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懐かしく拝見いたしました。線路側でおにぎりを持って一日中通り過ぎて行く特急を眺めていた少年でした。柏通過15:10の「みちのくを」見送ったのが昨日のことのように思い出されます。上野駅を離れる時、食堂車のスタッフがホームに向かってお辞儀をする光景が「遠くにいくんだなあ」と子供心に焼き付いております。
エメラルドグリーンの国電や、小豆色の中距離電車に混ざってEF80の牽く貨物列車・普通列車・荷物列車、気動車の急行。お馴染みの『ひたち』でさえ2時間に一本で、電車急行の多かった常磐線は一日飽きませんでしたね。私も子供の頃は北千住の荒川鉄橋脇にございました踏切の横で、そんな色々な列車を眺めて一日を過ごすのが好きでした。その中で鮮烈な新幹線色の寝台電車。『みちのく』は憧れでした。せめて、少年の頃の思い出を自身の声で送ったのが慰めでございます。
幼少の頃、取手に住んでた私は、15時ごろ通る「みちのく」号が、「青いラインの謎の特急が通る!」と親に頼み込んで利根川の橋まで見に行ったものでした。表示板の「青森」がもうロマン満載で大興奮でした。それから数年でなくなってしまいました・・・「ゆうづる」はあったんですけどね。今、懐かしい思い出に浸りきっています。大変貴重な音声動画ありがとうございました。
特急列車が大好きで、東京に遊びに行くと言っても余計なことせず、上野駅でずっと電車見てるのが好きでした。幼稚園児でありながら特急、急行、各普通列車の大概の行き先を覚え、都道府県・県庁所在地、ローマ字表記なども覚えてしまったものでした。新幹線ができて一気に特急急行がなくなったので、列車への関心が一気に薄れ、そしてあんまり新幹線を快く思ってないまま大きくなった自分がいます。
そうでしたか!!私も育ちました足立区西新井から時々日曜に歩いて荒川の常磐線鉄橋で行き来する列車を眺めていたものでした。昼の下り客車普通から始まり、上り「みちのく」...下り「みちのく」、そして下り客車・上りディーゼル急行で帰路にと言うのんびりした時間を過ごしたものでした。まさか、その上野駅に勤めてラストコールをするとは思いませんでしたけれども(笑)ありがとうございました✨
昭和48年生まれです。当時は埼玉県内の東北本線沿線に住んでいて、良く近くの踏切まで特急を見に行ってました。583系の「はつかり」目当てでしたが、いつも「ひばり」ばっかりだった記憶があります(笑)昔の上野駅「下のホーム」には多くの思い出があります。小学校一年時に初めて上野駅まで一人で電車に乗り、仕事終わりの父と待ち合わせをして、初めて腕時計をアメ横で買ってもらいました。下のホーム終点で待っている父の姿を今でも覚えています。また、迷子になったこともあり、駅員さんに迷子の放送をしていただいた事もありました。家族と東京に遊びに来た時には、帰路で「冷凍みかん(5個入り250円)」を買ってもらって車内で食べていました。すごく美味しかったです。(冷凍みかんは当時食べた上野駅の冷凍みかんに敵うものはありません。)トレインタイムスチャンネルさんの動画を見て、懐かしい昔の記憶がよみがえりました。素敵な動画ありがとうございました。
素晴らしい思い出ですね!!!!不思議なもので冷凍みかんは今もございますが、何故でしょう『あの頃』が一番美味しかった、と私も感じております!御投稿、本当に有難う御座いました!!!!
とても暖かい心暖まる放送に、ウルウルと来るものがありました。こんな暖かい放送が聴けまして大変感動しております。お人柄も全てにお心遣いができる素晴らしい方だとお察しします。有難うございました。
大変恐縮です...ご視聴賜りまして、誠にありがとうございました!!!【本人】
少年時代常磐線沿線から1日一本の「みちのく」が珍しく良く撮り鉄したものです。もう涙腺崩壊しました。こんな最後だったのですね。貴重なものをありがとうございます。
そうだったのですね...貴殿にとっても思い出の列車でございましたか...そう言う方にお聞き頂けた事が、なにより幸いと存知ます。こちらこそ、ありがとうございました!
貴重な音声ありがとうございます。みちのくとはつかり伝統の本北連絡特急大好きでした。ひばりも大好きでしたがやはり北海道までつながる列車ということでやはり特別な感情がありましたね。みちのくは1往復のみというのもなんか妙に郷愁があるというか...1と11が釧路、旭川まで繋がるのも素敵でしたね。1本しかないみちのくが11Mの583系、15:30のはつかりは11号で1Mで485系というのも妙に因縁めいていましたね。もう一度上野か青森で見てみたいものです。
『みちのく』登場以前、全線電化・電車化された『はつかり』が常磐線経由で運転されておりまして、その後に臨時として『常磐はつかり』が走ったりと、下地はございました。そもそもが急行11・12列車に昭和25年、愛称が付けられたものが『みちのく』で、その特急格上が『はつかり』となるものですから、1Mと11M、2Mと12Mはまさに兄弟列車だったのですね...
上野駅を発車したときのパンタグラフと架線のこすれる音と、583系のMT54の音、また懐かしい電鈴。そして個性的な肉声のアナウンス。あの時の上野駅の匂いや雰囲気が蘇ってきました。
ありがとうございます...ご投稿を拝読して、私も思い出しました....
素晴らしい放送の記録をありがとうございます。私は東海地区在住であり、上野駅は縁遠い存在でした。1979年小学生の時、家族で夜行にて上京し上野動物園開園まで日本食堂で朝ごはんを食べて待ちました。ホームから信越線あさまなどたくさんの列車を見て時刻表の世界だった上野駅を実感しました。祖父が国鉄マンでしたから私も幼稚園から時刻表を熟読する子供でした。名古屋駅のホームに特急や急行の発車や到着を見に行きましたね。
おおお、そうでしたか♬公園口にございました日食さんのレストラン、でしょうか...最近、公園口も改修工事がなされまして場所が変わり、すっかり様相も変わってしまいました...確かに東海地域ですと東京駅は「近い」ものでも、上野駅は「遠い」ですね...大切な思い出のヒトコマ...ありがとうございます✨
日本食堂の窓からホームを見ていた記憶があるんですよね。そういやみちのく号と同じ改正で私が好きだった金星号も廃止になりました。さみしい改正の中で白山号の食堂車復活が明るい話題でしたね。
中央改札出口前の喫茶室だったのかも知れませんね!!!僅か2年半の「暫定時代」は、上信越方面では華のある列車が勢いよく咲き揃った感覚でした...
これは貴重な記録映像と言えます。公開ありがとうございます。
恐縮でございます!
青森駅で上野行みちのくに乗り込んだ事があります。最初の目的は、特急白鳥で新潟まで行き急行佐渡で上野を目指す行程でしたが、特急白鳥が自由席が立ち客が出るほど混み断念。その間に第二候補の特急はつかりが自由席満席、特急みちのくはスッカスカだったのですが、座って時刻表眺めていたら、臨時急行八甲田14系10両編成が運転日となっていたので、気が変わって八甲田に変更。結局これが唯一のみちのく乗車になりました。急行八甲田は宇都宮までのり、宇都宮からは急行日光165系に乗り継ぎました。急行もりおか+急行しもきた、上野~青森間をこれで乗り継いだ事もありました。山ほどある選択肢の中から選べる、鉄道旅行が今よりも数段楽しい時代でした。
12Mですね...12便と続く2便の2隻から流れ込む御客様は相当な数でしたものね...その連絡船と共に、583系も夜汽車も過去のものに...仰る通りです。鉄道の旅が数段楽しい時代でした...
聞いていて鳥肌が立ちました。多くの在来線長距離列車が健在でいいですね。
ありがとうございます!!!恐縮です...
やはりお名残りは特別の感がありますね。最終列車と聴いてはじーんと来るではありませんか。新幹線開業前日はやまびこ1号に乗って車内放送を録音してました。帰りは、お名残りの北星号で帰ってきたのかな?その後もはつかりは何本か動いていたので(ひばりも)、そのお名残りも乗って録音してました。何年かたって、つばさのお名残りも大宮まで乗って録音もしたけど、それらのテープも今となってはしまいっぱなし?かな?あ、みちのくね。乗ったことはないけど、駅撮りの写真はありますよ。
ありがとうございます。「みちのく」は私、「はつかり11」の放送は同期の同僚だったのですけれども、彼は「最後だからこそ特別ではなく見送りたい」と。各々の思いのラストコールでもございました。テープ...救出してデジタル保存とされることをお勧め致します♬
私は昭和55年と56年の夏に、上野駅でアルバイトをしていました。メインは中央改札の切符切りと頭上にある案内板の交換、高架ホームでの残留客確認や回送列車のドア閉めなんかをしていました。翌昭和57年に特殊法人へ就職し、周りの同期生の何人かは国鉄に入社しましたが翌年からは採用停止となってしまったので駆け込み組なんて言われていました。でも国鉄入社組の民営化後は悲惨なものでした。何とかJRに残れた者、清算事業団経由で退職した人、旅行センターからJTBへとらばーゆした人等。かえって国鉄に入社しない方が良かったのでは、とも思えてしまいました。
そうでしたか...何処かでお会いしている筈です...
想いが詰まった動画、そして想いが込められた駅アナウンスですね。自分も上野駅は何かとご縁がある駅です。これからも変化しながら存在し続けるのでしょうがあの独特の上野駅らしさは残り続けて欲しいと思います。
ありがとうございます!!!今も「帰省は上野から」と言う方がいらっしゃるとか。そんな空気は何時迄も残ってくれるものと存知ます・・・
6:33 13番線の隣が団体待合所であった話は聞いていましたが、10年ほど前そこを出入りしている限り一般客に見せられない洞窟のような埃っぽい空間でした。薄汚れた青磁色の柱にびっしりと修学旅行客のものであろう連絡先の書かれた鉛筆書きの落書きだけが時が止まったまま残されていて、何とも不思議でした。そこも現在は四季島の待合室に改装されて残っているのか気になります。国鉄ストアという言葉も初めて知りました。エキロジの荷捌き場辺りだったんでしょうか、かろうじて物販の部門が後を継いでる思うと感慨深いです。
その後はそんな事になっていたのですね...団臨を仕掛けた際に資材搬入路を確認するべく、内勤の方と入りましたのが最後で四半世紀近く前のことでした。私達が何より驚きましたのは、不忍口階段の脇から続く荷扱通路が商店街になりまして、その女性用下着売り場が国鉄当時の浴場で、24時間使えた広い浴場に泊まり明けでゆっくり浸かって...激動の時代に揺さぶられたものの、楽しみもたくさんございました思い出の場でございます。
ただただ、泣けてくる😭
恐縮です...
L特急はつかり11号(1M)・・・表定速度100.0m/h。東北新幹線開業が1982年でしたがその当時に在来線でそんなスゴい事をやってのけることが出来た国鉄の技術って改めて感服致しますね。
そうでしたね...最高100km/hでは無いのですものね...確かにダイヤを眺めても、トンガっておりました(笑)このラストコール、11Mは私ですが、1Mは後に民鉄に参ります仲間が鳴いたものです。普段ホームに居りましても、特段の感激は無かったものでしたが、この時ばかりは...そして、そう言うお話を拝読致しますと、改めて在来線の限界に挑んでいた時代を感じます...
泣けるの一言。有難うございます
ありがとうございます!!!
11M 特急みちのく当時仙台に暮らしていたので近所の踏切まで見に行ったことを思い出しました。結局乗ることは出来ませんでしたが583系のクリーム色に青いライン。大好きな列車でした。
最初に乗った11M『みちのく』から見た仙台の街は、宮城沖地震の爪痕がまだ残っていた時期でした。その後、友人が転勤したりと幾度か参りました仙台。懐かしいです♬ありがとうございました✨
懐かしいなー。みちのく、乗りました。高校2年(今は62歳)の時、叔母が札幌にいて、親が来年は受験だからこの夏は北海道に遊びに行ったらということで、山口県は新山口(小郡)から0系ひかりで東京に出て上野からこれに乗りました。やたら飛ばす特急だなと言う印象があります。当時は、お盆で切符が取れずにとうとうグリーンで逝きました。その他の583系の思い出は、新車だった「月光」、昼行の「はと」、「金星」があります。
おおおグリーン車で!!!それは高額ですけれども貴重なご体験ですね...私は普通席だけでした(笑)
幼稚園の帰りに、地上を走ってた赤羽駅を過ぎたあたりで、気動車の長い編成を見た記憶があります。帰りだったから、14時くらいなのかな。黄色の気動車とクリーム色の気動車が併結されていたように覚えてます。小学生時代にも踏切で待っている時も、ひばり、やまびこ、はつかり、やまばと、あいづ、つばさ、とき、あさま、白山、はくたか、いなほ、そよかぜ、新雪、白根、、、臨時以外では、やまばとやいなほは見る回数が少なかったな。夜や朝はおが、越前、妙高、八甲田などを見た記憶がありますが、旧客の車両は越前がかっこよかった印象が強いです。一度だけ、昭和50年頃だったかな、EF57と旧客の車両に乗った記憶があるんですが、機関車は違うかも。高崎線方面の客車列車でした。あの時代は、バラエティに富んだ優等列車が多かったですね。
地上時代の赤羽駅、ちょっと独特の風情がございましたね!確か京浜東北の下に踏切がございまして、そこだけ大都会の国電駅ではない、『東北本線』があった印象がございます。日常御利用の御客様には今の方が便利で安全、なのでしょうけれども...そうですね、多様な列車がございました時代、でしたね...
@@トレインタイムス ご存じでしたか!あの駅近い踏切、跨線橋も独特な雰囲気でした。私が高校時代、ちょうど、青函連絡船が廃止になった年、夏のリバイバル青函連絡船に乗るために、友人たちと生涯初の遠方連泊旅行でした。八甲田で向かったのですが、ちょうど赤羽を通り過ぎる時、その踏切に私の父母が見送りに来ていました。来るなんて一言も言ってなかったんですが、私は気づきました。親父がばんざーいと喜んだ表情で、母親ははにかみながら送ってくれました。私は思春期だったので恥ずかしく、でもやたらに記憶に残ってます。その父が亡くなった数日後が八甲田最終日。因縁を感じる列車であり、忘れられない踏切での光景です。
そうでしたか...私も父を15の時に亡くしておりまして...私はその後、能天気な良い加減人生でしたけれども、多々ご苦労されたものと...急行101列車は忘れられない記念碑、なのですね...御尊父様の御冥福を深く御祈念申し上げます。
@@トレインタイムス ありがとうございます。母は若かりし頃、客車はくつるやあさかぜで色んな所に旅行したと言ってます。父は上京するとき、昭和20年代末だと思うんですが、満員の客車に飛び乗ってきたと言ってました。夜間大学に通いながら苦学して役所に勤めたと言ってました。私がお酒を飲める時まで健在であったなら、今更ながら聞いてみたかったなと思ってます。トレインタイムスチャンネル様のご尊父に対しての思いも色々あると察します。年齢は違いますが、お互い、父親と酒を酌み交わしてみたかったですね。でもこうして思い出させてくれたことを、近日中に墓前の父に伝えたいと思います。これからも動画拝見させていただきますね!
既に父の生涯を超えた年齢となりました頃から、ふと親父ならどうしたろうか、と考える事が多くなりました。今更ながら、親の影響の大きい事を感じる次第でございます。何卒何卒長くご壮健であられます様、併せて御祈念申し上げます。ありがとうございました!!!
このダイヤ改正で常磐線上野発着の旧客普通列車も消滅しましたね😢223レ最終日に上野駅から乗りました。
あらあら!!その時間は丁度地平ホームの事務室におりました...そうでしたか...貴重なご経験でしたね✨
車内解説でしょうね素晴らしい最高でしたね。正に昭和時代のアナンサーでしょう⁉️当時の名列車。現在の新幹線なんか目じゃなかったね‼️
ありがとうございます!ホームの放送で、私が放送したものです...
何だろうか…涙腺が緩む
江原様、御投稿ありがとうございます。この11Mみちのくと1Mはつかり11号の放送は、当時学生助勤だった者が行い、既に国鉄の新規採用は停止と聞いておりましたもので、自分達にとっても文字通り「ラストコール」になりました。当時、上野に勤めていた者の殆どが「1日の指標」となる列車を持っておりました。私はこの列車と常磐線221列車だったのですが、三十数年を経て今もその時刻には背筋を伸ばさないといけない様な感覚となります。暖かいお言葉、大変嬉しく存知ます。
最終日当時大学生1年生、流山に住んでいました水戸から上野まで上りみちのく号に初めてのりました。それだけ偉大でした。
そうでしたか!!常磐線特急の本当は「伝統便」なのですけれども、「はつかり」の影になってしまって地味な存在ではございました。それでも常磐線沿線に住むものとしては忘れ難い列車、でございます!!
素晴らしい、懐かしい、良いものを、ありがとう!
恐縮でございます!!
私が初めて上野駅に降りたのは新幹線の上野開業の年の暮れで小学6年生でした。連絡船と新幹線に乗って来ました。東京に着いたって思った記憶があります。今年乗車した「はやぶさ」は通過しました。今や上野東京ラインができ、東京の玄関口としての上野駅ではなくなったような感じですが、間違いなく多くの人にとって忘れられない場所だったように思います。
1985年の暮、ですか....私は上野駅案内所におりました。もしかすると何処かで擦れ違って居たのかも知れませんね...あ!それ以前に北海道なら、毎年夏にふらふらとしておりましたので(笑)
トレインタイムスチャンネル もしかしたらすれ違っていたかもしれませんね(笑)5年程前にも上野駅へ行きましたが、様変わりしていて自分の知っている上野駅ではなかった気がしました。時代の流れとはいえ寂しいです😔
ミヤマエ様、ご返事ありがとうございます!!今は上野駅も当時の1/3の職員数、対して駅ナカが増えて国鉄当時より「働く人」の数は多くなっているとかと伺います。足掛け十年通いました我が青春の、言い換えれば「人生大学」みたいな場所でございまして、浮ついた雰囲気は私もなかなか馴染めません...それでも、当時の空気が感じられます場所を見付けて、当時の記憶を整理しております(笑)
トレインタイムスチャンネル 私では想像もつかない経験をされているので、ある意味羨ましい限りです。上野駅が最も活気に満ち溢れていた時代に訪れてみたかったです😊
そうですね....若い時の苦労は買ってでもしろと申しますが、その後の国鉄改革に伴う解雇や先輩達の地獄など、買わなくても良い苦労も体験致しました。幾度、単なる「鉄道ファン」として眺めているだけの方が幸福かな、と思いました事やら....そう考えますと、確かに華やかな時代の上野駅を知った「儲け」と「損失」は、プラスマイナス0、いや赤字なのかも知れません(笑)
【構成=声の主】この日は休暇でしたが、以前からマニア対策で「控え」として待機する旨に担当助役さんと相談しておりましたが、放送台に上がれたのは偶然でした。 シナリオがあって喋るのでは無いものですから支離滅裂(笑) しかも当時のラジカセで同僚が録音してくれたものですから、音質も悪く・・・ 旧版はそのデジタル化音源の複製から編集しましたが、今回はその音源から再度調整して、折角なので「1Mはつかり11号」も加えたものとしました。 まさに若さ故の何とか(笑) 何卒御笑聴下さいませ・・・
立ち食いそばがあって、駅弁売りしていた人もいましたね。懐かしいな。
「とーさんばんのそば屋」と上野駅職員達は呼称しておりましたが、一時改装しております。店の中から地平ホームが見渡せたので、小腹が空いた時に休憩時間を使って食べに入ったものです。台車の売店も今は見掛け無くなりましたが、固定売店より弁当は移動式の方が売れたとも伺った事がございます。「冷凍みかん」は今も食べたくなります・・・(笑)
40年以上前「みちのく」に青森から上野まで乗りました。確か朝4時53分発では?はつかりとほぼ同じ時間だったような。懐かしいです。
もしかしますと時刻は差異があるかも知れませんね、第2M『はつかり』の後追いだったと存知ます...
青森発上野行き上りはつかり2号はみちのく号の3分前の午前4時50分青森発でした。
はつかり2号は大阪行き白鳥と同時発車でしたね。
外から失礼します。上野では並びはなかなか目に出来ませんでしたが、早朝の青森はこの、みちのくとはつかりさらに白鳥のサシ込みの12,13両編成3本が並んでいて壮観でしたね。対岸の函館は1本がニセコだったので少し格落ちした感じでしたけど、札幌寄りの独特のカーブに80系とキハ56が並んでいるのも非常に印象深く記憶しております。
そうでしたか!!!失礼致しました!!
この列車には乗ったことないですが、上野に初めて降り立ったのが昭和55年。青春時代を思い起こさせさせてくれる貴重な音源です。悔やまれるのは、もう少し若い頃から鉄道に関心を持てばよかった!定期運用の蒸気機関車にも乗っていたし、室木線最後の蒸気機関車も見に行ったのに(笑)
そうでしたか!!昭和55年と申しますと、私や仲間たちが上野駅に潜り込んだ(笑)時期です。室木線も新幹線工事で活躍?したのに、まさか廃止となるなど...西へは全く行ったことがございませんが、「ヤマの鉄道」に少々憧れがございます...ありがとうございました!!!
長距離特急に食堂車は、欠かせない存在でした。
本当にそうでした!!!
上野駅の画像がヤバい。啄木の詩がしゃしゃり出る。沖田艦長の心境。
猫男吐天様、ご返事遅れまして大変失礼致しました。「昭和の上野かぁー何もかも皆、懐かしい」なのですね(笑)ご投稿大変ありがとうございました!
昔日を知る者には、まっ暗な地平ホームは悲しすぎです。今の入谷口あたり、盆暮はテントで列車待ちした記憶があります。ガキは退屈して怪しい駅周りを探検しました。あちこちに魔窟感があった上野がなつかしい。幼少の一時期、佐貫駅そばにいて、ディーゼルはつかりを改札から眺めるのが大好きなガキでした。D51や竜ヶ崎線ロコもいたはずですが、佐貫の記憶ははつかりだけです。佐貫は佐貫です。
これはまた、大先輩でいらっしゃいます!!テント村は私が上野駅員になった時代には既に解消されておりまして、品川発臨時も過去のお話でした...いゃ、全く同感です。佐貫は、佐貫ですね!!
@@トレインタイムス 返信ありがとうございます。大阪万博のころです。午前の佐渡の臨時でしたね、たしか。着席券だったか、売り切れで並んだか、、、。ホームまで1例に並んで、あるときヨーイドンでドアに群がるという。後年、新宿アルプスの広場で並んだ中央夜行と同じやり方でした。
みちのく号は一戸駅に停車していたんだよなあー。一戸、北福岡(現二戸)、三戸には上野発青森行きの昼行特急が上下2本ずつ停車していたのではつかり号は上下1本しか一戸には停車しなかった。
北福岡、懐かしいです...
祖父は鉄道省→国鉄(工事区・船舶施設区)、父は国鉄(駅・車掌区)→JR北海道(車掌区)、叔父①は国鉄(駅・車掌区)、叔父②は国鉄(駅・貨物ターミナル)→JR貨物、叔父③は国鉄(駅・鉄道公安)→警察、兄は国鉄(船員区)→JR北海道(船員区・本社)、従兄は国鉄(電気区)→警察と鉄道一家に育つ。国鉄官舎で育ち、鉄道はとても身近な存在。進学と共に函館を離れ上京。以後、年に数回、東京と函館を往復する身に。寝台車が全廃になってからは航空機を利用。今は山手線で上野を通る位で、降りることも無くなった。が、上野駅はやはり特別な存在。東京に住んで間もなく40年。上野駅ホームのアナウンス、国鉄時代の上野駅構内がとても懐かしく感じられた!
そうでしたか! 何か思い出したり、懐かしんで頂けたのなら、何より幸甚にございます。 どうか皆々様、何時迄もご壮健であられます様に!
永久永遠的の孤高名特急583系、みちのく…はつかり…はくつる…ゆうづる北国行きスーパースター❗
同感です!(笑)
みちのくは、地味な列車で、ファンの間ではあまり写真は残されてない!と聞いていました。
そうですね、昼間に583が堂々疾走する、までは良いのですが、常磐線で1日1往復でしたし、撮影し難い時間帯に動いていたとも受け取れますし、実際は案外見掛けますが、そもそも東北特急のルーツ便ですからね・・・
@@トレインタイムス スジもほとんど電化前のはつかりでしたしね。
今じゃ新幹線で直接北海道へ行けるようにはなりましたですが、個人的には旅情というものが完全に無くなってしまったって感じがしますね
青函連絡船に乗換て、函館本線に乗換て...確かに大変な旅ではございましたけれども、その都度楽しみがございました。おまけに車内販売も省略、新幹線が段々と通勤電車になって行く様です。そして夜行が無い北の旅は、どうしても不便に感じます...
@@トレインタイムス 小学校3,4年のころ始めて北斗星で北海道行った時なんかやたらテンション上がりすぎて寝坊しちゃいましたからね
あら(笑)私も初めての北斗星は興奮したものです、北斗星1号だったのですけれども、結局青函トンネルを抜けるまではロビー室で(笑)
@@トレインタイムス ちなみにその時の一番の思い出が仙台か、盛岡だと思うんですけど新幹線が止まる駅に止まってたノースレインボーエクスプレスを寝台の窓から夜遅くに見たことですかねまぁその翌朝寝坊して朝食時間ギリギリでしたけどw
ご返事遅れてしまいまして、大変失礼致しました。多分、ノースレインボーですと盛岡駅と存知ます。札幌から盛岡の直行を季節臨時で運転していた時期がございますもので...その小樽から盛岡まで、乗った事がございます♬
この時代を生きてたオジさまオバさま世代の方々で後に青函トンネルを新幹線が走り北海道まで運行される事を誰が夢見てただろう?時代を感じるからこそだけど在来線特急で昼から走る長距離列車は今ではレアモンだな。上野東京ライン・湘南新宿ラインも長いけどこの頃の列車と比べてたら短距離な方だし。鉄博行けばこうゆう国鉄時代の車両は展示してあるけど、何かまた違った感じするし。
5711D改当時、報道各社が騒いでいたものが青函トンネル先進導坑貫通の話題で、上野〜函館間東北新幹線になるとこんなに早い的な論調も多く拝見しました。ただ、具体的に青函連絡船が無くなったり、札幌行豪華寝台特急が走ったりと言う時代を経て、今日の様な状態になるとは思っていなかった方が多かったと存知ます。函館に知人がおりましたが、まさか新幹線駅が渡島大野になるなんて、誰も想像していなかった様ですし・・・「白鳥」程では無いものの、まともに半日同じ座席で過ごす旅は今時はちょっと過酷かも知れませんね(笑)
「みちのく号、本日を持ちまして運転を終わらせていただきます」終わらせないでくれ!!
終わってしまったのです....季節列車で復活するとの噂も幾度かございましたけれども、結局復活はしなかったのです.....が.....『ゆうづる』はその後も活躍し続けておりましたもので、常磐長距離便の歴史が途絶えたものでは無かったのですけれども...
最終みちのくは、日暮里〜三河島で見送りました。
そうでしたか...上野駅は大変な混雑でしたけれども...あの京成下の踏切から三河島の高架まで築堤を駆け上がる姿は、痺れる格好良さですものね♬当時はカシュー塗料さんも健在だったと存知ますけれども、あの周辺も色々と変わりましたね...
素晴らしい国鉄の輝かし歴史と負の歴史
そうですね...その共存が国鉄、なのかも知れませんね....
すいません、記憶違いでした。急行天の川号(定期列車)、急行十和田号(定期列車)のラストランは東北 上越新幹線上野開業前日に写真を撮りに行きました。みちのく号のラストランは観に行きませんでした。東北新幹線暫定開業前の前日に特急やまびこ号(上野16時33分発)を学校終わりに観に行こうとして新川崎駅発15時58分発の横須賀線に乗って上野に行きましたがちょっとの差で間に合わなかった悔しい思い出が残っています。京浜東北線か山手線にそのまま乗って鶯谷で観れる可能性があったのに。結局、何も撮影せずすぐ上野駅を後にしました。
え!!天の川(20系)の最終便も???その昭和60年3月13日「天の川」のラストコールも私でした(笑)同じ「音の鉄道記録」シリーズにございますので、宜しければ是非♬
@@トレインタイムス ラジカセ持って十和田や天の川のラストランの発車するところ録音しましたよ。テープは紛失してしまいましたが、一部は覚えています。明日からは上越新幹線にバトンタッチ・・・、マニアの方のお心遣い、一人一人のお心遣いもちまして最終天の川号秋田まで定刻で送りたいと思います。写真を撮っている子供さん危ないですよ、と注意もしてました。
じ...実は....あの放送をしていた夜は泊まり勤務(上野駅案内所)でして、休憩時間を調整して貰って「臨時」に登板したものでした...(笑)なので、正規のホーム要員ではなく...あの頃はそんな事ばかりやってましたし、それを許した現場長たちの存在も...何処かゆるゆるでした...
100年以上続く軌道=来年(2022年)は150周年になりますね。
1872年6月(明治五年五月)に仮開業、10月(九月)に全区本格開業...まだ大名と呼ばれていた人々が御健在だった時代、ですものね...
私は、北海道に行く時は11Mではなく、1M派でした。583系の寝台利用は、下段を利用するのが楽しく下段派でした。昼席利用の583系は485系に比べて不人気でした。私の父は新幹線総局の国労でしたからえらく苦労しました。当時組合同士の争いもあるようで、ロッカーなどを襲撃された話しを聞かされました。動労の変わり身の速さには唖然としていました。最も穏健な国労は一番悪いとしていじめられました。私は、変わり身の動労は、労働者側に利益になったとは考えれるが、動労的体質は、JR北海道の線路保守の偽装事故や収益を産み出さない経営体質に動労的ことなかれ体質が一部あるのかもしれないと部外者はたまに感じます。
どの組合が良いとか悪いとか、私自身は組合と無関係の場所におりましたので評価にしろ個人的感想にしろございませんが、組合と経営側の馴れ合いが結果としては、利用者の被害を経て、その組合員=雇用者と経営者の自滅を呼ぶだけと考えておりまして、その点表現こそ違えども、危惧する点が同じでした事に安心致しました(笑)比較的組合の対立が少なかった上野駅の先輩たちは、多少の意地悪こそあっても、事故だ騒ぎだとなればそれはそれ、として一致団結?(笑)して事案に対処しておられました。私も583寝台は下段派でした(笑)あれほどの贅沢はございません(笑)ご投稿ありがとうございました!
食堂車なんかブルジョワしか利用できなかった、とにかく高かったという印象。親に食堂車でサンドイッチを食べさせて貰ったが、子供ながらに贅沢だと思ったもんだよ。
上野駅を基準とした場合、カレーライスやスパゲティミートソースは駅弁よりは安かったもので、私は専らそればかりでした(笑)
みちのく号のラストランなんか泣きそう😥
私は放送台で泣きました....
泣けてくるのはなぜだろう…(´;ω;`)
恐縮です....何か深い思い出の断片に触れているのかも、知れませんね...
「はつかり」と「みちのく」との関係は、連絡船を介せば「北斗」と「北海」の関係に似ている。上野から日暮里で三河島にまわるか、尾久を経由して北上するかの差こそあれ、道内では長万部で室蘭、千歳回りとなるか、そのまま倶知安、小樽回りとなるかの違いはあるかもしれない。「はつかり」は停車駅が少なく、時間がかからない「北斗」に接続するのに対し、「みちのく」は停車駅が多くなり、「北斗」よりも時間がかかる「北海」接続というのは面白い。いかにも国鉄らしいやり方だと思うが、発着地は同じでも、経由地を変えた列車を走らせるやり方は、JRになってからもあった。盛岡駅で新幹線に接続する「はつかり」と「たざわ」が好例だろう。「たざわ」は秋田に向かうが、3往復くらいは、奥羽経由で青森に向かう列車が設定されていたのである。東能代や大館という時代もあったかもしれないが、8時丁度に秋田駅を「つばさ」と「白鳥」の同時発車という光景が見られたこともあったそうである。一見没個性的な車体は国鉄カラーともてはやされているが、官僚的な感じがしてあまり好きではない。でもテツには根強い人気があるんですよね。様式美というか、国鉄型車両にはそういうのがあった。旅セとみどりの窓口が分離してある様子は宮脇俊三の「最長片道切符の旅」の冒頭を思い出す。渋谷だったと思う。みどり氏に「ここでは発売できない」と言われ、旅セ(どこの担当だったのか)に回って、窓口の奥で話し合いがされ、数分後に出てきて「わかりました」というシーンである。末期の国鉄は運賃値上げと官僚的な応対という悪いイメージしかないが、家を犠牲にして鉄道を守るために、職務に全うしてきた職員には頭が下がる思いである。ある意味命がけである。そういう姿勢が垣間見えるから、鉄道をオモチャにはしたくないのである。鉄道を前にうかれている大人を思うとどうなんだろうかと思ってしまうのだ。鉄系UA-camrなんかその最たる例だが。
列車番号が共通しております「はつかり11」(1M)→1便→「おおぞら」(1D)と、「みちのく」(11M)→11便→「北海」(11D)、これは単なる語呂合わせではなく、旅客継送都合としてパッケージされたもので、私達上野駅の若い者などは「北海道継送チャンネル」と呼んでおりました。近似時刻の発着は「補完輸送」と申しまして、青函連絡船を軸として御利用機会を拡大する制度でもございました。この放送をした日、東北・上越新幹線は大宮暫定開業を翌日に控えて「長距離輸送体系が変わるな」などと先輩達と話をしていたもので、実際にお急ぎは新幹線・乗り換えなしは夜行と明確に区分化されたものでした。まさに鉄型ユーチューバーの皆様には御存知無いであろう、昔の出来事ではございますけれども...
小牛田停まって北上通過とは
まぁ...当時のダイヤですからね(笑)
千鳥停車的なやつですねw
停車駅が増えた1Mと分担したのですね・・・
小牛田はやまびこが廃止になって、特急の停車が少なくなってましたから
@@jyouban531 確かやまびこは仙台⇔盛岡間は特急停車駅全て止まっていたんですよね?
欧亜連絡と書かれたガラスはどれでしょうか?
私が目撃しただけで画面や画像にはございません。何せ仕事中でしたもので(笑)
@@トレインタイムス そうでしたか。画面を一所懸命探してしまいました(笑)
これは失礼致しました...仕事中に撮影は...怒られますもので(笑)この他に上尾暴動などと同時期に発生した国電騒乱事件の痕跡もございました...
特急みちのく号E653系国鉄ボディ車を用いてリバイバル運転をしてほしいです
車、他に無いのですものね...
ダメダメ、涙腺崩壊だよ
ありがとうございます!!!そう言って頂きます事が何よりの報酬でございます!!!
私も国鉄志望の一人でしたが、『一年の差』で地獄を見た一人です(昭和57年度卒業・昭和40生まれ(早生まれです)) 以来将来の夢をぶち壊しにした自民党は『親の仇以上の憎むべき存在になりました』彼ら国鉄を潰すだけでは飽き足らず、当時の日本航空も倒産寸前にまで追いやった(今の政権はJALを完全に『目の敵』にしている)。話は変わりますが、私と共に国鉄マンになる夢を持っていた当時の仲間達は皆、私鉄には行かず、鉄道とは無縁の職業に就きました(鉄道は一生の『趣味』になりました)。
同級生さんですね(笑)・・・そうでしたか・・・悔しい思いをされたお一人でいらっしゃいましたか・・・私や仲間の半数はちょっと違った見方です。臨雇とは言え国鉄現場を幾つか見た+αとして、『自民党が憎い』と言うより『自民党も憎い』と言う印象です。むしろ労組を煽り結果として助ける事などしなかったし出来なかった共産党はじめ野党の無反省こそ嫌悪です。ただ、誰が悪いと言うよりは、誰もどうしようも出来なかった状態だった事は、その後『親の仇以上の怨念』で国鉄分割民営化を調べているうちに薄らと見えた事でございます。仲間で自ら命を絶った者も一人ではありません。先輩でも形こそ事故や病死ですが、自決に近い状態で若くしてこの世を去ったのも一人二人ではございません。その菩提を弔いつつ、その犠牲の上にある鉄道が悪路に落ちるなら騒いでも止めたい。それが今もこうしてオッサンが集っている「本音」なのだろうと存知ます。ご投稿大変ありがとうございました!ツイッターも展開しておりますので、機会がございましたら是非!!!!
👏
恐縮です♬
懐かしく拝見いたしました。線路側でおにぎりを持って一日中通り過ぎて行く特急を眺めていた少年でした。柏通過15:10の「みちのくを」見送ったのが昨日のことのように思い出されます。上野駅を離れる時、食堂車のスタッフがホームに向かってお辞儀をする光景が「遠くにいくんだなあ」と子供心に焼き付いております。
エメラルドグリーンの国電や、小豆色の中距離電車に混ざってEF80の牽く貨物列車・普通列車・荷物列車、気動車の急行。
お馴染みの『ひたち』でさえ2時間に一本で、電車急行の多かった常磐線は一日飽きませんでしたね。
私も子供の頃は北千住の荒川鉄橋脇にございました踏切の横で、そんな色々な列車を眺めて一日を過ごすのが好きでした。
その中で鮮烈な新幹線色の寝台電車。
『みちのく』は憧れでした。
せめて、少年の頃の思い出を自身の声で送ったのが慰めでございます。
幼少の頃、取手に住んでた私は、15時ごろ通る「みちのく」号が、「青いラインの謎の特急が通る!」と親に頼み込んで利根川の橋まで見に行ったものでした。表示板の「青森」がもうロマン満載で大興奮でした。それから数年でなくなってしまいました・・・「ゆうづる」はあったんですけどね。今、懐かしい思い出に浸りきっています。大変貴重な音声動画ありがとうございました。
特急列車が大好きで、東京に遊びに行くと言っても余計なことせず、上野駅でずっと電車見てるのが好きでした。幼稚園児でありながら特急、急行、各普通列車の大概の行き先を覚え、都道府県・県庁所在地、ローマ字表記なども覚えてしまったものでした。新幹線ができて一気に特急急行がなくなったので、列車への関心が一気に薄れ、そしてあんまり新幹線を快く思ってないまま大きくなった自分がいます。
そうでしたか!!
私も育ちました足立区西新井から時々日曜に歩いて荒川の常磐線鉄橋で行き来する列車を眺めていたものでした。
昼の下り客車普通から始まり、上り「みちのく」...下り「みちのく」、そして下り客車・上りディーゼル急行で帰路にと言うのんびりした時間を過ごしたものでした。
まさか、その上野駅に勤めてラストコールをするとは思いませんでしたけれども(笑)
ありがとうございました✨
昭和48年生まれです。
当時は埼玉県内の東北本線沿線に住んでいて、良く近くの踏切まで特急を見に行ってました。583系の「はつかり」目当てでしたが、いつも「ひばり」ばっかりだった記憶があります(笑)
昔の上野駅「下のホーム」には多くの思い出があります。
小学校一年時に初めて上野駅まで一人で電車に乗り、仕事終わりの父と待ち合わせをして、初めて腕時計をアメ横で買ってもらいました。下のホーム終点で待っている父の姿を今でも覚えています。
また、迷子になったこともあり、駅員さんに迷子の放送をしていただいた事もありました。
家族と東京に遊びに来た時には、帰路で「冷凍みかん(5個入り250円)」を買ってもらって車内で食べていました。すごく美味しかったです。(冷凍みかんは当時食べた上野駅の冷凍みかんに敵うものはありません。)
トレインタイムスチャンネルさんの動画を見て、懐かしい昔の記憶がよみがえりました。
素敵な動画ありがとうございました。
素晴らしい思い出ですね!!!!
不思議なもので冷凍みかんは今もございますが、何故でしょう『あの頃』が一番美味しかった、と私も感じております!
御投稿、本当に有難う御座いました!!!!
とても暖かい心暖まる放送に、ウルウルと来るものがありました。こんな暖かい放送が聴けまして大変感動しております。お人柄も全てにお心遣いができる素晴らしい方だとお察しします。有難うございました。
大変恐縮です...
ご視聴賜りまして、誠にありがとうございました!!!
【本人】
少年時代常磐線沿線から1日一本の「みちのく」が珍しく良く撮り鉄したものです。もう涙腺崩壊しました。こんな最後だったのですね。貴重なものをありがとうございます。
そうだったのですね...
貴殿にとっても思い出の列車でございましたか...
そう言う方にお聞き頂けた事が、なにより幸いと存知ます。
こちらこそ、ありがとうございました!
貴重な音声ありがとうございます。
みちのくとはつかり伝統の本北連絡特急大好きでした。ひばりも大好きでしたがやはり北海道までつながる列車ということでやはり特別な感情がありましたね。
みちのくは1往復のみというのもなんか妙に郷愁があるというか...
1と11が釧路、旭川まで繋がるのも素敵でしたね。
1本しかないみちのくが11Mの583系、15:30のはつかりは11号で1Mで485系というのも妙に因縁めいていましたね。
もう一度上野か青森で見てみたいものです。
『みちのく』登場以前、全線電化・電車化された『はつかり』が常磐線経由で運転されておりまして、その後に臨時として『常磐はつかり』が走ったりと、下地はございました。
そもそもが急行11・12列車に昭和25年、愛称が付けられたものが『みちのく』で、その特急格上が『はつかり』となるものですから、1Mと11M、2Mと12Mはまさに兄弟列車だったのですね...
上野駅を発車したときのパンタグラフと架線のこすれる音と、583系のMT54の音、また懐かしい電鈴。
そして個性的な肉声のアナウンス。あの時の上野駅の匂いや雰囲気が蘇ってきました。
ありがとうございます...
ご投稿を拝読して、私も思い出しました....
素晴らしい放送の記録をありがとうございます。私は東海地区在住であり、上野駅は縁遠い存在でした。1979年小学生の時、家族で夜行にて上京し上野動物園開園まで日本食堂で朝ごはんを食べて待ちました。ホームから信越線あさまなどたくさんの列車を見て時刻表の世界だった上野駅を実感しました。祖父が国鉄マンでしたから私も幼稚園から時刻表を熟読する子供でした。名古屋駅のホームに特急や急行の発車や到着を見に行きましたね。
おおお、そうでしたか♬
公園口にございました日食さんのレストラン、でしょうか...
最近、公園口も改修工事がなされまして場所が変わり、すっかり様相も変わってしまいました...
確かに東海地域ですと東京駅は「近い」ものでも、上野駅は「遠い」ですね...
大切な思い出のヒトコマ...ありがとうございます✨
日本食堂の窓からホームを見ていた記憶があるんですよね。そういやみちのく号と同じ改正で私が好きだった金星号も廃止になりました。さみしい改正の中で白山号の食堂車復活が明るい話題でしたね。
中央改札出口前の喫茶室だったのかも知れませんね!!!
僅か2年半の「暫定時代」は、上信越方面では華のある列車が勢いよく咲き揃った感覚でした...
これは貴重な記録映像と言えます。公開ありがとうございます。
恐縮でございます!
青森駅で上野行みちのくに乗り込んだ事があります。
最初の目的は、特急白鳥で新潟まで行き急行佐渡で上野を目指す行程でしたが、特急白鳥が自由席が立ち客が出るほど混み断念。
その間に第二候補の特急はつかりが自由席満席、特急みちのくはスッカスカだったのですが、座って時刻表眺めていたら、
臨時急行八甲田14系10両編成が運転日となっていたので、気が変わって八甲田に変更。結局これが唯一のみちのく乗車になりました。
急行八甲田は宇都宮までのり、宇都宮からは急行日光165系に乗り継ぎました。
急行もりおか+急行しもきた、上野~青森間をこれで乗り継いだ事もありました。
山ほどある選択肢の中から選べる、鉄道旅行が今よりも数段楽しい時代でした。
12Mですね...12便と続く2便の2隻から流れ込む御客様は相当な数でしたものね...
その連絡船と共に、583系も夜汽車も過去のものに...
仰る通りです。
鉄道の旅が数段楽しい時代でした...
聞いていて鳥肌が立ちました。多くの在来線長距離列車が健在でいいですね。
ありがとうございます!!!
恐縮です...
やはりお名残りは特別の感がありますね。最終列車と聴いてはじーんと来るではありませんか。新幹線開業前日はやまびこ1号に乗って車内放送を録音してました。帰りは、お名残りの北星号で帰ってきたのかな?その後もはつかりは何本か動いていたので(ひばりも)、そのお名残りも乗って録音してました。何年かたって、つばさのお名残りも大宮まで乗って録音もしたけど、それらのテープも今となってはしまいっぱなし?かな?
あ、みちのくね。
乗ったことはないけど、駅撮りの写真はありますよ。
ありがとうございます。
「みちのく」は私、「はつかり11」の放送は同期の同僚だったのですけれども、彼は
「最後だからこそ特別ではなく見送りたい」
と。
各々の思いのラストコールでもございました。
テープ...救出してデジタル保存とされることをお勧め致します♬
私は昭和55年と56年の夏に、上野駅でアルバイトをしていました。メインは中央改札の切符切りと頭上にある案内板の交換、高架ホームでの残留客確認や回送列車のドア閉めなんかをしていました。翌昭和57年に特殊法人へ就職し、周りの同期生の何人かは国鉄に入社しましたが翌年からは採用停止となってしまったので駆け込み組なんて言われていました。でも国鉄入社組の民営化後は悲惨なものでした。何とかJRに残れた者、清算事業団経由で退職した人、旅行センターからJTBへとらばーゆした人等。かえって国鉄に入社しない方が良かったのでは、とも思えてしまいました。
そうでしたか...何処かでお会いしている筈です...
想いが詰まった動画、そして想いが込められた駅アナウンスですね。自分も上野駅は何かとご縁がある駅です。これからも変化しながら存在し続けるのでしょうがあの独特の上野駅らしさは残り続けて欲しいと思います。
ありがとうございます!!!
今も「帰省は上野から」と言う方がいらっしゃるとか。
そんな空気は何時迄も残ってくれるものと存知ます・・・
6:33 13番線の隣が団体待合所であった話は聞いていましたが、10年ほど前そこを出入りしている限り一般客に見せられない洞窟のような埃っぽい空間でした。
薄汚れた青磁色の柱にびっしりと修学旅行客のものであろう連絡先の書かれた鉛筆書きの落書きだけが時が止まったまま残されていて、何とも不思議でした。
そこも現在は四季島の待合室に改装されて残っているのか気になります。
国鉄ストアという言葉も初めて知りました。エキロジの荷捌き場辺りだったんでしょうか、かろうじて物販の部門が後を継いでる思うと感慨深いです。
その後はそんな事になっていたのですね...
団臨を仕掛けた際に資材搬入路を確認するべく、内勤の方と入りましたのが最後で四半世紀近く前のことでした。
私達が何より驚きましたのは、不忍口階段の脇から続く荷扱通路が商店街になりまして、その女性用下着売り場が国鉄当時の浴場で、24時間使えた広い浴場に泊まり明けでゆっくり浸かって...
激動の時代に揺さぶられたものの、楽しみもたくさんございました思い出の場でございます。
ただただ、泣けてくる😭
恐縮です...
L特急はつかり11号(1M)・・・表定速度100.0m/h。東北新幹線開業が1982年でしたがその当時に在来線でそんなスゴい事をやってのけることが出来た国鉄の技術って改めて感服致しますね。
そうでしたね...
最高100km/hでは無いのですものね...
確かにダイヤを眺めても、トンガっておりました(笑)
このラストコール、11Mは私ですが、1Mは後に民鉄に参ります仲間が鳴いたものです。
普段ホームに居りましても、特段の感激は無かったものでしたが、この時ばかりは...
そして、そう言うお話を拝読致しますと、改めて在来線の限界に挑んでいた時代を感じます...
泣けるの一言。有難うございます
ありがとうございます!!!
11M 特急みちのく
当時仙台に暮らしていたので近所の踏切まで見に行ったことを思い出しました。結局乗ることは出来ませんでしたが583系のクリーム色に青いライン。大好きな列車でした。
最初に乗った11M『みちのく』から見た仙台の街は、宮城沖地震の爪痕がまだ残っていた時期でした。
その後、友人が転勤したりと幾度か参りました仙台。
懐かしいです♬
ありがとうございました✨
懐かしいなー。みちのく、乗りました。高校2年(今は62歳)の時、叔母が札幌にいて、親が来年は受験だからこの夏は北海道に遊びに行ったらということで、山口県は新山口(小郡)から0系ひかりで東京に出て上野からこれに乗りました。やたら飛ばす特急だなと言う印象があります。
当時は、お盆で切符が取れずにとうとうグリーンで逝きました。
その他の583系の思い出は、新車だった「月光」、昼行の「はと」、「金星」があります。
おおおグリーン車で!!!
それは高額ですけれども貴重なご体験ですね...
私は普通席だけでした(笑)
幼稚園の帰りに、地上を走ってた赤羽駅を過ぎたあたりで、気動車の長い編成を見た記憶があります。
帰りだったから、14時くらいなのかな。黄色の気動車とクリーム色の気動車が併結されていたように覚えてます。
小学生時代にも踏切で待っている時も、ひばり、やまびこ、はつかり、やまばと、あいづ、つばさ、とき、あさま、白山、はくたか、いなほ、そよかぜ、新雪、白根、、、臨時以外では、やまばとやいなほは見る回数が少なかったな。
夜や朝はおが、越前、妙高、八甲田などを見た記憶がありますが、旧客の車両は越前がかっこよかった印象が強いです。
一度だけ、昭和50年頃だったかな、EF57と旧客の車両に乗った記憶があるんですが、機関車は違うかも。高崎線方面の客車列車でした。
あの時代は、バラエティに富んだ優等列車が多かったですね。
地上時代の赤羽駅、ちょっと独特の風情がございましたね!
確か京浜東北の下に踏切がございまして、そこだけ大都会の国電駅ではない、『東北本線』があった印象がございます。
日常御利用の御客様には今の方が便利で安全、なのでしょうけれども...
そうですね、多様な列車がございました時代、でしたね...
@@トレインタイムス
ご存じでしたか!
あの駅近い踏切、跨線橋も独特な雰囲気でした。
私が高校時代、ちょうど、青函連絡船が廃止になった年、夏のリバイバル青函連絡船に乗るために、友人たちと生涯初の遠方連泊旅行でした。
八甲田で向かったのですが、ちょうど赤羽を通り過ぎる時、その踏切に私の父母が見送りに来ていました。来るなんて一言も言ってなかったんですが、私は気づきました。
親父がばんざーいと喜んだ表情で、母親ははにかみながら送ってくれました。
私は思春期だったので恥ずかしく、でもやたらに記憶に残ってます。
その父が亡くなった数日後が八甲田最終日。因縁を感じる列車であり、忘れられない踏切での光景です。
そうでしたか...
私も父を15の時に亡くしておりまして...
私はその後、能天気な良い加減人生でしたけれども、多々ご苦労されたものと...
急行101列車は忘れられない記念碑、なのですね...
御尊父様の御冥福を深く御祈念申し上げます。
@@トレインタイムス
ありがとうございます。
母は若かりし頃、客車はくつるやあさかぜで色んな所に旅行したと言ってます。
父は上京するとき、昭和20年代末だと思うんですが、満員の客車に飛び乗ってきたと言ってました。夜間大学に通いながら苦学して役所に勤めたと言ってました。私がお酒を飲める時まで健在であったなら、今更ながら聞いてみたかったなと思ってます。
トレインタイムスチャンネル様のご尊父に対しての思いも色々あると察します。
年齢は違いますが、お互い、父親と酒を酌み交わしてみたかったですね。
でもこうして思い出させてくれたことを、近日中に墓前の父に伝えたいと思います。
これからも動画拝見させていただきますね!
既に父の生涯を超えた年齢となりました頃から、ふと親父ならどうしたろうか、と考える事が多くなりました。
今更ながら、親の影響の大きい事を感じる次第でございます。
何卒何卒長くご壮健であられます様、併せて御祈念申し上げます。
ありがとうございました!!!
このダイヤ改正で常磐線上野発着の旧客普通列車も消滅しましたね😢
223レ最終日に上野駅から乗りました。
あらあら!!
その時間は丁度地平ホームの事務室におりました...
そうでしたか...
貴重なご経験でしたね✨
車内解説でしょうね素晴らしい最高でしたね。正に昭和時代のアナンサーでしょう⁉️当時の名列車。現在の新幹線なんか目じゃなかったね‼️
ありがとうございます!
ホームの放送で、私が放送したものです...
何だろうか…涙腺が緩む
江原様、御投稿ありがとうございます。
この11Mみちのくと1Mはつかり11号の放送は、当時学生助勤だった者が行い、既に国鉄の新規採用は停止と聞いておりましたもので、自分達にとっても文字通り「ラストコール」になりました。
当時、上野に勤めていた者の殆どが「1日の指標」となる列車を持っておりました。
私はこの列車と常磐線221列車だったのですが、三十数年を経て今もその時刻には背筋を伸ばさないといけない様な感覚となります。
暖かいお言葉、大変嬉しく存知ます。
最終日当時大学生1年生、流山に住んでいました水戸から上野まで上りみちのく号に初めてのりました。それだけ偉大でした。
そうでしたか!!
常磐線特急の本当は「伝統便」なのですけれども、「はつかり」の影になってしまって地味な存在ではございました。
それでも常磐線沿線に住むものとしては忘れ難い列車、でございます!!
素晴らしい、懐かしい、良いものを、ありがとう!
恐縮でございます!!
私が初めて上野駅に降りたのは新幹線の上野開業の年の暮れで小学6年生でした。連絡船と新幹線に乗って来ました。東京に着いたって思った記憶があります。今年乗車した「はやぶさ」は通過しました。今や上野東京ラインができ、東京の玄関口としての上野駅ではなくなったような感じですが、間違いなく多くの人にとって忘れられない場所だったように思います。
1985年の暮、ですか....
私は上野駅案内所におりました。
もしかすると何処かで擦れ違って居たのかも知れませんね...
あ!
それ以前に北海道なら、毎年夏にふらふらとしておりましたので(笑)
トレインタイムスチャンネル もしかしたらすれ違っていたかもしれませんね(笑)5年程前にも上野駅へ行きましたが、様変わりしていて自分の知っている上野駅ではなかった気がしました。時代の流れとはいえ寂しいです😔
ミヤマエ様、ご返事ありがとうございます!!
今は上野駅も当時の1/3の職員数、対して駅ナカが増えて国鉄当時より「働く人」の数は多くなっているとかと伺います。
足掛け十年通いました我が青春の、言い換えれば「人生大学」みたいな場所でございまして、浮ついた雰囲気は私もなかなか馴染めません...
それでも、当時の空気が感じられます場所を見付けて、当時の記憶を整理しております(笑)
トレインタイムスチャンネル 私では想像もつかない経験をされているので、ある意味羨ましい限りです。上野駅が最も活気に満ち溢れていた時代に訪れてみたかったです😊
そうですね....
若い時の苦労は買ってでもしろ
と申しますが、その後の国鉄改革に伴う解雇や先輩達の地獄など、買わなくても良い苦労も体験致しました。
幾度、単なる「鉄道ファン」として眺めているだけの方が幸福かな、と思いました事やら....
そう考えますと、確かに華やかな時代の上野駅を知った「儲け」と「損失」は、プラスマイナス0、いや赤字なのかも知れません(笑)
【構成=声の主】この日は休暇でしたが、以前からマニア対策で「控え」として待機する旨に担当助役さんと相談しておりましたが、放送台に上がれたのは偶然でした。
シナリオがあって喋るのでは無いものですから支離滅裂(笑)
しかも当時のラジカセで同僚が録音してくれたものですから、音質も悪く・・・
旧版はそのデジタル化音源の複製から編集しましたが、今回はその音源から再度調整して、折角なので「1Mはつかり11号」も加えたものとしました。
まさに若さ故の何とか(笑)
何卒御笑聴下さいませ・・・
立ち食いそばがあって、駅弁売りしていた人もいましたね。懐かしいな。
「とーさんばんのそば屋」と上野駅職員達は呼称しておりましたが、一時改装しております。
店の中から地平ホームが見渡せたので、小腹が空いた時に休憩時間を使って食べに入ったものです。
台車の売店も今は見掛け無くなりましたが、固定売店より弁当は移動式の方が売れたとも伺った事がございます。
「冷凍みかん」は今も食べたくなります・・・(笑)
40年以上前「みちのく」に青森から上野まで乗りました。確か朝4時53分発では?はつかりとほぼ同じ時間だったような。懐かしいです。
もしかしますと時刻は差異があるかも知れませんね、第2M『はつかり』の後追いだったと存知ます...
青森発上野行き上りはつかり2号はみちのく号の3分前の午前4時50分青森発でした。
はつかり2号は大阪行き白鳥と同時発車でしたね。
外から失礼します。上野では並びはなかなか目に出来ませんでしたが、早朝の青森はこの、みちのくとはつかりさらに白鳥のサシ込みの12,13両編成3本が並んでいて壮観でしたね。対岸の函館は1本がニセコだったので少し格落ちした感じでしたけど、札幌寄りの独特のカーブに80系とキハ56が並んでいるのも非常に印象深く記憶しております。
そうでしたか!!!
失礼致しました!!
この列車には乗ったことないですが、上野に初めて降り立ったのが昭和55年。青春時代を思い起こさせさせてくれる貴重な音源です。
悔やまれるのは、もう少し若い頃から鉄道に関心を持てばよかった!
定期運用の蒸気機関車にも乗っていたし、室木線最後の蒸気機関車も見に行ったのに(笑)
そうでしたか!!
昭和55年と申しますと、私や仲間たちが上野駅に潜り込んだ(笑)時期です。
室木線も新幹線工事で活躍?したのに、まさか廃止となるなど...
西へは全く行ったことがございませんが、「ヤマの鉄道」に少々憧れがございます...
ありがとうございました!!!
長距離特急に食堂車は、欠かせない存在でした。
本当にそうでした!!!
上野駅の画像がヤバい。
啄木の詩がしゃしゃり出る。
沖田艦長の心境。
猫男吐天様、ご返事遅れまして大変失礼致しました。
「昭和の上野かぁー何もかも皆、懐かしい」
なのですね(笑)
ご投稿大変ありがとうございました!
昔日を知る者には、まっ暗な地平ホームは悲しすぎです。今の入谷口あたり、盆暮はテントで列車待ちした記憶があります。ガキは退屈して怪しい駅周りを探検しました。あちこちに魔窟感があった上野がなつかしい。幼少の一時期、佐貫駅そばにいて、ディーゼルはつかりを改札から眺めるのが大好きなガキでした。D51や竜ヶ崎線ロコもいたはずですが、佐貫の記憶ははつかりだけです。佐貫は佐貫です。
これはまた、大先輩でいらっしゃいます!!
テント村は私が上野駅員になった時代には既に解消されておりまして、品川発臨時も過去のお話でした...
いゃ、全く同感です。
佐貫は、佐貫ですね!!
@@トレインタイムス 返信ありがとうございます。大阪万博のころです。午前の佐渡の臨時でしたね、たしか。着席券だったか、売り切れで並んだか、、、。ホームまで1例に並んで、あるときヨーイドンでドアに群がるという。後年、新宿アルプスの広場で並んだ中央夜行と同じやり方でした。
みちのく号は一戸駅に停車していたんだよなあー。一戸、北福岡(現二戸)、三戸には上野発青森行きの昼行特急が上下2本ずつ停車していたのではつかり号は上下1本しか一戸には停車しなかった。
北福岡、懐かしいです...
祖父は鉄道省→国鉄(工事区・船舶施設区)、父は国鉄(駅・車掌区)→JR北海道(車掌区)、叔父①は国鉄(駅・車掌区)、叔父②は国鉄(駅・貨物ターミナル)→JR貨物、叔父③は国鉄(駅・鉄道公安)→警察、兄は国鉄(船員区)→JR北海道(船員区・本社)、従兄は国鉄(電気区)→警察と鉄道一家に育つ。国鉄官舎で育ち、鉄道はとても身近な存在。進学と共に函館を離れ上京。以後、年に数回、東京と函館を往復する身に。寝台車が全廃になってからは航空機を利用。今は山手線で上野を通る位で、降りることも無くなった。が、上野駅はやはり特別な存在。東京に住んで間もなく40年。上野駅ホームのアナウンス、国鉄時代の上野駅構内がとても懐かしく感じられた!
そうでしたか!
何か思い出したり、懐かしんで頂けたのなら、何より幸甚にございます。
どうか皆々様、何時迄もご壮健であられます様に!
永久永遠的の孤高名特急583系、みちのく…はつかり…はくつる…ゆうづる北国行きスーパースター❗
同感です!(笑)
みちのくは、地味な列車で、ファンの間ではあまり写真は残されてない!と聞いていました。
そうですね、昼間に583が堂々疾走する、までは良いのですが、常磐線で1日1往復でしたし、撮影し難い時間帯に動いていたとも受け取れますし、実際は案外見掛けますが、そもそも東北特急のルーツ便ですからね・・・
@@トレインタイムス
スジもほとんど電化前のはつかりでしたしね。
今じゃ新幹線で直接北海道へ行けるようにはなりました
ですが、個人的には旅情というものが完全に無くなってしまったって感じがしますね
青函連絡船に乗換て、函館本線に乗換て...
確かに大変な旅ではございましたけれども、その都度楽しみがございました。
おまけに車内販売も省略、新幹線が段々と通勤電車になって行く様です。
そして夜行が無い北の旅は、どうしても不便に感じます...
@@トレインタイムス 小学校3,4年のころ始めて北斗星で北海道行った時なんかやたらテンション上がりすぎて寝坊しちゃいましたからね
あら(笑)
私も初めての北斗星は興奮したものです、北斗星1号だったのですけれども、結局青函トンネルを抜けるまではロビー室で(笑)
@@トレインタイムス
ちなみにその時の一番の思い出が仙台か、盛岡だと思うんですけど新幹線が止まる駅に止まってたノースレインボーエクスプレスを寝台の窓から夜遅くに見たことですかね
まぁその翌朝寝坊して朝食時間ギリギリでしたけどw
ご返事遅れてしまいまして、大変失礼致しました。
多分、ノースレインボーですと盛岡駅と存知ます。
札幌から盛岡の直行を季節臨時で運転していた時期がございますもので...
その小樽から盛岡まで、乗った事がございます♬
この時代を生きてたオジさまオバさま世代の方々で後に青函トンネルを新幹線が走り北海道まで運行される事を誰が夢見てただろう?
時代を感じるからこそだけど在来線特急で昼から走る長距離列車は今ではレアモンだな。
上野東京ライン・湘南新宿ラインも長いけどこの頃の列車と比べてたら短距離な方だし。
鉄博行けばこうゆう国鉄時代の車両は展示してあるけど、何かまた違った感じするし。
5711D改当時、報道各社が騒いでいたものが青函トンネル先進導坑貫通の話題で、上野〜函館間東北新幹線になるとこんなに早い的な論調も多く拝見しました。
ただ、具体的に青函連絡船が無くなったり、札幌行豪華寝台特急が走ったりと言う時代を経て、今日の様な状態になるとは思っていなかった方が多かったと存知ます。
函館に知人がおりましたが、まさか新幹線駅が渡島大野になるなんて、誰も想像していなかった様ですし・・・
「白鳥」程では無いものの、まともに半日同じ座席で過ごす旅は今時はちょっと過酷かも知れませんね(笑)
「みちのく号、本日を持ちまして運転を終わらせていただきます」
終わらせないでくれ!!
終わってしまったのです....
季節列車で復活するとの噂も幾度かございましたけれども、結局復活はしなかったのです.....が.....
『ゆうづる』はその後も活躍し続けておりましたもので、常磐長距離便の歴史が途絶えたものでは無かったのですけれども...
最終みちのくは、日暮里〜三河島で見送りました。
そうでしたか...
上野駅は大変な混雑でしたけれども...
あの京成下の踏切から三河島の高架まで築堤を駆け上がる姿は、痺れる格好良さですものね♬
当時はカシュー塗料さんも健在だったと存知ますけれども、あの周辺も色々と変わりましたね...
素晴らしい
国鉄の輝かし歴史と負の歴史
そうですね...その共存が国鉄、なのかも知れませんね....
すいません、記憶違いでした。急行天の川号(定期列車)、急行十和田号(定期列車)のラストランは東北 上越新幹線上野開業前日に写真を撮りに行きました。みちのく号のラストランは観に行きませんでした。東北新幹線暫定開業前の前日に特急やまびこ号(上野16時33分発)を学校終わりに観に行こうとして新川崎駅発15時58分発の横須賀線に乗って上野に行きましたがちょっとの差で間に合わなかった悔しい思い出が残っています。京浜東北線か山手線にそのまま乗って鶯谷で観れる可能性があったのに。結局、何も撮影せずすぐ上野駅を後にしました。
え!!
天の川(20系)の最終便も???
その昭和60年3月13日「天の川」のラストコールも私でした(笑)
同じ「音の鉄道記録」シリーズにございますので、宜しければ是非♬
@@トレインタイムス ラジカセ持って十和田や天の川のラストランの発車するところ録音しましたよ。テープは紛失してしまいましたが、一部は覚えています。明日からは上越新幹線にバトンタッチ・・・、マニアの方のお心遣い、一人一人のお心遣いもちまして最終天の川号秋田まで定刻で送りたいと思います。写真を撮っている子供さん危ないですよ、と注意もしてました。
じ...実は....あの放送をしていた夜は泊まり勤務(上野駅案内所)でして、休憩時間を調整して貰って「臨時」に登板したものでした...(笑)
なので、正規のホーム要員ではなく...
あの頃はそんな事ばかりやってましたし、それを許した現場長たちの存在も...
何処かゆるゆるでした...
100年以上続く軌道=来年(2022年)は150周年になりますね。
1872年6月(明治五年五月)に仮開業、10月(九月)に全区本格開業...
まだ大名と呼ばれていた人々が御健在だった時代、ですものね...
私は、北海道に行く時は11Mではなく、1M派でした。
583系の寝台利用は、下段を利用するのが楽しく下段派でした。昼席利用の583系は485系に比べて不人気でした。私の父は新幹線総局の国労でしたからえらく苦労しました。当時組合同士の争いもあるようで、ロッカーなどを襲撃された話しを聞かされました。
動労の変わり身の速さには唖然としていました。最も穏健な国労は一番悪いとしていじめられました。
私は、変わり身の動労は、労働者側に利益になったとは考えれるが、動労的体質は、JR北海道の線路保守の偽装事故や収益を産み出さない経営体質に動労的ことなかれ体質が一部あるのかもしれないと部外者はたまに感じます。
どの組合が良いとか悪いとか、私自身は組合と無関係の場所におりましたので評価にしろ個人的感想にしろございませんが、組合と経営側の馴れ合いが結果としては、利用者の被害を経て、その組合員=雇用者と経営者の自滅を呼ぶだけと考えておりまして、その点表現こそ違えども、危惧する点が同じでした事に安心致しました(笑)
比較的組合の対立が少なかった上野駅の先輩たちは、多少の意地悪こそあっても、事故だ騒ぎだとなればそれはそれ、として一致団結?(笑)して事案に対処しておられました。
私も583寝台は下段派でした(笑)
あれほどの贅沢はございません(笑)
ご投稿ありがとうございました!
食堂車なんかブルジョワしか利用できなかった、とにかく高かったという印象。
親に食堂車でサンドイッチを食べさせて貰ったが、子供ながらに贅沢だと思ったもんだよ。
上野駅を基準とした場合、カレーライスやスパゲティミートソースは駅弁よりは安かったもので、私は専らそればかりでした(笑)
みちのく号のラストラン
なんか泣きそう😥
私は放送台で泣きました....
泣けてくるのはなぜだろう…
(´;ω;`)
恐縮です....
何か深い思い出の断片に触れているのかも、知れませんね...
「はつかり」と「みちのく」との関係は、連絡船を介せば「北斗」と「北海」の関係に似ている。上野から日暮里で三河島にまわるか、尾久を経由して北上するかの差こそあれ、道内では長万部で室蘭、千歳回りとなるか、そのまま倶知安、小樽回りとなるかの違いはあるかもしれない。「はつかり」は停車駅が少なく、時間がかからない「北斗」に接続するのに対し、「みちのく」は停車駅が多くなり、「北斗」よりも時間がかかる「北海」接続というのは面白い。いかにも国鉄らしいやり方だと思うが、発着地は同じでも、経由地を変えた列車を走らせるやり方は、JRになってからもあった。盛岡駅で新幹線に接続する「はつかり」と「たざわ」が好例だろう。「たざわ」は秋田に向かうが、3往復くらいは、奥羽経由で青森に向かう列車が設定されていたのである。東能代や大館という時代もあったかもしれないが、8時丁度に秋田駅を「つばさ」と「白鳥」の同時発車という光景が見られたこともあったそうである。一見没個性的な車体は国鉄カラーともてはやされているが、官僚的な感じがしてあまり好きではない。でもテツには根強い人気があるんですよね。様式美というか、国鉄型車両にはそういうのがあった。旅セとみどりの窓口が分離してある様子は宮脇俊三の「最長片道切符の旅」の冒頭を思い出す。渋谷だったと思う。みどり氏に「ここでは発売できない」と言われ、旅セ(どこの担当だったのか)に回って、窓口の奥で話し合いがされ、数分後に出てきて「わかりました」というシーンである。末期の国鉄は運賃値上げと官僚的な応対という悪いイメージしかないが、家を犠牲にして鉄道を守るために、職務に全うしてきた職員には頭が下がる思いである。ある意味命がけである。そういう姿勢が垣間見えるから、鉄道をオモチャにはしたくないのである。鉄道を前にうかれている大人を思うとどうなんだろうかと思ってしまうのだ。鉄系UA-camrなんかその最たる例だが。
列車番号が共通しております「はつかり11」(1M)→1便→「おおぞら」(1D)と、「みちのく」(11M)→11便→「北海」(11D)、これは単なる語呂合わせではなく、旅客継送都合としてパッケージされたもので、私達上野駅の若い者などは「北海道継送チャンネル」と呼んでおりました。
近似時刻の発着は「補完輸送」と申しまして、青函連絡船を軸として御利用機会を拡大する制度でもございました。
この放送をした日、東北・上越新幹線は大宮暫定開業を翌日に控えて「長距離輸送体系が変わるな」などと先輩達と話をしていたもので、実際にお急ぎは新幹線・乗り換えなしは夜行と明確に区分化されたものでした。
まさに鉄型ユーチューバーの皆様には御存知無いであろう、昔の出来事ではございますけれども...
小牛田停まって北上通過とは
まぁ...当時のダイヤですからね(笑)
千鳥停車的なやつですねw
停車駅が増えた1Mと分担したのですね・・・
小牛田はやまびこが廃止になって、特急の停車が少なくなってましたから
@@jyouban531
確かやまびこは仙台⇔盛岡間は特急停車駅全て止まっていたんですよね?
欧亜連絡と書かれたガラスはどれでしょうか?
私が目撃しただけで画面や画像にはございません。
何せ仕事中でしたもので(笑)
@@トレインタイムス そうでしたか。画面を一所懸命探してしまいました(笑)
これは失礼致しました...
仕事中に撮影は...怒られますもので(笑)
この他に上尾暴動などと同時期に発生した国電騒乱事件の痕跡もございました...
特急みちのく号E653系国鉄ボディ車を用いてリバイバル運転をしてほしいです
車、他に無いのですものね...
ダメダメ、涙腺崩壊だよ
ありがとうございます!!!
そう言って頂きます事が何よりの報酬でございます!!!
私も国鉄志望の一人でしたが、『一年の差』で地獄を見た一人です(昭和57年度卒業・昭和40生まれ(早生まれです)) 以来将来の夢をぶち壊しにした自民党は『親の仇以上の憎むべき存在になりました』
彼ら国鉄を潰すだけでは飽き足らず、当時の日本航空も倒産寸前にまで追いやった(今の政権はJALを完全に『目の敵』にしている)。話は変わりますが、私と共に国鉄マンになる夢を持っていた当時の仲間達は皆、私鉄には行かず、鉄道とは無縁の職業に就きました(鉄道は一生の『趣味』になりました)。
同級生さんですね(笑)・・・そうでしたか・・・悔しい思いをされたお一人でいらっしゃいましたか・・・
私や仲間の半数はちょっと違った見方です。
臨雇とは言え国鉄現場を幾つか見た+αとして、『自民党が憎い』と言うより『自民党も憎い』と言う印象です。
むしろ労組を煽り結果として助ける事などしなかったし出来なかった共産党はじめ野党の無反省こそ嫌悪です。
ただ、誰が悪いと言うよりは、誰もどうしようも出来なかった状態だった事は、その後『親の仇以上の怨念』で国鉄分割民営化を調べているうちに薄らと見えた事でございます。
仲間で自ら命を絶った者も一人ではありません。
先輩でも形こそ事故や病死ですが、自決に近い状態で若くしてこの世を去ったのも一人二人ではございません。
その菩提を弔いつつ、その犠牲の上にある鉄道が悪路に落ちるなら騒いでも止めたい。
それが今もこうしてオッサンが集っている「本音」なのだろうと存知ます。
ご投稿大変ありがとうございました!
ツイッターも展開しておりますので、機会がございましたら是非!!!!
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恐縮です♬