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現在83歳 子供の頃の遊び場でした。 撮影場所は子供たちが カラス山と言う増上寺 と東京タワーの間にある小高い山です その小山を削ってホテル と弁天池を埋め立てた 言われてます。東京タワーは 第二芝公園で現在タワーの下は雨の降った後、小さな滝が流 れ小池があって小舟を浮かべて遊び、又 野イチゴをとって子供の頃、食べた思い出があります。 中学生の時、 都電4番五反田行き、3番目黒行き、34番渋谷行き場の芝公園乗り場で東京タワーの 立ち上がるのを 楽しんで見ていました。 円山公園も 現在 の大きさよりも高台に広がってました。 弁天池も現在のものよりもっと数倍大きく、カエル がいたり防空壕は何カ所もありました。 また増上寺 は現在本堂よりの小高い上にあり焼け跡が広がっていました。 その下に現在の 増上寺があり、隣りには徳川家の 素晴らしいお墓があり 冒険心いっぱいで侵入して 子供の頃の格好の遊び場だった
堤一族による無謀な破壊改変前を識っていらっしゃるのは、とても貴重なことですね。弁天池(蓮池)が何故今の形になったか、色々と調べたのですが判りませんでした。台地を崩した残土で埋立たとは、なんとも酷い行為です。
今年は昭和99年に当たるそうです。完成から66年、鉄なんてちょっと放っておけばすぐ錆びてボロボロになるのに今でも美しさと強度を維持しているのはメンテナンスに関わる方々の弛まぬ努力の賜物ですね。心からの敬意を。
東京タワーは登ってみるとわかりますが、海風が常に吹き付けているので、5年に一度塗装を上塗りしています。
父親(80歳)が麻布の生まれですが、当時は静かな住宅地で、東京タワーのあたりも東京の町はずれだったようです。青山は名前の通り小山ばかりの地域だったそうで。オリンピックを境に変わっていったねと言ってます。
現在76歳、タワー真下の港区立北芝中学校卒業です(港区立図書館の隣・タワー側角)。狭い敷地・運動場でしたが、教室からはプリンスホテル・芝ゴルフ場の緑が広がり、鳩がたくさん舞っていた。道路はひっきりなしに修学旅行の大型観光バスが渋滞していましたね。当時の東照宮は目立ず日光や上野の東照宮と比較にもならない程「なぜ・本物?」寂れてました。
私は昭和33年生まれ、東京タワーと同じ。登ったのは昭和56年。小学校時代、東京タワーは憧れで皆登り、私は家庭の事情で行けませんでした。23歳で登った時は大変感動したものです。最近昔と現在の写真を見ながら色々な想いに浸っています。東京タワーが保存できれば幸いなのですが………。このような写真とても貴重そして宝です。ありがとうございます🗼
東京タワーには何度か行きましたが、周りを歩いたことはありませんでした。昔の写真片手にこういう散歩を楽しむのも素敵ですね😊
空襲で消失していなければ、徳川将軍家の菩提寺として日光東照宮を勝るとも劣らない荘厳な建築群が国宝になっていたでしょう。戦後、残念ながら寺の敷地の多くが売却されて遺構も破壊されてしまった。徳川秀忠の廟墓も完全に破壊され、高級マンションに向かう通路に変わり果ててしまっているのが諸行無常を感じさせます。
二年前に、芝東照宮と芝増上寺に御朱印をいただきに参拝にあがりました。実に懐かしいです。鉄骨造りの構造物の耐用年数は、38年〜50年ぐらいだそうですから、東京タワーも何時まで見られるのでしょうかね。小田急TIMEさんで東京タワーが解体されるシーンや、跡地の再開発を見れる日がくるかもしれませんね。
僕は芝中卒ですが、あのおかのように盛られた土は芝公園内の地下駐車場での土、大きな駐車場の土で昔は平らでした。
仰る通りですね。ザ・プリンスパークタワー東京北側の台地状の高まりは、自然地形ではなようです。1958年に台徳院霊廟奥院のあった台地が丸谷古墳傍まで削平され、1959年から芝ゴルフ場となりました。芝ゴルフ場は2001年に閉鎖され、2005年に東京プリンスホテル パークタワー(現ザ・プリンスパークタワー東京)が開業しています。ですから、1959年から2001年まであの土地は平坦地でした。
東京タワー建設にあたっては高所作業であっても命綱なしだったそうです。当時の鳶職人が命懸けで作った東京タワー。いつまでも残して欲しいものです。
東京で33年働いていましたが、ついに行くことは有りませんでした、案外そういうものですね。
私も40年ほど前に学生として東京にいて、その後も社会人として20年間くらい東京・神奈川におりましたが、一度もタワーには上ったことありませんw(スカイツリーも同様w)
おぉ台徳院殿御霊屋の御成門(天人門)が元位置で写ってますね。感動的な画面です。おそらく丸山古墳上から、台徳院御霊屋奥院がある台地上を撮ったと思われます。写真左手奥の方向が秀忠公の宝塔のある場所ですが、画像からは既に削平が始められているように見受けられます。今は、ザプリンスパークタワー東京が建っている場所です。
取り残された祠が哀愁を感じさせます。祠が大好きです。石仏や祠がない町は味気なくて、どこか頼りないものです。
画像中の祠に見える建築物は、台徳院霊廟(徳川秀忠公廟所)の御成門(天人門)です。台徳院霊廟建築物の大半は空襲で焼失し、この門と総門、勅額門、丁字門だけが残りました。
写真の祠のような建造物についての情報ありがとうございます。動画は最後にそこまで追求してるかと期待しましたが残念でした。
東京タワーはシルエットがいいんですよね、今のスカイツリーなんかよりずっと。
先代から引き継がれてきたこの街を僕たち現役世代が守らなければならない、美しい風景を見てそんな風に思いました。
実家から毎日のように東京タワーを見て生まれ育ちましたが、十数年前から赤羽橋近くの高層マンションの影響で東京タワーは残念ながら窓から見ることが出来なくなりました。よくあの時代にいまでも堅牢に立ちはだかる建築物を作ったものだと思います。3.11の震災では最上部のアンテナは曲がってしまいましたが・・・
その先っぽのところから軟式野球のボールが出てきたんですよね
@@kumavich2010 さんその逸話は知りませんでした
いつも楽しく拝見させていただいております。手前の仏閣らしきポツンとあるのは旧台徳院殿二代将軍秀忠墓にありました御成門と思われます。現在は埼玉に移築されて現存してますよ
周辺に高層ビルがまったくない時代は東京タワーが目立つまさにランドマークでしたね
開業日に父親に連れられて行きました。エレベーターは長蛇の列でとても乗れる状況ではなく階段で展望台まで登りました。いくら上っても景色が変わらず気持ちが萎えましたけど、上を見ると徐々に展望台が近づいてきてなんとか気持ちを見り返して上り切ることができました。12月の外気が冷たかったことを今でも覚えています。因みに以後展望台まで登ったことはありません。
「広大な敷地は‥一面の茫々たる廃園で身丈ほどの雑草が伸びては枯れている。」1950年頃、紅葉館の焼け跡を訪ねた文学者野田宇太郎の感想です。この8年後にはタワーが建つのですから、この時期の戦後復興の加速化がうかがえます。
父方が芝なのですが、幼い父は父親と(母親はすでに他界しており)兄姉と戦火を逃れて山形に疎開しました。そして私は子供の頃、東京タワーに登り、蝋人形館では泣いた記憶があります。(本気で怖い)仕事の帰り、または旅行から帰ると、東京タワーの明かりを見てホッとしました。東京生まれで一番好きな物のひとつです。もう外出も出来ない高齢の父に東京タワーをまた見せてあげたいです…
東京タワーは、実際は自分より一つ年下だけど、同年代のよしみで特に好きですね。色んな映画にも登場して、モスラには繭を作られるし色々災難に遭って来てるんですよね。映画「鬼畜」で、緒形拳演じる主人公が、自分の子供を東京タワーの展望台に置いてきて、地上から振り返ったらタワーがライトアップされたシーンは忘れられないですね。
宝珠院は元々は赤羽橋の交差点すぐの、今はENEOS?がある辺り一帯にあって、東京タワーが建設される時に今の場所に移動したそうです
宮司鉄鋼によって建てられ、社長宮地は元々とび職で大正の始めに英国で建造されたエディンバラ北部鉄橋強風で崩れたのでしんがた鉄橋、いまの東京湾鉄橋とそっくり型が1913ネンゴロ建造。そこには日本人とび職が二人いたが彼は足組部分から組み立て行き四本の足がピッタリと組み合う英国で習った方法を東京タワーに再現させた、日本初の英国式鉄鋼技術日本に用いた職人です。
東京タワー辺りから品川区大田区目黒区渋谷区付近が空襲を受けたのは、45年5月20日前後の数日間。この辺りは、「東京山の手空襲」の被災地域です。貴重な写真を特集したNHKスペシャルがDVD化されてますのでご覧になってみてください。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! 💙🗾
スカイツリーからは得られない栄養が東京タワーにはある。どこから見てもカッコいい。東京タワーを眺めるその一瞬で「あぁ、東京にいるんだ。」ってなる。
今この撮影している場所は、よく来ていました。都内で一番気に入った。場所の一つ私の仕事の関係で、それぞれの違う場所を行く事になる。撮影している場所からすぐ近くに東京タワー🗼が、行かれる。
今回の件とズレるかも?ですが...25年前、元麻布に住んでいて、ちょくちょく足を運んでいた、港区立みなと図書館そば、旧有章院霊廟二天門を思い出しました。当時は、現在の様に立派な容姿では無く、ボロボロな物置みたいな有様でした。通行人が、容易に悪戯 (破壊) 出来る状態で、これ国宝級な物では無いのか?と心配になる程でした。
東京タワーに蝋人形館を
東京タワーも完成から既に65年。。。元祖東京のランドマークと言える存在ですよね。これからもランドマークであり続けるのでしょうか?
増上寺の隣にあるんですね・・・田町に通勤してましたが、知りませんでした。会社の友人と東京タワーまで歩いて行った事を思い出します。知っていれば・・・・
もう17年前に東京タワーの展望台に上がりましたが、周りのビルが高過ぎて東京タワーの高さを感じなくなってました。
全く個人の感想ですが東京タワーでモスラを連想します😅
徳川家霊廟の建物かな?芝公園は上野公園みたいなもので、もともとは増上寺の広大な境内。寛永寺は上野戦争が起きたことで幕末にほぼ焼失していたけど、こちらは空襲まである程度は歴史遺産が残っていた。徳川家霊廟の跡地はプリンスホテル建設のため、墓を掘り返して改葬し焼け残ったいくつかの建物はさいたまに移築されている。それが昭和33年頃のはず。
モスラでも渋谷の辺りはモスラの高さ程度の建物しかないし、東京タワーの周りは何もないしね。原子熱線砲を撃つには射線を遮るものがない。
結局あの建物は解らなかったの?
木の形は昔の方がいいなぁ…
神仏分離なら徳川家康は神なのか仏なのかどちらでしょう。
1612年(元和2年)に、死の直前に、藤堂高虎を呼んで遺言をし、その内容は自分が死んだら遺体は静岡の久能山に葬り、一年後にその遺体は日光東照宮に移して墓を建て神として扱うようにと、遺言して死んでいったと聞いている。
間違えました芝公園乗り場ではなく芝園橋です
現在83歳 子供の頃の遊び場でした。 撮影場所は子供たちが カラス山と言う増上寺 と東京タワーの間にある小高い山です その小山を削ってホテル と弁天池を埋め立てた 言われてます。
東京タワーは 第二芝公園で現在タワーの下は雨の降った後、小さな滝が流 れ小池があって小舟を浮かべて遊び、又 野イチゴをとって子供の頃、食べた思い出があります。 中学生の時、 都電4番五反田行き、3番目黒行き、34番渋谷行き場の芝公園乗り場で東京タワーの 立ち上がるのを 楽しんで見ていました。 円山公園も 現在 の大きさよりも高台に広がってました。 弁天池も現在のものよりもっと数倍大きく、カエル がいたり防空壕は何カ所もありました。 また増上寺 は現在本堂よりの小高い上にあり焼け跡が広がっていました。 その下に現在の 増上寺があり、隣りには徳川家の 素晴らしいお墓があり 冒険心いっぱいで侵入して 子供の頃の格好の遊び場だった
堤一族による無謀な破壊改変前を識っていらっしゃるのは、とても貴重なことですね。
弁天池(蓮池)が何故今の形になったか、色々と調べたのですが判りませんでした。台地を崩した残土で埋立たとは、なんとも酷い行為です。
今年は昭和99年に当たるそうです。完成から66年、鉄なんてちょっと放っておけばすぐ錆びてボロボロになるのに今でも美しさと強度を維持しているのはメンテナンスに関わる方々の弛まぬ努力の賜物ですね。心からの敬意を。
東京タワーは登ってみるとわかりますが、海風が常に吹き付けているので、5年に一度塗装を上塗りしています。
父親(80歳)が麻布の生まれですが、当時は静かな住宅地で、東京タワーのあたりも東京の町はずれだったようです。
青山は名前の通り小山ばかりの地域だったそうで。
オリンピックを境に変わっていったねと言ってます。
現在76歳、タワー真下の港区立北芝中学校卒業です(港区立図書館の隣・タワー側角)。狭い敷地・運動場でしたが、教室からはプリンスホテル・芝ゴルフ場の緑が広がり、鳩がたくさん舞っていた。道路はひっきりなしに修学旅行の大型観光バスが渋滞していましたね。当時の東照宮は目立ず日光や上野の東照宮と比較にもならない程「なぜ・本物?」寂れてました。
私は昭和33年生まれ、東京タワーと同じ。登ったのは昭和56年。小学校時代、東京タワーは憧れで皆登り、私は家庭の事情で行けませんでした。23歳で登った時は大変感動したものです。最近昔と現在の写真を見ながら色々な想いに浸っています。東京タワーが
保存できれば幸いなのですが………。このような写真とても貴重そして宝です。ありがとうございます🗼
東京タワーには何度か行きましたが、周りを歩いたことはありませんでした。昔の写真片手にこういう散歩を楽しむのも素敵ですね😊
空襲で消失していなければ、徳川将軍家の菩提寺として日光東照宮を勝るとも劣らない荘厳な建築群が国宝になっていたでしょう。戦後、残念ながら寺の敷地の多くが売却されて遺構も破壊されてしまった。徳川秀忠の廟墓も完全に破壊され、高級マンションに向かう通路に変わり果ててしまっているのが諸行無常を感じさせます。
二年前に、芝東照宮と芝増上寺に御朱印をいただきに参拝にあがりました。
実に懐かしいです。
鉄骨造りの構造物の耐用年数は、38年〜50年ぐらいだそうですから、東京タワーも何時まで見られるのでしょうかね。
小田急TIMEさんで東京タワーが解体されるシーンや、跡地の再開発を見れる日がくるかもしれませんね。
僕は芝中卒ですが、あのおかのように盛られた土は芝公園内の地下駐車場での土、大きな駐車場の土で昔は平らでした。
仰る通りですね。
ザ・プリンスパークタワー東京北側の台地状の高まりは、自然地形ではなようです。
1958年に台徳院霊廟奥院のあった台地が丸谷古墳傍まで削平され、1959年から芝ゴルフ場となりました。
芝ゴルフ場は2001年に閉鎖され、2005年に東京プリンスホテル パークタワー(現ザ・プリンスパークタワー東京)が開業しています。
ですから、1959年から2001年まであの土地は平坦地でした。
東京タワー建設にあたっては高所作業であっても命綱なしだったそうです。当時の鳶職人が命懸けで作った東京タワー。いつまでも残して欲しいものです。
東京で33年働いていましたが、ついに行くことは有りませんでした、案外そういうものですね。
私も40年ほど前に学生として東京にいて、その後も社会人として20年間くらい東京・神奈川におりましたが、一度もタワーには上ったことありませんw(スカイツリーも同様w)
おぉ
台徳院殿御霊屋の御成門(天人門)が元位置で写ってますね。感動的な画面です。
おそらく丸山古墳上から、台徳院御霊屋奥院がある台地上を撮ったと思われます。
写真左手奥の方向が秀忠公の宝塔のある場所ですが、画像からは既に削平が始められているように見受けられます。
今は、ザプリンスパークタワー東京が建っている場所です。
取り残された祠が哀愁を感じさせます。祠が大好きです。石仏や祠がない町は味気なくて、どこか頼りないものです。
画像中の祠に見える建築物は、台徳院霊廟(徳川秀忠公廟所)の御成門(天人門)です。
台徳院霊廟建築物の大半は空襲で焼失し、この門と総門、勅額門、丁字門だけが残りました。
写真の祠のような建造物についての情報ありがとうございます。動画は最後にそこまで追求してるかと期待しましたが残念でした。
東京タワーはシルエットがいいんですよね、今のスカイツリーなんかよりずっと。
先代から引き継がれてきたこの街を僕たち現役世代が守らなければならない、美しい風景を見てそんな風に思いました。
実家から毎日のように東京タワーを見て生まれ育ちましたが、十数年前から赤羽橋近くの高層マンションの影響で東京タワーは残念ながら窓から見ることが出来なくなりました。
よくあの時代にいまでも堅牢に立ちはだかる建築物を作ったものだと思います。
3.11の震災では最上部のアンテナは曲がってしまいましたが・・・
その先っぽのところから軟式野球のボールが出てきたんですよね
@@kumavich2010 さん
その逸話は知りませんでした
いつも楽しく拝見させていただいております。手前の仏閣らしきポツンとあるのは旧台徳院殿二代将軍秀忠墓にありました御成門と思われます。現在は埼玉に移築されて現存してますよ
周辺に高層ビルがまったくない時代は東京タワーが目立つまさにランドマークでしたね
開業日に父親に連れられて行きました。エレベーターは長蛇の列でとても乗れる状況ではなく階段で展望台まで登りました。いくら上っても景色が変わらず気持ちが萎えましたけど、上を見ると徐々に展望台が近づいてきてなんとか気持ちを見り返して上り切ることができました。12月の外気が冷たかったことを今でも覚えています。因みに以後展望台まで登ったことはありません。
「広大な敷地は‥一面の茫々たる廃園で身丈ほどの雑草が伸びては枯れている。」1950年
頃、紅葉館の焼け跡を訪ねた文学者野田宇太郎の感想です。この8年後にはタワーが建つの
ですから、この時期の戦後復興の加速化がうかがえます。
父方が芝なのですが、幼い父は父親と(母親はすでに他界しており)兄姉と戦火を逃れて山形に疎開しました。
そして私は子供の頃、東京タワーに登り、蝋人形館では泣いた記憶があります。(本気で怖い)
仕事の帰り、または旅行から帰ると、東京タワーの明かりを見てホッとしました。
東京生まれで一番好きな物のひとつです。
もう外出も出来ない高齢の父に東京タワーをまた見せてあげたいです…
東京タワーは、実際は自分より一つ年下だけど、同年代のよしみで特に好きですね。
色んな映画にも登場して、モスラには繭を作られるし色々災難に遭って来てるんですよね。
映画「鬼畜」で、緒形拳演じる主人公が、自分の子供を東京タワーの展望台に置いてきて、地上から振り返ったらタワーがライトアップされたシーンは忘れられないですね。
宝珠院は元々は赤羽橋の交差点すぐの、今はENEOS?がある辺り一帯にあって、東京タワーが建設される時に今の場所に移動したそうです
宮司鉄鋼によって建てられ、社長宮地は元々とび職で大正の始めに英国で建造されたエディンバラ北部鉄橋強風で崩れたのでしんがた鉄橋、いまの東京湾鉄橋とそっくり型が1913ネンゴロ建造。そこには日本人とび職が二人いたが彼は足組部分から組み立て行き四本の足がピッタリと組み合う英国で習った方法を東京タワーに再現させた、日本初の英国式鉄鋼技術日本に用いた職人です。
東京タワー辺りから品川区大田区目黒区渋谷区付近が空襲を受けたのは、45年5月20日前後の数日間。この辺りは、「東京山の手空襲」の被災地域です。貴重な写真を特集したNHKスペシャルがDVD化されてますのでご覧になってみてください。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! 💙🗾
スカイツリーからは得られない栄養が東京タワーにはある。
どこから見てもカッコいい。
東京タワーを眺めるその一瞬で「あぁ、東京にいるんだ。」ってなる。
今この撮影している場所は、よく来ていました。都内で一番気に入った。場所の一つ私の仕事の関係で、それぞれの違う場所を行く事になる。撮影している場所からすぐ近くに東京タワー🗼が、行かれる。
今回の件とズレるかも?ですが...25年前、元麻布に住んでいて、ちょくちょく足を運んで
いた、港区立みなと図書館そば、旧有章院霊廟二天門を思い出しました。
当時は、現在の様に立派な容姿では無く、ボロボロな物置みたいな有様でした。通行人が、
容易に悪戯 (破壊) 出来る状態で、これ国宝級な物では無いのか?と心配になる程でした。
東京タワーに蝋人形館を
東京タワーも完成から既に65年。。。
元祖東京のランドマークと言える存在ですよね。
これからもランドマークであり続けるのでしょうか?
増上寺の隣にあるんですね・・・田町に通勤してましたが、知りませんでした。会社の友人と東京タワーまで歩いて行った事を思い出します。知っていれば・・・・
もう17年前に東京タワーの展望台に上がりましたが、周りのビルが高過ぎて東京タワーの高さを感じなくなってました。
全く個人の感想ですが東京タワーでモスラを連想します😅
徳川家霊廟の建物かな?芝公園は上野公園みたいなもので、もともとは増上寺の広大な境内。寛永寺は上野戦争が起きたことで幕末にほぼ焼失していたけど、こちらは空襲まである程度は歴史遺産が残っていた。徳川家霊廟の跡地はプリンスホテル建設のため、墓を掘り返して改葬し焼け残ったいくつかの建物はさいたまに移築されている。それが昭和33年頃のはず。
モスラでも渋谷の辺りはモスラの高さ程度の建物しかないし、東京タワーの周りは何もないしね。原子熱線砲を撃つには射線を遮るものがない。
結局あの建物は解らなかったの?
木の形は昔の方がいいなぁ…
神仏分離なら徳川家康は神なのか仏なのかどちらでしょう。
1612年(元和2年)に、死の直前に、藤堂高虎を呼んで遺言をし、その内容は自分が死んだら遺体は静岡の久能山に葬り、一年後にその遺体は日光東照宮に移して墓を建て神として扱うようにと、遺言して死んでいったと聞いている。
間違えました芝公園乗り場ではなく芝園橋です