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原始仏教は、やっぱり、美しいですね。宗教とは遠い、完璧な現世における幸福論であり、実践哲学。ゆえに、心身において忍耐力があって、知的水準の高い人にしか適用できず、それゆえ、その後、まったく違った方向の宗教としての歩みとなり、広まっていったのでしょう。
本当に美しい!
生き方の哲学みたいなものだからね。大衆受けする為にビジネス化していってしまった
インド哲学シリーズ、たくさんの情報をコンパクトに分かりやすく動画でまとめてくださってとても助かりました…ありがとうございます!!
これを待ってました!
四諦について補足しておきます。パーリ語のテキストに基づく苦諦(苦聖諦)は、“苦という確実なもの”、すなわち「苦しみが存在するという真理」のことです。同様に集諦(集聖諦)は“苦の原因として確実なもの”、すなわち「苦しみには因が存在するという真理」のことです。滅諦(滅聖諦)は“苦の滅尽として確実なもの”、すなわち「苦しみの止滅が存在するという真理」。道諦(道聖諦)は“苦の滅尽に至る道として確実なもの”、すなわち「苦しみの止滅に至る実践の道が存在するという真理」のことです。動画中で表示されている説明は、日本仏教の伝統的な解釈に依拠しているのでしょう。
「苦」という結果「集」という原因苦の「滅」という結果苦の滅の原因である「道」ですね。
ありがとうございます。よく数分でまとめましたね、本の目次に目を通させてもらった感じです。
釈迦のあらゆる根源への観察力すごい
こういうチャンネル大切よ
幼なじみの僧侶の友人が僕のやっている仏教は似せもの。私のやっている仏教も似せものと言うので、真実の仏教図書を持ってくる様、お願いしたところ、中村 元さんの「原始仏教」と増谷文雄さんの「阿含経」の本をもって来てくれました🌸 友に感謝です。
とても分かりやすかったです。ありがとうございます。
早口との意見もありますが、私は心地良いです
わかります!逆にほとんどの動画はゆったりすぎる
釈迦が否定した苦行とは、当時の伝承だった、断食を何日も継続する、煙の中に顔を突っ込む、肉体を打つ、崖から飛び降りるというようなものですね。牛糞を食うというものまであったようです。修行時代の釈迦は、それを誰よりも激烈に行なったとされますね。そうやって、それは悟りの役に立たないと知ったということでしょう。
修行して悟りの境地に至りたいという思いも欲であり執着なので煩悩つまり苦の原因なのです
仏教もインドにおけるさまざまな思想的蓄積の中で出てきたものだということがわかります。ただ、たしかに思想内容はバランスがとれているように思えますが、なぜここまで広まったのかは疑問が残ります。
😊😊
道元の「有時」とハイデッガーの時間をやってほしいです!!
無記とは、釈迦はあの時からもう、ヴィトゲンシュタインの論考のようなものにたどり着いたのではないだろうか
本当に勉強になります🙏
仏教とどう向き合うかは、その人の力量により決まると思います。
釈迦は苦行を否定したとされますが、その苦行の概念がインドと現代日本人には違いがありますね。釈迦が説いた悟るための修行法は、全てを捨てて出家して、食事は托鉢で得て、1日1食で、しかも多く食べてはならないというものでした。そして性欲を始め徹底した禁欲を課しています。酒はもちろん歌舞音曲を楽しむのも駄目です。多く眠ってもならず、そうやって瞑想に専念するというものです。それは現代人の感覚では、まさに苦行ですよね。
シェアさせていただきます。
宗教色が薄い 純粋に原始仏教を解説した書物などあれば 主様のオススメの本を教えて欲しい
本日もありがとうございます。😌
哲学とは人々が感銘を受ける部分ですよね😁苦行からだけではなく自分自身の経験などによって得た人生観.世界観.全体を貫く理念(物事が、どうあるべきかについての根本的な考え方)など人生の意義、目的、価値、生き方についての🤭思想🔑ですから
浄土真宗では、死後の世界しか語りません。現生を如何に生きるかと言うことについては何も語りません。原始仏教にとても惹かれます。
不勉強ですが、親鸞はただただ末法の世の人々の魂の救済を望んだでしょうね。誰もが出来る念仏で救われる、その恩に報いる。感謝して生きなさいと言う事だと理解しています。八正道...何パーセントの人が出来るのでしょうか。
親鸞死後の世界なんて言ってませんよ?もう少し勉強しましょう。
ちゃんとした浄土真宗を聴かれれば誤解は解けると思います。
私が学んだ阿満利麿先生によれば、「阿弥陀仏の名さえ称えれば、如何なる人間でも浄土(阿弥陀仏がつくった仏土)に生まれる、ということを信じて、念仏さえすればよいのであり、それ以外の前提や条件はない」、死後は仏が作った浄土=仏国に生まれ変わることだと言うことです。死んで浄土に生まれ変わることを信じて念仏を唱えるのが浄土真宗や浄土宗の教えではないのでしょうか?お教え願います。
@@福田邦夫99ふくだ浄土真宗は「平生業成」(へいぜいごうじょう)です。一「 現在ただ今、人生の大事業が完成する」ということです。肉体の死後、仏と成る(成仏)することが、今からハッキリ知らされる体験をいいます。念仏さえとなえておれば、成仏するのではありません。 また、生活の中で、縁起の法則に基づき善い行いをすれば、当然善い果報として、現在から救われる教えも浄土真宗であります。浄土真宗とは=仏教以外の何物でもありません。
一応、参考までに,,,,,, 下記を ~ リトル·ブッダ= 釈迦が「悟りを開く= ブッダ ; 釈迦仏になるまで」を映画化したものです 中道=ミドル·ウェイ( middle way ) という釈迦の教えの基本が感覚的に「何となく」でも解れば幸いです🍀,,,,, 釈迦の役を主演しているのは、キアヌ·リーブスという俳優です,~ 弦楽器で説明すると「弦をゆるめず、張り過ぎず」、良い音が出るように自分の心が調節された状態が「中道」です♪ ~ 返信 = レスコメントにURLを付けておきます
ua-cam.com/video/RC5J31kHcPc/v-deo.html
文庫本で出ている中村元先生訳の法句教等がブッダの言葉に近いと聞いているので、それらの言葉を道標とさせてもらってます。ブッダの言葉そのものではないのかも知れませんが、簡潔な詩句ながら洞察の深さに驚かされます。今に至る仏教はそれはそれで意義あると思いますが、およそ禅定とは異なる高揚感を煽る手法、呪文の類、戒律の軽視(剃髪すらしないお坊さんに覚悟とか求道心があるのかなー)は、仏教への誤解やカルト宗教の助長にしかならないと思い、ちょと残念ですね。
阿含経典の中にもバラモン教などの雑多なものが入り込んでいますね。ダンマパダやスッタニパータの中で、釈迦が信仰を厳しく排斥されているのは、快い驚きでした。
阿含経も90%は後々の増大であろうとみられています口伝でそれだけの量は不可能ですからね全て通読しましたが、仏陀自身の教えは非常に合理的で現代的な科学的思想なども含まれているものです
諸法無我であるなら、悟る事の出来る何がしかを設定する事に無理がありますね。
重要なご指摘ですね。少なくとも、ブッダが三法印のうち、諸法無我、sabbe dhamma anatta を説かれた形跡はありません。たしかにダンマパダ279詩にはあります。私は、全ての現象には実体がない、という意味にとっています。ブッダは、自己(=解脱した心)を実体=拠り所とせよ、と説かれています。ブッダは、常に清浄な心を重視されています。信仰心でさえ執着であり、清浄な心ではないのです。ーーー放浪の哲学者より
目から鱗が落ちた🙏
素晴らしくわかりやすい。お釈迦さんの思想だって間違っている部分があるかも知れない。諸行無常。何事も完全な哲学はないのに。何故、お釈迦さんは神格化されてしまうんだろう?
「自灯明 法灯明」 あるいは、「筏ののたとえ」 で語られていますね。
お釈迦さま自身は一人の人間であります。お釈迦様の見つけた宇宙の法則、真理こそが普遍で有り苦しみを除く事が出来る人類の宝です。これは思想ではなく、電気の様に発見されて伝えられたものです。初めて人類に分かりやすく説明したからお釈迦様の功績は凄いのです。
仏教では修行する比丘に布施する事は善行であり、善業となって果報をもたらすと考えられていますこれはブッダが現れる前から一般的だった宗教観を踏襲しており、托鉢による修行を可能にしましたですからブッダが現れる前から信仰対象とする文化があったと考えられますこのような御利益志向は俗人のものであり、ブッダが比丘に対して説いたものではなく、解脱を目指す修行者にあえて善業を積む動機はないでしょう
人が集まりやすいからじゃない?人間は純粋に概念のみを信仰することはできないと思う。法律も言ってしまえば人の正しい在り方を規定するものだけど、法律を信仰する人はいない。
@@nirvana5887まことに言い得て妙です。素晴らしい。
私が「原始仏教」が「宗教」でなく「哲学」というのはこの説明そのものです。私が考えてきたのと完全に合致します。これは孔子の「論語」と同じ「哲学」「道理」です。
義務教育の教科書で逸話みた記憶ある。裕福でお花畑天国のようなとこで苦を知らずにいた若者が壁の外に出たら、貧困や苦が溢れていて悟りを開く話。衝動じゃなくて正道は、花王すみだ事業場見学に行ったときに創業者さんの理念みて中身考えた。清浄not正常政情の意義とか。創業者の理念はもうどうでもいい的な株主総会方針に絶望。会社方針を応援する気ないから株式売って、単に昔の理念が残る商品だけ日和見で買う一般消費者になりたいのに、不公正市場だと投下資本回収できず、生活のために現金化したり、配当の良い投資にまわすことさえ許されない恐ろしい圧政になっている。
釈迦の哲学が変化して宗教として発展しなければ、現在の我々にまで仏教が伝わることもなく、いまこうしてその思想を知ることも出来なかっただろうと考えると、不思議ですね。
まさにそのとおりかもしれません。「阿弥陀さん」にすがれば極楽に行けるなんて道理が生まれなかった.仏陀はそれを望まれなかったとおもいます。逆にそれがあるから日の本に伝わった時思いますが.
日本に伝わった中国翻訳のサンスクリット語。これらの翻訳を成した三蔵法師の凄さが分かりますね。意味も言葉も日本に正確に伝わったからこそ、日本に仏教が根付いたのでしょうから。
頭が足りず、お釈迦さまの言うことが全く理解出来なくても、時間を伴う考えたり体験したりした内容は、語りで尽くせるものでは無い、というのはなんとなしにわかった気になれます少し前にあった法事で、~~(人)は心の中に生きていると念仏あげてくれた葬式仏教の坊さんが説教たれてくれたのですが、死後の邪魔しそうだし古仏教的にはどうなんでしょうか。人の心の中で解脱の修行をする他人、とか、何となく嫌な絵面です
それは実際に心の中に住み着いて生きているということではなくて、意識してようがしてまいが貴方の心に何かしらの影響を与えている、ということなのではないでしょうか?
ご相談よろしいでしょうか?
悟りは、チャンネル登録する事ですな👶
良くお経などを翻訳しようとすると「ご利益」が無くなると言われますが、釈迦の教えに従うとするならば翻訳してでも内容を理解する事がご利益に繋がるのでは?と思っていますがなぜ「ご利益が無くなる」のでしょうか?情報にアクセスしやすい現代社会であれば「悟」に近づく人も増えるのでは?
興味深いです。「色即是空は正しいが、空即是色はおかしいではないか」とテーラワーダはいいますよね。大乗仏教はこの問いになんと回答しているのでしょうか。この疑問を解いてほしいです。
色(物質)は空であり無常であり因縁生である。ということでしょ。壊れていくものをそれぞれの言葉で表現してあるだけ。それなのに空の言葉だけ取り上げて論じ始めたのがそもそもの間違い。『色は空である。』『色は無常である。』『色は壊れる。』色即是空、これで終わり。これ以上は蛇足である。必要ない。👋😞いらない。
無我の我は自己という意味ではなく、アートマンですね。
こんにちは。放浪中の哲学者です。私は、著書の中では非我=自分=心=アナッタン、我=自己=精神=アッタン=実体として使い分けています。失礼致しました。
すべては ハゲから始まった by 哀愁の哲学者 鹿児島県警本部長 野川ハゲ輝👍
原始仏教の解説、ありがとうございます。一つ疑問があります。それは、仏教には夥しい数の経典があります。これらを全て釈迦が説法したなどとは、到底考えられないのです。原始仏教からは、出て来ない経典が有り過ぎます。何故、お釈迦様がおっしゃたと言う説明のされ方が、されるのでしょうか?
ブッダが輪廻転生を肯定的にとらえていたとする何か根拠としているものがあるのですか。わたしはブッダは輪廻転生を否定的にとらえていたと考えています。それは「無我の思想」の根幹であると考えています。
ブッダが輪廻転生を肯定的にとらえていたとすれば、それは民間に悪い因果を減らし、良い因果を増やす根本原理となると考えたのではないでしょうかまたブッダは霊魂としての自我を否定したので(諸法無我)、今この瞬間も我は滅して生じてを繰り返しており、それも輪廻であるという解釈もありますそれは科学的にも説得力がありますちなみに科学は宇宙を解明しきれてないので輪廻転生を否定しきれません宇宙の外や超次元に生命があるかもしれないし、全てが超文明のスーパーコンピューターのシミュレーションである可能性すらあるでしょう
こんにちは。私は老いたる哲学者です。J.ゴンダや私の理解では、まさに十二因縁法こそ、釈迦が輪廻のメカニズムを明確に示された理法です。輪廻からの脱却(=解脱)の方法が八正道です。少なくとも 、此の老人は、両理法の実践に依って解脱したつもりです。私にとって、死は輝かしい扉である、と認識しています。
追伸、なお、十二因縁法の有(bhava)とは母胎に宿ることです。
なにもかも満たされていない時代に満たされてないほうがいいと説いたところまでに至るのすごくない?いやその環境だからこそ産まれるのかな学びとして芯を食うのはアンチであることこそが最前線なんちゃうかという疑問それが進化ちゃうかという
釈迦が今生きてたら現代の仏教徒を見てがっかりして新しい宗教作りそうですね
がっかりはするでしょうけど、新しい宗教は作らないでしょう
仏教の空ってよく分からんけど不可知論の一種なんかなぁ宇宙の真理って総ての前提概念だから、どんなに論理や理屈を立てても結局その論理や理屈の前提概念になってる宇宙の真理は説明できないよなぁ
愚見をお許しください。良い疑問であると思います。よく言われますように 、深いけれど簡単明瞭なブッダの理法が後に複雑怪奇なものに変質していきます。空も同様で、もともと数字の0の意味です。これは有ったものがなくなることです。後代の空(シュニャーター)は非我(アナッタン)が変質したもに過ぎないと理解しています。実体(サッテヤ)を完全否定するので、解脱の主体もないわけです。老人の戯言としてお笑いください。ーーー放浪の哲学者より。
仏教は哲学じゃないよ、真理だよ
無記についての誤解がありますので指摘します。釈迦が聞かれた事は、仏、如来の死後の事でした。なので、無記 返答しなかったこのことから釈迦は死後の事は分からいと考えたされていますが、人間の死後の記載は、多くの重要仏典に記載があります。そもそも、仏教を信じるという事は輪廻転生を信じる事から始まります。
輪廻転生という事実上の無限地獄がなければ、そもそも修行しようと決心しきれませんからね。現代の日本の価値観だと「死」という逃げ道が見出されてしまっているので、輪廻転生以外の動機では真理の追求、自己の人格陶冶、衆生弘済、社会への反骨心のような、ある種の殊勝な想いが無ければ、わざわざ仏教を行じませんからね。
仏教は宗教ではなく哲学ですよね。
こんにちは。そうですね。しかも、実践哲学です。
考え過ぎると不幸になるから、考えるのやめて美味しいもの食べて、温かいお風呂に浸かって、たまに美味しいお酒でも飲めば天国。庶民のささやかな楽しみまで悪にしないでほしい。
インドの宗派。
内容は大変素晴らしのですが、早口過ぎませんか?0.85倍で聞いて丁度いいくらいですよ。
私見を述べるなら、仏教は正に宗教でありそれ以外のなにものでもありません。そもそもどの様な宗教であれ哲学的思想を含有しているのは当然の事であります。オウム事件以降、仏教は宗教ではない哲学だという言説が流行っておりますが、仏教の宗教的な面を見ずして仏教そのものを理解する事は不可能でありましょう。仏教が哲学であり宗教ではないと言うなら、水面に映る幻影だけを見ているだけと言えましょう。
What is a religion? Religion is a concept made by Western Religions
@@biswaranjanmallick7407I totally agree with you. Thank you.
ブッダが自ら説いた教えを「文字にして残さなかったのは何故か」という謎の答えを仏教学者でさえ見つけることができないのです。そのことが、日本人の多くが「自らは仏教徒だ」と思っていても「ブッダが人々に何を教えようとしたのか」ということが理解できない原因なのです。そのことが理解できないかぎり「ブッダの教え」を知ることは絶対にできないのです。そのことが理解できたときに歴史の流れの中で大乗仏教(大衆仏教)が誕生したことは、やむを得ないことですが、大乗仏教の中にブッダの教えのエッセンスを発見しようとする試みが2000年もの長い間行われたにも関わらず、いまだに誰も達成できていないことを理解するべきです。そのことが理解できたときに、ブッダ自らが説いた教えを「文字にして残さなかった」謎の答えを知ることができるのです。そのことをもって、長い間続けられた「上座部仏教」と「大乗仏教(大衆仏教)」の論争に決着が付いて終止符が打たれたことになるのです。ここまで説明しても、まだ「わからない」という人のために説明すると大乗仏教は、ブッダの死後400年~500年頃にブッダの教えをもとに編纂されたもので、その編纂過程で多くの編集者の解釈が加えられて「ブッダが実際に解いた教えではないもの」を誕生させたことが、そもそもの「誤り」で、そのことが、人々がブッダの教えを知る機会を失う結果になったのです。この世に生きる人間が救われるためには「ブッダの教えそのものでなければならない」(ブッダの教えに直接触れる必要がある)ために勝手な解釈を加えることは「ブッダの教えを妨げる」ことになるために「救われるはずの人」が「救われない」ことになるのです。そのために膨大な量の大乗仏教の経典をすべて読み尽くしても「ブッダの教えを理解することはできない」のです。その理由は、ブッダの教えは、学校の教科書を読んで理解するようなものではないからです。ブッダの教えが、そのようなものであるならば、文字の読めない人は救われないことからも「大乗の教え」がブッダの教えではないことが理解できると思います。―ブッダの教えを理解した者より―
暗記させたほうが確実だから。文字にすると勝手に書きかえる輩が出てくる。スッタニパータという最古の経典にも、釈迦が生まれる以前からインドにある宗教的な教えが釈迦の教えだとして載っている。現在もどれが本当の釈迦の教えなのか?世界中の仏教学者達が調べている最中ですね。 いい加減な学者や坊主達が『これが釈迦の教えである。』と嘯いている。😄
大乗仏教を大衆部と混同してる時点で評価するに当たらない文章。昭和の仏教学の説から何もアップデートされてない。
救われる、とは具体的にどういうことか教えて頂けないでしょうか?
無理、無理、理解出来ませんね‼️🤡🤡🤡。🤪🤪🤪。💀💀💀( ̄▽ ̄;)あ。
今日本で多くの女性が性的搾取に苦しんでいます。彼女たちを救うためにどうか声を上げてください!
原始仏教は、やっぱり、美しいですね。宗教とは遠い、完璧な現世における幸福論であり、実践哲学。ゆえに、心身において忍耐力があって、知的水準の高い人にしか適用できず、それゆえ、その後、まったく違った方向の宗教としての歩みとなり、広まっていったのでしょう。
本当に美しい!
生き方の哲学みたいなものだからね。
大衆受けする為にビジネス化していってしまった
インド哲学シリーズ、たくさんの情報をコンパクトに分かりやすく動画でまとめてくださってとても助かりました…ありがとうございます!!
これを待ってました!
四諦について補足しておきます。
パーリ語のテキストに基づく苦諦(苦聖諦)は、“苦という確実なもの”、すなわち「苦しみが存在するという真理」のことです。
同様に集諦(集聖諦)は“苦の原因として確実なもの”、すなわち「苦しみには因が存在するという真理」のことです。
滅諦(滅聖諦)は“苦の滅尽として確実なもの”、すなわち「苦しみの止滅が存在するという真理」。
道諦(道聖諦)は“苦の滅尽に至る道として確実なもの”、すなわち「苦しみの止滅に至る実践の道が存在するという真理」のことです。
動画中で表示されている説明は、日本仏教の伝統的な解釈に依拠しているのでしょう。
「苦」という結果
「集」という原因
苦の「滅」という結果
苦の滅の原因である「道」
ですね。
ありがとうございます。よく数分でまとめましたね、本の目次に目を通させてもらった感じです。
釈迦のあらゆる根源への観察力すごい
こういうチャンネル大切よ
幼なじみの僧侶の友人が僕のやっている仏教は似せもの。私のやっている仏教も似せものと言うので、真実の仏教図書を持ってくる様、お願いしたところ、中村 元さんの「原始仏教」と増谷文雄さんの「阿含経」の本をもって来てくれました🌸
友に感謝です。
とても分かりやすかったです。ありがとうございます。
早口との意見もありますが、私は心地良いです
わかります!逆にほとんどの動画はゆったりすぎる
釈迦が否定した苦行とは、当時の伝承だった、断食を何日も継続する、煙の中に顔を突っ込む、肉体を打つ、崖から飛び降りるというようなものですね。牛糞を食うというものまであったようです。
修行時代の釈迦は、それを誰よりも激烈に行なったとされますね。そうやって、それは悟りの役に立たないと知ったということでしょう。
修行して悟りの境地に至りたいという思いも欲であり執着なので煩悩つまり苦の原因なのです
仏教もインドにおけるさまざまな思想的蓄積の中で出てきたものだということがわかります。
ただ、たしかに思想内容はバランスがとれているように思えますが、なぜここまで広まったのかは疑問が残ります。
😊😊
道元の「有時」とハイデッガーの時間をやってほしいです!!
無記とは、釈迦はあの時からもう、ヴィトゲンシュタインの論考のようなものにたどり着いたのではないだろうか
本当に勉強になります🙏
仏教とどう向き合うかは、その人の力量により決まると思います。
釈迦は苦行を否定したとされますが、その苦行の概念がインドと現代日本人には違いがありますね。
釈迦が説いた悟るための修行法は、全てを捨てて出家して、食事は托鉢で得て、1日1食で、しかも多く食べてはならないというものでした。
そして性欲を始め徹底した禁欲を課しています。酒はもちろん歌舞音曲を楽しむのも駄目です。
多く眠ってもならず、そうやって瞑想に専念するというものです。
それは現代人の感覚では、まさに苦行ですよね。
シェアさせていただきます。
宗教色が薄い 純粋に原始仏教を解説した書物などあれば 主様のオススメの本を教えて欲しい
本日もありがとうございます。😌
哲学とは人々が感銘を受ける部分ですよね😁苦行からだけではなく自分自身の経験などによって得た人生観.世界観.全体を貫く理念(物事が、どうあるべきかについての根本的な考え方)など人生の意義、目的、価値、生き方についての🤭思想🔑ですから
浄土真宗では、死後の世界しか語りません。現生を如何に生きるかと言うことについては何も語りません。原始仏教にとても惹かれます。
不勉強ですが、親鸞はただただ末法の世の人々の魂の救済を望んだでしょうね。誰もが出来る念仏で救われる、その恩に報いる。
感謝して生きなさいと言う事だと理解しています。
八正道...何パーセントの人が出来るのでしょうか。
親鸞死後の世界なんて言ってませんよ?もう少し勉強しましょう。
ちゃんとした浄土真宗を聴かれれば誤解は解けると思います。
私が学んだ阿満利麿先生によれば、「阿弥陀仏の名さえ称えれば、如何なる人間でも浄土(阿弥陀仏がつくった仏土)に生まれる、ということを信じて、念仏さえすればよいのであり、それ以外の前提や条件はない」、死後は仏が作った浄土=仏国に生まれ変わることだと言うことです。死んで浄土に生まれ変わることを信じて念仏を唱えるのが浄土真宗や浄土宗の教えではないのでしょうか?お教え願います。
@@福田邦夫99ふくだ
浄土真宗は「平生業成」(へいぜいごうじょう)です。一「 現在ただ今、人生の大事業が完成する」ということです。肉体の死後、仏と成る(成仏)することが、今からハッキリ知らされる体験をいいます。
念仏さえとなえておれば、成仏するのではありません。
また、生活の中で、縁起の法則に基づき善い行いをすれば、当然善い果報として、現在から救われる教えも浄土真宗であります。
浄土真宗とは=仏教以外の何物でもありません。
一応、参考までに,,,,,, 下記を
~ リトル·ブッダ= 釈迦が「悟りを開く= ブッダ ; 釈迦仏になるまで」を映画化したものです 中道=ミドル·ウェイ( middle way ) という釈迦の教えの基本が感覚的に「何となく」でも解れば幸いです🍀
,,,,, 釈迦の役を主演しているのは、キアヌ·リーブスという俳優です
,~ 弦楽器で説明すると「弦をゆるめず、張り過ぎず」、良い音が出るように自分の心が調節された状態が「中道」です♪
~ 返信 = レスコメントにURLを付けておきます
ua-cam.com/video/RC5J31kHcPc/v-deo.html
文庫本で出ている中村元先生訳の法句教等がブッダの言葉に近いと聞いているので、それらの言葉を道標とさせてもらってます。ブッダの言葉そのものではないのかも知れませんが、簡潔な詩句ながら洞察の深さに驚かされます。今に至る仏教はそれはそれで意義あると思いますが、およそ禅定とは異なる高揚感を煽る手法、呪文の類、戒律の軽視(剃髪すらしないお坊さんに覚悟とか求道心があるのかなー)は、仏教への誤解やカルト宗教の助長にしかならないと思い、ちょと残念ですね。
阿含経典の中にもバラモン教などの雑多なものが入り込んでいますね。ダンマパダやスッタニパータの中で、釈迦が信仰を厳しく排斥されているのは、快い驚きでした。
阿含経も90%は後々の増大であろうとみられています
口伝でそれだけの量は不可能ですからね
全て通読しましたが、仏陀自身の教えは非常に合理的で現代的な科学的思想なども含まれているものです
諸法無我であるなら、悟る事の出来る何がしかを設定する事に無理がありますね。
重要なご指摘ですね。少なくとも、ブッダが三法印のうち、諸法無我、sabbe dhamma anatta を説かれた形跡はありません。たしかにダンマパダ279詩にはあります。私は、全ての現象には実体がない、という意味にとっています。ブッダは、自己(=解脱した心)を実体=拠り所とせよ、と説かれています。ブッダは、常に清浄な心を重視されています。信仰心でさえ執着であり、清浄な心ではないのです。ーーー放浪の哲学者より
目から鱗が落ちた🙏
素晴らしくわかりやすい。お釈迦さんの思想だって間違っている部分があるかも知れない。諸行無常。何事も完全な哲学はないのに。何故、お釈迦さんは神格化されてしまうんだろう?
「自灯明 法灯明」 あるいは、「筏ののたとえ」 で語られていますね。
お釈迦さま自身は一人の人間であります。
お釈迦様の見つけた宇宙の法則、真理こそが普遍で有り苦しみを除く事が出来る人類の宝です。
これは思想ではなく、電気の様に発見されて伝えられたものです。
初めて人類に分かりやすく説明したからお釈迦様の功績は凄いのです。
仏教では修行する比丘に布施する事は善行であり、善業となって果報をもたらすと考えられています
これはブッダが現れる前から一般的だった宗教観を踏襲しており、托鉢による修行を可能にしました
ですからブッダが現れる前から信仰対象とする文化があったと考えられます
このような御利益志向は俗人のものであり、ブッダが比丘に対して説いたものではなく、解脱を目指す修行者にあえて善業を積む動機はないでしょう
人が集まりやすいからじゃない?人間は純粋に概念のみを信仰することはできないと思う。
法律も言ってしまえば人の正しい在り方を規定するものだけど、法律を信仰する人はいない。
@@nirvana5887まことに言い得て妙です。素晴らしい。
私が「原始仏教」が「宗教」でなく「哲学」というのはこの説明そのものです。私が考えてきたのと完全に合致します。これは孔子の「論語」と同じ「哲学」「道理」です。
義務教育の教科書で逸話みた記憶ある。
裕福でお花畑天国のようなとこで苦を知らずにいた若者が壁の外に出たら、貧困や苦が溢れていて悟りを開く話。
衝動じゃなくて正道は、花王すみだ事業場見学に行ったときに創業者さんの理念みて中身考えた。
清浄not正常政情の意義とか。
創業者の理念はもうどうでもいい的な株主総会方針に絶望。
会社方針を応援する気ないから株式売って、単に昔の理念が残る商品だけ日和見で買う一般消費者になりたいのに、不公正市場だと投下資本回収できず、生活のために現金化したり、配当の良い投資にまわすことさえ許されない恐ろしい圧政になっている。
釈迦の哲学が変化して宗教として発展しなければ、現在の我々にまで仏教が伝わることもなく、いまこうしてその思想を知ることも出来なかっただろうと考えると、不思議ですね。
まさにそのとおりかもしれません。「阿弥陀さん」にすがれば極楽に行けるなんて道理が生まれなかった.仏陀はそれを望まれなかったとおもいます。逆にそれがあるから日の本に伝わった時思いますが.
日本に伝わった中国翻訳のサンスクリット語。これらの翻訳を成した三蔵法師の凄さが分かりますね。
意味も言葉も日本に正確に伝わったからこそ、日本に仏教が根付いたのでしょうから。
頭が足りず、お釈迦さまの言うことが全く理解出来なくても、時間を伴う考えたり体験したりした内容は、語りで尽くせるものでは無い、というのはなんとなしにわかった気になれます
少し前にあった法事で、
~~(人)は心の中に生きている
と念仏あげてくれた葬式仏教の坊さんが説教たれてくれたのですが、死後の邪魔しそうだし古仏教的にはどうなんでしょうか。人の心の中で解脱の修行をする他人、とか、何となく嫌な絵面です
それは実際に心の中に住み着いて生きているということではなくて、意識してようがしてまいが貴方の心に何かしらの影響を与えている、ということなのではないでしょうか?
ご相談よろしいでしょうか?
悟りは、チャンネル登録する事ですな👶
良くお経などを翻訳しようとすると「ご利益」が無くなると言われますが、釈迦の教えに従うとするならば翻訳してでも内容を理解する事がご利益に繋がるのでは?と思っていますがなぜ「ご利益が無くなる」のでしょうか?
情報にアクセスしやすい現代社会であれば「悟」に近づく人も増えるのでは?
興味深いです。「色即是空は正しいが、空即是色はおかしいではないか」とテーラワーダはいいますよね。大乗仏教はこの問いになんと回答しているのでしょうか。この疑問を解いてほしいです。
色(物質)は空であり無常であり因縁生である。ということでしょ。壊れていくものをそれぞれの言葉で表現してあるだけ。それなのに空の言葉だけ取り上げて論じ始めたのがそもそもの間違い。
『色は空である。』『色は無常である。』『色は壊れる。』
色即是空、これで終わり。これ以上は蛇足である。必要ない。👋😞いらない。
無我の我は自己という意味ではなく、アートマンですね。
こんにちは。放浪中の哲学者です。私は、著書の中では非我=自分=心=アナッタン、我=自己=精神=アッタン=実体として使い分けています。失礼致しました。
すべては ハゲから始まった by 哀愁の哲学者 鹿児島県警本部長 野川ハゲ輝👍
原始仏教の解説、ありがとうございます。一つ疑問があります。それは、仏教には夥しい数の経典があります。これらを全て釈迦が説法したなどとは、到底考えられないのです。原始仏教からは、出て来ない経典が有り過ぎます。何故、お釈迦様がおっしゃたと言う説明のされ方が、されるのでしょうか?
ブッダが輪廻転生を肯定的にとらえていたとする何か根拠としているものがあるのですか。わたしはブッダは輪廻転生を否定的にとらえていたと考えています。それは「無我の思想」の根幹であると考えています。
ブッダが輪廻転生を肯定的にとらえていたとすれば、それは民間に悪い因果を減らし、良い因果を増やす根本原理となると考えたのではないでしょうか
またブッダは霊魂としての自我を否定したので(諸法無我)、今この瞬間も我は滅して生じてを繰り返しており、それも輪廻であるという解釈もあります
それは科学的にも説得力があります
ちなみに科学は宇宙を解明しきれてないので輪廻転生を否定しきれません
宇宙の外や超次元に生命があるかもしれないし、全てが超文明のスーパーコンピューターのシミュレーションである可能性すらあるでしょう
こんにちは。私は老いたる哲学者です。J.ゴンダや私の理解では、まさに十二因縁法こそ、釈迦が輪廻のメカニズムを明確に示された理法です。輪廻からの脱却(=解脱)の方法が八正道です。少なくとも 、此の老人は、両理法の実践に依って解脱したつもりです。私にとって、死は輝かしい扉である、と認識しています。
追伸、なお、十二因縁法の有(bhava)とは母胎に宿ることです。
なにもかも満たされていない時代に満たされてないほうがいいと説いたところまでに至るのすごくない?
いやその環境だからこそ産まれるのかな
学びとして芯を食うのはアンチであることこそが最前線なんちゃうかという疑問
それが進化ちゃうかという
釈迦が今生きてたら現代の仏教徒を見てがっかりして新しい宗教作りそうですね
がっかりはするでしょうけど、新しい宗教は作らないでしょう
仏教の空ってよく分からんけど不可知論の一種なんかなぁ
宇宙の真理って総ての前提概念だから、どんなに論理や理屈を立てても結局その論理や理屈の前提概念になってる宇宙の真理は説明できないよなぁ
愚見をお許しください。良い疑問であると思います。よく言われますように 、深いけれど簡単明瞭なブッダの理法が後に複雑怪奇なものに変質していきます。空も同様で、もともと数字の0の意味です。これは有ったものがなくなることです。後代の空(シュニャーター)は非我(アナッタン)が変質したもに過ぎないと理解しています。実体(サッテヤ)を完全否定するので、解脱の主体もないわけです。老人の戯言としてお笑いください。ーーー放浪の哲学者より。
仏教は哲学じゃないよ、真理だよ
無記についての誤解がありますので指摘します。
釈迦が聞かれた事は、仏、如来の死後の事でした。なので、無記 返答しなかった
このことから釈迦は死後の事は分からいと考えたされていますが、
人間の死後の記載は、多くの重要仏典に記載があります。
そもそも、仏教を信じるという事は輪廻転生を信じる事から始まります。
輪廻転生という事実上の無限地獄がなければ、そもそも修行しようと決心しきれませんからね。
現代の日本の価値観だと「死」という逃げ道が見出されてしまっているので、輪廻転生以外の動機では真理の追求、自己の人格陶冶、衆生弘済、社会への反骨心のような、ある種の殊勝な想いが無ければ、わざわざ仏教を行じませんからね。
仏教は宗教ではなく哲学ですよね。
こんにちは。そうですね。しかも、実践哲学です。
考え過ぎると不幸になるから、考えるのやめて美味しいもの食べて、温かいお風呂に浸かって、たまに美味しいお酒でも飲めば天国。
庶民のささやかな楽しみまで悪にしないでほしい。
インドの宗派。
内容は大変素晴らしのですが、早口過ぎませんか?
0.85倍で聞いて丁度いいくらいですよ。
私見を述べるなら、仏教は正に宗教でありそれ以外のなにものでもありません。そもそもどの様な宗教であれ哲学的思想を含有しているのは当然の事であります。オウム事件以降、仏教は宗教ではない哲学だという言説が流行っておりますが、仏教の宗教的な面を見ずして仏教そのものを理解する事は不可能でありましょう。仏教が哲学であり宗教ではないと言うなら、水面に映る幻影だけを見ているだけと言えましょう。
What is a religion? Religion is a concept made by Western Religions
@@biswaranjanmallick7407I totally agree with you. Thank you.
ブッダが自ら説いた教えを「文字にして残さなかったのは何故か」という謎の答えを仏教学者でさえ見つけることができないのです。そのことが、日本人の多くが「自らは仏教徒だ」と思っていても「ブッダが人々に何を教えようとしたのか」ということが理解できない原因なのです。
そのことが理解できないかぎり「ブッダの教え」を知ることは絶対にできないのです。そのことが理解できたときに歴史の流れの中で大乗仏教(大衆仏教)が誕生したことは、やむを得ないことですが、大乗仏教の中にブッダの教えのエッセンスを発見しようとする試みが2000年もの長い間行われたにも関わらず、いまだに誰も達成できていないことを理解するべきです。
そのことが理解できたときに、ブッダ自らが説いた教えを「文字にして残さなかった」謎の答えを知ることができるのです。そのことをもって、長い間続けられた「上座部仏教」と「大乗仏教(大衆仏教)」の論争に決着が付いて終止符が打たれたことになるのです。
ここまで説明しても、まだ「わからない」という人のために説明すると大乗仏教は、ブッダの死後400年~500年頃にブッダの教えをもとに編纂されたもので、その編纂過程で多くの編集者の解釈が加えられて「ブッダが実際に解いた教えではないもの」を誕生させたことが、そもそもの「誤り」で、そのことが、人々がブッダの教えを知る機会を失う結果になったのです。
この世に生きる人間が救われるためには「ブッダの教えそのものでなければならない」(ブッダの教えに直接触れる必要がある)ために勝手な解釈を加えることは「ブッダの教えを妨げる」ことになるために「救われるはずの人」が「救われない」ことになるのです。
そのために膨大な量の大乗仏教の経典をすべて読み尽くしても「ブッダの教えを理解することはできない」のです。その理由は、ブッダの教えは、学校の教科書を読んで理解するようなものではないからです。
ブッダの教えが、そのようなものであるならば、文字の読めない人は救われないことからも「大乗の教え」がブッダの教えではないことが理解できると思います。
―ブッダの教えを理解した者より―
暗記させたほうが確実だから。文字にすると勝手に書きかえる輩が出てくる。
スッタニパータという最古の経典にも、釈迦が生まれる以前からインドにある宗教的な教えが釈迦の教えだとして載っている。現在もどれが本当の釈迦の教えなのか?世界中の仏教学者達が調べている最中ですね。 いい加減な学者や坊主達が『これが釈迦の教えである。』と嘯いている。😄
大乗仏教を大衆部と混同してる時点で評価するに当たらない文章。
昭和の仏教学の説から何もアップデートされてない。
救われる、とは具体的にどういうことか教えて頂けないでしょうか?
無理、無理、理解出来ませんね‼️🤡🤡🤡。🤪🤪🤪。💀💀💀( ̄▽ ̄;)あ。
今日本で多くの女性が性的搾取に苦しんでいます。彼女たちを救うためにどうか声を上げてください!