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国鉄が分割民営化されてすぐの高校の夏休みに大阪から「きたぐに」新潟から「いなほ」青森から青函連絡船に乗り継いで初めて北海道を訪れました。道内では夜行列車やライダーハウスを宿代わりにローカル線を乗りつぶしていました。憧れていた湧網線や広尾線、士幌線、羽幌線は直前に廃止されていて残念ながら間に合いませんでしたが、天北線や深名線、名寄本線そしてこの標津線などはしっかり乗ることができました。北海道らしさ満点の車窓風景の中を走る標津線は特に印象的でした。時は流れて一昨年、根室からレンタカーを走らせて旧奥行臼駅を訪問しました。ほぼ現役当時のまま保存された木造駅舎や駅構内に立ち、しばしタイムスリップ気分を味わったものです。この動画にも奥行臼駅が出てきますが、現役当時の奥行臼駅の様子がよくわかり改めて現在の保存状態の良さを再確認することができました。貴重な記録を残していただきありがとうございました。追伸。動画最後の地元の人に親切にしてもらった話は素敵ですね。実は私も天北線の浜頓別駅で降りてレンタサイクルでクッチャロ湖や原生花園を観光していたとき、よそ見をしていて道路脇に転落し顔面が血だらけになるほどの怪我をしたことがあります。偶然車で通りかかった地元の人が助けてくれ、携帯電話なんかまだ無い時代でしたからご自分の車で地元の病院まで運んでくれました。しかも治療が終わるまで待っていてくれて再び浜頓別駅まで送ってもらいました。お名前と住所を教えてくださるように何度もお願いしましたが笑いながら手を振り「大した怪我でなくて良かった。気を付けて帰りなさい」と列車に乗る私を見送ってくれました。そのときでかなり年配の方でしたから今はもうご存命ではないと思いますが、あの時に受けた親切は天北線の素晴らしい車窓とともに今でも忘れられません。この場を借りて改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
民営化前後は毎年北海道に行っていたのでどこかでお会いしているかもしれませんね。光進の駅の農家の方とのひと時も今考えると貴重だったと思えます。この頃は国鉄の駅でも駅事務所でお茶をいただくという事もありましたね。お楽しみいただきありがとうございます
西春別に住んでいました。とても懐かしいデス😊
ありがとうございます。地元の方に見てもらえると、より嬉しいです
以前にもコメントをしたか忘れてしまいましたが,20代前半に標津線を数回乗って根室標津駅で数時間待ち合いだに野付半島へ気ままに立ち寄ってました。懐かしい~標津線の車窓が見れて嬉しく思いました。ありがとうございました🤗
ありがとうございます。何度コメントいただいても嬉しいです
旅一郎さん。お久しぶりです。大阪在住の北海道の鉄道ファンです。この動画、また見させて頂きました。厚床から中標津へ。酪農日本一の別海町は、人間より牛の数の方が圧倒的。そんな別海町から、この春、甲子園のセンバツに別海高校が出場しました。結果は初戦敗退でしたが、酪農の町を全国に紹介出来ただけで、それだけで私的には満足。大阪在住の北海道ファンとしては
ありがとうございます。別海の高校が出るんですね。それは良かったです。何度も見ていただきありがとうございます。僕ももう一度見て当時を思い出しました
光進駅がとても懐かしいです。約55年前この電車で西春別小学校へ毎日通いました。
1dragonfly7 55年前というと昭和40年ですか!その時から気動車だったんですね
私ね、大阪人なんですが、中学2年の時、昭和38年でした。中標津から家庭の事情でM君と言うのが転校して来ました。ええ!北海道から大阪へ転校!?それも札幌とか函館とか、メジャー?な北海道ではなく、中標津!中標津って言う地名も初めて聞いたし、何処にあるのかも知らなった。やがて仲のいい友達となり、M君は事ある毎に中標津を自慢していました。牧場が多くて、牛乳が旨い!自然がいっぱい!M君の話を聞いていると、中標津と言う所に行ってみたいなぁ~と思っていました。中標津どころか、北海道自体行った事もなかった私。大阪からは遥かに遠い地。飛行機なんて当時、私ら庶民にはまだまだ高嶺の花。北海道行きは夢の中の夢でしたよ。高校へ進学した私は、学業もそこそこに、夢を叶える為に必死でアルバイトして、なんとか旅費を稼ぎました。飛行機までは手が届かなくて、列車を乗り継ぎ青森へ。青森から青函連絡船で北の大地へ。しかし函館から中標津はまだ遥かに遠く、丸一日かけてやっと中標津へ着いた時の感動感激は今でも忘れられません。そして乗ったのが標津線。大阪人である私にしてみれば、気動車が珍しくて、それも一両。もの珍しらしさに、いっぺんに気動車が好になり、夢の中標津が好きになった。長々とすんません。
服部良一 昭和38年の中学生が高校の時はまだ北海道は蒸気三昧だったことでしょうね。ダイヤ的には僕が行った昭和60年とさほど変わらないと思います(大きな違いは昭和57年の急行「きたぐに」が新潟止めになったことくらいかと。僕も初めての北海道は鈍行乗り継ぎで青森まで、そこかららは周遊券で特急「北海」と急行「天北」を乗り継ぎ稚内に行きました。中学だったのでそんなに疲れてなかったとおもいます
@@user-tabiichiro 中標津のM君との縁が元で、すっかり北海道と、北海道の列車が好きになった私。以来、隔年、北海道を訪ね、北海道の各路線を巡っています。60の還暦を迎えてからは、もう毎年です。今は関空からひとっ飛び。あの頃、大阪から遥かに遠い北海道が、今は新千歳まで2時間の距離。来年、宗谷本線の13駅が廃止となりますが、その前に訪ねておかないと…。
北海道の人は旅人に親切でしたよね標津線でおっちゃんに、うちに泊まるかって誘われてる人もいましたね
そんな話も聞きましたね。
標津線、1986年7月末に乗りました。前日の夜に根室駅付近の旧客を改造したライダーハウスで一泊し、厚床から標津線に乗り換えました。路線自体の印象よりも根室標津駅の駅舎が立派だったのを思い出します。駅の近くの北方領土資料館に寄り、望遠鏡で北方四島をのぞきましたがよく見えませんでした。釧網本線と同じく知床に近い路線だったのに廃止は惜しいと思います。
旧客のライダーハウスは何箇所かありましたね。富良野は500円だったように記憶しています。僕もどこかで泊まりましたが、釧路と思いこんていたのは根室だったかもしれません
自分、転勤族で中標津にいた事も有るのですが、中標津にいた時の趣味の一つが標津線跡の探訪でした。とても有難いです。有り難う御座います。
ありがとうございます😊、とりあえず撮れればいいや、くらいの考えで撮っていたので撮影が雑で申し訳ございません
貴重な映像を、ありがとうございました。Posted on January13, 2021.
ありがとうございます😊多くの人に見ていただけるのが何よりです。
旅一朗さん懐かしいです、何度も乗った路線です、厚床〜中標津は一日4往復で夏だけ片道一本臨時が有りました、たしか「尾岱沼観光号」当時の国内人口密度最低の別海町、1平方キロ14人広大なパイロットファームの中を進む路線でしたね、根室標津からバスで野付半島とか行ってました、客車が無いのに何度も乗ったのは尾岱沼名物の「北海しまえび」が好きでしたから、淡水の海老で痛みが早く地元しか食べれなかったから、特に夏前の生は、ボイルされた鮮やかな赤の「北海しまえび」も当時は周辺でしか食べれませんでしたから、今は道内なら冷凍のボイル「北海しまえび」は見かけますが近畿ではまず見ないですね、標茶側の路線は標茶〜泉川の1駅が異常に長く感じました、列車の半数が標茶〜釧路が急行でしたが、周遊券だから気にならなかったけど地元民にしたら連絡する普通列車も無く、乗り続けたら自動的に48㌔の短区間に急行料金が発生するから「ぼったくり列車」と思ってました、しかも急行「しれとこ」の標津線編成には急行型車は入らずキハ22でしたから、私は標津線でキハ40に乗った事は有りません全てキハ22でした、
長大4線のなかでは、天北線の次に好きな路線です。夏冬合わせて4回くらい乗ったと思います。廃線になる直前に映画「冬物語」(受験をテーマにした漫画が原作の映画で年代が同じだったので共感できた映画です)の舞台にもなりました。たぶん監督が鉄道ファンで、廃線直前に残したいとおもったのでしょう。途中から急行しれとこになるのもこの夏が最後でした。ぼったくり急行でしたね。
羽幌線動画からチャンネル登録させていただきました。根室標津駅。当時、なだれ式に廃止された国鉄末期の道内ローカル線の中では広尾線の広尾駅と並んで、鉄筋製の現代風の駅舎だったため、廃止後も解体されなかった駅の中では、長い間残るだろうと思っていたのですが、その10年後くらい、いつの間にか無くなっていました。昭和50年代の夏場などは、到着したキハ22から降りたカニ族が、駅前に停まっているトドワラ行きのバスに一斉に乗り込み、満員になるほどの栄華を誇っていたのですが。
カニ族の末期の頃によく夜行列車で仲良くなりました。あれだけ乗っていても、周遊券の分配に換算されないのか、おそらくは実数より少なくカウントされていたのではないか?と思います
タイムスリップしたくなります。袖振り合うも多生の縁が通じた時代ですね。しかしローカル線でもお客さんが居る生きた路線なのに。
決して鉄道ファンだけが乗っていたのではなのです。しっかりと地元客が映っていますね。
標津線、好きな路線でしたよ。アップダウンの直線が続く線路とか、厚床方面の何もない感が良かった。
ここも宗谷本線と同じく「最果て感」がありましたね
またまた貴重な映像をありがとうございます。まさに自分も旅している気分になりました。知床が世界遺産になり、もったいない廃線と思っていましたが、この保線状況を見ると生き残りも厳しかったのかな、とも思いました。このような青春時代を送った旅一郎さんが羨ましいです。
ありがとうございます。国鉄最後のダイヤ改正前に残った旧型客車とローカル線を追いかけ渡道した20日間の記録の一部です。夜行連泊で眠いなか何とか頑張って残しました。
見てて、思ったのですが、線路脇に、カーブでも標識類が少ないですね。
今はなんでも指示しているということなんですかね?
標津線のC11をターンテーブルで動かすってプラジェットアップされてました。末永く続けて欲しいです。
それは東武鉄道に行ったやつのですか?
@@user-tabiichiro maekarahozonsareteitayatudesu
@@user-tabiichiro 先日は失礼しました。 もともと保存されていた物ですね。東武へ行った蟹目はまだ鬼怒川で走ってます。
@@石井勉-l4z そうなんですね。
標茶−泉川間に多和仮乗降場というのがあった。ちょうど釧網本線と分かれてすぐの場所で道内時刻表によれば標茶方面7:44と根室標津方面13:35、15:34のみしか停まらなかった。特に13:35停車の列車は標茶まで急行しれとこ4号だった。
急行しれとこになる列車には乗った記憶があるので、止まってたんですかね
10m短尺レールの継ぎ目音が思う存分聞けますね。 以前、アニメ「サザエさん」の電車内でのシーンには、国電なのになぜかこの音が使われていましたね(笑) 今は違うようですけど。 厚床~奥行臼間の、まるでアフリカのサバンナを走っているような区間は、私も大好きな区間でした。 ありがとうございます。学生時代を思い出して懐かしいです。
タカハシエイサク 本当に原生林の中を走っていましたね。現代の写真動画を見ると、再び自然に戻っているのがわかりました。もう鉄道であったことは感じられないくらい
北海道の廃止された路線を見るたびに、ホントにすごいところに線路を敷いてしまったなぁ〜って感じですね。途中に人は住んでなくても、町と町を結んで通学のために必要とされていた路線だったんでしょうね。キハ22は私は高校生の時に函館に行った時にちょっとだけしか乗ることができなかったのでこういうローカル線で乗ってみたかったです!
ERENA・ほのぼの鉄道旅チャンネル 昔のように路線が多かった時は、街も活気があり、標茶なんて、町に思えたし、遠軽なんて大都会に感じたのですが、今行くと、あまりの寂れように愕然としますね。
ロングレールじゃないこのレール音。北海道に住んでますが、道内には至る所に鉄道の名残、特に橋梁などが朽ち果てて残ってますね。これからも廃止予定の路線が…
silverline 105 北海道はどんどん寂しくなりますね。ほんと、今のダイヤと路線網では、好きじゃないと行く事も難しいですね。
@@user-tabiichiro もう青春18切符などで道内を廻るのは無理ですよねー。特急がメインだし接続は悪いしで、道路の発達により高速バスに乗客を取られているか、自家用車の使用ですからね。
@@silverline1055 おっしゃるとおり北海道自ら鉄道ファンを締め出した感じです。
見渡す限りの原野ですね、標津線が開通した当時は自家用車なんて無かったと思いますが、地元の人は駅から自宅まで歩いていたのでしょうか・・・また後半の西春別・標茶間のアップダウンは圧巻です、写真などで見たことはありましたが、こうしてほぼノーカットで見せていただき感無量です。中学の卒業旅行で(初回の乗り鉄旅行)、天北・名寄含めて計画立てたのですが、同行した友人が北海道行きを許可されず、山陰・九州に変更になり、結局その1ヶ月後には廃止されてしまいました。この路線も、タッチの差で間に合わず残念な結果となりました。
MAT MAT 間に合わなかったとのことは残念でしたね。ユーチューブで現在の光進駅の様子をみたら、もう原生林に戻っていて、その中に橋桁のようなホームが残っていました。僕が撮影した時の線路やその脇の空間は何処へいってしまったのか、と思いました
保線状態かなり劣悪だったんだね。
レール自体が細いですね
国鉄が分割民営化されてすぐの高校の夏休みに大阪から「きたぐに」新潟から「いなほ」青森から青函連絡船に乗り継いで初めて北海道を訪れました。道内では夜行列車やライダーハウスを宿代わりにローカル線を乗りつぶしていました。
憧れていた湧網線や広尾線、士幌線、羽幌線は直前に廃止されていて残念ながら間に合いませんでしたが、天北線や深名線、名寄本線そしてこの標津線などはしっかり乗ることができました。北海道らしさ満点の車窓風景の中を走る標津線は特に印象的でした。
時は流れて一昨年、根室からレンタカーを走らせて旧奥行臼駅を訪問しました。ほぼ現役当時のまま保存された木造駅舎や駅構内に立ち、しばしタイムスリップ気分を味わったものです。この動画にも奥行臼駅が出てきますが、現役当時の奥行臼駅の様子がよくわかり改めて現在の保存状態の良さを再確認することができました。貴重な記録を残していただきありがとうございました。
追伸。動画最後の地元の人に親切にしてもらった話は素敵ですね。
実は私も天北線の浜頓別駅で降りてレンタサイクルでクッチャロ湖や原生花園を観光していたとき、よそ見をしていて道路脇に転落し顔面が血だらけになるほどの怪我をしたことがあります。
偶然車で通りかかった地元の人が助けてくれ、携帯電話なんかまだ無い時代でしたからご自分の車で地元の病院まで運んでくれました。しかも治療が終わるまで待っていてくれて再び浜頓別駅まで送ってもらいました。お名前と住所を教えてくださるように何度もお願いしましたが笑いながら手を振り「大した怪我でなくて良かった。気を付けて帰りなさい」と列車に乗る私を見送ってくれました。そのときでかなり年配の方でしたから今はもうご存命ではないと思いますが、あの時に受けた親切は天北線の素晴らしい車窓とともに今でも忘れられません。この場を借りて改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
民営化前後は毎年北海道に行っていたのでどこかでお会いしているかもしれませんね。
光進の駅の農家の方とのひと時も今考えると貴重だったと思えます。
この頃は国鉄の駅でも駅事務所でお茶をいただくという事もありましたね。
お楽しみいただきありがとうございます
西春別に住んでいました。とても懐かしいデス😊
ありがとうございます。
地元の方に見てもらえると、より嬉しいです
以前にもコメントをしたか忘れてしまいましたが,20代前半に標津線を数回乗って根室標津駅で数時間待ち合いだに野付半島へ気ままに立ち寄ってました。
懐かしい~標津線の車窓が見れて嬉しく思いました。
ありがとうございました🤗
ありがとうございます。何度コメントいただいても嬉しいです
旅一郎さん。
お久しぶりです。
大阪在住の北海道の鉄道ファンです。この動画、また見させて頂きました。
厚床から中標津へ。
酪農日本一の別海町は、人間より牛の数の方が圧倒的。
そんな別海町から、この春、甲子園のセンバツに
別海高校が出場しました。
結果は初戦敗退でしたが、酪農の町を全国に紹介出来ただけで、それだけで私的には満足。
大阪在住の北海道ファンとしては
ありがとうございます。
別海の高校が出るんですね。それは良かったです。
何度も見ていただきありがとうございます。
僕ももう一度見て当時を思い出しました
光進駅がとても懐かしいです。約55年前この電車で西春別小学校へ毎日通いました。
1dragonfly7 55年前というと昭和40年ですか!その時から気動車だったんですね
私ね、大阪人なんですが、中学2年の時、昭和38年でした。中標津から家庭の事情でM君と言うのが転校して来ました。
ええ!北海道から大阪へ転校!?
それも札幌とか函館とか、メジャー?な北海道ではなく、中標津!
中標津って言う地名も初めて聞いたし、何処にあるのかも知らなった。やがて仲のいい友達となり、M君は事ある毎に中標津を自慢していました。
牧場が多くて、牛乳が旨い!自然がいっぱい!M君の話を聞いていると、中標津と言う所に行ってみたいなぁ~と思っていました。中標津どころか、北海道自体行った事もなかった私。
大阪からは遥かに遠い地。
飛行機なんて当時、私ら庶民にはまだまだ高嶺の花。北海道行きは夢の中の夢でしたよ。
高校へ進学した私は、学業もそこそこに、夢を叶える為に必死でアルバイトして、なんとか旅費を稼ぎました。飛行機までは手が届かなくて、列車を乗り継ぎ青森へ。青森から青函連絡船で北の大地へ。しかし函館から中標津はまだ遥かに遠く、丸一日かけてやっと中標津へ着いた時の感動感激は今でも忘れられません。
そして乗ったのが標津線。大阪人である私にしてみれば、気動車が珍しくて、それも一両。もの珍しらしさに、いっぺんに気動車が好になり、夢の中標津が好きになった。長々とすんません。
服部良一 昭和38年の中学生が高校の時はまだ北海道は蒸気三昧だったことでしょうね。ダイヤ的には僕が行った昭和60年とさほど変わらないと思います(大きな違いは昭和57年の急行「きたぐに」が新潟止めになったことくらいかと。
僕も初めての北海道は鈍行乗り継ぎで青森まで、そこかららは周遊券で特急「北海」と急行「天北」を乗り継ぎ稚内に行きました。
中学だったのでそんなに疲れてなかったとおもいます
@@user-tabiichiro 中標津のM君との縁が元で、すっかり北海道と、北海道の列車が好きになった私。
以来、隔年、北海道を訪ね、北海道の各路線を巡っています。
60の還暦を迎えてからは、もう毎年です。今は関空からひとっ飛び。
あの頃、大阪から遥かに遠い北海道が、今は新千歳まで2時間の距離。
来年、宗谷本線の13駅が廃止となりますが、その前に訪ねておかないと…。
北海道の人は旅人に親切でしたよね
標津線でおっちゃんに、うちに泊まるかって誘われてる人もいましたね
そんな話も聞きましたね。
標津線、1986年7月末に乗りました。前日の夜に根室駅付近の旧客を改造したライダーハウスで一泊し、厚床から標津線に乗り換えました。路線自体の印象よりも根室標津駅の駅舎が立派だったのを思い出します。駅の近くの北方領土資料館に寄り、望遠鏡で北方四島をのぞきましたがよく見えませんでした。釧網本線と同じく知床に近い路線だったのに廃止は惜しいと思います。
旧客のライダーハウスは何箇所かありましたね。
富良野は500円だったように記憶しています。僕もどこかで泊まりましたが、釧路と思いこんていたのは根室だったかもしれません
自分、転勤族で中標津にいた事も有るのですが、中標津にいた時の趣味の一つが標津線跡の探訪でした。とても有難いです。有り難う御座います。
ありがとうございます😊、とりあえず撮れればいいや、くらいの考えで撮っていたので撮影が雑で申し訳ございません
貴重な映像を、ありがとうございました。Posted on January13, 2021.
ありがとうございます😊
多くの人に見ていただけるのが何よりです。
旅一朗さん
懐かしいです、何度も乗った路線です、厚床〜中標津は一日4往復で夏だけ片道一本臨時が有りました、たしか「尾岱沼観光号」
当時の国内人口密度最低の
別海町、1平方キロ14人
広大なパイロットファームの中を進む路線でしたね、根室標津からバスで
野付半島とか行ってました、
客車が無いのに何度も乗ったのは
尾岱沼名物の「北海しまえび」が
好きでしたから、淡水の海老で痛みが早く地元しか食べれなかったから、特に夏前の生は、ボイルされた鮮やかな赤の「北海しまえび」も当時は周辺でしか食べれませんでしたから、今は道内なら冷凍の
ボイル「北海しまえび」は見かけますが近畿ではまず見ないですね、
標茶側の路線は標茶〜泉川の1駅が異常に長く感じました、
列車の半数が標茶〜釧路が急行でしたが、周遊券だから気にならなかったけど地元民にしたら連絡する普通列車も無く、乗り続けたら自動的に48㌔の短区間に急行料金が発生するから「ぼったくり列車」と思ってました、しかも急行「しれとこ」の標津線編成には
急行型車は入らずキハ22でしたから、私は標津線でキハ40に乗った事は有りません全てキハ22でした、
長大4線のなかでは、天北線の次に好きな路線です。
夏冬合わせて4回くらい乗ったと思います。
廃線になる直前に映画「冬物語」(受験をテーマにした漫画が原作の映画で年代が同じだったので共感できた映画です)の舞台にもなりました。たぶん監督が鉄道ファンで、廃線直前に残したいとおもったのでしょう。
途中から急行しれとこになるのもこの夏が最後でした。ぼったくり急行でしたね。
羽幌線動画からチャンネル登録させていただきました。根室標津駅。当時、なだれ式に廃止された国鉄末期の道内ローカル線の中では広尾線の広尾駅と並んで、鉄筋製の現代風の駅舎だったため、廃止後も解体されなかった駅の中では、長い間残るだろうと思っていたのですが、その10年後くらい、いつの間にか無くなっていました。昭和50年代の夏場などは、到着したキハ22から降りたカニ族が、駅前に停まっているトドワラ行きのバスに一斉に乗り込み、満員になるほどの栄華を誇っていたのですが。
カニ族の末期の頃によく夜行列車で仲良くなりました。
あれだけ乗っていても、周遊券の分配に換算されないのか、おそらくは実数より少なくカウントされていたのではないか?と思います
タイムスリップしたくなります。
袖振り合うも多生の縁が通じた時代ですね。
しかしローカル線でもお客さんが居る生きた路線なのに。
決して鉄道ファンだけが乗っていたのではなのです。
しっかりと地元客が映っていますね。
標津線、好きな路線でしたよ。
アップダウンの直線が続く線路とか、厚床方面の何もない感が良かった。
ここも
宗谷本線と同じく「最果て感」がありましたね
またまた貴重な映像をありがとうございます。まさに自分も旅している気分になりました。知床が世界遺産になり、もったいない廃線と思っていましたが、この保線状況を見ると生き残りも厳しかったのかな、とも思いました。
このような青春時代を送った旅一郎さんが羨ましいです。
ありがとうございます。
国鉄最後のダイヤ改正前に残った旧型客車とローカル線を追いかけ渡道した20日間の記録の一部です。
夜行連泊で眠いなか何とか頑張って残しました。
見てて、思ったのですが、線路脇に、カーブでも標識類が少ないですね。
今はなんでも指示しているということなんですかね?
標津線のC11をターンテーブルで動かすってプラジェットアップされてました。末永く続けて欲しいです。
それは東武鉄道に行ったやつのですか?
@@user-tabiichiro maekarahozonsareteitayatudesu
@@user-tabiichiro 先日は失礼しました。 もともと保存されていた物ですね。東武へ行った蟹目はまだ鬼怒川で走ってます。
@@石井勉-l4z そうなんですね。
標茶−泉川間に多和仮乗降場というのがあった。ちょうど釧網本線と分かれてすぐの場所で道内時刻表によれば標茶方面7:44と根室標津方面13:35、15:34のみしか停まらなかった。特に13:35停車の列車は標茶まで急行しれとこ4号だった。
急行しれとこになる列車には乗った記憶があるので、止まってたんですかね
10m短尺レールの継ぎ目音が思う存分聞けますね。 以前、アニメ「サザエさん」の電車内でのシーンには、国電なのになぜかこの音が使われていましたね(笑) 今は違うようですけど。 厚床~奥行臼間の、まるでアフリカのサバンナを走っているような区間は、私も大好きな区間でした。 ありがとうございます。学生時代を思い出して懐かしいです。
タカハシエイサク 本当に原生林の中を走っていましたね。
現代の写真動画を見ると、再び自然に戻っているのがわかりました。
もう鉄道であったことは感じられないくらい
北海道の廃止された路線を見るたびに、
ホントにすごいところに線路を敷いてしまったなぁ〜って感じですね。
途中に人は住んでなくても、町と町を結んで通学のために必要とされていた路線だったんでしょうね。
キハ22は私は高校生の時に函館に行った時に
ちょっとだけしか乗ることができなかったので
こういうローカル線で乗ってみたかったです!
ERENA・ほのぼの鉄道旅チャンネル
昔のように路線が多かった時は、街も活気があり、標茶なんて、町に思えたし、遠軽なんて大都会に感じたのですが、
今行くと、あまりの寂れように愕然としますね。
ロングレールじゃないこのレール音。
北海道に住んでますが、道内には至る所に鉄道の名残、特に橋梁などが朽ち果てて残ってますね。これからも廃止予定の路線が…
silverline 105 北海道はどんどん寂しくなりますね。
ほんと、今のダイヤと路線網では、好きじゃないと行く事も難しいですね。
@@user-tabiichiro
もう青春18切符などで道内を廻るのは無理ですよねー。特急がメインだし接続は悪いしで、道路の発達により高速バスに乗客を取られているか、自家用車の使用ですからね。
@@silverline1055 おっしゃるとおり
北海道自ら鉄道ファンを締め出した感じです。
見渡す限りの原野ですね、標津線が開通した当時は自家用車なんて無かったと思いますが、地元の人は駅から自宅まで歩いていたのでしょうか・・・また後半の西春別・標茶間のアップダウンは圧巻です、写真などで見たことはありましたが、こうしてほぼノーカットで見せていただき感無量です。中学の卒業旅行で(初回の乗り鉄旅行)、天北・名寄含めて計画立てたのですが、同行した友人が北海道行きを許可されず、山陰・九州に変更になり、結局その1ヶ月後には廃止されてしまいました。この路線も、タッチの差で間に合わず残念な結果となりました。
MAT MAT 間に合わなかったとのことは残念でしたね。
ユーチューブで現在の光進駅の様子をみたら、もう原生林に戻っていて、その中に橋桁のようなホームが残っていました。
僕が撮影した時の線路やその脇の空間は何処へいってしまったのか、と思いました
保線状態かなり劣悪だったんだね。
レール自体が細いですね