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熊本県民です。西南戦争と田原坂攻防戦は近代日本の最後の内戦でしたね。熊本士族も約2000人が西郷軍に味方しました。物資の補給が潤沢な官軍が優勢なのは太平洋戦争と全く同じでした。
西南戦争以前は、色々な内乱(〜〜の乱)が思い浮かびますが、日本はすっかり平和になってしまいました。政治も停滞している気がしますが…。やはり戦いに重要なのは兵站ですね。
地理とツーリングと歴史にグルメ面白いですね👍
ありがとうございます!歴史と地理って別々に考えられることが多いですが、実は結構関係していると思います。
10年前愛媛からバイクでいきました。懐かしい。動画はとても解りやすく勉強になりますね!アップありがとうございます!!
遠くからよくぞいらっしゃいました。解りやすいと言っていただけると大変嬉しいです。ありがとうございます!
今回も楽しめました歩いて見せてくれたので坂道の状況がよくわかりましたこれならあちらこちらで待ち伏せがあったでしょうね欧米から仕入れた高性能な小銃もこう見通しが悪ければ役に立ちそうにないし槍や刀でもけっこう役に立ったのかもと思いました私も一度だけ車で訪れましたが資料館は閉館日で展示物を見れませんでしたコロナが明ければ休館日を確認してから再訪したいと思ってます
この道のカーブのせいで銃が使いづらく、刀の強みが出てきたのでしょうね。歩いているとそれがよく分かりました。資料館は、行くとしたら緊急事態宣言明けですね。せっかく現地に行ったのに、入れなかったのは非常に残念ですが、また立ち寄る理由にはなりますね笑
植木は夫の地元なので、花見の時期になると田原坂公園に行きます。「この辺は今もほじくれば弾丸が出てくる」は本当です。夫の実家の畑からも出てきたそうですよ。唱にもある「田原坂」は赤土なので、雨が降るとぬかるんだり、ツルツル滑ったりで当時、重い大砲を引いたり引いたり押したりと大変だったろうな~~と想像し『雨は降る降る、ジンバは濡れるの「ジンバ」を、ずーっと「人馬」と思っていましたすると、後年になってそれが「陣場」だと知り、同僚に「勘違いしていたよ」と笑いながら言うと同僚も同じ勘違いをしていたらしく、二人して「『人馬』でもあっているよね」そして、坂を下りきったところにある古い石橋は、アーチを小石で繋いだ古いタイプの作りです。また公園内にある「資料館」は入館料が安い割には、なかなか充実していて攻防戦の様子を映画と説明映像で展示されています。ついでに、ここまで来たのなら、西方面に見える山にある「吉次峠」もお勧めです。今は舗装されていますが、当たり前ですが当時は細くて急坂の山道でも陣地が築かれた峠は、谷向こうに田原坂が良く見えて、確かに戦略的に重要な場所だとわかります。
弾丸、本当に出てくるんですね。あの斜面と見通しの悪い道で戦うのは、本当に大変だったと思います。ジンバ、は、もともと陣羽らしいですよ。服です。今は人馬とごっちゃになっているようで、どっちでも良くなっているみたいです笑資料館はコロナで入れず残念です。たしかに、谷の向こうから見るのも良いですね。行けばよかったです。
かなり昔、年末の特番時代劇で「田原坂」という西南戦争を描いた大作大河ドラマが放送されたのですが、11:06の馬上の美少年役を、子役時代の坂上忍が演じていましたね。
そういや最近、時代劇見ませんね。美少年役を坂上忍が!?僕にとってはおじちゃんのイメージしかないので、ビックリです。
JRに乗った時、あそこが田原坂やね、と、思い高速道路を通った時も、あそこが田原坂やね、と思っていました。今日の映像で見られて、よかったです。こんな道を、よう大砲を引っ張ってきましたよね。
高速道路に「田原坂」という看板が立っていますが、あの看板から結構遠いんです。肥後台地という、阿蘇の火砕流が作った台地に、大砲を引っ張って上がっていたわけですね。
私は薩摩藩。田原坂について説明して頂いて有難う御座いました。若者が沢山戦死しました。とても悲しかったです。
田原坂は加藤清正が設計した守りの堅い場所で、それが明治時代に入ってから思わぬ形で活躍してしまったわけですね😢️
非常にわかりやすく感銘しました。戦史ツーリングを企画して下さい。
ありがとうございます。戦史ツーリング、面白そうですね。あまり歴史は詳しくないので、ネタ探しからやってみます。
せ
私も幕末好きで田原坂に行きましたが、地形のまでは頭にありませんでした。
地形のことはほとんどの方が考えないと思いますが「坂」と聞くと「どんな坂なんだ?」と気になってしまうんです。等高線や地質も見てみると、意外な発見があって面白いですよ。
銃弾ひろいにいきませんか
@@田中ポエリン 銃弾まだ落ちているんですか?
@@トランク短井 もうだいぶ拾われて少なくはなってますが、まだ入念に探せば見つかりますよ
@@田中ポエリン へぇー、いまだに出てくるんですね。掘り漁られてかなり減っているとは聞きますが。
歴史と地学のドキュメンタリー動画としても為になる動画だと思います。地図では緩やかな地形の様に見えますが、実際に訪れると違うものなんですね。
山の地形を現地で見ると、地図より格段に険しく感じられます。普段歩く道が、いかに平坦で歩きやすいかを痛感させられます😂
西南戦争に関する小説を読んでいて、どんな場所か知りたかったのでとても面白く見させていただきました! 詳しい解説をしていただいてありがとうございます(^^) 私も行ってみたくなりました♪
ありがとうございます!気になっていた田原坂、地形から詳しく知っていただけたなら良かったです。ぜひ行ってみてください。歩いてみると、本当に見通しがきかないことがわかりますよ。
コロナが始まる前に歩いて登りました。麓から頂上まで大した距離もなく、時間もかからず登れる坂でしたが、ここで17日間も戦闘が行われていたという事実がいかに激しい戦場であったのかと思いました。近距離から互いに銃撃をしたので弾同士が衝突してできたという「かちあい玉」を見たくて資料館に行ったのですが、それはありませんでした。ただ、最近でも激戦地を調べたら、弾が出土するという映像とかを見ることができました。沢山石碑や慰霊碑があるのですが、古くからある多くの碑が薩摩軍は賊軍で政府軍がそれを制圧したという内容の碑文が多く、鹿児島に旅行した時の西南戦争の碑文との違いを感じることができました。交通手段が少なくて行きにくい場所ですが、日本史好きには行って見て初めてわかることも多い面白い場所でした。
そうですね、麓から上まではそれほど坂はきつくないのですが、明らかに台地に登っていきます。その道のくねり方が絶妙でした。資料館に行けたのが羨ましいです。僕が行ったときはコロナ禍で閉まっていましたから😭石碑も多かったですが、内容まではあまり見ていませんでした。鹿児島は全然違うでしょうね。
「越すに越されぬ田原坂」新政府軍も薩摩軍も、清正公と戦っているような感じですね…😆。
まさにまさに。民謡の通りです。
日本最後の内戦。薩摩隼人と鎮台兵。会津の侍たちが抜刀隊として一騎討ちしたんでしょうか。その先人たちのお陰で明治日本は強く逞しく発展したと思います。この坂を上がって行った鎮台兵は、さぞ恐ろしかっただろうなぁと。
そうですね、この坂を上がるのは本当に怖かったと思います。今は木が生い茂って暗くさらに怖いですが、当時は砲撃で森はボロボロだったかもしれません。当時の雰囲気を想像するのがなかなか難しいです。
ライダーさんお疲れ様でした^ ^歴史も社会も苦手と言うか、興味なかったけど、田原坂は知ってました^ ^ライダーさんは、話も説明も丁寧で分かりやすく、見てて、楽しく、あっと言うまの20分でした。くねくね道は本当に怖いです。。狭い山道は特に慎重に運転してます(後続車に迷惑かけてるかも…)今回は温泉には行かなかったんですか?
「田原坂の戦い」は知っているけど、田原坂そのものはあんまり知りませんよね。今回は地形から詳しく調べてから現地を見て回ったので、僕としても面白かったです。田原坂は「魔のカーブ」らしいので、皆さん慎重な運転をされていましたよ。安全第一です。今回は温泉には行ってないんですよ。暑くなってくると、温泉でさっぱりしてもまた汗かいちゃうので、悩ましいです。
これから田原坂を訪問しようと思ってたので、大変参考になりました!薩軍の戦略は大変ひどいものでしたが、田原坂の攻防だけで捉えると、戦術的には成功してたみたいですね。官軍が警察抜刀隊を組織してからが、血で血を洗う戦いになってしまいましたけどね!司馬遼太郎の飛ぶが如くや、浅田次郎の一刀斎夢録でも書かれてます。いやー、ありがとうございました!
歴史ではなく地理の観点から見た田原坂、あんまり無いと思いますが、参考になりましたか?激戦地になったのも、納得の地形でしたね。
お疲れ様です。誤字がおもしろいですね!関係者は誰も気がついて無いのか?気がついてそのままなのか?精度が大切な仕事をしている技術者としては、うらやましいです。ブラタモリ的には、ウケ狙いでそのままならば、あっぱれですね!しかも二カ所!😄😄また、期待しています!👏👏
誤字の看板は1カ所ですよ。1回目はバイクで走りながら見かけて、2回目は歩きで通りがかりました。2回見たくなる看板です。たぶんこの看板をまじまじと読む人も少なく、直す必要もあんまりないのでしょうね😅
こないだ北九州に行く途中に首にピキーン!と違和感が走りました。初めての感覚でしたが、銃で撃たれた?この辺は古戦場か?ってGoogle見たらまさに田原坂の真横でした。西南戦争で撃ち合いをした激戦区です。
霊感の鋭さがすごいですね。僕は鈍感中の鈍感なので、何もありませんでした。銃どころか、大砲でドッカンドッカンやっていた場所ですね。
残念坂上忍ではありません😂村田岩熊(野村宏伸)が美少年として出ています。因みに坂上忍は西郷菊次郎(息子)で、飛ぶがごときでは、大山巌(西郷の従兄弟)役で出ていましたですね😃
あら、そうなんですね?どちらにしても、ドラマは全然分からないんですけど😅
還暦直前の大牟田人です。出来が悪かったので久留米の明善高校付属の時習館に1年お世話になったのですが、ソコの先生(恐らく名善高校の退職教諭で当時でも70歳近く)曰く「爺さんから聞いた話だけど、この辺りの人達は西郷隆盛の味方が多く、峠道で官軍が運んでいた大砲を崖下に落とした」と言う話を聞きました。同じく「明治維新の頃、剣を取って立ち会ったコトがあるけど時代劇みたいなのは真っ赤なウソ。怖くて無茶苦茶に剣を振ったら何かに当る感触があり益々怖くなって走って逃げた」という話を聞きました。またお袋の婆さんから聞いた話ではは西南の役のアト田原坂に行ったらカブトが落ちていたのでひろって来て床下に隠したとのコトでした。もうとっくにその家はないけどね。古い話を聞いてみると筑後地方は多分薩軍派だったようです。(弾痕の家、閉まっていて惜しかったですね。弾と弾がぶつかって一つになってるヤツなんかがあったと思います。弾自体は白っぼい色だったと思います)
150年前ですから、先祖から伝え聞いている人々がまだたくさんいますね。できたばかりの新政府が急な改革を行っていたので、地元の人たちの姿勢も薩軍寄りだったということもありそうな話です。周辺の人々にもそれぞれのドラマがあったことに思いを馳せると、今の平和な風景も単純に見ることができなくなってきます。弾丸同士がぶつかって一つになっているのは、かち合い弾ですね。弾痕の家で見ることができたんですか、う~ん見ることができず残念です。
@@chiri_rider 様このトコロ筑後地方の動画が見られて嬉しいです。こうやって見ると沖積平野→福岡県筑後地方というのが良く解ります。大牟田から荒尾に向かってバイクやクルマで走ると走らせて気持ちいいのは県境を超えてからだったな〜と思い出します。重ねてありがとうございました。
@@野林研児 仰るとおり、南関の辺りで筑後平野が終わり、走るのが楽しくなりますね!走っているとまさに地形の切り替わりがよく分かります。
筑後地方が薩摩軍に好意的には👀‼️ 有り難う御座います🎵🙌
また田原坂行ってみたいなあ。何度見ても見ごたえあるなあ。お酒のメーカーの美少年も確かここから名前を拝借したのかな。
田原坂は、実際に歩いてみると高低差と微妙なカーブがよく分かりました😊️日本酒の美少年は、この田原坂の戦いが名前の由来です。
田原坂の様々な地形は、加藤清正公が、進攻勢力に備え築かせた鉄壁の守護を目的とした防御策の1つと言える。熊本城然り、田原坂然り、長い歳月を経て、西南の役にて、新政府軍の為に、役立つ事になろうとは・・・西郷さんの有名な言葉が残っている。我々は、新政府軍に敗けたのでは無い・・・清正公さんに敗けたと・・・日本の城の中で、近代兵器を用いて落城しなかった城は、天下の名城【熊本城】だけである。失礼致しました。
近代兵器でも熊本城は落ちず、田原坂も守備側が有利な造りになっていて激戦となった。明治に入ってからも、陳腐化していなかったというのは本当にすごいですね。西郷隆盛の言葉、清正公に負けたというのは本当にそうだなあと思います。ありがとうございます。
田原坂で弾丸探しをしてみたいです!両側に木が生えているとちょっと怖いですね。夜は怖くて歩けなそう…
弾丸は、もうなかなか見つからないと思いますけどね~。どうなんでしょう。両側に木が茂っているところは、見通しが悪いので怖いです。夜は歩かない方が良いでしょうね!
弾丸を探しに行くのはやめて下さい、実際手に取って持ち帰れば犯罪になるおそれがあります、
@@tadayuki2134 さんありがとうございます!無知って怖いですね‼️気をつけます。
どうでした?!
地域の発掘部隊が金属探知機つかって片っ端から遺跡発掘してるので今なかなかないですね…取り尽くされてる
先週行きました。田原坂という名前は激戦地というくらいの知識でしたが、行ってみて戦略的に重要な場所だと知り、地形や両軍の立ち位置等分かってくると、なかなか考え深い所でした。今はとても景観が良く、平和な空気で満たされていて、戦時中とのギャップに何とも言えない気持ちになりました。オススメの場所のひとつですね。
なぜここが激戦地になったかというと、地質の境目だから、と言っても良いんじゃないかなと思います。今は本当にのどかな良いところですね。
大砲を運んだと言う事は「馬、牛、荷車」などが必要かと思います。大砲に車輪が付いているか知らないが、当時の道は舗装されてないと思います。まして雨が降った時などはぬかるみで大変だったでしょうね。{看板に描いてある大砲は車輪が付いていましたね)それにしても4千人以上の死者とか、悲惨でしたね。2023/03/10
重い大砲をエッチラオッチラ運んでいる間に、攻撃されたりと大変だったろうと思います。どうやら尾根を挟んで大砲で撃ち合っていたようですが。戦闘が泥沼化してしまって、同じ日本人同士だというのにこんなに亡くなったのが悲惨ですね。(違う国の人同士でも駄目なんですけどね)
幕末辺りの大砲はまだ小さいので、普通に人力で車輪つきの大砲を引っ張れる。アームストロング砲とかは馬じゃないと無理だが。
自分は福岡県との県境熊本県に住んでいます。田原坂は何回も行ってます。三の坂が激戦区です。昼間は大丈夫なのですが夜、夜中は怖いです。
夜はどう考えても怖いですよね👻
銃弾が椎の実みたいで びっくりした。 大砲の中身は 釘や金属球なのは お約束? 狭い道でバスだと離合 大変ですね。
大砲の中身、なかなかエグいですが、威力を増すにはそうなりますかね。この道はバスだと大変ですね。
幕府軍の装備が新しくて ちょっと可哀想な 西南の戦い(幕府から言う役エキ) 。大砲を上に撃ちあげて向かいの山に届かせる 遺跡の銃弾痕 内戦はいつも悲惨ですね。
細かい解説すると大砲を運べる道というのは現在鹿児島本線が通っている田原坂公園から見下ろせる平地のほうですね。しかしこの道は隘路を田原坂から長い距離側面を狙われる地形になっており、この道を通るために田原坂の岡を攻略する必要があったわけです。
あ、なるほど。大砲は下の谷底平野を通っていくんですね。で、両側の尾根の取り合いが熾烈だったと。勉強になりました✏️
地元の近くですが夜は怖くてよー来れない場所です。古戦場は福岡市内にも何ヵ所かありますよねー。しかし、田舎あるある虫の塊。ガキの頃はあれ自転車によく突っ込んでました😓
お、地元が近いのですね。夜は絶対に怖いです。福岡市内の古戦場というと、元寇がらみとか、戦国時代のいざこざとかですかねー。田舎あるあるの虫の塊、あれは何なんでしょうね笑
40年くらい前に大学の時、友人が深夜肝試しで田原坂に行って、車中で横になっていたときに鎧をかぶった武者の幽霊を見たと言っていました。
田原坂で肝試しは怖すぎですね😅️見通しの悪い道なので、本当に何か出て来そうです。
農高(北稜高校)の近くにラーメン店あったんだ。今度実家に帰ったときに寄ってみようかな。
玉名ラーメン、美味しかったですよ。
菊池川を挟んでの官軍と薩摩軍の戦いは地名から「高瀬の戦い」と呼ばれています。北を目指していた薩摩軍は高瀬の戦いで敗れ、高瀬より南にある田原坂でとどめを刺されます。
高瀬の戦いの現場、実はつい最近見に行きまして。来週あたり、動画を出します。この辺りの地形を見て回っていると、阿蘇の溶岩流が作った肥後台地と菊鹿盆地の中で、田原坂が重要な場所だったことがよくわかります。
それは楽しみに待っています。詳しく覚えていませんが、高瀬の戦いで西郷隆盛の兄弟も戦死したとか、高瀬にお墓というか石碑があったように記憶しています。
もう一つ思い出しました。西南戦争が日本赤十字社設立のきっかけになったはずです。
馬上豊かな美少年とは15歳で戦死した束野 孝之丞とも他全員とも言われていますが、それだけ若い薩摩藩士が多数戦闘に参加していたという事なのかなあ。
そうですね、若者も総動員で戦ったということです。大体、15歳ぐらいから元服していたと思いますので、最も若いのがそのぐらいの年代になるかと思います。
チャンネル登録しました。
ありがとうございます!
おもしろそぅうぅぅぅう!!!!!!!いいなぁww友達と一緒に心スポ行くのもあり
心霊スポットとはあまり思っていませんが、どうやら夜は怖いようですね。ご近所迷惑&事故にならないようには気をつけて、行ってみるのも面白いかもしれません。
歴史はてんで覚える気がなかった自分はある時父にお前は何も知らないんだな~とつぶやき今はちょっとずずさぐっています。
僕も地理と歴史の選択では全て地理を選び続けてきたので、歴史にはとんでもなく疎いです。中学生レベルです。ただ、あちこち行っていると歴史についても少しずつ知るようになりますよ。
田原坂はかなり幽霊が出る所で有名です
いかにも出そうな場所です。見通しも悪いのでめちゃくちゃ怖いですね。
でも遊びには行きますけど
不敬者めが!!
坂で戦争したわけではなくて坂の真上の台地で戦った説がでています。その台地に陣地跡や鉄砲の玉の後が発掘されている
谷を挟んで台地同士でドンパチしていたという話を聞きましたので、それで台地の上で色々出てくるのかなとも思いました。
昨日レンタルバイク借りて行きたかったですが、出来なかったんですが、田原坂に行ってきました!娘の自由研究で来たのですが、西南戦争の事詳しく知りたくなって見てました!わかりやすくて面白かったです!岐阜県から熊本に来てました!
岐阜からようこそお越しいただきました。自由研究ですか。近くの菊鹿盆地とセットで回ると、阿蘇の火砕流の規模の大きさもわかり、とても面白いと思います。※「菊鹿盆地」の動画をぜひご覧ください
弾痕は鹿児島の城山の石垣にはしっかりと無数に残ってますね^_^
鹿児島城山の弾痕は見たことがあります。西南戦争の激しさがよくわかります。
バイクだとあの虫の大群に突っ込みそう…。
間違いなく気づかず突っ込みますね!飛んでヘルメットのシールドにぶつかる夏の虫です。
西南戦争最大の激戦地(田原坂)
激戦地になるのも分かるなあ、という地形ですね。
当時の大砲が1砲あります。
そういえば大砲は見なかった気がします。資料館?はコロナで閉まってました😅
あのさぁ!。戦いは勝負がつきものであります。どっちが勝ったのか?白黒はっきりつけてちょよ!何故解説しないのかなぁ。焦点ボケるのはなぜか!関が原はどっちが勝ったかは分かる。
西南戦争は有名なので説明不要と思っていました。すみません。官軍が勝ち、薩摩軍(西郷隆盛)が負けます。歴史にはあまり興味がなくて、この動画は、なぜここで激戦になったのか?地形かれ探っていくものです。
熊本県民です。西南戦争と田原坂攻防戦は近代日本の最後の内戦でしたね。熊本士族も約2000人が西郷軍に味方しました。物資の補給が潤沢な官軍が優勢なのは太平洋戦争と全く同じでした。
西南戦争以前は、色々な内乱(〜〜の乱)が思い浮かびますが、
日本はすっかり平和になってしまいました。政治も停滞している気がしますが…。
やはり戦いに重要なのは兵站ですね。
地理とツーリングと歴史にグルメ面白いですね👍
ありがとうございます!
歴史と地理って別々に考えられることが多いですが、実は結構関係していると思います。
10年前愛媛からバイクでいきました。懐かしい。
動画はとても解りやすく勉強になりますね!アップありがとうございます!!
遠くからよくぞいらっしゃいました。
解りやすいと言っていただけると大変嬉しいです。ありがとうございます!
今回も楽しめました
歩いて見せてくれたので
坂道の状況がよくわかりました
これならあちらこちらで待ち伏せがあったでしょうね
欧米から仕入れた高性能な小銃も
こう見通しが悪ければ役に立ちそうにないし
槍や刀でもけっこう役に立ったのかもと思いました
私も一度だけ車で訪れましたが
資料館は閉館日で展示物を見れませんでした
コロナが明ければ休館日を確認してから
再訪したいと思ってます
この道のカーブのせいで銃が使いづらく、刀の強みが出てきたのでしょうね。
歩いているとそれがよく分かりました。
資料館は、行くとしたら緊急事態宣言明けですね。
せっかく現地に行ったのに、入れなかったのは非常に残念ですが、
また立ち寄る理由にはなりますね笑
植木は夫の地元なので、花見の時期になると田原坂公園に行きます。
「この辺は今もほじくれば弾丸が出てくる」は本当です。
夫の実家の畑からも出てきたそうですよ。
唱にもある「田原坂」は赤土なので、雨が降るとぬかるんだり、ツルツル滑ったりで
当時、重い大砲を引いたり引いたり押したりと大変だったろうな~~と想像し
『雨は降る降る、ジンバは濡れるの「ジンバ」を、ずーっと「人馬」と思っていました
すると、後年になってそれが「陣場」だと知り、同僚に「勘違いしていたよ」と笑いながら言うと
同僚も同じ勘違いをしていたらしく、二人して「『人馬』でもあっているよね」
そして、坂を下りきったところにある古い石橋は、アーチを小石で繋いだ古いタイプの作りです。
また公園内にある「資料館」は入館料が安い割には、なかなか充実していて
攻防戦の様子を映画と説明映像で展示されています。
ついでに、ここまで来たのなら、西方面に見える山にある「吉次峠」もお勧めです。
今は舗装されていますが、当たり前ですが当時は細くて急坂の山道
でも陣地が築かれた峠は、谷向こうに田原坂が良く見えて、確かに戦略的に重要な場所だとわかります。
弾丸、本当に出てくるんですね。あの斜面と見通しの悪い道で戦うのは、本当に大変だったと思います。
ジンバ、は、もともと陣羽らしいですよ。服です。今は人馬とごっちゃになっているようで、どっちでも良くなっているみたいです笑
資料館はコロナで入れず残念です。
たしかに、谷の向こうから見るのも良いですね。行けばよかったです。
かなり昔、年末の特番時代劇で「田原坂」という西南戦争を描いた大作大河ドラマが放送されたのですが、
11:06の馬上の美少年役を、子役時代の坂上忍が演じていましたね。
そういや最近、時代劇見ませんね。
美少年役を坂上忍が!?僕にとってはおじちゃんのイメージしかないので、ビックリです。
JRに乗った時、あそこが
田原坂やね、と、思い
高速道路を通った時も、
あそこが田原坂やね、と
思っていました。
今日の映像で見られて、よかったです。
こんな道を、よう大砲を
引っ張ってきましたよね。
高速道路に「田原坂」という看板が立っていますが、あの看板から結構遠いんです。
肥後台地という、阿蘇の火砕流が作った台地に、大砲を引っ張って上がっていたわけですね。
私は薩摩藩。田原坂について説明して頂いて有難う御座いました。若者が沢山戦死しました。とても悲しかったです。
田原坂は加藤清正が設計した守りの堅い場所で、それが明治時代に入ってから思わぬ形で活躍してしまったわけですね😢️
非常にわかりやすく感銘しました。戦史ツーリングを企画して下さい。
ありがとうございます。
戦史ツーリング、面白そうですね。あまり歴史は詳しくないので、ネタ探しからやってみます。
せ
私も幕末好きで田原坂に行きましたが、
地形のまでは頭にありませんでした。
地形のことはほとんどの方が考えないと思いますが
「坂」と聞くと「どんな坂なんだ?」と気になってしまうんです。
等高線や地質も見てみると、意外な発見があって面白いですよ。
銃弾ひろいにいきませんか
@@田中ポエリン 銃弾まだ落ちているんですか?
@@トランク短井 もうだいぶ拾われて少なくはなってますが、まだ入念に探せば見つかりますよ
@@田中ポエリン へぇー、いまだに出てくるんですね。掘り漁られてかなり減っているとは聞きますが。
歴史と地学のドキュメンタリー動画としても為になる動画だと思います。地図では緩やかな地形の様に見えますが、実際に訪れると違うものなんですね。
山の地形を現地で見ると、地図より格段に険しく感じられます。
普段歩く道が、いかに平坦で歩きやすいかを痛感させられます😂
西南戦争に関する小説を読んでいて、どんな場所か知りたかったのでとても面白く見させていただきました! 詳しい解説をしていただいてありがとうございます(^^) 私も行ってみたくなりました♪
ありがとうございます!
気になっていた田原坂、地形から詳しく知っていただけたなら良かったです。
ぜひ行ってみてください。歩いてみると、本当に見通しがきかないことがわかりますよ。
コロナが始まる前に歩いて登りました。麓から頂上まで大した距離もなく、時間もかからず登れる坂でしたが、ここで17日間も戦闘が行われていたという事実がいかに激しい戦場であったのかと思いました。近距離から互いに銃撃をしたので弾同士が衝突してできたという「かちあい玉」を見たくて資料館に行ったのですが、それはありませんでした。ただ、最近でも激戦地を調べたら、弾が出土するという映像とかを見ることができました。沢山石碑や慰霊碑があるのですが、古くからある多くの碑が薩摩軍は賊軍で政府軍がそれを制圧したという内容の碑文が多く、鹿児島に旅行した時の西南戦争の碑文との違いを感じることができました。交通手段が少なくて行きにくい場所ですが、日本史好きには行って見て初めてわかることも多い面白い場所でした。
そうですね、麓から上まではそれほど坂はきつくないのですが、明らかに台地に登っていきます。
その道のくねり方が絶妙でした。
資料館に行けたのが羨ましいです。僕が行ったときはコロナ禍で閉まっていましたから😭
石碑も多かったですが、内容まではあまり見ていませんでした。鹿児島は全然違うでしょうね。
「越すに越されぬ田原坂」新政府軍も薩摩軍も、清正公と戦っているような感じですね…😆。
まさにまさに。民謡の通りです。
日本最後の内戦。
薩摩隼人と鎮台兵。会津の侍たちが抜刀隊として一騎討ちしたんでしょうか。
その先人たちのお陰で明治日本は強く逞しく発展したと思います。この坂を上がって行った鎮台兵は、さぞ恐ろしかっただろうなぁと。
そうですね、この坂を上がるのは本当に怖かったと思います。
今は木が生い茂って暗くさらに怖いですが、当時は砲撃で森はボロボロだったかもしれません。当時の雰囲気を想像するのがなかなか難しいです。
ライダーさんお疲れ様でした^ ^
歴史も社会も苦手と言うか、
興味なかったけど、
田原坂は知ってました^ ^
ライダーさんは、話も説明も丁寧で分かりやすく、見てて、
楽しく、
あっと言うまの20分でした。
くねくね道は本当に怖いです。。
狭い山道は特に慎重に運転してます(後続車に迷惑かけてるかも…)
今回は温泉には行かなかったんですか?
「田原坂の戦い」は知っているけど、田原坂そのものはあんまり知りませんよね。
今回は地形から詳しく調べてから現地を見て回ったので、僕としても面白かったです。
田原坂は「魔のカーブ」らしいので、皆さん慎重な運転をされていましたよ。安全第一です。
今回は温泉には行ってないんですよ。暑くなってくると、温泉でさっぱりしてもまた汗かいちゃうので、悩ましいです。
これから田原坂を訪問しようと思ってたので、大変参考になりました!
薩軍の戦略は大変ひどいものでしたが、田原坂の攻防だけで捉えると、戦術的には成功してたみたいですね。
官軍が警察抜刀隊を組織してからが、血で血を洗う戦いになってしまいましたけどね!
司馬遼太郎の飛ぶが如くや、浅田次郎の一刀斎夢録でも書かれてます。
いやー、ありがとうございました!
歴史ではなく地理の観点から見た田原坂、あんまり無いと思いますが、参考になりましたか?
激戦地になったのも、納得の地形でしたね。
お疲れ様です。
誤字がおもしろいですね!
関係者は誰も気がついて無いのか?
気がついてそのままなのか?
精度が大切な仕事をしている技術者としては、うらやましいです。
ブラタモリ的には、ウケ狙いでそのままならば、あっぱれですね!
しかも二カ所!😄😄
また、期待しています!👏👏
誤字の看板は1カ所ですよ。1回目はバイクで走りながら見かけて、2回目は歩きで通りがかりました。2回見たくなる看板です。
たぶんこの看板をまじまじと読む人も少なく、直す必要もあんまりないのでしょうね😅
こないだ北九州に行く途中に首にピキーン!と違和感が走りました。初めての感覚でしたが、銃で撃たれた?この辺は古戦場か?ってGoogle見たらまさに田原坂の真横でした。西南戦争で撃ち合いをした激戦区です。
霊感の鋭さがすごいですね。僕は鈍感中の鈍感なので、何もありませんでした。
銃どころか、大砲でドッカンドッカンやっていた場所ですね。
残念坂上忍ではありません😂村田岩熊(野村宏伸)が美少年として出ています。因みに坂上忍は西郷菊次郎(息子)で、飛ぶがごときでは、大山巌(西郷の従兄弟)役で出ていましたですね😃
あら、そうなんですね?
どちらにしても、ドラマは全然分からないんですけど😅
還暦直前の大牟田人です。
出来が悪かったので久留米の明善高校付属の時習館に1年お世話になったのですが、ソコの先生(恐らく名善高校の退職教諭で当時でも70歳近く)曰く「爺さんから聞いた話だけど、この辺りの人達は西郷隆盛の味方が多く、峠道で官軍が運んでいた大砲を崖下に落とした」と言う話を聞きました。
同じく「明治維新の頃、剣を取って立ち会ったコトがあるけど時代劇みたいなのは真っ赤なウソ。怖くて無茶苦茶に剣を振ったら何かに当る感触があり益々怖くなって走って逃げた」という話を聞きました。
またお袋の婆さんから聞いた話ではは西南の役のアト田原坂に行ったらカブトが落ちていたのでひろって来て床下に隠したとのコトでした。
もうとっくにその家はないけどね。
古い話を聞いてみると筑後地方は多分薩軍派だったようです。
(弾痕の家、閉まっていて惜しかったですね。弾と弾がぶつかって一つになってるヤツなんかがあったと思います。弾自体は白っぼい色だったと思います)
150年前ですから、先祖から伝え聞いている人々がまだたくさんいますね。
できたばかりの新政府が急な改革を行っていたので、地元の人たちの姿勢も薩軍寄りだったということもありそうな話です。
周辺の人々にもそれぞれのドラマがあったことに思いを馳せると、今の平和な風景も単純に見ることができなくなってきます。
弾丸同士がぶつかって一つになっているのは、かち合い弾ですね。
弾痕の家で見ることができたんですか、う~ん見ることができず残念です。
@@chiri_rider 様
このトコロ筑後地方の動画が見られて嬉しいです。
こうやって見ると沖積平野→福岡県筑後地方というのが良く解ります。
大牟田から荒尾に向かってバイクやクルマで走ると走らせて気持ちいいのは県境を超えてからだったな〜と思い出します。
重ねてありがとうございました。
@@野林研児 仰るとおり、南関の辺りで筑後平野が終わり、走るのが楽しくなりますね!
走っているとまさに地形の切り替わりがよく分かります。
筑後地方が薩摩軍に好意的には👀‼️ 有り難う御座います🎵🙌
また田原坂行ってみたいなあ。
何度見ても見ごたえあるなあ。
お酒のメーカーの美少年も確かここから名前を拝借したのかな。
田原坂は、実際に歩いてみると高低差と微妙なカーブがよく分かりました😊️
日本酒の美少年は、この田原坂の戦いが名前の由来です。
田原坂の様々な地形は、加藤清正公が、進攻勢力に備え築かせた鉄壁の守護を目的とした防御策の1つと言える。
熊本城然り、田原坂然り、長い歳月を経て、西南の役にて、新政府軍の為に、役立つ事になろうとは・・・
西郷さんの有名な言葉が残っている。
我々は、新政府軍に敗けたのでは無い・・・清正公さんに敗けたと・・・
日本の城の中で、近代兵器を用いて落城しなかった城は、
天下の名城【熊本城】だけである。
失礼致しました。
近代兵器でも熊本城は落ちず、田原坂も守備側が有利な造りになっていて激戦となった。
明治に入ってからも、陳腐化していなかったというのは本当にすごいですね。
西郷隆盛の言葉、清正公に負けたというのは本当にそうだなあと思います。ありがとうございます。
田原坂で弾丸探しをしてみたいです!
両側に木が生えているとちょっと怖いですね。夜は怖くて歩けなそう…
弾丸は、もうなかなか見つからないと思いますけどね~。どうなんでしょう。両側に木が茂っているところは、見通しが悪いので怖いです。夜は歩かない方が良いでしょうね!
弾丸を探しに行くのはやめて下さい、実際手に取って持ち帰れば犯罪になるおそれがあります、
@@tadayuki2134 さん
ありがとうございます!無知って怖いですね‼️気をつけます。
どうでした?!
地域の発掘部隊が金属探知機つかって片っ端から遺跡発掘してるので今なかなかないですね…
取り尽くされてる
先週行きました。
田原坂という名前は激戦地というくらいの知識でしたが、行ってみて戦略的に重要な場所だと知り、地形や両軍の立ち位置等分かってくると、なかなか考え深い所でした。
今はとても景観が良く、平和な空気で満たされていて、戦時中とのギャップに何とも言えない気持ちになりました。
オススメの場所のひとつですね。
なぜここが激戦地になったかというと、地質の境目だから、と言っても良いんじゃないかなと思います。
今は本当にのどかな良いところですね。
大砲を運んだと言う事は「馬、牛、荷車」などが必要かと思います。大砲に車輪が付いているか知らないが、
当時の道は舗装されてないと思います。まして雨が降った時などはぬかるみで大変だったでしょうね。
{看板に描いてある大砲は車輪が付いていましたね)それにしても4千人以上の死者とか、悲惨でしたね。
2023/03/10
重い大砲をエッチラオッチラ運んでいる間に、攻撃されたりと大変だったろうと思います。
どうやら尾根を挟んで大砲で撃ち合っていたようですが。
戦闘が泥沼化してしまって、同じ日本人同士だというのにこんなに亡くなったのが悲惨ですね。
(違う国の人同士でも駄目なんですけどね)
幕末辺りの大砲はまだ小さいので、普通に人力で車輪つきの大砲を引っ張れる。アームストロング砲とかは馬じゃないと無理だが。
自分は福岡県との県境熊本県に住んでいます。
田原坂は何回も行ってます。
三の坂が激戦区です。
昼間は大丈夫なのですが夜、夜中は怖いです。
夜はどう考えても怖いですよね👻
銃弾が椎の実みたいで びっくりした。 大砲の中身は 釘や金属球なのは お約束? 狭い道でバスだと離合 大変ですね。
大砲の中身、なかなかエグいですが、威力を増すにはそうなりますかね。
この道はバスだと大変ですね。
幕府軍の装備が新しくて ちょっと可哀想な 西南の戦い(幕府から言う役エキ) 。大砲を上に撃ちあげて向かいの山に届かせる 遺跡の銃弾痕 内戦はいつも悲惨ですね。
細かい解説すると大砲を運べる道というのは現在鹿児島本線が通っている田原坂公園から見下ろせる平地のほうですね。しかしこの道は隘路を田原坂から長い距離側面を狙われる地形になっており、この道を通るために田原坂の岡を攻略する必要があったわけです。
あ、なるほど。大砲は下の谷底平野を通っていくんですね。
で、両側の尾根の取り合いが熾烈だったと。勉強になりました✏️
地元の近くですが夜は怖くてよー来れない場所です。
古戦場は福岡市内にも何ヵ所かありますよねー。
しかし、田舎あるある虫の塊。
ガキの頃はあれ自転車によく突っ込んでました😓
お、地元が近いのですね。夜は絶対に怖いです。
福岡市内の古戦場というと、元寇がらみとか、戦国時代のいざこざとかですかねー。
田舎あるあるの虫の塊、あれは何なんでしょうね笑
40年くらい前に大学の時、友人が深夜肝試しで田原坂に行って、車中で横になっていたときに鎧をかぶった武者の幽霊を見たと言っていました。
田原坂で肝試しは怖すぎですね😅️
見通しの悪い道なので、本当に何か出て来そうです。
農高(北稜高校)の近くにラーメン店あったんだ。
今度実家に帰ったときに寄ってみようかな。
玉名ラーメン、美味しかったですよ。
菊池川を挟んでの官軍と薩摩軍の戦いは地名から「高瀬の戦い」と呼ばれています。
北を目指していた薩摩軍は高瀬の戦いで敗れ、高瀬より南にある田原坂でとどめを刺されます。
高瀬の戦いの現場、実はつい最近見に行きまして。来週あたり、動画を出します。
この辺りの地形を見て回っていると、阿蘇の溶岩流が作った肥後台地と菊鹿盆地の中で、田原坂が重要な場所だったことがよくわかります。
それは楽しみに待っています。詳しく覚えていませんが、高瀬の戦いで西郷隆盛の兄弟も戦死したとか、高瀬にお墓というか石碑があったように記憶しています。
もう一つ思い出しました。
西南戦争が日本赤十字社設立のきっかけになったはずです。
馬上豊かな美少年とは15歳で戦死した束野 孝之丞とも他全員とも言われていますが、それだけ若い薩摩藩士が多数戦闘に参加していたという事なのかなあ。
そうですね、若者も総動員で戦ったということです。
大体、15歳ぐらいから元服していたと思いますので、最も若いのがそのぐらいの年代になるかと思います。
チャンネル登録しました。
ありがとうございます!
おもしろそぅうぅぅぅう!!!!!!!いいなぁww友達と一緒に心スポ行くのもあり
心霊スポットとはあまり思っていませんが、どうやら夜は怖いようですね。
ご近所迷惑&事故にならないようには気をつけて、行ってみるのも面白いかもしれません。
歴史はてんで覚える気がなかった自分はある時父にお前は何も知らないんだな~とつぶやき今はちょっとずずさぐっています。
僕も地理と歴史の選択では全て地理を選び続けてきたので、歴史にはとんでもなく疎いです。中学生レベルです。
ただ、あちこち行っていると歴史についても少しずつ知るようになりますよ。
田原坂はかなり幽霊が出る所で有名です
いかにも出そうな場所です。見通しも悪いのでめちゃくちゃ怖いですね。
でも遊びには行きますけど
不敬者めが!!
坂で戦争したわけではなくて坂の真上の台地で戦った説がでています。その台地に陣地跡や鉄砲の玉の後が発掘されている
谷を挟んで台地同士でドンパチしていたという話を聞きましたので、それで台地の上で色々出てくるのかなとも思いました。
昨日レンタルバイク借りて行きたかったですが、出来なかったんですが、田原坂に行ってきました!
娘の自由研究で来たのですが、西南戦争の事詳しく知りたくなって見てました!わかりやすくて面白かったです!
岐阜県から熊本に来てました!
岐阜からようこそお越しいただきました。
自由研究ですか。近くの菊鹿盆地とセットで回ると、阿蘇の火砕流の規模の大きさもわかり、とても面白いと思います。
※「菊鹿盆地」の動画をぜひご覧ください
弾痕は鹿児島の城山の石垣にはしっかりと無数に残ってますね^_^
鹿児島城山の弾痕は見たことがあります。西南戦争の激しさがよくわかります。
バイクだとあの虫の大群に突っ込みそう…。
間違いなく気づかず突っ込みますね!
飛んでヘルメットのシールドにぶつかる夏の虫です。
西南戦争最大の激戦地(田原坂)
激戦地になるのも分かるなあ、という地形ですね。
当時の大砲が1砲あります。
そういえば大砲は見なかった気がします。資料館?はコロナで閉まってました😅
あのさぁ!。戦いは勝負がつきものであります。どっちが勝ったのか?白黒はっきりつけてちょよ!何故解説しないのかなぁ。焦点ボケるのはなぜか!関が原はどっちが勝ったかは分かる。
西南戦争は有名なので説明不要と思っていました。すみません。
官軍が勝ち、薩摩軍(西郷隆盛)が負けます。
歴史にはあまり興味がなくて、この動画は、なぜここで激戦になったのか?地形かれ探っていくものです。