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溝の口に1965年から住んでいるものです。懐かしい画像ありがとうございます!投稿にも紹介されていましたが駅前商店街の入り口に金太郎焼き(今川焼)があり、長崎屋、サンコー(今のマルエツ)があり、その道は高津駅まで続いていました。今は丸井の中にある焼き立てパンのコンコルドがヤストモ百貨店の駅側にありました。ポレポレ通りと名前が付いたのは最近のことで昔は左手に平瀬川という川があり川沿いに映画館や居酒屋等が軒を連ねておりました。西口商店街は元々闇市だったのでどぶ川の上に店を出していたのですが、時代が変わっても立ち退かなくてお役所の悩みの種だったみたいです。ははは。私のような古くから住んでいる者にとっては火事になったのは残念ですね。昔はそこら中どぶ川だらけだったのが全部地下に埋められてきれいな街になっちゃいましたね。これも時代の流れなのですが、時々昔の街並みを懐かしく思う時があります。
子供の頃、新城(千年新町)に住んでいまして高校生になって高津に越してからは、ずっと溝ノ口が私のホームタウンになりました。昔は余りキレイな街では有りませんでしたが買い物には便利で新城に住んでいた頃から良く買い物に行っていました。マルイとノクティができた頃から開発が進み今は、とてもキレイな街になったと思います。私は現在スゥエーデンに住んでいましてコロナの影響から中々、里帰りが出来なくてホームシックにかかっているのですが、この動画を観て益々ホームシックになりました。早く里帰りしたいです。
えええ?もと千年新町民デンマーク住みです。このアルファベットは北欧!と思ったらやっぱり☆し、知り合いですかねぇ?
昭和33年生まれで遊園に今も住んでいるので、少なからず溝の口の記憶があります。溝の口は安いというイメージで、買い物に連れられてバスで帰るというコースでした。あのアーケードのヤストモの名前は知りませんでしたが、なぜか傷痍軍人さんが白い浴衣と軍隊の帽子をかぶってアコーデオンで寄付を募るための歌を語って、道端に立っていた姿を思い出します。靖国の関係ででしょうか。新城方向から来た道は今のようにまっすぐ通っていなくて国鉄武蔵溝ノ口駅前で広くないバスターミナル(又はタクシー乗り場)に挟まれ、さらに細くなって溝口バス停方面(北)に折れ曲がりバスや車でごった返していました。ほとんどマヒしてるような感じで。遊園駅に行くバスが定時で走ることはなかったぐらいです。バス広場はアーケードの北隣であのにぎやかな中央商店街通りが溝口バス停方面(北)に続く道ではないかと思います。こんなに狭くてよくバスが通れるなと思ってました。ドンキから高津駅方面やヨーカドー方向の道はそんなに賑やかではない記憶です。大山街道今の246は昔から交通が盛んで、それに続いたのが中央商店街だったからだと思います。再開発で今のようになる前は、ビルというほどのものはありませんでした。57年にできたという駅で切符を買った記憶があります。多摩川の河岸は平地で昔から家や田んぼが広がっていて、丘陵地帯は、今でこそ隙間のないほど家が立て込んでいますが、当時ほとんど開発されていませんでした。小田急線より開通・開発が遅かった東急田園都市線沿線ですが、東急が悪いのか市が悪いのか、田園都市線と同時に、どうしてもっと広い道にしなかったのかと景色を眺めながらバスに乗っているといつも思います。登戸・遊園はいまだ開発が進まず、買い物は溝の口、スパ銭やジムは新百合・麻生区と結局多摩区外に行ってしまいます。まさか昔の溝ノ口が見れるとは。懐かしい映像をありがとうございました。忘れかけていた記憶が甦りました。
再開発直後よりずっとこの街や二子周辺を転々としながら住んでいます。表記ブレの背景について同人誌を書くときに、この街の歴史についてはいくらか調べましたが、あの場所がどうだった、今はこう、といった視点で見ていて視野が広がったような感覚です。 この表記ブレの中で「溝口」は川崎市編入後、「溝ノ口」は編入以前に地名として使われているので、特徴的な「溝の口」について掘り下げさせていただきます。江戸時代の文献にもこの溝の口表記は登場するようですが、現在使われている溝の口はおそらく1966年の田園都市線開業(実質旧大井町線延伸・改称)時の駅名が興りであると考えられます。 前身の玉電時代は、溝ノ口線という軌道線として「溝ノ口電停」(当時の地名が溝ノ口だったため)を名乗っており、東急に継承されてなおしばらくの間そのままの駅名で使われていました。多摩田園都市開発が本格化し、その象徴的な路線となる田園都市線の溝ノ口~長津田開業に合わせ、自由ヶ丘や鵜ノ木など「ノ」や「ケ」が入る東急の駅名は全て、ひらがなの「の」「が」に改称されます。『多摩田園都市 開発35年の記録』には、田園都市線駅名の検討材料として2つの条件が記されています。・「駅の所在地と関係があり、駅勢圏のシンボルとなるもの」・「語呂が良くて親しみやすく、他に類似のものがないこと」 恐らくカタカナをひらがなに改めたのは、多摩田園都市のブランド戦略の一環なのではないかと思われます。最もこの思想を表す駅名といえば、たまプラーザ駅ですね。また梶が谷駅も開通前の仮称は「梶ヶ谷駅」だったといいます。田園都市線だけひらがなにするというのも統一感がないと考えたのか、他の路線も一気に改められて今の東急ブランドを形成しています。 私も「溝の口」という表記は一番好きです。地名が「溝ノ口」だった時代に一通りの駅設置が済んでしまい、「溝口」の時代に突入し、多摩田園都市の入口として「溝の口」ブランドが登場。表記揺れの経緯としては、このようなものになりますね。歴史が交錯しあう複雑なこの状況は、溝口ならではの現象だと言えます。──────────────────────────────────────── 近年の溝口はユニークな店舗がどんどん店を閉めていて、少し寂しさを感じるところです。ヤストモに入っていたテナントは、ここ20年を見ても溝口のスター店舗が集結した夢のスポットのように感じます。 石原文具店は今で言うイシハラi-boxになりますかね。昨年2月、島崎商店ホームセンター(こちらもこのあいだヨーカドー前に移転)隣りにあった本店が閉店してしまいましたが、今でもノクティ店が残っています。本店1階は文具やOA用品、レジや帳簿、はんこといったビジネス系、2階は画材やプラモデル、モデルガンなどを取り扱っていました。特に2階が夢の宝島のようで、溝口の中でもトップクラスに好きな店でした。 カメラのモチダ(持田写真機)はヨーカドー前、労基署の隣のビルにありましたが、今は証明写真機が置いてあるだけでテナントは別の業種になったようです。不動産の丸貞のトップが持田氏と言うそうで、駐車場やらなにやら多業種にわたって持田の名字が出てきますね。カメラのモチダもこちらの持田氏と関わりがあるのでしょうかね? 島崎文教堂は今や言わずと知れた大手書店チェーンとして成長した文教堂ですね。先述に触れた島崎商店との関係を勘ぐりたくなりますが、こちらは偶然でしょうかね?本店4階は文房具を取り扱っていて、かなり品揃えが充実しています。 ドン・キホーテは長崎屋の現旗艦ブランドですので、企業としては長崎屋のままドン・キホーテに業態転換をした形です。ドンキらしく通路はせまくなりましたが、当時の面影をうかがえる箇所もそれなりにあるかと思います。 マルエツの改装前の写真、とても懐かしいです。当時はノジマとダイソーが3階4階に、ノジマがノクティに移りダイソーが増床、後に改築でマルエツの単独店舗という流れだったと記憶しています。向かいのQizにあった店舗は外観こそ覚えていますが中に入った覚えはないです。個人的にはこの立地に文教堂が合ってくれたほうが少し通いやすいですね。 OKKA634開業は近年の閉店ラッシュの中にあってかなり明るいニュースでした。個人的にはタイトーステーションの方が思い出深いです。改築後の現在は同ゲーセンの旗艦店として最新機種が真っ先に置かれたり、MEGARAGEというバー・ステージ・物販を併設した施設も設けられています。最先端のスポットでぜひ訪れていただきたいところです。(十字屋近くのダーツなどを置いていた2号店は改築に合わせOKKAに吸収されました) 西口商店街は本屋が2つとも撤退、こんなご時世なので八百屋と和菓子屋がやってるくらいですかね。飲み屋が堂々再開できるようになれば、賑わいも帰ってくると信じています。──────────────────────────────────────── 梶ヶ谷は246のロードサイドという印象が強いですね。付近のブックオフはたまに訪れます。高津区でも平地と丘ではかなり変わりますよね。宮前区もそうですが、坂だらけで住むのが大変そうなイメージがあります。今この近辺にはリニアの立坑が設けられていて、発生残土が梶ヶ谷貨物ターミナルから頻繁に運び出されています。大深度地下を通るので全く実感できませんが、リニアが地元の地下を通るのは不思議な感覚ですね。 溝口愛が激しいもので大変興味深く拝見させていただきました。グーグルアースの様子からも既に色々変化しており、懐かしみながら色々と書き綴ってしまいました。長文失礼いたしました。
懐かしい画像やお話ありがとうございます!ヤストモ懐かしい!文具店、オモチャ屋、カメラ屋、時計屋、本屋、八百屋、途中から立ち食いそば、そのあと、はしりの回転寿司ができたなー。東急側にはツバメホール、何故かその前に売店。南部線側はコンコルド、金太郎焼き、パチンコナカノ、味の大関、小鳥やペットショップ、スギザキの時計、スポーツ店、そうそう、小僧寿司の前身の持ち帰り寿司ができて並んでました。サンコー、長崎屋、ヨーカドーはその先でしたね。映画館もありました。釣り堀も。西口商店街の火事で焼けた部分も鮮明に覚えてますよ、分岐には、お菓子や、立ち食いうどん、雑貨屋、金物屋、瀬戸物、隠れた名店のキッチンハセガワ、おじいちゃんおばあちゃんがやってた駄菓子屋、蕎麦屋、着物屋、靴屋、魚屋、ありましたねー^_^昔の3大パチンコ屋はこがねホール、ツバメホール、ナカノホール。ムサシボールでよくボーリングしたなー。高津にもありましたね。
ホコ天と言われた通り有りましたよ小鳥屋さん、越後屋呉服店等が繁盛してました、駅前広場の金太郎焼き(今川焼き)が名物でした、
今川焼屋さん覚えています。 市営バスが二台バックして入る乗り場の横にあった記憶があります。懐かしいですね、動画、コメントありがとうございます。
長崎屋とマルエツが懐かしいです!そして駅の切符の自販も!梶ヶ谷のドアーズとそこにあったボーリング場も懐かしい😆
梶ヶ谷メイツレーンですね、テレビ中継もやってましたね。
川崎市住みのとき唯一行ったことのあるボーリング場です
ありがとうございます。昭和48年頃、南武線と東急線の乗り換えで、線路沿いの道を歩いたのを記憶してます。ヤストモ、何となく覚えてます。雑然として田舎っぽくて懐かしいです。
何とも言えない懐かしい映像。。多摩区に生まれ南武線沿いで数十年生活してきた私。。お話にう頷き、、詳しい取材に熱意を感じて、、感謝の一言です。私の財産にしたい。。
東急から南武線に乗り換える時に、線路際の道が通りづらくヤスモトの中を通っていました。再開発の前は、今の三井住友銀行のビルが唯一の高層ビルでしたが、当時の道路に対して妙な角度で建っていて不思議に思ったものです(再開発が終わって納得)。西口商店街は薄暗く足早に抜けるところでした。梶ヶ谷は昭和44年頃、造成後の赤土の広野に今のバス通りだけが通る人気のない風景でした。市民プラザ横の工事中の敷地は旧清掃工場。梶ヶ谷のランドマークだった赤白の煙突が取り壊された時は寂しがったです。
懐かしいですね~私は橘小学校でしたが、途中で新作小学校が新校としてできた覚えがあります。市民プラザの裏の住宅街に友達が住んでて、たまに遊びに行った覚えがあります~溝の口は、高校卒業するまでよく遊んでましたね~
社会人になって約30年、殆ど高津区に住んでいます。少しずつ溝の口に近づいています。30年くらい前は、再開発前で失礼ながら小汚なくて怖い街というイメージでした。最初の5年程は溝の口からバス20分だったため殆ど利用していませんでしたが、引っ越して徒歩15分くらいになったので少しずつ利用し始めました。再開発が少しずつ始まりました。20年くらい前にノクティとマルイができて街のイメージはガラリと変わりました。南口と北口が楽に行き来できるようになり便利な街のイメージに。しばらく梶が谷住人となり、ドアーズがコジマになり、市民プラザの前にユニクロとローソンができ、変化に乏しい住宅街が少しずつ変わるのを見守っておりました。第一公園の桜は場所取りするくらいには賑やかですよ。可能であれば戦前からの陸軍駐屯地とかのお話をお願いします。
出身者です! いやあ 貴重なお話ありがとうございます♪♪♪ 勉強になりました。
ドアーズ懐かしい…えげつない坂道登ってたなー。5丁目から6丁目に上がる坂も凄かった。毎日公園に行くために登ってたな。
お邪魔いたします。とても懐かしい映像でした。昭和50年頃、下作延に住んでいてバスで溝の口まで行き、田園都市線の溝の口駅に続く狭い商店街の中の布団屋さんで3ヶ月だけバイトしていました。乗り換えの人が通るので活気のある商店街だった事を覚えています。ヤストモは覚えていないんですが💦武蔵溝ノ口駅前には『味の大関』と言う元気の良い大衆酒場が有りましたね。
味の大関は夏場になると店前でウナギを捌いていて、それを見るための人だかりができていたという情報は目にしました。人気店だったのでしょうね^^
@@ojmm 当時は毒蝮三太夫さんがCMをしていました。
4店舗あったよもう潰れたよ
田都側溝の口からの商店街?飲み屋街みたいな通路ありましたよね!その中にあった赤とんぼと言うラーメン屋さんが好きでした。階段を下りると角に菊屋というお皿とかを売ってるお店があり看板の魔女が怖かった記憶があります。その細い道を通ると左側に販売だけの不二家があり進んで行くと二階か3階に不二家レストランがある通りに出る道ありましたよね?小さかったので記憶が曖昧なのですが、その商店街?は西口商店街入口付近じゃありませんでしたか?
@@mx3582 私も遥か昔の事なので記憶が定かじゃないんですが😅国鉄溝の口駅から田園都市線溝の口駅までの周辺は狭い路地に多種多様な商店がひしめき合っていましたね!あの頃がとても懐かしいです。
石原文具店は、石原文具BOXとしてノクティに残ってます!約10年前に引っ越してきたので、昔の姿を見れて嬉しいです!ありがとうございます♪
ヤストモ覚えています。武蔵溝ノ口側に時計屋さん、東急側奥におもちゃ屋さんがありました。たしかに乗り換えでヤストモ内を通っていました。歩行者天国は、現在のほぐし屋のある側だったように思います。東急ストア(マルエツ?)があるとことかな?うろ覚えですが。溝の口はかつて、ヤ○ザさんのシノギの場所だったので、なかなか開発が進まなかったと聞いています。西口商店街は、それこそ闇市の雰囲気を残す、乾物屋(?)や飲み屋があったと覚えています。怪しさ満点ですね。バスに乗るための抜け道になっていましたね。
ヤストモ懐かしいですね。立ち食いでよくラーメン食べました。ヤストモの右側に幹線道路、バスロータリーの順で歩行者天国の入口、その右にパチンコ屋、ゲーセン、タクシー乗り場の並び順でした。歩行者天国入ってすぐ左にゲーセンと向かいにマックがあり、更に進むとムサシボウルの道と交差しマルエツに辿り着きます。その交差点辺りに玩具屋がありました。西口商店街入口のお店で学生時代に菓子パンよく買ってました。火事で無くなってしまったのは残念です。梶が谷駅の駐輪場上のマンションは当時空き地で放課後野球した事もありました。ドアーズにも買い物やボーリングによく行きました。1ゲーム200円の手書きスコアが懐かしいです。その頃の梶が谷駅前はは東急ストア(サンジェルマン)不二家位しかお店がなくさみしい駅前でした。溝の口、梶が谷ともに駅前だいぶ変わりましたね。
98年から15年まで武蔵新城に住んでいて、溝の口、梶ケ谷の辺りはすごく馴染みがあり、すごくなつかしです!
中央通りにあった「味の大関」が懐かしい。
店前で「味の大関どどんがどーん♪」というような歌がずっと流れてましたね(笑
稲川淳二さんがCMしていたよ
面白い。商店街入口は、ほぐしやがあるところだったと思います。東急溝の口駅方向の横断歩道を渡ると、焼き鳥屋とケンタがありました。懐かしいですね。
懐かしい。小学校時代よく親と一緒に溝の口の長崎屋(今のドン・キホーテ)へバスで洋服を買いに行っていた。
40年ほど前まで溝の口駅近くの久本に住んでいたので、大変懐かしく拝見しました。私の家は武蔵溝ノ口から隣の武蔵新城へ行く途中の踏切を渡って久本神社の奥にありました。駅前周辺がすっかり変わってしまいましたが、商店街の映像を大変懐かしく思い出しました。久本小学校の同級生の石原クリーニングの石原君や不動産業の持田君は元気かな?私はその後茨城県の取手を経て今はつくば市に住んでいます。 貴重な映像を見せていただき本当にありがとうございます。
久本神社~谷風呂屋裏~大山街道との交差点まで道路が通って、お住まいだった周辺の雰囲気も随分変わりましたよ。お屋敷は公園になりましたし。酒屋さん(閉店)の辺りはまだ雰囲気が残っていますが・・・。
@@realfordf1865 酒屋は「あめや」でしたね。山の景色もすっかり変わったみたいですね。
1984年から91年まで溝の口を経由して通学しており、懐かしく拝見しました。何かの資料で1枚目のヤストモの写真は1968年頃、歩行者天国の写真は1978年撮影とありました。ヤストモがあった場所はご指摘の通り、東急とJRの間。中には「みづほ」というおもちゃ屋さんもありました。中央商店街の歩行者天国があったのも、ご指摘の道路ですが、写真の場所は現在ペデストリアンデッキとバス発着所になっており、かつての痕跡を見つけるのは不可能です。長崎屋も建物は1971年創業当時のまま、現在はドンキになっています。また、ドンキの向かいにある「プライム」ビルは、かつての緑屋百貨店。恐らく1960年代に建てらた、かなり古い建物です。さらに近くには、平成初期まで「溝の口映劇」というピンク映画専門の映画館がありました。駅前一帯は1994年頃から再開発が本格化し、97年にマルイとノクティブラザがオープン、99年にペデストリアンデッキが完成し、昭和レトロな街並みは完全に失われてしまいました。確かに私が通学していた当時の溝の口はガラが悪く、近寄りたくないので別ルートで通ったものでした。しかし今となっては、あの時代のアングラな雰囲気の溝の口が消えてしまったことに、寂しさを感じます。
詳細なコメント、ありがとうございます!91年頃というと、ちょうど僕が梶ヶ谷に引っ越した頃(小4)で、それから3年ほどで東京に戻って、中学生になってから神奈川の友達に会いに来たらキラリデッキができていてビックリしたのを覚えてます。ビックリしたということは、昔の溝の口も結構見たことはあるはずなのに記憶に残ってないんですよねぇ・・・悔しい・・・
梶ヶ谷駅。バス停で降りても駅がどっちの方角にあるのか見えませんでした。腰ぐらいまである草をかき分けるように何人かの人が歩いて行くので、狐か狸に化かされているような気持ちでついて行くと、忽然と駅が現れる。そんな感じでした。田園都市線の終点は長津田でしたが、鷺沼止まりの方が多かった。昭和51年の話です。ちなみに当時通っていた学校の先生(推定30代)は「自分が若い頃には渋谷に狸もいた」と言っていました。ジブリのぽんぽこを見るたびに思い出します。
昭和42年から平成9年まで旧府中街道と大山街道の交差点の近くに住んでました。武蔵溝ノ口駅前のパチンコナカノの金太郎焼きが美味しかった。小学生の頃、長崎屋の休みの日には店先でバナナのたたき売りや紅茶キノコ、ガマの油などを売っていました。西口商店街は現在よりかなり広く、大盛りで有名だった七福うどんや定食屋のハセガワに通ってました。駅前中央通りには毒蝮三太夫がCMしていた「味の大関」がありました。♪ 味の大関 ドドンと来い。スタミナもりもり ドドンと来い 味の大関 味 満点 ♪ 確かこんな歌だった
お邪魔いたします。とても懐かしいです。昭和56年頃まで住んでいました。(高津小学校卒業)ポレポレ通りの1本右の通りが駅前中央通りですね。入口の右側にゲーセンがありました。その先の両側に『たまい』?『味の大関』?がありました。『肉の恒川』はスーパーも経営しており地元の有名店です。『石原文具店』は『三田文具店』と並んで地元の有力者さんです。西口商店街(闇市)は昔の姿を残していますね。今も時々行きますが所々に昔の面影があり昔にタイムスリップします。有難うございました。
味の大関は他の方のコメントでも触れられてました。人気店だったみたいですね!
以前宮崎台に住んでました。溝の口の長崎屋の周りや西口商店街で一杯やって、梶が谷駅手前の急坂を登り、246を渡って徒歩で家に帰ってました。梶が谷同様宮崎台も飲屋がありませんでした。そうそう西口商店街が火事のとき、早朝東急線のホームまで火事の煙がただよってきたことを思い出しました。懐かしさの甦る写真や動画有り難う御座います。
昭和44年から武蔵中原の富士通に勤務して当時会社の独身寮が田園都市線の市が尾に有ったので溝の口は乗換駅で元住吉に引越すまで3年間お世話になりました。
懐かしい動画ありがとうございます。久地に84年から25年間住んでいました。動画内にあったヤストモと南武線との間の通路のようなスペースは東急大井町線が溝口どまりだった頃、そこに南武線に平行に大井町線のホームがあったと思います。高津方面からの線路が南武線にぶつかる形で90度南向きになって終点駅に入っていたと思います。久地方面からの南部沿線道路は以前は大山街道との交差点がT字路だったのでそこを左折しその先の溝口神社方面からの道路との交差点で右折して浜銀とエスパスの間の道へ出ていました。なので現在の田園都市線の駅下の道路は以前は無く、そのため西口商店街もエスパスの浜銀側からスタートし現在の南武線沿いの部分までずっと繋がっていました。いまより長くもっとヤバイ雰囲気が出ていました。現在は田園都市線下の南部沿線道路で分断されていますね。
「昭和100年物語」の高橋揚一です。興味深く拝見しました。ヤストモの意味が判明して50年来のもやもやが解消できてスッキリしました。昭和40年代には「ヤストモぇ」と表示されて小さい「ぇ」の意味はいまだに不明ですが。母親の実家が溝の口の近くにあって昭和30年代前半から知っていますし、50年ほど前の大学時代はそこに居候していたし、30年ほど前には溝の口にあった専門学校で数年間教えていたので、現在の姿になる前の溝の口を思い出します。推測による説明はほとんど正しいと思います。バスが2台収まるターミナルは武蔵溝ノ口駅の向かい側です。国鉄駅を背にして左にヤストモ入口があり、紹介された写真は線路側に自転車置き場に沿って道がありますが、30・40年代当時はその道にも屋根が掛かってヤストモは2本の屋内通路になっていました。石原文具店やアクセサリー店や玩具店などには両方の道から入れました。道は途中で合流してその右側の平地に当時終点だった東急大井町線溝の口駅があり、その脇から伸びているもう1本の屋内通路と合流して、火事のあった西口商店街に至りました。火事があった場所近くに南武線の狭い木道の踏切があって、駅裏に行くことができ、246下や上作延や神木方面へのバスは駅前のターミナルから出ても渋滞でなかなか進まないので、この踏切を渡って駅裏から乗った方が早かった頃もありました。西口商店街側から見ると、右に南武線踏切があって、火事の場所があって、その先が二股で右がヤストモ方向、左が東急大井町線溝の口駅の手前で北にカーブして向かう屋内通路で、線路と並行して自動車道路に至りました。東急大井町線は紺と山吹色の2色の塗装の古い車両の3両編成で、高津、二子新地前へと平地を走り、二子新地前で単線になって、現246旧道の旧二子橋の上を路面電車のように軌道走行して二子玉川園駅に至りました。大井町線二子玉川園駅の左には玉電と砧線の低いホームがあり、玉電は瀬田まで専用軌道で坂を登ってから246の中に入り、砧線は左に急カーブして246と平面交差して西へと向かいました。東急大井町線が溝の口で終点だった頃は、梶ヶ谷方面はほとんど全部山でした。現在従兄弟の住む母親の実家周辺には住宅が密集していますが、30・40年代当時は梶ヶ谷方面の高台が全部見渡せる田園地帯でした。大学時代に田園都市線が鷺沼まで延伸されて、鷺沼のプールには何度か行きました。懐かしい情報を有難うございます。
13:30 95~98年頃、高校の帰りにここの文教堂に通いました。パソコン関連の書籍が豊富でバックナンバーもあったりで、しかも文教堂の階までに確か3階だったかと思いますがパソコン屋さんがあってそこぶらぶらしたりと楽しかった思い出です。最上階が漫画関連でしたねぇ。
立喰蕎麦のラーメン、懐かしい。KSPの建設に携わっていました。30年前か・・・。
本当に変わりましたね。持田、島崎は同級生ですね。やすともストア、懐かしいですね。確かに朝鮮中、小がありました。鰻を店頭で焼いて流行った「大関」も先輩の店でした。コンコルド前の地価は一番高かったです。パンは美味しくてパウダーシュガーなどがかかっていて洒落ていました。また違う角度から動画を作って下さい。懐かしい動画をありがとうございます。
昭和36年生まれ 小学校は向ヶ丘 ヤストモの中のおもちゃ屋の前でひっくり返って泣いた口です おもちゃ買ってーって。懐かしい!
コメントありがとうございます!!昔の写真を見ると記憶が蘇ってきますよね^^
向ヶ丘遊園 学校の定休日に、モノレールで行ってました。懐かしいなぁ✨
70年代頃だと思いますが、確か溝の口近くに今で言うコリアンタウンがあったと思います。あと、どのあたりか失念しましたが、十字屋というマーケットによく買い物に連れて行かれてました。
コリアンタウンって放火のあった西口商店街のことじゃないですか?独特の雰囲気ですよね。火事になっても戦後に不法占拠した場所だから、立て替えできなかったと聞いたことあります。
初めまして。南武線の稲田堤駅付近に住んでいるものです。私は溝ノ口の川崎市立高津高校OBで、とても懐かしく拝見しました。と言っても、昭和46年(71年)卒なので、気の遠くなるほどの昔なんですけど(笑)しかしヤストモの由来には驚きました。「靖国神社友の会」の略称とは、思いも寄りませんでした。実は私、九段の靖国神社のすぐそばの会社に40年奉職し、時間が自由だったのでよく神社内の遊就館の茶寮「結」で、展示されている実物のゼロ戦の傍らでコーヒーを飲んでいました。高校生の頃から靖国神社とご縁があったのかと感慨深いものがありました。貴重な情報、ありがとうございました。
母親の実家が高津の駅近だったので電車で行く時は南武線で武蔵溝ノ口から田園都市線に乗り換えていました。なので溝の口は昔から馴染み深い街ですね。溝の口と高津の駅間は短いので高津の駅前でも住所が溝口です。幼い頃は母親の実家に遊びに行った際おじいちゃんにヨーカドーのおもちゃ売り場に連れて行ってもらったものです。とはいっても現在の場所ではなく武蔵溝ノ口駅から高津駅方面(動画のマルエツ方面)に向かった左側にありました。確か道路を挟んで2棟に分かれていました。今はマンションが建っていますね。
溝の口は再開発で大幅に変わってしまい、特にノクティ側は顕著です。大雑把なイメージとして南武沿線道路とケンタッキー脇の道が駅前で曲がりつつ繋がってて、そのカーブの途中に市営バスの折り返し所があり、脇に細い歩行者専用の通りがあり、それがマルエツと長崎屋❨現ドンキホーテ❩のある道だと思われます。幼い頃何度かいきましたが、子供心にも賑やかな通りでした。梶ケ谷はかっては日本陸軍の演習場の入り口でした。旧246号が梶ケ谷~馬絹間で変に迂回しているのも演習場を避けるためでした。青年の家のお化け灯籠とか軍用地の境界標などよくよく探すと戦時遺跡がのこっているかも。この辺りの話は"川崎市の戦争遺跡"❨?多分絶版❩に結構詳しく記載されてます。因みにユニクロ側の工事中の施設はごみ処理施設です。市民プラザの温水プールは処理施設の排熱を利用してると聞いた記憶があったのですが今はどうなっているのでしょうか?
75歳です。マルエツと長﨑屋の通りを駅の方に戻るとバス乗場があって隣には甘栗を売っていて中華店が2けんあり対面に味の大関、小鳥屋、呉服屋、末永、焼肉屋、山中屋等々思い出されます。
中央通りのくだりは、今の三井住友銀行あたりに、市バスのバス発着所があったんですよ。いつもバスはバックで入線してきたんです。懐かしい❗
懐かしい動画、ありがとうございます。おっしゃる通り、JR溝ノ口駅を背にして、ポレポレ通りの1本右の通りが駅前中央通りだと思います。ずっと行くと、高津駅方面の。入ってすぐ左?にゲーセンがありました。写真の57年のヤストモ時代以降にも、中央通りはありました。60年くらいに高校生でしたが、部活の帰りにゲーセンに通った覚えがあります。中央通りのさらに一本右の通りに、ヤストモの中にあった、ツネカワ焼肉(あまり覚えていないのですが。結構通ったラーメン屋があった気がします。)の系列なのか、スーパーのツネカワがありました。一戸建ての店舗で。今は、マルイの地下に出店しています。亡くなった母親が、「ツネカワの肉はいい!」と言ってましたw そのツネカワの跡地にマルイが建っているような気がします。今はマルイの駐車場入り口付近かな?ヤストモは、大きい平屋のアーケードでした。JRから行って、入り口の右側に本屋、左側にスギザキ時計店があった気がします。そこを抜けていくと、今は駐輪場になっていますが、田園都市線溝の口駅前につきます。その駐輪場の左側は昔から変わりませんが、細い路地なっており、右手にJRの上を通る歩道橋、左にずっと進むと、西口商店街=昔の闇市跡。ヤストモがなくなりスギザキは移動します。スギザキ時計店の本店は、住友銀行のビルの隣の杉崎ビルにありましたが、今は閉店し、ノクティに入っているそうです。また、石原文具店は、マツモトキヨシと溝ノ口郵便局の細い通りにあり、三田文房具店と道を挟んだ向かいにありましたが、石原文房具はノクティーに小さな店を残し、三田文房具店は姿を消しました。石原文具の社長が、ヤストモ=傷痍軍人の働き場所を作ったみたいですね。勘違いかもしれませんが、子供の頃に石原文具店に行くと、兄弟?親子?の方がよく案内してくれました。若い方の方は10年くらい前までは、いらっしゃったような気がします。石原文具店は今は、木目調のレストランになっています。マルエツ(昔、サンコーとか呼んでいたw)のある周辺について、マルエツは今のスターバックスのところにもありました。文教堂書店は、今の建物の向かい、今は携帯屋かな?のところにもありました。入り口に不二家のケーキだけ売っている小さい店がありました。その建物の3階か4階に私が通っていたラサール進学会(今の名称はラサール進学予備校)という塾がありましたw 今はもうないですが。
すごい!!!貴重な情報をありがとうございます!駅前中央通りの予想が当たっててよかったです^^
@@ojmm この前、ノクティに行ったら、ツネカワは無くなっていました。。。
JR溝ノ口駅前中央通り角にナカノ(高津駅前にもあり)東急から出てすぐのヤストモの所にツバメ、東急のガード下にこがね会館があり登戸駅前のいこい、玉の家その他大半がキタの資本で登戸の再開発でできる最初のも系列です。パ屋
ワシは現在溝の口で遊んでる者です!良く楽園で打ってるかタイトーを利用してます!昔の事全く解らんかったので助かります!
そう言って頂けてよかったです^^ 溝の口は便利なところですよね~
大型マンションとイトーヨーカドーが出来た頃、化粧品売り場で働いていました。まだマルイ、ノクティも全然ない時代だったので、駅から離れたイトーヨーカドーでも、沢山の人が来ていましたね。日曜日はにぎわってました。最近はだいぶ活気がなくなり、悲しいですけど、大規模マンションを当時買われた方々も70代から80代かと思われます。ありがとうございました。
溝の口の高津学校に通ってましたが、梶ヶ谷方向の帰り道に自転車で急坂を上るのがつらかった思い出がありますね。梶ヶ谷第一公園で花見もよくやってました。
昭和58年ぐらいに西口商店街の中にたしか「七福」という名前の立ち食いうどん屋がありました。200円ぐらいで超大盛にしてくれたおばちゃんをよく覚えてます。高校の部活帰りでとても有りがたかったです。懐かしいです。
かなり昔ですけど、旧文教堂が入っていたビルの2Fとそのすぐ傍のマルエツ(長崎屋だったかな?)の1Fに不二家レストランがありましたよね。マルエツ側のほうは当時としては珍しい店内通路に沿ったカウンター席という造りでしたが、両方ともよく行きました。マルエツ側の不二家レストランの、ちょっと味が濃い目だけどもさっぱり風味の醤油ラーメンが大好きでした。
不二家があったのは、(旧)イトーヨーカ堂では?
@@okachan923 確か角に不二家レストランありましたよ
@@hyahhaaaaaaaaaaaaa さんマルエツではなく、現在の大戸屋のところですね。文教堂の書店(現存せず)の隣で間口が狭い店舗でした。最後は売店のみで、その後、現在のケンタの隣に移転しました(現存せず)。その頃のイトーヨーカ堂のカウンター式のレストランは閉店してました。→間違いがあったらご指摘ください。
ヤストモ懐かしい。この中に立ち食いソバやとか、サーティンワンもあったな。このJR溝の口側の出口出たところにコンコルド(今は丸井の中)があった。
その立ち食いでラーメンを食いながらテレビのナイターを見ていたのだが、甲子園の対巨人戦で伝説のバックスクリーン3連発を目撃して唖然とした記憶があります。
バス停留所の隣にあったよ
アーケードの名前は知らなかったけれど、東急側から入ると左側が八百屋さん、右側がアクセサリーショップで本真珠のイヤリングを安くして貰い買った覚えがあります。国鉄側には、東急側から行くと、左側が文教堂本店、右側が時計屋さん。東急の駅の下には、銀行と東光ストアがあって、途中、道路に分断されるけれど、高津中央病院のそばまで繋がった長いスーパーでした。写真の左側に小屋の様に建っているのは、東急の駅前売店で、左の建物が下がパチンコ屋さんで、上にレストランがありました。駅前中央通りは、国鉄側から今のマルエツに行く通りで、右手にレコード屋さん、金魚も売っているペットショップ、味の大関があり、左手は何十件もある飲み屋街で、付け火の火災により、駅前が再開発されました。西口商店街にも文教堂がありました。私は1963年生まれですが、梶ヶ谷駅の廻りは、何も建ってなかった。単なる草むらと山です。住宅もなかった。ドアーズの前は、梶ヶ谷ボールという、ボーリング場でした。私は3歳~9歳まで、梶ヶ谷字金山という山のてっぺんに住んでいました。父が29歳で建てた木造建築2階建ての家が宮崎台の駅から良く見えました。それだけ高い建物が無かったんです。買い物は、溝の口まで車で行っていました。十字屋のお婆ちゃん(創業者)が懐かしいです。
>梶ヶ谷駅の廻りは、何も建ってなかった。単なる草むらと山ですご近所さんは昭和50年ころまで、梶ヶ谷駅周辺で牧場をやってたと話してたけど、そんな場所だったんですね
味の大関 懐かしいです。私も1962年生まれで高校時代電車の乗り換えに溝の口を利用していました。
戦後がそのまま残ってる感じで駅前商店街は迷路のように成ってましたね。懐かしいい。
高校生時代に田園都市線を利用していましたので興味のあるお話でした、さて当時の記憶を振り返りますと溝の口中央通りはご案内いただいた道で合ってるかと思います長崎屋跡地でドン・キホーテ(メガドンキホーテ)になった所は他にも沢山あります、開発前はJR駅前(今よりわずかに津田山寄りです)まで来ていました、通りを高津方向に少し歩いた所を右に少し入るとに溝口中央通郵便局(当時の名前は溝口郵便局ノクティ内に新局が開設された時に改名)があります。西口商店街は、東側はバス通りから田園都市線に並行して現在地まで長いアーケードで繋がっていました現在残っているのは1/3くらいかと思います、ちょっと薄暗い感じですが今そのまま残っていれば有名になっていたかと思います、再開発でできた道で東側が分断されて消滅、さらに放火で西側も一部消滅で現在に至ります、水路の上の建物は違法建築だそうで市と揉めてたようです、闇が有りそうな話です、田園都市線が延長開通してから10年くらいは溝の口と梶が谷では雰囲気がまるで違い別世界でした、今では想像もつきませんね。一部文献では田園都市線の前身である玉川線が駅前で急カーブを切り南武線前に付けていた当時の路線駅跡がヤストモの場所だと記述があります。大井町線に併合された時に現在地に変更になったようです。
貴重なコメントありがとうございます!西口商店街、そんなに長かったんですね。再開発前の駅には何度も行ったことがあるはずなのに、ほとんど思い出せず・・・汗 西口の放火については私も闇の深さを感じます。。
マルエツ(昔のサンコー)の一階にあるカメラ屋さんで働いてました。靖友はJR駅から田園都市線へ向かう道にありました。
サンコーがダイエー系に買収されてマルエツになったよ駅前にもあったよ2店舗あったよ
懐かしいですね。1985~1987年まで梶ケ谷小学校付近に住んでました。当時はまだ丘陵面に畑が残っていてのんびりした雰囲気でした。ドアーズでは引っ越したときに家具を買いました。東急ストアはちょっと遠いので普段は近所のマンションの一階に入っている個人商店で食品を買ってましたね。
57ねん頃の姿が 昔偶に見ていた姿。懐かしいなぁ😭
ヤストモに入っていた持田写真館のお嬢さんがおきれいだったんですよねー!思い出してしまいました。
ここの店主が父の知り合いで、よく利用しました。
1990-1993に住んでました。西口商店街がそのままのようで嬉しいです。ディスカウントショップのプライス、ヨーカドー、長崎屋、東急ガード下の東急ストア、その東急ストア近くにある十字屋(という市場みたいな食材店?)によく行ってました。JR武蔵溝の口の駅舎は、川崎方面に向かう車両の前の方にあって、駅のホームも狭かったので、平日朝のラッシュ時は、東急線に近い側に臨時改札を設けていたのをよく見かけました。
当時から電車が混んでたんですね。。僕は10年くらい前まで梶ヶ谷にいたんですけど、二子玉川あたりで、降りる人のために気を使って一旦ホームに出たら、混みすぎで電車に乗れず、次の電車を待つ羽目に・・・ということが良くありました。。
確かに中学高校時代東急溝の口駅を利用したがヤストモの語源は分からなかった。ヤストモには正文堂書店、プラモデル屋、回転寿司、時計屋など個性的な店があった。一番印象に残っているのは東急溝の口駅の看板TKK何か威厳があった。溝の口駅は再開発される迄は東西が分断されていて溝の口の駅のバス停までは踏切を渡らないと機能しなかった。
今のマルエツのあるあたり僕がまだ小学生の頃サンコーというスーパーがありました。近くにはミドリヤがありました。 何故か静岡銀行がある。僕は東急田園都市線の鷺沼からバスで行った所に住んでいました。
ヤストモには東急側から入って左中ほどに回転すし屋があった記憶が。溝の口は東急の改札降りて広場の左角にサーティーワンがあって、その横の小道入っていくとケンタッキーがあって、現ポレポレ通りがメイン通りっぽかった。ケンタッキーと対面のはんこ屋は今と同じ場所ですね。マルエツの裏の肉屋(タナベフーズだったかな?)の独特の匂いと高津中央病院の手前のゴミ溜め(?)が臭かったのが印象的。梶小の近くには金子文具店と持田文具店がありましたが、今は無いみたいですね。今の子供は名札や帽子は何処で買うんだろう。。かつて梶小の体育館の横に小山があって懸垂式のコースターがあり人気でしたが、けが人も1人/年くらいはいました。懐かしいですね。
☻小学校は久本、中学校は西高津、高校は高津、バイトはプライス、母はマルエツでパートと生粋のミゾノクチャーです。えちこのお母さんは私の幼なじみのお母さんで、幼少期に幼なじみのお姉さんとおままごとしました。えちごの前には豆腐屋があり、良く買いに行ってました。その並びにはお肉屋さんがやっていた焼き鳥屋さんがあって、1本40円位で、親に20本買ってこいと言われて買いに行きました。懐かしいなぁ。
阿夫利神社のそばに住んでいます。これからの季節、紅葉も綺麗ですよ。コロナでなければなぁ…
自分も、溝の口30年→伊勢原30年です^_^
溝の口は旧国鉄のチッキの荷受け駅だった記憶があります。大学の寮に入寮するときに荷物を取りに行ったことあります。昭和53年当時はまだ、駅周辺はビル等はない、ひなびた駅だった記憶があります。
今の餃子の王将あたりに窓口があって、保線車両が時々止まっている線路が名残でしたっけ?母の実家の山形からおがくずに埋まったリンゴ送ってもらったの受け取りに行った記憶があります。
@@realfordf1865 古里は遠きにありて想うものですね。
Old Japanese Memoriesって、複数人で運営されていらっしゃるんですね個人的に、伸びてほしいチャンネルです
唐突に地元流れて来てびっくり地理は分かってても歴史についてはそこまで知らなかったので知れて良かったです。石原文具店はおそらくイシハラi-boxとしてまだ残ってますが本店も閉店になり残すはノクティ店のみになりましたね、、、
石原商店の本店が閉店時に先代のオーナーおばちゃんに挨拶したよまだ形を変えて残っているから嬉しいですよ
大山街道の高津・溝ノ口から長津田の間では、江田(荏田の宿)は宿場町でやや大きな町でしたが、それ以外は農村地帯。駅前の東急ストアはしばらく存在しなかった。
昔あったこ汚い雑店舗ヤストモは、靖国神社之友の略称ですね。総合高津中央病院の入り口辺りにも似た感じで目方売りしている様な店が結構ありました。パチンコ屋も亀屋会館があったバス通り沿いにキングとエースが姉妹店であり良く行っていました。亀屋会館の駅寄りの向かい側はガソリンスタンドでした。夜になると電飾のチャリンコにラジカセを載せ、演歌を流しながらその辺りを通る変なおっさんを良く見掛けたものです。何故か溝ノ口には、藤下歯科病院、高津には眼科津田病院という単科の病院までありました。少し離れますが、金沢文庫駅東側の国道16号沿い泥亀2丁目に上が住居、下の2階が雑店舗のユニオンセンターというのがあり、ここでも煮干しや乾物を目方売りしていました。蕎麦屋でメニューに無い物を作って貰い店主と相談して適当に値段を決めて昼飯を食べた事もありました。横浜の野毛地下街の店舗も少しこ汚いですが昭和の面影が残るユニークな店が結構あります。
これを読んで溝の口が避けられていた理由が分かりました(笑 ↓> 夜になると電飾のチャリンコにラジカセを載せ、演歌を流しながらその辺りを通る変なおっさんを良く見掛けたものです
高校、大学と溝ノ口を乗り換えで使ってました。国鉄南武線の駅前にあったバス停と奥に伸びる道路(旧長崎屋へ通じる通り)の脇に、あいまいな記憶ですが、今川焼焼きみたいなのを機械で作るお店があってガラス越しに見えた記憶があったのですが・・・・主様の動画内でそれが映っていたらなーって思ってました。記憶違いかもしれませんが、子供ながらに「すげーな!」って思ってました。昔の溝ノ口の様子がわかり大変懐かしい気持ちでした。そういえばヤストモの中に部活帰りに良く寄っていたラーメン屋さんがあって美味しかったな。
確か「甘太郎」って言う名前だったと思います。
手前の蟹ヶ谷行きのバスを待つ間、特に冬によく買いました。子どもの頃は私も顔をくっつけて眺めたものです。ラーメン店は私も常連でした。何もかも、みな懐かしい…😅
文教堂は、南武線沿線に店舗展開している書店ですよね。1987年から数年間新城に住んでいたので、溝の口はよく使いました。南武線を降りて、246沿いの職場へ通ったのですが、西口商店街通っていたと思います。小さい店や立呑みのおみせなどもあった気がします。
ヤストモありましたねぇ超懐かしいです、確かに用もなく中を素通りしてました。丸井も当時は影も形もなかったですね。
ヤストモ商店街は懐かしいです。昔はよく父母と買い物に行きました。ヤストモの隣には確か古いパチンコ店があって父とよく打ちに行きました。ドン・キホーテが昔は長崎屋でよく買い物に行きました。僕は世田谷の等々力に48年住んでいたから電車でわずか10分くらいの溝の口は懐かし過ぎる。
懐かしい風景w中学生の時、部活で練習試合に行くときの集合場所が溝の口の時は、ヤストモの中にあったドムドムバーガーでよく友達と朝飯食ってたな~w後、駅の真向かいにあった石原文具店の2階にガンプラ売ってたからよく買いに行ってましたね。
ヤストモじゃないよ武蔵溝ノ口駅改札過ぎて暫くして南武線沿線商店街だったはずいずみやからドムドムバーガー🍔までだったよ今でもあるよ商店街だよ
私も石原文具店には新発売のガンプラをチェックしに行ってました!近隣であの売り場ほど充実しているお店はなかったので、いつ行ってもワクワク感がありましたね!!
高校を卒業(昭和37年)し東芝に就職して、初めて関東方面に本社があって医療機器の製造していてメンテナンス業務のための機器の実習工場で据付・修理を勉強しました。工場が移転するまでの間で通算して約3年位いました、思い出が詰まった場所 溝の口です。
私は梶ヶ谷の隣の「宮崎台」に有った小さな会社に勤めていました。その様な訳でこの動画は凄く懐かしかったです。
1970-2000位まではよく溝の口に行って居ました。確か1975辺りに長崎屋が開店してマルエツ旧サンコーが駆逐された時代、この時の長崎屋は凄まじい物があった。買い物をするのも長崎屋のイメージがあった。私の印象に残っているのは長崎屋の5階のおあしすというファミリーレストランとその隣りの家電屋さん当時1979辺りにレーザーディスクで山口百恵さんのさよならの向こう側を流していた。
溝の口西口商店街、懐かしいです昔、『サンレッド』と言うアニメをよく観ていて 敵のヴァンプ将軍の声がお笑いのひげ男爵だったのを覚えています。
コメントありがとうございます!サンレッドは存じ上げませんでした・・・m(__)m
漫画であったよねお笑い漫画
溝の口駅前商店街はポレポレ通りの事ですよ!
ポレポレ通りと中央通りXで交差しているよ今でもそうだよノクティ側が中央通り商店街だよ高津駅の近くまでだよ
溝口を取り上げてくださり、ありがとうございます❗旧府中街道と大山街道の交差点は、はす向かい同士に新聞店のある小さな交差点で、近くには高津町役場(→川崎市役所高津支所、現大山街道ふるさと館)があり、鉄道開通前はこの辺りが街の中心部だったようです。今とは違い、大山街道沿いには多くの商店がありました。それと溝口の再開発はなぜか火事と縁があります。ヤストモの八百屋さんのボヤも、ある大きな家具屋のあった建物も放火されて全焼した(犯人の家は実家の近くで、車のカバーにも毎週のように放火された)。旧住友銀行の裏(パチンコの換金所があった)のボヤも放火、そして極めつけは西口商店街の火災で、ここにあった魚屋の前の箱に放火された。ここは闇市由来の不法占拠地で、火災後はさっさと市が整地してしまった。あと火事ではないが、今の東急ストア前の横断歩道辺り、小さな文具屋があったのですが、ここは強制執行で取り壊され、マスコミが多数来ていたのを覚えている。20:28 の左に行くと焼き鳥屋があり、煤けた感じがいい味を出してる。何年か前に「きたな美味い店」でノリさんと有吉、そしてPerfumeの3人が現れたのには驚いた。まだまだ溝口のことは語りきれません…😅
20年くらい縁がある土地なので楽しく拝見させていただきました。
40年以上前 友人が南武線の久地駅に住んでいたので 溝の口商店街をよく利用していました。竹脇無我さんのCMで有名なサンバード長崎屋でスーツを買った想い出があります。歴史的 地理的 説明ありがとうございました。
雨の日はここ抜けて東急まで傘無しで抜けてきました。中にラーメン屋さんあった記憶お袋にねだって食べた記憶なつかしいです。54歳
駅の北口から出て武蔵新城方面の線路沿いにも、狭い通路の両側に小さい食料品店が密集してあったような気がします。40年くらい前に高校生のときによくそこを通りました。
文教堂は東急溝の口駅の2階にあった記憶があります。ヤストモや市営バスがバックして停留所に入っていた景色も思い出せますね。中央通りにはうなぎ屋さんがあっていい匂いが立ち込めていましたね。
16:41私の記憶が確かならば、今のコインパーキング(画面左)に映画館があったはず。とってもハレンチな映画ばかり上映していました。
マツキヨの所だと思います。当時は各駅に映画館がありました(新城駅も高津駅も)。
ピンク映画館ありました!中学生だったので入れなかったけど😅
イトーヨーカドーが出来たくらいまでは、ポルノ映画館が残っていたと記憶してます。子供だったので、気になりつつも目線を逸らしてましたね😅今で言えば、AVのパッケージがそのまま表通りにポスターで掲げられているようなものですから、現在の人には信じられないでしょうけど。
まさかの同じ小学校で近所に住んでいました。小学生の頃はよくマンションの公園や市民プラザで遊んでました!
溝22系統蟹ケ谷行きバスの沿線で生まれ育ち今もその近辺に住むアラ還です。ヤストモの店舗一覧で「恒川焼肉店」と見てハッとしました。ノクティ出来てからしばらく地下食料品フロアに入っていた、ちょっと高級なスーパー「ツネカワ」···このお店の名前がどうしても思い出せなかったんですよ。焼肉店はそのスーパーと縁があるのでしょうか···溝の口で恒川さんなら、あるんでしょうね(笑)。スーパーツネカワはノクティが出来る前は昔職安があったそばにあったような記憶が。母が好きでよく行ってました。蟹ケ谷行きバスは京浜交通のタクシー乗り場(何やら建物の中からタクシーが発車してきた)の前にバス停があって、待っていると金太郎焼の無愛想なおじさんが焼く様子をガラス越しに見るのが子どもの暇つぶしになり、「味の大関ドドンと来い♪」というお店の曲に洗脳され(笑)大関のお店の前まで行列が及ぶとバス1台に乗りきらないなぁと諦めたものです。コンコルドと和菓子店青柳が市営バス乗り場とヤストモの間にあったような。青柳さんは久地で今も営業中。生クリーム大福が食べたくて行ったら「思い出して溝の口から来て下さるお客様もいらっしゃるんですよ」とのことでした。ああ、懐かしい···。本当に懐かしい動画をありがとうございました。
二十歳の頃に横浜の運転試験場の近くの実家から溝の口の住宅機器販売会社までロードバイクで通っていました。今で言うKSP(かながわサイエンスパーク)がっ建設中で毎日パイプやボルト・ナットなどの部品を届けていました。当時は第三京浜の渋滞が酷くて車で通勤しても1時間ちょっとかかりましたがロードバイクで50分で通っていました。私の体力の基礎を作った時期でした。長崎屋懐かしいです。昔の溝の口の面影は全くないですね。。
私の記憶にある駅舎はここで紹介されている駅舎ですね今のようなブレイクダンス広場になる前梶ヶ谷駅付近は末長小学校へ向かう谷地はむかし田んぼでしたが新作小の付近は畑です新作小学校はかなり最近開校しているので生まれが10年前でしたら橘小学校か末長小学校でした私は10年遅ければ末長小学校ではなくて新作小学校に通ってました
貴重な写真ありがとうございます!40年くらい前ヤストモの回転寿司行ってました二子玉川しかりすっかり変わりましたね
再開発前の武蔵溝ノ口駅前から中央通り商店街、今でもハッキリ覚えてますね〜先ず栄橋方向へ抜ける鹿島田菅線(今は南武沿線道路)が通っておらず、バス通りはケンタ前から駅前の餃子の王将方向へ向かい今店前の細い一通(昔はもっと広く二車線)から南武線沿いに通ってました。今栄橋側にあるカレーデリーさんは、丁度ケンタ前の信号駅側へ渡る横断歩道、道の真ん中辺りにお店がありました。映像中に出てくる中央通り商店街の入口は、駅前交番、バス・タクシーが出入りするキラリデッキの下辺りが入口。一般車の一通入口辺りに金太郎焼き、ローターリー内の植え込み辺りがバス発着場と天津甘栗。キラリデッキ下、マツキヨの辺りは東急溝の口駅への連絡通路。真ん中のバス停から自転車置き場辺りがヤストモストア。現在スタバの入る商業施設は、文教堂の更に前は、ダイエー(道を挟んだ現マルエツも)カラオケ屋とダイソーが入るビルは緑屋、現ドンキはサンバード長崎屋、てんや家系ラーメン、ファミマがある場所は、移転する前のイトーヨーカドー、現文教堂本店は家具屋(大正堂だったかな?因みに全国にある文教堂の本店が溝ノ口のあのお店)でした。
かめや甘味処、ダルニー、サウナフィンランド、焼肉苑😊
焼肉苑はまだあるよ移動して二ヶ領用水の堀沿いにあった店舗懐かしいですね
溝の口から梶が谷へは坂道不可避です。特に馬坂って道は急勾配で狭い道なのに一方通行じゃない。積雪したらFR車じゃ・・
馬坂は通学路でした😱整備される前は雑木林で覆われていて、昼でも薄暗い場所だった記憶が。。。ヘビとかよく出る場所でしたね。しかも、斜度26%って、そうそうあるものじゃないね。
確か、やすとも百貨店の通路は2本だったような記憶があるなあ、入口には時計店があったなあ。
ヤストモの商店街は店舗のある建物の中と、南武線寄りの外の通路がありました。雨の日は中を、それ以外は混雑するので外を歩いて武蔵溝ノ口駅に向かっていました。現在のバスターミナル、薄暗いマツキヨのある辺りです。
懐かし、、昭和55年~平成7年まで梶ヶ谷に住んでたので、メイツレーン梶ヶ谷(ドアーズの前身で、1、2Fともボウリング場)。溝の口は、長崎屋、ヨーカ堂、サンコー(マルエツの前)、石原商店(文房具屋)、緑屋、ダイヤンスポーツ、スギザキスポーツがあったような、あと西口商店街に小さい踏切もあったような、、
超地元話ですわ。飲みながら語りたいネタだよねえ
(2022年9月16日投降)1967年(昭和42年)頃だと思う、近くに、立正(りっしょう)幼稚園がありました。立正女子大学附属 溝ノ口幼稚園?。" 立正女子大学 " ≒今の " 文教大学 " の前身かと思う。" ・・・立正・立正・日本一の、立正の子供は、良い子供 "という園歌であったと思う。
懐かしい写真ありがとうございます。88年~92年迄の4年間東急線で溝の口に通い、転勤で三十年振りに戻って来たら駅前が変わっていて驚きました。学校へ行くのにヤストモを通って武蔵溝ノ口駅へ行ってましたよ。あのごちゃごちゃした感じが好きだったので今の小奇麗な街並みが少し残念な気がしています。もし溝ノ口西口商店街に行かれる機会がありましたら和菓子屋玉川堂さんに行かれてみて下さい。
梶ヶ谷って結構、田園都市線の端っこの駅だったんですね。自分は家には田園都市線の方向幕に「梶ヶ谷駅」行きがあるんです、今でも電車基地の名残が残ってます。この時代か?今では中央林間や長津田行きしかない。
モロ地元のネタW。昭和50年代に投稿者様が住んでいたマンションの敷地がまだ空き地だった頃、少年野球の練習で使わせて頂いた記憶があります。誠屋クリーニング前のマンションや田園ステーションの場所も空き地で野球グランドとして使われていたかと。(まだサッカーは人気がなかった)ユニクロの場所は運送会社の倉庫でした。市民プラザ隣の工事現場は橘清掃工場の建て替え工事ですね。新作小学校を見守っていた煙突も現在はありません。(また建ちますけど。)あと市民プラザ通り周辺のえげつない崖下に建っているマンションの場所のうちいくつかは高度成長期にセメントの原料となる砂を取る為に丘を削った跡だったりします。(その名残でセメント屋があったり。)長文コメ失礼しました。
ヤストモの語源が面白い。Google Earthを使った説明が分かりやすくてカッコいいですね!
昭和47年から9年間有馬、瀬田、最後は溝口西口のアパートに住んでいました。当時は、交代勤務でしたので西口の定食屋に通っていました。非常に懐かしいのですが再開発以前の動画がありましたらお願いします。その後は、茨城県にUターンしました。
平成26年3月まで勤め無事に定年退職しました。再雇用しないで別な勤務先を見つけ臨時職員として、6年間勤めて終了しました。
溝の口に1965年から住んでいるものです。懐かしい画像ありがとうございます!
投稿にも紹介されていましたが駅前商店街の入り口に金太郎焼き(今川焼)があり、
長崎屋、サンコー(今のマルエツ)があり、その道は高津駅まで続いていました。
今は丸井の中にある焼き立てパンのコンコルドがヤストモ百貨店の駅側にありました。
ポレポレ通りと名前が付いたのは最近のことで昔は左手に平瀬川という川があり
川沿いに映画館や居酒屋等が軒を連ねておりました。
西口商店街は元々闇市だったのでどぶ川の上に店を出していたのですが、
時代が変わっても立ち退かなくてお役所の悩みの種だったみたいです。ははは。
私のような古くから住んでいる者にとっては火事になったのは残念ですね。
昔はそこら中どぶ川だらけだったのが全部地下に埋められてきれいな街になっちゃいましたね。
これも時代の流れなのですが、時々昔の街並みを懐かしく思う時があります。
子供の頃、新城(千年新町)に住んでいまして高校生になって高津に越してからは、ずっと溝ノ口が私のホームタウンになりました。昔は余りキレイな街では有りませんでしたが買い物には便利で新城に住んでいた頃から良く買い物に行っていました。
マルイとノクティができた頃から開発が進み今は、とてもキレイな街になったと思います。
私は現在スゥエーデンに住んでいましてコロナの影響から中々、里帰りが出来なくてホームシックにかかっているのですが、この動画を観て益々ホームシックになりました。早く里帰りしたいです。
えええ?もと千年新町民デンマーク住みです。このアルファベットは北欧!と思ったらやっぱり☆し、知り合いですかねぇ?
昭和33年生まれで遊園に今も住んでいるので、少なからず溝の口の記憶があります。溝の口は安いというイメージで、買い物に連れられてバスで帰るというコースでした。あのアーケードのヤストモの名前は知りませんでしたが、なぜか傷痍軍人さんが白い浴衣と軍隊の帽子をかぶってアコーデオンで寄付を募るための歌を語って、道端に立っていた姿を思い出します。靖国の関係ででしょうか。新城方向から来た道は今のようにまっすぐ通っていなくて国鉄武蔵溝ノ口駅前で広くないバスターミナル(又はタクシー乗り場)に挟まれ、さらに細くなって溝口バス停方面(北)に折れ曲がりバスや車でごった返していました。ほとんどマヒしてるような感じで。遊園駅に行くバスが定時で走ることはなかったぐらいです。バス広場はアーケードの北隣であのにぎやかな中央商店街通りが溝口バス停方面(北)に続く道ではないかと思います。こんなに狭くてよくバスが通れるなと思ってました。ドンキから高津駅方面やヨーカドー方向の道はそんなに賑やかではない記憶です。大山街道今の246は昔から交通が盛んで、それに続いたのが中央商店街だったからだと思います。再開発で今のようになる前は、ビルというほどのものはありませんでした。57年にできたという駅で切符を買った記憶があります。多摩川の河岸は平地で昔から家や田んぼが広がっていて、丘陵地帯は、今でこそ隙間のないほど家が立て込んでいますが、当時ほとんど開発されていませんでした。小田急線より開通・開発が遅かった東急田園都市線沿線ですが、東急が悪いのか市が悪いのか、田園都市線と同時に、どうしてもっと広い道にしなかったのかと景色を眺めながらバスに乗っているといつも思います。登戸・遊園はいまだ開発が進まず、買い物は溝の口、スパ銭やジムは新百合・麻生区と結局多摩区外に行ってしまいます。まさか昔の溝ノ口が見れるとは。懐かしい映像をありがとうございました。忘れかけていた記憶が甦りました。
再開発直後よりずっとこの街や二子周辺を転々としながら住んでいます。
表記ブレの背景について同人誌を書くときに、この街の歴史についてはいくらか調べましたが、あの場所がどうだった、今はこう、といった視点で見ていて視野が広がったような感覚です。
この表記ブレの中で「溝口」は川崎市編入後、「溝ノ口」は編入以前に地名として使われているので、特徴的な「溝の口」について掘り下げさせていただきます。
江戸時代の文献にもこの溝の口表記は登場するようですが、現在使われている溝の口はおそらく1966年の田園都市線開業(実質旧大井町線延伸・改称)時の駅名が興りであると考えられます。
前身の玉電時代は、溝ノ口線という軌道線として「溝ノ口電停」(当時の地名が溝ノ口だったため)を名乗っており、東急に継承されてなおしばらくの間そのままの駅名で使われていました。
多摩田園都市開発が本格化し、その象徴的な路線となる田園都市線の溝ノ口~長津田開業に合わせ、自由ヶ丘や鵜ノ木など「ノ」や「ケ」が入る東急の駅名は全て、ひらがなの「の」「が」に改称されます。
『多摩田園都市 開発35年の記録』には、田園都市線駅名の検討材料として2つの条件が記されています。
・「駅の所在地と関係があり、駅勢圏のシンボルとなるもの」
・「語呂が良くて親しみやすく、他に類似のものがないこと」
恐らくカタカナをひらがなに改めたのは、多摩田園都市のブランド戦略の一環なのではないかと思われます。最もこの思想を表す駅名といえば、たまプラーザ駅ですね。
また梶が谷駅も開通前の仮称は「梶ヶ谷駅」だったといいます。
田園都市線だけひらがなにするというのも統一感がないと考えたのか、他の路線も一気に改められて今の東急ブランドを形成しています。
私も「溝の口」という表記は一番好きです。地名が「溝ノ口」だった時代に一通りの駅設置が済んでしまい、「溝口」の時代に突入し、多摩田園都市の入口として「溝の口」ブランドが登場。表記揺れの経緯としては、このようなものになりますね。歴史が交錯しあう複雑なこの状況は、溝口ならではの現象だと言えます。
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近年の溝口はユニークな店舗がどんどん店を閉めていて、少し寂しさを感じるところです。
ヤストモに入っていたテナントは、ここ20年を見ても溝口のスター店舗が集結した夢のスポットのように感じます。
石原文具店は今で言うイシハラi-boxになりますかね。
昨年2月、島崎商店ホームセンター(こちらもこのあいだヨーカドー前に移転)隣りにあった本店が閉店してしまいましたが、今でもノクティ店が残っています。
本店1階は文具やOA用品、レジや帳簿、はんこといったビジネス系、2階は画材やプラモデル、モデルガンなどを取り扱っていました。
特に2階が夢の宝島のようで、溝口の中でもトップクラスに好きな店でした。
カメラのモチダ(持田写真機)はヨーカドー前、労基署の隣のビルにありましたが、今は証明写真機が置いてあるだけでテナントは別の業種になったようです。
不動産の丸貞のトップが持田氏と言うそうで、駐車場やらなにやら多業種にわたって持田の名字が出てきますね。カメラのモチダもこちらの持田氏と関わりがあるのでしょうかね?
島崎文教堂は今や言わずと知れた大手書店チェーンとして成長した文教堂ですね。先述に触れた島崎商店との関係を勘ぐりたくなりますが、こちらは偶然でしょうかね?本店4階は文房具を取り扱っていて、かなり品揃えが充実しています。
ドン・キホーテは長崎屋の現旗艦ブランドですので、企業としては長崎屋のままドン・キホーテに業態転換をした形です。ドンキらしく通路はせまくなりましたが、当時の面影をうかがえる箇所もそれなりにあるかと思います。
マルエツの改装前の写真、とても懐かしいです。
当時はノジマとダイソーが3階4階に、ノジマがノクティに移りダイソーが増床、後に改築でマルエツの単独店舗という流れだったと記憶しています。向かいのQizにあった店舗は外観こそ覚えていますが中に入った覚えはないです。個人的にはこの立地に文教堂が合ってくれたほうが少し通いやすいですね。
OKKA634開業は近年の閉店ラッシュの中にあってかなり明るいニュースでした。個人的にはタイトーステーションの方が思い出深いです。改築後の現在は同ゲーセンの旗艦店として最新機種が真っ先に置かれたり、MEGARAGEというバー・ステージ・物販を併設した施設も設けられています。最先端のスポットでぜひ訪れていただきたいところです。(十字屋近くのダーツなどを置いていた2号店は改築に合わせOKKAに吸収されました)
西口商店街は本屋が2つとも撤退、こんなご時世なので八百屋と和菓子屋がやってるくらいですかね。飲み屋が堂々再開できるようになれば、賑わいも帰ってくると信じています。
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梶ヶ谷は246のロードサイドという印象が強いですね。付近のブックオフはたまに訪れます。高津区でも平地と丘ではかなり変わりますよね。宮前区もそうですが、坂だらけで住むのが大変そうなイメージがあります。
今この近辺にはリニアの立坑が設けられていて、発生残土が梶ヶ谷貨物ターミナルから頻繁に運び出されています。大深度地下を通るので全く実感できませんが、リニアが地元の地下を通るのは不思議な感覚ですね。
溝口愛が激しいもので大変興味深く拝見させていただきました。グーグルアースの様子からも既に色々変化しており、懐かしみながら色々と書き綴ってしまいました。長文失礼いたしました。
懐かしい画像やお話ありがとうございます!
ヤストモ懐かしい!
文具店、オモチャ屋、カメラ屋、時計屋、本屋、八百屋、途中から立ち食いそば、そのあと、はしりの回転寿司ができたなー。東急側にはツバメホール、何故かその前に売店。
南部線側はコンコルド、金太郎焼き、パチンコナカノ、味の大関、小鳥やペットショップ、スギザキの時計、スポーツ店、そうそう、小僧寿司の前身の持ち帰り寿司ができて並んでました。サンコー、長崎屋、
ヨーカドーはその先でしたね。映画館もありました。釣り堀も。西口商店街の火事で焼けた部分も鮮明に覚えてますよ、分岐には、お菓子や、立ち食いうどん、雑貨屋、金物屋、瀬戸物、隠れた名店のキッチンハセガワ、おじいちゃんおばあちゃんがやってた駄菓子屋、蕎麦屋、着物屋、靴屋、魚屋、ありましたねー^_^昔の3大パチンコ屋は
こがねホール、ツバメホール、ナカノホール。ムサシボールでよくボーリングしたなー。高津にもありましたね。
ホコ天と言われた通り有りましたよ
小鳥屋さん、越後屋呉服店等が
繁盛してました、駅前広場の
金太郎焼き(今川焼き)が名物でした、
今川焼屋さん覚えています。 市営バスが二台バックして入る乗り場の横にあった記憶があります。懐かしいですね、動画、コメントありがとうございます。
長崎屋とマルエツが懐かしいです!
そして駅の切符の自販も!
梶ヶ谷のドアーズとそこにあったボーリング場も懐かしい😆
梶ヶ谷メイツレーンですね、テレビ中継もやってましたね。
川崎市住みのとき唯一行ったことのあるボーリング場です
ありがとうございます。
昭和48年頃、南武線と東急線の乗り換えで、線路沿いの道を歩いたのを記憶してます。
ヤストモ、何となく覚えてます。
雑然として田舎っぽくて懐かしいです。
何とも言えない懐かしい映像。。
多摩区に生まれ南武線沿いで数十年生活してきた私。。
お話にう頷き、、詳しい取材に熱意を感じて、、感謝の一言です。
私の財産にしたい。。
東急から南武線に乗り換える時に、線路際の道が通りづらくヤスモトの中を通っていました。再開発の前は、今の三井住友銀行のビルが唯一の高層ビルでしたが、当時の道路に対して妙な角度で建っていて不思議に思ったものです(再開発が終わって納得)。西口商店街は薄暗く足早に抜けるところでした。梶ヶ谷は昭和44年頃、造成後の赤土の広野に今のバス通りだけが通る人気のない風景でした。市民プラザ横の工事中の敷地は旧清掃工場。梶ヶ谷のランドマークだった赤白の煙突が取り壊された時は寂しがったです。
懐かしいですね~
私は橘小学校でしたが、途中で新作小学校が新校としてできた覚えがあります。
市民プラザの裏の住宅街に友達が住んでて、たまに遊びに行った覚えがあります~
溝の口は、高校卒業するまでよく遊んでましたね~
社会人になって約30年、殆ど高津区に住んでいます。少しずつ溝の口に近づいています。30年くらい前は、再開発前で失礼ながら小汚なくて怖い街というイメージでした。最初の5年程は溝の口からバス20分だったため殆ど利用していませんでしたが、引っ越して徒歩15分くらいになったので少しずつ利用し始めました。再開発が少しずつ始まりました。
20年くらい前にノクティとマルイができて街のイメージはガラリと変わりました。南口と北口が楽に行き来できるようになり便利な街のイメージに。
しばらく梶が谷住人となり、ドアーズがコジマになり、市民プラザの前にユニクロとローソンができ、変化に乏しい住宅街が少しずつ変わるのを見守っておりました。第一公園の桜は場所取りするくらいには賑やかですよ。
可能であれば戦前からの陸軍駐屯地とかのお話をお願いします。
出身者です! いやあ 貴重なお話ありがとうございます♪♪♪ 勉強になりました。
ドアーズ懐かしい…
えげつない坂道登ってたなー。5丁目から6丁目に上がる坂も凄かった。毎日公園に行くために登ってたな。
お邪魔いたします。
とても懐かしい映像でした。
昭和50年頃、下作延に住んでいてバスで溝の口まで行き、田園都市線の溝の口駅に続く狭い商店街の中の布団屋さんで3ヶ月だけバイトしていました。
乗り換えの人が通るので活気のある商店街だった事を覚えています。
ヤストモは覚えていないんですが💦武蔵溝ノ口駅前には『味の大関』と言う元気の良い大衆酒場が有りましたね。
味の大関は夏場になると店前でウナギを捌いていて、それを見るための人だかりができていたという情報は目にしました。人気店だったのでしょうね^^
@@ojmm 当時は毒蝮三太夫さんがCMをしていました。
4店舗あったよ
もう潰れたよ
田都側溝の口からの商店街?飲み屋街みたいな通路ありましたよね!
その中にあった赤とんぼと言うラーメン屋さんが好きでした。
階段を下りると角に菊屋というお皿とかを売ってるお店があり看板の魔女が怖かった記憶があります。その細い道を通ると左側に販売だけの不二家があり進んで行くと二階か3階に不二家レストランがある通りに出る道ありましたよね?小さかったので記憶が曖昧なのですが、その商店街?は西口商店街入口付近じゃありませんでしたか?
@@mx3582
私も遥か昔の事なので記憶が定かじゃないんですが😅
国鉄溝の口駅から田園都市線溝の口駅までの周辺は狭い路地に多種多様な商店がひしめき合っていましたね!
あの頃がとても懐かしいです。
石原文具店は、石原文具BOXとしてノクティに残ってます!
約10年前に引っ越してきたので、昔の姿を見れて嬉しいです!
ありがとうございます♪
ヤストモ覚えています。武蔵溝ノ口側に時計屋さん、東急側奥におもちゃ屋さんがありました。たしかに乗り換えでヤストモ内を通っていました。歩行者天国は、現在のほぐし屋のある側だったように思います。東急ストア(マルエツ?)があるとことかな?うろ覚えですが。溝の口はかつて、ヤ○ザさんのシノギの場所だったので、なかなか開発が進まなかったと聞いています。
西口商店街は、それこそ闇市の雰囲気を残す、乾物屋(?)や飲み屋があったと覚えています。怪しさ満点ですね。バスに乗るための抜け道になっていましたね。
ヤストモ懐かしいですね。立ち食いでよくラーメン食べました。
ヤストモの右側に幹線道路、バスロータリーの順で歩行者天国の入口、その右にパチンコ屋、ゲーセン、タクシー乗り場の並び順でした。歩行者天国入ってすぐ左にゲーセンと向かいにマックがあり、更に進むとムサシボウルの道と交差しマルエツに辿り着きます。その交差点辺りに玩具屋がありました。
西口商店街入口のお店で学生時代に菓子パンよく買ってました。火事で無くなってしまったのは残念です。
梶が谷駅の駐輪場上のマンションは当時空き地で放課後野球した事もありました。ドアーズにも買い物やボーリングによく行きました。1ゲーム200円の手書きスコアが懐かしいです。その頃の梶が谷駅前はは東急ストア(サンジェルマン)不二家位しかお店がなくさみしい駅前でした。溝の口、梶が谷ともに駅前だいぶ変わりましたね。
98年から15年まで武蔵新城に住んでいて、溝の口、梶ケ谷の辺りはすごく馴染みがあり、すごくなつかしです!
中央通りにあった「味の大関」が懐かしい。
店前で「味の大関どどんがどーん♪」というような歌がずっと流れてましたね(笑
稲川淳二さんがCMしていたよ
面白い。
商店街入口は、ほぐしやがあるところだったと思います。
東急溝の口駅方向の横断歩道を渡ると、焼き鳥屋とケンタがありました。
懐かしいですね。
懐かしい。小学校時代よく親と一緒に溝の口の長崎屋(今のドン・キホーテ)へバスで洋服を買いに行っていた。
40年ほど前まで溝の口駅近くの久本に住んでいたので、大変懐かしく拝見しました。私の家は武蔵溝ノ口から隣の武蔵新城へ行く途中の踏切を渡って久本神社の奥にありました。駅前周辺がすっかり変わってしまいましたが、商店街の映像を大変懐かしく思い出しました。久本小学校の同級生の石原クリーニングの石原君や不動産業の持田君は元気かな?私はその後茨城県の取手を経て今はつくば市に住んでいます。 貴重な映像を見せていただき本当にありがとうございます。
久本神社~谷風呂屋裏~大山街道との交差点まで道路が通って、お住まいだった周辺の雰囲気も随分変わりましたよ。お屋敷は公園になりましたし。
酒屋さん(閉店)の辺りはまだ雰囲気が残っていますが・・・。
@@realfordf1865 酒屋は「あめや」でしたね。山の景色もすっかり変わったみたいですね。
1984年から91年まで溝の口を経由して通学しており、懐かしく拝見しました。
何かの資料で1枚目のヤストモの写真は1968年頃、歩行者天国の写真は1978年撮影とありました。
ヤストモがあった場所はご指摘の通り、東急とJRの間。中には「みづほ」というおもちゃ屋さんもありました。
中央商店街の歩行者天国があったのも、ご指摘の道路ですが、写真の場所は現在ペデストリアンデッキとバス発着所になっており、かつての痕跡を見つけるのは不可能です。
長崎屋も建物は1971年創業当時のまま、現在はドンキになっています。
また、ドンキの向かいにある「プライム」ビルは、かつての緑屋百貨店。
恐らく1960年代に建てらた、かなり古い建物です。
さらに近くには、平成初期まで「溝の口映劇」というピンク映画専門の映画館がありました。
駅前一帯は1994年頃から再開発が本格化し、97年にマルイとノクティブラザがオープン、99年にペデストリアンデッキが完成し、昭和レトロな街並みは完全に失われてしまいました。
確かに私が通学していた当時の溝の口はガラが悪く、近寄りたくないので別ルートで通ったものでした。
しかし今となっては、あの時代のアングラな雰囲気の溝の口が消えてしまったことに、寂しさを感じます。
詳細なコメント、ありがとうございます!
91年頃というと、ちょうど僕が梶ヶ谷に引っ越した頃(小4)で、それから3年ほどで東京に戻って、中学生になってから神奈川の友達に会いに来たらキラリデッキができていてビックリしたのを覚えてます。
ビックリしたということは、昔の溝の口も結構見たことはあるはずなのに記憶に残ってないんですよねぇ・・・悔しい・・・
梶ヶ谷駅。バス停で降りても駅がどっちの方角にあるのか見えませんでした。腰ぐらいまである草をかき分けるように何人かの人が歩いて行くので、狐か狸に化かされているような気持ちでついて行くと、忽然と駅が現れる。そんな感じでした。田園都市線の終点は長津田でしたが、鷺沼止まりの方が多かった。昭和51年の話です。
ちなみに当時通っていた学校の先生(推定30代)は「自分が若い頃には渋谷に狸もいた」と言っていました。ジブリのぽんぽこを見るたびに思い出します。
昭和42年から平成9年まで旧府中街道と大山街道の交差点の近くに住んでました。
武蔵溝ノ口駅前のパチンコナカノの金太郎焼きが美味しかった。
小学生の頃、長崎屋の休みの日には店先でバナナのたたき売りや紅茶キノコ、ガマの油などを売っていました。
西口商店街は現在よりかなり広く、大盛りで有名だった七福うどんや定食屋のハセガワに通ってました。
駅前中央通りには毒蝮三太夫がCMしていた「味の大関」がありました。
♪ 味の大関 ドドンと来い。スタミナもりもり ドドンと来い 味の大関 味 満点 ♪ 確かこんな歌だった
お邪魔いたします。とても懐かしいです。
昭和56年頃まで住んでいました。(高津小学校卒業)
ポレポレ通りの1本右の通りが駅前中央通りですね。入口の右側にゲーセンがありました。その先の両側に『たまい』?『味の大関』?
がありました。『肉の恒川』はスーパーも経営しており地元の有名店です。『石原文具店』は『三田文具店』と並んで地元の有力者さんです。西口商店街(闇市)は昔の姿を残していますね。今も時々行きますが所々に昔の面影があり昔にタイムスリップします。
有難うございました。
味の大関は他の方のコメントでも触れられてました。人気店だったみたいですね!
以前宮崎台に住んでました。溝の口の長崎屋の周りや西口商店街で一杯やって、梶が谷駅手前の急坂を登り、246を渡って徒歩で家に帰ってました。梶が谷同様宮崎台も飲屋がありませんでした。そうそう西口商店街が火事のとき、早朝東急線のホームまで火事の煙がただよってきたことを思い出しました。懐かしさの甦る写真や動画有り難う御座います。
昭和44年から武蔵中原の富士通に勤務して当時会社の独身寮が田園都市線の市が尾に有ったので溝の口は乗換駅で元住吉に引越すまで3年間お世話になりました。
懐かしい動画ありがとうございます。
久地に84年から25年間住んでいました。
動画内にあったヤストモと南武線との間の通路のようなスペースは東急大井町線が溝口どまりだった頃、そこに南武線に平行に大井町線のホームがあったと思います。高津方面からの線路が南武線にぶつかる形で90度南向きになって終点駅に入っていたと思います。
久地方面からの南部沿線道路は以前は大山街道との交差点がT字路だったのでそこを左折しその先の溝口神社方面からの道路との交差点で右折して浜銀とエスパスの間の道へ出ていました。なので現在の田園都市線の駅下の道路は以前は無く、そのため西口商店街もエスパスの浜銀側からスタートし現在の南武線沿いの部分までずっと繋がっていました。いまより長くもっとヤバイ雰囲気が出ていました。現在は田園都市線下の南部沿線道路で分断されていますね。
「昭和100年物語」の高橋揚一です。興味深く拝見しました。
ヤストモの意味が判明して50年来のもやもやが解消できてスッキリしました。昭和40年代には「ヤストモぇ」と表示されて小さい「ぇ」の意味はいまだに不明ですが。
母親の実家が溝の口の近くにあって昭和30年代前半から知っていますし、50年ほど前の大学時代はそこに居候していたし、30年ほど前には溝の口にあった専門学校で数年間教えていたので、現在の姿になる前の溝の口を思い出します。推測による説明はほとんど正しいと思います。
バスが2台収まるターミナルは武蔵溝ノ口駅の向かい側です。国鉄駅を背にして左にヤストモ入口があり、紹介された写真は線路側に自転車置き場に沿って道がありますが、30・40年代当時はその道にも屋根が掛かってヤストモは2本の屋内通路になっていました。石原文具店やアクセサリー店や玩具店などには両方の道から入れました。
道は途中で合流してその右側の平地に当時終点だった東急大井町線溝の口駅があり、その脇から伸びているもう1本の屋内通路と合流して、火事のあった西口商店街に至りました。火事があった場所近くに南武線の狭い木道の踏切があって、駅裏に行くことができ、246下や上作延や神木方面へのバスは駅前のターミナルから出ても渋滞でなかなか進まないので、この踏切を渡って駅裏から乗った方が早かった頃もありました。
西口商店街側から見ると、右に南武線踏切があって、火事の場所があって、その先が二股で右がヤストモ方向、左が東急大井町線溝の口駅の手前で北にカーブして向かう屋内通路で、線路と並行して自動車道路に至りました。
東急大井町線は紺と山吹色の2色の塗装の古い車両の3両編成で、高津、二子新地前へと平地を走り、二子新地前で単線になって、現246旧道の旧二子橋の上を路面電車のように軌道走行して二子玉川園駅に至りました。大井町線二子玉川園駅の左には玉電と砧線の低いホームがあり、玉電は瀬田まで専用軌道で坂を登ってから246の中に入り、砧線は左に急カーブして246と平面交差して西へと向かいました。
東急大井町線が溝の口で終点だった頃は、梶ヶ谷方面はほとんど全部山でした。現在従兄弟の住む母親の実家周辺には住宅が密集していますが、30・40年代当時は梶ヶ谷方面の高台が全部見渡せる田園地帯でした。
大学時代に田園都市線が鷺沼まで延伸されて、鷺沼のプールには何度か行きました。
懐かしい情報を有難うございます。
13:30 95~98年頃、高校の帰りにここの文教堂に通いました。
パソコン関連の書籍が豊富でバックナンバーもあったりで、
しかも文教堂の階までに確か3階だったかと思いますがパソコン屋さんがあって
そこぶらぶらしたりと楽しかった思い出です。
最上階が漫画関連でしたねぇ。
立喰蕎麦のラーメン、懐かしい。KSPの建設に携わっていました。30年前か・・・。
本当に変わりましたね。持田、島崎は同級生ですね。やすともストア、懐かしいですね。確かに朝鮮中、小がありました。鰻を店頭で焼いて流行った「大関」も先輩の店でした。コンコルド前の地価は一番高かったです。パンは美味しくてパウダーシュガーなどがかかっていて洒落ていました。また違う角度から動画を作って下さい。懐かしい動画をありがとうございます。
昭和36年生まれ 小学校は向ヶ丘 ヤストモの中のおもちゃ屋の前でひっくり返って泣いた口です おもちゃ買ってーって。懐かしい!
コメントありがとうございます!!昔の写真を見ると記憶が蘇ってきますよね^^
向ヶ丘遊園 学校の定休日に、モノレールで行ってました。懐かしいなぁ✨
70年代頃だと思いますが、確か溝の口近くに今で言うコリアンタウンがあったと思います。あと、どのあたりか失念しましたが、十字屋というマーケットによく買い物に連れて行かれてました。
コリアンタウンって放火のあった西口商店街のことじゃないですか?
独特の雰囲気ですよね。火事になっても戦後に不法占拠した場所だから、立て替えできなかったと聞いたことあります。
初めまして。南武線の稲田堤駅付近に住んでいるものです。私は溝ノ口の川崎市立高津高校OBで、とても懐かしく拝見しました。と言っても、昭和46年(71年)卒なので、気の遠くなるほどの昔なんですけど(笑)
しかしヤストモの由来には驚きました。「靖国神社友の会」の略称とは、思いも寄りませんでした。実は私、九段の靖国神社のすぐそばの会社に40年奉職し、時間が自由だったのでよく神社内の遊就館の茶寮「結」で、展示されている実物のゼロ戦の傍らでコーヒーを飲んでいました。
高校生の頃から靖国神社とご縁があったのかと感慨深いものがありました。貴重な情報、ありがとうございました。
母親の実家が高津の駅近だったので電車で行く時は南武線で武蔵溝ノ口から田園都市線に乗り換えていました。
なので溝の口は昔から馴染み深い街ですね。溝の口と高津の駅間は短いので高津の駅前でも住所が溝口です。
幼い頃は母親の実家に遊びに行った際おじいちゃんにヨーカドーのおもちゃ売り場に連れて行ってもらったものです。とはいっても現在の場所ではなく武蔵溝ノ口駅から高津駅方面(動画のマルエツ方面)に向かった左側にありました。確か道路を挟んで2棟に分かれていました。今はマンションが建っていますね。
溝の口は再開発で大幅に変わってしまい、特にノクティ側は顕著です。大雑把なイメージとして南武沿線道路とケンタッキー脇の道が駅前で曲がりつつ繋がってて、そのカーブの途中に市営バスの折り返し所があり、脇に細い歩行者専用の通りがあり、それがマルエツと長崎屋❨現ドンキホーテ❩のある道だと思われます。幼い頃何度かいきましたが、子供心にも賑やかな通りでした。
梶ケ谷はかっては日本陸軍の演習場の入り口でした。旧246号が梶ケ谷~馬絹間で変に迂回しているのも演習場を避けるためでした。青年の家のお化け灯籠とか軍用地の境界標などよくよく探すと戦時遺跡がのこっているかも。この辺りの話は"川崎市の戦争遺跡"❨?多分絶版❩に結構詳しく記載されてます。
因みにユニクロ側の工事中の施設はごみ処理施設です。市民プラザの温水プールは処理施設の排熱を利用してると聞いた記憶があったのですが今はどうなっているのでしょうか?
75歳です。
マルエツと長﨑屋の通りを駅の方に戻るとバス乗場があって隣には甘栗を売っていて中華店が2けんあり対面に味の大関、小鳥屋、呉服屋、末永、焼肉屋、山中屋等々思い出されます。
中央通りのくだりは、今の三井住友銀行あたりに、市バスのバス発着所があったんですよ。いつもバスはバックで入線してきたんです。懐かしい❗
懐かしい動画、ありがとうございます。
おっしゃる通り、JR溝ノ口駅を背にして、ポレポレ通りの1本右の通りが駅前中央通りだと思います。ずっと行くと、高津駅方面の。入ってすぐ左?にゲーセンがありました。写真の57年のヤストモ時代以降にも、中央通りはありました。60年くらいに高校生でしたが、部活の帰りにゲーセンに通った覚えがあります。
中央通りのさらに一本右の通りに、ヤストモの中にあった、ツネカワ焼肉(あまり覚えていないのですが。結構通ったラーメン屋があった気がします。)の系列なのか、スーパーのツネカワがありました。一戸建ての店舗で。今は、マルイの地下に出店しています。亡くなった母親が、「ツネカワの肉はいい!」と言ってましたw そのツネカワの跡地にマルイが建っているような気がします。今はマルイの駐車場入り口付近かな?
ヤストモは、大きい平屋のアーケードでした。JRから行って、入り口の右側に本屋、左側にスギザキ時計店があった気がします。そこを抜けていくと、今は駐輪場になっていますが、田園都市線溝の口駅前につきます。その駐輪場の左側は昔から変わりませんが、細い路地なっており、右手にJRの上を通る歩道橋、左にずっと進むと、西口商店街=昔の闇市跡。
ヤストモがなくなりスギザキは移動します。スギザキ時計店の本店は、住友銀行のビルの隣の杉崎ビルにありましたが、今は閉店し、ノクティに入っているそうです。
また、石原文具店は、マツモトキヨシと溝ノ口郵便局の細い通りにあり、三田文房具店と道を挟んだ向かいにありましたが、石原文房具はノクティーに小さな店を残し、三田文房具店は姿を消しました。石原文具の社長が、ヤストモ=傷痍軍人の働き場所を作ったみたいですね。勘違いかもしれませんが、子供の頃に石原文具店に行くと、兄弟?親子?の方がよく案内してくれました。若い方の方は10年くらい前までは、いらっしゃったような気がします。石原文具店は今は、木目調のレストランになっています。
マルエツ(昔、サンコーとか呼んでいたw)のある周辺について、マルエツは今のスターバックスのところにもありました。文教堂書店は、今の建物の向かい、今は携帯屋かな?のところにもありました。入り口に不二家のケーキだけ売っている小さい店がありました。その建物の3階か4階に私が通っていたラサール進学会(今の名称はラサール進学予備校)という塾がありましたw 今はもうないですが。
すごい!!!貴重な情報をありがとうございます!
駅前中央通りの予想が当たっててよかったです^^
@@ojmm この前、ノクティに行ったら、ツネカワは無くなっていました。。。
JR溝ノ口駅前中央通り角にナカノ(高津駅前にもあり)東急から出てすぐのヤストモの所にツバメ、東急のガード下にこがね会館があり登戸駅前のいこい、玉の家その他大半がキタの資本で登戸の再開発でできる最初のも系列です。パ屋
ワシは現在溝の口で遊んでる者です!
良く楽園で打ってるかタイトーを利用してます!
昔の事全く解らんかったので助かります!
そう言って頂けてよかったです^^ 溝の口は便利なところですよね~
大型マンションとイトーヨーカドーが出来た頃、化粧品売り場で働いていました。
まだマルイ、ノクティも全然ない時代だったので、駅から離れたイトーヨーカドーでも、沢山の人が来ていましたね。
日曜日はにぎわってました。
最近はだいぶ活気がなくなり、悲しいですけど、大規模マンションを当時買われた方々も70代から80代かと思われます。
ありがとうございました。
溝の口の高津学校に通ってましたが、梶ヶ谷方向の帰り道に自転車で急坂を上るのがつらかった思い出がありますね。
梶ヶ谷第一公園で花見もよくやってました。
昭和58年ぐらいに西口商店街の中にたしか「七福」という名前の立ち食いうどん屋がありました。200円ぐらいで超大盛にしてくれたおばちゃんをよく覚えてます。高校の部活帰りでとても有りがたかったです。懐かしいです。
かなり昔ですけど、旧文教堂が入っていたビルの2Fとそのすぐ傍のマルエツ(長崎屋だったかな?)の1Fに不二家レストランがありましたよね。
マルエツ側のほうは当時としては珍しい店内通路に沿ったカウンター席という造りでしたが、両方ともよく行きました。
マルエツ側の不二家レストランの、ちょっと味が濃い目だけどもさっぱり風味の醤油ラーメンが大好きでした。
不二家があったのは、(旧)イトーヨーカ堂では?
@@okachan923 確か角に不二家レストランありましたよ
@@hyahhaaaaaaaaaaaaa さん
マルエツではなく、現在の大戸屋のところですね。文教堂の書店(現存せず)の隣で間口が狭い店舗でした。最後は売店のみで、その後、現在のケンタの隣に移転しました(現存せず)。その頃のイトーヨーカ堂のカウンター式のレストランは閉店してました。
→間違いがあったらご指摘ください。
ヤストモ懐かしい。この中に立ち食いソバやとか、サーティンワンもあったな。このJR溝の口側の出口出たところにコンコルド(今は丸井の中)があった。
その立ち食いでラーメンを食いながらテレビのナイターを見ていたのだが、甲子園の対巨人戦で伝説のバックスクリーン3連発を目撃して唖然とした記憶があります。
バス停留所の隣にあったよ
アーケードの名前は知らなかったけれど、東急側から入ると左側が八百屋さん、右側がアクセサリーショップで本真珠のイヤリングを安くして貰い買った覚えがあります。国鉄側には、東急側から行くと、左側が文教堂本店、右側が時計屋さん。
東急の駅の下には、銀行と東光ストアがあって、途中、道路に分断されるけれど、高津中央病院のそばまで繋がった長いスーパーでした。
写真の左側に小屋の様に建っているのは、東急の駅前売店で、左の建物が下がパチンコ屋さんで、上にレストランがありました。駅前中央通りは、国鉄側から今のマルエツに行く通りで、
右手にレコード屋さん、金魚も売っているペットショップ、味の大関があり、
左手は何十件もある飲み屋街で、付け火の火災により、駅前が再開発されました。
西口商店街にも文教堂がありました。
私は1963年生まれですが、
梶ヶ谷駅の廻りは、何も建ってなかった。単なる草むらと山です。住宅もなかった。
ドアーズの前は、梶ヶ谷ボールという、ボーリング場でした。
私は3歳~9歳まで、梶ヶ谷字金山という山のてっぺんに住んでいました。父が29歳で建てた
木造建築2階建ての家が宮崎台の駅から良く見えました。それだけ高い建物が無かったんです。
買い物は、溝の口まで車で行っていました。十字屋のお婆ちゃん(創業者)が懐かしいです。
>梶ヶ谷駅の廻りは、何も建ってなかった。単なる草むらと山です
ご近所さんは昭和50年ころまで、梶ヶ谷駅周辺で牧場をやってたと話してたけど、そんな場所だったんですね
味の大関 懐かしいです。私も1962年生まれで高校時代電車の乗り換えに溝の口を利用していました。
戦後がそのまま残ってる感じで駅前商店街は迷路のように成ってましたね。懐かしいい。
高校生時代に田園都市線を利用していましたので興味のあるお話でした、さて当時の記憶を振り返りますと溝の口中央通りはご案内いただいた道で合ってるかと思います長崎屋跡地でドン・キホーテ(メガドンキホーテ)になった所は他にも沢山あります、開発前はJR駅前(今よりわずかに津田山寄りです)まで来ていました、通りを高津方向に少し歩いた所を右に少し入るとに溝口中央通郵便局(当時の名前は溝口郵便局ノクティ内に新局が開設された時に改名)があります。西口商店街は、東側はバス通りから田園都市線に並行して現在地まで長いアーケードで繋がっていました現在残っているのは1/3くらいかと思います、ちょっと薄暗い感じですが今そのまま残っていれば有名になっていたかと思います、再開発でできた道で東側が分断されて消滅、さらに放火で西側も一部消滅で現在に至ります、水路の上の建物は違法建築だそうで市と揉めてたようです、闇が有りそうな話です、田園都市線が延長開通してから10年くらいは溝の口と梶が谷では雰囲気がまるで違い別世界でした、今では想像もつきませんね。一部文献では田園都市線の前身である玉川線が駅前で急カーブを切り南武線前に付けていた当時の路線駅跡がヤストモの場所だと記述があります。大井町線に併合された時に現在地に変更になったようです。
貴重なコメントありがとうございます!西口商店街、そんなに長かったんですね。再開発前の駅には何度も行ったことがあるはずなのに、ほとんど思い出せず・・・汗 西口の放火については私も闇の深さを感じます。。
マルエツ(昔のサンコー)の一階にあるカメラ屋さんで働いてました。
靖友はJR駅から田園都市線へ向かう道にありました。
サンコーがダイエー系に買収されて
マルエツになったよ
駅前にもあったよ2店舗あったよ
懐かしいですね。1985~1987年まで梶ケ谷小学校付近に住んでました。当時はまだ丘陵面に畑が残っていてのんびりした雰囲気でした。ドアーズでは引っ越したときに家具を買いました。東急ストアはちょっと遠いので普段は近所のマンションの一階に入っている個人商店で食品を買ってましたね。
57ねん頃の姿が 昔偶に見ていた姿。懐かしいなぁ😭
ヤストモに入っていた持田写真館のお嬢さんがおきれいだったんですよねー!
思い出してしまいました。
ここの店主が父の知り合いで、よく利用しました。
1990-1993に住んでました。西口商店街がそのままのようで嬉しいです。ディスカウントショップのプライス、ヨーカドー、長崎屋、東急ガード下の東急ストア、その東急ストア近くにある十字屋(という市場みたいな食材店?)によく行ってました。JR武蔵溝の口の駅舎は、川崎方面に向かう車両の前の方にあって、駅のホームも狭かったので、平日朝のラッシュ時は、東急線に近い側に臨時改札を設けていたのをよく見かけました。
当時から電車が混んでたんですね。。僕は10年くらい前まで梶ヶ谷にいたんですけど、二子玉川あたりで、降りる人のために気を使って一旦ホームに出たら、混みすぎで電車に乗れず、次の電車を待つ羽目に・・・ということが良くありました。。
確かに中学高校時代東急溝の口駅を利用したがヤストモの語源は分からなかった。ヤストモには正文堂書店、プラモデル屋、回転寿司、時計屋など個性的な店があった。一番印象に残っているのは東急溝の口駅の看板TKK何か威厳があった。溝の口駅は再開発される迄は東西が分断されていて溝の口の駅のバス停までは踏切を渡らないと機能しなかった。
今のマルエツのあるあたり僕がまだ小学生の頃サンコーというスーパーがありました。近くにはミドリヤがありました。 何故か静岡銀行がある。僕は東急田園都市線の鷺沼からバスで行った所に住んでいました。
ヤストモには東急側から入って左中ほどに回転すし屋があった記憶が。溝の口は東急の改札降りて広場の左角にサーティーワンがあって、その横の小道入っていくとケンタッキーがあって、現ポレポレ通りがメイン通りっぽかった。ケンタッキーと対面のはんこ屋は今と同じ場所ですね。マルエツの裏の肉屋(タナベフーズだったかな?)の独特の匂いと高津中央病院の手前のゴミ溜め(?)が臭かったのが印象的。梶小の近くには金子文具店と持田文具店がありましたが、今は無いみたいですね。今の子供は名札や帽子は何処で買うんだろう。。かつて梶小の体育館の横に小山があって懸垂式のコースターがあり人気でしたが、けが人も1人/年くらいはいました。懐かしいですね。
☻小学校は久本、中学校は西高津、高校は高津、バイトはプライス、母はマルエツでパートと生粋のミゾノクチャーです。えちこのお母さんは私の幼なじみのお母さんで、幼少期に幼なじみのお姉さんとおままごとしました。
えちごの前には豆腐屋があり、良く買いに行ってました。その並びにはお肉屋さんがやっていた焼き鳥屋さんがあって、1本40円位で、親に20本買ってこいと言われて買いに行きました。
懐かしいなぁ。
阿夫利神社のそばに住んでいます。
これからの季節、紅葉も綺麗ですよ。
コロナでなければなぁ…
自分も、溝の口30年→伊勢原30年です^_^
溝の口は旧国鉄のチッキの荷受け駅だった記憶があります。
大学の寮に入寮するときに荷物を取りに行ったことあります。
昭和53年当時はまだ、駅周辺はビル等はない、ひなびた駅だった記憶があります。
今の餃子の王将あたりに窓口があって、保線車両が時々止まっている線路が名残でしたっけ?母の実家の山形からおがくずに埋まったリンゴ送ってもらったの受け取りに行った記憶があります。
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古里は遠きにありて想うものですね。
Old Japanese Memoriesって、複数人で運営されていらっしゃるんですね
個人的に、伸びてほしいチャンネルです
唐突に地元流れて来てびっくり
地理は分かってても歴史についてはそこまで知らなかったので知れて良かったです。
石原文具店はおそらくイシハラi-boxとしてまだ残ってますが本店も閉店になり残すはノクティ店のみになりましたね、、、
石原商店の本店が閉店時に
先代のオーナーおばちゃんに
挨拶したよ
まだ形を変えて残っているから
嬉しいですよ
大山街道の高津・溝ノ口から長津田の間では、江田(荏田の宿)は宿場町でやや大きな町でしたが、それ以外は農村地帯。駅前の東急ストアはしばらく存在しなかった。
昔あったこ汚い雑店舗ヤストモは、靖国神社之友の略称ですね。総合高津中央病院の入り口辺りにも似た感じで目方売りしている様な店が結構ありました。パチンコ屋も亀屋会館があったバス通り沿いにキングとエースが姉妹店であり良く行っていました。亀屋会館の駅寄りの向かい側はガソリンスタンドでした。夜になると電飾のチャリンコにラジカセを載せ、演歌を流しながらその辺りを通る変なおっさんを良く見掛けたものです。何故か溝ノ口には、藤下歯科病院、高津には眼科津田病院という単科の病院までありました。少し離れますが、金沢文庫駅東側の国道16号沿い泥亀2丁目に上が住居、下の2階が雑店舗のユニオンセンターというのがあり、ここでも煮干しや乾物を目方売りしていました。蕎麦屋でメニューに無い物を作って貰い店主と相談して適当に値段を決めて昼飯を食べた事もありました。横浜の野毛地下街の店舗も少しこ汚いですが昭和の面影が残るユニークな店が結構あります。
これを読んで溝の口が避けられていた理由が分かりました(笑
↓
> 夜になると電飾のチャリンコにラジカセを載せ、演歌を流しながらその辺りを通る変なおっさんを良く見掛けたものです
高校、大学と溝ノ口を乗り換えで使ってました。国鉄南武線の駅前にあったバス停と奥に伸びる道路(旧長崎屋へ通じる通り)の脇に、あいまいな記憶ですが、今川焼焼きみたいなのを機械で作るお店があってガラス越しに見えた記憶があったのですが・・・・
主様の動画内でそれが映っていたらなーって思ってました。記憶違いかもしれませんが、子供ながらに「すげーな!」って思ってました。
昔の溝ノ口の様子がわかり大変懐かしい気持ちでした。そういえばヤストモの中に部活帰りに良く寄っていたラーメン屋さんがあって美味しかったな。
確か「甘太郎」って言う名前だったと思います。
手前の蟹ヶ谷行きのバスを待つ間、特に冬によく買いました。子どもの頃は私も顔をくっつけて眺めたものです。ラーメン店は私も常連でした。何もかも、みな懐かしい…😅
文教堂は、南武線沿線に店舗展開している書店ですよね。
1987年から数年間新城に住んでいたので、溝の口はよく使いました。南武線を降りて、246沿いの職場へ通ったのですが、西口商店街通っていたと思います。小さい店や立呑みのおみせなどもあった気がします。
ヤストモありましたねぇ
超懐かしいです、確かに用もなく中を素通りしてました。
丸井も当時は影も形もなかったですね。
ヤストモ商店街は懐かしいです。昔はよく父母と買い物に行きました。ヤストモの隣には確か古いパチンコ店があって父とよく打ちに行きました。ドン・キホーテが昔は長崎屋でよく買い物に行きました。僕は世田谷の等々力に48年住んでいたから電車でわずか10分くらいの溝の口は懐かし過ぎる。
懐かしい風景w
中学生の時、部活で練習試合に行くときの集合場所が溝の口の時は、ヤストモの中にあったドムドムバーガーでよく友達と朝飯食ってたな~w
後、駅の真向かいにあった石原文具店の2階にガンプラ売ってたからよく買いに行ってましたね。
ヤストモじゃないよ
武蔵溝ノ口駅改札過ぎて暫くして
南武線沿線商店街だったはず
いずみやからドムドムバーガー🍔
までだったよ
今でもあるよ商店街だよ
私も石原文具店には新発売のガンプラをチェックしに行ってました!近隣であの売り場ほど充実しているお店はなかったので、いつ行ってもワクワク感がありましたね!!
高校を卒業(昭和37年)し東芝に就職して、初めて関東方面に本社があって医療機器の製造していてメンテナンス業務のための機器の実習工場で据付・修理を勉強しました。工場が移転するまでの間で通算して約3年位いました、思い出が詰まった場所 溝の口です。
私は梶ヶ谷の隣の「宮崎台」に有った小さな会社に勤めていました。
その様な訳でこの動画は凄く懐かしかったです。
1970-2000位まではよく溝の口に行って居ました。確か1975辺りに長崎屋が開店してマルエツ旧サンコーが駆逐された時代、この時の長崎屋は凄まじい物があった。買い物をするのも長崎屋のイメージがあった。私の印象に残っているのは長崎屋の5階のおあしすというファミリーレストランとその隣りの家電屋さん当時1979辺りにレーザーディスクで山口百恵さんのさよならの向こう側を流していた。
溝の口西口商店街、懐かしいです
昔、『サンレッド』と言うアニメをよく観ていて 敵のヴァンプ将軍の声がお笑いのひげ男爵だったのを覚えています。
コメントありがとうございます!サンレッドは存じ上げませんでした・・・m(__)m
漫画であったよね
お笑い漫画
溝の口駅前商店街はポレポレ通りの事ですよ!
ポレポレ通りと中央通り
Xで交差しているよ
今でもそうだよ
ノクティ側が中央通り商店街だよ
高津駅の近くまでだよ
溝口を取り上げてくださり、ありがとうございます❗
旧府中街道と大山街道の交差点は、はす向かい同士に新聞店のある小さな交差点で、近くには高津町役場(→川崎市役所高津支所、現大山街道ふるさと館)があり、鉄道開通前はこの辺りが街の中心部だったようです。今とは違い、大山街道沿いには多くの商店がありました。
それと溝口の再開発はなぜか火事と縁があります。ヤストモの八百屋さんのボヤも、ある大きな家具屋のあった建物も放火されて全焼した(犯人の家は実家の近くで、車のカバーにも毎週のように放火された)。旧住友銀行の裏(パチンコの換金所があった)のボヤも放火、そして極めつけは西口商店街の火災で、ここにあった魚屋の前の箱に放火された。ここは闇市由来の不法占拠地で、火災後はさっさと市が整地してしまった。
あと火事ではないが、今の東急ストア前の横断歩道辺り、小さな文具屋があったのですが、ここは強制執行で取り壊され、マスコミが多数来ていたのを覚えている。
20:28 の左に行くと焼き鳥屋があり、煤けた感じがいい味を出してる。何年か前に「きたな美味い店」でノリさんと有吉、そしてPerfumeの3人が現れたのには驚いた。
まだまだ溝口のことは語りきれません…😅
20年くらい縁がある土地なので楽しく拝見させていただきました。
40年以上前 友人が南武線の久地駅に住んでいたので 溝の口商店街をよく利用していました。竹脇無我さんのCMで有名な
サンバード長崎屋でスーツを買った想い出があります。歴史的 地理的 説明ありがとうございました。
雨の日はここ抜けて東急まで傘無しで抜けてきました。中に
ラーメン屋さんあった記憶お袋にねだって食べた記憶なつかしいです。54歳
駅の北口から出て武蔵新城方面の線路沿いにも、狭い通路の両側に小さい食料品店が密集してあったような気がします。40年くらい前に高校生のときによくそこを通りました。
文教堂は東急溝の口駅の2階にあった記憶があります。ヤストモや市営バスがバックして停留所に入っていた景色も思い出せますね。中央通りにはうなぎ屋さんがあっていい匂いが立ち込めていましたね。
16:41
私の記憶が確かならば、
今のコインパーキング(画面左)に映画館があったはず。
とってもハレンチな映画ばかり上映していました。
マツキヨの所だと思います。当時は各駅に映画館がありました(新城駅も高津駅も)。
ピンク映画館ありました!中学生だったので入れなかったけど😅
イトーヨーカドーが出来たくらいまでは、ポルノ映画館が残っていたと記憶してます。子供だったので、気になりつつも目線を逸らしてましたね😅
今で言えば、AVのパッケージがそのまま表通りにポスターで掲げられているようなものですから、現在の人には信じられないでしょうけど。
まさかの同じ小学校で近所に住んでいました。
小学生の頃はよくマンションの公園や市民プラザで遊んでました!
溝22系統蟹ケ谷行きバスの沿線で生まれ育ち今もその近辺に住むアラ還です。
ヤストモの店舗一覧で「恒川焼肉店」と見てハッとしました。
ノクティ出来てからしばらく地下食料品フロアに入っていた、ちょっと高級なスーパー「ツネカワ」···このお店の名前がどうしても思い出せなかったんですよ。焼肉店はそのスーパーと縁があるのでしょうか···溝の口で恒川さんなら、あるんでしょうね(笑)。スーパーツネカワはノクティが出来る前は昔職安があったそばにあったような記憶が。母が好きでよく行ってました。
蟹ケ谷行きバスは京浜交通のタクシー乗り場(何やら建物の中からタクシーが発車してきた)の前にバス停があって、待っていると金太郎焼の無愛想なおじさんが焼く様子をガラス越しに見るのが子どもの暇つぶしになり、「味の大関ドドンと来い♪」というお店の曲に洗脳され(笑)大関のお店の前まで行列が及ぶとバス1台に乗りきらないなぁと諦めたものです。
コンコルドと和菓子店青柳が市営バス乗り場とヤストモの間にあったような。青柳さんは久地で今も営業中。生クリーム大福が食べたくて行ったら「思い出して溝の口から来て下さるお客様もいらっしゃるんですよ」とのことでした。
ああ、懐かしい···。本当に懐かしい動画をありがとうございました。
二十歳の頃に横浜の運転試験場の近くの実家から溝の口の住宅機器販売会社までロードバイクで通っていました。今で言うKSP(かながわサイエンスパーク)がっ建設中で毎日パイプやボルト・ナットなどの部品を届けていました。当時は第三京浜の渋滞が酷くて車で通勤しても1時間ちょっとかかりましたがロードバイクで50分で通っていました。私の体力の基礎を作った時期でした。長崎屋懐かしいです。昔の溝の口の面影は全くないですね。。
私の記憶にある駅舎はここで紹介されている駅舎ですね今のようなブレイクダンス広場になる前
梶ヶ谷駅付近は末長小学校へ向かう谷地はむかし田んぼでしたが新作小の付近は畑です
新作小学校はかなり最近開校しているので生まれが10年前でしたら橘小学校か末長小学校でした
私は10年遅ければ末長小学校ではなくて新作小学校に通ってました
貴重な写真ありがとうございます!40年くらい前ヤストモの回転寿司行ってました
二子玉川しかりすっかり変わりましたね
再開発前の武蔵溝ノ口駅前から中央通り商店街、今でもハッキリ覚えてますね〜
先ず栄橋方向へ抜ける鹿島田菅線(今は南武沿線道路)が通っておらず、バス通りはケンタ前から駅前の餃子の王将方向へ向かい今店前の細い一通(昔はもっと広く二車線)から南武線沿いに通ってました。
今栄橋側にあるカレーデリーさんは、丁度ケンタ前の信号駅側へ渡る横断歩道、道の真ん中辺りにお店がありました。
映像中に出てくる中央通り商店街の入口は、駅前交番、バス・タクシーが出入りするキラリデッキの下辺りが入口。
一般車の一通入口辺りに金太郎焼き、ローターリー内の植え込み辺りがバス発着場と天津甘栗。
キラリデッキ下、マツキヨの辺りは東急溝の口駅への連絡通路。
真ん中のバス停から自転車置き場辺りがヤストモストア。
現在スタバの入る商業施設は、文教堂の更に前は、ダイエー(道を挟んだ現マルエツも)
カラオケ屋とダイソーが入るビルは緑屋、現ドンキはサンバード長崎屋、てんや家系ラーメン、ファミマがある場所は、移転する前のイトーヨーカドー、現文教堂本店は家具屋(大正堂だったかな?因みに全国にある文教堂の本店が溝ノ口のあのお店)でした。
かめや甘味処、ダルニー、サウナフィンランド、焼肉苑😊
焼肉苑はまだあるよ
移動して
二ヶ領用水の堀沿いにあった店舗
懐かしいですね
溝の口から梶が谷へは坂道不可避です。特に馬坂って道は急勾配で狭い道なのに一方通行じゃない。積雪したらFR車じゃ・・
馬坂は通学路でした😱整備される前は雑木林で覆われていて、昼でも薄暗い場所だった記憶が。。。ヘビとかよく出る場所でしたね。
しかも、斜度26%って、そうそうあるものじゃないね。
確か、やすとも百貨店の通路は2本だったような記憶があるなあ、入口には時計店があったなあ。
ヤストモの商店街は店舗のある建物の中と、南武線寄りの外の通路がありました。雨の日は中を、それ以外は混雑するので外を歩いて武蔵溝ノ口駅に向かっていました。現在のバスターミナル、薄暗いマツキヨのある辺りです。
懐かし、、昭和55年~平成7年まで梶ヶ谷に住んでたので、
メイツレーン梶ヶ谷(ドアーズの前身で、1、2Fともボウリング場)。溝の口は、長崎屋、ヨーカ堂、サンコー(マルエツの前)、石原商店(文房具屋)、緑屋、ダイヤンスポーツ、スギザキスポーツがあったような、あと西口商店街に小さい踏切もあったような、、
超地元話ですわ。
飲みながら語りたいネタだよねえ
(2022年9月16日投降)
1967年(昭和42年)頃だと思う、近くに、立正(りっしょう)幼稚園がありました。
立正女子大学附属 溝ノ口幼稚園?。
" 立正女子大学 " ≒今の " 文教大学 " の前身かと思う。
" ・・・立正・立正・日本一の、立正の子供は、良い子供 "
という園歌であったと思う。
懐かしい写真ありがとうございます。88年~92年迄の4年間東急線で溝の口に通い、転勤で三十年振りに戻って来たら駅前が変わっていて驚きました。学校へ行くのにヤストモを通って武蔵溝ノ口駅へ行ってましたよ。あのごちゃごちゃした感じが好きだったので今の小奇麗な街並みが少し残念な気がしています。もし溝ノ口西口商店街に行かれる機会がありましたら和菓子屋玉川堂さんに行かれてみて下さい。
梶ヶ谷って結構、田園都市線の端っこの駅だったんですね。自分は家には田園都市線の方向幕に「梶ヶ谷駅」行きがあるんです、今でも電車基地の名残が残ってます。この時代か?今では中央林間や長津田行きしかない。
モロ地元のネタW。昭和50年代に投稿者様が住んでいたマンションの敷地がまだ空き地だった頃、少年野球の練習で使わせて頂いた記憶があります。
誠屋クリーニング前のマンションや田園ステーションの場所も空き地で野球グランドとして使われていたかと。(まだサッカーは人気がなかった)
ユニクロの場所は運送会社の倉庫でした。市民プラザ隣の工事現場は橘清掃工場の建て替え工事ですね。新作小学校を見守っていた煙突も現在はありません。(また建ちますけど。)
あと市民プラザ通り周辺のえげつない崖下に建っているマンションの場所のうちいくつかは高度成長期にセメントの原料となる砂を取る為に丘を削った跡だったりします。(その名残でセメント屋があったり。)長文コメ失礼しました。
ヤストモの語源が面白い。Google Earthを使った説明が分かりやすくてカッコいいですね!
昭和47年から9年間有馬、瀬田、最後は溝口西口のアパートに住んでいました。当時は、交代勤務でしたので西口の定食屋に通っていました。非常に懐かしいのですが再開発以前の動画がありましたらお願いします。その後は、茨城県にUターンしました。
平成26年3月まで勤め無事に定年退職しました。再雇用しないで別な勤務先を見つけ臨時職員として、6年間勤めて終了しました。