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面白い解釈ですね。天智vs天武 であれば、私は天智推しです。天武皇統の平城京造営の際の古墳破壊の事実。いったいどんな人柄だった100年前、200年前の100m超えの古墳複数を破壊してその上に長安を模した平城京を作れるの〜😢この古墳破壊と言う考古学的事実は動かし難いので。天武は白村江の戦いの敗北をも画策したのでは…と。40代天武から48代称徳までの位牌が泉涌寺に安置できていない事実もあるし。
なるほど、白村江の戦いで敗北を画策したというのは、そうかもしれませんね。戦争に反対していたということでしょうか。まあ、無謀な戦いだったと私は思っていますが。泉涌寺の天皇家の話は聞いたことがあり、何らかの事情があるのか、調べてみたいテーマです。
@@kumao01nigi あらま、大変〜主さんがお返事をくださった?!ありがとうございます。ただの素人の妄想です。謎に包まれた古代史は面白いので妄想も止まりません。私は天武は皇統簒奪者だと仮定しています。倭国連合と奈良政権、倭国崩壊連合と日本国、は併存期間がかなり長かったように思います。晴れて皇統も戻り、平安京遷都からが本格的な日本国の歴史では?と。そして天武以降9代続く天皇が、神武からの血脈を受け継ぐ人物ならば、御先祖様の眠る古墳を潰し自分の寝食をする内裏を作れるか?縄文から続く死者への弔いの気持ちが皆無としか思えない行為です。ただの酷い人、暴力的な人だったからでしょうか?たまたま元明天皇がただの人格障害的に酷い人だったのかな…?他にどんな状況下で先祖の前方後円墳の破壊を躊躇なくできるか考えてみました。①唐か新羅の人間だった。②倭国連合から日本国への人質だった。①の場合目的は日本国を中華の支配領域とし中華の傀儡政権樹立。で、あれば他所の国の貴族だか王様だかの墓は彼らにとって何の意味もない。長安コピーの新都造成の邪魔になる野蛮人の墓の1つや2つの破壊は造作も無い。②の場合当時は百済の王子や縁者が人質的に大和に滞在していた事を見ると、紀元後すぐに国家外交を始めた先進国倭国連合に追いつけ追い越せでやって来た奈良政権が卑弥呼没後求心力を失った倭国連合から沢山のバイリンガルや技術者を引き抜き国家形成に励むと、当然倭国連合のそれぞれも衰退、形勢逆転。奈良政権側は人質要求となり倭国連合の王子や縁者を数世代に渡り奈良政権下に留め置いた…かも…九州に戻ってももう縁者も居なく、母国は滅び、その痕跡も虚しい状態。(浦島太郎状態ですね)で、あれば奈良政権の躍進のシンボル前方後円墳を嬉々として破壊し、その上に内裏を建て溜飲を下げた事でしょう。白村江の戦いは安曇軍17000隻、後詰めの安倍軍19000隻、安曇軍だけで戦闘し、結局後詰めの安倍軍は無戦闘で日本は大敗を喫した。これを作戦ミスとしているようだが、"安倍軍は動かない作戦"で大敗に導いたのが大海人皇子だと私は妄想中です。その後安曇一族は各地に散り、安泰な新天地で発展し、中央には戻らなかった。(よっぽど政権周囲の醜聞や悪行に呆れ果て、ついには海洋民を放棄したって事。…残酷過ぎです。)日本の水運関係は安曇一族を失ってから造船術、航海術、見事に先祖返りしてしまいました。命がけでの渡航、遣唐使の時代がやってきます。白村江に30000隻を超える船団を送った実績がある国と 、同じ国とは思えないほど退行したのも事実。私の最近の妄想は②に傾いております。天武以降9代がモチベーションを保つにはやっぱり『先祖の恨み、亡国の恨み忘れまじーーーー!!』の方がしっくり来るかも…と。ごめんなさい。主さんのお返事に喜び勇み過ぎて長文となりました。本当に古代史は楽しいですよね。これからも色々な考察を楽しみにしています。
@@kumao01nigi あら〜ビックリ〜古代史妄想大会があったらで成績優秀者になれそうなくらいの私に、主さんからお返事が〜ありがとうございます。「天武は戦争に反対していて敗戦を画策したか?」について少し。戦争反対の平和主義者として白村江の戦を敗戦に導いたわけではなく、白村江の開戦と敗北の混乱に乗じての皇統奪取が最終目標だったと妄想しております。妄想の出発点は皇統を天智系に戻さないようにしながらの平城京造成時の古墳破壊行為です。破壊した前方後円墳の石室には当時まだ遺骸があったのではとも言われています。縄文時代から続く、死者を弔い祀る精神性をも破壊する行為です。いったいどんなバックグラウンドがあれば死者が眠る墓を破壊し、その上に内裏を建てその中で寝食できるのか?①天武(父方母方含め)の出自が唐(または新羅)であり、唐の傀儡政権樹立が目的だった?②天武は倭国連合が奈良政権に差し出した人質一族だったが母国の崩壊に接し怒髪天を衝いていた。上記のような状況であれば、古墳の被葬者は御先祖様でもない全くの他人。古墳を破壊するのに躊躇はなくなるでしょう。①であれば他国の縁もゆかりもない後進国の酋長一族の墓は邪魔であれば破壊撤去するのみでしょうから。②であれば倭国連合崩壊の怨み骨髄。もちろん御先祖様の古墳でもない他国の王家の墓の破壊行為は天武系には是であり正義であったのかもしれません。最近は②の人質説に傾きつつあります。先進国である倭国連合の弱体化。卑弥呼死去による連合の瓦解が始まった。後進国奈良政権は瓦解の始まった倭国連合からバイリンガルやマルチリンガル、各種技術者のヘッドハンティングで国力アップを測ったでしょう。一方倭国連合の弱体化は加速します。その頃に人質となり奈良政権下に留め置かれ、数世代を奈良政権下で余儀なく過ごした倭国連合の王族がいたとしても不思議ではありません。百済の王子も奈良政権下に留められていた事を考えると。天武が白村江の戦い前に母国の状況を見れば、一族から聞かされていたような繁栄は皆無。浦島太郎状態に陥り、「許すまじ奈良政権‼︎」と。この妄想であれば、彼の皇統が代々下って行っても、「我が一族こそが国を統べるべき一族だーー‼︎」と云うエモーショナルなモチベーションを家伝として連綿と受け継いでいた可能性 大。憎き奈良政権一族の古墳を破壊してその上に人々を歩かせ、住まわせ、踏みつける。天武皇統としてはしごく当然の行いだったのでしょう。でも結局のところ、南部九州を除く九州一円の王族含む多くの人々は畿内方面へ五月雨式に移住をしていたと思います。それとは逆に防人として多くの東国人が九州へ、縄文人の血脈が濃く出てくるほどに多くの東国人が九州では入れ替わったと思います。東国から九州派遣され望郷の念にかられつつ、結局故郷に戻れなかった東国人は九州で土着していったのでしょう。だから畿内の渡来系遺伝子が濃く、北九州の渡来系遺伝子は薄くなったのでしょうね。そもそも神武東征と言うイベント自体が、外交や九州内での紛争に疲れた一族が見切りをつけたように思います。最終的には国防の観点で九州北部より引っ込んでいる畿内が安全そうに見えたのでしょう。後進エリアの畿内の勢力には理解し得ない外交と国防問題が移住へ踏み切らせたのでしょう。いずれにしても日本列島の外交が一本化して日本国としての本格始動は天武皇統から天智皇統に戻った光仁、平安京遷都した桓武からだと理解しています。ごめんなさい。長々お邪魔しました。脈絡もあってなきが如しの駄文です。今後とも楽しい古代史の動画を待っておりますね。
深みにハマると蟻地獄。知れば知るほど、ミステリーでサスペンス。名張夏見廃寺の近所に春日大社奥の院がー柘植は大彦命の敢國神社がー椿大神社の猿田彦・多度大社の天照大神三男・鳥取国造の鳥取神社。南宮大社の金山氏に・・・大海人皇子は神社がお好き説(笑)
とてもよく整理されていて勉強になります。日本書紀は天武天皇が編纂を命じたので、多くの方は天皇の歴史書だと思われていますが、その内容には謎が数多くあります。謎があるということは書かれたものと事実、つまり考古学や民俗学などの成果と合致しないからなのです。普通は虚偽が書かれていると考えますが、天皇の歴史書と思わされているので、何とか解釈して乗り切ろうとします。しかしどんな発明をしても事実とは一致しないのです。もう、日本書紀に対する見方を考え直す時期に来ています。つまり崩御34年後の720年に完成させた藤原不比等による勝者の歴史書と見るのが正解なのです。そうすると、壬申の乱までの史実と思われるものが、実際はどうなのかはすべて事実で検証すべきなのです。中大兄天智天皇も大友皇子もヤマトで即位していないのでヤマトの大王(オオキミ)ではありませんね。天武天皇の出自が隠されていますが即位後の様子から大和盆地に権力基盤があるようなのでヤマトの大王と見て、天智天皇崩御後の大友皇子の敵対勢力を討って日本を統一した事件でしょうが、その事件の痕跡が残っているのかよく分かりませんし、壬申の乱以後も天智天皇の皇子たちが天武政権を支えていますので日本書紀に描かれた壬申の乱の内容はほとんど創作の可能性が高いです。天武天皇と天智天皇の出自については、2・3世紀の建国時代を解明して、日本書紀はほとんど歴史を捏造していると事実によって検証して判明しています。よろしければ「天智天皇とは何者だ?(その1)から(その4)」をご参照ください。
BGMもいいですね。
ここにも不比等の手が入っているのか?悪だ
大海人皇子が天智天皇の同腹の兄弟ではないとしたら母親が皇族以外の出身かも知れないな。天智天皇の子である大友皇子の母親は伊賀宅子娘とされ皇族ではなく、大友皇子は皇族を母にしないのに皇太子になったがこれは例外であり。当時は母親が皇族ではないのに皇太子や次代の天皇になることは許されなかった。その大海人皇子が、甥である大友皇子を倒し、天皇になったのなら。正当性をより確かなものとするために天智天皇の同腹と記紀に記すことはありえるだろう
天武、天智の出自はともかく、壬申の乱は日本書紀に書かれている通りである、という解釈でよろしいのですね。
考古学的な証拠が出ない限り、ほぼ日本書紀どおりだという認識です。大友軍を倒したのは天武天皇の事績なのでそのままではないかと考える次第です。
@@kumao01nigi ありがとうございます。
日本書紀では大友皇子側が軍を集めて大海人皇子を討とうと動いたから大海人皇子が挙兵したとありますがその後の記述を見れば、大海人皇子の挙兵に近江宮側が動揺したと記されていますしね大友皇子側が大海人皇子を討とうと動いたにしてはおかしいでしょう。おそらく大海人皇子側が一方的に挙兵して地方豪族の支持を取り付け大江宮側に攻め込んで行ったと考えるのが妥当でしょう。天智天皇の白村江の戦いに至る朝鮮出兵の敗北や防人の派遣、さらに中央集権体制の確立などこうしたことはとりわけ権力構造で下層にある地方豪族に大きな負担を強いていたでしょう。大海人皇子の挙兵は天智路線に対する地方豪族の不満を取り込むことに成功した結果だと思います
天智より天武の方が有力な後継者はきついわ天武が正統なら最初から古人大兄皇子として書けばいい訳で変に怪しまれるような胡散臭い書き方しなくていいそして天智をもっとストレートに出自の低い簒奪者扱いすればいいだけ天武の方が正統性が無いからこそ天智を正統性のある存在として自分もそれに連なる存在として両方を立てつつ天智の黒さを描くという筋書きを作る必要が出てくる
信じていただけないと思いますが、壬申の乱には四国徳島舞台説があります。大野寺の起源がポイントです。奈良の大野寺は弥勒寺という名前でした。
阿波起源説ですね、勉強したいと思います。
日本書紀における奈良説の戦闘経路を自身で踏破、確認するまでは断言を避けますが、万葉集などに描かれる吉野川が奈良の吉野川ではない、という説自体は否定出来ないと思います。これは千三百年の常識をひっくり返す一大スキャンダルなのです。脊髄反射で阿波説を否定する学者を自分は軽蔑します。自分としては誰よりも疑って検証してみた結果なのですから。
んー律令制度が整った飛鳥時代に侵略するのが無理というのがオカシイと思います。中国はどうなのですか? 反対に世界では18世紀まで平気で律令持ってた国家が滅ぼされてるのですが・・・ 壬申の乱の一日単位での推移は勉強になりましたが、全体像はもっと理解された方が良いのではないかと思いました。記紀を正とすれば矛盾だらけなのに、それに囚われて抜け出せないと、真実には辿り着けませんよ
真相は、穴兄弟です。
(笑)
額田王
天武天皇は記紀に書かれているとうりです。
古事記は縄文時代日本人、日本書・紀は渡来民族の歴史。
面白い解釈ですね。
天智vs天武
であれば、私は天智推しです。
天武皇統の平城京造営の際の古墳破壊の事実。
いったいどんな人柄だった100年前、200年前の100m超えの古墳複数を破壊してその上に長安を模した平城京を作れるの〜😢
この古墳破壊と言う考古学的事実は動かし難いので。
天武は白村江の戦いの敗北をも画策したのでは…と。
40代天武から48代称徳までの位牌が泉涌寺に安置できていない事実もあるし。
なるほど、白村江の戦いで敗北を画策したというのは、そうかもしれませんね。
戦争に反対していたということでしょうか。
まあ、無謀な戦いだったと私は思っていますが。
泉涌寺の天皇家の話は聞いたことがあり、何らかの事情があるのか、調べてみたいテーマです。
@@kumao01nigi
あらま、大変〜
主さんがお返事をくださった?!
ありがとうございます。
ただの素人の妄想です。
謎に包まれた古代史は面白いので妄想も止まりません。
私は天武は皇統簒奪者だと仮定しています。
倭国連合と奈良政権、
倭国崩壊連合と日本国、
は併存期間がかなり長かったように思います。
晴れて皇統も戻り、平安京遷都からが本格的な日本国の歴史では?と。
そして天武以降9代続く天皇が、神武からの血脈を受け継ぐ人物ならば、御先祖様の眠る古墳を潰し自分の寝食をする内裏を作れるか?
縄文から続く死者への弔いの気持ちが皆無としか思えない行為です。ただの酷い人、暴力的な人だったからでしょうか?
たまたま元明天皇がただの人格障害的に酷い人だったのかな…?
他にどんな状況下で先祖の前方後円墳の破壊を躊躇なくできるか考えてみました。
①唐か新羅の人間だった。
②倭国連合から日本国への人質だった。
①の場合
目的は日本国を中華の支配領域とし中華の傀儡政権樹立。
で、あれば他所の国の貴族だか王様だかの墓は彼らにとって何の意味もない。
長安コピーの新都造成の邪魔になる野蛮人の墓の1つや2つの破壊は造作も無い。
②の場合
当時は百済の王子や縁者が人質的に大和に滞在していた事を見ると、
紀元後すぐに国家外交を始めた先進国倭国連合に追いつけ追い越せでやって来た奈良政権が卑弥呼没後求心力を失った倭国連合から沢山のバイリンガルや技術者を引き抜き国家形成に励むと、当然倭国連合のそれぞれも衰退、形勢逆転。
奈良政権側は人質要求となり倭国連合の王子や縁者を数世代に渡り奈良政権下に留め置いた…かも…
九州に戻ってももう縁者も居なく、母国は滅び、その痕跡も虚しい状態。(浦島太郎状態ですね)
で、あれば奈良政権の躍進のシンボル前方後円墳を嬉々として破壊し、その上に内裏を建て溜飲を下げた事でしょう。
白村江の戦いは
安曇軍17000隻、
後詰めの安倍軍19000隻、
安曇軍だけで戦闘し、結局後詰めの安倍軍は無戦闘で日本は大敗を喫した。
これを作戦ミスとしているようだが、"安倍軍は動かない作戦"で大敗に導いたのが大海人皇子だと私は妄想中です。
その後安曇一族は各地に散り、安泰な新天地で発展し、中央には戻らなかった。(よっぽど政権周囲の醜聞や悪行に呆れ果て、ついには海洋民を放棄したって事。…残酷過ぎです。)
日本の水運関係は安曇一族を失ってから造船術、航海術、見事に先祖返りしてしまいました。
命がけでの渡航、遣唐使の時代がやってきます。
白村江に30000隻を超える船団を送った実績がある国と 、同じ国とは思えないほど退行したのも事実。
私の最近の妄想は②に傾いております。
天武以降9代がモチベーションを保つにはやっぱり
『先祖の恨み、亡国の恨み忘れまじーーーー!!』
の方がしっくり来るかも…と。
ごめんなさい。
主さんのお返事に喜び勇み過ぎて長文となりました。
本当に古代史は楽しいですよね。
これからも色々な考察を楽しみにしています。
@@kumao01nigi
あら〜ビックリ〜
古代史妄想大会があったらで成績優秀者になれそうなくらいの私に、主さんからお返事が〜
ありがとうございます。
「天武は戦争に反対していて敗戦を画策したか?」
について少し。
戦争反対の平和主義者として白村江の戦を敗戦に導いたわけではなく、白村江の開戦と敗北の混乱に乗じての皇統奪取が最終目標だったと妄想しております。
妄想の出発点は皇統を天智系に戻さないようにしながらの平城京造成時の古墳破壊行為です。
破壊した前方後円墳の石室には当時まだ遺骸があったのではとも言われています。
縄文時代から続く、死者を弔い祀る精神性をも破壊する行為です。
いったいどんなバックグラウンドがあれば死者が眠る墓を破壊し、その上に内裏を建てその中で寝食できるのか?
①天武(父方母方含め)の出自が唐(または新羅)であり、唐の傀儡政権樹立が目的だった?
②天武は倭国連合が奈良政権に差し出した人質一族だったが母国の崩壊に接し怒髪天を衝いていた。
上記のような状況であれば、古墳の被葬者は御先祖様でもない全くの他人。古墳を破壊するのに躊躇はなくなるでしょう。
①であれば他国の縁もゆかりもない後進国の酋長一族の墓は邪魔であれば破壊撤去するのみでしょうから。
②であれば倭国連合崩壊の怨み骨髄。もちろん御先祖様の古墳でもない他国の王家の墓の破壊行為は天武系には是であり正義であったのかもしれません。
最近は②の人質説に傾きつつあります。
先進国である倭国連合の弱体化。卑弥呼死去による連合の瓦解が始まった。
後進国奈良政権は瓦解の始まった倭国連合からバイリンガルやマルチリンガル、各種技術者のヘッドハンティングで国力アップを測ったでしょう。
一方倭国連合の弱体化は加速します。
その頃に人質となり奈良政権下に留め置かれ、数世代を奈良政権下で余儀なく過ごした倭国連合の王族がいたとしても不思議ではありません。百済の王子も奈良政権下に留められていた事を考えると。
天武が白村江の戦い前に母国の状況を見れば、一族から聞かされていたような繁栄は皆無。
浦島太郎状態に陥り、「許すまじ奈良政権‼︎」と。
この妄想であれば、彼の皇統が代々下って行っても、「我が一族こそが国を統べるべき一族だーー‼︎」と云うエモーショナルなモチベーションを家伝として連綿と受け継いでいた可能性 大。
憎き奈良政権一族の古墳を破壊してその上に人々を歩かせ、住まわせ、踏みつける。天武皇統としてはしごく当然の行いだったのでしょう。
でも結局のところ、南部九州を除く九州一円の王族含む多くの人々は畿内方面へ五月雨式に移住をしていたと思います。
それとは逆に防人として多くの東国人が九州へ、縄文人の血脈が濃く出てくるほどに多くの東国人が九州では入れ替わったと思います。東国から九州派遣され望郷の念にかられつつ、結局故郷に戻れなかった東国人は九州で土着していったのでしょう。
だから畿内の渡来系遺伝子が濃く、北九州の渡来系遺伝子は薄くなったのでしょうね。
そもそも神武東征と言うイベント自体が、外交や九州内での紛争に疲れた一族が見切りをつけたように思います。
最終的には国防の観点で九州北部より引っ込んでいる畿内が安全そうに見えたのでしょう。
後進エリアの畿内の勢力には理解し得ない外交と国防問題が移住へ踏み切らせたのでしょう。
いずれにしても日本列島の外交が一本化して日本国としての本格始動は天武皇統から天智皇統に戻った光仁、平安京遷都した桓武からだと理解しています。
ごめんなさい。
長々お邪魔しました。
脈絡もあってなきが如しの駄文です。
今後とも楽しい古代史の動画を待っておりますね。
深みにハマると蟻地獄。知れば知るほど、ミステリーでサスペンス。
名張夏見廃寺の近所に春日大社奥の院がー
柘植は大彦命の敢國神社がー椿大神社の猿田彦・多度大社の天照大神三男・鳥取国造の鳥取神社。南宮大社の金山氏に・・・
大海人皇子は神社がお好き説(笑)
とてもよく整理されていて勉強になります。日本書紀は天武天皇が編纂を命じたので、多くの方は天皇の歴史書だと思われていますが、その内容には謎が数多くあります。謎があるということは書かれたものと事実、つまり考古学や民俗学などの成果と合致しないからなのです。普通は虚偽が書かれていると考えますが、天皇の歴史書と思わされているので、何とか解釈して乗り切ろうとします。しかしどんな発明をしても事実とは一致しないのです。もう、日本書紀に対する見方を考え直す時期に来ています。つまり崩御34年後の720年に完成させた藤原不比等による勝者の歴史書と見るのが正解なのです。
そうすると、壬申の乱までの史実と思われるものが、実際はどうなのかはすべて事実で検証すべきなのです。
中大兄天智天皇も大友皇子もヤマトで即位していないのでヤマトの大王(オオキミ)ではありませんね。天武天皇の出自が隠されていますが即位後の様子から大和盆地に権力基盤があるようなのでヤマトの大王と見て、天智天皇崩御後の大友皇子の敵対勢力を討って日本を統一した事件でしょうが、その事件の痕跡が残っているのかよく分かりませんし、壬申の乱以後も天智天皇の皇子たちが天武政権を支えていますので日本書紀に描かれた壬申の乱の内容はほとんど創作の可能性が高いです。
天武天皇と天智天皇の出自については、2・3世紀の建国時代を解明して、日本書紀はほとんど歴史を捏造していると事実によって検証して判明しています。よろしければ「天智天皇とは何者だ?(その1)から(その4)」をご参照ください。
BGMもいいですね。
ここにも不比等の手が入っているのか?悪だ
大海人皇子が天智天皇の同腹の兄弟ではないとしたら
母親が皇族以外の出身かも知れないな。
天智天皇の子である大友皇子の母親は伊賀宅子娘とされ
皇族ではなく、大友皇子は皇族を母にしないのに皇太子になったが
これは例外であり。
当時は母親が皇族ではないのに皇太子や次代の天皇になることは許されなかった。
その大海人皇子が、甥である大友皇子を倒し、天皇になったのなら。
正当性をより確かなものとするために天智天皇の同腹と記紀に記すことはありえるだろう
天武、天智の出自はともかく、壬申の乱は日本書紀に書かれている通りである、という解釈でよろしいのですね。
考古学的な証拠が出ない限り、ほぼ日本書紀どおりだという認識です。大友軍を倒したのは天武天皇の事績なのでそのままではないかと考える次第です。
@@kumao01nigi ありがとうございます。
日本書紀では大友皇子側が軍を集めて大海人皇子を討とうと動いたから大海人皇子が挙兵したとありますが
その後の記述を見れば、大海人皇子の挙兵に近江宮側が動揺したと記されていますしね
大友皇子側が大海人皇子を討とうと動いたにしてはおかしいでしょう。
おそらく大海人皇子側が一方的に挙兵して地方豪族の支持を取り付け大江宮側に攻め込んで行ったと考えるのが妥当でしょう。
天智天皇の白村江の戦いに至る朝鮮出兵の敗北や防人の派遣、さらに中央集権体制の確立など
こうしたことはとりわけ権力構造で下層にある地方豪族に大きな負担を強いていたでしょう。
大海人皇子の挙兵は天智路線に対する地方豪族の不満を取り込むことに成功した結果だと思います
天智より天武の方が有力な後継者はきついわ
天武が正統なら最初から古人大兄皇子として書けばいい訳で変に怪しまれるような胡散臭い書き方しなくていい
そして天智をもっとストレートに出自の低い簒奪者扱いすればいいだけ
天武の方が正統性が無いからこそ天智を正統性のある存在として自分もそれに連なる存在として両方を立てつつ天智の黒さを描くという筋書きを作る必要が出てくる
信じていただけないと思いますが、壬申の乱には四国徳島舞台説があります。
大野寺の起源がポイントです。奈良の大野寺は弥勒寺という名前でした。
阿波起源説ですね、勉強したいと思います。
日本書紀における奈良説の戦闘経路を自身で踏破、確認するまでは断言を避けますが、万葉集などに描かれる吉野川が奈良の吉野川ではない、という説自体は否定出来ないと思います。
これは千三百年の常識をひっくり返す一大スキャンダルなのです。
脊髄反射で阿波説を否定する学者を自分は軽蔑します。
自分としては誰よりも疑って検証してみた結果なのですから。
んー律令制度が整った飛鳥時代に侵略するのが無理というのがオカシイと思います。中国はどうなのですか?
反対に世界では18世紀まで平気で律令持ってた国家が滅ぼされてるのですが・・・
壬申の乱の一日単位での推移は勉強になりましたが、全体像はもっと理解された方が良いのではないかと思いました。記紀を正とすれば矛盾だらけなのに、それに囚われて抜け出せないと、真実には辿り着けませんよ
真相は、穴兄弟です。
(笑)
額田王
天武天皇は記紀に書かれているとうりです。
古事記は縄文時代日本人、日本書・紀は渡来民族の歴史。