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■主要参考資料&オススメ書籍謙信×信長 手取川合戦の真実 PHP新書 / 乃至政彦 【新書】アマゾン→amzn.to/49cqkPS楽天→a.r10.to/hNELUB
語りだけで引き込んでいく動画とか凄いわ
現代の講談。語り口と挿絵に引き込まれました。従来の無能勝頼で無く、智謀と知略の駆け引きの後敗れ去った無敵の武田勢。近代の科学的推敲を重ねた素晴らしい出来でした。
音声ナレーション、渾身の動画が素晴らしく、聞入り見入ってしまいました。大変ありがとうございます。
朗読音声も内容もとても聞きやすいです。
かっこいいな。武士の生きざま。この戦で真田兄弟がなくなったから武藤喜兵衛改めて真田昌幸が活躍して行くのですね。最終的に徳川が戦国を終わらせるのですが、 信長の姪っ子が徳川に嫁いでいることから織田の血も入っているのですよね。あー深い。いい動画ありがとうございます。
面白かった。勝頼を愚将としてスケープゴートにするのではなく、武田軍全体が信長の策に嵌ってしまったのですね。
昭和の中頃まで山奥の田舎の代々続く家には長篠戦の伝え話が残っていました。今から50年以上も前の話ですが当時のお祖母様は多分幕末か江戸時代の生まれだったのではないかと思うのですが、長篠から信州伊那、飯田を通って甲斐の国へ落ち延びる武田の落武者の通り道には今でもお墓が旧街道沿いにあったりします。先祖代々面倒を見ながら伝え話を伝えて来ています。もう今となっては詳しく聞くこともできなくなってしまいましたが、まだまだ奥の方にはいろいろなお話が残っているのではないかと思います。
BGMに津軽三味線、渋い!戦いの流れはこの動画の通りだと思います。
やっぱ信長はとんでもない相手とずっーと戦い続けてきたから異様に進歩したんでしょうね。武田側の諜報網すら逆に操縦して長篠に引っ張り出しとも言われる話すらありますしーー。そこまでの全敗すら撒き餌ともいう人すらいて、やはり異次元の人なんだなとは思えますね。
とても感情移入させられる語り口が今回も素晴らしいです。動画でも言われている通り、特徴的に語り継がれている戦いなのに一級資料が少なく、想像の余地があることが様々な説を生み、ロマンが溢れます。個人的には、勝頼公が戦のあとに他方面の諸将に状況を説明している「敵の先方衆を多数撃破して、その勢いで織田・徳川の本陣に攻めかかったら、敵は陣城を築いており、味方の先鋒が損害を出した」というのが一番しっくりする戦況だと思っています。馬防柵の手前の稜線(信玄台地)まで2~300mしかなく武田軍がそこから展開して攻撃を開始するのは近すぎます。勝頼公や武田軍武将は当初馬防柵を知らずに突撃した。もし、馬防柵等があると判っていたら違う戦法を取ったでしょう。信長公記では、武田軍が一斉攻撃ではなく、逐次に織田・徳川軍陣地に攻撃している記述になっているのも不可解ですが、勝頼公の説明のとおり、織田・徳川軍先鋒と一戦(信玄台地より東側で)して、これを撃破し各街道沿いに追撃している状況であれば、この逐次に馬防柵前(しかも山県隊は徳川隊正面、馬場隊はその2キロ近く北の佐久間隊に突撃している)に進出しているのも符合します。もし、敵の先鋒を撃破・追撃中の優勢状況で、信玄台地の稜線を超えるや、正面2~300m(弾正山)に信長公・家康公の本陣旗を見つけたらどうするだろうか、その報告を受けた勝頼公はどうするだろうかというのが、酒井隊の奇襲を放置して、無謀とも思える馬防柵(陣城)への突撃実施の真相ではと考えてしまいます(日露戦争の旅順要塞のカポニエール陣地と同じ敵を引き込む罠です)。また、鉄砲の数についてもいろいろ謎が多いです。総兵力3万以上で、1000では少なすぎ(500を酒井隊に配属したら主力は500?この時期であれば武田も北条も兵力の1/10が鉄砲隊だから3000が普通では)。徳川隊の鉄砲隊や、各武将がそれぞれの知行地から連れてきた鉄砲隊も信長公自ら編成・指示するのか?シャッフルして編成を組み替えたら方言で言葉が通じない、地域や各部隊の経歴から号令のかけ方・戦法も違うので動けないのでは?1000とか3000とか鉄砲の数のこと?、それとも鉄砲役の武士の人数のこと?とか疑問がいろいろ出てきます。これも個人的には、1000~3000は、信長公の旗本隊と畿内に残った武将衆から差し出させた鉄砲隊(だから信長公が自由に奉行を付けて運用できる)の数で、各武将の鉄砲隊3000+徳川鉄砲隊1000+旗本・増援鉄砲隊1000~3000だったのではと考えます。となれば歴史的な鉄砲重視の編成になります。3段射ちも、3万以上の兵力を指揮する信長公などが武将衆に解りやすく戦いの方針を示すために言われた言葉で、千丁ずつ一斉射撃をするという意味ではないと思います。旧軍や外国の戦史でも、「300門の砲を一斉に撃たせる」(沖縄第32軍兵力10万)等の言葉が出てきますが、300門を一つの号令で同時に撃たせているわけではなく、戦闘加入・火力発揮を許可することをわかりやすく指揮下部隊に伝えているだけで、実際は最小2~6門の単位で射撃している。ただ、300門の砲が戦力発揮した状況がすさまじかったとの同じで、各部隊固有の鉄砲隊に併せて、信長公が配置した鉄砲隊の火力は、これまでの戦とは一線を画すものであったろうと思います(実際、この戦い以降、鉄砲隊の比率がどんどん増加し、朝鮮の役・大阪の陣では1/2近くまで増えたという話もあります。これは外国も同じで、長槍と鉄砲の混成であるテルシオ隊形の鉄砲の数がどんどん増えていき、最終的に銃剣の発明で全員が小銃の戦列歩兵になったのと同様の経緯と思います)。本当に想像膨らむ、戦国ロマン溢れる戦いです。次の動画も期待します。
勝頼の視点での展開が斬新でした。
日本の合戦、ありがとうございます。一次資料がないことで、小説作家の想像で形成されてきた長篠の戦い。山形昌景の「やはり罠であったか」の一言、最近の研究を反映しているような気がします。続編、楽しみです。
武田軍の金床戦術が破られたという、現在の最新説ですね。実際に設楽原を歩いてみるとわかる。丘陵地であり、小山や林があちこちにあり、敵軍の全容などまるで見えない。また四方に山が見え、甲信の兵にとっては自分のホームグラウンドのような安心感があったことだろう。勝頼本陣からは織田徳川の陣城や馬防柵は見えず、資料館のあるあたりまで連吾川に近づいて、ようやく見える。「ここから坂を駆け下りて行ったら柵ぐらい簡単に突破できるんじゃね?」と感じる。しかし実際に近づくと、柵は大人の肩ぐらいの段差の上にあり、「この上から槍を振り下ろされる中で、段差をよじ登るなんて無理だ!」となる。織田徳川連合軍が仕掛けた罠はいくつもありますが、遠景で有利に見える地形が近景では圧倒的不利になるという視覚トリックも用いたと感じました。
@@深山雨鱒 (私に言われても・・・)
勝頼の印象が大きく変わる整然と入れ替わって撃つよりも、段々になった陣地から各々が撃ち続けた方が、たしかに現実味がありそうです
語りが上手で引き込まれます
歴史なんて、少ない文献から推察しかできません。だからロマンがあるんですよ。見ごたえ、聞き応えのある素晴らしい映画でした。ナレーションも滑舌よく素敵です❗
納得のいく説ですね。 話し方も静かで説得力があって聞きやすいです。
これまでの通説よりも、はるかにリアリティがあってとても納得のいく動画でした。面白かったです。ありがとうございました。
言葉のチョイスも喋り方もGOOD!
地元での合戦の話し、父は有海の出身ですが、父が子供の頃、雨が降ると田んぼに張られた水が赤く染まることがあったそうです。私も合戦跡巡りを何度もしましたが、その中でも首洗い池という場所が印象に強く残っています。
長篠は今でも古い碑が林の中にあったりして、そこここに時代を感じる事ができますが、昨今は第二東名ができたり、三遠南信道の建設などで当時の武将たちの本陣跡が崩されてしまって無くなってしまっているところなども多くあって残念です。長篠、設楽原はできればそのまま残してほしいと40年も前から思っております。
いやー、なんか見ごたえがあっておもしろかったわ。
引き込まれる話し方がいいですね😊
通説と比較して理にかなっていると思います。素晴らしいです。
戦いが如何に心理戦であったかに焦点を当てた解説が新鮮です。これらの作戦が大将一人の頭脳によるはずはなく、どちらにも優秀な軍師が共に協議していたはずです。それにしても信長の陽動作戦は見事にはまりましたね。合戦の絵図には馬防柵の南側が川まで達せずにわざと途切れさせているように描かれているものがあります。攻める側の定石の敵の背後に回り込むのをやり易いように誘ってます。
@@hideoyamamoto7479 信長は欧州の戦術をこの戦に応用したって何かに書いて有りましたね。イタリアだったかなー
@@pontarou01 はたして勝頼は信長の援軍の規模を把握していたのか? この動画では信長軍の進軍速度が一つ前の戦いは遅く、今回は速いので少人数であると誤認させたとありますが、武田方は斥候を放っていたはずで3万の大群を少人数と誤認しただろうか?NHKの歴史番組では信長軍は大軍と認識した上で勝頼が意地で戦うことを選んだとの説を採ってます。近年どうやら本物らしいと認識された甲陽軍鑑にはこの点はどう書かれているのか? この事(信長軍の数の把握)の検証に特化した動画が出て来ないものか、、、
@@hideoyamamoto7479 織田軍3万以上の合計3倍以上の敵大軍へ包囲殲滅戦をやろうなんて考える愚かさは勝頼はもとより武田の家臣団がやるわけないと思います武田家臣団が壊滅状態となり、またワンサイドゲームな展開にも関わらず織田側にも相当な被害が出たことから、武田軍は完全に罠にハマり死兵となって最後の意地をみせたのでしょう長篠城方面の後輩を取られて挟み撃ち状態に陥った事からも、武田軍の稚拙さが目立ちますつまりは武田側に誤認や油断などがあったのでしょう
この声優さん最高ですよね❤
内容もそうだが、このチャンネルの作りが凄い!
欧州だと6段撃ちとかがあったようですね、再装填2分で6段で20秒毎に1発撃つようですリクエストですが欧州で騎馬の戦いで有名なクルシノの戦い(1610年)とモスクワ進駐をよろしければお願いします、他にもウィーン包囲やポルタヴァ、フメリニツキーの乱もよろしければお願いします
日本の火縄銃は瞬発式だから斉射なんかしたら、待機中に暴発しまくるよ
よく研究されていますし、ドラマとして釘付けにする魅力を持っています。完成度高すぎます。長篠の戦は、戦国の戦のなかでも、興味深い戦ベスト5に入るくらいのイベントだと思います。武田勝頼は信玄時代よりも領土を拡大し、優秀なリーダーではあったのだけれど、やはり若い。歴史にIFはないのだけれど、信玄が指揮を執っていたら、信長の罠を見破っていたのかも知れません。こういう考察も歴史を学ぶ楽しさでもあります。
とても面白かったです。津軽三味線もいい感じでした。資料探しが大変かもしれませんが、津軽為信の六羽川合戦や、伊達成実の人取橋の戦いの見解も見てみたいです。ご検討お願いします。
素晴らしい
投稿者様、素晴らしい動画をありがとうございます🙇一説には三段撃ちはなくどちらかといえば自由連射射撃だったと言われています。そして戦史では守勢に回ってから勝った戦いがかなりあります。例えば第二次大戦のクルスクの戦いや太平洋戦域のマリアナ沖海戦とか。クルスクの戦いでは旧ソ連のパックフロント(島嶼状野戦築城陣地)によりドイツ軍はかなりの損害を負いました。長篠設楽原合戦や第二次大戦のクルスクの戦いやマリアナ沖海戦は戦局のターニングポイントになった戦いだと思います。
後、真田家が主体の戦いの第一次上田合戦や第二次上田合戦も守勢に回った真田勢が勝利しています。これは僕の妄想になりますけど信濃の青崩峠付近まで織田.徳川軍を引きつけていたらもしかしたら結果は違ったかもしれません。なぜなら山岳戦は山自体が城そのものだからですから。実際第二次大戦のイタリア戦線で連合軍はかなり手こずっていますし。例えば木曽地域とかは大軍の利点が消滅してしまう位の地形ですから。
瞬発式なので火縄銃は斉射は無理だしね。狙撃する感じで、最初以外は五月雨式に撃ったんやろうね。
昔小学校の授業で三段撃ちを習った時、「順番なんか関係無く準備出来た人からどんどん撃てば良くね?先生も不思議に思わんのかな?」と思った。
鉄砲隊の新解釈も合間に紹介してくれて嬉しい。
日本の戦い良いですね。今回の解説を見て今までスポットライトが当たってこなかった九州での戦いを見てみたいなと感じました。
webでみる時代劇の紙芝居!一気に引き込まれました。本当にAIが書いてくれるんですか?
実に面白かったです。鉄砲の犠牲者も相当だったでしょうが、動画でも指摘されているように、大局的にみると最後は兵力差がものを言った戦いだったのでは。しかも撤退の際に、多くが犠牲になったと思われます。勝頼も、信長が自ら出てくるからには、相当の覚悟を決めてくるため、兵力もかなりの数を連れてくることを予測できなかったのでしょうか。永遠の謎です。将来は、信長、勝頼の考え方やそれまでの経験を入れたAIを作り、長篠をめぐる事実も投入して、二人がどういう考えをめぐらしていたのかを推測するようなことができたらいいなと思ってます。😄
戦争とは、ひとつの戦いに勝って終わりではありません。攻め落とした領地を、維持する力があって、初めて勝利だと思います。残念ながら、勝頼は、それができませんでした。緒戦には勝利しても、度重なる合戦に財政は疲弊し、農民だけではなく、豪族たちすら苦しみました。結果、豪族たちは離反。百姓たちにも一揆を起こされてしまいます。
@@maruten8387 戦は強かったけど人心掌握が駄目でしたね。
@@pontarou01 ですねえ。梅雪みたいなヤローもいましたし。同じような状況でも信玄には、一応皆ついて行っていましたし。
@@maruten8387 花魁淵の話もあるし、人質を府中城に押し込めて焼き殺したり(あの場合はもう離反止めるの無理だから解放してあげるのが正解だと思う。)残虐なのは駄目ですね。
@@pontarou01 返信、ありがとうございます。信玄親子は結構残酷な逸話を沢山残しています。まあ、信長、家康の鋸引きなど、大名たちには、たいてい残酷な記録がありますね。それでも、土屋昌恒のような忠臣もいたことから、決して残虐なだけの人物でもないようです。父謙信、信長、家康のような軍事からなんやかんやを高い能力で取り仕切られたのは、天才の呼び声も高い彼等だからこそ。若い勝頼には荷が重かったのでしょうね。なお、信玄も若いころ一城皆殺しにして首を並べたところ、降伏しても殺される、と各地で苦戦を強いられました。その後、色々と懐柔策も覚え、晩年には戦国の巨獣とまで呼ばれるようになりました。父信玄が生きていれば、そういう事を教える機会もあったかもしれません。
今まで語られてきた、常識的な勝頼評ですよね。ただ以下はあくまで思いつきなのですが、勝頼は強力な集権化を進めて武田の再建に成功した、ところがその政策によって被害を被っていた勢力が一斉に離反したこういう解釈は無理でしょうか?
BGMに三味線音楽が流れるのって、いい感じです。他にも琵琶楽でもいいかな。とくに戦闘シーン。時代小説風の語り口も、乙です。ほかの海外の戦いとはカラーが違って見えます。
ナレーションうまい
映像、ナレーション、音楽もう素晴らしすぎて感服致しまする。
デザインが1800年代の銃で、なくさない為に収納型の弾込め押し込み棒は凄い、クリーニングロットなんです!
きましたね、日本史バージョン🎊
勝頼は初期の勝利で増長しすぎた。長篠攻撃に時間がかかったのは家康をおびき出すため。信玄なら総力をあげて長篠城を落とし、城を修築してたてこもる。武田軍が長篠を落とせば信長の着陣も無意味となる。勝頼を擁護したがるむきもあるが、勝頼は所詮2流以下の武将。長篠が落とせなかったとしても、戦場に陣地を築き長期戦に持ち込めば、先に撤退せざるを得ないのは、諸方に敵を抱えている信長の方である。長篠などはさほど重要な戦いではなく、軽々しく決戦を挑んで大敗した勝頼はやはり父の足元にも及ばぬ凡将といえる。生まれや家督継承の不手際は信玄のせいであり、勝頼は不運などという意見もある。しかし、毛利元就などは、兄に仕え、兄の死後は甥につかえるなど辛酸をなめた。家督相続後も井上元兼など有力家臣の顔色をうかがわねばならなかった。それでもやがて実力で家中を掌握。尼子大内を倒し、中国の覇王になった。勝頼は実力がなかったといえる
土屋昌次(昌続)は、この中を三重の馬防柵の2つを突破して、3つ目の引き倒しに取り掛かったところを集中攻撃を浴びて討ち死にした。享年31弟の土屋昌恒は、有名な片手千人斬り。
最近の説だと、武田軍が馬防柵の迂回攻撃の際に包囲攻撃を受けたことで、敗走に移ったこと言われており、かなり、真相に近い描写だと思いました。ただ、織田徳川軍が6000人もの戦死者を出したという説は武田びいきの水増しなのではないかと思います。
山縣三郎兵衛昌景 武田四天王であり、武田二十四将赤備え、赤や朱色で兵装を統一した騎馬軍団ですが、飯富虎昌から弟の山縣昌景が引き継ぎ、その後 真田信繁や井伊直政が採用したと言われています。井伊家/彦根藩では幕末まで続き、第二次長州征伐では目立つ赤備えを標的とした長州藩のアウトレンジ戦法に敗れています。ちなみに、ひこにゃんの兜は井伊直政仕様の赤備えです
武田方が騎兵で攻城戦を強いられた戦いか、と考えてましたが、兵の数、武器弾薬の質、陣地と言った基本に忠実な戦だったんですね武田方が消耗気味だった、とは思いもしませんでした
「三段撃ち」自体はあったものの、内容は「三段の先頭が名手で鉄砲を撃つ、後ろの2人が鉄砲の整備・弾込めを行う」とゆう感じだったそうです。この時、鉄砲も複数用意して作業を繰り返す、だったそうです。
普通に考えたら上手い奴が撃てばいいって考えるのが自然だよね
現代流に解せば弾幕射撃ですかね。旧ソ連軍が得意とする戦術でダマンスキー島での戦では中共軍1個連隊が一瞬にして消滅したとか。
雑賀の名手はそのようにしていただろう。しかし鉄砲には癖があり、足軽は個々の責任で整備と修練を収め手柄を欲すと考えると従来説のやり方の方が大軍の組織化としては有効だと思います。
なるほどですね!二段だったとか色々な説ありましたが、これなら合点がいきます!
実際、手負い者、生き残らせると動きが厄介な者、引く者新手の者、など、撃つ優先順位の判断も、射手と観測兵が居ればより正確性が増しますね。弾込めはそれに専念する者、渡し引き渡す者が居た方が、これもスムーズですね。
面白かった。長篠の戦いは確かに戦国最大の謎の一つであり、この説はもっとも説得力のある物だと思います。一時資料がないので実際に戦は行われてなく、後世の創作だったのではと思いますけど、どうなんでしょうかね?。今度関ヶ原の戦い諸説やってほしいですね。戦下手で家康と仲良かったはずの石田三成はなぜ後世で改変されたのか?。陣形も後世で語られているのは明治時代日本陸軍が二次資料基づいて歴史的解釈はなく勝手に作った物で、実際は大垣城を周辺に戦ったとか。小早川秀秋は本当に裏切り者だったのか?。家康は秀明を動かすの為に鉄砲放ったと言うが、そんな事したら秀明が怒り家康の陣に攻め込んだのではないか?等などw。
昔、3段撃ちスゲ!→柵が凄かった→情報戦の勝利!→長篠の戦いは無かった! 色々定説は変わるものですね。
いつも楽しみに拝見してますが、今回は日本編って事でいつもより更に楽しみにしてました。いつもながら良く調べてあり感心します。ただ個人的に幾つか気になる事がありましたので書かせて下さい。武田が織田徳川連合軍の兵数を把握していなかったって言う点ですが、歴史家の磯田先生が以前言ってましたが、武田の恐ろしさは築城、謀略、暗殺、諜報力と言ってました。信玄時代に足長坊主と迄言われた諜報力が幾ら通常より速い行軍とはいえ3万もの大軍を掴めていないとは考え難いです。また一説には長篠城を攻めた狙いは長篠城近くにある睦平鉛鉱山を狙ったと言われています。当時武田家は鉛不足に悩まされてました。永禄7年(1564年)の武田家書状。第五次川中島合戦の直後に、家臣が領内の神社に「鉄砲玉の御用に」と悪銭の納入を命じたものがあります。武田軍の弾丸は全てでは無いと思いますが銅の弾丸がある程度含まれていた様です。当時鉛は輸入が多く合戦に必要な鉄砲の弾や金を取り出す灰吹法に必要でした。輸入物が欲しくても堺は信長が押さえていて武田としては鉛不足の解消は急務だった様です。長篠合戦の被害を拡大させた1つに穴山信君等の御親類衆の無断離脱が拍車をかけたのでは無いかと思っています。山県、内藤、原、土屋、真田等の歴戦衆が悉く戦死してる中、御親類衆の戦死は鳶ヶ巣山を守っていた武田信実だけになります。どうも勝頼は『御館様』『甲斐人』では無いと軽く見られていた節があります。何はともあれ武田の崩壊は悲しいです…。リクエストですが、『第4回川中島合戦』と『第1、第2回の伊賀の乱』をお願い致します。長くなり申し訳ありませんでしたが、次回も楽しみにしています。色々間違っていたらスミマセン。長文失礼しましたm(_ _)m
凄く良い動画でした。ただ、途中途中に出てくる火縄銃が「なに……この……なに……?」って形状になってて笑いました。
長篠合戦後は武田は見事復活したけど晩年北条や上杉に振り回された❗
30年以上前ですが長篠城の設楽原歴史資料館で研究紀要という小冊子を買いました。そこには古式銃術者の現代的な価値観として三段撃ちではなく一斉射撃だったと書いてありました。何もなければ三段撃ちは可能だが敵兵を100m、50mに目の前にして果たしてやれるだろうかという疑問だった。ただ当時の価値観として実戦の中では撃ち手の安全性よりも優るものがありますからね。いざ戦争となれば優先すべきことが戦局によって変化していくのは日本国も体験した通りです。織田徳川軍と武田軍とでは周到な準備と兵力差が勝敗を分けたのは歴然たる事実です。
殺し間三段構え説が一番腑に落ちる…プラス信長公の徹底的な兵力隠しと酒井忠次の奇襲成功がこの決戦の分かれ目だと思っています
戦国小町苦労譚って漫画を読んだあとにこの動画を見つけました、面白い。
騎兵戦力を主力とする武田が、その機動力を生かすために川を渡ったのは自然な選択で、つまりは主力による「決戦」による決着を望んでいたのは間違いないと思える。攻城戦で消耗しているところに、後方を脅かされたことで決着を急いだ結果無理攻めになったこと、武勇を示すことでしか古参の家臣に認められる手段を思い描けなかったがゆえの苦汁の選択肢では。とはいえ、数倍の兵力を展開する敵と野戦で戦い、同数以上ともいわれるほどの打撃を与えたことから、自軍の強さに対する信頼は決して「過信」ではなかったとも思う。
11:12 これモンゴル軍じゃねえかwww
🤗ま、同じ騎馬隊って事で😅
長篠、設楽原あたりも実際に回ってきました。広すぎてよくわからないのですが、当時最強と言われた武田の騎馬隊には大量の鉄砲で対抗するのが上策と考えたのは納得できます。土塁や馬防柵を築き迎え撃ちました。三段撃ちは江戸時代の小説の創作というのも信憑性が高そうです。信長は高天神城の戦いの時は軍勢や鉄砲などが十分に揃えられず、勝ちが見えなかったのではないでしょうか。一方設楽原においては十分な鉄砲と作戦で勝利を確信していたものと思われます。損害に関しては武田軍が主だった武将がほぼ撃ち取れたたのに対し、織田・徳川軍はほぼゼロ、であったため、6000に戦死者は多すぎるような気もします。
面白い動画を見させていただきました。チャンネル登録させていただきます。長篠の古戦場にバイクでツーリングする機会があって、当時バイクに乗っていた際、馬防柵って木や竹とかで出来た柵だから馬で突っ込めばええやんと思いました。ところが実際は馬防柵って、土塁・柵・逆茂木。堀で出来ていて、攻める方からすれば堀に落ちなければならず、さらに堀から柵まで坂になっていました。逆茂木があるので馬は突っ込めず、人力で柵を乗り越えるにはまず堀から這い上がる必要があり、柵を上ろうものなら槍や火縄銃でやられるそうです。柵を上った又は壊したとしても奥にも同じ構造の柵があるという攻め手からすれば単純に突っ込めない守りになっていたという事でした。自衛隊員曰く「当時最高の野戦陣地」だそうです。結論①バイクもとい馬では突っ込めない。②よじ登ったらハチの巣にされる。③土屋昌次はすごい。④織田工務店は野戦陣地の構築も請け負うゼネコン?
自衛隊の行軍演習の通り道なんですけど深夜に設楽原で見るとビビる。
信長が動く時、必ず勝つ戦術と戦略がある。武田騎馬軍団への対応、武田武士有力者の分断。やはり鉄砲をどう破壊的に使うかの決定をやっと描けたからではないかな。
サムネイル画像の銃が火縄銃ではなく近世のものなのが気になる…
おもしろーいチャンネル登録しましたー
ナレーションが若干なまった感じがしてとても個性的で好きです。
漫画「センゴク」での長篠は超面白かったです。意外だったのが、戦後一番手柄とされた酒井の奇襲が、むしろ読み違えてしまった!と勝利するも軍配をへし折るほど悔しがっていたところ。実はここが勝頼のいる本陣だと思い、これでこの戦は勝ったと思いきや、勝頼がいないと判明したならば…
今度、サラミスの海戦を取り扱って欲しいです。
素晴らしい動画ですね!いつも楽しみに視聴しています!
地元の長篠に住んでいます 実際に長篠の合戦場の場所に訪れると驚くと思いますこんな狭い場所で大合戦だとはと 地図だけではわからないことがたくさんあると思います馬防柵も再現されて実際の目で確認したほうが またすぐそばに鉄砲資料館を訪れると地形の関係もよくわかると思う
1900年代初頭の語り映画ってこんな感じだったんだろうな。と思うほど最後まで観ちゃった
織田徳川連合軍の膨大な予備兵力の差が大きかったと思いますね。軍勢をさいての別動隊攻撃は予備兵力がないとやりづらいですからね。
真田昌幸も兄2人がここで戦死していなければ武藤喜兵衛のままだったのかなー?
南から回り込もうとした山県隊の崩壊から、武田軍の全軍崩壊に繋がった、という説は、ほかの動画でも見たことがあるな。(参考にした資料書籍が同じなのかも)画像はAI作成だと思うけど、日本ではなく中国の鎧っぽいものがちょいちょい出てくるのが惜しいところ。
武田を引っ張り出さないと勝てないと考えてたのは真実ポイよね。退路を断つのもそうだけど、前のめりにしないと滅ぼせないという考えは最近主流になりつつ。
シャープール1世とローマ帝国の戦争をお願いします!
弾入れる担当者→誰でも出来る射撃だけ担当者→達人 に分けてたんじゃないかな?
因みにですけど、博物館などで目にすることができる日本の火縄銃と現代のライフル銃とを比較すると、グリップ(握把)付近の形状が大きく異なります。そのため、現代の所謂ライフル銃のように銃床を肩に当てて、脇を締めて発射することは出来ず、弓を番えるように肘を外に張って射撃するスタイルで使用されていたそうです。画像が気になったのでご参考までに。
サムネにたまげたなあ…
「戦国時代の戦いなんて世界史的にはたいしたことない」と言う人いるけど、これだけのドラマがあったんだから、すごいな。
なんか、色々と腑に落ちた感があります。ありがとうございます
織田信長はやはり戦国の天才児。個々の戦いだけではなく、その戦いの意味も確実に把握して事に臨んでいたことが伺えます。
信長は明らかに挑発するためのノロノロ進軍 相手を中入りさせるための罠設楽が原はその条件が揃っている しかし当時の武田は兵が鬼のように強かったから万が一本陣近くまで攻め入られたら後方にやや陣を下げ戦線を間延びさせることも考えていたのではその後酒井に後方から挟み撃ちにするところまで考えていたと思う 勝てないまでも長篠を突破させない事が目的だったのでは
長篠設楽原の戦いは、諸説ありますが、馬防柵と火縄銃を合わせて有効に使用した、織田・徳川連合軍の作戦勝ちでしょうか。信長が長篠設楽原の戦いの参考にしたのではないか?と言われている、英仏百年戦争中の戦いのひとつ、「アザンクールの戦い」(フランス重装騎兵vsイギリス長弓兵)をリクエストします。
中先代の乱や観応の擾乱も見てみたいです!
関ヶ原の島津軍の怒号の撤退戦を宜しくお願いいたします。小早川・朽木・赤座・脇坂・小川の西軍の裏切り者で敗北寸前に島津1500が孤立無援にしかし島津軍が正面突破の怒号の撤退戦を繰り出し数々の武将・兵士が討ち死に僅かながら生き延び薩摩に帰国しかし途中に数々の難所を突破を再現ドラマしてほしいですね、豊久の討死や井伊直政の太もも銃弾負傷・松平忠吉右肩?銃弾負傷など 戦果を挙げています!後にこの傷の元で病死してます、鉛の毒で。
真田vs徳川の動画が見たいです。
新東名の下り線のPAが古戦場跡の付近にあり、信長の本陣跡が目の前。その奥に主戦場があるようです。
最近茶臼山行ってきたけどガスってると本当になんも見えないね。ガス抜けると最高の眺めだけど。全容がわからないのも納得した。
銃が種子島よりも進化した世代のものだらけですぞ
火縄銃に関して火縄銃の口径は現在の拳銃やライフルの様に統一された規格ではなく鉄砲鍛冶師の一存で決められた為に火縄銃の口径はバラバラだったので、それぞれの火縄銃に込める鉛の弾の大きさもその口径に合わせた鉛の弾しか使用できない事実はあまり知られていない。つまり火縄銃の弾の交換は兵士同士で出来なかった事。
>統一された規格ではなく鉄砲鍛冶師の一存で決められた為に火縄銃の口径はバラバラだったのでこれは微妙に違いますね火縄銃の製作工程で、初期段階で生クリームたっぷりのロールケーキを作るがごとく鉄のフラットバーで軸棒を包ませ筒を作る口径を左右するのはこの軸棒です。また、熱間で叩いて合わせていくので治具としての軸棒は消耗していく。上記の作業で筒を作った後、その筒は構造的に強度が弱く(ただし、戦国時代はこの筒だけの火縄銃は存在している)帯鉄により巻き締めていく、これを熱間鍛接していく。この作業中も上記の軸棒はバレルを維持するために使用される。(塩水を塗布して、引き抜けるように残留する塩で滑るようにする)火縄銃の銃身はこうして出来上がっていきますが、その後様々なパーツを取り付けていく。当然量産化の為に規格化されて行きます。ここで重要なのは織田家は、当時全国七か所しかなかった鉄砲の生産拠点である国友・堺・日野(近江・蒲生氏)の三か所を足利義昭上洛の際には概ね手中にしています。国友など記録から口径の規格が定まっていくのが確認できます。(日野は胴元の蒲生氏も大名に取り立てられ去り江戸時代初期に鉄砲鍛冶としては衰退していくので資料は残らず)織田家中はそれぞれの寄り親を通してまとめて鉄砲を発注し各部隊に配分されて行きますから織田家内では似た大きさの弾丸が各家中で製作されまた、織田家本体が引き連れてくる鉄砲鍛冶集団(戦地でのメンテナンス・弾丸製作)からも供給されます。武田家中は、各家来衆各自の自助努力により、鉄砲・弾・火薬の調達になるので、鉄砲の産地が異なり、調達力が貧弱で鉄砲の玉の素材が異なり、火薬の品質も異なってくる。仮に武田と織田でそれぞれ千丁づつ持っていたとしても、その内容は全く異なってくるでしょう。織田家の方は、各部隊内で弾丸弾薬の融通が利く、弾丸切れでも本隊からの補給が期待できる。織田領内の刀・槍の産地でも同様に規格が進むのが現存する物の中子等の大きさから確認できます。(槍の柄、口金等)ちなみに、江戸時代に入ると鉄砲や刀槍の規格化は無くなると思っていいでしょう。
@@船木祥啓 様 詳しい解説ありがとうございました。勉強になりました。国友、堺に鉄砲鍛冶があるのは知っていましたが蒲生、日野に鉄砲鍛冶があったとは知りませんでした。戦国大名の蒲生氏そのものが国友のような鉄砲鍛冶師集団を抱えていたということでしょうか?後学のため良ければ残りの4カ所の鉄砲鍛冶があった場所を教えて頂けたらありがたいです。
@@痛風ぷりん 野洲川で砂鉄が採れ六角氏が蒲生氏に一任し鉄砲生産拠点として発展しました。国友だと姉川が鉄採取が可能で、やはり六角氏(浅井氏)の影響下にありました。近江はあまり知られていませんが、戦国時代では武器生産地が多く存在します。今の長浜南部には「下坂」があり、ここは戦国期の槍の産地で慶長大地震で水没しました。日野は江戸時代に幕府の庇護が無く大藩の所領でもなく、微妙に琵琶湖水運が利用しにくく京都や大阪泉州と言った鉄製品産地が多く存在した為に、林業用刃物等で存続しましたがこれも林業の衰退で消滅直接では無いものの大阪の天彦産業などが、その名残と言っていいかもしれません。
@@船木祥啓 様 返信ありがとうございます。ネットで「野洲」を調べて見ましたら教科書で紹介されるような銅鐸群が出土しているんですね。(驚)野洲川から鉄(砂鉄?)が出ていたとはネットでは分かりませんでした。大変勉強になりました。またいつか機会があればその時は教えてください。ありがとうございました。
薩英戦争と第二次木津川口の戦いをお願いします。
武田勝頼は本来は滅んだ諏訪家を再興して諏訪家を継ぐ予定だったから名前に武田家での信を使わず諏訪家での頼を使ったが、武田家嫡男で兄の武田義信が廃嫡に成って粛正で切腹に成り他の兄は盲目で出家と病死で急遽武田を継ぐ事に成った(勝頼の子が武田当主で勝頼が後見人だった)が一門衆の穴山梅雪や古参からの重臣からは侮られて勝頼は合戦で父親の信玄よりも功績を挙げなければ認められない厳しい立場で、武田勝頼は諏訪勝頼として一門衆だったら後世から甲斐武田を滅亡させた暗愚と批評されなかったと思う。
短くまとめすぎたのが惜しい。後編あってもよかったかも
信玄が駿河を取るために嫡男を切腹させた報いが勝頼に回ってきた
木曽穴山小山田もともと武田とは敵対してた関係よね
@@attemboroughdusty7935信玄の駿河攻めはその時点では最善あるいは最良だったとは思います。このまま手をこまねいていたら遠江だけでなく駿河まで家康に取られてしまうかもしれない。 もしかしたら駿河を奪うのは北条になるかもしれない。そうなったら武田はいつまで経っても海を手に入れる事ができず、塩や鉄砲、硝石の交易に不利で貧しいままでしたから。ですがこの駿河攻めに至るまでの義信の死、北条との同盟破綻などは勝頼の代まで続く大きな禍根になったのは事実ですね。
モンゴル軍?
100~500名で構成された複数の鉄砲隊が、交互射撃を行ったのが三段撃ちの真相。と、いう学説を読んだ事がありますね
信長は、今度の戦いは史上初となる新しい戦い方になるって言ってましたね。それは銃火器だけに頼らない。あれだけ大量の銃火器持ち合わせていたから、使い所や欠点も知っていたのでしょう。それでも、あれだけ多くの精鋭ガンナーやスナイパー育てたのも凄い。
臨場感と没入感がある映像、楽しめました。
勝頼は楽勝と思っていたようです。そのような手紙が残っている。武田軍の実力なら河を渡って鳶ヶ巣山に陣取っていれば100%負けはなかった。城のような防御陣地に力攻めしたのが敗因です。
すばらしい分析ですね。楽しめました。
信長が勝頼に怯えていたというのは事実だと思うし、まともに戦って武田に勝てるとは思っていなくて、設楽原でのモード•アングレも信長本隊が撤退できるまでの時間稼ぎができれば良い位の考えだったのでは?ただ高天神救援に間に合わなかった前科があるから「境目の城が攻められたら援軍を出し助けにいく」という戦国時代の大名の義務を果たすことで徳川を自陣営に繋ぎ止めようとした、それが長篠設楽原合戦に織田陣営が参加した理由だと思う。ただ武田を潰すことに対する信長の執念は相当なものだったはずだから恐らく経済封鎖で締め上げて自滅させる気マンマンだったとは思う。
本能寺の変の後、徳川家康が旧武田領の切り取りを本格化させると諏訪一族は徳川家康に使者を派遣し、「甲斐の地理は徳川家よりも我ら諏訪一族の方が詳しいゆえ、道案内をする。」と申し出る。そのかわりに武田に奪われた諏訪の旧領は返していただくと徳川家康と約束をかわす。それ以来、諏訪家は徳川とのつながりを深めていく。 家康が江戸に幕府を開くと諏訪家は諏訪地方に諏訪藩を置くことが許され大名となる。一方の武田家は旗本として残るが大名としてはのこれなかった。
諏訪てもしかして「逃げ上手の若君」に出てくるあの!!戦国時代まで続いていたんですね😮
そうですよ。武田信玄に殺されたのは「逃げ上手の若君」にでてくる諏訪頼重と同姓同名の人です。
戦国時代にタイムスリップしてみたいなぁ!
とても良い勉強になりました。ありがとうございました。
AIの絵がすごい
■主要参考資料&オススメ書籍
謙信×信長 手取川合戦の真実 PHP新書 / 乃至政彦 【新書】
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語りだけで引き込んでいく動画とか凄いわ
現代の講談。語り口と挿絵に引き込まれました。従来の無能勝頼で無く、智謀と知略の駆け引きの後敗れ去った無敵の武田勢。近代の科学的推敲を重ねた素晴らしい出来でした。
音声ナレーション、渾身の動画が素晴らしく、聞入り見入ってしまいました。大変ありがとうございます。
朗読音声も内容もとても聞きやすいです。
かっこいいな。武士の生きざま。この戦で真田兄弟がなくなったから武藤喜兵衛改めて真田昌幸が活躍して行くのですね。
最終的に徳川が戦国を終わらせるのですが、 信長の姪っ子が徳川に嫁いでいることから織田の血も入っているのですよね。あー深い。いい動画ありがとうございます。
面白かった。勝頼を愚将としてスケープゴートにするのではなく、武田軍全体が信長の策に嵌ってしまったのですね。
昭和の中頃まで山奥の田舎の代々続く家には長篠戦の伝え話が残っていました。今から50年以上も前の話ですが当時のお祖母様は多分幕末か江戸時代の生まれだったのではないかと思うのですが、長篠から信州伊那、飯田を通って甲斐の国へ落ち延びる武田の落武者の通り道には今でもお墓が旧街道沿いにあったりします。先祖代々面倒を見ながら伝え話を伝えて来ています。
もう今となっては詳しく聞くこともできなくなってしまいましたが、まだまだ奥の方にはいろいろなお話が残っているのではないかと思います。
BGMに津軽三味線、渋い!
戦いの流れはこの動画の通りだと思います。
やっぱ信長はとんでもない相手とずっーと戦い続けてきたから異様に進歩したんでしょうね。武田側の諜報網すら逆に操縦して長篠に引っ張り出しとも言われる話すらありますしーー。そこまでの全敗すら撒き餌ともいう人すらいて、やはり異次元の人なんだなとは思えますね。
とても感情移入させられる語り口が今回も素晴らしいです。動画でも言われている通り、特徴的に語り継がれている戦いなのに一級資料が少なく、想像の余地があることが様々な説を生み、ロマンが溢れます。個人的には、勝頼公が戦のあとに他方面の諸将に状況を説明している「敵の先方衆を多数撃破して、その勢いで織田・徳川の本陣に攻めかかったら、敵は陣城を築いており、味方の先鋒が損害を出した」というのが一番しっくりする戦況だと思っています。馬防柵の手前の稜線(信玄台地)まで2~300mしかなく武田軍がそこから展開して攻撃を開始するのは近すぎます。勝頼公や武田軍武将は当初馬防柵を知らずに突撃した。もし、馬防柵等があると判っていたら違う戦法を取ったでしょう。信長公記では、武田軍が一斉攻撃ではなく、逐次に織田・徳川軍陣地に攻撃している記述になっているのも不可解ですが、勝頼公の説明のとおり、織田・徳川軍先鋒と一戦(信玄台地より東側で)して、これを撃破し各街道沿いに追撃している状況であれば、この逐次に馬防柵前(しかも山県隊は徳川隊正面、馬場隊はその2キロ近く北の佐久間隊に突撃している)に進出しているのも符合します。もし、敵の先鋒を撃破・追撃中の優勢状況で、信玄台地の稜線を超えるや、正面2~300m(弾正山)に信長公・家康公の本陣旗を見つけたらどうするだろうか、その報告を受けた勝頼公はどうするだろうかというのが、酒井隊の奇襲を放置して、無謀とも思える馬防柵(陣城)への突撃実施の真相ではと考えてしまいます(日露戦争の旅順要塞のカポニエール陣地と同じ敵を引き込む罠です)。また、鉄砲の数についてもいろいろ謎が多いです。総兵力3万以上で、1000では少なすぎ(500を酒井隊に配属したら主力は500?この時期であれば武田も北条も兵力の1/10が鉄砲隊だから3000が普通では)。徳川隊の鉄砲隊や、各武将がそれぞれの知行地から連れてきた鉄砲隊も信長公自ら編成・指示するのか?シャッフルして編成を組み替えたら方言で言葉が通じない、地域や各部隊の経歴から号令のかけ方・戦法も違うので動けないのでは?1000とか3000とか鉄砲の数のこと?、それとも鉄砲役の武士の人数のこと?とか疑問がいろいろ出てきます。これも個人的には、1000~3000は、信長公の旗本隊と畿内に残った武将衆から差し出させた鉄砲隊(だから信長公が自由に奉行を付けて運用できる)の数で、各武将の鉄砲隊3000+徳川鉄砲隊1000+旗本・増援鉄砲隊1000~3000だったのではと考えます。となれば歴史的な鉄砲重視の編成になります。3段射ちも、3万以上の兵力を指揮する信長公などが武将衆に解りやすく戦いの方針を示すために言われた言葉で、千丁ずつ一斉射撃をするという意味ではないと思います。旧軍や外国の戦史でも、「300門の砲を一斉に撃たせる」(沖縄第32軍兵力10万)等の言葉が出てきますが、300門を一つの号令で同時に撃たせているわけではなく、戦闘加入・火力発揮を許可することをわかりやすく指揮下部隊に伝えているだけで、実際は最小2~6門の単位で射撃している。ただ、300門の砲が戦力発揮した状況がすさまじかったとの同じで、各部隊固有の鉄砲隊に併せて、信長公が配置した鉄砲隊の火力は、これまでの戦とは一線を画すものであったろうと思います(実際、この戦い以降、鉄砲隊の比率がどんどん増加し、朝鮮の役・大阪の陣では1/2近くまで増えたという話もあります。これは外国も同じで、長槍と鉄砲の混成であるテルシオ隊形の鉄砲の数がどんどん増えていき、最終的に銃剣の発明で全員が小銃の戦列歩兵になったのと同様の経緯と思います)。本当に想像膨らむ、戦国ロマン溢れる戦いです。次の動画も期待します。
勝頼の視点での展開が斬新でした。
日本の合戦、ありがとうございます。
一次資料がないことで、小説作家の想像で形成されてきた長篠の戦い。
山形昌景の「やはり罠であったか」の一言、
最近の研究を反映しているような気がします。
続編、楽しみです。
武田軍の金床戦術が破られたという、現在の最新説ですね。
実際に設楽原を歩いてみるとわかる。丘陵地であり、小山や林があちこちにあり、敵軍の全容などまるで見えない。また四方に山が見え、甲信の兵にとっては自分のホームグラウンドのような安心感があったことだろう。
勝頼本陣からは織田徳川の陣城や馬防柵は見えず、資料館のあるあたりまで連吾川に近づいて、ようやく見える。
「ここから坂を駆け下りて行ったら柵ぐらい簡単に突破できるんじゃね?」と感じる。
しかし実際に近づくと、柵は大人の肩ぐらいの段差の上にあり、
「この上から槍を振り下ろされる中で、段差をよじ登るなんて無理だ!」となる。
織田徳川連合軍が仕掛けた罠はいくつもありますが、遠景で有利に見える地形が近景では圧倒的不利になるという視覚トリックも用いたと感じました。
@@深山雨鱒 (私に言われても・・・)
勝頼の印象が大きく変わる
整然と入れ替わって撃つよりも、段々になった陣地から各々が撃ち続けた方が、たしかに現実味がありそうです
語りが上手で引き込まれます
歴史なんて、少ない文献から推察しかできません。
だからロマンがあるんですよ。
見ごたえ、聞き応えのある素晴らしい映画でした。
ナレーションも滑舌よく素敵です❗
納得のいく説ですね。 話し方も静かで説得力があって聞きやすいです。
これまでの通説よりも、はるかにリアリティがあってとても納得のいく動画でした。面白かったです。ありがとうございました。
言葉のチョイスも喋り方もGOOD!
地元での合戦の話し、父は有海の出身ですが、父が子供の頃、雨が降ると田んぼに張られた水が赤く染まることがあったそうです。私も合戦跡巡りを何度もしましたが、その中でも首洗い池という場所が印象に強く残っています。
長篠は今でも古い碑が林の中にあったりして、そこここに時代を感じる事ができますが、昨今は第二東名ができたり、三遠南信道の建設などで当時の武将たちの本陣跡が崩されてしまって無くなってしまっているところなども多くあって残念です。
長篠、設楽原はできればそのまま残してほしいと40年も前から思っております。
いやー、なんか見ごたえがあっておもしろかったわ。
引き込まれる話し方がいいですね😊
通説と比較して理にかなっていると思います。素晴らしいです。
戦いが如何に心理戦であったかに焦点を当てた解説が新鮮です。これらの作戦が大将一人の頭脳によるはずはなく、どちらにも優秀な軍師が共に協議していたはずです。それにしても信長の陽動作戦は見事にはまりましたね。合戦の絵図には馬防柵の南側が川まで達せずにわざと途切れさせているように描かれているものがあります。攻める側の定石の敵の背後に回り込むのをやり易いように誘ってます。
@@hideoyamamoto7479
信長は欧州の戦術をこの戦に応用したって何かに書いて有りましたね。
イタリアだったかなー
@@pontarou01 はたして勝頼は信長の援軍の規模を把握していたのか? この動画では信長軍の進軍速度が一つ前の戦いは遅く、今回は速いので少人数であると誤認させたとありますが、武田方は斥候を放っていたはずで3万の大群を少人数と誤認しただろうか?NHKの歴史番組では信長軍は大軍と認識した上で勝頼が意地で戦うことを選んだとの説を採ってます。近年どうやら本物らしいと認識された甲陽軍鑑にはこの点はどう書かれているのか? この事(信長軍の数の把握)の検証に特化した動画が出て来ないものか、、、
@@hideoyamamoto7479 織田軍3万以上の合計3倍以上の敵大軍へ包囲殲滅戦をやろうなんて考える愚かさは勝頼はもとより武田の家臣団がやるわけないと思います
武田家臣団が壊滅状態となり、またワンサイドゲームな展開にも関わらず織田側にも相当な被害が出たことから、武田軍は完全に罠にハマり死兵となって最後の意地をみせたのでしょう
長篠城方面の後輩を取られて挟み撃ち状態に陥った事からも、武田軍の稚拙さが目立ちます
つまりは武田側に誤認や油断などがあったのでしょう
この声優さん最高ですよね❤
内容もそうだが、このチャンネルの作りが凄い!
欧州だと6段撃ちとかがあったようですね、再装填2分で6段で20秒毎に1発撃つようです
リクエストですが欧州で騎馬の戦いで有名なクルシノの戦い(1610年)とモスクワ進駐を
よろしければお願いします、他にもウィーン包囲やポルタヴァ、フメリニツキーの乱も
よろしければお願いします
日本の火縄銃は瞬発式だから斉射なんかしたら、待機中に暴発しまくるよ
よく研究されていますし、ドラマとして釘付けにする魅力を持っています。完成度高すぎます。長篠の戦は、戦国の戦のなかでも、興味深い戦ベスト5に入るくらいのイベントだと思います。武田勝頼は信玄時代よりも領土を拡大し、優秀なリーダーではあったのだけれど、やはり若い。歴史にIFはないのだけれど、信玄が指揮を執っていたら、信長の罠を見破っていたのかも知れません。こういう考察も歴史を学ぶ楽しさでもあります。
とても面白かったです。
津軽三味線もいい感じでした。
資料探しが大変かもしれませんが、津軽為信の六羽川合戦や、伊達成実の人取橋の戦いの見解も見てみたいです。
ご検討お願いします。
素晴らしい
投稿者様、素晴らしい動画をありがとうございます🙇一説には三段撃ちはなくどちらかといえば自由連射射撃だったと言われています。そして戦史では守勢に回ってから勝った戦いがかなりあります。例えば第二次大戦のクルスクの戦いや太平洋戦域のマリアナ沖海戦とか。クルスクの戦いでは旧ソ連のパックフロント(島嶼状野戦築城陣地)によりドイツ軍はかなりの損害を負いました。長篠設楽原合戦や第二次大戦のクルスクの戦いやマリアナ沖海戦は戦局のターニングポイントになった戦いだと思います。
後、真田家が主体の戦いの第一次上田合戦や第二次上田合戦も守勢に回った真田勢が勝利しています。これは僕の妄想になりますけど信濃の青崩峠付近まで織田.徳川軍を引きつけていたらもしかしたら結果は違ったかもしれません。なぜなら山岳戦は山自体が城そのものだからですから。実際第二次大戦のイタリア戦線で連合軍はかなり手こずっていますし。例えば木曽地域とかは大軍の利点が消滅してしまう位の地形ですから。
瞬発式なので火縄銃は斉射は無理だしね。狙撃する感じで、最初以外は五月雨式に撃ったんやろうね。
昔小学校の授業で三段撃ちを習った時、「順番なんか関係無く準備出来た人からどんどん撃てば良くね?先生も不思議に思わんのかな?」と思った。
鉄砲隊の新解釈も合間に紹介してくれて嬉しい。
日本の戦い良いですね。
今回の解説を見て今までスポットライトが当たってこなかった九州での戦いを見てみたいなと感じました。
webでみる時代劇の紙芝居!一気に引き込まれました。本当にAIが書いてくれるんですか?
実に面白かったです。鉄砲の犠牲者も相当だったでしょうが、動画でも指摘されているように、大局的にみると最後は兵力差がものを言った戦いだったのでは。しかも撤退の際に、多くが犠牲になったと思われます。勝頼も、信長が自ら出てくるからには、相当の覚悟を決めてくるため、兵力もかなりの数を連れてくることを予測できなかったのでしょうか。永遠の謎です。将来は、信長、勝頼の考え方やそれまでの経験を入れたAIを作り、長篠をめぐる事実も投入して、二人がどういう考えをめぐらしていたのかを推測するようなことができたらいいなと思ってます。😄
戦争とは、ひとつの戦いに勝って終わりではありません。
攻め落とした領地を、維持する力があって、初めて勝利だと思います。
残念ながら、勝頼は、それができませんでした。
緒戦には勝利しても、度重なる合戦に財政は疲弊し、農民だけではなく、豪族たちすら苦しみました。
結果、豪族たちは離反。百姓たちにも一揆を起こされてしまいます。
@@maruten8387
戦は強かったけど人心掌握が駄目でしたね。
@@pontarou01
ですねえ。
梅雪みたいなヤローもいましたし。
同じような状況でも信玄には、一応皆ついて行っていましたし。
@@maruten8387
花魁淵の話もあるし、
人質を府中城に押し込めて焼き殺したり(あの場合はもう離反止めるの無理だから解放してあげるのが正解だと思う。)
残虐なのは駄目ですね。
@@pontarou01
返信、ありがとうございます。
信玄親子は結構残酷な逸話を沢山残しています。
まあ、信長、家康の鋸引きなど、大名たちには、たいてい残酷な記録がありますね。
それでも、土屋昌恒のような忠臣もいたことから、決して残虐なだけの人物でもないようです。
父謙信、信長、家康のような軍事からなんやかんやを高い能力で取り仕切られたのは、天才の呼び声も高い彼等だからこそ。
若い勝頼には荷が重かったのでしょうね。
なお、信玄も若いころ一城皆殺しにして首を並べたところ、降伏しても殺される、と各地で苦戦を強いられました。
その後、色々と懐柔策も覚え、晩年には戦国の巨獣とまで呼ばれるようになりました。
父信玄が生きていれば、そういう事を教える機会もあったかもしれません。
今まで語られてきた、常識的な勝頼評ですよね。
ただ以下はあくまで思いつきなのですが、勝頼は強力な集権化を進めて武田の再建に成功した、ところがその政策によって被害を被っていた勢力が一斉に離反した
こういう解釈は無理でしょうか?
BGMに三味線音楽が流れるのって、いい感じです。
他にも琵琶楽でもいいかな。とくに戦闘シーン。
時代小説風の語り口も、乙です。ほかの海外の戦いとはカラーが違って見えます。
ナレーションうまい
映像、ナレーション、音楽もう素晴らしすぎて感服致しまする。
デザインが1800年代の銃で、なくさない為に収納型の弾込め押し込み棒は凄い、クリーニングロットなんです!
きましたね、日本史バージョン🎊
勝頼は初期の勝利で増長しすぎた。
長篠攻撃に時間がかかったのは
家康をおびき出すため。信玄なら総力をあげて長篠城を落とし、城を修築してたてこもる。武田軍が長篠を落とせば信長の着陣も無意味となる。
勝頼を擁護したがるむきもあるが、勝頼は所詮2流以下の武将。
長篠が落とせなかったとしても、戦場に陣地を築き
長期戦に持ち込めば
、先に撤退せざるを得ないのは、諸方に敵を抱えている信長の方である。
長篠などはさほど重要な戦いではなく、
軽々しく決戦を挑んで大敗した勝頼はやはり
父の足元にも及ばぬ凡将といえる。
生まれや家督継承の不手際は信玄のせいであり、勝頼は不運などという意見もある。
しかし、毛利元就などは、兄に仕え、兄の死後は甥につかえるなど辛酸をなめた。家督相続後も井上元兼など
有力家臣の顔色をうかがわねばならなかった。それでもやがて実力で家中を掌握。尼子大内を倒し、中国の覇王になった。
勝頼は実力がなかったといえる
土屋昌次(昌続)は、この中を三重の馬防柵の2つを突破して、3つ目の引き倒しに取り掛かったところを集中攻撃を浴びて討ち死にした。享年31
弟の土屋昌恒は、有名な片手千人斬り。
最近の説だと、武田軍が馬防柵の迂回攻撃の際に包囲攻撃を受けたことで、敗走に移ったこと言われており、かなり、真相に近い描写だと思いました。ただ、織田徳川軍が6000人もの戦死者を出したという説は武田びいきの水増しなのではないかと思います。
山縣三郎兵衛昌景 武田四天王であり、武田二十四将
赤備え、赤や朱色で兵装を統一した騎馬軍団ですが、飯富虎昌から弟の山縣昌景が引き継ぎ、その後 真田信繁や井伊直政が採用したと言われています。
井伊家/彦根藩では幕末まで続き、第二次長州征伐では目立つ赤備えを標的とした長州藩のアウトレンジ戦法に敗れています。
ちなみに、ひこにゃんの兜は井伊直政仕様の赤備えです
武田方が騎兵で攻城戦を強いられた戦いか、と考えてましたが、兵の数、武器弾薬の質、陣地と言った基本に忠実な戦だったんですね
武田方が消耗気味だった、とは思いもしませんでした
「三段撃ち」自体はあったものの、内容は「三段の先頭が名手で鉄砲を撃つ、後ろの2人が鉄砲の整備・弾込めを行う」とゆう感じだったそうです。
この時、鉄砲も複数用意して作業を繰り返す、だったそうです。
普通に考えたら上手い奴が撃てばいいって考えるのが自然だよね
現代流に解せば弾幕射撃ですかね。
旧ソ連軍が得意とする戦術でダマンスキー島での戦では中共軍1個連隊が一瞬にして消滅したとか。
雑賀の名手はそのようにしていただろう。しかし鉄砲には癖があり、足軽は個々の責任で整備と修練を収め手柄を欲すと考えると従来説のやり方の方が大軍の組織化としては有効だと思います。
なるほどですね!二段だったとか色々な説ありましたが、これなら合点がいきます!
実際、手負い者、生き残らせると動きが厄介な者、引く者新手の者、など、撃つ優先順位の判断も、射手と観測兵が居ればより正確性が増しますね。
弾込めはそれに専念する者、渡し引き渡す者が居た方が、これもスムーズですね。
面白かった。
長篠の戦いは確かに戦国最大の謎の一つであり、この説はもっとも説得力のある物だと思います。
一時資料がないので実際に戦は行われてなく、後世の創作だったのではと思いますけど、どうなんでしょうかね?。
今度関ヶ原の戦い諸説やってほしいですね。
戦下手で家康と仲良かったはずの石田三成はなぜ後世で改変されたのか?。
陣形も後世で語られているのは明治時代日本陸軍が二次資料基づいて歴史的解釈はなく勝手に作った物で、実際は大垣城を周辺に戦ったとか。
小早川秀秋は本当に裏切り者だったのか?。家康は秀明を動かすの為に鉄砲放ったと言うが、そんな事したら秀明が怒り家康の陣に攻め込んだのではないか?等などw。
昔、3段撃ちスゲ!→柵が凄かった→情報戦の勝利!→長篠の戦いは無かった! 色々定説は変わるものですね。
いつも楽しみに拝見してますが、今回は日本編って事でいつもより更に楽しみにしてました。
いつもながら良く調べてあり感心します。
ただ個人的に幾つか気になる事がありましたので書かせて下さい。
武田が織田徳川連合軍の兵数を把握していなかったって言う点ですが、歴史家の磯田先生が以前言ってましたが、武田の恐ろしさは築城、謀略、暗殺、諜報力と言ってました。
信玄時代に足長坊主と迄言われた諜報力が幾ら通常より速い行軍とはいえ3万もの大軍を掴めていないとは考え難いです。
また一説には長篠城を攻めた狙いは長篠城近くにある睦平鉛鉱山を狙ったと言われています。
当時武田家は鉛不足に悩まされてました。
永禄7年(1564年)の武田家書状。第五次川中島合戦の直後に、家臣が領内の神社に「鉄砲玉の御用に」と悪銭の納入を命じたものがあります。
武田軍の弾丸は全てでは無いと思いますが銅の弾丸がある程度含まれていた様です。
当時鉛は輸入が多く合戦に必要な鉄砲の弾や金を取り出す灰吹法に必要でした。
輸入物が欲しくても堺は信長が押さえていて武田としては鉛不足の解消は急務だった様です。
長篠合戦の被害を拡大させた1つに穴山信君等の御親類衆の無断離脱が拍車をかけたのでは無いかと思っています。
山県、内藤、原、土屋、真田等の歴戦衆が悉く戦死してる中、御親類衆の戦死は鳶ヶ巣山を守っていた武田信実だけになります。
どうも勝頼は『御館様』『甲斐人』では無いと軽く見られていた節があります。
何はともあれ武田の崩壊は悲しいです…。
リクエストですが、『第4回川中島合戦』と『第1、第2回の伊賀の乱』をお願い致します。
長くなり申し訳ありませんでしたが、次回も楽しみにしています。
色々間違っていたらスミマセン。
長文失礼しましたm(_ _)m
凄く良い動画でした。ただ、途中途中に出てくる火縄銃が「なに……この……なに……?」って形状になってて笑いました。
長篠合戦後は武田は見事復活したけど晩年北条や上杉に振り回された❗
30年以上前ですが長篠城の設楽原歴史資料館で研究紀要という小冊子を買いました。
そこには古式銃術者の現代的な価値観として三段撃ちではなく一斉射撃だったと書いてありました。
何もなければ三段撃ちは可能だが敵兵を100m、50mに目の前にして果たしてやれるだろうかという疑問だった。
ただ当時の価値観として実戦の中では撃ち手の安全性よりも優るものがありますからね。
いざ戦争となれば優先すべきことが戦局によって変化していくのは日本国も体験した通りです。
織田徳川軍と武田軍とでは周到な準備と兵力差が勝敗を分けたのは歴然たる事実です。
殺し間三段構え説が一番腑に落ちる…
プラス信長公の徹底的な兵力隠しと酒井忠次の奇襲成功がこの決戦の分かれ目だと思っています
戦国小町苦労譚って漫画を読んだあとにこの動画を見つけました、面白い。
騎兵戦力を主力とする武田が、その機動力を生かすために川を渡ったのは自然な選択で、つまりは主力による「決戦」による決着を望んでいたのは間違いないと思える。攻城戦で消耗しているところに、後方を脅かされたことで決着を急いだ結果無理攻めになったこと、武勇を示すことでしか古参の家臣に認められる手段を思い描けなかったがゆえの苦汁の選択肢では。とはいえ、数倍の兵力を展開する敵と野戦で戦い、同数以上ともいわれるほどの打撃を与えたことから、自軍の強さに対する信頼は決して「過信」ではなかったとも思う。
11:12 これモンゴル軍じゃねえかwww
🤗ま、同じ騎馬隊って事で😅
長篠、設楽原あたりも実際に回ってきました。広すぎてよくわからないのですが、当時最強と言われた武田の騎馬隊には大量の鉄砲で対抗するのが上策と考えたのは納得できます。土塁や馬防柵を築き迎え撃ちました。三段撃ちは江戸時代の小説の創作というのも信憑性が高そうです。信長は高天神城の戦いの時は軍勢や鉄砲などが十分に揃えられず、勝ちが見えなかったのではないでしょうか。一方設楽原においては十分な鉄砲と作戦で勝利を確信していたものと思われます。損害に関しては武田軍が主だった武将がほぼ撃ち取れたたのに対し、織田・徳川軍はほぼゼロ、であったため、6000に戦死者は多すぎるような気もします。
面白い動画を見させていただきました。チャンネル登録させていただきます。
長篠の古戦場にバイクでツーリングする機会があって、当時バイクに乗っていた際、馬防柵って木や竹とかで出来た柵だから馬で突っ込めばええやんと思いました。
ところが実際は馬防柵って、土塁・柵・逆茂木。堀で出来ていて、攻める方からすれば堀に落ちなければならず、さらに堀から柵まで坂になっていました。
逆茂木があるので馬は突っ込めず、人力で柵を乗り越えるにはまず堀から這い上がる必要があり、柵を上ろうものなら槍や火縄銃でやられるそうです。柵を上った又は壊したとしても奥にも同じ構造の柵があるという攻め手からすれば単純に突っ込めない守りになっていたという事でした。自衛隊員曰く「当時最高の野戦陣地」だそうです。
結論
①バイクもとい馬では突っ込めない。
②よじ登ったらハチの巣にされる。
③土屋昌次はすごい。
④織田工務店は野戦陣地の構築も請け負うゼネコン?
自衛隊の行軍演習の通り道なんですけど深夜に設楽原で見るとビビる。
信長が動く時、必ず勝つ戦術と戦略がある。武田騎馬軍団への対応、武田武士有力者の分断。やはり鉄砲をどう破壊的に使うかの決定をやっと描けたからではないかな。
サムネイル画像の銃が火縄銃ではなく近世のものなのが気になる…
おもしろーい
チャンネル登録しましたー
ナレーションが若干なまった感じがしてとても個性的で好きです。
漫画「センゴク」での長篠は超面白かったです。意外だったのが、戦後一番手柄とされた酒井の奇襲が、むしろ読み違えてしまった!と勝利するも軍配をへし折るほど悔しがっていたところ。実はここが勝頼のいる本陣だと思い、これでこの戦は勝ったと思いきや、勝頼がいないと判明したならば…
今度、サラミスの海戦を取り扱って欲しいです。
素晴らしい動画ですね!いつも楽しみに視聴しています!
地元の長篠に住んでいます 実際に長篠の合戦場の場所に訪れると驚くと思います
こんな狭い場所で大合戦だとはと 地図だけではわからないことがたくさんあると思います
馬防柵も再現されて実際の目で確認したほうが またすぐそばに鉄砲資料館を訪れると
地形の関係もよくわかると思う
1900年代初頭の語り映画ってこんな感じだったんだろうな。と思うほど最後まで観ちゃった
織田徳川連合軍の膨大な予備兵力の差が大きかったと思いますね。
軍勢をさいての別動隊攻撃は予備兵力がないとやりづらいですからね。
真田昌幸も兄2人がここで戦死していなければ武藤喜兵衛のままだったのかなー?
南から回り込もうとした山県隊の崩壊から、武田軍の全軍崩壊に繋がった、という説は、ほかの動画でも見たことがあるな。
(参考にした資料書籍が同じなのかも)
画像はAI作成だと思うけど、日本ではなく中国の鎧っぽいものがちょいちょい出てくるのが惜しいところ。
武田を引っ張り出さないと勝てないと考えてたのは真実ポイよね。
退路を断つのもそうだけど、前のめりにしないと滅ぼせないという考えは最近主流になりつつ。
シャープール1世とローマ帝国の戦争をお願いします!
弾入れる担当者→誰でも出来る
射撃だけ担当者→達人
に分けてたんじゃないかな?
因みにですけど、博物館などで目にすることができる日本の火縄銃と現代のライフル銃とを比較すると、グリップ(握把)付近の形状が大きく異なります。
そのため、現代の所謂ライフル銃のように銃床を肩に当てて、脇を締めて発射することは出来ず、弓を番えるように肘を外に張って射撃するスタイルで使用されていたそうです。
画像が気になったのでご参考までに。
サムネにたまげたなあ…
「戦国時代の戦いなんて世界史的にはたいしたことない」と言う人いるけど、これだけのドラマがあったんだから、すごいな。
なんか、色々と腑に落ちた感があります。ありがとうございます
織田信長はやはり戦国の天才児。個々の戦いだけではなく、その戦いの意味も確実に把握して事に臨んでいたことが伺えます。
信長は明らかに挑発するためのノロノロ進軍
相手を中入りさせるための罠
設楽が原はその条件が揃っている しかし当時の武田は兵が鬼のように強かったから万が一本陣近くまで攻め入られたら後方にやや陣を下げ戦線を間延びさせることも考えていたのでは
その後酒井に後方から挟み撃ちにするところまで考えていたと思う
勝てないまでも長篠を突破させない事が目的だったのでは
長篠設楽原の戦いは、諸説ありますが、馬防柵と火縄銃を合わせて有効に使用した、織田・徳川連合軍の作戦勝ちでしょうか。
信長が長篠設楽原の戦いの参考にしたのではないか?と言われている、英仏百年戦争中の戦いのひとつ、「アザンクールの戦い」(フランス重装騎兵vsイギリス長弓兵)をリクエストします。
中先代の乱や観応の擾乱も見てみたいです!
関ヶ原の島津軍の怒号の撤退戦を宜しくお願いいたします。小早川・朽木・赤座・脇坂・小川の西軍の裏切り者で敗北寸前に島津1500が孤立無援にしかし島津軍が正面突破の怒号の撤退戦を繰り出し数々の武将・兵士が討ち死に僅かながら生き延び薩摩に帰国しかし途中に数々の難所を突破を再現ドラマしてほしいですね、豊久の討死や井伊直政の太もも銃弾負傷・松平忠吉右肩?銃弾負傷など 戦果を挙げています!後にこの傷の元で病死してます、鉛の毒で。
真田vs徳川の動画が見たいです。
新東名の下り線のPAが古戦場跡の付近にあり、信長の本陣跡が目の前。その奥に主戦場があるようです。
最近茶臼山行ってきたけどガスってると本当になんも見えないね。
ガス抜けると最高の眺めだけど。全容がわからないのも納得した。
銃が種子島よりも進化した世代のものだらけですぞ
火縄銃に関して火縄銃の口径は現在の拳銃やライフルの様に統一された規格ではなく鉄砲鍛冶師の一存で決められた為に火縄銃の口径はバラバラだったので、それぞれの火縄銃に込める鉛の弾の大きさもその口径に合わせた鉛の弾しか使用できない事実はあまり知られていない。つまり火縄銃の弾の交換は兵士同士で出来なかった事。
>統一された規格ではなく鉄砲鍛冶師の一存で決められた為に火縄銃の口径はバラバラだったので
これは微妙に違いますね
火縄銃の製作工程で、初期段階で生クリームたっぷりのロールケーキを作るがごとく鉄のフラットバーで軸棒を包ませ筒を作る
口径を左右するのはこの軸棒です。また、熱間で叩いて合わせていくので治具としての軸棒は消耗していく。
上記の作業で筒を作った後、その筒は構造的に強度が弱く(ただし、戦国時代はこの筒だけの火縄銃は存在している)帯鉄により巻き締めていく、これを熱間鍛接していく。
この作業中も上記の軸棒はバレルを維持するために使用される。(塩水を塗布して、引き抜けるように残留する塩で滑るようにする)
火縄銃の銃身はこうして出来上がっていきますが、その後様々なパーツを取り付けていく。当然量産化の為に規格化されて行きます。
ここで重要なのは織田家は、当時全国七か所しかなかった鉄砲の生産拠点である国友・堺・日野(近江・蒲生氏)の三か所を足利義昭上洛の際には
概ね手中にしています。
国友など記録から口径の規格が定まっていくのが確認できます。(日野は胴元の蒲生氏も大名に取り立てられ去り江戸時代初期に鉄砲鍛冶としては衰退していくので資料は残らず)
織田家中はそれぞれの寄り親を通してまとめて鉄砲を発注し各部隊に配分されて行きますから織田家内では似た大きさの弾丸が各家中で製作され
また、織田家本体が引き連れてくる鉄砲鍛冶集団(戦地でのメンテナンス・弾丸製作)からも供給されます。
武田家中は、各家来衆各自の自助努力により、鉄砲・弾・火薬の調達になるので、鉄砲の産地が異なり、調達力が貧弱で鉄砲の玉の素材が異なり、火薬の品質も異なってくる。
仮に武田と織田でそれぞれ千丁づつ持っていたとしても、その内容は全く異なってくるでしょう。
織田家の方は、各部隊内で弾丸弾薬の融通が利く、弾丸切れでも本隊からの補給が期待できる。
織田領内の刀・槍の産地でも同様に規格が進むのが現存する物の中子等の大きさから確認できます。(槍の柄、口金等)
ちなみに、江戸時代に入ると鉄砲や刀槍の規格化は無くなると思っていいでしょう。
@@船木祥啓 様 詳しい解説ありがとうございました。勉強になりました。国友、堺に鉄砲鍛冶があるのは知っていましたが蒲生、日野に鉄砲鍛冶があったとは知りませんでした。戦国大名の蒲生氏そのものが国友のような鉄砲鍛冶師集団を抱えていたということでしょうか?後学のため良ければ残りの4カ所の鉄砲鍛冶があった場所を教えて頂けたらありがたいです。
@@痛風ぷりん
野洲川で砂鉄が採れ
六角氏が蒲生氏に一任し鉄砲生産拠点として発展しました。
国友だと姉川が鉄採取が可能で、やはり六角氏(浅井氏)の影響下にありました。
近江はあまり知られていませんが、戦国時代では武器生産地が多く存在します。
今の長浜南部には「下坂」があり、ここは戦国期の槍の産地で慶長大地震で水没しました。
日野は江戸時代に幕府の庇護が無く
大藩の所領でもなく、微妙に琵琶湖水運が利用しにくく
京都や大阪泉州と言った鉄製品産地が多く存在した為に、林業用刃物等で存続しましたが
これも林業の衰退で消滅
直接では無いものの大阪の天彦産業などが、その名残と言っていいかもしれません。
@@船木祥啓 様 返信ありがとうございます。ネットで「野洲」を調べて見ましたら教科書で紹介されるような銅鐸群が出土しているんですね。(驚)野洲川から鉄(砂鉄?)が出ていたとはネットでは分かりませんでした。大変勉強になりました。またいつか機会があればその時は教えてください。ありがとうございました。
薩英戦争と第二次木津川口の戦いをお願いします。
武田勝頼は本来は滅んだ諏訪家を再興して諏訪家を継ぐ予定だったから名前に武田家での信を使わず諏訪家での頼を使ったが、武田家嫡男で兄の武田義信が廃嫡に成って粛正で切腹に成り他の兄は盲目で出家と病死で急遽武田を継ぐ事に成った(勝頼の子が武田当主で勝頼が後見人だった)が一門衆の穴山梅雪や古参からの重臣からは侮られて勝頼は合戦で父親の信玄よりも功績を挙げなければ認められない厳しい立場で、武田勝頼は諏訪勝頼として一門衆だったら後世から甲斐武田を滅亡させた暗愚と批評されなかったと思う。
短くまとめすぎたのが惜しい。後編あってもよかったかも
信玄が駿河を取るために嫡男を切腹させた報いが勝頼に回ってきた
木曽穴山小山田
もともと武田とは敵対してた関係よね
@@attemboroughdusty7935
信玄の駿河攻めはその時点では最善あるいは最良だったとは思います。
このまま手をこまねいていたら遠江だけでなく駿河まで家康に取られてしまうかもしれない。 もしかしたら駿河を奪うのは北条になるかもしれない。
そうなったら武田はいつまで経っても海を手に入れる事ができず、塩や鉄砲、硝石の交易に不利で貧しいままでしたから。
ですがこの駿河攻めに至るまでの義信の死、北条との同盟破綻などは勝頼の代まで続く大きな禍根になったのは事実ですね。
モンゴル軍?
100~500名で構成された複数の鉄砲隊が、交互射撃を行ったのが三段撃ちの真相。
と、いう学説を読んだ事がありますね
信長は、今度の戦いは史上初となる新しい戦い方になるって言ってましたね。それは銃火器だけに頼らない。あれだけ大量の銃火器持ち合わせていたから、使い所や欠点も知っていたのでしょう。それでも、あれだけ多くの精鋭ガンナーやスナイパー育てたのも凄い。
臨場感と没入感がある映像、楽しめました。
勝頼は楽勝と思っていたようです。
そのような手紙が残っている。
武田軍の実力なら河を渡って鳶ヶ巣山に陣取っていれば100%負けはなかった。
城のような防御陣地に力攻めしたのが敗因です。
すばらしい分析ですね。楽しめました。
信長が勝頼に怯えていたというのは事実だと思うし、まともに戦って武田に勝てるとは思っていなくて、設楽原でのモード•アングレも信長本隊が撤退できるまでの時間稼ぎができれば良い位の考えだったのでは?ただ高天神救援に間に合わなかった前科があるから「境目の城が攻められたら援軍を出し助けにいく」という戦国時代の大名の義務を果たすことで徳川を自陣営に繋ぎ止めようとした、それが長篠設楽原合戦に織田陣営が参加した理由だと思う。ただ武田を潰すことに対する信長の執念は相当なものだったはずだから恐らく経済封鎖で締め上げて自滅させる気マンマンだったとは思う。
本能寺の変の後、徳川家康が旧武田領の切り取りを本格化させると諏訪一族は徳川家康に使者を派遣し、「甲斐の地理は徳川家よりも我ら諏訪一族の方が詳しいゆえ、道案内をする。」と申し出る。そのかわりに武田に奪われた諏訪の旧領は返していただくと徳川家康と約束をかわす。それ以来、諏訪家は徳川とのつながりを深めていく。
家康が江戸に幕府を開くと諏訪家は
諏訪地方に諏訪藩を置くことが許され大名となる。一方の武田家は旗本として残るが大名としてはのこれなかった。
諏訪てもしかして「逃げ上手の若君」に出てくるあの!!
戦国時代まで続いていたんですね😮
そうですよ。武田信玄に殺されたのは「逃げ上手の若君」にでてくる諏訪頼重と同姓同名の人です。
戦国時代にタイムスリップしてみたいなぁ!
とても良い勉強になりました。ありがとうございました。
AIの絵がすごい