外な「遜色急行」だったという事で一筆。
@kiha110oykot さま6M1Tや8M2Tなら 碓氷峠もEF63のサポート無しで(ある時と比べて 安全かどうかはともかく)上り下り出来そうですね。集約分散式で冷房化した冷房準備車は 本来AU75が載るはずだった中央部に残された塞ぎ板が 何だか虚しく感じられました。
通学でのりました。広島です。
115系1000番台車は在来車115系より改良点が多く、本来なら新形式を起こしてもいいほどです。しかし、労組間の争いから新形式を嫌う向きがあって、既存の番台区分に収まった経緯があります。動画でも一瞬現れたEF64 1000番台も同じ理由です。
新潟出身なんで115系は身近な存在でしたね最後らへんはいろんな塗装が見れて良かったです
あの頃は楽しかったですよね、、
@ E129系もすげえなって思うんですが、やっぱ115系は格別っすね
湘南新宿ライン開業時は宇都宮・高崎線から115系も横浜方面まで乗り入れていました。グリーン車繋いで15両で走る兄弟車113系と比べてモノクラスの短い編成で東神奈川付近で並走していたのが印象的でした。増発ですぐにE231系に置き換わってしまい115系の神奈川県内乗り入れは終わりましたが。
115系の神奈川県内乗り入れ…御殿場線や中央東線、ホリデー快速鎌倉号もお忘れなく…
@taka480 ありましたねぇ! 御殿場線は国府津でスイッチバックして小田原に行く運用がJR化後も残ってました。
@@mukimukizundamon 72・73形時代から続いてきた小田原乗り入れも313系化で姿を消してしまいましたね。静岡運転所(静岡車両区)の115系は飯田線から長野駅に乗り入れる「快速みすず」も受け持っていてかなりの広域運用をこなしていました。
東北線や高崎線で頑張ってたよね!まだ0番台の非冷房車と1000番台が連結され一緒に走るとほとんどの人が1000番台へ来て0番台はガラガラだよね😅だけど黒磯や水上・長野原に行く時はほとんど0番台が当たりだったよね😥だいたい冷房車は籠原や小金井でバイバイ😂宇都宮・高崎・前橋・新前橋行きは半分位だったね😒自分が高校生時代だから45年前かなぁ😚
0番代のあのぬくぬくした見た目(?)は本当に可愛くて愛嬌ある車両でしたね1000番台はキリッとしたイメージです。個人的に(笑)
国鉄末期には電車ダイヤ化(高頻度短距離運転化)と短編成化(コスト削減の為4→3両編成化)の影響もあって東海(静岡)地区ですら113系が115系に置き換えられていました。流石に短編成化による先頭車不足の影響もあって番台区分は結構バラバラだった記憶が、中には雪切室のある車輛も見た記憶が有ったので恐らくこの1000番台もあったのかと、 流石にまだ子供の頃だったのでシートピッチ改善の恩恵はイマイチ感じられず、JR化後のサービス改善を実感したのは空気バネ台車の211系が入ってきてからでした(^^;)
暖地の街育ちなので、115より113の方が親近感があります。113というと、「ドッパパパパ」というコンプレッサ音が、何より印象的でした。また、103などもですが主抵抗器冷却ブロワーの「ウゥーン」というサウンド。これらが、音鉄趣味のきっかけだったような気がします。
印象的な音ですね!
115系1000番台、落成当初は冷房準備車ばかりな印象。最初から冷房付ける気ない105系と対象的。
@@hisakounosuke2474 そこがまたカオスになってましたね、、
この顔(東海顔)も見れ無くなるのか..😢
寂しくなりますね、、
岡山支社は227系によって置き換え真っ最中で山口県の115系は2000と3000番台なので、全国最後の1000番台はしなの鉄道になるのでしょうか。
西の115は体質改善工事の際にHゴムやパノラミックウィンドウのピラーが無くなりましたからね…。勿論体質改善車の顔もそれはそれで味がありますが、やはりしなの鉄道の編成の様な原形を保った「東海顔」は正統派の様に感じられます。(個人的見解)
1000/2000は連結側の窓周りがすっきりした印象。
ユニット窓らしいですね!
@@watagasi583TV300番台までの扉、戸袋窓、小窓、大窓(連結面)のような並びが扉、戸袋窓、大窓(連結面)になったし。
シートピッチ拡大の副次的効果でもありますね。同時期のシートピッチ改善車は113系の1500・2000・2700番台、415系の100番台も該当します。(415系500番台も座席こそオールロングシートになったものの窓配置はそのまま踏襲。最終的には415系700番台まで受け継がれました。)
2015年までは信越山線運用の長野車もいるのでは?
1000番台のクロスシートはソファーのようなすばらしい座り心地。0番台は、子供用かと間違えるくらい狭い。
サムネのスカ色5連の走行シーンとその背景に物凄く見覚えが…💦単線区間で山側に架線柱が並ぶ区間だと北しなの線で三才〜豊野と豊野〜牟礼の2区間が思い浮かびますが、築堤の向こう側に住宅がチラリと映っている事、背景の中央から少し左寄りに「髻山(もとどりやま)」(山並みからちょっと突き出ている円錐型の山)が映っている事から前者が撮影ポイントと推察しました。髻山は戦国時代の川中島合戦で上杉軍の城が築かれた地でもあります。小学校の遠足で行った時の事を思い出しました。
111系や113系には 海が似合うイメージですが やはり115系には こういう風景が似合いますね。なんでも 大糸線に配属が決まった時は 新性能電車の導入が合理化に繋がるとの事で 組合が反対したそうですね。(ちょうど昭和55年は 反合理化闘争が盛んだった)
投稿待っておりました!!今までどの作者様も、115系についての動画は投稿はするのですが、1000番台などの番台について詳しい動画というものがなかったので、この動画で改めて1000番台の凄さを知りました。元々上越線系統で使えるように設計されていた為、115系電車ではない車両だったりするのですよね。
うん、JR東北本線直流区間(JR宇都宮線)でも、わたしが高校の頃まで走ってました(年がばれる😅)。ただ、当時のその区間は、小金井以北も自動開閉だったんですよね…。ちなみに、弥彦線の115系にも、15年くらい前に乗ったことがあります👍️。
@@なすの-x9s 東北線の115系は両毛線乗り入れ以外乗ったことがなく、、乗ってみたかったです。、
このチャンネル、文体が違う人で共作してるのかな?
@@snowkuouks 私が1人で作っています!
!!!
やっぱり115系が好き!
2:41 1977年に長野地区松本に投入が初めてだと思います。
4:00 高崎のリニューアル車は冷房装置もAU720Bに換装しています。
長野で運用されていた5Bにクモニ143、クモユ143が連結された碓氷越えの列車やR窓初期車をクハ化した600番代の編成、加速が良かった2Bなど色々
思い出深いです。
伯備線電化直前に岡山へ行った時、山陽本線で既に活躍していた。当然電化後に伯備線で活躍。
地元が岡山で就職している県外に出ていますが115系を見る度に地元に帰ってきたなと思ってる
やはり115系はキングオブ名車ですね!高崎線や宇都宮線を11両や15両で走っていた頃が懐かしいです!
115系ってただ呼ぶだけじゃなく、この動画みたく番台区分で呼んであげましょう。この1000番台は115系であって115系ではない車両ですからね?。
115系の塗色としては湘南色に次ぐ人気のスカ色だが、1000番代でスカ色を纏い誕生したのはたった4両である。
塩山〜韮崎間の区間運転用のMcM'TTc4連1編成でしたね。
(1000番台の投入前は身延線の戦前型旧型国電を間合い運用で充当していた。)
国鉄時代最後の「61−11」ダイヤ改正で転出。(転出先は高シマだったかな?)
代わりに6連貫通編成組成の為にTMM'が転入してきたけど、このうちの2ユニットに1000番台モハが含まれていました。
そうだ!しなの鉄道に乗りに行こう!
115系は自分にとっては鉄道好きになるきっかけの車両でもあります。
特に初めて父親と一緒に乗った時の頃がとても忘れられません。
長野地方でこの115系1000番代の登場は1978年1月。当時私が20歳になるかならないかの時期であった。爾来、長野県内の旧国鉄~JR主要線区の地場輸送の近代化に大きく貢献して45年余り。初登場当時残存していたモハ80系の全金属車体300番代車が20年程で廃車された事を思えば実に息の長い車輌群であったが、いよいよ全車終焉の時が近づいてきた。私自身も齢を取ったものだと、この歳月の長さを改めて実感する。
湘南新宿ラインに115系が、走っていた時があります。
京浜東北線の列車を待っている時に、本線を、15両編成が、猛スピードで通過していくのは、迫力満点でした。
湘南新宿ライン開業当時の全区間通しで走ってましたね
@@hiroakiishii3986
鎌倉車両センターで休んでいる姿もよく見かけました。
高崎地区では最後まで湘南カラーを維持してましたね。
初期製造にはデカ目がありました。
新潟の115系。最初は冷房準備車で投入され、JR後に冷房が取り付けられた。突貫工事のせいだったか、屋根にAU75の冷房装置を付けたは良いが室内の風道が無く、冷房装置の下からゴーっと強烈な冷風が出ていた車両があった。
40年以上岡山エリアを走ってきた1000番台も、かなり数が減ってきましたが、下関にも2連のT編成が数本残ってますね。
残存、この言葉が一番似合う現在の立場…
かつて御殿場線ユーザーだった私的には静岡運転所N10編成(のちにクハを差し替えS8編成へ改番)
Mc115-1523+M’114-1171+T’c115-18の編成が思い出深いですね。0番台で構成された他のN編成とは
シートビッチ、車端ロングシートが異なりある意味異色の存在でした。
4:07 確かに西日本は延命更新で屋根や窓周りや扉の半自動押しボタン改造、に加えて内装も原型から様変わりした。
5:45 6:52 ただ、パンタグラフに関しては東と違って西日本が原型を維持している。せっかくの原色塗装、湘南色や横須賀色を維持してきただけに余計シングルアームは目立ってしまう。
@@himegu0906
シングルアームは雪害対策の意味合いも強かったのでしょう。
小田急では先代5000形以降の通勤形車両もほぼすべてシングルアームに取り替えましたし。
115系と言ったら思い出す、宇都宮線の快速ラビットの事を。
185系とはいえ特急だった「なすの」を格下げして増発しただけあって、やたらと飛ばしていた印象。より横揺れの大きい車端部のボックス席の窓側に座ろうものならガンガン窓に頭を打ちつけ、その乗り心地の悪s・・・迫力ある走りに休日ともなると子供の泣き声が聴こえてくるような凄まじい列車だった。西の新快速なんて足元にも及ばない熱い走りは本当に大大大好きだった。そして115系はモーターサウンドも素晴らしかった。そんな列車で黒磯駅で買った九尾の釜飯を食べるのが旅行の醍醐味だった。
しかしそんなラビットもE231系に置き換わると遅っせーと感じるようになるのだからE231系恐るべし。
115系も引退まであと数年みたいですね、、、
岡山の115系も227系に少しづつ置き換えられてますから乗るなら今の内ですよね
私も幼稚園の頃は宇都宮線115系(たまに211系)に乗っていましたね
1000番台は高崎地区は兎も角、小山地区は雪がとにかく多いという訳でもなかったため、JR化後211系の新製配置によって小山115系の一部は1000番台を中心に他区へ置き換えられていました
そしてE231系登場後も1000番台の多くと状態の良かった方の300番台は長野へ土地を移動し、その後2015年で長野から全撤退となったそうです
小山から松本→長野へと移動した1000番台と300番台は中央東線の「山スカ」300番台の置換えに用いられたため、結果として「115系で115系を置換える」形になっていましたね…。
当時Jリーグ初期のころジェフ市原のカラーリング車両の115系列車が走っていた時期があった。
しかし、走っていたのは千葉でも秋田でもなく(エンブレムに秋田犬が描かれていた)
全く縁もゆかりもない新潟だった。あえて言うならJR東管内ということくらい。なぜ新潟だったのかは今でも謎。
山スカいいね〜
かっこいいです
111系よりライトが小さくてスマートな感じがしたな。
ついこの間まで東海道線や横須賀線で見た記憶があったけど、今考えるとずいぶん前だったんだな。
昔、子供の頃新宿駅で夜行アルプスに乗る時、隣の山スカの登山客が床に新聞紙を敷いてごった返して寝てたのは衝撃だった😁🤘
登山客御用達の長野行き普通441Mかな。登山客は寝ておかないと翌日の登山に影響するからな。
@沢田典広-r5b 当時父も同じ事言ってたし、父も若い頃やってたらしい。
小山電車区に1000番台冷房車が配属され 非冷房の0番台が岡山地区に転属する際 岡山へ回送する車両を引き取りに行った宇田賢吉さんは「いやぁ〜 お陰でこちらの冷房化が進みましたよ。」と 区長から言われて複雑な気持ちになったとか。
その岡山地区では 夏の朝ラッシュ時 満員の山陽本線が非冷房の0番台で 全然空いてる伯備線が1000番台冷房車と なんとも皮肉な現象も起きていたそう。
その1000番台は冬の運転では隙間風対策で 貫通扉のシールゴムがエアで膨張して密閉するタイプだったのが有り難かったそうです。
昔々、山陽本線岡山地区で乗車した0番台、灰緑色に塗りつぶされた[半自動ドア扱い]のプレートが、関東流れ者の悲哀感を漂わせていました。
自分にとっての115系は山スカこと中央本線に投入された車両が好きでした。
又、山梨、長野方面に行く際はよく利用しました。
3:00の70系スカ色の写真は高崎地区70系でなく中央東線の71型@上野原単線時代だね。置き換えたのは1000番台でなく300番台
78年に 上田駅で見た1000番台 上り方からMc M'+Mc M'Tcと 4M1Tの強力編成なのが凄いと思った。(逆にサムネの列車は2M3T?)
但し その長野の1000番台には『冷房準備車』のまま年老いてしまった個体も多かった。
サムネの列車はクモハの2両+3両ですのでなんと実質4M5Tになりますね!強力な115系のイメージです
@@watagasi583TV さま
拡大して良〜く見たら 右側背中合わせの先頭車の片方にパンタが。
ダブルMcだったんですね。
スカ色だから油断してました。
国鉄時代、長モトに集中配置されていた長野地区の1000番台は「60−3」ダイヤ改正までは基本5連(高崎方からMcM'MM'TcまたはMcM'McM'Tc)、付属3連(McM'Tc)の構成で、列車によっては高崎方にクモニ143 +クモユ141orクモユ143を連結して6M1Tや6M2T、8M2Tといった堂々たる編成を見せていました。
「60−3」改正でサハ115−0番台改造車のクハ115−600番台が転入してきたものの、翌年の「61−11」改正で当該の編成は神領へ転出して東海に引き継がれ、更には静岡へと移動して飯田線でも姿を見せていましたね。
冷房準備車の冷房化も当初予定通りのAU75系集中式クーラでの本改造の他に新潟地区のAU712や東海のC−AU711と様々だったのも特徴でした。
連投失礼します。
松本に新規投入された1000番台は1978(昭和53)年の5月から短期間かつ片道の1本のみながら急行運用にも就いていました。
その列車はそれまで神領の80系4連で上諏訪→長野間で運転されていた「天竜1号」。
同年10/02のダイヤ改正では他の「天竜」と同じく神領の165系4連グループで運用される様になりました。
115系を用いた「遜色急行」というと「なすの」「かいじ」が有名なところですが、
この「天竜1号」も意外な「遜色急行」だったという事で一筆。
@kiha110oykot さま
6M1Tや8M2Tなら 碓氷峠もEF63のサポート無しで(ある時と比べて 安全かどうかはともかく)上り下り出来そうですね。
集約分散式で冷房化した冷房準備車は 本来AU75が載るはずだった中央部に残された塞ぎ板が 何だか虚しく感じられました。
通学でのりました。広島です。
115系1000番台車は在来車115系より改良点が多く、本来なら新形式を起こしてもいいほどです。しかし、労組間の争いから新形式を嫌う向きがあって、既存の番台区分に収まった経緯があります。動画でも一瞬現れたEF64 1000番台も同じ理由です。
新潟出身なんで115系は身近な存在でしたね
最後らへんはいろんな塗装が見れて良かったです
あの頃は楽しかったですよね、、
@ E129系もすげえなって思うんですが、
やっぱ115系は格別っすね
湘南新宿ライン開業時は宇都宮・高崎線から115系も横浜方面まで乗り入れていました。グリーン車繋いで15両で走る兄弟車113系と比べてモノクラスの短い編成で東神奈川付近で並走していたのが印象的でした。増発ですぐにE231系に置き換わってしまい115系の神奈川県内乗り入れは終わりましたが。
115系の神奈川県内乗り入れ…
御殿場線や中央東線、ホリデー快速鎌倉号もお忘れなく…
@taka480 ありましたねぇ! 御殿場線は国府津でスイッチバックして小田原に行く運用がJR化後も残ってました。
@@mukimukizundamon
72・73形時代から続いてきた小田原乗り入れも313系化で姿を消してしまいましたね。
静岡運転所(静岡車両区)の115系は飯田線から長野駅に乗り入れる「快速みすず」も受け持っていてかなりの広域運用をこなしていました。
東北線や高崎線で頑張ってたよね!まだ0番台の非冷房車と1000番台が連結され一緒に走るとほとんどの人が1000番台へ来て0番台はガラガラだよね😅だけど黒磯や水上・長野原に行く時はほとんど0番台が当たりだったよね😥だいたい冷房車は籠原や小金井でバイバイ😂宇都宮・高崎・前橋・新前橋行きは半分位だったね😒自分が高校生時代だから45年前かなぁ😚
0番代のあのぬくぬくした見た目(?)は本当に可愛くて愛嬌ある車両でしたね1000番台はキリッとしたイメージです。個人的に(笑)
国鉄末期には電車ダイヤ化(高頻度短距離運転化)と短編成化(コスト削減の為4→3両編成化)の影響もあって東海(静岡)地区ですら113系が115系に置き換えられていました。
流石に短編成化による先頭車不足の影響もあって番台区分は結構バラバラだった記憶が、中には雪切室のある車輛も見た記憶が有ったので恐らくこの1000番台もあったのかと、
流石にまだ子供の頃だったのでシートピッチ改善の恩恵はイマイチ感じられず、JR化後のサービス改善を実感したのは空気バネ台車の211系が入ってきてからでした(^^;)
暖地の街育ちなので、115より113の方が親近感があります。
113というと、「ドッパパパパ」というコンプレッサ音が、何より印象的でした。
また、103などもですが主抵抗器冷却ブロワーの「ウゥーン」というサウンド。これらが、音鉄趣味のきっかけだったような気がします。
印象的な音ですね!
115系1000番台、落成当初は冷房準備車ばかりな印象。
最初から冷房付ける気ない105系と対象的。
@@hisakounosuke2474 そこがまたカオスになってましたね、、
この顔(東海顔)も見れ無くなるのか..😢
寂しくなりますね、、
岡山支社は227系によって置き換え真っ最中で山口県の115系は2000と3000番台なので、全国最後の1000番台はしなの鉄道になるのでしょうか。
西の115は体質改善工事の際にHゴムやパノラミックウィンドウのピラーが無くなりましたからね…。
勿論体質改善車の顔もそれはそれで味がありますが、やはりしなの鉄道の編成の様な原形を保った「東海顔」は正統派の様に感じられます。
(個人的見解)
1000/2000は連結側の窓周りがすっきりした印象。
ユニット窓らしいですね!
@@watagasi583TV
300番台までの扉、戸袋窓、小窓、大窓(連結面)のような並びが扉、戸袋窓、大窓(連結面)になったし。
シートピッチ拡大の副次的効果でもありますね。
同時期のシートピッチ改善車は113系の1500・2000・2700番台、415系の100番台も該当します。
(415系500番台も座席こそオールロングシートになったものの窓配置はそのまま踏襲。最終的には415系700番台まで受け継がれました。)
2015年までは信越山線運用の長野車もいるのでは?
1000番台のクロスシートはソファーのようなすばらしい座り心地。0番台は、子供用かと間違えるくらい狭い。
サムネのスカ色5連の走行シーンとその背景に物凄く見覚えが…💦
単線区間で山側に架線柱が並ぶ区間だと北しなの線で三才〜豊野と豊野〜牟礼の2区間が思い浮かびますが、築堤の向こう側に住宅がチラリと映っている事、背景の中央から少し左寄りに「髻山(もとどりやま)」(山並みからちょっと突き出ている円錐型の山)が映っている事から前者が撮影ポイントと推察しました。
髻山は戦国時代の川中島合戦で上杉軍の城が築かれた地でもあります。
小学校の遠足で行った時の事を思い出しました。
111系や113系には 海が似合うイメージですが やはり115系には こういう風景が似合いますね。
なんでも 大糸線に配属が決まった時は 新性能電車の導入が合理化に繋がるとの事で 組合が反対したそうですね。(ちょうど昭和55年は 反合理化闘争が盛んだった)
投稿待っておりました!!今までどの作者様も、115系についての動画は投稿はするのですが、1000番台などの番台について詳しい動画というものがなかったので、この動画で改めて1000番台の凄さを知りました。元々上越線系統で使えるように設計されていた為、115系電車ではない車両だったりするのですよね。
うん、JR東北本線直流区間(JR宇都宮線)でも、わたしが高校の頃まで走ってました(年がばれる😅)。ただ、当時のその区間は、小金井以北も自動開閉だったんですよね…。ちなみに、弥彦線の115系にも、15年くらい前に乗ったことがあります👍️。
@@なすの-x9s 東北線の115系は両毛線乗り入れ以外乗ったことがなく、、乗ってみたかったです。、
このチャンネル、文体が違う人で共作してるのかな?
@@snowkuouks 私が1人で作っています!
!!!