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素晴らしい動画でした。マインクラフトと現地映像の合わせ技が素晴らしいです。迫りくる豊臣大軍勢に打撃を与えての玉砕に美学のようなものを感じます。
今回もスパチャありがとうございます!感謝しかありません・・・ご指摘の通り、同じく豊臣方に攻めつぶされた八王子城も山中城も、武士としての筋を通した敗者側の美学のようなものがあったように感じます。それに対し、小田原評定で有名な北条首脳陣の優柔不断ぶりは少し残念な気もします。
地元の人間です。山中城は歴史的背景や障子堀等の遺構が良く残っている事も当然ですが、よく整備維持されている事が素晴らしいです。いつ行っても草刈り等の手入れがされています。行政や地元の方には感服します。
コメントありがとうございます!関東の山城の中でも、山中城は特に整備がいきとどいているように思いいます。鉢形城や滝山城も綺麗に遺構が残っていたり、再現されていますが、やはり山中城の障子堀などは本当に見事です。自分が撮影に伺った際には、擂鉢曲輪の外側で大規模な伐採をしていました。本当に城のすばらしさを残していく活動には感謝しかありません。
この動画作るのにどの位お時間かかってるかと想像すると、もっと再生数が伸びて欲しいです。いつも貴重な動画ありがとうございます!
コメントありがとうございます!何度お聞きしても、視聴いただいた方からのご評価は本当に励みになります!まだまだ作りたい城がありますので、新作ができましたら、またぜひご覧になってみてください。
素晴らしいです。今度は岩屋城の時のように山中城の詳細な戦いを再現してほしいです。
コメントありがとうございます!山中城の戦いもぜひ作っていきたいです。渡辺勘兵衛の話や、間宮康俊が孫を逃がした話、など秘話もたくさんあるので作り甲斐がありそうです。コツコツつくっていきますので、またよろしければ新作を見に来てください。
壮大で分かりやすく素晴らしい動画ですね。私も以前山中城に訪れた事がありますが、名城の名に相応しい山城でしたよ。確か八王子城と同じで、守るのに1万人は必要とする規模の広大な城だったと思います。どっちも重要な城なのに人員を割け無かった北条氏の残念な歴史の1つですね。初めてこの城を訪れた時は、別の用事で道を間違えてたまたま辿り着きましたが、その時に見た雰囲気のある木々に覆われた薄暗い石畳の東海道の旧道?を見てゾクッとした記憶があります。また素晴らしいお城動画を楽しみにしております!
コメントありがとうございます!八王子城も山中城も敵方が1万~2万程度であれば、十分その堅牢さが発揮できたと思います。さすがに7万近くになると・・・想定外だったのでしょう。城はよく整備された城址公園ですが、東海道の旧道などは雰囲気があっていいですね。また違う城も作っていきますので、ぜひ見てください!
ちょうど先週の三連休に私も山中城址を見に行ったばかりなので記憶が蘇ります。動画を見ても堅城だとわかりますが、現地に行くと攻めるのがいかに大変だったかがよくわかりますね。「こんな急斜面を鎧を着てどうやって攻めたんだろう」と終始思っていました。6万8千人に攻められては結果は変わらないと思いますが岱崎出丸が完成してもっと兵力が居れば・・・。氏政がさっさと上洛していれば戦闘は起こらなかったかもしれないので家臣がかわいそうですね。 大変面白い動画でした。今後の動画も楽しみにしています。
コメントありがとうございます!現場に足を運んで実際に城郭を見ると、リアルに城の規模や堅牢さがわかりますね。山中城は想像以上に広大、というのが第一印象でした。特に岱崎出丸は本丸や周辺の曲輪よりもずっと大きく、出丸というよりも一つの城のような大きさで驚きました。あそこにせめて1万の兵で籠っていれば・・・と考えてしまいますね。また、よろしければ新作を見に来てください!
現在残っている鬱蒼と木々が生えている城趾ではなく当時の城として機能していた状態が見たかったのでとても素晴らしいと思います。
コメントありがとうございます!山城をまわっていて残念に思うのが、ご指摘の通り、草木によって遺構が見えにくくなっている所です。山中城や鉢形城は、それでも整備が行き届いている方ですが、もっと見やすくできれば、過去の姿が鮮明になって、より魅力的に見えると思うのですが。
@@fusamichi 例えば攻城側の見上げる視線なんかが可能でしたら迫力ありますね。
攻撃方が城を見上げた時は、本当に迫力がありますよね。上から矢、鉄砲で攻撃され身を隠す場所もなく、、そんな中をよくぞ坂を駆け上っていたものだ、と思います。
こんにちは、凄いですね、良くこんな山の上にお城と言うか砦を築こうとしましたね、でも高い場所に砦を作れば、来る敵来る敵直ぐに発見出来ますね、動物がどうして高い場所を望むのかが解りますね、それは、餌となる動物を直ぐに発見出来るから何ですね、それと原理は、同じと言う事ですね、そして高い位置にあって自然の防御壁があれば敵の進軍を遅らせられるし、敵の数も減らせるメリットも有りますしね、
コメントありがとうございます!山中城に行ってみると、本当に見晴らしの良い場所というのが良く分かります。西櫓の縁から西側(三島側)を見てみると、海までよく見渡せます。確かに動物が餌を見つける感じの眺望かもしれません。実際の山中城の戦いでは、数万の軍隊が攻めあがってくるのが見え、城兵の恐怖もさぞかしだったろう、、と思わずにいられません。
要塞ですね。これだけの城が半日で落城とは。秀吉は北条攻めの準備を相当入念にしていたということでしょうか。素晴らしい動画をありがとうございます。
コメントありがとうございます!秀吉は、攻撃前日に家康と共に、自ら遠目に山中城を視察したと言われています。地域や城に詳しい者も味方にしていたでしょうし、17倍の物量であれば、粉砕できると判断したものと思います。
北条一族はここまで防御を固めた城に何故もう少し兵力を配置しなかったのでしょうね。1万もいれば、相当持ちこたえたと思いますが…。
コメントありがとうございます!ご指摘の通り、大規模要塞に見合った兵力が配置できていなかったことを敗因として指摘されることが多いようです。当時から山中城は「鉄壁」として過信されており、城主(城代)の松田康長は、大軍は兵站が続かず、4000兵で守れば撃退できる、、と豊臣方の物量による戦力を見誤っていた節があるようです。
その分小田原が持ち堪えたと思う。
コメントありがとうございます!巨大な小田原城を守るには多くの兵が必要でしたから、支城にリソースを割くことが出来なかったのでしょう。
土の城の王様北条の技術全てを注ぎ込んで作られた、山中城の制作(_´Д`)ノ~~オツカレーさまです
コメントありがとうございます!北条最後の城、北条築城術が結実した城、といっても過言ではないように思います。城址公園としても、素晴らしく整備されているので、見に行っても本当に楽しかったです。
当時の障子堀は現存の見た目よりももっと深くて、一度落ちたら自力での脱出は無理だったみたいですね😮この戦いの経験から、大阪城にも障子堀を取り入れたって何かの文献で見ましたね😊
コメントありがとうございます!現在の山中城は遺構保護の観点で芝生になっていますが、当時は関東ローム層の赤土がむき出しになっていて、障子堀の中は滑りやすい崖になっていたと思います。特に濡れていると、裸足や草鞋では登れず、一度落ちらたらはい出るのは困難だったに違いありません。大阪城や高槻城でも調査(発掘)で障子堀の跡が見つかっているようですね。北条築城術はいろいろな城で参考にされたようです。
祖父につれられて行ったなぁ
コメントありがとうございます!私も子供の頃、父に八王子城や滝山城に連れて行ってもらい、段々城に興味を持つようになりました。山中城は関東の山城の中でも特に整備が進んでいて綺麗ですので、たくさんの人に素晴らしさを見てもらえたら、と思います。
街道が城の中を通っちゃってるし…😂
コメントありがとうございます!町全体を囲んで城下町を城に組み込む総構えの城には、街道や川を城に引き込んだ例は少なくないようです。山中城の場合、戦いになると街道を封鎖して立て籠れるようにしていたと思います。
素晴らしい動画でした。マインクラフトと現地映像の合わせ技が素晴らしいです。
迫りくる豊臣大軍勢に打撃を与えての玉砕に美学のようなものを感じます。
今回もスパチャありがとうございます!感謝しかありません・・・ご指摘の通り、同じく豊臣方に攻めつぶされた八王子城も山中城も、武士としての筋を通した敗者側の美学のようなものがあったように感じます。それに対し、小田原評定で有名な北条首脳陣の優柔不断ぶりは少し残念な気もします。
地元の人間です。山中城は歴史的背景や障子堀等の遺構が良く残っている事も当然ですが、よく整備維持されている事が素晴らしいです。いつ行っても草刈り等の手入れがされています。行政や地元の方には感服します。
コメントありがとうございます!関東の山城の中でも、山中城は特に整備がいきとどいているように思いいます。鉢形城や滝山城も綺麗に遺構が残っていたり、再現されていますが、やはり山中城の障子堀などは本当に見事です。自分が撮影に伺った際には、擂鉢曲輪の外側で大規模な伐採をしていました。本当に城のすばらしさを残していく活動には感謝しかありません。
この動画作るのにどの位お時間かかってるかと想像すると、もっと再生数が伸びて欲しいです。
いつも貴重な動画ありがとうございます!
コメントありがとうございます!何度お聞きしても、視聴いただいた方からのご評価は本当に励みになります!まだまだ作りたい城がありますので、新作ができましたら、またぜひご覧になってみてください。
素晴らしいです。今度は岩屋城の時のように山中城の詳細な戦いを再現してほしいです。
コメントありがとうございます!山中城の戦いもぜひ作っていきたいです。渡辺勘兵衛の話や、間宮康俊が孫を逃がした話、など秘話もたくさんあるので作り甲斐がありそうです。コツコツつくっていきますので、またよろしければ新作を見に来てください。
壮大で分かりやすく素晴らしい動画ですね。
私も以前山中城に訪れた事がありますが、名城の名に相応しい山城でしたよ。
確か八王子城と同じで、守るのに1万人は必要とする規模の広大な城だったと思います。
どっちも重要な城なのに人員を割け無かった北条氏の残念な歴史の1つですね。
初めてこの城を訪れた時は、別の用事で道を間違えてたまたま辿り着きましたが、その時に見た雰囲気のある木々に覆われた薄暗い石畳の東海道の旧道?を見てゾクッとした記憶があります。
また素晴らしいお城動画を楽しみにしております!
コメントありがとうございます!八王子城も山中城も敵方が1万~2万程度であれば、十分その堅牢さが発揮できたと思います。さすがに7万近くになると・・・想定外だったのでしょう。城はよく整備された城址公園ですが、東海道の旧道などは雰囲気があっていいですね。また違う城も作っていきますので、ぜひ見てください!
ちょうど先週の三連休に私も山中城址を見に行ったばかりなので記憶が蘇ります。動画を見ても堅城だとわかりますが、現地に行くと攻めるのがいかに大変だったかがよくわかりますね。「こんな急斜面を鎧を着てどうやって攻めたんだろう」と終始思っていました。6万8千人に攻められては結果は変わらないと思いますが岱崎出丸が完成してもっと兵力が居れば・・・。氏政がさっさと上洛していれば戦闘は起こらなかったかもしれないので家臣がかわいそうですね。 大変面白い動画でした。今後の動画も楽しみにしています。
コメントありがとうございます!現場に足を運んで実際に城郭を見ると、リアルに城の規模や堅牢さがわかりますね。山中城は想像以上に広大、というのが第一印象でした。特に岱崎出丸は本丸や周辺の曲輪よりもずっと大きく、出丸というよりも一つの城のような大きさで驚きました。あそこにせめて1万の兵で籠っていれば・・・と考えてしまいますね。また、よろしければ新作を見に来てください!
現在残っている鬱蒼と木々が生えている城趾ではなく当時の城として機能していた状態が見たかったのでとても素晴らしいと思います。
コメントありがとうございます!山城をまわっていて残念に思うのが、ご指摘の通り、草木によって遺構が見えにくくなっている所です。山中城や鉢形城は、それでも整備が行き届いている方ですが、もっと見やすくできれば、過去の姿が鮮明になって、より魅力的に見えると思うのですが。
@@fusamichi 例えば攻城側の見上げる視線なんかが可能でしたら迫力ありますね。
攻撃方が城を見上げた時は、本当に迫力がありますよね。上から矢、鉄砲で攻撃され身を隠す場所もなく、、そんな中をよくぞ坂を駆け上っていたものだ、と思います。
こんにちは、凄いですね、良くこんな山の上にお城と言うか砦を築こうとしましたね、でも高い場所に砦を作れば、来る敵来る敵直ぐに発見出来ますね、動物がどうして高い場所を望むのかが解りますね、それは、餌となる動物を直ぐに発見出来るから何ですね、それと原理は、同じと言う事ですね、そして高い位置にあって自然の防御壁があれば敵の進軍を遅らせられるし、敵の数も減らせるメリットも有りますしね、
コメントありがとうございます!山中城に行ってみると、本当に見晴らしの良い場所というのが良く分かります。西櫓の縁から西側(三島側)を見てみると、海までよく見渡せます。確かに動物が餌を見つける感じの眺望かもしれません。実際の山中城の戦いでは、数万の軍隊が攻めあがってくるのが見え、城兵の恐怖もさぞかしだったろう、、と思わずにいられません。
要塞ですね。これだけの城が半日で落城とは。秀吉は北条攻めの準備を相当入念にしていたということでしょうか。素晴らしい動画をありがとうございます。
コメントありがとうございます!秀吉は、攻撃前日に家康と共に、自ら遠目に山中城を視察したと言われています。地域や城に詳しい者も味方にしていたでしょうし、17倍の物量であれば、粉砕できると判断したものと思います。
北条一族はここまで防御を固めた城に何故もう少し兵力を配置しなかったのでしょうね。1万もいれば、相当持ちこたえたと思いますが…。
コメントありがとうございます!ご指摘の通り、大規模要塞に見合った兵力が配置できていなかったことを敗因として指摘されることが多いようです。当時から山中城は「鉄壁」として過信されており、城主(城代)の松田康長は、大軍は兵站が続かず、4000兵で守れば撃退できる、、と豊臣方の物量による戦力を見誤っていた節があるようです。
その分小田原が持ち堪えたと思う。
コメントありがとうございます!巨大な小田原城を守るには多くの兵が必要でしたから、支城にリソースを割くことが出来なかったのでしょう。
土の城の王様北条の技術全てを注ぎ込んで作られた、山中城の制作(_´Д`)ノ~~オツカレーさまです
コメントありがとうございます!北条最後の城、北条築城術が結実した城、といっても過言ではないように思います。城址公園としても、素晴らしく整備されているので、見に行っても本当に楽しかったです。
当時の障子堀は現存の見た目よりももっと深くて、一度落ちたら自力での脱出は無理だったみたいですね😮
この戦いの経験から、大阪城にも障子堀を取り入れたって何かの文献で見ましたね😊
コメントありがとうございます!現在の山中城は遺構保護の観点で芝生になっていますが、当時は関東ローム層の赤土がむき出しになっていて、障子堀の中は滑りやすい崖になっていたと思います。特に濡れていると、裸足や草鞋では登れず、一度落ちらたらはい出るのは困難だったに違いありません。大阪城や高槻城でも調査(発掘)で障子堀の跡が見つかっているようですね。北条築城術はいろいろな城で参考にされたようです。
祖父につれられて行ったなぁ
コメントありがとうございます!私も子供の頃、父に八王子城や滝山城に連れて行ってもらい、段々城に興味を持つようになりました。山中城は関東の山城の中でも特に整備が進んでいて綺麗ですので、たくさんの人に素晴らしさを見てもらえたら、と思います。
街道が城の中を通っちゃってるし…😂
コメントありがとうございます!町全体を囲んで城下町を城に組み込む総構えの城には、街道や川を城に引き込んだ例は少なくないようです。山中城の場合、戦いになると街道を封鎖して立て籠れるようにしていたと思います。