Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
こんな落ちなさそうな城なのに結構落城してるんですよねーー。真田の謀略の凄まじさにはビビりましたけど
コメントありがとうございます。真田氏は調略、謀略の達人ですからね。当時は刀や鉄砲、城などと同じように調略も道具のひとつだったのでしょうね。だまされた方はさぞ無念だったと思います。当時のリーダーはただ自分が強いだけではなく、武器や人を深く知り、自分を生かす道具としてうまく使いこなせなければ生きていけなかってのでしょう。そんな真田氏の策略を見事に見抜いた上、イキな計らいをしたのが小松姫ですよね。夫真田信之不在中に孫の顔を見たいと当時西軍だった義父昌幸と義弟信繁が訪ねてきたとき、城乗っ取りの狙いを見抜き、小松姫は甲冑姿で毅然とした態度で城内には入れなかったため城は守られました。しかも、後に近くの寺で昌幸と信繁をもてなし孫にも会わせたという心遣いもあり、小松姫の賢さ行動力、人柄がしのばれます。
いつか行こう、で幾星霜拝見できて良かったです
コメントありがとうございます。楽しんていただけ光栄です。私も若い頃に比べるとかなりフットワークが悪く成りました。機会がございましたらぜひお出かけしてみて下さい。
武田勝頼が岩櫃城に籠もれば、同盟国の上杉が背後に居るし守城戦の天才の真田が守ってれば生き残れたんじゃないかなー。
コメントありがとうございます。私もそのような想像を働かせています。知将の真田氏の城を落すには、織田・徳川連合軍と言えども骨が折れると思います。はるばる長い道のりを戦いながら移動してきた織田・徳川連合軍の兵たちは疲れもピークで、補給路も伸び切って、戦費もかさんでいます。しかも地の利は真田氏にありますし、おっしゃる通り、上杉氏の援軍もある可能性が高いです。織田・徳川連合軍も適当なところで和睦せざる負えないのではなかったかと思います。勝頼も判断を誤らなければ、武田家も生き残れたかもしれませんね。
NHK大河ドラマ真田丸を放映していた時行きました、私にはきつい山道でした。
コメントありがとうございます。社会人になってから登山をやり始め、若いころには岩櫃山にも登頂しました。この山は標高802mの山の割には岩場あり、鎖場ありできつい山登りのイメージを持っています。それで、今回は、最寄りの駐車場から本丸までは歩きましたが、潜龍院跡に行くには、さらに車で潜龍院の近くの駐車場を利用させていただきました。やっばり山城はきついですよね。
自分がここに行ったのは20年以上前の事です、今は立派な案内所があるのですね。このチャンネルでは真田幸村の祖父に当たる真田幸隆がこの城を奪ったと言う通説を紹介していますが、異説もあります。幸隆が奪ったのは近くの岩下常であり、この城は真田氏が新城として造成したという説です。あの岩山を登らなかったようですが、登ると納得します。中世の詰めの城らしい防御構造が、何もないからです。中世に存在した城と考えるのは難しいように自分には思えました。山のなだらかな中腹に設置された本丸を見ると、この程度の防御設備で織田と気だったのだろうか?と不思議な感覚に襲われます。
コメントありがとうございます。通説以外にもさまざまな説があるのが、この世界の楽しいところですね。社会人なりたての頃から登山にはまり、若いころに岩櫃山には登頂していたのですが、その頃はまだ山城のジャンルには関心がなかったので、気づきませんでした。もちろん今でもまだまだ、マニア未満ですが、当時よりはいろいろな経験積んだり知識(今回教えていただいたのような異説など)得て、改めて登頂したら、当時とは違うものが見えるのかもしれませんね。
武田勝頼も小山田の誘いなんぞ受けずにこっちに来てれば…
コメントありがとうございます。確かにそう思いますよね!よく歴史に「たら、れば」言っても仕方がないとはいいますが、違うケースを想像してみるのも楽しいですよね。上田城や関ヶ原で徳川軍を翻弄した真田氏が、事前に地の利を得て、準備も整えていた真田氏の堅城で、補給路も伸び切って、兵も疲れてしまった織田·徳川連合軍は勝てたのかな?どうなのかな?思います。過去のことを自分の次の一歩に活かすため、想像力は大切だと思います。
小山田は串刺しの刑にされたそうで
勝頼は甲斐の国を離れたくなかったのでは?求心力が失われると思ったのではないでしょうか?(既に離反されていましたが。)
コメントありがとうございます。勝頼の心の内はどんな感じだったのですかね。おっしゃるような気持ちがあったのかもしれませんね。私も何度か岩殿城には行ったことはありますが、井戸もある堅固な山城でした。近くにこんな堅固な城があって重臣小山田氏が勧めるならとりあえず駆け込もうと思うでしょうね。勝頼も兵も敗走で心身ともに疲れていたでしょうから、岩櫃城に向かっても岩櫃城にたどり着く前に敵に追いつかれてしまう心配もあったはずです。岩櫃城は少し遠すぎたので、せめてもっと早めに岩櫃城に向かっていればよかったかもしれません。
去年息子と行ったわ~。
親子で散策ですか、いいですね!
散策というには中々でした。その時は箕輪、名胡桃、沼田も行きました(笑)
確かに関連のある城とセットで行くと、より楽しいですね!結構な時間がかかったのでしょうね。親子でそんな旅できたら楽しそうですね。
こんな落ちなさそうな城なのに結構落城してるんですよねーー。真田の謀略の凄まじさにはビビりましたけど
コメントありがとうございます。
真田氏は調略、謀略の達人ですからね。当時は刀や鉄砲、城などと同じように調略も道具のひとつだったのでしょうね。
だまされた方はさぞ無念だったと思います。当時のリーダーはただ自分が強いだけではなく、武器や人を深く知り、自分を生かす道具としてうまく使いこなせなければ生きていけなかってのでしょう。
そんな真田氏の策略を見事に見抜いた上、イキな計らいをしたのが小松姫ですよね。
夫真田信之不在中に孫の顔を見たいと当時西軍だった義父昌幸と義弟信繁が訪ねてきたとき、城乗っ取りの狙いを見抜き、小松姫は甲冑姿で毅然とした態度で城内には入れなかったため城は守られました。しかも、後に近くの寺で昌幸と信繁をもてなし孫にも会わせたという心遣いもあり、小松姫の賢さ行動力、人柄がしのばれます。
いつか行こう、で幾星霜
拝見できて良かったです
コメントありがとうございます。
楽しんていただけ光栄です。私も若い頃に比べるとかなりフットワークが悪く成りました。
機会がございましたらぜひお出かけしてみて下さい。
武田勝頼が岩櫃城に籠もれば、同盟国の上杉が背後に居るし守城戦の天才の真田が守ってれば生き残れたんじゃないかなー。
コメントありがとうございます。
私もそのような想像を働かせています。
知将の真田氏の城を落すには、織田・徳川連合軍と言えども骨が折れると思います。
はるばる長い道のりを戦いながら移動してきた織田・徳川連合軍の兵たちは疲れもピークで、補給路も伸び切って、戦費もかさんでいます。しかも地の利は真田氏にありますし、おっしゃる通り、上杉氏の援軍もある可能性が高いです。
織田・徳川連合軍も適当なところで和睦せざる負えないのではなかったかと思います。
勝頼も判断を誤らなければ、武田家も生き残れたかもしれませんね。
NHK大河ドラマ真田丸を放映していた時行きました、私にはきつい山道でした。
コメントありがとうございます。
社会人になってから登山をやり始め、若いころには岩櫃山にも登頂しました。この山は標高802mの山の割には岩場あり、鎖場ありできつい山登りのイメージを持っています。
それで、今回は、最寄りの駐車場から本丸までは歩きましたが、潜龍院跡に行くには、さらに車で潜龍院の近くの駐車場を利用させていただきました。
やっばり山城はきついですよね。
自分がここに行ったのは20年以上前の事です、今は立派な案内所があるのですね。
このチャンネルでは真田幸村の祖父に当たる真田幸隆がこの城を奪ったと言う通説を紹介していますが、異説もあります。幸隆が奪ったのは近くの岩下常であり、この城は真田氏が新城として造成したという説です。
あの岩山を登らなかったようですが、登ると納得します。中世の詰めの城らしい防御構造が、何もないからです。中世に存在した城と考えるのは難しいように自分には思えました。山のなだらかな中腹に設置された本丸を見ると、この程度の防御設備で織田と気だったのだろうか?と不思議な感覚に襲われます。
コメントありがとうございます。
通説以外にもさまざまな説があるのが、この世界の楽しいところですね。
社会人なりたての頃から登山にはまり、若いころに岩櫃山には登頂していたのですが、その頃はまだ山城のジャンルには関心がなかったので、気づきませんでした。
もちろん今でもまだまだ、マニア未満ですが、当時よりはいろいろな経験積んだり知識(今回教えていただいたのような異説など)得て、改めて登頂したら、当時とは違うものが見えるのかもしれませんね。
武田勝頼も小山田の誘いなんぞ受けずにこっちに来てれば…
コメントありがとうございます。
確かにそう思いますよね!
よく歴史に「たら、れば」言っても仕方がないとはいいますが、違うケースを想像してみるのも楽しいですよね。
上田城や関ヶ原で徳川軍を翻弄した真田氏が、事前に地の利を得て、準備も整えていた真田氏の堅城で、補給路も伸び切って、兵も疲れてしまった織田·徳川連合軍は勝てたのかな?どうなのかな?思います。
過去のことを自分の次の一歩に活かすため、想像力は大切だと思います。
小山田は串刺しの刑にされたそうで
勝頼は甲斐の国を離れたくなかったのでは?求心力が失われると思ったのではないでしょうか?
(既に離反されていましたが。)
コメントありがとうございます。
勝頼の心の内はどんな感じだったのですかね。
おっしゃるような気持ちがあったのかもしれませんね。
私も何度か岩殿城には行ったことはありますが、井戸もある堅固な山城でした。
近くにこんな堅固な城があって重臣小山田氏が勧めるならとりあえず駆け込もうと思うでしょうね。
勝頼も兵も敗走で心身ともに疲れていたでしょうから、岩櫃城に向かっても岩櫃城にたどり着く前に敵に追いつかれてしまう心配もあったはずです。
岩櫃城は少し遠すぎたので、せめてもっと早めに岩櫃城に向かっていればよかったかもしれません。
去年息子と行ったわ~。
親子で散策ですか、いいですね!
散策というには中々でした。その時は箕輪、名胡桃、沼田も行きました(笑)
確かに関連のある城とセットで行くと、より楽しいですね!結構な時間がかかったのでしょうね。親子でそんな旅できたら楽しそうですね。