Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
5年前、夏真っ盛りの8月10日真田氏の上州拠点岩櫃城跡へ登ってきましたが大変な坂道で閉口しました、折しも大河ドラマの年だったので城跡登山の人達が多くいましたがみんな真田フアンの人達だったでしょうね、子供の頃から真田幸村や真田十勇士が大好きでしたから、大汗をかきましたが大満足でした。昔の人は足が丈夫ですね。
良い動画を拝見させていただきました。NHKで真田太平記を小学生の頃に見て、以来の真田ファン。小説も一気読みしました。就活の時、面接で歴史上の人物で好きな人物を問われ、真田一族と答えた時、相手が知らないですと言われ、この会社ダメだわ。。と講釈たれた生意気な時代もありましたwww岩櫃城はいつか行きたいですね。。上田、沼田、締めは岩櫃、あと岩櫃だけです。ますます魅せられました。
私が昔(1995~2002)秋によく草津/万座方面へ出掛けてた頃、草津街道(R406)は須賀尾峠の区間が未開通ルートで自動車道として機能しておらず、(高崎市街地からは)大戸の三叉路を右にし、一旦中之条方面へ向かう迂回ルートが一般的でした。 大戸の三叉路を右に過ぎてからの2~3kmは、真正面に灰色の屏風に火が付いたような岩櫃山の紅葉、左右に刈入れが済んだ田圃で黄金色に光る竿掛け天日干しの稲穂と、まさしく「ニッポンの秋」を満喫しながらハンドルを握ってた記憶が、この動画を見ながら鮮明に蘇りました。小生、大戸の三叉路を左にし温川温泉⇒須賀尾峠方面(R406)から岩櫃山がどのように望めるのか、全く知らないので恐縮ですが、先記の迂回ルート(R406→県道?58→R145)で断崖絶壁の南面を一望しながら草津方面へ向かうのも悪くないのでは?と、ココでお勧めしたい次第であります。
信濃は、真田氏クラスの強豪ばかり。ただ、真田氏は武田氏の上り調子に加勢した、ということか。真田氏といったら[多勢に無勢ではない]ことを教えてくれた日本の大恩人。
初めまして。沖縄より、こんにちわ。大坂の陣の後、真田幸村が琉球に来たという新伝説を登場させます。2025年大阪万博に向けて、「真田丸2」というプロモーションを図る予定です。お楽しみに☺️
ここが、真田のいわびつですか?私は平岳大様の大ファンで、真田丸では、平岳大のが演じられた武田勝頼が素晴らしくて感動しました。勝頼は、真田のいうとおりいわびつにいくべきだった。本当に岩だらけのすごい要塞ですね。いわびつにいけば、武田勝頼様は、ご無事だったのかと思うと、胸が苦しくなります。平岳大様の演技が素晴らしくて最高の演技でした。平岳大様世界一永遠に愛してます💖
平岳大の勝頼は良かった 城を落ちる歳の信繁とのアイコンタクトのシーンはBGM共々グッとくる
勝頼主従が目指した岩殿場も難攻不落の要害。臣下が寝返ればどこへ落ちても同じ
岩櫃城跡は20年ぐらい前、訪れたことがあります、よく整備された文化財です。
上田市、水害大変でしたね。御見舞申し上げます。さて、鹿児島県に真田幸村の墓があると聞き、行って来ました。南九州市頴娃町雪丸集落の杉林にそれはひっそりと佇んでおりました。雪丸地名も地元方言幸村→ゆんまいが元になっているそうです。ですから幸村の末裔が県会議員をしていて、数名の末裔がたまに集まり、酒盛りをするんだとか。TV局も度々訪れる、あの堺雅人、菅野美穂夫妻も訪れたそうです。ロマンがありますね。
BGMが五月蝿い。
まさに岩櫃ですね。 上田と沼田を中継する位置にあり、重要な支配の中心的城でした。武田勝頼が、織田勢の甲州攻めおり、真田昌幸はここ岩櫃に落ちて再起を図れたしと進言して一度は勝頼は承諾したのですが、小山田一族の真田は表裏卑怯の者、必ず裏切ります。として、自分の城である岩殿山城に落ちるように進言し、結局小山田氏は裏切り、武田は天目山で滅亡したわけです。昌幸が裏切ったかどうかは解りませんが、ここ岩櫃城に篭れば、また違った展開になったのでしょう。織田軍団とは言え、小県を越えては進軍は出来なかったわけですから。
daikom oroshi ひきょう者の字が違う。意味も違う 学びなされ!
どの目線で語ってんだ
大河ドラマ見てれば誰でも言えること
@@竹梅-z7n 岩櫃山にたどり着く前に土豪に討ち取られてただろう
昌幸の父親は「幸綱」次男は終生「信繁」です。小説なら幸隆、幸村でも良いですが。
文科省が郷土の歴史への予算は増額すべきだし、郷土の歴史は地域で大切に後世に伝えられる状態に維持すべき。総務省主導で合併を、郷土の地名をなくしている無教養な頭でっかち役人が多い。
公式を名乗るところが「幸村」と書いちゃいかんですよ。幸村は想像上の人物みたいなもんですよ。興ざめしてしまう。沼津や小田原も「伊勢盛時、または宗瑞」で「北条早雲」と今書いてませんよ。
町名が吾妻町(あがつままち)から東吾妻町(あずまあずままち)になったのは残念だ。小学生の意見を大事にするのもいいが、歴史を知らない者たちが真田や岩櫃を語るのも何か説得力に欠ける。
歴史ある地名や由来等を後世に伝えていくのも大切に守って欲しいですね。
今更ですが、東吾妻町の読み方を間違ってますけどね、、、「あずまあずま」ではなく「ひがしあがつままち」と読みますよ。小学生の意見ではなく、大人たちがまじめに話し合って決めたことですよ。何でもかんでも小学生のせいにしないでください。
@@user-ij1lx5xc9s 東村(あずまむら)と吾妻町(あがつままち)の合併だから、「あずまあがつままち」にしたいけど、それでは早口言葉になってしまうので東を「ひがし」と読ませて「ひがしあがつまち」にしました。その決定を大人たちがまじめに話し合ったということです。ついでに・・・旧吾妻町は昭和31年に岩島村・坂上村・太田村・原町が合併して吾妻町になりました。太田村や岩島村と何も変わらない東村が、この時に合併に加わらなかった理由が何かあるのでしょうね。
ドローン映像に頼りすぎた、だらだらとまとまりのない動画ですね・・・
5年前、夏真っ盛りの8月10日真田氏の上州拠点岩櫃城跡へ登ってきましたが大変な坂道で閉口しました、
折しも大河ドラマの年だったので城跡登山の人達が多くいましたがみんな真田フアンの人達だったでしょうね、
子供の頃から真田幸村や真田十勇士が大好きでしたから、大汗をかきましたが大満足でした。昔の人は足が丈夫ですね。
良い動画を拝見させていただきました。
NHKで真田太平記を小学生の頃に見て、以来の真田ファン。
小説も一気読みしました。
就活の時、面接で歴史上の人物で好きな人物を問われ、
真田一族と答えた時、相手が知らないですと言われ、この会社ダメだわ。。と
講釈たれた生意気な時代もありましたwww
岩櫃城はいつか行きたいですね。。
上田、沼田、締めは岩櫃、あと岩櫃だけです。
ますます魅せられました。
私が昔(1995~2002)秋によく草津/万座方面へ出掛けてた頃、草津街道(R406)は須賀尾峠の区間が未開通ルートで自動車道として機能しておらず、(高崎市街地からは)大戸の三叉路を右にし、一旦中之条方面へ向かう迂回ルートが一般的でした。
大戸の三叉路を右に過ぎてからの2~3kmは、真正面に灰色の屏風に火が付いたような岩櫃山の紅葉、左右に刈入れが済んだ田圃で黄金色に光る竿掛け天日干しの稲穂と、まさしく「ニッポンの秋」を満喫しながらハンドルを握ってた記憶が、この動画を見ながら鮮明に蘇りました。
小生、大戸の三叉路を左にし温川温泉⇒須賀尾峠方面(R406)から岩櫃山がどのように望めるのか、全く知らないので恐縮ですが、先記の迂回ルート(R406→県道?58→R145)で断崖絶壁の南面を一望しながら草津方面へ向かうのも悪くないのでは?と、ココでお勧めしたい次第であります。
信濃は、真田氏クラスの強豪ばかり。ただ、真田氏は武田氏の上り調子に加勢した、ということか。真田氏といったら[多勢に無勢ではない]ことを教えてくれた日本の大恩人。
初めまして。沖縄より、こんにちわ。
大坂の陣の後、真田幸村が琉球に来たという新伝説を登場させます。
2025年大阪万博に向けて、「真田丸2」というプロモーションを図る予定です。
お楽しみに☺️
ここが、真田のいわびつですか?私は平岳大様の大ファンで、真田丸では、平岳大のが演じられた武田勝頼が素晴らしくて感動しました。勝頼は、真田のいうとおりいわびつにいくべきだった。本当に岩だらけのすごい要塞ですね。いわびつにいけば、武田勝頼様は、ご無事だったのかと思うと、胸が苦しくなります。平岳大様の演技が素晴らしくて最高の演技でした。平岳大様世界一永遠に愛してます💖
平岳大の勝頼は良かった
城を落ちる歳の信繁とのアイコンタクトのシーンはBGM共々グッとくる
勝頼主従が目指した岩殿場も難攻不落の要害。臣下が寝返ればどこへ落ちても同じ
岩櫃城跡は20年ぐらい前、訪れたことがあります、よく整備された文化財です。
上田市、水害大変でしたね。御見舞申し上げます。さて、鹿児島県に真田幸村の墓があると聞き、行って来ました。南九州市頴娃町雪丸集落の杉林にそれはひっそりと佇んでおりました。雪丸地名も地元方言幸村→ゆんまいが元になっているそうです。ですから幸村の末裔が県会議員をしていて、数名の末裔がたまに集まり、酒盛りをするんだとか。TV局も度々訪れる、あの堺雅人、菅野美穂夫妻も訪れたそうです。ロマンがありますね。
BGMが五月蝿い。
まさに岩櫃ですね。 上田と沼田を中継する位置にあり、重要な支配の中心的城でした。
武田勝頼が、織田勢の甲州攻めおり、真田昌幸はここ岩櫃に落ちて再起を図れたしと進言して
一度は勝頼は承諾したのですが、小山田一族の真田は表裏卑怯の者、必ず裏切ります。
として、自分の城である岩殿山城に落ちるように進言し、結局小山田氏は裏切り、武田は
天目山で滅亡したわけです。
昌幸が裏切ったかどうかは解りませんが、ここ岩櫃城に篭れば、また違った展開になったの
でしょう。
織田軍団とは言え、小県を越えては進軍は出来なかったわけですから。
daikom oroshi ひきょう者の字が違う。意味も違う 学びなされ!
どの目線で語ってんだ
大河ドラマ見てれば誰でも言えること
@@竹梅-z7n 岩櫃山にたどり着く前に土豪に討ち取られてただろう
昌幸の父親は「幸綱」次男は終生「信繁」です。小説なら幸隆、幸村でも良いですが。
文科省が郷土の歴史への予算は増額すべきだし、郷土の歴史は地域で大切に後世に伝えられる状態に維持すべき。総務省主導で合併を、郷土の地名をなくしている無教養な頭でっかち役人が多い。
公式を名乗るところが「幸村」と書いちゃいかんですよ。幸村は想像上の人物みたいなもんですよ。興ざめしてしまう。沼津や小田原も「伊勢盛時、または宗瑞」で「北条早雲」と今書いてませんよ。
町名が吾妻町(あがつままち)から東吾妻町(あずまあずままち)になったのは残念だ。小学生の意見を大事にするのもいいが、歴史を知らない者たちが真田や岩櫃を語るのも何か説得力に欠ける。
歴史ある地名や由来等を後世に伝えていくのも大切に守って欲しいですね。
今更ですが、東吾妻町の読み方を間違ってますけどね、、、「あずまあずま」ではなく「ひがしあがつままち」と読みますよ。小学生の意見ではなく、大人たちがまじめに話し合って決めたことですよ。何でもかんでも小学生のせいにしないでください。
@@user-ij1lx5xc9s
東村(あずまむら)と吾妻町(あがつままち)の合併だから、「あずまあがつままち」にしたいけど、それでは早口言葉になってしまうので東を「ひがし」と読ませて「ひがしあがつまち」にしました。その決定を大人たちがまじめに話し合ったということです。
ついでに・・・旧吾妻町は昭和31年に岩島村・坂上村・太田村・原町が合併して吾妻町になりました。太田村や岩島村と何も変わらない東村が、この時に合併に加わらなかった理由が何かあるのでしょうね。
ドローン映像に頼りすぎた、だらだらとまとまりのない動画ですね・・・