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細かい話ですが、大鎧として出てくる画像(5:33とかの)は大鎧じゃないですぜ。
大鎧の重さで、鎌倉殿の13人出演時の佐藤二郎さんが重くて苦しいと何度かトークネタにしていたのを思い出しました当世具足での軽量化は画期的な進歩だったんでしょうね
そもそも大鎧は『騎乗する事前提の鎧』だからね。その重さも『馬上で体制を安定させる効果を狙ってる』って事情も。
@@浅井優也 大鎧の胴は馬の鞍に重さを預けられるので騎乗したら案外楽とも聞きました。
鎧といえば、その武将の顔でもあるので、負け戦になった時の逃げる際に、武将の身代わりとして武将の鎧を着て、武将を逃す時間を稼ぐという話も多くあったようですね。
甲冑に関して造詣の深い細川忠興は重く堅牢であるより、身軽に動けることを重視していた。加藤清正の息子は、鎧は重装な方がいいよねと言ったところ、家臣の飯田直景がたしなめた、という逸話がある。大鎧は、そもそも徒武者用の鎧ではなく、騎乗して騎射をするための鎧であり、鎌倉時代以前の侍を兵科で表すなら重装弓騎兵となる。また鎌倉時代の武士は一騎打ちだけではない。現行の時は集団で騎馬で駆けて矢を射かけることが元側の資料に残されている。
大坂の陣で浪人なのにド派手な兜を仕立ててきたものの重くてろくに活躍できず、周囲から嘲られ腹を切っちゃった人もいますね。派手な兜は馬上から指揮するだけの武将クラスでないと…。
傾奇者の類だったのかもしれませんね。目立たないと活躍が評価されないけど実力が無いと生き残れない。
😊その点、可児才蔵は笹を指物にしたそうです。これこそ、実用本位・実力本位ですね。
誰それー!めっちゃ気になる
甲冑や変わり兜は『誰かをわかりやすくするため』という事もあって派手になったという事情が。だって命令される側の足軽とかは『武将の顔なんて知らない』(笑)また兜被ってしまうと顔が見えない(笑)御貸し甲冑に家紋が入っている最大の理由は『借金の方に取られるから』。当時の合戦は一部の農民を除いて『出稼ぎ』でしか無く、陣中で博打が大流行。一応規制はしますが…娯楽な為に完全禁止は出来なかった。そのせいで博打に負けて御貸し甲冑を売る者がかなり出ていた(泣)
単純に金属板を変形させるだけの鎧じゃなくて、ラメラアーマーとか、チェーンメイルとか、ホント色々考えて作られてるよね。
8:05 諏訪湖博物館所蔵の「諏訪法性の兜」が現存しているはずなのですがw…
もし江戸時代でも実用的な鎧の進化や改造が細々とでも行われていたら、どんなデザインや機能になってたのか凄く気になるな幕末〜明治期にいきなり当世具足から西洋風の軍服?に移行しちゃったから、その間を埋めるような防具が見たかった
ほんと見てみたかったです。 飾り向けの豪華な復古調(大鎧風)の甲冑なんかは多数残ってますが、実戦向けのはあまりみかけないですね。
甲冑のこと色々解説されててありがたいです。ただ、他の方も指摘されてますが小札を使った胴の画像が、板札の胴になってます。あと、満智羅の写真も鎖や鉄板の入ってない(祭などで使う形だけのモノ)なのが惜しいです。 解説用資料画像を精査すると動画の信頼度が上がると思います
本多忠勝は軽装備で回避率重視井伊直政は重装甲で防御力重視忠勝は直政に「お前そんな重装備じゃイザって時に攻撃回避できないで○ぬぞ」と忠告事実直政は関ヶ原での鉄砲傷が元で2年後に○去忠勝は無傷だった
具足の種類ってより、直政が新参者故に功を焦って前線で戦っているから「そんな重装備でも大将自らが前に出すぎると重傷を負うぞ」って忠告する話ですね。一方の忠勝は前に出すぎることはしなかったため、軽装でも不覚を取らなかったという感じだったかと。
本多忠勝は、武芸に優れる一方で冷静な指揮官でもあるので無茶な指揮官先頭での戦とかはしなかったようですね。
山口県下関市長は、祭りで大鎧着てクレーン車で吊られて、船の上を跳ぶ真似事させられる。壇ノ浦の戦いの義経の八艘跳びの再現らしい。
カッコよかったですよ🥳ずんだもん
兜のデザインが鎌倉時代に見える。吹き返しは小さくなったはず。
戦国時代後期が甲冑の最終体型だったんすね😄
武士というと日本刀を想像するが、この甲冑でガチガチの時代は当然斬撃は通用しない当時は槍や弓がメイン武器で、短刀がサブ武器日本刀(陣太刀)は当時から美術品要素が強く、大将クラスが馬上で装備する装飾性の高いものだった日本刀がより一般化するのは、武士が甲冑を脱ぐ江戸時代に入ってから
現代なら「まんちら」じゃなく文字から「マンテル」って訳されてたかも当時は西洋人のネイティブ発音がそう聞こえたからって事なんでしょうけれど
甲冑を付けて刀を振り回す?重さで体力を奪われとてもとても出来無い
輸入物の南蛮胴具足が最上って人が居るが、そうでもない…
ちなみに陣笠は?雨の様に降る弓矢からはある程度防御するよv(・∀・*)頭上から来るアローレインは危険だからなv(・∀・*)ちなみに鉄砲で威嚇しながらアローレインで攻撃すると??相手は前方に気取られて瞬殺ぬ(´-ω-)ウムなので蒙古軍は鉄兜が立派なもの使ってたんだよv(・∀・*)
大河では紙装甲
そりゃまあ、甲冑を着込んで戦場を駆け回るのに、日頃から訓練してない人は辛いでしょうよ。それが、足軽と武将の差でもあるっていう。
もちろんCE2取ってますよね。
光で照らさない限り夜じゃ赤備えは夜に溶け込むよv(・∀・*)
当世具足でも火縄銃は防げないだろ後赤備えって言っても、全員同じ備えてる訳じゃないみたい
画一的なデザインの大鎧とは違って実に多彩なカラーリングとデザインの具足は戦国の華。でも胴丸はどうなんだい?
西洋の甲冑に比べると早期にファッション性になっている。実戦ではあの手この手で防具の実用性はないに等しいものはあったが。
機械の支配。
織田信長さんは 洋式の甲冑を使っていたような?。
あの人 新しいもの大好きだから
おそらく南蛮具足のことだと思うけど、西洋の胸当てが形状的に火縄銃を防ぎやすいので割と異論な武将が着けてましたよ。
ーまとめーどんなに格好つけても死んだら終わり
当世具足の説明がわかりにくい。現代とか言われると今の時代のことかと勘違いする。
細かい話ですが、大鎧として出てくる画像(5:33とかの)は大鎧じゃないですぜ。
大鎧の重さで、鎌倉殿の13人出演時の佐藤二郎さんが重くて苦しいと何度かトークネタにしていたのを思い出しました
当世具足での軽量化は画期的な進歩だったんでしょうね
そもそも大鎧は『騎乗する事前提の鎧』だからね。
その重さも『馬上で体制を安定させる効果を狙ってる』って事情も。
@@浅井優也 大鎧の胴は馬の鞍に重さを預けられるので騎乗したら案外楽とも聞きました。
鎧といえば、その武将の顔でもあるので、負け戦になった時の逃げる際に、武将の身代わりとして武将の鎧を着て、武将を逃す時間を稼ぐという話も多くあったようですね。
甲冑に関して造詣の深い細川忠興は重く堅牢であるより、身軽に動けることを重視していた。
加藤清正の息子は、鎧は重装な方がいいよねと言ったところ、家臣の飯田直景がたしなめた、という逸話がある。
大鎧は、そもそも徒武者用の鎧ではなく、騎乗して騎射をするための鎧であり、鎌倉時代以前の侍を兵科で表すなら重装弓騎兵となる。
また鎌倉時代の武士は一騎打ちだけではない。現行の時は集団で騎馬で駆けて矢を射かけることが元側の資料に残されている。
大坂の陣で浪人なのにド派手な兜を仕立ててきたものの重くてろくに活躍できず、周囲から嘲られ腹を切っちゃった人もいますね。派手な兜は馬上から指揮するだけの武将クラスでないと…。
傾奇者の類だったのかもしれませんね。目立たないと活躍が評価されないけど
実力が無いと生き残れない。
😊その点、可児才蔵は笹を指物にしたそうです。これこそ、実用本位・実力本位ですね。
誰それー!めっちゃ気になる
甲冑や変わり兜は『誰かをわかりやすくするため』という事もあって派手になったという事情が。
だって命令される側の足軽とかは『武将の顔なんて知らない』(笑)
また兜被ってしまうと顔が見えない(笑)
御貸し甲冑に家紋が入っている最大の理由は『借金の方に取られるから』。
当時の合戦は一部の農民を除いて『出稼ぎ』でしか無く、陣中で博打が大流行。
一応規制はしますが…娯楽な為に完全禁止は出来なかった。
そのせいで博打に負けて御貸し甲冑を売る者がかなり出ていた(泣)
単純に金属板を変形させるだけの鎧じゃなくて、ラメラアーマーとか、チェーンメイルとか、ホント色々考えて作られてるよね。
8:05 諏訪湖博物館所蔵の「諏訪法性の兜」が現存しているはずなのですがw…
もし江戸時代でも実用的な鎧の進化や改造が細々とでも行われていたら、どんなデザインや機能になってたのか凄く気になるな
幕末〜明治期にいきなり当世具足から西洋風の軍服?に移行しちゃったから、その間を埋めるような防具が見たかった
ほんと見てみたかったです。 飾り向けの豪華な復古調(大鎧風)の甲冑なんかは多数残ってますが、実戦向けのはあまりみかけないですね。
甲冑のこと色々解説されててありがたいです。ただ、他の方も指摘されてますが小札を使った胴の画像が、板札の胴になってます。あと、満智羅の写真も鎖や鉄板の入ってない(祭などで使う形だけのモノ)なのが惜しいです。 解説用資料画像を精査すると動画の信頼度が上がると思います
本多忠勝は軽装備で回避率重視
井伊直政は重装甲で防御力重視
忠勝は直政に「お前そんな重装備じゃイザって時に攻撃回避できないで○ぬぞ」と忠告
事実直政は関ヶ原での鉄砲傷が元で2年後に○去
忠勝は無傷だった
具足の種類ってより、直政が新参者故に功を焦って前線で戦っているから「そんな重装備でも大将自らが前に出すぎると重傷を負うぞ」って忠告する話ですね。一方の忠勝は前に出すぎることはしなかったため、軽装でも不覚を取らなかったという感じだったかと。
本多忠勝は、武芸に優れる一方で冷静な指揮官でもあるので無茶な指揮官先頭での戦とかはしなかったようですね。
山口県下関市長は、祭りで大鎧着てクレーン車で吊られて、船の上を跳ぶ真似事させられる。
壇ノ浦の戦いの義経の八艘跳びの再現らしい。
カッコよかったですよ🥳ずんだもん
兜のデザインが鎌倉時代に見える。吹き返しは小さくなったはず。
戦国時代後期が甲冑の最終体型だったんすね😄
武士というと日本刀を想像するが、この甲冑でガチガチの時代は当然斬撃は通用しない
当時は槍や弓がメイン武器で、短刀がサブ武器
日本刀(陣太刀)は当時から美術品要素が強く、大将クラスが馬上で装備する装飾性の高いものだった
日本刀がより一般化するのは、武士が甲冑を脱ぐ江戸時代に入ってから
現代なら「まんちら」じゃなく文字から「マンテル」って訳されてたかも
当時は西洋人のネイティブ発音がそう聞こえたからって事なんでしょうけれど
甲冑を付けて刀を振り回す?重さで体力を奪われとてもとても出来無い
輸入物の南蛮胴具足が最上って人が居るが、そうでもない…
ちなみに陣笠は?雨の様に降る弓矢からはある程度防御するよv(・∀・*)頭上から来るアローレインは危険だからなv(・∀・*)ちなみに鉄砲で威嚇しながらアローレインで攻撃すると??相手は前方に気取られて瞬殺ぬ(´-ω-)ウムなので蒙古軍は鉄兜が立派なもの使ってたんだよv(・∀・*)
大河では紙装甲
そりゃまあ、甲冑を着込んで戦場を駆け回るのに、日頃から訓練してない人は辛いでしょうよ。
それが、足軽と武将の差でもあるっていう。
もちろんCE2取ってますよね。
光で照らさない限り夜じゃ赤備えは夜に溶け込むよv(・∀・*)
当世具足でも火縄銃は防げないだろ
後赤備えって言っても、全員同じ備えてる訳じゃないみたい
画一的なデザインの大鎧とは違って実に多彩なカラーリングとデザインの具足は戦国の華。でも胴丸はどうなんだい?
西洋の甲冑に比べると早期にファッション性になっている。実戦ではあの手この手で防具の実用性はないに等しいものはあったが。
機械の支配。
織田信長さんは 洋式の甲冑を使っていたような?。
あの人 新しいもの大好きだから
おそらく南蛮具足のことだと思うけど、西洋の胸当てが形状的に火縄銃を防ぎやすいので割と異論な武将が着けてましたよ。
ーまとめー
どんなに格好つけても死んだら終わり
当世具足の説明がわかりにくい。現代とか言われると今の時代のことかと勘違いする。