【伊賀上野城】藤堂高虎は豊臣家を滅ぼすために日本一の石垣を築いた!

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  • Опубліковано 1 сер 2024
  • 藤堂高虎がどうして徳川家康に味方したのか、いろいろな説があります。
    この動画ではその中の一つを取り上げています。
    天守内部の画像は、公益財団法人伊賀文化産業協会による展示されたもの等を撮影したものです。
    上野城を現在の形にしたのは藤堂高虎。高虎はこれまでに家康の命に従って多くの城を築いてきました。
    高虎は、近江国の生まれ。身長6尺2寸(約190cm)の大男だったと言われています。
    初めは近江の「浅井長政」に仕え「姉川の戦い」で足軽として武功を上げます。その後何度か主君を変え、羽柴秀長、そして秀長の子「豊臣秀保」に使えますが、秀保が17歳で亡くなり主家が断絶すると、高虎は主君を弔うため出家して高野山に隠棲したといわれています。
    その功績を惜しんだ豊臣秀吉が高野山から高虎を呼び寄せ、伊予宇和島7万石を与えます。秀吉は先に亡くなった弟秀長から高虎の働きぶりを聞いていたのでしょう。
    秀吉の死後、高虎は徳川家康に接近。高虎は家康のために忠節を尽くすようになります。関ヶ原の戦いの前、家康襲撃の企みがあるとわかったとき、自ら徹夜で警護にあたりました。また関ヶ原の戦いでは、西軍の「小早川秀秋」らの寝返り工作を行うなど、東軍の勝利に貢献します。
    高虎が家康のために働くことについて「豊臣に恩を受けたのに徳川につくのはどういうことだ」と言う武将もいたようです。しかし仕える主君を間違えば自分も家族も命を奪われる時代。次の時代をまとめ上げる者は誰なのか、しっかり見定める力が高虎にはあったのでしょう。
    高虎はいわゆる外様大名だったのですが、家康からの信任は厚かったようです。そして大坂城包囲網の多くの城について、縄張りを任されることになります。
    家康は高虎を伊勢・伊賀の太守に封じ、ここを抑える城造りを命じます。伊賀は大坂から大和を経て伊勢湾に通じる最短ルート、重要な地ですね。高虎はこれを受け、それまで筒井氏の城だった上野城を高虎流に修築していきます。あの高い石垣もこの時に築かれたのです。
    こうして、豊臣秀頼がいる大坂から徳川家の本拠江戸に通じる街道はいくつもの城によって守られ、上野城には大坂城包囲網の一つとして西から攻めてくる敵を迎え撃つという大切な役割があったのです。

КОМЕНТАРІ • 20

  • @iganorekishi
    @iganorekishi 2 роки тому +1

    伊賀上野城紹介していただきありがとうございます。
    大変わかりやすい解説でした。

  • @user-tg4tu9uz6l
    @user-tg4tu9uz6l 2 роки тому +3

    かいのすけさん今晩は未完成の城ですがこの高石垣は一見の価値がありますね分かり安い解説ありがとうございます👍

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  2 роки тому +1

      ありがとうございます。高石垣の上はかなり怖かったです!

  • @user-gi1qb6vt8t
    @user-gi1qb6vt8t 2 роки тому +2

    木津川流域で育ったので、上野城や忍者屋敷には子供の頃よく遊びに行きました(^^)
    司馬遼太郎氏の「城塞」によれば家康は、上野城のそばを流れる木津川に軍船を浮かべれば、1日で大坂に到着できる地の利を見込んで、高虎をこの地に封じたとか…
    また東京の上野はかつて高虎が整備したので、伊賀上野から地名をそのままもらったそうですね!

  • @Naruhei
    @Naruhei 2 роки тому +2

    高虎はわが故郷伊予の今治城でも有名だし興味ある武将です。伊賀上野は行ってみたい。今回も面白い動画ありがとう。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  2 роки тому +2

      今治はキレイなお城ですね!またよろしくお願いします。

    • @user-ht3qj6zx8l
      @user-ht3qj6zx8l 2 роки тому

      淡水魚のメダカと海水魚の鯛なんかが共存する不思議な堀があるんでしたっけ⁉️
      一度行ったんですが夏で意識朦朧でしたw
      北海道の人間にはかなりきつかった。
      今治焼き鳥食いたかった( ; ; )

  • @user-qr7gs4ck9q
    @user-qr7gs4ck9q 2 роки тому +2

    約7年前に行ったことがあります。また行きたくなったな😊
    高石垣を上からのぞき込む時は、四つん這いで覗きました。そうすれば多少恐怖心は和らぐかも。。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  2 роки тому +1

      確かに!です。あそこは危険です。もし落ちたら‥しか考えられません。

  • @user-ph3ve8xh2p
    @user-ph3ve8xh2p 2 роки тому +2

    up有り難うございます。家康は、豊臣方に攻められたら、秀忠は井伊の彦根に入り自分は藤堂の上野に逃げ込むとしていました。包囲網のうち篠山城や名古屋城は方形の曲輪で同様の縄張りで上野城も途中までその痕跡がある様に見えます。
    後世、高虎は主君を数度替えてあざといとかズル賢いとか言われたようですが、これは江戸時代の儒教の影響で二君に見えずの発想によるもの。戦国の世はかいのすけさんの仰るようにどの主君に仕えるかを嗅ぎ分ける力は必要でした。なお、高虎は戦国の世を終わらせる大名として「厭離穢土欣求浄土」の家康を選んだのは正解でした。高虎は家康の晩年、江戸城表や駿府城表に屋敷を賜り家康の相手をし、また秀忠家光の相談相手にもなるよう命じられていたことからも家康の信頼は絶大だったようですね。あの高石垣は私も覗きましたが目が回りました。

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  2 роки тому

      ありがとうございます。上野東照宮の家康像の隣には天海と高虎がいると聞いたことがあります。よほど家康に重用されていたのですね。魅力的な武将だと思いました!またよろしくお願いします。

  • @user-gi1qb6vt8t
    @user-gi1qb6vt8t 2 роки тому +3

    藤堂家は家康の遺言のおかげで幕末まで続いたが、鳥羽・伏見の戦いであっさりと幕府・徳川家を裏切ったとか…(^^;)

    • @user-gi1qb6vt8t
      @user-gi1qb6vt8t Рік тому

      その代わり、散々悪評を受けたらしいですが…(^^;

    • @user-tg9qt6gp6k
      @user-tg9qt6gp6k Рік тому +1

      @@user-gi1qb6vt8t
      確かに、幕府側を断り、官軍側についたわけですが、高虎が作った日光東照宮の破壊の指示を官軍から受けましたが、断ったそうです。当時幕府側についた大名が官軍に攻められ、ひどい状況になっている事を考えると良い判断であったと思います。

    • @user-gi1qb6vt8t
      @user-gi1qb6vt8t Рік тому

      @@user-tg9qt6gp6k さん
      それは存じませんでした。
      ありがとうございます!

    • @user-mv5sf8bk2z
      @user-mv5sf8bk2z Місяць тому +1

      あくまで人に付くことを良しとする人だったんだろうなーと

  • @user-qf2ck6wn6j
    @user-qf2ck6wn6j 2 роки тому

    赤城城も たかとらが築上

    • @kainosuke-rekishi
      @kainosuke-rekishi  2 роки тому

      三重と和歌山の県境の方でしょうか。一度足を運んでみたいです!

  • @user-ux4cy7iq4g
    @user-ux4cy7iq4g Місяць тому

    鳥羽伏見の戦いで、あっさり裏切ったなどとされていますが、関連諸書を渉猟すると随分違う様です。いち早く交渉に