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松平清康が陣中で家臣に刺殺された、刀があの「村正」だった。
会津藩主松平容保公が日光東照宮の宮司になったのは、松平は元々、神職の家系だったからです。
これは…痒いところに手が届く解説!
松平親氏を主人公にした「どこから家康」をぜひ
とてもためになるのですが、土地の発音が違うのがとても気になります。そこもきちんと調べてほしかったです
難しから3回も観ちゃいました😊今年も解説よろしくお願いします。
家康が三河を統一した際、松平姓から徳川に復姓している。その「徳川」の由来となってる地名が、新田氏の開祖・新田義重の居館跡(世良田東照宮)の南東にある。新田義重の四男義季は上野国新田郡世良田荘徳川郷に住して得川を称した。
大光院 呑龍さん参拝の予習になりました。
世良田と聞いて、地元の地名なので驚きました。今回の大河、より興味深くなりました。
親氏は時宗の流れ坊主で、松平郷に来る前に酒井郷に滞在中に酒井氏の娘に手を出して子供をつくったという逸話がありますね。本当かどうかはともかく徳川と酒井氏のつながりが深かったという事を言っているのだと思います。
坊主説は江戸時代に出てきて割とすぐに方々から全否定されてるそうなのです。公然の嘘状態。
私も聞きましたが、確かに面白過ぎて、出来過ぎた話ですね。反権力の庶民にもウケそう。
@@瑞慶覧凹陳家綱の死後宮将軍擁立事件で有名な大老酒井雅楽頭、通称下馬将軍
親氏、出家名徳阿弥
松平郷(松平東照宮)まで旅したことがあります。謎の浪人・新田氏の流れ親氏の銅像が印象深くて、懐かしかったです。
いつも分かりやすい解説ありがとうございます
祖父清康は24歳で家臣に殺害され、父広忠は22歳で死去。2代続けて当主が早世した後家臣をまとめて立て直した家康はやっぱり凄い
え、、なんで家臣に殺されたんですか?
清康は父親が粛清されると思い込んだ家臣が父親が粛清される前に清康を殺したという流れですね広忠は襲撃されて殺されたという説もあるが、当時の史料の多くは病死と書かれており病死の可能性の方が高いでしょう
守山崩れ(森山崩れ)で、馬が暴れたのを阿部正豊が、父親が直訴すると聞いていたので父の定吉が、斬られたと思い清康に斬りかかり殺害。
戦国時代、戦争の後片付けは誰がしたんですか?そこら辺に⚪体や柵とかごろごろしてたと思うんですが…
鉄関連は死体漁りが盗んでいって売ってお金に替えた武士や一般兵の死体は戦争に勝ったほうが近隣の村人にお金を払って、弔ったり等の処理をしてもらっていた。当時の日本の場合、戦場の後片付けをしている非戦闘員を狙ってはいけないという暗黙のルールがあったから安全に後片付けができた
西三河は足利一門の知行地なのに、十八松平が空白地みたいに刈り取っていく理屈は学者先生たちもあまり手を出さないんだよな。信光なんて仁木氏の一門臭いのに。
そうなんですよね。武力で侵略したのではなく、まずはその土地の領主から地頭職とか代官職などを公式に得て、あとで横領するという形で支配地域を広げていったのではないか、という説は読んだことあります。
岩津松平家が伊勢氏に被官していることから、幕府直轄ということはなかろうか将軍の命で勢力を拡大していたのならばどうであろうか
@@白吉-j4d それだと長親が攻めてきた主筋(伊勢宗瑞)を蹴散らした下剋上が成立w
宗家岩津松平家の当主がやらてるから引き分け
知りたいことをわかりやすく!!ホントに王道ありがとうございます!
昔、没落した名門の子孫と名乗った偽物の事件かありましたね。有栖川宮の子孫と名乗り、派手な結婚式まで挙げちゃった男女がいました。
後南朝の子孫の天皇がいました
安城城跡や桜井城跡を散歩で良く通ります。これまで城跡の看板を見ても人名が頭に入ってこなかったのですが、この動画でようやく頭に入りました。良い動画をありがとうございました。
謎の浪人・親氏…ほんとに何者だったんだろうか。
松平家が徳川家に名称変更になった理由をお教え頂き有難うございました。今度は、徳川家と酒井家との関係についてお教えくだされば有難いです。酒井忠次は非常に優秀な武将だっただけに興味があります!
初めは酒井に婿入りして、その後、松平に婿入りしたそうです。
世良田次郎三郎って影武者徳川家康を思い出した。
松平が被官となった政所伊勢氏は伊勢宗瑞の本家筋なんで明応の政変で松平家と対立する事になったのか気になるところですね
この時代はやっぱり安城城と呼ぶのが定説になってきているのですね、安祥城というのは江戸期の書物に初めて出てくるみたいでした僕は地元民なのですが50年前の情報がアップデートされていませんでしたm(_ _)m地元民としてすべての地名と位置関係がイメージできますので、大変分かり易く聞かせていただきましたなぜ徳川と改易したのかの理由も楽しみにしております
明応の政変って三河にまで波及してたのか😲家康の代になって、今川と北条にリベンジを果たすんやな
地方の戦乱は中央の情勢と関連しているのではないか? という見方をする研究が増えてきてますね。
童門冬二著作で、三河で徳川と名乗りをあげるまでが、物語となってます。胸アツ展開ですよ。
今回の大河では描かれてないけど、松平家の主従関係はフラットだった記憶があります。(昔の徳川家康で)初回の「どうする家康」でも殿と家臣は仲間的ですよね!
今更ですが鎌倉殿の大河に足利氏がメインキャストにならなかったのは残念です
解説のおかげで大河が楽しむことが出来てます!ありがとうございます!
世良田氏の祖・世良田義季は山名氏の祖・山名義範の兄弟で、山名氏が足利氏と同祖の義国流源氏一門として室町時代に一貫して足利一門と同格の特別待遇をうけているので、清康の世良田氏としての名乗りはほ私称に近いものだったのではないかと思います。
松平家の得川新田家始祖説事態が詐称ですね。
家系図改ざんしている噂もあるけどどうなんだろう。
新田氏の家系を買ったと言われてるね
三河と岡崎と安城の発音が違う笑
伊勢は部下を圧迫、今川は失地(刈谷市今川)を取り戻しにきただけという建前もあるよ。
松平の祖は、土建屋…まさか子孫が天下を取るとは夢にも思わなかったでしょうね…謎の氏親とは…フラッとやって来た宴会で良い歌詠んで娘婿になる…抜け落ち過ぎて訳がわからん…😅でも、面白い。それにしても、毎回清流が流れるが如く解説武士道さん凄い…❗️これからも「どうする家康」解説楽しみです😊
土建屋ではなくて、客寮・同朋衆だろうな。
♯どうする予習、とても役立ちます。武士道さんのおかげで、歴史=暗記教科のイメージが変わりました。ありがとうございます
祖父が守山崩れで部下に刺され父親も部下に襲われた逸話がある忠義に篤い三河武士とは一体
三河国一揆ではかなり多くの家臣が一揆勢に荷担してますから家康も苦労していますま、家康が一向衆の寺院の既得権に手を出そうとしたのが原因ですけどね
東海道は三浦半島から海を渡って、房総半島に行くルートです安房、上総、下総の配列でもわかりますよね
松平信重かっこいい名前が
武士道さん! つくづく「説明が上手だなぁ~」と、毎回感心させられます!今回のヒットは、「現代でも公務員とか大企業の社員にると信用される」ってとこです。思わず笑い 確かに、松平信光が室町幕府万所執事伊勢氏の被官になるってのは、田舎のヤクザの親分が国家公務員になったようなもんですからねw 『麒麟が来る』の頃はよく視聴させていただいてましたが、あのころと比べて知識量も説明能力も研鑽を積まれたことがよくわかります。「わかりやすくざっくりと」なのは確かですが、大事なポイントはちゃんと押さえていたと思います。 東三河の戦国史にしか興味のない者なので、しばらくご無沙汰していましたが、またお邪魔させていただきます。これからも頑張ってください!
松平清康(家康のおじいちゃん)が三河支配の礎を作った中興の祖ですよねただし、戦国大名として此からと言う25歳で家臣に暗殺される事で暗転したんだな
中興の祖というよりは始祖かな。中興の祖は徳川吉宗みたいな人物。
@@RoyRhysさん 岡崎城に本拠地を移したのは清康ですから岡崎松平の「始祖」と言えますし、松平初代の親氏からカウントすれば7代目ですから、8代将軍吉宗みたいに「中興の祖」と言ってもおかしくないと思います。 ただ最近は「三河支配の礎を作った」と言えるほど勢力を拡大したのか?疑問を投げかける歴史学者も多くいます。むしろ叔父さんの信定の方が有力者だったのではないか?と。
@@kattsunS 中興の祖は、国が安定した中で政治的腐敗や国力低下したとき、上からの内政改革によって腐敗の一掃、国力を回復した人物だと思ってる。戦乱期は繁栄したり衰退したりは日常茶飯時なので単に勢力争いだと思う。
土スタで少しだけ2話について松潤が触れてましたが、この動画も2話に少し関連してる気がします。今日見られてよかったです。
武士道様、昨年頼朝の兄弟全員不幸という動画を配信してましたが、織田信長の兄弟もお願いいたします。
いつも楽しく視聴しております。わたしは鎌倉殿の13人のころから視聴していますが、今後も楽しみにしています。今回、家康公の先祖についての解説ですが、わたしのこのGmailアドレスを20年前に作成した時、名前を何気なく世良田二郎三郎としました。実家が上野国新田郡世良田得川郷の近くでそこからとり、初詣も世良田東照宮(日光東照宮の建物を移築してつくられた)に行っていますので何かと親近感があります。最近は世良田次郎三郎といい、「次郎」の表記が多いですね。こちらのほうが正しいのでしょうか。
世良田二郎三郎 と聞けば、「影武者徳川家康」を思い出すw世良田二郎三郎元信ですけどねw
自身が知る限りでは、松平親氏は一向宗の僧侶だったと歴史の本で読んだ覚えがあります。
大久保彦左衛門『三河物語』では時宗の僧侶だったと書かれてますね。 僧侶だったかもしれないし、連歌師だったかもしれないし、遍歴する職能民だったかもしれず、想像力が搔き立てられますね。
これはすごい大作。。
愛知在住です!全然コメントしておりませんが、今年も大河の一年を通じての解説をよろしくお願いいたします。いつも楽しく拝見しております〜。原付で行ける範囲で三河松平うじ縁の松平郷があるので今度訪問してみます〜〜👍Mr. 武士道さんも奥殿陣屋とか滝山寺、大樹寺とか行かれるのでしょうか…?また、三河の松平分家は、拠点が安城じょうではなくて安祥城だとも、思ったのですが地名的に室町時代には安城だったのかはたしてどうなのか……信長公記では、あん城と記述されていて安祥の地の城🏯略して安城て言う感じで表記が確立したのかなぁ…と…🤔
得川系世良田ですよね
Mr.武士道さんのお陰で共通テストの3点分くらい確実に取れました為になる動画ありがとうございます
とても参考になります!いつも楽しみに見ているのですが、地元であるが故イントネーションがどうしても気になってしまいます😢文字では伝えるのが凄く難しいですが...三河や岡崎、安城はどれも後ろ側にアクセントがついてます「み↑かわ」ではなく、「みかわ↑」、「おか↑ざき」ではなく「おかざき↑」、「あ↑んじょう」ではなく「あんじょ↑う」が正しいです。全然伝わらないですねwwすみません
私も三河民なので、その気持ちわかります! でもね~、他地方の人に方言を正確に発音してくれって言っても、なかなか難しいでしょうね~。
あー“、わかるぅ〜っっワタシも書きたくなってたのです。が、ドラマの中の三河武士が「おか↑ざき」って言ってるから、ホントのところどうなんだ…(´・ω・`)とも思ってました…
@@greenai51 NHK名古屋には「岡崎読み」というのがあり、アナウンサーは「岡崎」「三河」を地元のイントネーションで読みます。40年前、大河ドラマ「徳川家康」では東京読みをしていたので岡崎市民がNHKに抗議したところ、途中から地元読みに変わったという逸話があります。でも、その後東京のNHK、全然引き継ぎがなされず元の木阿弥。
@@権右衛門 ということは、今のドラマの三河武士がしゃべっているイントネーションは東京読みなのでしょうか…?だとしたらΣ(゚Д゚)…残念過ぎる
@@権右衛門 さん 面白い逸話ですね! そんなことがあったんだ! なら今回も抗議してみたら変わるかもですねw
どうする家康解説きたぁー!
機会があれば織田氏についても...🙇
戦国時代って、次々と新しいことが分かって来て、知識をブラッシュアップしないとですね。
戦国時代、暗黙の了解として源氏平家交代思想みたいな考えがありました。この事が結構ネックになっていたようです。信長が平家の出身だと言いい、秀吉は高貴な出ではなかったので、勝手に豊臣を名乗っていました。で徳川家康は源氏でなくてはいけませんでした。また征夷大将軍になるには源氏の出でなくてはなりませんでした。家康の家系は元来、加茂氏の家系でした。ですからあの三つ葉葵は、賀茂神社(愛知か京都?)の紋をとったものです。
一族の内紛。源氏がルーツというのは本当かもしれないな。
都合良く整えたものですね。新田、足利、頼朝、征夷大将軍、松平、得川。教養のある謎の浪人は、お金持ちの家(ただし、貴族ではなく土豪)の次男三男などで、教育を受けて育ち、しかし跡継ぎになれず、家来や居候になるのが嫌で、或いは追い出され、宗教、芸能、商売で才能を発揮した自由業の人だったのかなと思いました。
親氏さんてちょっと松永久秀の匂いがしました。まぁ歌会にフラッと参加するのと三好家の文官面接受けるのは、全く違うのかもしれませんが。
武士道さん、何が有ったんですか?
これまで、家康の父親宏忠を認識しているくらいで、松平家については、知識なかったので、ありがたい予習となりました、が、悲しいかな、記憶にとどまらず、すぐ、忘れてしまい、ただただ年齢のせいにしてま~す。武士道さんのおかげで、楽しく予習&復習ができて、知識増える喜びと大河がより楽しめ、いいことづくめです。
松平家は多くの分家があり、家同士の内乱も多かったみたいです。それを考えると、平安末期に身内で相争った源氏の血を引いてると言えるのかもしれませんね。
三河源氏の同族殺しは異常ですよね
司馬遼太郎「覇王の家」では徳川家康の起源は三河.松平郷の木こり‥とあります。三河土着の有力豪族=松平家親氏=新田源氏は後付けでしょう。
謎のインテリが土建屋のパーティーに潜り込んで、主人に気に入られて娘と結婚し、家を乗っ取る。初代、完全に詐欺師っすね😆しかも土建屋と関係ない自分の弟に跡を継がせて、本拠地まで移転して、もはや松平の地とも関係ないとか。
鎌倉殿の大泉頼朝もかなりの詐欺師やしウソも突き通せば誠になる言うとってんかwww
土豪、国衆は守護が指揮する家臣団の一員です多くの守護大名は配下にいくつかの親族衆、国衆、譜代衆を従え家臣団としていきますだから、松平氏も地方の小さな武士団ですね当然、支配している地域では行政も裁判も軍事も行いますが、土木作業グループとは違います土豪とはその土地を支配している豪族という意味です。国衆とは守護配下で守護の軍事権に属する親族衆以外のものたちということです。国衆は指示を集まれば守護に対抗できることもありますただ、岩津松平家が伊勢氏に被官しているので、伊勢氏も三河に領地を持っているかもともと幕府の直轄領で、その庇護のもとに松平氏が三河ほか畿内で行動していたのだろうと考えます
今年もまた、歴史警察や史実厨の皆様のご活躍(Twitter等)が散見されますねぇ~w 時代考証担当の有名な歴史学者に嚙みついてる人のメンタリティってどうなってんでしょうね? 大河ドラマはフィクションとして楽しめばよいのに。 たとえば「金陀美具足」なんてキンキラキンの鎧が現存してるんだったら、そりゃ史実無視してでもイケメン俳優に着せてカッコイイ画を撮りたくなるよね。私も見てて楽しかった! ちなみに、みんな大好き『信長公記』によると「今度家康は朱武者にて先懸けをさせられ」と記述されてます。朱武者(しゅむしゃor あかむしゃ)、つまり「キンキラキン」じゃなくても「真っ赤っか」だった可能性はありますね。どちらにせよ、ちょー派手派手な、ちょー目立つ姿で戦場にいたことになります。目立っていたからこそ敵方(信長の家臣)の太田牛一の知るところとなり、わざわざ特記したのでしょう。 「綺羅を飾る」という言葉があります。武士とは「戦場で目立ってなんぼ」の商売です。今川義元は、気弱そうな元康に気合を入れ立派な武士として活躍してほしいとの願いを込めて派手な鎧を贈ったのです。素敵なストーリーじゃありませんか?
フィクションではあるが、あまりにも史実から逸脱しては薄っぺらになる。それをNHKの大河ドラマでやる価値があるかどうか。歴史を知れば知るほど「はあ?」てなるのはわからんでもない。知らなければ疑問もわかない。
@@権右衛門 さん コメントありがとうございます。確かに感じ方は人それぞれ十人十色で良いと思います。 が、少なくとも私自身は歴史を勉強すればするほど「歴史学と歴史ドラマ(小説)は別物だ」という想いが強くなって現在に至ります。その方がフィクションを気楽に鑑賞できてお得だと思うんですけどねw ちなみ後学のため教えて頂けたら嬉しいのですが、今回の第1話で「薄っぺら」になるほど「あまりにも史実から逸脱」した描写としてどのようなものがあったでしょうか? もちろん感じ方は十人十色ですので権右衛門さんの個人的な感想でかまいません。どうぞよろしくお願いいたします。
知り合いにこの動画を勧めたらガッコの授業?(`-ω-) \(=ω=`)みたいな日本史分からないと大河ドラマ分からん予習は(`=ω=)ええな下手こいたらネタバレやけど予習やし
松平清康が陣中で家臣に刺殺された、刀があの「村正」だった。
会津藩主松平容保公が日光東照宮の宮司になったのは、松平は元々、神職の家系だったからです。
これは…痒いところに手が届く解説!
松平親氏を主人公にした「どこから家康」をぜひ
とてもためになるのですが、土地の発音が違うのがとても気になります。そこもきちんと調べてほしかったです
難しから3回も観ちゃいました😊
今年も解説よろしくお願いします。
家康が三河を統一した際、松平姓から徳川に復姓している。その「徳川」の由来となってる地名が、新田氏の開祖・新田義重の居館跡(世良田東照宮)の南東にある。新田義重の四男義季は上野国新田郡世良田荘徳川郷に住して得川を称した。
大光院 呑龍さん参拝の予習になりました。
世良田と聞いて、地元の地名なので驚きました。
今回の大河、より興味深くなりました。
親氏は時宗の流れ坊主で、松平郷に来る前に酒井郷に滞在中に酒井氏の娘に手を出して子供をつくったという逸話がありますね。本当かどうかはともかく徳川と酒井氏のつながりが深かったという事を言っているのだと思います。
坊主説は江戸時代に出てきて割とすぐに方々から全否定されてるそうなのです。公然の嘘状態。
私も聞きましたが、確かに面白過ぎて、出来過ぎた話ですね。反権力の庶民にもウケそう。
@@瑞慶覧凹陳家綱の死後宮将軍擁立事件で有名な大老酒井雅楽頭、通称下馬将軍
親氏、出家名徳阿弥
松平郷(松平東照宮)まで旅したことがあります。謎の浪人・新田氏の流れ親氏の銅像が印象深くて、懐かしかったです。
いつも分かりやすい解説ありがとうございます
祖父清康は24歳で家臣に殺害され、父広忠は22歳で死去。2代続けて当主が早世した後家臣をまとめて立て直した家康はやっぱり凄い
え、、なんで家臣に殺されたんですか?
清康は父親が粛清されると思い込んだ家臣が父親が粛清される前に清康を殺したという流れですね
広忠は襲撃されて殺されたという説もあるが、当時の史料の多くは病死と書かれており病死の可能性の方が高いでしょう
守山崩れ(森山崩れ)で、馬が暴れたのを阿部正豊が、父親が直訴すると聞いていたので父の定吉が、斬られたと思い清康に斬りかかり殺害。
戦国時代、戦争の後片付けは誰がしたんですか?そこら辺に⚪体や柵とかごろごろしてたと思うんですが…
鉄関連は死体漁りが盗んでいって売ってお金に替えた
武士や一般兵の死体は戦争に勝ったほうが近隣の村人にお金を払って、弔ったり等の処理をしてもらっていた。
当時の日本の場合、戦場の後片付けをしている非戦闘員を狙ってはいけないという暗黙のルールがあったから安全に後片付けができた
西三河は足利一門の知行地なのに、十八松平が空白地みたいに刈り取っていく理屈は学者先生たちもあまり手を出さないんだよな。
信光なんて仁木氏の一門臭いのに。
そうなんですよね。武力で侵略したのではなく、まずはその土地の領主から地頭職とか代官職などを公式に得て、あとで横領するという形で支配地域を広げていったのではないか、という説は読んだことあります。
岩津松平家が伊勢氏に被官していることから、幕府直轄ということはなかろうか
将軍の命で勢力を拡大していたのならばどうであろうか
@@白吉-j4d それだと長親が攻めてきた主筋(伊勢宗瑞)を蹴散らした下剋上が成立w
宗家岩津松平家の当主がやらてるから引き分け
知りたいことをわかりやすく!!ホントに王道ありがとうございます!
昔、没落した名門の子孫と名乗った偽物の事件かありましたね。
有栖川宮の子孫と名乗り、派手な結婚式まで挙げちゃった男女がいました。
後南朝の子孫の天皇がいました
安城城跡や桜井城跡を散歩で良く通ります。これまで城跡の看板を見ても人名が頭に入ってこなかったのですが、この動画でようやく頭に入りました。良い動画をありがとうございました。
謎の浪人・親氏…ほんとに何者だったんだろうか。
松平家が徳川家に名称変更になった理由をお教え頂き有難うございました。今度は、徳川家と酒井家との関係についてお教えくだされば有難いです。酒井忠次は非常に優秀な武将だっただけに興味があります!
初めは酒井に婿入りして、その後、松平に婿入りしたそうです。
世良田次郎三郎って影武者徳川家康を思い出した。
松平が被官となった政所伊勢氏は伊勢宗瑞の本家筋
なんで明応の政変で松平家と対立する事になったのか気になるところですね
この時代はやっぱり安城城と呼ぶのが定説になってきているのですね、安祥城というのは江戸期の書物に初めて出てくるみたいでした
僕は地元民なのですが50年前の情報がアップデートされていませんでしたm(_ _)m
地元民としてすべての地名と位置関係がイメージできますので、大変分かり易く聞かせていただきました
なぜ徳川と改易したのかの理由も楽しみにしております
明応の政変って三河にまで波及してたのか😲
家康の代になって、今川と北条にリベンジを果たすんやな
地方の戦乱は中央の情勢と関連しているのではないか? という見方をする研究が増えてきてますね。
童門冬二著作で、三河で徳川と名乗りをあげるまでが、物語となってます。
胸アツ展開ですよ。
今回の大河では描かれてないけど、松平家の主従関係はフラットだった記憶があります。(昔の徳川家康で)初回の「どうする家康」でも殿と家臣は仲間的ですよね!
今更ですが鎌倉殿の大河に足利氏がメインキャストにならなかったのは残念です
解説のおかげで大河が楽しむことが出来てます!ありがとうございます!
世良田氏の祖・世良田義季は山名氏の祖・山名義範の兄弟で、山名氏が足利氏と同祖の義国流源氏一門として室町時代に一貫して足利一門と同格の特別待遇をうけているので、清康の世良田氏としての名乗りはほ私称に近いものだったのではないかと思います。
松平家の得川新田家始祖説事態が詐称ですね。
家系図改ざんしている噂もあるけどどうなんだろう。
新田氏の家系を買ったと言われてるね
三河と岡崎と安城の発音が違う笑
伊勢は部下を圧迫、今川は失地(刈谷市今川)を取り戻しにきただけという建前もあるよ。
松平の祖は、土建屋…
まさか子孫が天下を取るとは夢にも思わなかったでしょうね…
謎の氏親とは…フラッとやって来た宴会で良い歌詠んで娘婿になる…
抜け落ち過ぎて訳がわからん…😅でも、面白い。
それにしても、毎回
清流が流れるが如く解説武士道さん凄い…❗️
これからも「どうする家康」解説楽しみです😊
土建屋ではなくて、客寮・同朋衆だろうな。
♯どうする予習、とても役立ちます。武士道さんのおかげで、歴史=暗記教科のイメージが変わりました。ありがとうございます
祖父が守山崩れで部下に刺され
父親も部下に襲われた逸話がある
忠義に篤い三河武士とは一体
三河国一揆ではかなり多くの家臣が一揆勢に荷担してますから家康も苦労しています
ま、家康が一向衆の寺院の既得権に手を出そうとしたのが原因ですけどね
東海道は三浦半島から海を渡って、房総半島に行くルートです
安房、上総、下総の配列でもわかりますよね
松平信重かっこいい名前が
武士道さん! つくづく「説明が上手だなぁ~」と、毎回感心させられます!
今回のヒットは、「現代でも公務員とか大企業の社員にると信用される」ってとこです。思わず笑い
確かに、松平信光が室町幕府万所執事伊勢氏の被官になるってのは、田舎のヤクザの親分が国家公務員になったようなもんですからねw
『麒麟が来る』の頃はよく視聴させていただいてましたが、あのころと比べて知識量も説明能力も研鑽を積まれたことがよくわかります。「わかりやすくざっくりと」なのは確かですが、大事なポイントはちゃんと押さえていたと思います。
東三河の戦国史にしか興味のない者なので、しばらくご無沙汰していましたが、またお邪魔させていただきます。
これからも頑張ってください!
松平清康(家康のおじいちゃん)が三河支配の礎を作った中興の祖ですよね
ただし、戦国大名として此からと言う25歳で家臣に暗殺される事で暗転したんだな
中興の祖というよりは始祖かな。中興の祖は徳川吉宗みたいな人物。
@@RoyRhysさん 岡崎城に本拠地を移したのは清康ですから岡崎松平の「始祖」と言えますし、
松平初代の親氏からカウントすれば7代目ですから、8代将軍吉宗みたいに「中興の祖」と言ってもおかしくないと思います。
ただ最近は「三河支配の礎を作った」と言えるほど勢力を拡大したのか?疑問を投げかける歴史学者も多くいます。むしろ叔父さんの信定の方が有力者だったのではないか?と。
@@kattsunS 中興の祖は、国が安定した中で政治的腐敗や国力低下したとき、上からの内政改革によって腐敗の一掃、国力を回復した人物だと思ってる。
戦乱期は繁栄したり衰退したりは日常茶飯時なので単に勢力争いだと思う。
土スタで少しだけ2話について松潤が触れてましたが、この動画も2話に少し関連してる気がします。今日見られてよかったです。
武士道様、昨年頼朝の兄弟全員不幸という動画を配信してましたが、織田信長の兄弟もお願いいたします。
いつも楽しく視聴しております。わたしは鎌倉殿の13人のころから視聴していますが、今後も楽しみにしています。今回、家康公の先祖についての解説ですが、わたしのこのGmailアドレスを20年前に作成した時、名前を何気なく世良田二郎三郎としました。実家が上野国新田郡世良田得川郷の近くでそこからとり、初詣も世良田東照宮(日光東照宮の建物を移築してつくられた)に行っていますので何かと親近感があります。最近は世良田次郎三郎といい、「次郎」の表記が多いですね。こちらのほうが正しいのでしょうか。
世良田二郎三郎 と聞けば、「影武者徳川家康」を思い出すw
世良田二郎三郎元信ですけどねw
自身が知る限りでは、松平親氏は一向宗の僧侶だったと歴史の本で読んだ覚えがあります。
大久保彦左衛門『三河物語』では時宗の僧侶だったと書かれてますね。
僧侶だったかもしれないし、連歌師だったかもしれないし、遍歴する職能民だったかもしれず、
想像力が搔き立てられますね。
これはすごい大作。。
愛知在住です!
全然コメントしておりませんが、今年も大河の一年を通じての解説を
よろしくお願いいたします。
いつも楽しく拝見しております〜。
原付で行ける範囲で三河松平うじ縁の松平郷があるので今度訪問してみます〜〜👍
Mr. 武士道さんも奥殿陣屋とか滝山寺、大樹寺とか行かれるのでしょうか…?
また、三河の松平分家は、拠点が安城じょうではなくて安祥城だとも、思ったのですが地名的に室町時代には安城だったのかはたしてどうなのか……信長公記では、あん城と記述されていて安祥の地の城🏯略して安城て言う感じで表記が確立したのかなぁ…と…🤔
得川系世良田ですよね
Mr.武士道さんのお陰で共通テストの3点分くらい確実に取れました為になる動画ありがとうございます
とても参考になります!
いつも楽しみに見ているのですが、地元であるが故イントネーションがどうしても気になってしまいます😢
文字では伝えるのが凄く難しいですが...
三河や岡崎、安城はどれも後ろ側にアクセントがついてます
「み↑かわ」ではなく、「みかわ↑」、「おか↑ざき」ではなく「おかざき↑」、「あ↑んじょう」ではなく「あんじょ↑う」が正しいです。
全然伝わらないですねwwすみません
私も三河民なので、その気持ちわかります!
でもね~、他地方の人に方言を正確に発音してくれって言っても、なかなか難しいでしょうね~。
あー“、わかるぅ〜っっワタシも書きたくなってたのです。が、ドラマの中の三河武士が「おか↑ざき」って言ってるから、ホントのところどうなんだ…(´・ω・`)とも思ってました…
@@greenai51 NHK名古屋には「岡崎読み」というのがあり、アナウンサーは「岡崎」「三河」を地元のイントネーションで読みます。40年前、大河ドラマ「徳川家康」では東京読みをしていたので岡崎市民がNHKに抗議したところ、途中から地元読みに変わったという逸話があります。でも、その後東京のNHK、全然引き継ぎがなされず元の木阿弥。
@@権右衛門 ということは、今のドラマの三河武士がしゃべっているイントネーションは東京読みなのでしょうか…?だとしたらΣ(゚Д゚)…残念過ぎる
@@権右衛門 さん 面白い逸話ですね! そんなことがあったんだ! なら今回も抗議してみたら変わるかもですねw
どうする家康解説きたぁー!
機会があれば織田氏についても...🙇
戦国時代って、次々と新しいことが分かって来て、知識をブラッシュアップしないとですね。
戦国時代、暗黙の了解として源氏平家交代思想みたいな考えがありました。この事が結構ネックになっていたようです。
信長が平家の出身だと言いい、秀吉は高貴な出ではなかったので、勝手に豊臣を名乗っていました。で徳川家康は源氏でなくてはいけませんでした。また征夷大将軍になるには源氏の出でなくてはなりませんでした。
家康の家系は元来、加茂氏の家系でした。ですからあの三つ葉葵は、賀茂神社(愛知か京都?)の紋をとったものです。
一族の内紛。源氏がルーツというのは本当かもしれないな。
都合良く整えたものですね。新田、足利、頼朝、征夷大将軍、松平、得川。
教養のある謎の浪人は、お金持ちの家(ただし、貴族ではなく土豪)の次男三男などで、教育を受けて育ち、しかし跡継ぎになれず、家来や居候になるのが嫌で、或いは追い出され、宗教、芸能、商売で才能を発揮した自由業の人だったのかなと思いました。
親氏さんてちょっと松永久秀の匂いがしました。
まぁ歌会にフラッと参加するのと
三好家の文官面接受けるのは、
全く違うのかもしれませんが。
武士道さん、何が有ったんですか?
これまで、家康の父親宏忠を認識しているくらいで、松平家については、知識なかったので、ありがたい予習となりました、が、悲しいかな、記憶にとどまらず、すぐ、忘れてしまい、ただただ年齢のせいにしてま~す。武士道さんのおかげで、楽しく予習&復習ができて、知識増える喜びと大河がより楽しめ、いいことづくめです。
松平家は多くの分家があり、家同士の内乱も多かったみたいです。
それを考えると、平安末期に身内で相争った
源氏の血を引いてると言えるのかもしれませんね。
三河源氏の同族殺しは異常ですよね
司馬遼太郎「覇王の家」では徳川家康の起源は
三河.松平郷の木こり‥とあります。
三河土着の有力豪族=松平家
親氏=新田源氏は後付けでしょう。
謎のインテリが土建屋のパーティーに潜り込んで、主人に気に入られて娘と結婚し、家を乗っ取る。
初代、完全に詐欺師っすね😆
しかも土建屋と関係ない自分の弟に跡を継がせて、本拠地まで移転して、もはや松平の地とも関係ないとか。
鎌倉殿の大泉頼朝もかなりの詐欺師やし
ウソも突き通せば誠になる
言うとってんかwww
土豪、国衆は守護が指揮する家臣団の一員です
多くの守護大名は配下にいくつかの親族衆、国衆、譜代衆を従え家臣団としていきます
だから、松平氏も地方の小さな武士団ですね
当然、支配している地域では行政も裁判も軍事も行いますが、土木作業グループとは違います
土豪とはその土地を支配している豪族という意味です。国衆とは守護配下で守護の軍事権に属する親族衆以外のものたちということです。国衆は指示を集まれば守護に対抗できることもあります
ただ、岩津松平家が伊勢氏に被官しているので、伊勢氏も三河に領地を持っているかもともと幕府の直轄領で、その庇護のもとに松平氏が三河ほか畿内で行動していたのだろうと考えます
今年もまた、歴史警察や史実厨の皆様のご活躍(Twitter等)が散見されますねぇ~w
時代考証担当の有名な歴史学者に嚙みついてる人のメンタリティってどうなってんでしょうね? 大河ドラマはフィクションとして楽しめばよいのに。
たとえば「金陀美具足」なんてキンキラキンの鎧が現存してるんだったら、そりゃ史実無視してでもイケメン俳優に着せてカッコイイ画を撮りたくなるよね。私も見てて楽しかった!
ちなみに、みんな大好き『信長公記』によると「今度家康は朱武者にて先懸けをさせられ」と記述されてます。
朱武者(しゅむしゃor あかむしゃ)、つまり「キンキラキン」じゃなくても「真っ赤っか」だった可能性はありますね。
どちらにせよ、ちょー派手派手な、ちょー目立つ姿で戦場にいたことになります。目立っていたからこそ敵方(信長の家臣)の太田牛一の知るところとなり、わざわざ特記したのでしょう。
「綺羅を飾る」という言葉があります。武士とは「戦場で目立ってなんぼ」の商売です。
今川義元は、気弱そうな元康に気合を入れ立派な武士として活躍してほしいとの願いを込めて派手な鎧を贈ったのです。
素敵なストーリーじゃありませんか?
フィクションではあるが、あまりにも史実から逸脱しては薄っぺらになる。それをNHKの大河ドラマでやる価値があるかどうか。歴史を知れば知るほど「はあ?」てなるのはわからんでもない。知らなければ疑問もわかない。
@@権右衛門 さん コメントありがとうございます。確かに感じ方は人それぞれ十人十色で良いと思います。
が、少なくとも私自身は歴史を勉強すればするほど「歴史学と歴史ドラマ(小説)は別物だ」という想いが強くなって現在に至ります。その方がフィクションを気楽に鑑賞できてお得だと思うんですけどねw
ちなみ後学のため教えて頂けたら嬉しいのですが、
今回の第1話で「薄っぺら」になるほど「あまりにも史実から逸脱」した描写としてどのようなものがあったでしょうか? もちろん感じ方は十人十色ですので権右衛門さんの個人的な感想でかまいません。
どうぞよろしくお願いいたします。
知り合いにこの動画を勧めたら
ガッコの授業?(`-ω-) \(=ω=`)みたいな
日本史分からないと大河ドラマ分からん
予習は(`=ω=)ええな
下手こいたらネタバレやけど予習やし