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自分を含めて、世の中の全てを客観的に俯瞰して眺める事。理屈は解るが瞑想をしてみると実践は・・・難しい。すぐに頭の中がモンキーマインドになってしまう。しかし、「あっ またモンキーマインドになっている」と気づける様になったのは成長なのかなと思っている。
まさに私のツボのお話し。それを懇切丁寧にしてくださって、とても嬉しく古舘さんのファンになってしまいました。ありかとうございます。これからも引き続き、このお話し聞かせてくださいね。
無我という境地を垣間見、誠実な自我を持ちつつより良い社会への希望に関わって行くことが良い生き方だと思うのですが、古舘さんの人間としてのよい生き方を言語化していただきたいです。
子供が生まれて、言葉を覚えて、大人が自分の事を名前で呼ぶのを聞いて、自分も自分を名前で呼ぶ様になる。大人から「自分の事は私」「僕」と呼ぶんだよと教えられて、それからは、自分の事は私と呼ぶ様になる。そして私の誕生となる訳です。哲学的にはこんな流れのようです。
古舘さんのおっしゃる事を考えると、悟りとは、気づきだとあらためて感じる。人からどう見られてるか気にするのは、どんな素晴らしい人間であっても、傲慢が常に人に付いて回るから。僕は自我に囚われる時 それに気づき、瞑想によってバランスを整えています。執着を徐々に捨てると心が軽くなり、囚われが少なくなるように思います。諸法無我は、頭で知るものではないのかもしれないですね。今回も、ありがとうございました😌
ほんとこのシリーズ続けて下さい!楽しみにしております♪
聞き役、質問役の2人が若すぎて、口調の尖具合が若すぎて、きっと、古館さんのおっしゃることを理解できるのは先だと思います。それでも、古館さんと話すことで、劇的に成長出来る。いつか、感謝する日が来るよと2人に伝えたい。本当に、恵まれていますよ
古舘さんから 仏教の教えを聞くなんて 思ってもなかったです😮 同い年なのに やっぱすごいなぁ〜🙏
面白いですね。若い二人のスタッフの質問内容が後半になるにつれて次第に真理を突き始め、オダさんの「無我が真理ならば、なぜ自我が生まれたのか」や「ことばが生まれた故に自我が生まれたと思いますか」の質問に「おぉ!キター!」と笑顔になってしまいました。こういう若者が居ればこの先もこの国は大丈夫だと安心します。現代科学の素粒子や量子を研究している学者さんによると、究極に小さい粒子世界では観測すると(人間の目で見ると)そこに「粒」として物体が現れるが、観測する前は雲のようなモヤになっていて実態がないという事が事実として解っているそうです。2500年前に釈迦がそれに気づいていたような言葉を残しているのは「全くの偶然」と思いますが少し不思議な気もしますね。
率直な質問に答えられるという形式が良かったです。自我があるからこそ人間は悩み苦しむということを知っていることがまず大切だと理解しました。
この世は空で全てフィクションだから人を自分の思い通りにしようとしなければ悩みは無くなる。
古舘伊知郎さんの動画が縁になって仏法に興味持つ人、仏法を勉強し始める人がいるでしょうね😃
古舘さんのお話はもちろんですが、おださんとくどうさんの質問が素晴らし過ぎて感動しております。
2024年10月30日(水曜日☁15時27分)古舘伊知郎さん本日も貴重な大切な諸法自我の教えを頂き誠に成りましたありがとう御座いました。仏法は聴聞に極まる😊✌🙏🛕
中々難しいですね。釈迦は凄いですね。人間は欲が有りますね。次回も楽しみにしてますね。色んな意味で勉強になりますね。全然知りませんでした。空海とか何となく観てました。又教えをお願いします。
無我。わからなくて良いんだ、知ってるだけで良いと、涙が出ました。
昔から、釈迦の悟りに興味がありました。諸行無常、一切皆苦、涅槃寂静はなんとはなしに理解できそうですが、諸法無我だけは何回見聞きしてもしっくりこない部分がありました。古舘さんのお話を聞くにつけ、原始仏教とは科学的を突き詰めた理屈のようにも思えてきました。遺伝情報を次代に託すのが一つの使命ならば、その乗り物である我々人間は、周囲との関係性により自然となるべくしてなるようになっているのかも知れません。あと、釈迦は一旦悟りを開いたが、その後は人間釈迦として、何度も悟りを振り返ろうとしていたとの解釈は目から鱗で、そのとおりだったように思えました。原始仏教はあらゆるものの恐怖や苦難を和らげてくれるものだという点で、全く同感です。いかなる人も死をはじめとした苦難から逃れることはできない。だからこそこの瞬間を全力で生きるのでしょう。あのよく見知った古舘さんが同じように興味を持ってらっしゃったことに親近感を感じました😊
ここ数年、原始仏教について興味を持っています。古舘さんのおすすめの原始仏教、初期仏教本などありましたら教えていただけないでしょうか?
僕も、苦しみから逃れたくて、仏教に興味を持ちました!
面白いっすねー❤自我と無我人間(人生)時間と宇宙時間無いようで有り、有るようで無いエネルギー保存、エントロピー増大、そして絶対零度
古舘さんは深く考えて見つめてますね
40年前に増谷文雄著の原始仏典阿含経教典を熟読したのですが、貴殿のお話しには復習にもなり大変学びにもなります。
ありがとうございます!夏の怪談ではないけど、そんな雰囲気で楽しい。今日もフル自我発揮!今日は深く眠って無我の中で体を休めます。メラトニンにお願い頼む電源OFFって!俺は自我を愛している無我だとすべてはみんな同じだが、なぜだろう、同じ自我などない。教育は自我に向けてだと思うが、同じ自我は形成されない。凄いなあ
わたしは医療に携わっています。マインドフルネスから、釈迦に大変興味が湧きました。まさか、古舘さんがずっと釈迦を推していたなんて、大変失礼ですが、見直しました、すみません🙇♀️
釈迦の教えは この世界が仮想現実だと考えると説明がつくと思っている。
古館さんのご見解は大変参考になります。次回の生老病死の際にぜひ伺いたいことがあります。釈迦の説くように愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊取蘊、まさに人生は一切皆苦ですが、だからこそ何ものにも執着することなく我々の目を曇らせる色受想行識全てから自由になることで、苦しみから解き放たれることができるというのはすごく分かります。が、日々の生活は変わることなく、会社のトップは相変わらずサラリーマンに目に見える成果を求め、無茶な顧客要求に応え、勝てそうもないコンペティタに勝つことを強要します。ありのままに生き、変化の全てを抗うことなく受け入れ、成果だけを求めずに穏やかに争うことなく行きましょう、と上司に言ったら、会社をやめるかお前?と言われるでしょう…。俗世ではこうしたしがらみからは逃れられないので、釈迦は出家することを勧め自らも妻子や国を捨てる覚悟で出奔したわけですが、ほとんどの人はそこまでの覚悟を持つことが出来そうにないように思えます…。家族を食わせていくことが生きる目的のようなものですし…。我々を苦しめ続ける色受想行識全てから自由になる一番手っ取り早い方法は自ら命を絶つことですが、仏教ではカトリックほど自さつに厳しくないですけど、それが答えとは考えていないようにも思えます。大乗仏教の浄土真宗では、末法濁世の衆生は煩悩具足の凡夫であり、自らの力ではいかなる善も完遂しえないとして他力(阿弥陀如来の本願力)によってのみ救済されるとしていますが(キリスト教っぽいですけど)、如来や菩薩は時間の感覚が我々と違うので(弥勒菩薩が悟りを開いて衆生を救済するのは56億7千万年後ですし)あんまり救いにならない気がします。ぜひ、次回の動画では、現代社会に生きる我々にとっての救いとは何かについて、詳しくお考えを伺えたら大変嬉しいです。
無とは、空っぽという意味ではなくいかなる場合でも、冷静で心が揺れ動かないことではないでしょうか。
大乗の解釈や伝え方ならもっと伝わるかもしれないけれど、釈迦牟尼の教えを純粋に伝えるのは相当難しいからな。
嫌な言い方になるかもしれないが、釈迦が発明した生きやすい考え方かなと思う。
発明→発見では。観察、分析の結果のメソッドですから。地球は球形も観察発見からで。頭で考えただけではないかと。
生きている限り常に何かしらの関係があるから自我が消えることは無いってことですね
近年、自己肯定感が注目されていますが、自分を肯定するのも自我なんですよね我を張って自己肯定のハードルを高くすると逆に自己否定感を強める羽目になりますそこに虚勢の自分を作って自己肯定しようとすれば、さらに複雑で安らぎのない状態になり、現実にもバイアスを持ちやすくなるでしょうこれは多くの人に関係する問題だと思います
この観察自我(オブザービンクエゴ)を持ってる人は100人に1人といわれてます。これからも古舘さんの思慮があれば自分の自我のあり方に落ち着くでしょうね。私は余命2年の身体ですが、そのお陰かこの世が、或は自分の自我が統合し始めました。古舘さんも黙っているときは、強烈に自分を見つめるタイプだと昔からおもっていました。これからも急ぎすぎずに自己を見つめ続けてください。また発信もどをどん続けてください!応援してます!
有難う御座いました。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
こんちは阿弥陀。
あみだぶつは10劫修行した。嘘の世界。それを何百万の人が信仰している。😂
イッコウは何年ですか❗️そこから嘘の世界🎉
@@千葉正-l6p 一劫かな?だとしたら当時のインドで流行ってたの時間単位であって、仏教とはなんの関係もない。
このシリーズ好きです。
〈余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬ事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった。〉 ー正岡子規、死の直前の言葉ー・・・
待ってました!
自我の自覚から始めてみようと思います。
無我夢中で生きる
言葉は世界の母と老子もいっていますね。母をどう捉えるのかは、皆様次第です。私は礎と捉えます。
無我になるのは本当に難しいなとおもいますが、でも無我に近づくと心が楽になるのは事実です。私も先日無我になる事によって楽になる体験をしました。話すと長くなるので省略しますが、一度でも体験すると信じれるようになると思います。
古舘伊知郎さん工藤さんおださんスタッフさん.ありがとうございます。
脳が大きくなり過ぎた😅この世の中成るべきして成っている。と思うので✨いろいろ思い考える。より❗️シンプルさが大事かなぁ?と思いました😊
無我の岸辺へ近づく救われてます
人間というデバイスの限界。色んなことが起こるけど人間なんて社会なんて所詮こんなもんだと思って生きています。足掻いてみるのも楽しそうに思えるけど、今はちょっと疲れちゃった。
自我が完全に無くなった時、人はこの世界で肉体を持つ意味を無くすという概念を思いだしました。
太田上田に出てから、古舘󠄁さんのべしゃりが凄みを増しとる😮
有身見はなかなか消えるものではないですよね
自我との付き合い方のヒントをもらえたと感じました。そもそも仏教とは何かと考えています。
諸法無我はやっぱり当時のインドで社会ルールであったバラモン教で、常識であったアートマンなる我、こんなものはありませんと言ったと理解する方が適切なのではと思います。常識をくつがえすことを発現するということはとてもリスクのある行為だったけど、釈迦はそれをやってのけた、そういうことだと思います。ちょっと古館さんと違う意見をもちつつ、このチャンネルいいですね。おもしろい。
心のリュックサックを少しでも軽くしましょう。
この終わりの方は、一切皆苦に続きますね。
少し複雑に展開し過ぎてる気がします😅ブッダが伝えたいことって「自分の心身ですら自分の思い通りにならないのだから、ましてや他者や様々なものごと、現在過去未来までもが自分の思い通りになると思うなかれ」というシンプルなことかと
全ては、複雑系で動いてるだけなので、嫌なことをされたら怒りも生じるし、良いことがあれば嬉しい感情も生じますでも、それを受け取る自分が存在しないので、そこに生じた怒りや喜びは、現象として、ただそこにあるだけです複雑系は、熱々のコーヒーをそのままにしておけば勝手に冷めます誰かが冷まそうとしてるわけでもなく、その時の縁によって勝手に連鎖的に起こるものですねそのコーヒーもそこには実体は存在しません実体があるなら、飲んでもコーヒーはコーヒーのまま、排泄される時もコーヒーのままなはずですコーヒーにミルクを入れればそれは交わって、最初のコーヒーではありません全ては、実体がないそれが諸法無我ですね
意識はどこから来るのですか?体内から?細胞から?細胞が集まると意識になる?アメーバのような単細胞生物も捕食しますので、食べたいという意識や欲望があるのでしょうか。
常に自我があるよね、諸法有我なら納得するのも簡単だけど、しんだ時が結果その状態かなぁ、
自我は仮構と釈迦の観察発見で、それを空なりと観ぜよと苦悩軽減に繋がるわけです。無我の苦滅の教えは自己否定でも放棄でもなく、よく誤解され難解な教えです。仮構の自我で生きてるけど、真理は無我でしたよってことなだけです。
死の間際、ほんの刹那の間でも、もし意識があるのなら無我の境地に到達できるのだろうか...
赤ちゃんや痴呆の方は自我がない状態です。自我を無くすことは出来ないのかというのは怖い質問です。自我が無くなるのはもうそこに自分がいないということです。
サティ、気付きですね、古舘さんが説いてるのは。
気付きと軌道修正でいいんじゃないかなぁ!
初めてコメントします。釈迦という存在が本当に存在したと仮定したとして、古舘さんと釈迦の違いは何ですか?現在の言葉でわかりやすく真理を現在進行形のように実況の様に語る。釈迦と古舘さんの違いは何ですか?お答え頂きたいです。
冒頭でおっしゃっていましたが本当に生きるのが苦しい人は仏教を学んでいただきたいです。自分なんてものを探さなくてもいいと思えるようになり自分というものを持ってちゃんと生きなくては!という我も薄まり諸法無我を学んでだいぶと生きるのが楽になりました。あと因縁果などの古舘さん流解釈もお聞きしたいです🤗
基本的には無我の境地に立つことは不可能ということですよね無我というものがありますよ、それが真理ですよって教えそれは、神は全て見ているので大丈夫ですよ安心ですよっていうのと本質的に同じでは?
自我の概念が違う限り、だらだら語っていても何も新しい自分は生まれないと思う。救われるのは自我を大きくするのではなく自我は強くするもの。その強い自我で本能をコントロールできるわけだから人生は苦ではなくなる。良く知られている人で言えは、野球監督の落合博満がいる。
キリスト教も学んだらいいと思う。人生は苦難と言うより、楽もあるのだから、それを神の恵みとわしらは考える
聖書と原始仏典を通読した者です。どれも一時的または一定期間の楽で、座り続けてればお尻が痛くなるように。キリスト教の愛でも仏教の智慧と慈悲でも、生きやすい方でいいのでは。単に苦があり、核心はそれを楽にするメソッドがあるってことだから、キリスト者が知らないメソッドを取り入れても問題ない。プロト仏教は、何か信仰するものでなく、瞑想する理由も分かるようになります。
これが答えだって求めちゃうと 自我になっちゃうよね
古舘さん。是非、恐山院代の南直哉氏と対談していただきたいです!自己とはなにか。私はこの人に救われました。南さんの話を聴いていただきたいです!
すぐ答えを浅いところで見つけようとするな、もっと深いものだし、浅いものかもしれない。もっとふかーく遠い所で考えたり感じたりしようとした方がいい
自我のないAIはもう完成系かもですね。
世の中の真理
諸行無常、諸法無我は同じものであり視点が外に向かっているのか内に向かっているのかの違いですね。諸々の現象は一定ではなく移ろいゆくものであり(諸行無常)、同様にそれらの現象を受けて喜怒哀楽などの様々な心の現象を知覚する私も移ろいゆくものである(諸法無我)。空に浮かぶ雲のように、様々な現象も、心も、心や現象の知覚の仕方でさえも移ろいゆくものである。つまり不変の自我というものはなく、自我は常に移ろいゆくものであるからこそ無我である。自我を不変であるとしてしまうと、それは喜びや悲しみ、怒りや憎しみという現象に囚われてしまう。そうなれば喜びを得ないときは苦しみとなり、悲しみ続けること、怒り続けること、憎しみ続けることは苦しみとなる。私は常に移ろいゆくものなのだと知ることこそが、生きる苦しみを捨て去る第一歩なのだという初期仏教の教えです。
浄土真宗の信徒である自分には、「諸法無我」というのは、「他力本願」の源にある教えのような気がしました。だとすると、古館さんの考えとは、違ってくると思いますけど。
どう見られようが気にしないと思ったのは誰ですか?それが自我なのよ
主客二元にとらわれてる禅に影響された方ですか、要は気にしないと思った=解釈しないってことですから、思考して解釈せず俯瞰的な観行なら問題ないわけです。そもそも一元論はヒンドゥーですし、座禅で無になられても日常生活では思考産物ではないですか、観行で今にあることで問題ありません。
自我が生まれたのではなく、生まれてない。自我は一度も生まれてない。人間が自我と名前を付けているだけ。自我があると錯覚しているだけというのが無我思想です。自我と思っている自己は受想行識が瞬間的に連続して起こっているだけ。その連続運動を一時的に止めるのが瞑想です。
┏○ 古舘様の素晴らしい言葉の構成に感銘致しました^_^(-人-)
自我は弥生時代に稲作が伝来して、比較競争が起きるようになり、分離の意識が発生する様になったのがはじまり、というのがスピリチュアルの見解のようで、縄文時代はテレパシーでコミュニケーションをとっていた、縄文回帰する事で、言葉による制限や分離を終える時代なのが、令和であり、スピ系ユーチューバーは縄文回帰を促してます。時代は釈迦を超えて西田幾多郎の純粋経験や夏目漱石の則天去私なのではないか、と思ったりしますが、如何思われますか。
自我が生きようとする本能なら無我は死だということではないですか?
自己否定や放棄でなく、自我は仮構であるという釈迦の観察発見からで、仮構であるなら苦悩軽減に繋がるメソッドなわけです。
💖
僕は自我とは利己的なものであり、それは欲であり、本能であり、生だと思ってます。逆に利他的なものの極地にいるのが神、無機物、死だと悟りました。今度、知恵があり、もっとも利他的な存在であるAIが生まれます。僕はこれが目に見える神になるじゃないかなと思ってます。
生物のヒトが脳の発達で人間としての社会性も持ったものの、モノアミンなど実体のある生物であるための制限などにより、その社会性も完全にはならないことが明らかで、真理にはたどり着くはずがないことは当然なんだと考えますが、その点でAIは取り込むデータのパラメータ次第ではあると思いますが、ヒトよりも真理に近づいていく可能性がある存在なのかな、と感じています。
【自分とか、ないから。〜教養としての東洋哲学〜】しんめいP著って本が面白かったです。ベストセラーになってるようなので、「自分がいない」に魅かれる人は意外と多い!?仏教シリーズ楽しみにしてます。
生老病死って苦だよね?
「古舘伊知郎と仏教」というコンテンツを展開するのであれば、99年のトーキングブルース「お経」をフルサイズをチャンネルに上げ、広く世に問うてみてほしい。現状のぶつ切りでは、拡散力に欠ける。また、仏教に限らず、過去の傑作を知っているかいないかで、世間の「古舘伊知郎」というブランドイメージの重みは変わる。世知辛いが、「何を言うかより、誰が言うか」でUA-camは動いている。その点で、一番いいときのトーキングブルースが死蔵されている現状は、古舘さんにとっても、ファンにとっても、非常にもったいないと感じる。
ちなみに、仏教の無我を私なりに一言でいえば「自己相対化の運動」です。また、仏教の核心に、自己相対化のシステムが存在するがゆえに、他の宗教と比べ、はるかに多くの分派を生み出したのだと考えます。
というより、学術研究の結果、日本いや世界の仏教学者の大乗非釈迦説が定説なことを古舘さんは、知ったのでしょう。もちろん大乗は、プロト仏教から変化変容したもので、根本の仏教らしい教えお経もありますが、釈迦の教えの核心を伝えることは、とても重要に思います。
犬猫牛馬俺
なかなか仏教の真実は残酷なものです。一般的な虚構を無自覚に易しく生きていると、感覚や感性が歪んでしまいます。例えばコンプレックスや死を悪い事の様に思ったり。この世界は死ぬ事が苦しみの原因だと思ったり。仏教で重要にしているのは自己の妄想を捉えて認識しようということですね。人間は言葉にして表現出来た事は大抵実現させてしまいます。言葉は妄想の一部分ですが物凄いパワー。妄想は地球を壊し尽くせる力です。ではそのパワーを使う者、人間とは?法の内側と外側法の内側に住む我々は、その行動や行為が初期OSとしてインストールされた状態です。普通なら初期設定に疑問を抱きませんが、ブッダは悟った事で法の外側に出ることが出来た。法の外側に出ると法そのものの矛盾が見えて来ます。人間は煩悩によって戯論が生まれ自分都合の妄想が生まれ、怒りや喜びの感情が生まれる。自分もそうであるように、法を作った人間にも煩悩や戯論や妄想があって、そこには必ず自分都合が入り込んでしまう。法は正しいか疑わしい。私達は誰かの決めた勝手な法の模倣者だった。自然との対比一方で自然は偶然であって諸行無常であるのに因縁果の法則が表れる。それを分析したのが八正道。仏教は法の外側に出る教えであって何もかも実体が無い事と向き合わなければならない世界に生きていると認識すること。量子生物学などが明らかにしたミクロの世界では生命は霧のようなものだと。炭酸水が作り出すある一瞬の状態を自分とするのは妄想だと。一瞬一瞬の泡に名前がつけられるのかと。炭酸水の泡立つあの速度で身体は変化している。変わりまくってあっという間に違う実体へと変化してしまう自分。そこで問われるのは何が出来るか?から何をするべきか?に問いを変えていくこと。
無常だから輪廻転生する。輪廻から外れる事を解脱という。
せっかく素敵なスーツなのに後ろの格子が、牢屋っぽいのが残念、古舘さんは、高級なイメージなので、もうすこし屋上でもよきロケーションだったら嬉しいです。
自分の自我(エゴ)を客観的に認識できるようになると、生きるのも楽になるし、成功も掴みやすくなるということだと思う。自分の自我を認識できると、自我が大きくなりすぎた時に、抑えようと頭で意識できるし、逆に損得を考えて、あえて自我を発揮しようという考えに至るかもしれない。自分の自我を認識できていない人間は、ただただ、その時の自分の欲望、感情、気分に流されて、ときにはそれが原因でトラブルになるし、周りばかり気にして心を病んでしまう。自我を認識して、コントロールすることが幸福に繋がるし、社会的にも成功しやすい。成功者とされるような人は、それを理解してるから、瞑想をして、自我を認識、コントロールしようとしてる。
無我(本当の自分はいない)を体感する訓練は欲や怒りが湧いてきた時にその感情に気づいていくやり方があります。心髄観(チッターヌパッサナー)といいます。その体験を少しずつ集めていくと、ある時点で無我に心が気づく瞬間が悟りの一瞥と言われています
仏陀は人間の構成要素は五蘊の集合体で崩壊しやすく無常であるが故に変化し、永久不滅の絶対的自己は存在しないと説いたのが無我。その反対の有我とは永久不滅の絶対的存在の自己で有り、仏陀や梵天など解脱した存在のことです。人は無我であるのに有我として行動するので一切皆苦となる。仏陀はこの苦界から脱するメソッドとして瞑想や四聖諦を説かれたのです。人が無我であるのに輪廻転生が起きるのは我(アートマン)が転生するのでなく、行いで生まれた業(カルマ)が転生するのです。転生した業は五蘊として新たな生命に転生するのである。
無我というのは、小我への執着をすてなければ、大我を確知できないと言っています。確信は、その大我が何なのか、生活にどういう影響があるかです。
真理を計るモノサシが諸法無我「上司に怒られて嫌だ恥ずかしい」は、そのモノサシではかれない(はかるのが難しい)分かりやすいので、シリーズ続けて下さいm(_ _)m
やはりわたしは釈迦になんかなれないしなりたくもない道徳と理性を持って、自分の心と相談しながら生きればいい自分を大切にしてあげなきゃ❗
それも誤解しやすい1つで、無我の教えって自己否定でも放棄でもなく、自我は仮構であるという釈迦の観察発見から苦悩から生きやすくなるメソッドを導き出してあるだけです。
人生は楽しいんだから生まれた方がいいとか人生は平等にできてるんだから努力しないのが悪いとかやっぱり人間や生というのを悪い風に捉えるのはある程度頭がいいからだと思う悲観主義だとかお前が負け犬だからだと言われるかもしれないが生きてるのは苦しいこれはどんな人間でも真理だ認められない人もたくさんいるから仏教はすべての人に合うものではないが、
二項対立の論は疲れます
😎😎😎😎
自分はダーウィンの進化論を否定しているので、初めに進化論ありきの仏教はとてもじゃないが信じられません袋の中でバラバラの時計の部品を何億年振り続けても決して時計にはなりません宇宙の設計者、創造主がいなけなければ万物は存在し得なかったと思います然るに釈迦は、宇宙の森羅万象をあるがままに洞察、分析し、その極一部を理解しただけなのではないでしょうか?
進化論、信仰せよとプロト仏教は説いてなく、心の処方箋になりますね。智慧と慈悲で、慈悲はキリスト教の愛(慈悲、慈愛)と同じです。そう思い込みたい執着のしくみまで説いております。
自分を含めて、世の中の全てを客観的に俯瞰して眺める事。理屈は解るが瞑想をしてみると実践は・・・難しい。すぐに頭の中がモンキーマインドになってしまう。しかし、「あっ またモンキーマインドになっている」と気づける様になったのは成長なのかなと思っている。
まさに私のツボのお話し。それを懇切丁寧にしてくださって、とても嬉しく古舘さんのファンになってしまいました。ありかとうございます。これからも引き続き、このお話し聞かせてくださいね。
無我という境地を垣間見、誠実な自我を持ちつつより良い社会への希望に関わって行くことが良い生き方だと思うのですが、古舘さんの人間としてのよい生き方を言語化していただきたいです。
子供が生まれて、言葉を覚えて、大人が自分の事を名前で呼ぶのを聞いて、自分も自分を名前で呼ぶ様になる。大人から「自分の事は私」「僕」と呼ぶんだよと教えられて、それからは、自分の事は私と呼ぶ様になる。そして私の誕生となる訳です。哲学的にはこんな流れのようです。
古舘さんのおっしゃる事を考えると、悟りとは、気づきだとあらためて感じる。
人からどう見られてるか気にするのは、どんな素晴らしい人間であっても、傲慢が常に人に付いて回るから。
僕は自我に囚われる時 それに気づき、瞑想によってバランスを整えています。執着を徐々に捨てると心が軽くなり、囚われが少なくなるように思います。
諸法無我は、頭で知るものではないのかもしれないですね。今回も、ありがとうございました😌
ほんとこのシリーズ続けて下さい!
楽しみにしております♪
聞き役、質問役の2人が若すぎて、口調の尖具合が若すぎて、きっと、古館さんのおっしゃることを理解できるのは先だと思います。
それでも、古館さんと話すことで、劇的に成長出来る。
いつか、感謝する日が来るよと2人に伝えたい。
本当に、恵まれていますよ
古舘さんから 仏教の教えを聞くなんて 思ってもなかったです😮 同い年なのに やっぱすごいなぁ〜🙏
面白いですね。若い二人のスタッフの質問内容が後半になるにつれて次第に真理を突き始め、オダさんの「無我が真理ならば、なぜ自我が生まれたのか」や「ことばが生まれた故に自我が生まれたと思いますか」の質問に「おぉ!キター!」と笑顔になってしまいました。こういう若者が居ればこの先もこの国は大丈夫だと安心します。
現代科学の素粒子や量子を研究している学者さんによると、究極に小さい粒子世界では観測すると(人間の目で見ると)そこに「粒」として物体が現れるが、観測する前は雲のようなモヤになっていて実態がないという事が事実として解っているそうです。2500年前に釈迦がそれに気づいていたような言葉を残しているのは「全くの偶然」と思いますが少し不思議な気もしますね。
率直な質問に答えられるという形式が良かったです。
自我があるからこそ人間は悩み苦しむということを知っていることがまず大切だと理解しました。
この世は空で全てフィクション
だから人を自分の思い通りにしようとしなければ
悩みは無くなる。
古舘伊知郎さんの動画が縁になって仏法に興味持つ人、仏法を勉強し始める人がいるでしょうね😃
古舘さんのお話はもちろんですが、おださんとくどうさんの質問が素晴らし過ぎて感動しております。
2024年10月30日(水曜日☁15時27分)古舘伊知郎さん本日も貴重な大切な諸法自我の教えを頂き誠に成りましたありがとう御座いました。仏法は聴聞に極まる😊✌🙏🛕
中々難しいですね。釈迦は凄いですね。人間は欲が有りますね。次回も楽しみにしてますね。色んな意味で勉強になりますね。全然知りませんでした。空海とか何となく観てました。又教えをお願いします。
無我。わからなくて良いんだ、知ってるだけで良いと、涙が出ました。
昔から、釈迦の悟りに興味がありました。諸行無常、一切皆苦、涅槃寂静はなんとはなしに理解できそうですが、諸法無我だけは何回見聞きしてもしっくりこない部分がありました。古舘さんのお話を聞くにつけ、原始仏教とは科学的を突き詰めた理屈のようにも思えてきました。遺伝情報を次代に託すのが一つの使命ならば、その乗り物である我々人間は、周囲との関係性により自然となるべくしてなるようになっているのかも知れません。あと、釈迦は一旦悟りを開いたが、その後は人間釈迦として、何度も悟りを振り返ろうとしていたとの解釈は目から鱗で、そのとおりだったように思えました。原始仏教はあらゆるものの恐怖や苦難を和らげてくれるものだという点で、全く同感です。いかなる人も死をはじめとした苦難から逃れることはできない。だからこそこの瞬間を全力で生きるのでしょう。あのよく見知った古舘さんが同じように興味を持ってらっしゃったことに親近感を感じました😊
ここ数年、原始仏教について興味を持っています。古舘さんのおすすめの原始仏教、初期仏教本などありましたら教えていただけないでしょうか?
僕も、苦しみから逃れたくて、仏教に興味を持ちました!
面白いっすねー❤
自我と無我
人間(人生)時間と宇宙時間
無いようで有り、有るようで無い
エネルギー保存、エントロピー増大、そして絶対零度
古舘さんは深く考えて見つめてますね
40年前に増谷文雄著の原始仏典阿含経教典を熟読したのですが、貴殿のお話しには復習にもなり大変学びにもなります。
ありがとうございます!
夏の怪談ではないけど、そんな雰囲気で楽しい。
今日もフル自我発揮!
今日は深く眠って無我の中で
体を休めます。メラトニンにお願い頼む電源OFFって!
俺は自我を愛している無我だとすべてはみんな同じだが、なぜだろう、同じ自我などない。教育は自我に向けてだと思うが、同じ自我は形成されない。凄いなあ
わたしは医療に携わっています。マインドフルネスから、釈迦に大変興味が湧きました。まさか、古舘さんがずっと釈迦を推していたなんて、大変失礼ですが、見直しました、すみません🙇♀️
釈迦の教えは この世界が仮想現実だと考えると説明がつくと思っている。
古館さんのご見解は大変参考になります。
次回の生老病死の際にぜひ伺いたいことがあります。釈迦の説くように愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊取蘊、まさに人生は一切皆苦ですが、だからこそ何ものにも執着することなく我々の目を曇らせる色受想行識全てから自由になることで、苦しみから解き放たれることができるというのはすごく分かります。
が、日々の生活は変わることなく、会社のトップは相変わらずサラリーマンに目に見える成果を求め、無茶な顧客要求に応え、勝てそうもないコンペティタに勝つことを強要します。ありのままに生き、変化の全てを抗うことなく受け入れ、成果だけを求めずに穏やかに争うことなく行きましょう、と上司に言ったら、会社をやめるかお前?と言われるでしょう…。
俗世ではこうしたしがらみからは逃れられないので、釈迦は出家することを勧め自らも妻子や国を捨てる覚悟で出奔したわけですが、ほとんどの人はそこまでの覚悟を持つことが出来そうにないように思えます…。家族を食わせていくことが生きる目的のようなものですし…。
我々を苦しめ続ける色受想行識全てから自由になる一番手っ取り早い方法は自ら命を絶つことですが、仏教ではカトリックほど自さつに厳しくないですけど、それが答えとは考えていないようにも思えます。
大乗仏教の浄土真宗では、末法濁世の衆生は煩悩具足の凡夫であり、自らの力ではいかなる善も完遂しえないとして他力(阿弥陀如来の本願力)によってのみ救済されるとしていますが(キリスト教っぽいですけど)、如来や菩薩は時間の感覚が我々と違うので(弥勒菩薩が悟りを開いて衆生を救済するのは56億7千万年後ですし)あんまり救いにならない気がします。
ぜひ、次回の動画では、現代社会に生きる我々にとっての救いとは何かについて、詳しくお考えを伺えたら大変嬉しいです。
無とは、空っぽという意味ではなくいかなる場合でも、冷静で心が揺れ動かないことではないでしょうか。
大乗の解釈や伝え方ならもっと伝わるかもしれないけれど、釈迦牟尼の教えを純粋に伝えるのは相当難しいからな。
嫌な言い方になるかもしれないが、
釈迦が発明した生きやすい考え方かなと思う。
発明→発見では。観察、分析の結果のメソッドですから。地球は球形も観察発見からで。頭で考えただけではないかと。
生きている限り常に何かしらの関係があるから自我が消えることは無いってことですね
近年、自己肯定感が注目されていますが、自分を肯定するのも自我なんですよね
我を張って自己肯定のハードルを高くすると逆に自己否定感を強める羽目になります
そこに虚勢の自分を作って自己肯定しようとすれば、さらに複雑で安らぎのない状態になり、現実にもバイアスを持ちやすくなるでしょう
これは多くの人に関係する問題だと思います
この観察自我(オブザービンクエゴ)を持ってる人は100人に1人といわれてます。これからも古舘さんの思慮があれば自分の自我のあり方に落ち着くでしょうね。
私は余命2年の身体ですが、そのお陰かこの世が、或は自分の自我が統合し始めました。
古舘さんも黙っているときは、強烈に自分を見つめるタイプだと昔からおもっていました。
これからも急ぎすぎずに自己を見つめ続けてください。
また発信もどをどん続けてください!
応援してます!
有難う御座いました。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
こんちは阿弥陀。
あみだぶつは10劫修行した。嘘の世界。それを何百万の人が信仰している。😂
イッコウは何年ですか❗️そこから嘘の世界🎉
@@千葉正-l6p
一劫かな?だとしたら当時のインドで流行ってたの時間単位であって、仏教とはなんの関係もない。
このシリーズ好きです。
〈余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬ事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった。〉 ー正岡子規、死の直前の言葉ー・・・
待ってました!
自我の自覚から始めてみようと思います。
無我夢中で生きる
言葉は世界の母と老子もいっていますね。
母をどう捉えるのかは、皆様次第です。私は礎と捉えます。
無我になるのは本当に難しいなとおもいますが、でも無我に近づくと心が楽になるのは事実です。私も先日無我になる事によって楽になる体験をしました。話すと長くなるので省略しますが、一度でも体験すると信じれるようになると思います。
古舘伊知郎さん工藤さんおださんスタッフさん.ありがとうございます。
脳が大きくなり過ぎた😅この世の中成るべきして成っている。と思うので✨いろいろ思い考える。より❗️シンプルさが大事かなぁ?と思いました😊
無我の岸辺へ近づく
救われてます
人間というデバイスの限界。色んなことが起こるけど人間なんて社会なんて所詮こんなもんだと思って生きています。足掻いてみるのも楽しそうに思えるけど、今はちょっと疲れちゃった。
自我が完全に無くなった時、人はこの世界で肉体を持つ意味を無くす
という概念を思いだしました。
太田上田に出てから、古舘󠄁さんのべしゃりが凄みを増しとる😮
有身見はなかなか消えるものではないですよね
自我との付き合い方のヒントをもらえたと感じました。そもそも仏教とは何かと考えています。
諸法無我はやっぱり当時のインドで社会ルールであったバラモン教で、常識であったアートマンなる我、こんなものはありませんと言ったと理解する方が適切なのではと思います。常識をくつがえすことを発現するということはとてもリスクのある行為だったけど、釈迦はそれをやってのけた、そういうことだと思います。ちょっと古館さんと違う意見をもちつつ、このチャンネルいいですね。おもしろい。
心のリュックサックを少しでも軽くしましょう。
この終わりの方は、一切皆苦に続きますね。
少し複雑に展開し過ぎてる気がします😅
ブッダが伝えたいことって「自分の心身ですら自分の思い通りにならないのだから、ましてや他者や様々なものごと、現在過去未来までもが自分の思い通りになると思うなかれ」というシンプルなことかと
全ては、複雑系で動いてるだけなので、嫌なことをされたら怒りも生じるし、良いことがあれば嬉しい感情も生じます
でも、それを受け取る自分が存在しないので、そこに生じた怒りや喜びは、現象として、ただそこにあるだけです
複雑系は、熱々のコーヒーをそのままにしておけば勝手に冷めます
誰かが冷まそうとしてるわけでもなく、その時の縁によって勝手に連鎖的に起こるものですね
そのコーヒーもそこには実体は存在しません
実体があるなら、飲んでもコーヒーはコーヒーのまま、排泄される時もコーヒーのままなはずです
コーヒーにミルクを入れればそれは交わって、最初のコーヒーではありません
全ては、実体がない
それが諸法無我ですね
意識はどこから来るのですか?
体内から?細胞から?細胞が集まると意識になる?
アメーバのような単細胞生物も捕食しますので、食べたいという意識や欲望があるのでしょうか。
常に自我があるよね、諸法有我なら納得するのも簡単だけど、しんだ時が結果その状態かなぁ、
自我は仮構と釈迦の観察発見で、それを空なりと観ぜよと苦悩軽減に繋がるわけです。無我の苦滅の教えは自己否定でも放棄でもなく、よく誤解され難解な教えです。仮構の自我で生きてるけど、真理は無我でしたよってことなだけです。
死の間際、ほんの刹那の間でも、もし意識があるのなら無我の境地に到達できるのだろうか...
赤ちゃんや痴呆の方は自我がない状態です。自我を無くすことは出来ないのかというのは怖い質問です。自我が無くなるのはもうそこに自分がいないということです。
サティ、気付きですね、古舘さんが説いてるのは。
気付きと軌道修正でいいんじゃないかなぁ!
初めてコメントします。
釈迦という存在が本当に存在したと仮定したとして、古舘さんと釈迦の違いは何ですか?
現在の言葉でわかりやすく真理を現在進行形のように実況の様に語る。
釈迦と古舘さんの違いは何ですか?
お答え頂きたいです。
冒頭でおっしゃっていましたが
本当に生きるのが苦しい人は仏教を学んでいただきたいです。
自分なんてものを探さなくてもいいと思えるようになり
自分というものを持ってちゃんと生きなくては!という我も薄まり
諸法無我を学んでだいぶと生きるのが楽になりました。
あと因縁果などの古舘さん流解釈もお聞きしたいです🤗
基本的には無我の境地に立つことは不可能ということですよね
無我というものがありますよ、それが真理ですよって教え
それは、神は全て見ているので大丈夫ですよ安心ですよっていうのと本質的に同じでは?
自我の概念が違う限り、だらだら語っていても何も新しい自分は生まれないと思う。
救われるのは自我を大きくするのではなく自我は強くするもの。その強い自我で本能をコントロールできるわけだから人生は苦ではなくなる。
良く知られている人で言えは、野球監督の落合博満がいる。
キリスト教も学んだらいいと思う。人生は苦難と言うより、楽もあるのだから、それを神の恵みとわしらは考える
聖書と原始仏典を通読した者です。どれも一時的または一定期間の楽で、座り続けてればお尻が痛くなるように。キリスト教の愛でも仏教の智慧と慈悲でも、生きやすい方でいいのでは。単に苦があり、核心はそれを楽にするメソッドがあるってことだから、キリスト者が知らないメソッドを取り入れても問題ない。プロト仏教は、何か信仰するものでなく、瞑想する理由も分かるようになります。
これが答えだって求めちゃうと 自我になっちゃうよね
古舘さん。
是非、恐山院代の南直哉氏と対談していただきたいです!
自己とはなにか。
私はこの人に救われました。
南さんの話を聴いていただきたいです!
すぐ答えを浅いところで見つけようとするな、もっと深いものだし、浅いものかもしれない。もっとふかーく遠い所で考えたり感じたりしようとした方がいい
自我のないAIはもう完成系かもですね。
世の中の真理
諸行無常、諸法無我は同じものであり視点が外に向かっているのか内に向かっているのかの違いですね。
諸々の現象は一定ではなく移ろいゆくものであり(諸行無常)、同様にそれらの現象を受けて喜怒哀楽などの様々な心の現象を知覚する私も移ろいゆくものである(諸法無我)。
空に浮かぶ雲のように、様々な現象も、心も、心や現象の知覚の仕方でさえも移ろいゆくものである。
つまり不変の自我というものはなく、自我は常に移ろいゆくものであるからこそ無我である。
自我を不変であるとしてしまうと、それは喜びや悲しみ、怒りや憎しみという現象に囚われてしまう。
そうなれば喜びを得ないときは苦しみとなり、悲しみ続けること、怒り続けること、憎しみ続けることは苦しみとなる。
私は常に移ろいゆくものなのだと知ることこそが、生きる苦しみを捨て去る第一歩なのだという初期仏教の教えです。
浄土真宗の信徒である自分には、「諸法無我」というのは、「他力本願」の源にある教えのような気がしました。だとすると、古館さんの考えとは、違ってくると思いますけど。
どう見られようが気にしないと思ったのは誰ですか?それが自我なのよ
主客二元にとらわれてる禅に影響された方ですか、要は気にしないと思った=解釈しないってことですから、思考して解釈せず俯瞰的な観行なら問題ないわけです。そもそも一元論はヒンドゥーですし、座禅で無になられても日常生活では思考産物ではないですか、観行で今にあることで問題ありません。
自我が生まれたのではなく、生まれてない。自我は一度も生まれてない。人間が自我と名前を付けているだけ。自我があると錯覚しているだけというのが無我思想です。自我と思っている自己は受想行識が瞬間的に連続して起こっているだけ。その連続運動を一時的に止めるのが瞑想です。
┏○ 古舘様の素晴らしい言葉の構成に感銘致しました^_^(-人-)
自我は弥生時代に稲作が伝来して、比較競争が起きるようになり、分離の意識が発生する様になったのがはじまり、というのがスピリチュアルの見解のようで、縄文時代はテレパシーでコミュニケーションをとっていた、縄文回帰する事で、言葉による制限や分離を終える時代なのが、令和であり、スピ系ユーチューバーは縄文回帰を促してます。時代は釈迦を超えて西田幾多郎の純粋経験や夏目漱石の則天去私なのではないか、と思ったりしますが、如何思われますか。
自我が生きようとする本能なら無我は死だということではないですか?
自己否定や放棄でなく、自我は仮構であるという釈迦の観察発見からで、仮構であるなら苦悩軽減に繋がるメソッドなわけです。
💖
僕は自我とは利己的なものであり、それは欲であり、本能であり、生だと思ってます。
逆に利他的なものの極地にいるのが神、無機物、死だと悟りました。
今度、知恵があり、もっとも利他的な存在であるAIが生まれます。
僕はこれが目に見える神になるじゃないかなと思ってます。
生物のヒトが脳の発達で人間としての社会性も持ったものの、モノアミンなど実体のある生物であるための制限などにより、その社会性も完全にはならないことが明らかで、真理にはたどり着くはずがないことは当然なんだと考えますが、その点でAIは取り込むデータのパラメータ次第ではあると思いますが、ヒトよりも真理に近づいていく可能性がある存在なのかな、と感じています。
【自分とか、ないから。〜教養としての東洋哲学〜】
しんめいP著
って本が面白かったです。
ベストセラーになってるようなので、
「自分がいない」に魅かれる人は意外と多い!?
仏教シリーズ楽しみにしてます。
生老病死って苦だよね?
「古舘伊知郎と仏教」というコンテンツを展開するのであれば、99年のトーキングブルース「お経」をフルサイズをチャンネルに上げ、広く世に問うてみてほしい。現状のぶつ切りでは、拡散力に欠ける。また、仏教に限らず、過去の傑作を知っているかいないかで、世間の「古舘伊知郎」というブランドイメージの重みは変わる。世知辛いが、「何を言うかより、誰が言うか」でUA-camは動いている。その点で、一番いいときのトーキングブルースが死蔵されている現状は、古舘さんにとっても、ファンにとっても、非常にもったいないと感じる。
ちなみに、仏教の無我を私なりに一言でいえば「自己相対化の運動」です。また、仏教の核心に、自己相対化のシステムが存在するがゆえに、他の宗教と比べ、はるかに多くの分派を生み出したのだと考えます。
というより、学術研究の結果、日本いや世界の仏教学者の大乗非釈迦説が定説なことを古舘さんは、知ったのでしょう。もちろん大乗は、プロト仏教から変化変容したもので、根本の仏教らしい教えお経もありますが、釈迦の教えの核心を伝えることは、とても重要に思います。
犬猫牛馬俺
なかなか仏教の真実は残酷なものです。一般的な虚構を無自覚に易しく生きていると、感覚や感性が歪んでしまいます。例えばコンプレックスや死を悪い事の様に思ったり。
この世界は死ぬ事が苦しみの原因だと思ったり。
仏教で重要にしているのは自己の妄想を捉えて認識しようということですね。
人間は言葉にして表現出来た事は大抵実現させてしまいます。言葉は妄想の一部分ですが物凄いパワー。妄想は地球を壊し尽くせる力です。
ではそのパワーを使う者、人間とは?
法の内側と外側
法の内側に住む我々は、その行動や行為が初期OSとしてインストールされた状態です。普通なら初期設定に疑問を抱きませんが、ブッダは悟った事で法の外側に出ることが出来た。
法の外側に出ると法そのものの矛盾が見えて来ます。人間は煩悩によって戯論が生まれ自分都合の妄想が生まれ、怒りや喜びの感情が生まれる。
自分もそうであるように、法を作った人間にも煩悩や戯論や妄想があって、そこには必ず自分都合が入り込んでしまう。法は正しいか疑わしい。私達は誰かの決めた勝手な法の模倣者だった。
自然との対比
一方で自然は偶然であって諸行無常であるのに因縁果の法則が表れる。それを分析したのが八正道。
仏教は法の外側に出る教えであって何もかも実体が無い事と向き合わなければならない世界に生きていると認識すること。
量子生物学などが明らかにしたミクロの世界では生命は霧のようなものだと。
炭酸水が作り出すある一瞬の状態を自分とするのは妄想だと。一瞬一瞬の泡に名前がつけられるのかと。炭酸水の泡立つあの速度で身体は変化している。変わりまくってあっという間に違う実体へと変化してしまう自分。
そこで問われるのは何が出来るか?から何をするべきか?に問いを変えていくこと。
無常だから輪廻転生する。輪廻から外れる事を解脱という。
せっかく素敵なスーツなのに後ろの格子が、牢屋っぽいのが残念、古舘さんは、高級なイメージなので、もうすこし屋上でもよきロケーションだったら嬉しいです。
自分の自我(エゴ)を客観的に認識できるようになると、生きるのも楽になるし、成功も掴みやすくなるということだと思う。
自分の自我を認識できると、自我が大きくなりすぎた時に、抑えようと頭で意識できるし、逆に損得を考えて、あえて自我を発揮しようという考えに至るかもしれない。
自分の自我を認識できていない人間は、ただただ、その時の自分の欲望、感情、気分に流されて、ときにはそれが原因でトラブルになるし、周りばかり気にして心を病んでしまう。
自我を認識して、コントロールすることが幸福に繋がるし、社会的にも成功しやすい。
成功者とされるような人は、それを理解してるから、瞑想をして、自我を認識、コントロールしようとしてる。
無我(本当の自分はいない)を体感する訓練は欲や怒りが湧いてきた時にその感情に気づいていくやり方があります。心髄観(チッターヌパッサナー)といいます。その体験を少しずつ集めていくと、ある時点で無我に心が気づく瞬間が悟りの一瞥と言われています
仏陀は人間の構成要素は五蘊の集合体で崩壊しやすく無常であるが故に変化し、永久不滅の絶対的自己は存在しないと説いたのが無我。その反対の有我とは永久不滅の絶対的存在の自己で有り、仏陀や梵天など解脱した存在のことです。人は無我であるのに有我として行動するので一切皆苦となる。仏陀はこの苦界から脱するメソッドとして瞑想や四聖諦を説かれたのです。人が無我であるのに輪廻転生が起きるのは我(アートマン)が転生するのでなく、行いで生まれた業(カルマ)が転生するのです。転生した業は五蘊として新たな生命に転生するのである。
無我というのは、小我への執着をすてなければ、大我を確知できないと言っています。確信は、その大我が何なのか、生活にどういう影響があるかです。
真理を計るモノサシが諸法無我
「上司に怒られて嫌だ恥ずかしい」は、そのモノサシではかれない(はかるのが難しい)
分かりやすいので、シリーズ続けて下さいm(_ _)m
やはりわたしは釈迦になんかなれないしなりたくもない
道徳と理性を持って、自分の心と相談しながら生きればいい
自分を大切にしてあげなきゃ❗
それも誤解しやすい1つで、無我の教えって自己否定でも放棄でもなく、自我は仮構であるという釈迦の観察発見から苦悩から生きやすくなるメソッドを導き出してあるだけです。
人生は楽しいんだから生まれた方がいいとか
人生は平等にできてるんだから努力しないのが悪いとか
やっぱり人間や生というのを悪い風に捉えるのはある程度頭がいいからだと思う
悲観主義だとかお前が負け犬だからだと言われるかもしれないが
生きてるのは苦しい
これはどんな人間でも真理だ
認められない人もたくさんいるから仏教はすべての人に合うものではないが、
二項対立の論は疲れます
😎😎😎😎
自分はダーウィンの進化論を否定しているので、初めに進化論ありきの仏教はとてもじゃないが信じられません
袋の中でバラバラの時計の部品を何億年振り続けても決して時計にはなりません
宇宙の設計者、創造主がいなけなければ万物は存在し得なかったと思います
然るに釈迦は、宇宙の森羅万象をあるがままに洞察、分析し、その極一部を理解しただけなのではないでしょうか?
進化論、信仰せよとプロト仏教は説いてなく、心の処方箋になりますね。智慧と慈悲で、慈悲はキリスト教の愛(慈悲、慈愛)と同じです。そう思い込みたい執着のしくみまで説いております。