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西郷さんが江戸時代の負の遺産を1人で持ってあの世に行ったんだと思います。
そんなキレイな話じゃありませんよ。
島津久光を藩主と言ってましたが、久光が藩主であったことはありません。斉彬の次の藩主は忠義で久光はその藩主の父であったことから藩内では "国父(こくふ)様" と呼ばれてたそうです。但し藩外では何の肩書きにもならない為、吉之助(隆盛)がそれを指摘した事が犬猿の仲のきっかけと言われています。
不平士族一掃の総仕上げという見方をすると、豊臣家の滅亡と合わせて関ヶ原の西軍浪人を一掃した大坂の陣と相通じるものがありますね。
歴史の授業では「不平士族の反乱」で終わりだが、自分なりに色々調べてみるとそう単純な話ではないと知った。実際に田原坂やその周辺を訪れてみたが、ここで激戦が繰り広げられたと思うと「過去の話」という気はしなかった。付近の畑を耕すと当時の銃弾が出てくることもあるとか。
血の気が多く攻撃精神の塊みたいな薩摩隼人の中で西郷どんや大久保どんみたいな人材は珍しかったのね…。
西南戦争は同時に警察史上最大の公務執行妨害だったりする。
廃刀令を出すんなら一緒に職の斡旋もして生活の保証もセットでしてあげないとそりゃ不満も出るよ🥲
「帯刀禁止令」が出た後で「金録公債証書発行条例」が出され、「廃藩置県」後も政府が行っていた士族への俸録の支給が打ち切られました。
3月に田原坂と鹿児島市内に行った この人たちのおかげで のうのうと生きていられる 感謝しかない 実感した
三河武士が幕末には脆弱になったのに薩摩は戦国時代と変わらず幕末&維新後も精強だったのは藩風なんだろうか
個人の身体的な強弱じゃなくて装備の近代化の有無を考えれば簡単にわかる
@@HY...... 幕府の伝習隊の方が武器も最新、数も圧倒的だったはずですよ
名前を忘れてしまったが西郷隆盛の親友も最初は戦争を起こすことを反対していたが結局最期は挙兵に伴い従軍、戦死したとの話は聞いて泣きそうになった記憶がある。
多分、永山弥一郎ではないかと…候補としては、村田新八、桂久武あたりも似たようなエピソードがあります。
桂久武かな?日本の戦で弓を使った最後のサムライだとか。
桂久武です。
ちなみに雑学程度にとどめてほしいのですが、私の地域では明治維新のときに敵味方に分かれて戦った(かく言う私の家もそうです)人が多く(高須藩・尾張藩・桑名藩との境の地域です)幕府軍側だった地域の人間、西南戦争の時に多数徴兵されて遠く熊本の地で戦死してたりします。(私の家では祖母の親戚の叔父さんが戦死しております)意趣返し、ってわけでもありませんが旧幕府軍側の兵隊が官軍側に比べて多く徴兵されているのは正直「なんだかなぁ~」って思ってたりします。政府軍7万の内訳を調べてみると結構面白い気付きがありますよ。
14:30 自分はその説を押しますね。西郷さんに政権転覆の企みがあったとは思えないし、武士達の最後の死に場所を作りたかったと思う。過去に観た田原坂は子供ながら泣きました・・;;
西南戦争は、同じ薩摩藩出身の政府軍兵士がかなり活躍した。野津鎮雄、野津道貫兄弟や西郷隆盛の従弟であり後に日露戦争の満州軍総司令官大山巌大将、昭和天皇陛下の教育係も務めた川村海軍大将。最もつらいのは西郷隆盛の実の弟、西郷従道海軍大将が政府軍にいたこと。同郷の人と殺し合うのはかなり辛い。
5:14 武蔵丸 高橋幸宏 滝田栄
勉強にもなるしマジでありがたい
ラストサムライはメインストーリーは西南戦争だけど部分的に神風連の乱も取り入れられてますよね。あの映画と硫黄島からの手紙を観た時、なぜ日本人がこのような真の武士道や大和魂を描く映画が自分達で作れないのか悔しい思いをした。
実際勝元達は熊本敬神党と同じく、銃器の類を持っていませんでした。
西南戦争で武士が絶滅したと知りました。
上野の銅像を見て身内の女性が怒ったのは浴衣のようなだらしない格好で作られていたから官側の悪意とも、反薩摩勢力が生々しい恨みを持っている状況で軍服姿の像を作れなかったからとも言われます(死後異例の速さで名誉が回復した)モデルになったのは肥満解消の為に医師の指示で愛犬とウォーキングしている姿、江戸では目立ってしまうので当時は田舎だった世田谷村の親戚の家に出向いていたそうですジャージみたいなもんですからそれは身内も怒ったでしょうね
西郷は当時肥満が原因で病気がちでした。
熊本城で児玉源太郎が活躍していたことも触れてほしかった。
西南戦争の4ヶ月前に起こった神風連の乱で、熊本鎮台の幹部、県の幹部が次々と殺されて、機能不全状態に陥った時に駆けつけ実際の指揮を取ったのは、児玉源太郎さん。その教訓を知っていたからこその西南戦争での対応ですね。(`・ω・´)ゞ
日清戦争で海軍軍令部総長を努めた樺山資紀海軍大将も熊本城防衛戦活躍された。薩摩藩出身なので薩摩人の性格やそれに伴う戦い方を熟知していたのも勝利に貢献した。(樺山大将は西郷隆盛を崇拝していたので、西郷隆盛は周りに同情してお飾りの大将になっているに過ぎない、反乱なんて起こす人でないと信じていましたが)
上野公園の銅像を奥さんが見たときにこんな人ではないと憤慨した話って、似てる似てないのもあるけど、こんな部屋着で胸をはだけさせて犬つれて外を歩くようなだらしない人ではなかったって意味だったんではってことを聞いたことがあります。今我々が習う歴史って、明治政府の敵を悪く言うような歴史になっているので、こういう中立な歴史解説はとても有用だと思います。
もう一つ、銅像を作る事を望む様な人でないとの説も有りますよ❗まさに諸説有りと言ったところでしょうか❓🤔
弟さんには似ているような話がありますな
実際、弟の従道が中心になって作らせたんだから、似てなかったら下書きの段階で作り直すだろうな。
鹿児島の銅像は軍服。これは鹿児島としての英雄の証。上野の銅像は反逆者の御名を消すためのラフな格好での銅像と聞いています。
政府軍側ですが、警視庁抜刀隊に参加し、阿蘇付近で壮絶な戦死をした、元会津藩家老、佐川官兵衛さんの活躍もお忘れなく…😭
佐川官兵衛さんは警視隊所属で抜刀隊じゃないと思いますよ彼が阿蘇で被弾したのは抜刀隊の編成される前ですし
西郷軍は仮装紙幣「西郷札」を発行し近隣の商家から強引に戦費を調達した。西郷札は西郷軍敗北により価値を失い地域経済に大打撃を与えた。西郷に協力し西郷札を引き受けた結果没落した商人は「西郷狐に化かされた」と嘆いた。
軍票です。
大河ドラマ『西郷どん』の読みは『せごどん』
西郷さんは郷土の偉人明治維新中なにを成し遂げた人だか実はよく分からなかったんだが「不平士族の鬱憤晴らしに最後まで付き合ってあげた面倒見良すぎ男」だったんだと思うようになった
西郷隆盛の本名は、西郷隆長。隆盛は隆長の父。
@@哲也吉田-n3r 諱(いみな)が分からなかった時期があるんですよね。だから西郷さんを名前で呼びたい時は通称の吉之助と呼ぶのがベターだったりします。
人には役割があり、それが劇的であればあるほど、短いものなのだろう。
浅田次郎の小説「一刀斎夢録」に西南戦争は「西郷と大久保が描いた、不平士族の不満解消と近代軍制確立の確認点検を一挙に解決する大芝居」とする旨の台詞があります。自分の中にストンと落ちましたね😲
征韓論での西郷隆盛のスタンスについては諸説ありますね。軍隊派遣してしまえっていう先鋭的な意見を押さえるために、まずは自分が使者としていく。その使者としての自分を殺すような野蛮な事したら軍隊派遣はやむ無しっていう風に、ストップというかワンクッション入れようとしたって話もある。 西南戦争も、隆盛自身は押さえようと必死だったという事だから、征韓論も上記のスタンスだったのかと思うんだけど、維新の時には討幕という苛烈な判断をしているからどうなんだろう。国力低下・海外からの付け入るスキを与えないという観点に経っていたなら、当時アジアで猛威を振るっている欧米列強との対立の原因となりうる判断・主導的推進論者だったとは思えないんだよね。ちなみに私は田舎鹿児島で、多くの人が鬼籍に入ったが、古い世代のじいさんばあさんは半ば神格化していたね。私のスタンスはそうではなくて佐幕派というか同情的に見ている。維新の意義は認めていますが。
俺の人生のささやかな夢の一つは「ホントの西郷隆盛の写真」が見たいなのだが合成や想像での絵ばかりでかないそうにない。(暗殺恐れて写真に残さなかったらしい)
あらら。わお。霊夢のツッコミ面白い❗️😊
西郷さんはその業績よりも、要職に乞われて渋々参加した話や清貧を貫いた欲の無さ、今に伝わるお人柄を忍ばせるエピソードが好きです。熊本城に行った人なら解ると思います、石垣自体がとても高くまるでビル群の様に目前に迫って来ます。ただただ圧倒されます。
熊本城を攻めるというのが、軍事の素人でも選ばないぐらいの、下策中の下策なのに、なんでそれを敢えて選んでしまったのか?不思議。あと明治政府に反乱を起こした人の銅像が、明治時代に建っちゃうというのが、世界史でみても例がないと思う。西郷さんという人も不思議である。
戊辰戦争の発端は庄内藩による江戸の薩摩藩邸の焼き討ちから。庄内藩は會津藩降伏後も戦い続けた。西南戦争で官軍主力は旧幕軍だが庄内藩士は薩摩側に志願するが西郷ドンはやんわり却下。西郷ドンを討ち取ったのは桑名藩雷神隊の隊長だった立見尚文で後に日清、日露戦争で活躍して常勝将軍と言われた。
しなくてもいい戦争
西南戦争の戦費は当時の金額で4100万円ちなみに当時の明治政府の税収は4800万円…税収の約90%使い果たしてよく明治政府は無くならなかったと思う(^_^;そして何百年も前に加藤清正が築いた熊本城の堅牢さが証明された(・ω・)
親友でもあった大久保利通が翌年、暗殺されるけど、葬儀後金庫を関係者の前で開けたら、中には大久保利通名義の借金の借用書がぎっしり詰まってたんだよねー。明治政府の国費では色々足らず、それを誰にも言わず大久保だけの胸の内にして大久保利通自らの借金で明治政府を運営してたのよ。で、大金貸してた大金持ち達も、「明治政府は信用出来ないから貸せないけど、大久保さんならちゃんとお国の為に使ってくれるから」って理由で大久保利通には貸したとの事。個人ではあり得ない膨大な借金を遺族が相続しては明治政府も完全に世間に見放されると言う事で、明治政府が責任持って全額貰い受けて返したらしい。
熊本城は使い勝手や維持費が悪すぎて加藤家ですら手を焼いていた。其処を細川家が大規模な梃入れをして増築と改修を繰り返したのが現在の姿。
そりゃそうだろねえ。 前近代の軍事的に有効な防衛設備なんて物が平時の施設として使い勝手が良い筈が無いもんなあ。だからこその難攻不落。
政府は、無くならなかったが⁉️財政は、破綻しその為増税を実行し、第二次長州征伐以来、不景気に拍車をかけ、秩父事件が起こる
熊本城は城の南側に「武者返し」があったから。
西南戦争の主力は元会津藩が主力、薩摩に怨みを持つ元会津藩がここぞと参加した。
会津が被った賊軍の内容と、西郷某の起こした反乱は、比べる事にもならない。何故なら「己の意見が通らないから反乱を起こした」恐れ多き理由なので。これこそ本当の「賊軍」である。
大久保や川路の靴舐めて薩摩に復讐とか言われてもなぁ…
確か斎藤一を新選組の残党も多く参戦して、新撰旅団を結成ここに新選組の残党が属したかは諸説ありだけど中村半次郎がまた新選組がやってくるのかと部下に漏らしたそうな。
私が最近読んだ小説では死に場所を探していた西郷さんと不平士族の一掃を考えていた大久保教が示し合わせて西南戦争を起こしたという説をさる人物が唱えていました。確かに熊本城の占拠に拘ったり(しかも城へ内部工作とか全然していない)戦歴豊かな西郷さんでは考えられない戦略・戦術ミスをしていますからねえ。ちなみに「さる人物」とは西南戦争に警視庁抜刀隊として参加した新選組生き残りの方。
斉藤一ですか?
@@西尾誠司 藤田五郎警部であります(笑)
やりきれないですね
同じ東北でも、新政府軍をボコボコにしながらも降伏した庄内藩は西郷隆盛を尊敬して鹿児島留学や南州神社を作り、旧会津藩士は進んで警視庁抜刀隊に志願し田原坂に出陣したそうです。戊辰の敵と絶叫しながら薩摩隼人を恐怖に陥れたとか
新政府軍を同じく、ボコボコにして、降伏した越後長岡藩も有名 薩長出身では、無く西郷 大久保にも気に入られ日本郵政の父と言われる前島密は、越後高田藩出身。
抜刀隊はほとんど薩摩藩士だよ
@@哲朗高橋-x6u新政府軍が無能な軍師を送らなければ、戊辰のによって多数の有能な人材が失われなかった!
@@ソルト-d7xそしてその多くが「外城もん」。
この西南戦争に、あの斎藤一も参戦していて、砲台かなにかを占拠する功績を立てていましたね。あの時代ですら、そんな真似が出来るのだから、やっぱり新選組は強かった。
話は少しそれますが板垣退助の自由民権運動は選挙制度をつくります。植木枝盛とか同志がたくさん土佐に居ました。板垣退助邸は市内の中心部にあり乾退助でしたが武田家の重臣の板垣氏の流れて板垣姓に戻しています。板垣死すとも自由は死せずは有名です
更に、話はそれますが、「板垣死すとも自由は死せず」の時に駆けつけ板垣退助を治療したのが、後藤新平…この時の話が児玉源太郎の耳に入り、後に後藤新平は児玉源太郎の支援を受け様々な事業に抜擢され、ミスターインフラと言われるほど活躍をしますが…西南戦争では児玉源太郎は熊本城の防衛に活躍しています。縁とは不思議なものですね。(`・ω・´)ゞ
坂本龍馬が暗殺され時に駆けつけた谷干城も熊本城にいました。
明治6年の政変は征韓論に敗れて下野って事になっているけど、それだけではなくてもっと根幹的問題があったような気がする…
西郷を考えるのに、あの時代の薩摩で剣が使えなかったというのは、物凄く大きな意味があると思う
西郷どんは「せごどん」と読みますね。
何回言っても、わかんないんだよね。
合成音声じゃ認識できないだろ。せごどんから漢字変換もできないぞ。
@@-kaz-md2lv氏。仕方ないですよ。通常の合成音声は方言には対応していないから。 経産省の九州支局ではバーチャルキャラを用いて合成音声を使っていますがこれは特別製でしょう。
2回目の島流しは、久光に登用されて舞い上がってた有村俊斎(後の海江田信義)の馬鹿な讒言のせいと言っても過言ではないはず!
自刃後の遺体が本人か否か確認するためにキン○マを調べたんだよね。
右腕に刀傷が御座いました。
高杉晋作、坂本龍馬もそうですね!
思い付きだから反対意見は全然構わないんだけど、西郷隆盛が西南戦争を起こした理由として「士族達に西郷隆盛は弱みを握られていた説」を個人的意見として持っている。
熊本の田原坂は幽霊👻の名所軍隊の歩く🚶音や霊の目撃が沢山あるらしい❗
本当の心霊スポットは田原坂の近くにある官軍墓地です。
@@寺本晃騎 さんお知らせ、ありがとうございます。いつか帰省したら行ってみます。15年程帰省してなく
田原坂のそばにトンカラリンがありますね
薩摩軍3万VS政府軍7万の兵力に対して、戦死者数が6800VS6400で互角?なんかおかしくない?2倍以上の兵力差があるなら、政府軍の戦死者が倍以上あってようやく互角なんじゃないの?
「薩摩軍3万VS政府軍7万」が横一列にでもなって1箇所で戦闘したと言うのなら正にそのとおり。実際は非戦闘の隊なり場所(待機)があったのだから前戦=直接刃を向け合っている「点」なり「線」では互角と呼んでよい。
西南戦争といえば、田原坂の戦いが有名だけど…戦争の流れを一気に変えたのは、新政府軍の日奈久上陸かなあ。で、西郷さんが最初で最後の指揮を取った、最後の組織戦、和田越の戦い。劇的なのは、新政府軍の包囲を突破せよ。可愛岳突破ですね(`・ω・´)ゞ人物としては、西郷軍の中では異端扱いされた野村忍介を個人的に注目してます。奇兵隊(長州藩のとは別物)率いて、豊後方面を神出鬼没に現れ、新政府軍を悩ませ孤軍奮闘したけど…異端が故にあまり知られていない(´;ω;`)
「段山の戦い」も有名。
明治時代は激動の時代だったね、江華島事件、 西南戦争、台湾出兵、日清、日露戦争など起きた❗
このあと日露を勝利に導いた天才秋山兄弟が生まれるんだよなぁ~
流石 最後の武士ですね…!!
久光は藩主ではありません、国父と呼ばれ藩の実権をにぎっていました
浄土真宗を弾圧したけど、精神障害者のお坊さん夫婦を見て、弾圧は正しかったと思う、ありゃダメだ
そうそう、藩主は別にいて大御所政治みたいな事してましたね。
@@松尾直-q2j 久光の息子の忠義が藩主だったはず。
斉彬が亡くなる前に久光の息子を養子にしたのです。お由羅騒動では渦中の二人だったので、後継者問題でもめないための策ですね。まさに、「島津に暗君なし」
神風連の乱の勃発した日は(10月24日)私の誕生日です…。
西郷隆盛は今でいうと大谷翔平みたいな感じなんだろう。背が高くてルックスがずば抜けてたらしいな。イケメンじゃないと下士であそこまで取り立てられないと思う。
西郷隆盛に限らず明治の偉人はイケメンが多いですね。イケメンで身長が高い人がリーダーになるんでしょうね。
伊藤博文は160センチ無かったそうですよ。身長は関係ないですね。
@@電気工事士の頂点 ならないですね(笑)なれるのは大韓民国くらいでは?
@@うどん山田-t4r いや伊藤博文はリーダーってほどじゃないぞ。高身長イケメンで長州藩士の久坂玄瑞(180)とか土佐勤王党を率いた武市半平太(182)とかが生き残ってたら間違いなく明治政府のリーダーになってた。伊藤博文は二番手ぐらいだし維新まで運良く生き残っただけ。
@@user-kz5uv6hx8d イケメンだから取り立てるというような馬鹿な事は無いと言ってるだけですよ(笑)大村益次郎も小さいですし山田方谷みたいな有能そのものの人間なら農民からでも取り立てますが
決起の時期が遅すぎる上に士族卒族合わせて30万の階級人口の内3万しか参加してない。更には戦死者が20%などという時点で、反乱の目的は武士としての死に場所の確保だったとしか思えない。本気で反乱を成功させるなら近隣諸藩の反乱勢力を糾合するくらいはしたはずだろうし、例え成功しても今更天下がひっくり返るなどと考えてたとも考えづらい。西郷本人も自身の人生の先が見える様な状態で生きてる中で、死に場所を求めるという不平士族の気持ちに賛同したから反乱に参加したんじゃなかろうか。命のやり取りの中で青春時代を送って維新という大仕事を成したのに、その後で用済みとばかりに切り捨てられたとしたらそんな気持ちになるとしても理解は出来る。
大規模な反乱を起こした不平氏族の出身を見ても判る様に自分達(官軍側士族)の時代だと思っていた。が、政府を支える官僚や銀行に鉄道を支える幹部層は、結局長年幕府という中央政府で働いて実務経験と能力を身につけた事務方の旗本や御家人が多数を占めた。一部を除けば、矢張り地方でしか勤務経験の無い藩士達ではどの道能力か経験が不足して中央勤務が向いてなかったので、そんな彼等が海千山千のテクノクラートである旧幕臣と椅子の取り合いで負けただけ。
_おかゆ氏。動画作成者宛てコメにも書いたんですが、理由が何であれ、暴徒・逆徒の類はいかなる手段を用いてでも制圧されねばなりません。秩序と大多数の国民を守るためには必要だから。西郷某の駄々こね泣き喚き暴れによって死ななくてもいい人たちが死んだ。大東亜戦争もやはり国家レベルの駄々こね泣き喚き暴れである。歴史や史実上人物に対するロマンも結構だが、そのために死傷者が出、甚大な被害を齎す事だけは避けなくてはならないのです。どんなに美辞麗句並べても西郷某とこれに従った者達は逆徒である。「始末」されて当然。
ん? 暴徒逆徒を鎮圧するために必要だから、必要な手段を用いて必要な犠牲を出して鎮圧したんなら何も問題ないんじゃ無いかな? 俺はそれを否定してないよ。そんな風に読めた?しかし、歴史にロマンを感じるのまで否定するってのは理解出来んけどね。正直なところ自分は幕末の動乱から戊辰戦争も含めて人生でそこに居た人と関わってた事が無いから、既に歴史ファンタジーだというくらいにしか思ってない。だから、どっちも大義名分提げてやり合った「歴史」を、どっちか一方に対してだけ生々しい感情で汚らしい部分まで掘り下げて全否定するのはいかがなものかと思う。
そんな特権階級のせいで国民の田畑を荒らし、屋敷を焼かれ、いい迷惑。こんな武力を行使する連中の力は剥奪されて当然。国民全体のためになりません。
端折るなよ
NHKを始めとするメディア、ネット社会ではyoutuberら以外、西郷、坂本その他特別視なんてしてないわけ。
ご冥福をお祈りを致します。
明治10年に、反乱を起こすぐらいならば、佐賀の乱のとき江藤新平を助けて、決起すればよかったのですよ。世が定まって蜂起しても、ときすでに遅きに失する。鹿児島の若者を無駄死に、させた事は西郷の大罪でしかない。
西南戦争で優秀な人材が死んでいなければその後の対外戦争も有利に進められたでしょうね。
逆だろ薩摩の頭足りない若造が勝手に暴走して西郷殺したようなもん村田新八以外に惜しい人材などいない
薩摩の生まれです。西郷さんは鹿児島では段違いに人気があります。最近では大久保の見直しなんかも進んでますね。西郷さんは不平士族の死場所を自らも加わることで与えたという考え方が私は好きです。征韓論にしても本来は派兵など考えてなかったのではないでしょうか?年数回鹿児島に帰りますが一度は時間を作って照國神社から西郷さんの像を巡るようにしてます。
大久保利通は不平氏族が開拓村作るのに協力したりするなど生活する場所を与えていたんだけどな。それに当時は全盛期の力は無いにせよ清がまだまだ英邁な皇帝の元で一定の国力を持っていた訳で、そんな中でよくもまあ欧米列強も含む他国の介入をやってくれたもんだ。西南戦争の副産物で軍の練度向上はあったにせよ。戦費の半分か四分の一でも戊辰戦争で荒廃した東北の復興に回せれば、昭和の大凶作の被害や女子の身売りを緩和出来たかも知れないのに。
西郷隆盛の首って、どこにあるんだ? 大久保卿が隠したと話があるが、暗殺されたから、首が行方不明なんだよな。
もし薩軍が海路を取って東京を制圧しておれば世界戦にも勝利し、今のような腑抜け国家にはなってなかったろう
敗北した幕府側の勝海舟や榎本武揚は閣僚になっただけでなく、授爵して伯爵にまでなったのに。大久保利通も不平士族の面倒や生活基盤の斡旋もしてたし、大久保利通の方が功績は高いけど。銀英伝で言う所のグリーンヒル大将みたいな者だと?
フレデリカパパ
ラストサムライと内容と違う?
これははめられた戦争だよ。んー、この裏で日本は終わったんだよ。
西郷も大政奉還した旧幕府をハメたんだから因果応報でしょ。
軍人としてというか上司なら良いのかも知れないけどトップには向いてないと思うかな…。好きな人多いけど大久保利通もっと評価されて良いんじゃ⁇って思ってしまう。
興味湧いたら翔ぶが如く読んで欲しい
「西郷どん」は、さいごうどん、では、ありません。 「せごどん」です。何回言ったら、わかるんだい!
西郷隆盛って鹿児島県ではすごい人気者だけど、全国的にはそうでもないよね坂本龍馬なんかは全国的に人気あるけど。
東京でランドマークにはなれたけどね
まあ、薩摩軍は戊辰の時に色々としてるからね…
アメリカの奴らより熊本全体を焦土にしたけど、芋くれたから会津のような今も恨むかというと、そんな感じにならない不思議。なおその芋が城東開戦の時の主要な生産地だったりします。
西郷さんが江戸時代の負の遺産を1人で持ってあの世に行ったんだと思います。
そんなキレイな話じゃありませんよ。
島津久光を藩主と言ってましたが、久光が藩主であったことはありません。斉彬の次の藩主は忠義で久光はその藩主の父であったことから藩内では "国父(こくふ)様" と呼ばれてたそうです。但し藩外では何の肩書きにもならない為、吉之助(隆盛)がそれを指摘した事が犬猿の仲のきっかけと言われています。
不平士族一掃の総仕上げという見方をすると、豊臣家の滅亡と合わせて関ヶ原の西軍浪人を一掃した大坂の陣と相通じるものがありますね。
歴史の授業では「不平士族の反乱」で終わりだが、自分なりに色々調べてみるとそう単純な話ではないと知った。実際に田原坂やその周辺を訪れてみたが、ここで激戦が繰り広げられたと思うと「過去の話」という気はしなかった。付近の畑を耕すと当時の銃弾が出てくることもあるとか。
血の気が多く攻撃精神の塊みたいな
薩摩隼人の中で西郷どんや大久保どん
みたいな人材は珍しかったのね…。
西南戦争は同時に警察史上最大の公務執行妨害だったりする。
廃刀令を出すんなら一緒に職の斡旋もして生活の保証もセットでしてあげないとそりゃ不満も出るよ🥲
「帯刀禁止令」が出た後で「金録公債証書発行条例」が出され、「廃藩置県」後も政府が行っていた士族への俸録の支給が打ち切られました。
3月に田原坂と鹿児島市内に行った この人たちのおかげで のうのうと生きていられる 感謝しかない 実感した
三河武士が幕末には脆弱になったのに薩摩は戦国時代と変わらず幕末&維新後も精強だったのは藩風なんだろうか
個人の身体的な強弱じゃなくて装備の近代化の有無を考えれば簡単にわかる
@@HY...... 幕府の伝習隊の方が武器も最新、数も圧倒的だったはずですよ
名前を忘れてしまったが西郷隆盛の親友も最初は戦争を起こすことを反対していたが結局最期は挙兵に伴い従軍、戦死したとの話は聞いて泣きそうになった記憶がある。
多分、永山弥一郎ではないかと…
候補としては、村田新八、桂久武あたりも似たようなエピソードがあります。
桂久武かな?日本の戦で弓を使った最後のサムライだとか。
桂久武です。
ちなみに雑学程度にとどめてほしいのですが、私の地域では明治維新のときに敵味方に分かれて戦った(かく言う私の家もそうです)人が多く(高須藩・尾張藩・桑名藩との境の地域です)幕府軍側だった地域の人間、西南戦争の時に多数徴兵されて遠く熊本の地で戦死してたりします。(私の家では祖母の親戚の叔父さんが戦死しております)
意趣返し、ってわけでもありませんが旧幕府軍側の兵隊が官軍側に比べて多く徴兵されているのは正直「なんだかなぁ~」って思ってたりします。政府軍7万の内訳を調べてみると結構面白い気付きがありますよ。
14:30 自分はその説を押しますね。西郷さんに政権転覆の企みがあったとは思えないし、武士達の最後の死に場所を作りたかったと思う。過去に観た田原坂は子供ながら泣きました・・;;
西南戦争は、同じ薩摩藩出身の政府軍兵士がかなり活躍した。
野津鎮雄、野津道貫兄弟や西郷隆盛の従弟であり後に日露戦争の満州軍総司令官大山巌大将、昭和天皇陛下の教育係も務めた川村海軍大将。
最もつらいのは西郷隆盛の実の弟、西郷従道海軍大将が政府軍にいたこと。
同郷の人と殺し合うのはかなり辛い。
5:14 武蔵丸 高橋幸宏 滝田栄
勉強にもなるしマジでありがたい
ラストサムライはメインストーリーは西南戦争だけど部分的に神風連の乱も取り入れられてますよね。
あの映画と硫黄島からの手紙を観た時、なぜ日本人がこのような真の武士道や大和魂を描く映画が自分達で作れないのか悔しい思いをした。
実際勝元達は熊本敬神党と同じく、銃器の類を持っていませんでした。
西南戦争で武士が絶滅したと知りました。
上野の銅像を見て身内の女性が怒ったのは浴衣のようなだらしない格好で作られていたから
官側の悪意とも、反薩摩勢力が生々しい恨みを持っている状況で軍服姿の像を作れなかったからとも言われます(死後異例の速さで名誉が回復した)
モデルになったのは肥満解消の為に医師の指示で愛犬とウォーキングしている姿、
江戸では目立ってしまうので当時は田舎だった世田谷村の親戚の家に出向いていたそうです
ジャージみたいなもんですからそれは身内も怒ったでしょうね
西郷は当時肥満が原因で病気がちでした。
熊本城で児玉源太郎が活躍していたことも触れてほしかった。
西南戦争の4ヶ月前に起こった神風連の乱で、熊本鎮台の幹部、県の幹部が次々と殺されて、機能不全状態に陥った時に駆けつけ実際の指揮を取ったのは、児玉源太郎さん。
その教訓を知っていたからこその西南戦争での対応ですね。(`・ω・´)ゞ
日清戦争で海軍軍令部総長を努めた樺山資紀海軍大将も熊本城防衛戦活躍された。
薩摩藩出身なので薩摩人の性格やそれに伴う戦い方を熟知していたのも勝利に貢献した。(樺山大将は西郷隆盛を崇拝していたので、西郷隆盛は周りに同情してお飾りの大将になっているに過ぎない、反乱なんて起こす人でないと信じていましたが)
上野公園の銅像を奥さんが見たときにこんな人ではないと憤慨した話って、似てる似てないのもあるけど、こんな部屋着で胸をはだけさせて犬つれて外を歩くようなだらしない人ではなかったって意味だったんではってことを聞いたことがあります。今我々が習う歴史って、明治政府の敵を悪く言うような歴史になっているので、こういう中立な歴史解説はとても有用だと思います。
もう一つ、銅像を作る事を望む様な人でないとの説も有りますよ❗まさに諸説有りと言ったところでしょうか❓🤔
弟さんには似ているような話がありますな
実際、弟の従道が中心になって作らせたんだから、似てなかったら下書きの段階で作り直すだろうな。
鹿児島の銅像は軍服。これは鹿児島としての英雄の証。
上野の銅像は反逆者の御名を消すためのラフな格好での銅像と聞いています。
政府軍側ですが、警視庁抜刀隊に参加し、阿蘇付近で壮絶な戦死をした、元会津藩家老、佐川官兵衛さんの活躍もお忘れなく…😭
佐川官兵衛さんは警視隊所属で抜刀隊じゃないと思いますよ
彼が阿蘇で被弾したのは抜刀隊の編成される前ですし
西郷軍は仮装紙幣「西郷札」を発行し近隣の商家から強引に戦費を調達した。西郷札は西郷軍敗北により価値を失い地域経済に大打撃を与えた。西郷に協力し西郷札を引き受けた結果没落した商人は「西郷狐に化かされた」と嘆いた。
軍票です。
大河ドラマ『西郷どん』の読みは『せごどん』
西郷さんは郷土の偉人
明治維新中なにを成し遂げた人だか実はよく分からなかったんだが
「不平士族の鬱憤晴らしに最後まで付き合ってあげた面倒見良すぎ男」だったんだと思うようになった
西郷隆盛の本名は、西郷隆長。隆盛は隆長の父。
@@哲也吉田-n3r 諱(いみな)が分からなかった時期があるんですよね。
だから西郷さんを名前で呼びたい時は
通称の吉之助と呼ぶのがベターだったりします。
人には役割があり、それが劇的であればあるほど、短いものなのだろう。
浅田次郎の小説「一刀斎夢録」に西南戦争は「西郷と大久保が描いた、不平士族の不満解消と近代軍制確立の確認点検を一挙に解決する大芝居」とする旨の台詞があります。自分の中にストンと落ちましたね😲
征韓論での西郷隆盛のスタンスについては諸説ありますね。
軍隊派遣してしまえっていう先鋭的な意見を押さえるために、まずは自分が使者としていく。
その使者としての自分を殺すような野蛮な事したら軍隊派遣はやむ無しっていう風に、ストップというかワンクッション入れようとしたって話もある。
西南戦争も、隆盛自身は押さえようと必死だったという事だから、征韓論も上記のスタンスだったのかと思うんだけど、
維新の時には討幕という苛烈な判断をしているからどうなんだろう。国力低下・海外からの付け入るスキを与えないという観点に
経っていたなら、当時アジアで猛威を振るっている欧米列強との対立の原因となりうる判断・主導的推進論者だったとは思えないんだよね。
ちなみに私は田舎鹿児島で、多くの人が鬼籍に入ったが、古い世代のじいさんばあさんは半ば神格化していたね。私のスタンスは
そうではなくて佐幕派というか同情的に見ている。維新の意義は認めていますが。
俺の人生のささやかな夢の一つは「ホントの西郷隆盛の写真」が見たい
なのだが合成や想像での絵ばかりでかないそうにない。(暗殺恐れて写真に残さなかったらしい)
あらら。わお。霊夢のツッコミ面白い❗️😊
西郷さんはその業績よりも、要職に乞われて渋々参加した話や清貧を貫いた欲の無さ、今に伝わるお人柄を忍ばせるエピソードが好きです。
熊本城に行った人なら解ると思います、石垣自体がとても高くまるでビル群の様に目前に迫って来ます。
ただただ圧倒されます。
熊本城を攻めるというのが、軍事の素人でも選ばないぐらいの、下策中の下策なのに、なんでそれを敢えて選んでしまったのか?不思議。
あと明治政府に反乱を起こした人の銅像が、明治時代に建っちゃうというのが、世界史でみても例がないと思う。西郷さんという人も不思議である。
戊辰戦争の発端は庄内藩による江戸の薩摩藩邸の焼き討ちから。
庄内藩は會津藩降伏後も戦い続けた。
西南戦争で官軍主力は旧幕軍だが庄内藩士は薩摩側に志願するが西郷ドンはやんわり却下。
西郷ドンを討ち取ったのは
桑名藩雷神隊の隊長だった立見尚文で後に日清、日露戦争で活躍して
常勝将軍と言われた。
しなくてもいい戦争
西南戦争の戦費は当時の金額で4100万円
ちなみに当時の明治政府の税収は4800万円…
税収の約90%使い果たしてよく明治政府は無くならなかったと思う(^_^;
そして何百年も前に加藤清正が築いた熊本城の堅牢さが証明された(・ω・)
親友でもあった大久保利通が翌年、暗殺されるけど、葬儀後金庫を関係者の前で開けたら、中には大久保利通名義の借金の借用書がぎっしり詰まってたんだよねー。
明治政府の国費では色々足らず、それを誰にも言わず大久保だけの胸の内にして大久保利通自らの借金で明治政府を運営してたのよ。
で、大金貸してた大金持ち達も、「明治政府は信用出来ないから貸せないけど、大久保さんならちゃんとお国の為に使ってくれるから」って理由で大久保利通には貸したとの事。
個人ではあり得ない膨大な借金を遺族が相続しては明治政府も完全に世間に見放されると言う事で、明治政府が責任持って全額貰い受けて返したらしい。
熊本城は使い勝手や維持費が悪すぎて加藤家ですら手を焼いていた。
其処を細川家が大規模な梃入れをして増築と改修を繰り返したのが現在の姿。
そりゃそうだろねえ。
前近代の軍事的に有効な防衛設備なんて物が平時の施設として使い勝手が良い筈が無いもんなあ。
だからこその難攻不落。
政府は、無くならなかったが⁉️財政は、破綻し
その為増税を実行し、第二次長州征伐以来、不景気に拍車をかけ、秩父事件が起こる
熊本城は城の南側に「武者返し」があったから。
西南戦争の主力は元会津藩が主力、薩摩に怨みを持つ元会津藩がここぞと参加した。
会津が被った賊軍の内容と、西郷某の起こした反乱は、比べる事にもならない。何故なら「己の意見が通らないから反乱を起こした」恐れ多き理由なので。これこそ本当の「賊軍」である。
大久保や川路の靴舐めて薩摩に復讐とか言われてもなぁ…
確か斎藤一を新選組の残党も多く参戦して、新撰旅団を結成ここに新選組の残党が属したかは諸説ありだけど
中村半次郎がまた新選組がやってくるのかと部下に漏らしたそうな。
私が最近読んだ小説では死に場所を探していた西郷さんと不平士族の一掃を考えていた大久保教が示し合わせて西南戦争を起こしたという説をさる人物が唱えていました。確かに熊本城の占拠に拘ったり(しかも城へ内部工作とか全然していない)戦歴豊かな西郷さんでは考えられない戦略・戦術ミスをしていますからねえ。ちなみに「さる人物」とは西南戦争に警視庁抜刀隊として参加した新選組生き残りの方。
斉藤一ですか?
@@西尾誠司 藤田五郎警部であります(笑)
やりきれないですね
同じ東北でも、新政府軍をボコボコにしながらも降伏した庄内藩は西郷隆盛を尊敬して鹿児島留学や南州神社を作り、旧会津藩士は進んで警視庁抜刀隊に志願し田原坂に出陣したそうです。
戊辰の敵と絶叫しながら薩摩隼人を恐怖に陥れたとか
新政府軍を同じく、ボコボコにして、降伏した越後長岡藩も有名 薩長出身では、無く西郷 大久保にも気に入られ日本郵政の父と言われる前島密は、越後高田藩出身。
抜刀隊はほとんど薩摩藩士だよ
@@哲朗高橋-x6u新政府軍が無能な軍師を送らなければ、戊辰のによって多数の有能な人材が失われなかった!
@@ソルト-d7xそしてその多くが「外城もん」。
この西南戦争に、あの斎藤一も参戦していて、砲台かなにかを占拠する功績を立てていましたね。あの時代ですら、そんな真似が出来るのだから、やっぱり新選組は強かった。
話は少しそれますが板垣退助の自由民権運動は選挙制度をつくります。植木枝盛とか同志がたくさん土佐に居ました。
板垣退助邸は市内の中心部にあり
乾退助でしたが武田家の重臣の板垣氏の流れて板垣姓に戻しています。
板垣死すとも自由は死せずは有名です
更に、話はそれますが、「板垣死すとも自由は死せず」の時に駆けつけ板垣退助を治療したのが、後藤新平…
この時の話が児玉源太郎の耳に入り、後に後藤新平は児玉源太郎の支援を受け様々な事業に抜擢され、ミスターインフラと言われるほど活躍をしますが…
西南戦争では児玉源太郎は熊本城の防衛に活躍しています。縁とは不思議なものですね。
(`・ω・´)ゞ
坂本龍馬が暗殺され時に
駆けつけた谷干城も熊本城にいました。
明治6年の政変は征韓論に敗れて下野って事になっているけど、それだけではなくてもっと根幹的問題があったような気がする…
西郷を考えるのに、あの時代の薩摩で剣が使えなかったというのは、物凄く大きな意味があると思う
西郷どんは「せごどん」と読みますね。
何回言っても、わかんないんだよね。
合成音声じゃ認識できないだろ。せごどんから漢字変換もできないぞ。
@@-kaz-md2lv氏。仕方ないですよ。通常の合成音声は方言には対応していないから。 経産省の九州支局ではバーチャルキャラを用いて合成音声を使っていますがこれは特別製でしょう。
2回目の島流しは、久光に登用されて舞い上がってた有村俊斎(後の海江田信義)の馬鹿な讒言のせいと言っても過言ではないはず!
自刃後の遺体が本人か否か確認するためにキン○マを調べたんだよね。
右腕に刀傷が御座いました。
高杉晋作、坂本龍馬もそうですね!
思い付きだから反対意見は全然構わないんだけど、西郷隆盛が西南戦争を起こした理由として「士族達に西郷隆盛は弱みを握られていた説」を個人的意見として持っている。
熊本の田原坂は幽霊👻の名所
軍隊の歩く🚶音や霊の目撃が沢山あるらしい❗
本当の心霊スポットは田原坂の近くにある官軍墓地です。
@@寺本晃騎 さん
お知らせ、ありがとうございます。いつか帰省したら行ってみます。15年程帰省してなく
田原坂のそばにトンカラリンがありますね
薩摩軍3万VS政府軍7万の兵力に対して、戦死者数が6800VS6400で互角?なんかおかしくない?2倍以上の兵力差があるなら、政府軍の戦死者が倍以上あってようやく互角なんじゃないの?
「薩摩軍3万VS政府軍7万」が横一列にでもなって1箇所で戦闘したと言うのなら正にそのとおり。
実際は非戦闘の隊なり場所(待機)があったのだから前戦=直接刃を向け合っている「点」なり「線」では互角と呼んでよい。
西南戦争といえば、田原坂の戦いが有名だけど…
戦争の流れを一気に変えたのは、新政府軍の日奈久上陸かなあ。
で、西郷さんが最初で最後の指揮を取った、最後の組織戦、和田越の戦い。
劇的なのは、新政府軍の包囲を突破せよ。
可愛岳突破ですね(`・ω・´)ゞ
人物としては、西郷軍の中では異端扱いされた野村忍介を個人的に注目してます。
奇兵隊(長州藩のとは別物)率いて、豊後方面を神出鬼没に現れ、新政府軍を悩ませ孤軍奮闘したけど…異端が故にあまり知られていない(´;ω;`)
「段山の戦い」も有名。
明治時代は激動の時代だったね、江華島事件、 西南戦争、台湾出兵、日清、日露戦争など起きた❗
このあと日露を勝利に導いた天才秋山兄弟が生まれるんだよなぁ~
流石 最後の武士ですね…!!
久光は藩主ではありません、国父と呼ばれ藩の実権をにぎっていました
浄土真宗を弾圧したけど、精神障害者のお坊さん夫婦を見て、弾圧は正しかったと思う、ありゃダメだ
そうそう、藩主は別にいて大御所政治みたいな事してましたね。
@@松尾直-q2j
久光の息子の忠義が藩主だったはず。
斉彬が亡くなる前に久光の息子を養子にしたのです。
お由羅騒動では渦中の二人だったので、後継者問題でもめないための策ですね。
まさに、「島津に暗君なし」
神風連の乱の勃発した日は(10月24日)私の誕生日です…。
西郷隆盛は今でいうと大谷翔平みたいな感じなんだろう。背が高くてルックスがずば抜けてたらしいな。
イケメンじゃないと下士であそこまで取り立てられないと思う。
西郷隆盛に限らず
明治の偉人はイケメンが多いですね。
イケメンで身長が高い人がリーダーになるんでしょうね。
伊藤博文は160センチ無かったそうですよ。身長は関係ないですね。
@@電気工事士の頂点 ならないですね(笑)なれるのは大韓民国くらいでは?
@@うどん山田-t4r いや伊藤博文はリーダーってほどじゃないぞ。
高身長イケメンで長州藩士の久坂玄瑞(180)とか土佐勤王党を率いた武市半平太(182)とかが生き残ってたら間違いなく明治政府のリーダーになってた。
伊藤博文は二番手ぐらいだし
維新まで運良く生き残っただけ。
@@user-kz5uv6hx8d イケメンだから取り立てるというような馬鹿な事は無いと言ってるだけですよ(笑)大村益次郎も小さいですし
山田方谷みたいな有能そのものの人間なら農民からでも取り立てますが
決起の時期が遅すぎる上に士族卒族合わせて30万の階級人口の内3万しか参加してない。更には戦死者が20%などという時点で、反乱の目的は武士としての死に場所の確保だったとしか思えない。
本気で反乱を成功させるなら近隣諸藩の反乱勢力を糾合するくらいはしたはずだろうし、例え成功しても今更天下がひっくり返るなどと考えてたとも考えづらい。
西郷本人も自身の人生の先が見える様な状態で生きてる中で、死に場所を求めるという不平士族の気持ちに賛同したから反乱に参加したんじゃなかろうか。
命のやり取りの中で青春時代を送って維新という大仕事を成したのに、その後で用済みとばかりに切り捨てられたとしたらそんな気持ちになるとしても理解は出来る。
大規模な反乱を起こした不平氏族の出身を見ても判る様に自分達(官軍側士族)の時代だと思っていた。
が、政府を支える官僚や銀行に鉄道を支える幹部層は、結局長年幕府という中央政府で働いて実務経験と能力を身につけた事務方の旗本や御家人が多数を占めた。
一部を除けば、矢張り地方でしか勤務経験の無い藩士達ではどの道能力か経験が不足して中央勤務が向いてなかったので、そんな彼等が海千山千のテクノクラートである旧幕臣と椅子の取り合いで負けただけ。
_おかゆ氏。動画作成者宛てコメにも書いたんですが、理由が何であれ、暴徒・逆徒の類はいかなる手段を用いてでも制圧されねばなりません。秩序と大多数の国民を守るためには必要だから。西郷某の駄々こね泣き喚き暴れによって死ななくてもいい人たちが死んだ。大東亜戦争もやはり国家レベルの駄々こね泣き喚き暴れである。歴史や史実上人物に対するロマンも結構だが、そのために死傷者が出、甚大な被害を齎す事だけは避けなくてはならないのです。どんなに美辞麗句並べても西郷某とこれに従った者達は逆徒である。「始末」されて当然。
ん? 暴徒逆徒を鎮圧するために必要だから、必要な手段を用いて必要な犠牲を出して鎮圧したんなら何も問題ないんじゃ無いかな? 俺はそれを否定してないよ。そんな風に読めた?
しかし、歴史にロマンを感じるのまで否定するってのは理解出来んけどね。正直なところ自分は幕末の動乱から戊辰戦争も含めて人生でそこに居た人と関わってた事が無いから、既に歴史ファンタジーだというくらいにしか思ってない。
だから、どっちも大義名分提げてやり合った「歴史」を、どっちか一方に対してだけ生々しい感情で汚らしい部分まで掘り下げて全否定するのはいかがなものかと思う。
そんな特権階級のせいで国民の田畑を荒らし、屋敷を焼かれ、いい迷惑。こんな武力を行使する連中の力は剥奪されて当然。国民全体のためになりません。
端折るなよ
NHKを始めとするメディア、ネット社会ではyoutuberら以外、西郷、坂本その他特別視なんてしてないわけ。
ご冥福をお祈りを致します。
明治10年に、反乱を起こすぐらいならば、
佐賀の乱のとき江藤新平を助けて、決起
すればよかったのですよ。
世が定まって蜂起しても、ときすでに
遅きに失する。
鹿児島の若者を無駄死に、させた事は
西郷の大罪でしかない。
西南戦争で優秀な人材が死んでいなければ
その後の対外戦争も有利に進められたでしょうね。
逆だろ
薩摩の頭足りない若造が勝手に暴走して西郷殺したようなもん
村田新八以外に惜しい人材などいない
薩摩の生まれです。
西郷さんは鹿児島では段違いに人気があります。
最近では大久保の見直しなんかも進んでますね。
西郷さんは不平士族の死場所を自らも加わることで与えたという考え方が私は好きです。
征韓論にしても本来は派兵など考えてなかったのではないでしょうか?
年数回鹿児島に帰りますが一度は時間を作って照國神社から西郷さんの像を巡るようにしてます。
大久保利通は不平氏族が開拓村作るのに協力したりするなど生活する場所を与えていたんだけどな。
それに当時は全盛期の力は無いにせよ清がまだまだ英邁な皇帝の元で一定の国力を持っていた訳で、そんな中でよくもまあ欧米列強も含む他国の介入をやってくれたもんだ。
西南戦争の副産物で軍の練度向上はあったにせよ。
戦費の半分か四分の一でも戊辰戦争で荒廃した東北の復興に回せれば、昭和の大凶作の被害や女子の身売りを緩和出来たかも知れないのに。
西郷隆盛の首って、どこにあるんだ? 大久保卿が隠したと話があるが、暗殺されたから、首が行方不明なんだよな。
もし薩軍が海路を取って東京を制圧しておれば世界戦にも勝利し、今のような腑抜け国家にはなってなかったろう
敗北した幕府側の勝海舟や榎本武揚は閣僚になっただけでなく、授爵して伯爵にまでなったのに。
大久保利通も不平士族の面倒や生活基盤の斡旋もしてたし、大久保利通の方が功績は高いけど。
銀英伝で言う所のグリーンヒル大将みたいな者だと?
フレデリカパパ
ラストサムライと内容と違う?
これははめられた戦争だよ。
んー、この裏で日本は終わったんだよ。
西郷も大政奉還した旧幕府をハメたんだから因果応報でしょ。
軍人としてというか上司なら良いのかも知れないけどトップには向いてないと思うかな…。
好きな人多いけど大久保利通もっと評価されて良いんじゃ⁇って思ってしまう。
興味湧いたら翔ぶが如く読んで欲しい
「西郷どん」は、さいごうどん、では、ありません。 「せごどん」です。何回言ったら、わかるんだい!
西郷隆盛って鹿児島県ではすごい人気者だけど、全国的にはそうでもないよね
坂本龍馬なんかは全国的に人気あるけど。
東京でランドマークにはなれたけどね
まあ、薩摩軍は戊辰の時に色々としてるからね…
アメリカの奴らより熊本全体を焦土にしたけど、芋くれたから会津のような今も恨むかというと、そんな感じにならない不思議。なおその芋が城東開戦の時の主要な生産地だったりします。