おぉ、Calmic K さんも米国に行く際乗りましたか。私も同じく 1970年 NY 駐在が決まり東京国際空港から PanAm の DC-8 で NY に向かいました。勿論あの頃は NY までノンストップでは行けないのでアラスカの FairBanks 空軍基地の給油となりました。今から見ると機内はほんとに狭かったですね。
40年以上前バンコクの日本大使館勤務をおえて1981,7月7日成田に帰るJALの DC8で帰国しました。当時は今と違い機長の許可で操縦室に入れました。担当機長は査察パイロットでも有名なM 氏、水平飛行になってからの入室ですが2men crewになつていてコオパイが親切丁寧にコックピットを案内してくれました。もうロラン航法ではなくINSで飛ぶようになりましたが天窓があり昼は陸分木で太陽位置観測、夜は星を見ての航法、昔の航海の船のようです。だから飛行機をshipというのですね。バンコク滞在中ダツカ出張からの帰りバングラ航空のDC8 city of Tokyo、バンコク経由東京行きに乗りバンコクで降りました。 機内臭ったし食事はまずいので皆バンコクで乗り換えてました。 この飛行機は日本赤軍のダツカ事件でめいわくかけたためバングラに寄付したJALの DC8でした。
父が60年代にDC-8のF/Eをしていました。自分が子供の頃、父は話を盛って話すことが多く「熊と格闘する訓練をしたことがある」とか言っていたのを疑ってましたが、この動画でその話がまるっきり嘘でもないことがわかりました。
意外な所から、裏付けが出てきました。
でも、本当に銃を載せて飛んでいたのかは、資料からは分かりませんでした。
銃を載せていなかったら、この訓練も意味ありませんし、
載せていたら載せていたで、何か問題ありそうですし。
@@NORITOBI 60年代前半であればハイジャックもメジャーではなかったので、熊対策としては銃を搭載するのが現実的だったのかもしれませんね。
@@NORITOBI さん
当時は様々な書籍や雑誌記事で救命ボートへの銃の搭載は書かれていました。
必要と思われるのは各クルーの警察からの許可取得、就航先の各国からの認可などかと思いますが、運航実績を積むにつれ、銃の搭載を止めたのは当然の成り行きでしょうね。
1970年頃の図鑑には「救命器具に銃を搭載」と記載があったのを憶えています。
@@NORITOBI
おれの勤めていた会社は、
スライド/ラフトの整備をしていたが、
ショットガン搭載の話しは先輩から聞いた事がある。
まぁ、気絶した人の目を覚ます為の強烈な匂いを発するカプセルも十分凶器じみていたがw
発煙筒は火薬扱い。
コンバージョンチェンジ改修の初号機JA8183(98年から99年に掛けての事だからShip Noは記憶が曖昧。リゾッチャ仕様になった)をマッコーネル空軍基地内のボーイング(今は無い)で改修した時は、
卸した発煙筒は空軍の弾薬庫で保管してた。
これマメな。
見た目は優雅な61ですが結構ワイルドな飛行機でした。盛大な音で離陸滑走を始めるのですがアンダーパワーだからガタガタ揺られながら走って走ってようやく離陸、着地の時にはあまり機体を引き起こせないためか、特に騒音対策でフラップを最大まで下せない伊丹空港では結構な速度で接地するのでその衝撃で毎度いくつかの座席上の黄色い酸素マスクが飛び出していました。
見た目の優雅さとは裏腹に、乗り心地はあまり・・・、って感じですね。
酸素マスクが飛び出るのは、どうかとは思いますが(笑
爆撃機の様な大騒音の離陸でしたね。
エンジンスタートからもう大騒ぎ。
爆音もさりながら、ノズルから火を吹いて回転数上昇と共に吹き消えるのは壮観でした。
80年代前半に、下地島まで行って トリトンブルーになって間もない全日空の727と日本航空のDC8のタッチアンドゴーの訓練を見学させてもらったな〜。
当時は、守衛さんにお願いしたら、ゲートのすぐ横だけど敷地内の芝生で見学させてもって良い時代でしたよ。
羨ましい話です。
下地島のブルーの海、一度見てみたいです。
DC8引退記念に出版された写真集の表紙が下地島でしたね。
1975年(昭和50年)に、仲間3人と初の海外旅行でグアム島へツアーで行った時に搭乗したのが、このDC-8でした。飛行機に乗ったのも、この時が初めてでした。JALのスチューワーデスさんの颯爽としたふるまいに魅了しました。搭乗したとき機内で流れていた美しい曲(パピオン)が今でも耳に残っています。因みに思い出ということで、JALショップ通販で、昨年の年末にDC-8のモデルプレーンを購入しました。書斎に飾り当時を思い出しながら、毎日眺めています。本当にバランスのとれた美しい機体ですね。まさに空飛ぶ貴婦人そのものです。
DC-8のモデルプレーンは良いですね。
眺めているだけで飽きなそうです。
私が18歳の時、50年前になりますが、はじめて米国に行った際、勿論アンカレッジ経由ですがその時の機体がDC8でした。機内食の豪華さに驚き、また頭上の物入れには毛布と枕がはいっていて今みたいにバッグなどを入れる閉鎖タイプではなかったように記憶しています。とにかスマートでは品のあるデザインです
おぉ、Calmic K さんも米国に行く際乗りましたか。私も同じく 1970年 NY 駐在が決まり東京国際空港から PanAm の DC-8 で NY に向かいました。勿論あの頃は NY までノンストップでは行けないのでアラスカの FairBanks 空軍基地の給油となりました。今から見ると機内はほんとに狭かったですね。
学生の頃は当時米国から持ち込まれたスカイダイビングでセスナなどの軽飛行機に100回以上着陸はしていないが乗っていましたが、大型旅客機は生まれて初めてでチョー緊張しました。
いまでも、A321など似た様な大きさのナローボディー機はありますが、
それらと比較しても、遥かにDC‐8の内装は、手間暇かかっていますね。
一度くらい、そんな飛行機に乗ってみたかったです。
そうでした。上の棚はオープン状態で、細いロープの様なもの二本で止める形でした。
いいなぁ。懐かしい画像を有難うございました。
(2022-07-31投稿。)
DC-8は各方面から愛された機体ですね。
1976年に生まれて初めて飛行機に乗ったのが日航のDC-8!社用で羽田発の韓国金海空港(旧釜山空港から移転直後)行きでしたが、飛行機が浮き上がった際に思わずお尻も上ったのを今でも覚えています!。
兎に角、初めての飛行機搭乗でワクワクしながら、しきりに窓からずう~とっl下を眺めていました。
正に日本の高度成長期で、円ドルレートが出発時は1ドル265円前後で帰国後が200円程度の為って居て、社内規定に依る出張精算で大分損をしたのも今では楽しい思い出です!!。
どのくらいの期間か分かりませんが、円ドルが60円も変化するなんて、
すごい変動ですね。それは不運でしたね。
@@NORITOBI さん!買いと売りの手数料を差っ引くと実変動額はもう少し少なかったと思いますが当時は急速な変動でした。
羽田にあるJALのスカイミュージアムにポーラーキット(ノコギリとかサバイバルナイフ、固形燃料、飯盒など)の実物が展示されてます。さすがに猟銃の実物はありませんが、射撃訓練をしていたという解説文はありました。
斧も搭載してたから戦えたかもねw
とても懐かしく楽しめました。この機体は随分と波瀾万丈にとんだと言っても
いいほどの背景があったことを痛感しました。
今回の動画で改めて驚いたのは、パンナムがクリッパーフリートの中に707と
同時に本機材を使用していた時期があったこと、全く知りませんでした。
あと、確かワイパーがついてなかったのコレでしたよね?
ホントに面白い内容でした。😊
ありがとうございます。
なんでも、パンナムは保険として
B707とDC‐8の両方を発注していたらしいですよ。
ワイパーは、空気の高圧噴射によって水滴を飛ばす仕組みでしたが、
あまり機能しなかったようですね。
客室も貨物室もよく入り込んで作業した機体です。
当時はすでに-61と-62の時代でしたが、やはり50系と-61のエンジンスターターの咆哮が忘れられません。
パラオからコンステレーションが魚を積んで来た時にはJAL機と並んで「空の貴婦人並ぶ」と新聞に乗りました。
そのDC8も後にパラオから魚を運んで来ましたが、元JAL機でした。
コンステレーションと並んだことがあるのですか!
それは見てみたかったですね。
最後に見たのはNASAの-72でしたが、その機体がはやぶさ帰還再突入の撮影ミッションで活躍したと聞いてしばし感慨に耽りました。
私も61のエンジンスタート音すごく記憶に残っています。大好きでした。
@@NOJI-mf3kk あの音とF-104の音は生涯忘れられませんね。
この頃がダグラス社は絶頂期でしたね。DC-10で、飛行機そのもの性能は別として、経営が傾いて
きましたね。
DC‐10の欠陥が無ければ、もう少し長続きしたかもしれませんね。
@@NORITOBI ご返信ありがとうございます。DC-10の販売についてはダグラス社は
欠陥を隠していたり、政府に献金して問題を大ごとにしない様にとかしてましたからね。
707が一連の軍用機シリーズと共通の部分があったのに対し、純粋の民間機としての開発大変だった事でしょう。
ギアアップ・アップ・なんだそれは! フラップアップでした。
スマートな4発エンジンの機体を見上げて子供心にDC-8!綺麗だなあと思っていました。乗れたかどうかは、不明ですが…魅力的でした。
スマートで美しいって声が多いようですね。
JALでヨーロッパへ行く際、モスクワ経由ではさんざんお世話になりました。(アンカレッジ経由は747になったんだけどモスクワ経由は747だめだったんですよね。BAとかLHなんかもモスクワ経由は707で飛んでたな)同僚が上海空港でのオーバーランの際に乗っていて、みんな命からがらシューターで逃げたと話してくれた事を思い出しました。なつかしい映像ありがとうございました。
私の知っているイタリア人の間では「コンテッサ」はお高くとまって、人に命令をする口うるさい女性を、そう呼んでいました。日本航空が世界一周路線を就航させた時には、グループサウンズのスパイダースが「太陽の翼」を歌い大ヒットをしていましたので、45Pのレコードを買いました。B面の「空の広場」の方が好きでしたが。63型機は長いので、滅多にないのですが、乗客数が少ない時は離陸の際、バランスの関係で席を移動したりしていました。今でもボンQとDH300で後ろへ移動させられることが有ります。
「コンテッサは、お高くとまって、人に命令をする口うるさい女性」
なるほど、そのようなイメージなのですね。
それだと貴婦人とは、ちょっと離れますね。
活字からは、読み取れないニュアンスなのかも。
初めて福岡から乗った旅客機が、DC-8-62でした。離陸加速と着陸時の逆噴射の減速Gに驚いたのを、覚えています。
なんで重い金属が空を飛べるのか?と思ってましたが、なるほどこの強く前に引っ張るエンジンの力で飛ぶのか!と納得しました。チャーター機だったので、コックピットを見学させてもらえましたが、いい時代でしたね。
DC-8-62、姿の美しい機体ですね。
悪い方向で「逆噴射」が流行ってしまいましたね。
確かJALの30の1機は羽田で事故り、修復時にJT8Dエンジンに換装するなどして50として復帰した。
数年前に成田の航空博物館でDC-8のコックピットでの羽田から成田のフライトシュミレーション体験でキャプテン席に座った。電子機器は全く無くメカの塊と言う感じ。着陸した後のタキシングも脇の回転レバーを手で左右にぐるぐる回しながら操縦した。
DC8は伊丹では時々飛んでくるくらいだったけど、B707に比べるとスマートで美しかったです。
特に DC-8-63 は超スリムだったです。1970年の大阪万博の時はDC8系の臨時便がたくさんきてました。
特に トランスインターナショナルの緑の機体は超美しかったです。懐かしい。
個人的には DC-8-62 が一番バランスが良いと思ってますね~
-62が好きな人と、-63が好きな人って明らかに分かれますよね。
面白い所です。
エンジンナセルのスマートさor無骨さで分かれるんでしょうね。
僕は-55, -61派です。
1979年の夏に那覇から伊丹へ乗ったのが最初で最後のDC-8搭乗でした。
伊丹近くに住んでいて、伊丹から飛んでいくDC-8は、かなり黒い排気を出しながら飛んで行ったのが思い出されます(B727もそうでしたが)。
DC‐8た、B727って相当音がうるさかったと聞いていますが、
それが無かったら、もう少し伊丹の制限も緩かったのか?
と思ってしまいます。
@@NORITOBI 確かにうるさかったです。
727はそれほどでも無かったかな?
80年代ですが、既にDC-8は滅多に見ませんでした😅
1985年ペルー国内線でD C8に最初で最後の乗機しました。扉部分に「出口」の表示が残っており後で調べてみるとJALの中古の−53でした。確かに美し機体で大好きでした。自宅は横田アプローチが近いので米軍チャーターのD C8(−61や−62)も良く見ました。最後はAT Iの−72でした。
また80年代はJALでも普通に飛んでいましたよね。
小学生時代に羽田空港展望デッキで日本航空のダグラスDC8のパイロットに手を振って頂いたのを思い出しました!!細身の胴体に赤紺のチートラインの似合うカッコいい機体でしたが羽田沖の逆噴射の墜落事故も衝撃的でした!!😭
あの事故で、逆噴射を知りました。
飛行機ってこんなことできるんだ~と。
737で知った世代は着陸とともにエンジンの部品が飛び散ったのかと一瞬ビビって・・・
DC8を見た記憶は小学生の頃に校庭から伊丹空港発の日本アジア航空が毎日同じ時間に飛んでたのが思い出しました😉👍✨
あとは羽田空港での事故『片桐機長』ですね😨
「機長、やめて下さい!」は当時の
流行ワードになってしまいましたね。
@@NORITOBI あと「逆噴射」も。
40年以上前バンコクの日本大使館勤務をおえて1981,7月7日成田に帰るJALの DC8で帰国しました。当時は今と違い機長の許可で操縦室に入れました。担当機長は査察パイロットでも有名なM 氏、水平飛行になってからの入室ですが2men crewになつていてコオパイが親切丁寧にコックピットを案内してくれました。もうロラン航法ではなくINSで飛ぶようになりましたが天窓があり昼は陸分木で太陽位置観測、夜は星を見ての航法、昔の航海の船のようです。だから飛行機をshipというのですね。バンコク滞在中ダツカ出張からの帰りバングラ航空のDC8 city
of Tokyo、バンコク経由東京行きに乗りバンコクで降りました。
機内臭ったし食事はまずいので皆バンコクで乗り換えてました。
この飛行機は日本赤軍のダツカ事件でめいわくかけたためバングラに寄付したJALの DC8でした。
コクピットに入れた時代が羨ましいです。
ズミルクス、コンテッサ(笑)。蒸気機関車に貴婦人はない、と思いますが、細いカラダつきに鼻筋通った高い鼻のDC-8は、間違いなく貴婦人でしょう。空飛ぶエンピツとジャンボを見たくて、親に羽田空港行きをせがんだ頃を思い出しました。
別にその道のマニアが言っている事だから、別に良いと思いますよ。
確かにDC‐8は美しいと思いますが。
いや悪いとは言わないですが、走らせるにはエンヤコラと石炭くべて煤だらけになるわけで、貴婦人維持する農奴みたいな苦労があるだろう、といった程度の意味合いです。(笑)は、懐かしさの微苦笑、です。
悪のりすれば、ズミルクスは、ピントが合わないところのボケぐあいがキレイで、わざとピンボケで誰を撮っても「貴婦人」になる、から貴婦人なんだと思ってました。
9600とかのごつい蒸機しか無かった時代にはC57は貴婦人だったのでしょう。
現在の目で見ると金属的爆音とともに黒煙を吹くDC8も貴婦人というよりワイルドな闘士というイメージです。
@@APW_Manbow
9600と比べられたら、D51が美少女になっちゃう気が。
私が飛行機に乗れるようになった頃は既にB747やDC10が主力になっていて、DC8は細々と飛んでいる状況でした。ある時那覇からの帰りに、成田行きではありますがDC8が充当されている便を見つけ乗ろうとしましたが、機材整備のため大幅遅れとなり仕方なく諦めたことがあります。それ以後は搭乗機会に恵まれず残念です。
そういえば、羽田着陸時に空中で逆噴射を作動させて手前の海に落ちたのもDC8でしたよね。
狙って乗った便が機種変更になると、
仕方が無いのですが、ガッカリしますよね。
小学2年の時に初めて搭乗したのが、DCー8でした。22歳のころは、福岡から釜山便やバンコク便に使用されていて、グランドサービスの時、よく見かけましたね。年がばれますが😅
初搭乗がDC‐8と言うのは、羨ましい体験ですね。
性能や燃費等の問題はあるのでしょうが、細長いエンジンとナローボディの組み合わせが美しいですね。
ただ、古いので粗い画像しか
見つけられなかったのが残念でした。
@@NORITOBI
古い画像も味があってよいと思いますよ。
リアルタイムで見たこと無い世代的に事故のイメージが強いですね
でも確かに美しい機体ですね
自分も、残念ながら羽田沖墜落事故のイメージです。
日航では長らく活躍した飛行機でしたよね。60シリーズに発展して、ボーイング747が登場するまで主力機とした訳ですね。
その後は、高バイパス値のエンジンCFM56型エンジンに換装する等ライバルのボーイング707より延命した傑作機ですね。🤓
CFMに換装したDC‐8は、何か違和感を感じるのは何故でしょう?
@@NORITOBI さんへ
デルタ航空のCFM56エンジンに替えたDC8はなんだかボーイング757を多発機にしたようで違和感が否めませんでしたよね。
余談ですが、私が1985年に就職の為上京した頃に羽田空港でJA8001通称富士号を見かけるが出来ましたが、既に鶴丸マークのみがあって真っ白になりエンジンも中身が外された状態だったのを記憶にあります!🤓
DC8は中近東に出張のときに乗りました🎵
あとアンカレッジ経由があった頃にまだコックピットの見学が出来ていた頃KLMに乗ったときにコックピットを見学させてもらったときにライフル銃があったのはびっくりしました😯南回りには搭載しないそうです⁉️
DC-8といえば「機長、何をするんです」の言葉がついて回ります。
JALは、今では考えられない位、DC-8を損失していますね。確か7機です
@@NORITOBI 危険な操縦が可能なようになっているからじゃないの?だから羽田沖の墜落事故が起きたのではないか?
そう、精神を病んだ片桐機長❗️
その言葉は隣の副操縦士が言った言葉で操縦桿を取り合ってるうち墜落‼️生存者も多数いて地元大田区医師会の救援活動もありました。
羽田沖逆噴射墜落事故機もDC-8でしたね
JALは、結構DC8で事故を起こしていますね。
冬の晴天時に地上の積雪の反射光を受けて輝いて飛ぶDC8ー61は美しかった!
DC‐8は、姿が美しいと言う方が多いですよね。
馴染みのある飛行機の名を聞くと何か言いたくなるのが私の悪い癖(杉下右京モード)。私が生まれて初めて乗った旅客機が今は亡きパンナム社の DC-8。それまではスカイダイビングでセスナなど小型機に100回以上乗ってますがその機で着陸したのはほんの数回。1970年会社の駐在員として NYC に島流しに合いましたが、その旅客機がこの DC-8。その頃は NY/USA まで直行できなかったのでアラスカのフェアバンクス空軍基地で追加給油。機内も狭く 3 + 3 の1通路。今と言うかちょっと前の B747 や A380 から見ると雲泥の差。また B707 もそうですがエンジン騒音がキーーーンと非常に耳障り。終戦1年前生まれなので B777X には乗れないかなぁ。。。
本当に美しい機体ですね…
あと、びっくりするのがいろいろ時代を経て、今またDC-8級の大型ナローボディ機の需要が高まっていることですかね
DC-8の後継となるナローボディ機、見てみたかったなぁ…
今は、B757の後継に迷っている航空会社が多いですよね。
ナローボディーの後継機は、A321LRなのか、
それともB797が出てくるのか、その辺りは見ものです。
お腹が弾けるDC-10・・・・ウッ頭が・・・・
んお?ANAのキャンセル品の事ですか?
スマートな機体ですね。実際に飛行しているDC-8を一度、見て見たかったです!
一応NASAで現役のはずです。
@@NORITOBI ありがとうございます!😆
60年代の子供用の学習雑誌に、日航DC-8の外壁を一部欠きとって内部がわかるような折込イラストがあった。
親戚の青年が留学するのを父親に付いて羽田空港へ見送りに行ったことがあったな。
JALかと思ったら米系エアラインの機材で子供心にちょっとがっかりした記憶がある。
動画やや長くて2度に分けて視聴しました。
今どきの飛行機と違って華がありますよね。
時たま間違えてコンベア880の写真を載せてある本もありました(笑)
乗ってみたかったな(*´▽`*)
あとコンベア880(*´▽`*)
『空の貴婦人』に相応しい(*´▽`*)
どちらもジェット旅客機の黎明期の機体ですね。
この動画のコメント欄をみていると結構、搭乗経験がある方がいらっしゃって
驚きです。
@@NORITOBI さん
ありがとうございます(*´▽`*)
動画を拝見させて頂いたら
わちきが社会人になる前に
退役したみたいですね
残念です( ノД`)…
(尤も、当時は長崎にはJALが
来てなかったですけどw)
60機中7機って、戦闘機も裸足で逃げ出す損耗率ですね。
初のジェットエンジンは戦前の帝国陸海軍とドイツ空軍の戦闘機らしいですね。後に敗戦した日本とドイツのジェットエンジンの技術をGHQが戦後に発展させたのが現在のジェットエンジン。
サバイバルで猟銃を積んでいたのは事実ですよ エアロフロートの便には散弾銃が CAさんは射撃訓練を受けていました、
やはり銃は搭載していましたか。
資料を見ても記述を見つけられなかったので、
疑問に思っていました。
モスクワ路線の充当機には貨物室ドアの開閉方法がロシア語で書いてありました。
@@NORITOBI ドイツ語のできるCAさんと話し込んでいるうちに仲良くなり 彼女は元イリュシン爆撃機の機長で 退役後も飛行したいので応募したら採用されました 操縦席にハマらなくなったってお茶目の方でした その方が 保管ケースを見せてくれました ハイジャックなんて彼女の国では考えて未いない時代だったんでしょうね
興味深いお話ありがとうございます。
彼女と言うことは女性なんですね。
肝っ玉母さん的な方を想像してしまいました。
@@NORITOBI さんの想像の通り 当時はエアロフロートの便が唯一モスクワ経由 短時間格安でした、韓国機追撃事件で自分なりには一番安全な? 笑 と思い込んでました。一回は遅滞3時間回復した事も どう言う風に飛んだのだろうか それとも元爆撃機にはそんなにリザーブがあったのか
鶴丸マークが一番似合う機体。
フェイルセーフ、フォールトトレランス?
フォールトトレランスという言葉は初めて聞いたので、調べてみました。
故障しても、なるべく機構の機能を維持させる設計思想みたいですね。
フェイルセーフから更に1歩進んだ考え方でしょうか。
@@NORITOBIフェールセーフとは何かと改めて調べたら、フォールトレランスという言葉に出会いました。フェールセーフ:何か起きたら運転停止、フォールトレランス:運転継続。航空機は即運転停止はできないなぁと。詳しくはないんです。NORITOBIさんはご存知かと思いまして書き込んでみました。参考↓
tooljp.com/jyosho/docs/faulttolerance/faulttolerance.html
一般人の私はすべてフェールセーフかなと思いましたが・・・。
アンカレジ コペンハーゲン間で給油? 何処で ソビエトには飛べなかった時代ですガ
詳しい事は分かりませんが、ノルウェーのボドーと言う所みたいですね。
しろくま…>(__)
ライフルとか銃刀法どうしてたんだろうって思う
そうなんですよね。それだけ緩い時代だったという事でしょうか?
素直に綺麗だなぁと思いました。搭乗したことないですが…
内装とかも豪華そうですよね。
@@NORITOBI
搭乗してみたかったです〜。
61型尾部のコンパートメントが「四畳半」と呼ばれていました。
窓が大きくて間隔が広いためにところどころに窓が無い列ができるのが難点です。、