【ゆっくり解説】【伝説は本当か?】豊臣秀吉の「中国大返し」の真実が判明!!/10日で200kmの超高速移動は嘘?まさか…「本能寺の変」を知っていたのか!?

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 6 вер 2024
  • 今回は、「秀吉の中国大返しの真相」を解説します!
    豊臣秀吉の「中国大返し=備中大返し」といえば、本能寺の変の謎が好きな方なら絶対に知っている歴史ですね!
    あり得ない速さで進軍したことから、豊臣秀吉の最大の偉業として注目される出来事ですが、未だに解明されていないことが数多くあります!
    「中国大返しは何キロを時速何キロで進軍した?」、「豊臣秀吉は本能寺の変が起きることを知っていたのでは?」などなど都市伝説的に語り継がれる謎の真相はいかに!!
    #ゆっくり解説 #ゆっくり歴史解説 #日本史 #戦国
    ◆シリーズはコチラです◆
    『室町時代』シリーズ
    • 室町時代
    『鎌倉時代』シリーズ
    • 鎌倉時代
    『江戸時代』シリーズ
    • 江戸時代
    『平安時代』シリーズ
    • 平安時代
    『戦国時代』シリーズ
    • 戦国時代
    『幕末』シリーズ
    • 幕末
    『古代』シリーズ
    • 古代
    『日本軍』シリーズ
    • 日本軍
    『近代史』シリーズ
    • 近代史
    ◆人気の動画はコチラです◆
    【日本人はどこから来たのか?】
    • 【ゆっくり歴史解説】日本人はどこから来たのか...
    【縄文時代の新真実がヤバい!】
    • 【ゆっくり歴史解説】縄文時代の新真実がヤバい...
    【「徳川将軍」未だ解明されていない…15人の謎】
    • 【ゆっくり歴史解説】「徳川将軍」未だ解明され...
    【アメリカが恐れた日本人…不死身の分隊長】
    • 【ゆっくり歴史解説】アメリカが恐れた日本人…...
    【最強の騎馬民族モンゴルが日本を恐れた理由とは?】
    • 【ゆっくり歴史解説】最強の騎馬民族モンゴルが...
    【天皇とは何か?】
    • 【ゆっくり歴史解説】天皇とは何か?

КОМЕНТАРІ • 96

  • @user-oy8wg2mb4w
    @user-oy8wg2mb4w 2 роки тому +11

    秀吉は柴田勝家との戦いの美濃大返しでは、5時間で2万の兵が50kmこっちの方が脅威の進軍速度だと思うよ。

  • @moipa808
    @moipa808 2 роки тому +13

    頭おかしくなる前の秀吉はすごかったなあ

  • @user-bs7zc8dr5d
    @user-bs7zc8dr5d 2 роки тому +15

    大返し時の地図が伊賀越えの地図

  • @user-pc3bn8qy5w
    @user-pc3bn8qy5w Рік тому +6

    中国大返しの時45歳。太政大臣就任はこれから4年後の49歳なんだぜ。驚かないか?

  • @user-qe7ir9is5b
    @user-qe7ir9is5b 2 роки тому +27

    地図が家康の逃走経路になってて白ける

  • @yjmanabu
    @yjmanabu 2 роки тому +6

    勝負師って絶対勝てる勝負で財産どころか命まで平気で全ツッパするよね
    移動の早さより和議の即決が凄いと思う

  • @daruidarui3434
    @daruidarui3434 2 роки тому +5

    中国大返しは、元々信長が大軍引き連れてくる予定だったから秀吉は担当区域の姫路~高松城までの街道の整備に物資なんかの用意・準備をしてただろうからそんなに不思議じゃない
    それより信長死亡が確定して兵が動揺する前に毛利と即行で和議を結ぶ・担当区域外の姫路~京までの勢力に信長が生き延びた事にして光秀討伐の形にして味方を増やした・光秀が朝廷から信長討伐・後継の正当性得て地盤固め、味方増やす前に短期決戦に持ち込んだ切り替えの早さ・行動力が凄い

  • @user-gq7ph4vw5b
    @user-gq7ph4vw5b 2 роки тому +4

    信長専用の宿泊所はともかく、大援軍を頼んだ以上は、兵站の用意はあっただろうね。
    逆コースで使うのも然り。

  • @user-vr7rg6hp7c
    @user-vr7rg6hp7c 2 роки тому +3

    三木城も鳥取城も、城兵の助命を条件に城主が切腹してるので、37564にはしてないですよ。
    別所長治の「今はただ恨みもあらじ諸人の 命にかはる我身と思へば」という辞世の句からも明らかです。
    三木城の方では戦後復興策が手厚かったので現地ではあまり恨まれてないみたいですし。
    上月城のほうはガチで恨まれてて、備前ー播磨国境を海路で超えた説は農民の襲撃を恐れたためという話もあるくらい。

  • @abbtk14
    @abbtk14 2 роки тому +11

    自分でも20キロ程度の荷を担いで徒歩で一日40km歩いたことがあるし、当時の兵士ははるかに健脚。移動時にネックとなる食事や宿、交換用のわらじ等の手配ができていれば奇跡抜きでも十分可能でしょうね。

    • @tetsuyaigarashi204
      @tetsuyaigarashi204 2 роки тому +1

      ボッカでやりますね。僕も雪山前のトーレニングでやりました。
      六甲のダイヤモンドトレール40km。しんどかった(笑)
      中国大返しは荷物が船便だったという話もあるのでやれない事は無いと思ってました。

    • @user-mb8tg9nr8u
      @user-mb8tg9nr8u 2 роки тому +5

      アレクサンドロス大王や古代ローマの軍勢の時代でも1日あたり25kmが「通常の行軍速度」で強行軍ともなればもっと早い。
      戦国時代は15km/日、ナポレオンで20km/日なので200kmを10日が脅威的という意見が理解しがたいw

    • @user-bs7zc8dr5d
      @user-bs7zc8dr5d 2 роки тому +2

      こたに城?おだに城では?

    • @user-vy9lm4qh3d
      @user-vy9lm4qh3d 2 роки тому +1

      日本史なら北畠顕家の西上のほうが凄いですよね

  • @user-gd5xt6lp2k
    @user-gd5xt6lp2k 2 роки тому +15

    信長を迎える為、各所にかなりの物資はあると思います。後、大返しでは秀吉や重臣達が先に姫路につけばよいわけで足軽達はあとでもよかったとおもいますよ

  • @user-co4uy9zu1s
    @user-co4uy9zu1s 2 роки тому +5

    そもそも備中高松に居たのかも怪しい
    最初から姫路辺りに居たんじゃね?

  • @user-cx4zg9qn6x
    @user-cx4zg9qn6x 2 роки тому +3

    秀吉は”賤ケ岳の戦い”でも岐阜で織田信孝を攻略中に柴田勢が動いたとの
    報を受け、賤ケ岳に着陣した。

  • @osakakawachi
    @osakakawachi 2 роки тому +7

    なんか漢字の読み間違いが多過ぎじゃないですか?

    • @user-oy1kr7rf3c
      @user-oy1kr7rf3c Рік тому

      間違えてるてか、自動音声だから知ってる読み方が少ないんじゃないの?

  • @ci-to3805
    @ci-to3805 2 роки тому +6

    昨日始めてゆっくり歴史を知りました✨チャンネル登録もしました。まだ全部はみてないのでゆっくりですが、観ていきます💪

  • @megane-tetugaku
    @megane-tetugaku 2 роки тому +4

    おお😁千田先生❗
    良いキャラなんだよなぁ😃
    秀吉は信長の動向を知るために、おそらく毎日、1日何通もの連絡を取っていたのだろう、だから本能寺の変のことも早く知ることができたのでは?

  • @sacrah9139
    @sacrah9139 2 роки тому +4

    光秀の家来、藤田伝八郎を捕まえたとする場合、藤田は本能寺の変の前の夜から起きていて、従軍して翌朝参戦、変後にすぐ出発して翌夜には備中…と考えるとさすがに無理がある。動画の通り秀吉の関係者が伝えたと思う。

  • @user-xn8fy1zs7t
    @user-xn8fy1zs7t 2 роки тому +5

    宇喜多直家が協力がなかったら考えられない❗

    • @user-yk7pt7xx2h
      @user-yk7pt7xx2h 2 роки тому +1

      宇喜多直家は当時既に他界していましたが
      死に際して羽柴秀吉を後見人に指名して秀吉の縁者にも組み入れてます。

  • @user-yk7pt7xx2h
    @user-yk7pt7xx2h 2 роки тому +8

    マジレスすると
    海上を船で進軍したのでしょう。
    当時既に九鬼水軍を味方にしていた上に秀吉側に味方する海賊も多くなって
    制海権を有していたし。
    船を使った物資や兵員の輸送は織田信長の得意技でもあるからね。

    • @user-eq1kh7ts1j
      @user-eq1kh7ts1j 2 роки тому

      備中高松城を攻めるちょっと前に船で兵を送って当時離島だった備前国児島の常山城を攻めてますしね。もっと後になりますが「四国攻め」ではさらに多くの兵を船で渡海させています。

  • @gjzo1201
    @gjzo1201 2 роки тому +6

    嘘というよりいわゆる補給路を置いていたんだろ
    この補給部隊がそれなりに要所に置かれていたんだとおもう
    この補給部隊を真っ先に明智勢に向けたんじゃないかな
    あと柴田と仲が悪かったので柴田勢に負けることは絶対避けないといけない状況だった
    上杉と戦った時に秀吉は前戦離脱した罪があるからねw

  • @user-xm1vs6zt3u
    @user-xm1vs6zt3u 2 роки тому +9

    秀吉の情報収集力が凄いの😅でしょう

  • @user-hc8pl4is7v
    @user-hc8pl4is7v 2 роки тому +1

    道路が整備されてたし、武装等の嵩張り重たい武具等は別口で運ばせたようですね。

  • @yasudan7690
    @yasudan7690 2 роки тому +2

    やはり、用意周到臨機応変が肝ですね。
    黒田官兵衛の存在が大きかった。

  • @kakkazan2008
    @kakkazan2008 2 роки тому +5

    これだけ見ていても、羽柴(敢えて「豊臣」とは言わない)秀吉の出自が尾張中村の一百姓などでは決してないこと、そして秀吉が「本能寺の変」以前からその計画を察知していた恐れのあることがよく分かります。
    たかだか土着の一百姓上がりに、これだけの人脈・人員及び莫大な資金・物資を必要とする軍事行動を実現できるとは、例え秀吉が才知才能溢れる人物であるとしてもかなり難易な事と思います。
    又、京で何らかの事変政変が発生することを事前に察知していたればこそ、瀬戸内沿岸から京・山崎に至る沿道に「信長公遠征」を理由にあれだけの準備を施していたと考えられるのです。
    毛利勢との突貫和議にしても、並の成り上がり武将には到底不可能であり、秀吉の持つ広大重厚な人脈と先祖代々のノウハウがあって初めて実現できるものと見られます。

  • @user-hd7tz4yv3r
    @user-hd7tz4yv3r Рік тому +1

    Car navigation systemがあれば、戦も変わっていたかも、

  • @user-qq9zk5iu9g
    @user-qq9zk5iu9g Рік тому +2

    よしかわでなく、吉川(きつかわ)ですよ。吉川晃司の祖先ですよ。

  • @user-bs7zc8dr5d
    @user-bs7zc8dr5d 2 роки тому +10

    よしかわとか、ちょうじとか、間違いだらけですな

  • @user-gu2gb8me7f
    @user-gu2gb8me7f 2 роки тому +1

    できるかできないかは
    司馬懿仲達に聞いてくれ(笑)
    【それを言っちゃあおしまいよ】

  • @user-ut5mo6ci7o
    @user-ut5mo6ci7o 2 роки тому +2

    某国の指導者みたいに羽柴秀吉は縮地を使用出来たのは有名な話

  • @JJ-ek7xj
    @JJ-ek7xj Рік тому +2

    家康よく逃げれたな~。本能寺の変で信長の有望な小姓たちもみんなやられてしまったのも痛い。秀吉は竹中半兵衛、黒田官兵衛を味方に付けたのはデカイな。やっぱり昔から腕力より頭なんだな~。
    秀吉のおべっかと上司を持ち上げる頭が天才だわ。軍略も抜群にキレる。

  • @user-lj3xo8pn3d
    @user-lj3xo8pn3d 2 роки тому +1

    面白かったです

  • @user-jy6oo3ve5b
    @user-jy6oo3ve5b 2 роки тому +2

    遠大成る戦略家秀吉ならですね軍師に恵まれたせいもあるが知恵者で無ければ天下は取れないでしよ

  • @user-xn8fy1zs7t
    @user-xn8fy1zs7t 2 роки тому +2

    駅伝レース見たいに要所所に食料、水、わらじを配給する方法をやっていた!備中高松から播州姫路城までノンストップは容易でない、武具を脱ぎ捨て身軽になってマラソン選手見たいに、しかし到着したらヘトヘト、風邪引きや足腰がボロボロだろうねー!

  • @user-yf6xt4nm9s
    @user-yf6xt4nm9s 2 роки тому +7

    秀吉の天下統一に欠かせなかったのが毛利だよね
    家を挙げて協力してる
    よっぽど秀吉の実力を見せつけられたんだと思う
    この時追撃や光秀との挟み撃ちに出なかったことでわかる
    逆にそのせいで徳川に嫌われた

  • @aquarius1796
    @aquarius1796 2 роки тому +2

    秀吉は毛利とそれ以上に恐ろしい信長の相手で手一杯 黒幕をやる暇もエネルギーもない 信長に「死ね」と命じられたら死ぬしかない また言い出しかねない御仁だ 心的外傷はフラッシュバックで蘇るのではなく常にそこにある 脳内麻薬が緩和しているが枯渇してくると剥き出しの傷に触れて痛い

  • @user-bs7zc8dr5d
    @user-bs7zc8dr5d 2 роки тому +2

    備中高松城では?

  • @vintage8215
    @vintage8215 2 роки тому +3

    読み間違え多いし、ガバガバ…

  • @user-qz3go1ft3p
    @user-qz3go1ft3p 2 роки тому +4

    皆本質がわかって無いな
    これは速度は全く問題じゃないよ
    山崎の合戦まで何日?普通にぶらぶら歩いて充分な時間。大返しが偉業なのは超混乱状態にある本能寺の変後の近畿地方に
    編成を崩さず大軍を維持して帰還したから。秩序が崩壊したらモードはヒャッハーだから普通兵は略奪や暴行し放題の誘惑で
    或いは自分の家を守るために即脱走するので軍は崩壊します。堺に居た四国征討軍は
    こうなったし、家康が山中で必死の逃避行をしたのも落武者狩りに会うから。当然秀吉軍もそうなると光秀が考えてたから、大返しにやられてしまった。秀吉は下層兵の
    心理を良く知ってたから姫路で兵に銭をばら撒き先の利益を約束することで軍の崩壊を防ぎ大軍を維持して畿内に戻りヒャッハー中の兵も吸収して光秀に倍する大軍で山崎合戦に勝利した。ちなみに光秀に対して朝廷が京都守護を依頼したのも黒幕だったわけでなくヒャッハーを何とかしてもらうため。略奪と強姦はイラクでもウクライナでも日本も参加した南スーダンPKOでも
    戦国時代同様に多発して現地の人達を苦しめてるけどそれが戦争の本質。仕方ないね

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 2 роки тому +1

      姫路まで軍を崩壊させずに帰ってこれたから秀吉の運も開けた感
      下手すると敵地で軍が離散してえらいことに…

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 2 роки тому +9

    秀吉はまぁ良くこの綱渡りを成功させたよ…
    ある意味ではこの大慌ての大返しこそが秀吉黒幕論にトドメを刺すかも知れない

  • @user-nu5zm5dr5z
    @user-nu5zm5dr5z Рік тому +1

    時間軸の移動もできる太閤様なんだから、
    200km程度の空間軸の移動なんて朝飯前よw

  • @user-sv5kd1bs2n
    @user-sv5kd1bs2n 2 роки тому +1

    信雄はのぶおって読むんじゃないよー

  • @user-mb8tg9nr8u
    @user-mb8tg9nr8u 2 роки тому +1

    惟任退治記「3日夜半に密かに注進あり秀吉これを聞く」
    川角太閤記「夜半の早飛脚」で甫庵太閤記だと「長谷川宗仁よりの急使」
    基本的に小瀬甫庵の書いてるのは作文としか思わないことにしてるので「誰が秀吉に本能寺の変を伝えたか」は謎。川角太閤記には続く記述に「その早飛脚を蜂須賀に預けて~」とあるので、これが捕らえられた密使と解せなくもない。
    常山紀談は真偽不詳の「逸話」が多く収録された「読み物」だよw

  • @user-ix5dh5fx2u
    @user-ix5dh5fx2u 2 роки тому +1

    7:45
    信長次男の信雄は、「のぶかつ」と読まれることもあるが、
    現代では「ノブオ」と読むとする説が支配的である。
    民明書房刊『見逃せない!戦国時代のキラキラネーム』より

  • @OUD-nn9hw
    @OUD-nn9hw 2 роки тому +6

    色々ミスが多いなあ

  • @user-uj9ex5pw5r
    @user-uj9ex5pw5r Рік тому

    備中高松城。

  • @user-cu7xm6is5u
    @user-cu7xm6is5u 2 роки тому +3

    秀吉が用意できてたのは何故か? 信長を斃しても次に討たれるのは自分と知ってたはずの光秀
    となると やはり黒幕は信長本人だったのかも 信長も光秀も死体が無いからな~

  • @hro586
    @hro586 2 роки тому +1

    秀吉の軍団が2万人位居てたんやから1割は文字書けたはず 最低2000人は記録残せる能力有るのに記録残してない方が謎

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s 2 роки тому +3

      残してたとしても秀吉が後世に残らない様に破棄させたとか
      家康が豊臣家滅ぼしたときに一緒に燃えちゃったとかね

  • @user-gb1ms4gn3l
    @user-gb1ms4gn3l 7 місяців тому

    奥州から京都に高速移動した北畠顕家の方が凄い。

  • @user-mo9be5dd4x
    @user-mo9be5dd4x Рік тому +1

    女性たちを見たら天下を取ったのは浅井長政の娘 秀忠の正室 そして家光に 浅井の血が流れてる

  • @user-zq8xq1rf4p
    @user-zq8xq1rf4p 2 роки тому +2

    明智光秀と対決したのは、畿内の武将がメインであり、全軍が帰った訳でない。馬を乗り潰せば、秀吉らの司令官クラスは可能。
    あとから、秀吉の軍が追い付いたのが事実でしょう。話が大きくなっただけ。

  • @user-fx4rw2zk4u
    @user-fx4rw2zk4u 2 роки тому +3

    きっかわですよ‼️

  • @alexale4074
    @alexale4074 Рік тому +1

    秀吉個人には興味ないのだよ
    彼を支えた幕僚たちに意味があると思うから

  • @Torakichi-nyanko
    @Torakichi-nyanko Рік тому

    「やすくにでら」×
    「あんこくじ」〇

  • @user-ou6dm8gc2x
    @user-ou6dm8gc2x Рік тому +1

    ききとりにくいです。

  • @yoppy5287
    @yoppy5287 Рік тому +1

    って言うか秀吉の思惑通りじゃね?

  • @user-vy9lm4qh3d
    @user-vy9lm4qh3d 2 роки тому +2

    距離も時間も全く凄くない定期

  • @om11111a
    @om11111a 2 роки тому +1

    いいところに気付いたね(笑)

  • @user-fv7qx1pm5i
    @user-fv7qx1pm5i 2 роки тому +4

    のぶおw

    • @user-co4uy9zu1s
      @user-co4uy9zu1s 2 роки тому

      のぶおでも間違いではない
      「のぶかつ」は現代の読み方だから

    • @user-yk7pt7xx2h
      @user-yk7pt7xx2h 2 роки тому

      ちなみに信雄の子孫?と称しているのが
      織田信成

  • @NEOgoglles.1
    @NEOgoglles.1 2 роки тому +1

    秀吉にまつわる都市伝説的なものに
    「手足の指が6本あった」っていうのが
    ありますがさすがにそれは…w

    • @user-mb8tg9nr8u
      @user-mb8tg9nr8u 2 роки тому +8

      前田利家の言行録「国祖遺言」
      「太閤様は右手の親指が一つ多く6本指だった(中略)信長様は秀吉様を『六ツめ』とあだ名で呼ぶことがあった」
      ルイス・フロイスの「日本史」
      「秀吉の片手には6本の指があった」
      姜沆(李氏朝鮮の文官)「看羊録」
      「秀吉が生まれた時、右手が6本指であった」
      これらはいずれも秀吉の右手の指が6本あったとしており、その信憑性は高いと思われます。

    • @NEOgoglles.1
      @NEOgoglles.1 2 роки тому

      @@user-mb8tg9nr8u
      かたじけない
      お詳しいですな 
      勉強になりました

    • @user-tf6ki2ut9x
      @user-tf6ki2ut9x 2 роки тому +1

      巨視的に見ればけっこうな確率で生まれて来るらしいぞ
      現代日本では生まれてすぐに切り落として五本にするらしいが
      多指症でググれば出てくる

    • @NEOgoglles.1
      @NEOgoglles.1 2 роки тому

      @@user-tf6ki2ut9x
      ありがとう そうなのか?

    • @user-it9tb4um2p
      @user-it9tb4um2p Рік тому

      都市伝説でも何でもないが。

  • @user-on9wc4dv9o
    @user-on9wc4dv9o 2 роки тому +2

    お願いだから、このレベルの間違いに気づかずにアップしないで
    「備中松山城」でなく「備中高松城」でしょ

  • @user-uz2wn6zi8n
    @user-uz2wn6zi8n 2 роки тому +5

    10日で200kmってことは
    1日20kmだぞ?
    時速3kmでも7時間弱だぞ?
    楽勝じゃねーか!
    何が高速だよ!

    • @naruhodo1118
      @naruhodo1118 2 роки тому +2

      兵を休めたので平均20kmではないし
      休みを取らなかったとしても
      10日間休みなしで10日間連続で20km走破するのは尋常じゃない。

    • @user-oy8wg2mb4w
      @user-oy8wg2mb4w 2 роки тому +1

      秀吉は柴田勝家との戦いの美濃大返しでは、5時間で2万の兵が50kmこっちの方が脅威の進軍速度だと思うよ。

  • @Milepoch
    @Milepoch 2 роки тому +1

    無知に言わせれば何が不思議なのかが謎なのよね
    仮にも軍隊ならは200kmくらいは遠足な気もする
    昭和の小学校の運動会は0.3万人くらいがあたりまえ
    あれの10倍、言うほど大軍でもないような

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 2 роки тому +3

      移動速度云々よりも軍を崩壊させずに姫路まで戻ってきたことが凄いのですねこれは

    • @user-oy8wg2mb4w
      @user-oy8wg2mb4w 2 роки тому +1

      秀吉は柴田勝家との戦いの美濃大返しでは、5時間で2万の兵が50kmこっちの方が脅威の進軍速度だと思うよ。

  • @user-tb5pi2is5u
    @user-tb5pi2is5u 2 роки тому +4

    秀吉は知っていたもなにも「本能寺の変」は信長、信忠、光秀、秀吉たちのヤラセなんですからね。
    信長、信忠父子の遺体が発見されないのは当然‼️

  • @futosieguchi8463
    @futosieguchi8463 Рік тому

    織田信雄
    おだ のぶかつ

  • @ki2069
    @ki2069 Рік тому

    人名、地名の誤読が多すぎ。
    通説レベルの話をしているんだから、せめて正確な読みでお願いします。