【兵庫】姫路城の城下町は江戸時代の◯◯だった!【姫路】

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 22 лис 2024

КОМЕНТАРІ • 45

  • @tomotomo8867
    @tomotomo8867 7 місяців тому +11

    生まれも育ちも姫路市民の55歳ですが、古地図と照らし合わせて調べたり歩いた事が無いので凄く面白かったです。
    姫路市民の誇りの姫路城が大好きで、千姫の小路の直ぐ傍に住んでいます。
    家から姫路城が大きく見えるので夜のライトアップ(20時と21時から各15分間色が変わる)を家の前から動画撮ったりしています。
    数ヶ月前には千姫の小路のライトアップもあり、夜に歩いて動画撮りに行きました。
    姫路城の歴史の詳しい説明ありがとうございました。

  • @user-1453-l5x
    @user-1453-l5x 10 місяців тому +6

    来月姫路城に行く予定なので、検索していたところこちらの動画が目に止まりました😊!
    楽しい動画で、行く前に見れて良かったです😊!
    ありがとうございます😆👏

  • @humptydumpty9216
    @humptydumpty9216 11 місяців тому +13

    面白かったです。長かったのですが、最後まで観てしまいました。

  • @須藤淳一-y2i
    @須藤淳一-y2i 11 місяців тому +17

    初めて見ました!
    正に本日これから姫路城🏯を見に行きます!😂😂

  • @もちもっち-i2d
    @もちもっち-i2d 9 місяців тому +4

    中の門跡から西側の鵰門跡は石垣が残ってて門の雰囲気が見えていい感じです!

  • @アプリ-z9x
    @アプリ-z9x 10 місяців тому +12

    姫路城の天守にカップルで上がり、天守の確か大阪の方に向くと2人は別れると言い伝えが有るらしいですよ、それはあの千姫の怨念と言うか千姫が豊臣秀頼と大阪戦いで秀頼と千姫が離れ離れになり幸せになれなかったので千姫の思いがそうさせるのじゃないのかと人に聞いた事が有りますね
    しかし今でも千姫の思いが
    そうさせる何て千姫の豊臣秀頼を思いが強かったのだと思いましたね‼️

  • @r1-a573
    @r1-a573 10 місяців тому +8

    城下の古地図、懐かしい。30数年前、この城下町をテーマにして卒論書きました。地図だのフィールドワークとか…大変だったの思い出しましたわ。

  • @masaya6403
    @masaya6403 11 місяців тому +24

    還暦過ぎた姫路出身者なので、ここにある姫路城の歴史や外堀・中堀の位置などは、ほとんど知ってましたが、やはり、古地図と照らし合わせて街並みを歩いていく、というこの企画は面白かったです! 来年、アクリエで講演もするということのようで、聞いてみたいのですが、私は、ちょっと時期的に無理ですが、どうぞ頑張ってください。 なお、最初の方で、通り中で陥没のような地盤沈下を探しておられましたが、私は、そのようなものを感じた記憶がありませんけどね、この辺で。 動画でもある坂のような高低差はありますけどーー。 他地域では、そういうことがあるのですね、それも見てみたい気がします。

  • @martha-df9ym
    @martha-df9ym 7 місяців тому +2

    夫が姫路っ子なので駅前は見慣れてますが、お城見学は高2の修学旅行と、2014年(修復中)だけでした。
    一日中、お城をじっくり満喫するのもアリかもしれません。親戚との親睦はもちろんですが、来年のお正月に期待…😁

  • @ヤーレンノーラン
    @ヤーレンノーラン 11 місяців тому +12

    古地図シリーズ新作! 待ってました

  • @jr.9980
    @jr.9980 11 місяців тому +12

    姫路城横に庭園の好古園やラストサムライでの撮影場の書写山、姫センで有名な姫路セントラルパークもあります

  • @藤原雅弘
    @藤原雅弘 4 місяці тому +2

    姫路は地元実家です😅姫路はいい所ですょ~駅前は昔とは変わりました!勉強になりました😊

  • @h2destiny
    @h2destiny 5 місяців тому +3

    たまたまトップページに出てて目についたので開いてみたのですが、
    解説や動画も分かりやすく、話し方や声質も聞き取りやすく、早送りする事もなく最後まで見てしまいました。
    個人的には古地図と変わらず現代でも存在している寺の紹介もしながら進んで欲しかったです。
    有名UA-camrかと思いきや、まだ1.6万人だったのが意外でしたが、伸びしろが大きい予感がするので今後の活躍が楽しみです。

  • @Himeji2024
    @Himeji2024 11 місяців тому +11

    地元民でよく姫路城には遊びに行きますが、三の丸広場の直線のタイルが何だろうと思ってた謎が解けました。
    説明看板を見て歩くようにしたいです。

  • @松本健太-u3v
    @松本健太-u3v 5 місяців тому +4

    ボリューム満点すばらしい

  • @shirakuni
    @shirakuni 6 місяців тому +6

    とても勉強になりました。なんで飾磨街道は街からちょっと離れたとこにあるんだろうと思ってたんですがお堀の外に沿ってたんですね。
    それにしても姫路は歴史看板が多いですねw 近所なんでいつでも行けると思ってずいぶん行ってないですが、お城に行きたくなりました。

  • @秘密平
    @秘密平 11 місяців тому +8

    次姫路にいらしたら野里の方も古い街並みでいいですよ🎉

  • @okiden1
    @okiden1 5 місяців тому +1

    18:55 画面右側知る人ぞ知るお店だった所が映っていますね。俳優の美木良介さんの御実家だったお寿司屋さん。
    外曲輪中曲輪に古い建物が一切残っていないのは太平洋戦争の際姫路も空襲にみまわれ焼け野原になり道と僅かに残った建物跡だけだったそうです。

  • @tow-hv1fv
    @tow-hv1fv 5 місяців тому +3

    姫路市民です。
    比較的長尺動画って途中で飽きるんですが、最後まで見せていただきました!!
    昨日、相生に行ったのですが、動画に出てきた那波と関係があるのか那波のという交差点通りました。
    こう見ると歴史ってホント面白いですね!!ありがとうございます!!

  • @北川裕治-l4g
    @北川裕治-l4g 11 місяців тому +7

    丘みどり様の故郷だよ❤

  • @首藤靖男-m4j
    @首藤靖男-m4j 11 місяців тому +5

    商店街アーケードの道が昔ながらの生活道路・旧道?だったりする。

  • @ともねー-g3o
    @ともねー-g3o Місяць тому

    じもとですが、😂見て楽しい歩きやすい

  • @jr.9980
    @jr.9980 11 місяців тому +11

    38分24秒 暴れん坊将軍で有名な坂道

    • @HOnverwacht1205
      @HOnverwacht1205 11 місяців тому +1

      38:24

    • @ヤス-l4b
      @ヤス-l4b 5 місяців тому

      上様の気配がする!!

    • @余黒功規
      @余黒功規 5 місяців тому

      TV朝日ドラマ吉宗評判記暴れん坊将軍で毎回登場するのでTV世代には「将軍坂」と呼ばれていた。西の丸も江戸城として登場。

  • @zen-chan9732
    @zen-chan9732 11 місяців тому +7

    大阪生まれ大阪育ちだけど行った事ないんだよな姫路城

  • @仁美堀田
    @仁美堀田 11 місяців тому +2

    記念切手を思い出した!

  • @user-jd3pu6br4t
    @user-jd3pu6br4t 11 місяців тому +3

    概要欄の目次が空欄になってます!

    • @marutakeebisu-travel
      @marutakeebisu-travel  11 місяців тому +5

      気づいてなかったですありがとうございます
      追加しました

  • @小池秀和-l9y
    @小池秀和-l9y 5 місяців тому +1

    今、置いたら宮沢りえさんが出てきました。代数学?

  • @牛たちノラから出てきた
    @牛たちノラから出てきた 11 місяців тому +3

    都市規模的には関東でいうところの宇都宮?と同じくらい?

    • @Himeji2024
      @Himeji2024 11 місяців тому +5

      面積で120平方キロメートル姫路市のほうが大きいですね。
      人口は一万人ほど姫路市が宇都宮市よりも多い統計です。

    • @牛たちノラから出てきた
      @牛たちノラから出てきた 10 місяців тому +2

      @@Himeji2024 なるほどそーなんですね!広い分人口も少し多い感じなんですね〜。ことし両方行ったんですけどなんとなーく似てるなぁって思ったんでしれてよかったです。

    • @Himeji2024
      @Himeji2024 10 місяців тому +1

      @@牛たちノラから出てきた 旅は楽しいですね
      良いお年をお迎えください。

  • @健司高濱
    @健司高濱 11 місяців тому +7

    天守閣と言うのは、明治時代に建設された高層建築物を「〇〇閣」と呼んだものにならった俗称ですので城郭などの歴史を語る時には、使うべきではない呼び方だと思います。
    天守の有る近代城郭の基礎となったのは、織田信長が建てた安土城と言われています。
    それまでは、城郭の中心に見張り台となる櫓が建てられていたものを権威の象徴に作り変えて天守を生み出したのです。
    また、安土城の天守(安土城の場合は、天主と呼ぶ場合が多いです。)は、織田信長が居住場所としていました。
    安土城の天守以外では、居住する為の場所ではなく武器や食料等を保管する場所として使われていました。
    姫路城に最初の天守を建設したのは、説明の様に羽柴秀吉でした。
    当時の大手門は、東側です。
    この部分に、当時のままの所が残されているそうです。
    その後に入城した池田輝政にて羽柴秀吉の天守を壊して元の天守台を囲う様に今の天守台を築きました。
    昭和時代に、天守台の石垣が傾いていたので大天守を解体して石垣を積み直す工事の時に羽柴秀吉時代の天守台を確認しています。
    池田輝政が、巨大な城郭を建設したのは、大阪城に立てこもる豊臣家を包囲して豊臣方であった毛利家の間に楔を打ち込む為です。
    また、大阪城を包囲する目的で建設された城郭は、「彦根城」や「伊賀上野城」、「和歌山城」等が有ります。
    姫路城で特徴的なのは、堀の構造が同心円状ではなく一筆書きの様になっている事です。
    堀の始まる場所は、本丸の北東の場所で姫路神社のある場所です。
    そして、終わりの場所は、北東の野里門の所です。
    同じ構造の堀を持つのは、江戸城だけです。
    姫路には、陸軍が駐屯しており軍需工場も有った事から空襲を受けて市街地中心部が焼け野原となりました。
    また、この空襲の時に大天守の最上階に焼夷弾が落ちたのですが、不発弾だったので焼失を免れています。
    その不発弾は、当直の兵士の方2名により天守の外に運び出されたそうです。
    また、空襲を行ったアメリカの軍人の証言によれば、姫路城の周辺は、レーダー観測で建造物の無い沼地と判断したので焼夷弾を投下しなかったそうです。
    戦後に、姫路市長となった「石見元秀」市長により大手門より姫路駅まで続く50m幅の大手前通りを多くの反対を押し切り空襲からの復興の為に建設しました。
    国道2号線は、昭和の初め頃に中堀を埋めて建設されましたが、戦後の混乱時に建物が建てられて2車線の道路となっていました。
    それを昭和40年代頃より拡張工事を行ない35〜45年位前に今の幅の道路となりました。
    また、姫路市が行っている道路拡張工事で国道2号線の為に埋められていた長堀の遺構が、発掘調査で確認されています。
    尚、姫路城では白漆喰を定期的に塗り替える為の工房が、場内に有り何時も何処で白漆喰を塗り替える工事を行っています。

    • @立花蔵人
      @立花蔵人 10 місяців тому +1

      長い
      自分でアンサー動画でも作っとけ

  • @余黒功規
    @余黒功規 5 місяців тому +3

    姫路城と言えば天下統一の出世城として有名です。黒田官兵衛は姫路城の城主として御着城の小寺氏(室町幕府の設立者赤松円心の配下)でしたが戦国時代の終焉を目指して尾張や岐阜から京都や畿内を支配した織田信長に播磨国に出兵を依頼する為に安土城に訪れ信長と直談判。織田信長は長浜城主の豊臣秀吉に播磨出兵を命じ6カ国を支配する広島城の毛利氏討伐の先頭をきるよう命じる。黒田官兵衛の元を訪れた豊臣秀吉は播磨国が大国であり様々な敵と対峙。先ずは増位山随願寺の僧兵二万人と対決。次いで浄土真宗の英賀城数万人と姫路城建設の為に花山法皇や後白河法皇や後醍醐天皇や和泉式部の寄進で栄えた天台宗の別格本山の書写山円教寺の僧侶千人を追い払い豊臣秀吉が本陣を置き岡山方面からの奇襲に備えつつ播州三木城を兵糧攻め。但馬国の天空の城で有名な竹田城を攻略して因幡国の鳥取城を兵糧攻めして陥落。さらに播州の武士を統率して備前高松城を水攻め。黒田官兵衛や聡明な弟の秀長が前田利家や加藤清正や福島正則や蜂須賀小六など勇猛果敢な武士を統率して、鳥取県に続けて岡山県が陥落するので織田信長に美味しい所を持たせようと援軍を要請。織田信長は明智光秀に山陰道から攻めるよう大軍を采配すると共に自らは安土城を出て畿内の織田軍を結集させて徳川家康には堺見物に行かせ京都の本能寺に千人の手勢で後継者の長男は隣の寺に泊まり明日の毛利氏討伐を夢見ていた。ところが明智光秀が丹波国から敵は本能寺と大軍で主君を討つ。豊臣秀吉は岡山県の備中高松城で主君の信長の到着を待っていた所に明智光秀の毛利氏への信長成敗の手紙を横取りし豊臣秀吉は発狂する。黒田官兵衛は豊臣秀吉に「殿、天下取りの機会がメグッテきました。」と秀吉を正気に戻させ、直ちに備中高松城の城主切腹で兵隊釈放を約束し姫路城に戻り、秀吉が貯めた軍資金を全て部下に配布して、畿内の織田軍も味方に着けて京都の入口の山崎で明智光秀を撃破し京都を制圧。大阪城と聚楽第と伏見城の建設を命令すると共に尾張清洲城で長男の長男の三法師を名目上の後継者として三法師の支援者として柴田勝家を賤ヶ岳で撃破して関白に就任し自らの後継者とした豊臣秀次に関白を譲り自らは太閤殿下となると秀次が小牧長久手で徳川家康に敗戦し織田信長の幼友達の池田家党首と後継者を失う。秀吉は激怒して秀次を京都の聚楽第を破壊して高野山に一族郎党追放して切腹。徳川家康には詫びの印として秀吉の妹と実母を贈り誠意を示して信長の弟分の徳川家康を配下。小田原評定で北条氏を包囲する間に東北の伊達政宗が白装束で秀吉に配下に成りたいと懇願され四国征伐と九州征伐と関東東北征服をわずか4年で実施。姫路城で播磨国や但馬国や因幡国や備前国や備中国など数多くの国を征服したが全ては主君の織田信長に仕える為。姫路城を出立すると天下統一まで一直線。次の江戸幕府の開始にも黒田官兵衛と息子の黒田長政が深く関与。豊臣秀吉は生前五大老の前で誰が一番ワシの跡をかっさらうか?皆の意見を述べよ。と命じたが答えは五大老筆頭の徳川家康と皆が回答。しかし秀吉はお前達は視野が狭い。圧倒的に戦闘が強く駆け引きが上手く智恵が回るのは黒田官兵衛だと断言。この噂を伝え聞いた黒田官兵衛は45歳で隠居して大分県中津城に籠る。後継ぎは黒田長政が就任して朝鮮出兵では朝鮮半島を蹂躙して明朝政府軍隊と中国で戦い勝利。ところが豊臣秀吉が亡くなり五大老は総撤退を指示。3年後に関ヶ原が起こると黒田長政は先鋒として石田三成を撃破。徳川家康が涙ながらに両手を取り感謝感激を伝えた。一方で隠居した中津城の黒田官兵衛は1ヶ月で島津を除く九州地方を征服して関ヶ原の結果を待つ。しかし関ヶ原がわずか1日で終了する始末。しかも原因は石田三成を撃破した息子黒田長政。お前の左手は何をしていたのだ?と叱責するが後の祭り。徳川家康は関ヶ原により豊臣秀吉の同盟国を二分させ西軍を破壊して黒田長政も九州筑前国博多を治める大名となり福岡城と名付く。黒田官兵衛の祖父が備前福岡に菩提寺と墓が有った事に由来する。福岡城の門前町として天神に福岡市役所や福岡県庁や福岡地裁や福岡高裁、後に小倉から九州電力や読売毎日朝日新聞の九州本社や全国展開する企業の九州支店が集中。徳川家康も関ヶ原が石田三成の首を京都に晒す事に依り朝廷に征夷大将軍を取り寄せ3年後に秀忠に譲る。豊臣秀吉からすれば徳川家康を三河岡崎城や浜松城から江戸城という海に突き出た漁村に追いやり家康の後継者の三男の名前も秀忠と秀吉の名前から取り入れ、秀忠の長女の千姫も大阪城の豊臣秀頼の妻となったので江戸城の改修に忙しい徳川家康は叛乱しない。ところでこの千姫、三大将軍徳川家光の姉は大阪夏の陣のあと本多正信の孫と再婚して姫路城で化粧料十万石が加算されて西の丸を造成。姫山の四棟連立天守閣と並びに同じ高さの鷺山に西の丸。百間廊下は3階建て250mの石落としや女中部屋が6部屋並ぶC形の要塞造りで内堀から見れば山を丸呑みした形。西側の白鷺橋の岩端地区から見れば戦艦ヤマトを想起。それから姫路城は民間業者が巻木として内堀に6ヶ所有った大名屋敷を解体焼却し固定資産税の対策として陸軍に寄贈。陸軍は中堀の家老など上級武士の屋敷を解体焼却して更地として練兵場に変更利用。姫路城の東側に集中する家老屋敷や姫路城入口は東側の搦め手口が戦前は一局集中して赤レンガの姫路市役所や姫路警察署や陸軍病院、陸軍師団指揮所やNTTやNHKや郵便局や神戸新聞社姫路支局や白陵高校や賢明短大や姫路東高校や姫路東消防署などの他に姫路城のお殿様も東御屋敷に住み江戸城大手門前広場を囲む酒井家江戸屋敷と共に徳川慶喜の大老となるなど徳川将軍の側近として、また姫路城内堀以内も徳川将軍の城として、池田輝政は父と兄が小牧長久手で徳川家康に殺されたが織田信長の乳母(池田輝政祖母)に対し豊臣秀吉は面倒を見ると宣言して徳川家康との仲を仲裁して徳川家康の娘婿となり、姫路城を江戸城と同じく4本天守閣連立させ石垣を螺旋状に内堀に中堀にそして外堀に配置すると共に市川から分離させて船場川を整備して海と直結。更に三左衛門堀を池田輝政は城下町から海に掘り進めたが輝政50歳で死亡の為に未完成。姫路市役所の東側まで達している。現在の姫路城は内堀以内でも江戸時代の建物が5%しか残っていない。平地だった三の丸広場など御屋敷が沢山有った場所は民間業者が大名屋敷を破壊して風呂や台所の巻木に売り切ったが、山の傾斜地にある天守閣付近は壊す費用が大金となり内堀以内95%破壊。中堀以内は99%破壊。外堀は99.9%破壊した。私達は江戸時代の建物の5%を通り過ぎるだけで見た気になる。以前は天守閣の東側の搦め手口や井戸櫓などを見学でき姫路城に使われている様々なキリシタン大名である黒田官兵衛の十字架瓦なども沢山見られたが見学コースから外れた。何れにせよ見学コースも天守閣の五分の一を少し見せるだけで東天守や西天守や唐天守や渡り廊下や搦め手口、などは現在は見ることは出来ない。そもそも内堀以内には6個の大名屋敷が立っていて、姫路城のお殿様は1年に一度の大掃除しか鉄錠で地下入口で閉鎖され物見櫓兼武器庫であった天守閣には姫路城主でさえ一生に1度しか入らない。池田輝政が3ヶ国百万石の大大名で9年の歳月で100万人の労力で改築したが黒田官兵衛が作った石垣や豊臣秀吉が整備した石垣が池田輝政が作った石垣と同居している。織田信長に依頼して豊臣秀吉と徳川家康の天下取りを取り仕切った姫路城。池田輝政の子孫は直ぐに連続して死亡したので徳川幕府は鳥取城と岡山城に池田家を分離させて2か国を統治させた。

    • @nao-nao-dx1ri
      @nao-nao-dx1ri 5 місяців тому +1

      すごく読み応えがありました。姫路に来て28年ですが知らないことが沢山あります。勉強になりました。
      最近の噂で、千姫が大河ドラマ化になるかも・・・?と。
      実現すれば嬉しいですね。
      女性が主役の大河は柔らかい印象が残って好きです。
      今年も光る君へ、も毎回楽しんでいます。
      長文本当にお疲れ様です。
      そうそう、あなたのご記憶にひとつ訂正を・・・。
      白陵校→純心学院校でお願いいたします。
      この文章を読んでいる間、
      頭の中でモノクロの歴史映画を観ているような、上品で素敵な時間、歴史旅行をさせていただきました。
      ありがとうございますした。

  • @MayumiUshioIP
    @MayumiUshioIP 3 місяці тому

    #札の辻をナメたらあかんよ~@ua-cam.com/users/shortsjTxKw2K0NBY