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貴重な動画をありがとうございます。涙が出ました…
私も何度みても涙ぐんでしまいます。
叔父さんは紫電改の設計をしていた。層流翼の説明も、誉エンジンの良さも、中学生の私にも、親切に説明してくれました。日本人は一生懸命に戦ったと思う。悪いところも在ったけど、今の日本人には無い、大切な物が込められた紫電改です。
叔父様は堀辰雄や糸島博士みたいな仕事をされていたのでしょうか?糸島先生の本は何冊か読みましたが、終戦後5年は自決することばかり頭からはなれなかったそうです。
@@shikokuhistory さん。叔父さんは東條英機さんの息子さんと一緒だったそうで、そう高名でもないですが、パッと見たトタンに後光が差すように見える程、頭が良かった感じです。一人の技師として、ゼロの改良などに携わり、海軍一般に携わり、最終に紫電改だったと、聞きました。排気タービンが作れず、挺身隊の若者工員の精度の悪い部品に泣かされ、苦しい現場だった様です。
@@五十嵐仁-k1z すごいすごい!三菱自動車の社長になった方ですか?それと戦争中は阿片王里見の家に下宿していた息子もいましたよね。
@@shikokuhistory さん。そんな有名人では無いですよ。戦後は飛行機エンジニアの道がアメリカに断たれて、新潟の田舎でヤンマーの耕運機屋でした。
@@五十嵐仁-k1z 日本の技術者は有名じゃない人のほうが、本当に実力をもっているんですよねぇ。父がよくそう言っています。
なんと貴重な映像。アップありがとうございます!!
四国の地元テレビがしょっちゅう番組にしてくれています。
UPありがとうございます。宇和島に機体を見に行ったことがあります。パイロットの皆さんは、皆、文武両道のスーパーエリート。アメリカに勝てないことなど十分分かりながら、次世代の為に我が身を捨てて行かれた姿は胸にきます。
私も行ってきたばかりで、動画はどういう切り口にしようかな?と迷っているところで、他を参考にさせてもらっています。
海兵本科、大学生からの飛行予備学生、ご生存の方はその優秀な頭脳で大学教授や政治家として名を成されました。また年若の予科練習生・陸軍なら少年飛行学校出身者のご生存のかたは、多くのかたが実業家はもとより、新制中学・高校の教員ほかになられ、戦後の教育復興を支えられました。 同様の例として、アメリカ合衆国では、宇宙飛行士・政治家などで名を残された方が多くおられます。戦後ドイツ連邦共和国では継続的に空の軍人として、または工業産業の実業家として人生を全うされた方が多いのです。
@@saikousikikan アメリカやドイツまで!すごいですね。日本でも車や新幹線の開発に進まれ、復興につながったと聞いています。あと糸島博士みたいな方も!
引き揚げられた紫電改にご苦労様でしたと語りかける人、花を手向ける人、手を合わせる人、静かに見守る人......このシーンなぜか何度も見てしまいます😢
すごくわかります。あまり武器関係には興味なかったのに、飛行機は違う思い入れがたくさんあります。福生の米軍基地も年に1回、公開してくれます。
これ、何年か前にUA-camで見て、ずっと見たかったんです!その当時、松山の予科練にいたおじいちゃんに見せて源田実さんが出てきたら「こいつのせいでミッドウェーは負けた、潔く腹を切って死ねばよかったのに」と言ってたのがとても印象に残ってて
@@arimatchch2634 yotube はいろんなルールがあってTV局は絶対すぐブロックするものやアップして収益がTV局に行く設定に知るとか、自分で保管しておかないと見たいものが消されてしまうので、テレビ局に申請して許可もらってアップしました。
さっそくですが、紫電改記念館に見学に行ってきました。感慨深い思いがします。貴重な映像UPありがとうございました。
天気よかったですか?私のときは最悪でしたw
なんとも遺族親族の気丈な振る舞いか。編集でそのような姿に編集されたものだったのかもしれないが、近年の御涙頂戴&戦争は虚とは大きく異なる描写に感じる。是非は兎も角、国の為に天命を与えられ信念を持って挑んだ当時全ての人たちに日本人として敬意を持ちたい。
私もそこがいちばん心にひびきました。四国の人って肝が据わっているところがあるから、あまりドタバタとしてないんですよね。
私の祖父は「紫電」でした😮着陸時に脚を壊して修理中に終戦しました😢
紫電だったのですね。ゼロ戦のほうが人数は多いので、貴重でしたね。修理する技術はあっても、材料が不足していたそうですね
@shikokuhistory 様元々は海軍第六航空隊でミッドウェイ島に駐留すべく零式21型で空母「加賀」に乗りました対空戦闘の為「加賀」を発艦母艦被弾で空母「飛龍」に着艦母艦被弾で愛機を失いました204航空部隊に所属してトラック基地へフィリピン迄転進して「神風特別自爆隊」の護衛を勤めて機体を置いて内地へ松山基地で新機材受けとり後沖縄へ進出する為待機してましたが343航空部隊に仮配属され「紫電」に乗りました撃墜機数9機体 撃破9機航空自衛隊ではF86にも乗りましたが教官勤務時に病没 階級は二尉
その当時の方々が乗り切ってくれたおかげで今日の平和な日本があるのです。
乗り切らなかったらもっと早く戦争終わってたんでは?と考えることもあります。戦争は嫌だ。
@@nears47 それは違う。露にやられてしまうから戦わねばならないのです
捕虜になることは恥じゃない、ということは知ってほしかったですね。ぽんちゃんの最初のほうの動画(ロシア人の墓地です)にありますが、日露戦争のときまで日本はその点をすごく理解していたのに、だんだん変わってしまいました。
合掌🙏 貴重な映像を拝見できてありがたいです🥺
NHKは丸ごと番組をはるとクレームつけてくると聞いていますから(まあ、当然でしょうが)そのうち非公開にしてしまいます。
じいさん 陸百式司偵乗りやったけど四国出身で紫電改に興味ありで引き上げ早々の南楽園に一緒に見に行きました 貴重な動画ありがとう
そうなんですか!それは熱い思いがあったのでしょうね。愛媛県といってもかなり広くて、あそこまで行くのは大変だったと思います。知人のお父さんも土建屋さん勤務で引き上げ作業には狩りだされたそうです。
源田は軍令部航空参謀として神風特別攻撃隊の立案者なのに、戦後は大西瀧治郎に責任を押し付けて著書等でも一切特攻を語らなかった男。最近のネットニュース「俺は死ぬ係じゃないから」…特攻作戦を採用した男が、終戦直後に言い放った「衝撃的な言葉」参照。
立案者という声はよく聞きます。でも、本当のところはどうなのでしょう。たった一人で、そんな大きなことを決定できたのでしょうか。東条英機の戦犯もそうです。もちろん責任はあるでしょうけど、一人ではじめられた戦争とは思えないのです。
@@shikokuhistoryそういう空気というかが出来上がっているし、日露戦争とか第一次大戦とかの記憶が抜けきれないから、戦後の未来なんかを想像できなかったんでしょうね。
ともかく勝ち続けたのはよくなかったのかもしれませんね。坂の上の雲のドラマ、やっぱり「日本海海戦」の回が好きで、何度も見てしまう自分がいます。あれ負けていたら、絶対に見たくなかったと思うのです。
大西大将に、「自分のところは生きて戦うので」と言って、特攻を断った話は有名ですが、実際はもう少し長い会話で、「わたくしのところの隊員は、一回こっきりの攻撃作戦で死なせてしまう訓練はしてません。とことん生き残って敵を迎え撃つのです」が全文的です。 次の日に松山の小園司令のところに出向いた大将は、全く同じ言葉を小園大佐からも聞かされて、高性能マシンを用いた迎撃戦闘機隊の重要性をようやく気付かされたようです。大将は終戦時に、万死に値するの言葉を残して切腹されました。
@@室井修-k1r さま:動き始めてから気づいても遅いって奴ですね。戦争が深みにハマるにつれ、国民を挙げておかしくなって行った日本民族とも言われてます。挙国一致ランナーズハイのような。
源田実氏や搭乗員の方のインタビュー初めて拝見しました。やっぱり当時軍人だった方は肝が据わった喋り方をされてますね。研ぎ澄まされているなと感じました。
批判があっても、やはり本人がむきあってコメントを残すということは何よりもの供養だと私は感じています。
源田は戦前戦中戦後と日本の足を引っ張り回したな、責任も取らず上手く立ちまわった
自衛隊の偉い人になりましたね。それはいいけど、部下たちのことは認めて、遺族の面倒をみてほしかったです。
源田は海軍の中でもかなりの部下思いだった人で有名ですよ。なにせあの故菅野直氏が慕っていたくらいですからね。戦後に部下の遺族の方々とも交流を図っています。ここで取り上げられているゼロ戦引き上げの件も、遺族の要望を聞いた源田氏(当時参議院議員)が各方面に働きかけた結果、実現したものです。
デストロイヤー管野の母校は角田高校と言うんだの~。大槻教授も後輩なんだの~。源田実は田中軍団だの~角繋がりかの~。
@@daiki19932002 そうなねすね。責任とらず上手・・・うんぬんは海軍全般に言えることで、1人にかぎったことじゃありませんよね。陸軍のほうが海軍のほうが東京裁判でも裁判を死刑をださず、のりきりました。(まったくほめていません)
そんなの源田司令官に限った話じゃ無いし、すでに書かれてる人もいるが、源田は普通に部下想いで有名だったぞ
実にいいレポートでした。
学者や司会者が上から目線の解説をするのではなく、実際その場で生きてきた人たちの証言をまとめているドキュメンタリーですね。さすがだと思いました。
B-29元乗員の話で直上逆落しのトンでもない攻撃してたのは菅野直だなw オハイオ州デイトンの米空軍博物館の紫電改は昔見ました。丁度修復施設のほうでレストア中でしたので子細に見学が出来ました。機体右側風防直後にハッチがありますが中にプロペラ氷結防止用のアルコールタンクが見えこれは当時の物資不足を反映して木製でした(ニッポンの樽職人の技が生かされてた!wちなみに計器盤も木製です)。またここは乗員用の膨張式浮舟が格納されていた場所です。非常に精悍な感じの戦闘機であり見比べてコルセアやグラマンF6と言った米戦闘機に引けを取らず、性能は勿論、風防前面の防弾ガラスや防漏式燃料タンク等の防弾装備ばかりでなく救命装備でも世界に遜色のない戦闘機を昭和20年のあの当時に作り得たわけで、またそれを操る搭乗員も斯くの如く立派な方々だったことを誇りに思います。
歴史の本を読むのは好きなのですが、機械のことがどうもわからず、動画の整理もアップも四苦八苦しております。義理の兄が飛行機おたくで、配達の仕事をしているのですが、英語で説明してもらっても、いまいち理解できず・・・
30年前、ホノルル空港で小型飛行機の体験操縦に参加しました。離陸から着陸まで一時間ですが風に流される感覚は忘れられません。その際、地上でのブリーフィングでスタッフが源田氏がホノルル上空を飛行することがありますが真珠湾方面は飛ばない、と教えてくれました。お見事な着水です。お疲れ様でしたご苦労様でした合掌
実は遠い親戚がこの引きあげ作業員にいます。もうあらゆる人(ガテン系の)に声かかったと聞いています。
海軍航空で主流派が源田さん。反主流派が柴田さん。この同期2人の対象的な歩みを知ると、現在でも主流でないと物事は変えづらいって事がよくわかる。
柴田さん、ぜんぜん知りませんでした。紫電改行く前に勉強しておきます。
柴田武雄 源田氏と同期でも同じく戦闘機搭乗員詳しくはネットで書いてあります。参考にして下さい。
柴田さん、正しいことも言っているけど、あまりに変人もといエキセントリックな人だったので、組織の中で受け入れがたかったのでは?
志賀飛行長、素晴らしい方ですね
だいたい人は皆、光と影の両方をもっているものだと母(歴史好き)がよく言っています。
初島さんの機である可能性が高いようだ
次の動画は案内の話もいれます。ペイントしてあった文字を警察がいろんなテクニックで読み取ろうとしたそうですが、それもわからなかったそうです。
33:40 79年に83という事はこの婆さん19世紀の生まれか
祖母も生きていたら、いい勝負だったんですけどね。
@@記録動画保管庫 様大和撫子!
紫電改のタカ」を「少年」(月刊雑誌)だったかと記憶するが、夢中になって読んだことを思い出した。実在した海兵70期;菅野直大尉(飛行隊長)を主人公としたさいとうたかを(たしか・・・)の漫画だった。菅野直は昭和20年に散ったがまだ23歳だった。
紫電改のタカの作者はちばてつやさんでした。
あれは手元にないけど、よみました!漫画の皆さん、水木しげるさんといい、最初は戦記ものばかり描いていた時代があるんですねぇ。
数年前、愛南町へ行きました。感無量です。343空の活躍はこれだけではありません。この部隊が戦後の皇統護持作戦へと続いて行くのだが、状況によっては日本の将来を託したと言っても過言では無い重要な任務を背負っていました。
遊就館は何度か行きました。ワシントンやシカゴの博物館で、グラマン、スピットファイア、メッサーシュミット、マッキと一緒にゼロファイターが天井からぶらさがっていて、やはり海に沈んでいたものとは状態がだいぶ違うみたいですね。愛南町のはガイドさん予約してみました。
@@shikokuhistoryさん 愛南町へ行き343空に興味を持たれたら「三四三空隊誌」の購入をお勧めします。大戦期の飛行機に興味があるなら四国からだと少し遠いのですが山梨県の「河口湖自動車博物館飛行館」へ行かれた事はありますか?8月しか開館していないのですが、遊就館の52型を納めた所です。零戦の他、隼、一式陸攻、彩雲、桜花などの再生(静態)他、エンジン等も展示されています。
@@zb2682 桜花!遊就館でいちばんよく覚えています。飛行機が好きだったのは私の父で、私はあまり・・・・でも、不思議地と最近よく思い出すのです。
いいねえ
👉😡💥源田はDSです紫電改部隊を作ったけど自分は特攻には行かず終戦まで生き残って部下には出撃させ特攻しろなどと命じた輩です!!DS政府らに優遇されました!!
司令官なのに源田は点でしか物事が見えていない点ではなく線で考えないとね
なるほど。点でしか考えないというのは、野球ではダメな監督ですね。
僅かに40年前の動画。なのに当時の主人公達の生なましい話が聞けるなんて。当時はNHKもちゃんと仕事をしてたのだと感銘を受けた。作れる要素がないのに、むざむざ戦闘員と共に消耗していく狂った戦略。やはり腹が立つ。政治的な罪がでっち上げられたというけれど、死んで当然だと思います。ただ戦地で一方的に処刑された兵隊さんたちは可哀想過ぎる。戦争が悪いとか適当に政治にまた利用される。戦争が悪いわけじゃないよ。それを利用するクズ人間が一番悪い。
処刑ってのは本当に腹がたちます。
かなり古いですね。アナログ放送なので、2005年ごろの映像でしょうか?
ドラマは最近のものですが、引き揚げ作業は1979年なので、その当時の番組です。たしかにアナログ放送で、ビデオカセットテレビをもっているのですが、どうもそろそろ限界のようです。
ルメイに叙勲させた人でしたよね
そうなんですね。今いろんな本や動画で勉強中です。11月に愛南町に行く予定なのです。
それは佐藤内閣の方針ですでに決まっていたことで、源田さんが決めたことではないですよ。
@@daiki19932002そうですよね。源田さん一人が決定して、実行したこととは思えません。
@@daiki19932002 そうですよね。一人で決められるわけありませんよね。
発見したひとは40メートルまさか素潜りじゃ…
漁師が大事な錨を拾うためですから、ダイバーだと思います。貝をとったりする漁師さんもいて、その方も資格もっています。
水木しげる先生が出兵されたラバウル。
妖怪ものはあれですが、水木しげるさんのラバウル体験は好きなので、ほとんどの本を読破しているとおもいまーす
負けた戦争 今ごろ反省 後悔しても 手遅れだ。生まれた時代が悪いとひどい目に合う。
後悔は遅いかもしれませんが、検証と教育は大切だと思っています。
カイ=シデン………最後のホワイト・ベース乗組員
燃えあが~れ、・・・・・ガンダム
源田実は国賊と認識している。
そんなん言うたんなや!命賭けて国の為に戦ってたんやぞ
@@いいいあああ-b6u話は信じるが戦果だけが全てなのでな
@@galdoo5760 戦争に行った事も無いのになにエラソーにいうとんねん!(笑)恥ずかしいないん?
どうかなぁ。一人で決定したことじゃありませんしね。
そう思わされているだけである。国のために戦ったのは山口多聞をはじめ若くして散っていった者たちである。こやつは戦後には国会議員となり米国に媚びを売り保身に走ったのである。自身で調べてみよ
みづぎぃ〜〜
水着って水着のこと?さすがにもう寒くなってきました
でも、ありがとうございます!家族からは笑われています
ミートボール
イシイの?
それは大リーグ用語で、「甘いコースの球?」
いしいとは?
@@shikokuhistory イシイのおべんとクン ミートボール
➡➡ 39:35 実に素晴らしい光景やな。何度見ても・・・飽きへんワイ。ロシア軍の 戦闘機や戦車も・・・はよ こうなってほしいワイ。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
私、武器はまったく詳しくないけど、紫電改にもものすごく弾かれます。
@@shikokuhistory 侵略国家の兵器など・・・滅びて当然やで。ロシア軍の兵器が称賛されることなど許されへんのと同様だワイ。
➡➡ 38:30 フェイク ‼‼‼‼170機も撃墜しとるわけねーやろ。実際は・・・せいぜい その4分の1・・・やで。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
42機は日本国内と満州をあわせて?
@@shikokuhistory 日本国内での戦果・・・アメリカ軍相手の戦果・・・やな。アメリカ空軍機・・・日本軍にとっては・・・簡単に撃墜できる対象ではないワイ。
@@時間無制限永遠 高射砲ってなかなか当たらなかったそうですねぇ。
➡➡ 6:18 戦争 基地外😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
その6時18分にちらっとうつる防空壕(飛行機用)は今もあります。友だちのお父さんがかりだされて、汗だくでつくったそうです。
@@shikokuhistory 例えるならば・・・2024年10月27日現在・・・クルスク州在住のロシア人が・・・ロシアの侵略行為を称賛しながら・・・塹壕堀りをするのと同じだワイ。
徴兵がこなかった年寄が、駆り出されたとうです。今もあれ空港に行くとき、ちらっと見えるんですよね。何にも使えません。
➡➡ 侵略戦争に対する謝罪や反省・・・とうとう最後までなかったワイ。2024年 10月26日 現在の・・・ロシアのテレビ番組同様・・・だワイ。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
侵略は太平洋戦争以から欧米列強国において行われていた訳で…日本の軍隊が当時の現地住民達からいかに信頼された存在であったか…まあ、これもケイス・バイケイス的な場面もあったには違いないが…マキンやタラワ等の年長者の現地住民達はそのほとんどが、当時の日本の軍人のそれを、心から称賛している事実がある…。アイアム・昭和😝フジタ・ヒデアキ
貴重な動画をありがとうございます。
涙が出ました…
私も何度みても涙ぐんでしまいます。
叔父さんは紫電改の設計をしていた。層流翼の説明も、誉エンジンの良さも、中学生の私にも、親切に説明してくれました。日本人は一生懸命に戦ったと思う。悪いところも在ったけど、今の日本人には無い、大切な物が込められた紫電改です。
叔父様は堀辰雄や糸島博士みたいな仕事をされていたのでしょうか?糸島先生の本は何冊か読みましたが、終戦後5年は自決することばかり頭からはなれなかったそうです。
@@shikokuhistory さん。叔父さんは東條英機さんの息子さんと一緒だったそうで、そう高名でもないですが、パッと見たトタンに後光が差すように見える程、頭が良かった感じです。一人の技師として、ゼロの改良などに携わり、海軍一般に携わり、最終に紫電改だったと、聞きました。排気タービンが作れず、挺身隊の若者工員の精度の悪い部品に泣かされ、苦しい現場だった様です。
@@五十嵐仁-k1z すごいすごい!三菱自動車の社長になった方ですか?それと戦争中は阿片王里見の家に下宿していた息子もいましたよね。
@@shikokuhistory さん。そんな有名人では無いですよ。戦後は飛行機エンジニアの道がアメリカに断たれて、新潟の田舎でヤンマーの耕運機屋でした。
@@五十嵐仁-k1z 日本の技術者は有名じゃない人のほうが、本当に実力をもっているんですよねぇ。父がよくそう言っています。
なんと貴重な映像。アップありがとうございます!!
四国の地元テレビがしょっちゅう番組にしてくれています。
UPありがとうございます。宇和島に機体を見に行ったことがあります。
パイロットの皆さんは、皆、文武両道のスーパーエリート。アメリカに勝てないことなど十分分かりながら、次世代の為に我が身を捨てて行かれた姿は胸にきます。
私も行ってきたばかりで、動画はどういう切り口にしようかな?と迷っているところで、他を参考にさせてもらっています。
海兵本科、大学生からの飛行予備学生、ご生存の方はその優秀な頭脳で大学教授や政治家として名を成されました。また年若の予科練習生・陸軍なら少年飛行学校出身者のご生存のかたは、多くのかたが実業家はもとより、新制中学・高校の教員ほかになられ、戦後の教育復興を支えられました。
同様の例として、アメリカ合衆国では、宇宙飛行士・政治家などで名を残された方が多くおられます。戦後ドイツ連邦共和国では継続的に空の軍人として、または工業産業の実業家として人生を全うされた方が多いのです。
@@saikousikikan アメリカやドイツまで!すごいですね。日本でも車や新幹線の開発に進まれ、復興につながったと聞いています。あと糸島博士みたいな方も!
引き揚げられた紫電改にご苦労様でしたと語りかける人、花を手向ける人、手を合わせる人、静かに見守る人......このシーンなぜか何度も見てしまいます😢
すごくわかります。あまり武器関係には興味なかったのに、飛行機は違う思い入れがたくさんあります。福生の米軍基地も年に1回、公開してくれます。
これ、何年か前にUA-camで見て、ずっと見たかったんです!
その当時、松山の予科練にいたおじいちゃんに見せて源田実さんが出てきたら「こいつのせいでミッドウェーは負けた、潔く腹を切って死ねばよかったのに」と言ってたのがとても印象に残ってて
@@arimatchch2634 yotube はいろんなルールがあってTV局は絶対すぐブロックするものやアップして収益がTV局に行く設定に知るとか、自分で保管しておかないと見たいものが消されてしまうので、テレビ局に申請して許可もらってアップしました。
さっそくですが、紫電改記念館に見学に行ってきました。感慨深い思いがします。貴重な映像UPありがとうございました。
天気よかったですか?私のときは最悪でしたw
なんとも遺族親族の気丈な振る舞いか。
編集でそのような姿に編集されたものだったのかもしれないが、近年の御涙頂戴&戦争は虚とは大きく異なる描写に感じる。
是非は兎も角、国の為に天命を与えられ信念を持って挑んだ当時全ての人たちに日本人として敬意を持ちたい。
私もそこがいちばん心にひびきました。四国の人って肝が据わっているところがあるから、あまりドタバタとしてないんですよね。
私の祖父は「紫電」でした😮
着陸時に脚を壊して修理中に終戦しました😢
紫電だったのですね。ゼロ戦のほうが人数は多いので、貴重でしたね。修理する技術はあっても、材料が不足していたそうですね
@shikokuhistory 様
元々は海軍第六航空隊でミッドウェイ島に駐留すべく零式21型で空母「加賀」に乗りました
対空戦闘の為「加賀」を発艦
母艦被弾で空母「飛龍」に着艦
母艦被弾で愛機を失いました
204航空部隊に所属してトラック基地へ
フィリピン迄転進して「神風特別自爆隊」の護衛を勤めて機体を置いて内地へ
松山基地で新機材受けとり後沖縄へ進出する為待機してましたが343航空部隊に仮配属され「紫電」に乗りました
撃墜機数9機体 撃破9機
航空自衛隊ではF86にも乗りましたが教官勤務時に病没 階級は二尉
その当時の方々が乗り切ってくれたおかげで今日の平和な日本があるのです。
乗り切らなかったらもっと早く戦争終わってたんでは?
と考えることもあります。
戦争は嫌だ。
@@nears47 それは違う。露にやられてしまうから戦わねばならないのです
捕虜になることは恥じゃない、ということは知ってほしかったですね。ぽんちゃんの最初のほうの動画(ロシア人の墓地です)にありますが、日露戦争のときまで日本はその点をすごく理解していたのに、だんだん変わってしまいました。
合掌🙏 貴重な映像を拝見できてありがたいです🥺
NHKは丸ごと番組をはるとクレームつけてくると聞いていますから(まあ、当然でしょうが)そのうち非公開にしてしまいます。
じいさん 陸百式司偵乗りやったけど四国出身で紫電改に興味ありで引き上げ早々の南楽園に一緒に見に行きました 貴重な動画ありがとう
そうなんですか!それは熱い思いがあったのでしょうね。愛媛県といってもかなり広くて、あそこまで行くのは大変だったと思います。知人のお父さんも土建屋さん勤務で引き上げ作業には狩りだされたそうです。
源田は軍令部航空参謀として神風特別攻撃隊の立案者なのに、戦後は大西瀧治郎に責任を押し付けて著書等でも一切特攻を語らなかった男。最近のネットニュース「俺は死ぬ係じゃないから」…特攻作戦を採用した男が、終戦直後に言い放った「衝撃的な言葉」参照。
立案者という声はよく聞きます。でも、本当のところはどうなのでしょう。たった一人で、そんな大きなことを決定できたのでしょうか。東条英機の戦犯もそうです。もちろん責任はあるでしょうけど、一人ではじめられた戦争とは思えないのです。
@@shikokuhistoryそういう空気というかが出来上がっているし、日露戦争とか第一次大戦とかの記憶が抜けきれないから、戦後の未来なんかを想像できなかったんでしょうね。
ともかく勝ち続けたのはよくなかったのかもしれませんね。坂の上の雲のドラマ、やっぱり「日本海海戦」の回が好きで、何度も見てしまう自分がいます。あれ負けていたら、絶対に見たくなかったと思うのです。
大西大将に、「自分のところは生きて戦うので」と言って、特攻を断った話は有名ですが、実際はもう少し長い会話で、「わたくしのところの隊員は、一回こっきりの攻撃作戦で死なせてしまう訓練はしてません。とことん生き残って敵を迎え撃つのです」が全文的です。
次の日に松山の小園司令のところに出向いた大将は、全く同じ言葉を小園大佐からも聞かされて、高性能マシンを用いた迎撃戦闘機隊の重要性をようやく気付かされたようです。大将は終戦時に、万死に値するの言葉を残して切腹されました。
@@室井修-k1r さま:動き始めてから気づいても遅いって奴ですね。戦争が深みにハマるにつれ、国民を挙げておかしくなって行った日本民族とも言われてます。挙国一致ランナーズハイのような。
源田実氏や搭乗員の方のインタビュー初めて拝見しました。
やっぱり当時軍人だった方は肝が据わった喋り方をされてますね。
研ぎ澄まされているなと感じました。
批判があっても、やはり本人がむきあってコメントを残すということは何よりもの供養だと私は感じています。
源田は戦前戦中戦後と日本の足を引っ張り回したな、責任も取らず上手く立ちまわった
自衛隊の偉い人になりましたね。それはいいけど、部下たちのことは認めて、遺族の面倒をみてほしかったです。
源田は海軍の中でもかなりの部下思いだった人で有名ですよ。なにせあの故菅野直氏が慕っていたくらいですからね。戦後に部下の遺族の方々とも交流を図っています。ここで取り上げられているゼロ戦引き上げの件も、遺族の要望を聞いた源田氏(当時参議院議員)が各方面に働きかけた結果、実現したものです。
デストロイヤー管野の母校は角田高校と言うんだの~。大槻教授も後輩なんだの~。源田実は田中軍団だの~角繋がりかの~。
@@daiki19932002 そうなねすね。責任とらず上手・・・うんぬんは海軍全般に言えることで、1人にかぎったことじゃありませんよね。陸軍のほうが海軍のほうが東京裁判でも裁判を死刑をださず、のりきりました。(まったくほめていません)
そんなの源田司令官に限った話じゃ無いし、すでに書かれてる人もいるが、源田は普通に部下想いで有名だったぞ
実にいいレポートでした。
学者や司会者が上から目線の解説をするのではなく、実際その場で生きてきた人たちの証言をまとめているドキュメンタリーですね。さすがだと思いました。
B-29元乗員の話で直上逆落しのトンでもない攻撃してたのは菅野直だなw オハイオ州デイトンの米空軍博物館の紫電改は昔見ました。丁度修復施設のほうでレストア中でしたので子細に見学が出来ました。機体右側風防直後にハッチがありますが中にプロペラ氷結防止用のアルコールタンクが見えこれは当時の物資不足を反映して木製でした(ニッポンの樽職人の技が生かされてた!wちなみに計器盤も木製です)。またここは乗員用の膨張式浮舟が格納されていた場所です。非常に精悍な感じの戦闘機であり見比べてコルセアやグラマンF6と言った米戦闘機に引けを取らず、性能は勿論、風防前面の防弾ガラスや防漏式燃料タンク等の防弾装備ばかりでなく救命装備でも世界に遜色のない戦闘機を昭和20年のあの当時に作り得たわけで、またそれを操る搭乗員も斯くの如く立派な方々だったことを誇りに思います。
歴史の本を読むのは好きなのですが、機械のことがどうもわからず、動画の整理もアップも四苦八苦しております。義理の兄が飛行機おたくで、配達の仕事をしているのですが、英語で説明してもらっても、いまいち理解できず・・・
30年前、ホノルル空港で小型飛行機の体験操縦に参加しました。離陸から着陸まで一時間ですが風に流される感覚は忘れられません。
その際、地上でのブリーフィングでスタッフが源田氏がホノルル上空を飛行することがありますが真珠湾方面は飛ばない、と教えてくれました。
お見事な着水です。
お疲れ様でした
ご苦労様でした
合掌
実は遠い親戚がこの引きあげ作業員にいます。もうあらゆる人(ガテン系の)に声かかったと聞いています。
海軍航空で主流派が源田さん。
反主流派が柴田さん。
この同期2人の対象的な歩みを知ると、現在でも主流でないと物事は変えづらいって事がよくわかる。
柴田さん、ぜんぜん知りませんでした。紫電改行く前に勉強しておきます。
柴田武雄 源田氏と同期でも同じく戦闘機搭乗員詳しくはネットで書いてあります。参考にして下さい。
柴田さん、正しいことも言っているけど、あまりに変人もといエキセントリックな人だったので、組織の中で
受け入れがたかったのでは?
志賀飛行長、素晴らしい方ですね
だいたい人は皆、光と影の両方をもっているものだと母(歴史好き)がよく言っています。
初島さんの機である可能性が高いようだ
次の動画は案内の話もいれます。ペイントしてあった文字を警察がいろんなテクニックで読み取ろうとしたそうですが、それもわからなかったそうです。
33:40 79年に83という事はこの婆さん19世紀の生まれか
祖母も生きていたら、いい勝負だったんですけどね。
@@記録動画保管庫 様
大和撫子!
紫電改のタカ」を「少年」(月刊雑誌)だったかと記憶するが、夢中になって読んだことを思い出した。実在した海兵70期;菅野直大尉(飛行隊長)を主人公としたさいとうたかを(たしか・・・)の漫画だった。菅野直は昭和20年に散ったがまだ23歳だった。
紫電改のタカの作者はちばてつやさんでした。
あれは手元にないけど、よみました!漫画の皆さん、水木しげるさんといい、最初は戦記ものばかり描いていた時代があるんですねぇ。
数年前、愛南町へ行きました。感無量です。343空の活躍はこれだけではありません。この部隊が戦後の皇統護持作戦へと続いて行くのだが、状況によっては日本の将来を託したと言っても過言では無い重要な任務を背負っていました。
遊就館は何度か行きました。ワシントンやシカゴの博物館で、グラマン、スピットファイア、メッサーシュミット、マッキと一緒にゼロファイターが天井からぶらさがっていて、やはり海に沈んでいたものとは状態がだいぶ違うみたいですね。愛南町のはガイドさん予約してみました。
@@shikokuhistoryさん 愛南町へ行き343空に興味を持たれたら「三四三空隊誌」の購入をお勧めします。
大戦期の飛行機に興味があるなら四国からだと少し遠いのですが山梨県の「河口湖自動車博物館飛行館」へ行かれた事はありますか?8月しか開館していないのですが、遊就館の52型を納めた所です。零戦の他、隼、一式陸攻、彩雲、桜花などの再生(静態)他、エンジン等も展示されています。
@@zb2682 桜花!遊就館でいちばんよく覚えています。飛行機が好きだったのは私の父で、私はあまり・・・・でも、不思議地と最近よく思い出すのです。
いいねえ
👉😡💥源田はDSです紫電改部隊を作ったけど自分は特攻には行かず終戦まで生き残って部下には出撃させ特攻しろなどと命じた輩です!!DS政府らに優遇されました!!
司令官なのに源田は点でしか物事が見えていない
点ではなく線で考えないとね
なるほど。点でしか考えないというのは、野球ではダメな監督ですね。
僅かに40年前の動画。なのに当時の主人公達の生なましい話が聞けるなんて。当時はNHKもちゃんと仕事をしてたのだと感銘を受けた。作れる要素がないのに、むざむざ戦闘員と共に消耗していく狂った戦略。やはり腹が立つ。政治的な罪がでっち上げられたというけれど、死んで当然だと思います。ただ戦地で一方的に処刑された兵隊さんたちは可哀想過ぎる。戦争が悪いとか適当に政治にまた利用される。戦争が悪いわけじゃないよ。それを利用するクズ人間が一番悪い。
処刑ってのは本当に腹がたちます。
かなり古いですね。
アナログ放送なので、2005年ごろの映像でしょうか?
ドラマは最近のものですが、引き揚げ作業は1979年なので、その当時の番組です。たしかにアナログ放送で、ビデオカセットテレビをもっているのですが、どうもそろそろ限界のようです。
ルメイに叙勲させた人でしたよね
そうなんですね。今いろんな本や動画で勉強中です。11月に愛南町に行く予定なのです。
それは佐藤内閣の方針ですでに決まっていたことで、源田さんが決めたことではないですよ。
@@daiki19932002そうですよね。源田さん一人が決定して、実行したこととは思えません。
@@daiki19932002 そうですよね。一人で決められるわけありませんよね。
発見したひとは40メートルまさか素潜りじゃ…
漁師が大事な錨を拾うためですから、ダイバーだと思います。貝をとったりする漁師さんもいて、その方も資格もっています。
水木しげる先生が出兵されたラバウル。
妖怪ものはあれですが、水木しげるさんのラバウル体験は好きなので、ほとんどの本を読破しているとおもいまーす
負けた戦争 今ごろ反省 後悔しても 手遅れだ。生まれた時代が悪いとひどい目に合う。
後悔は遅いかもしれませんが、検証と教育は大切だと思っています。
カイ=シデン………最後のホワイト・ベース乗組員
燃えあが~れ、・・・・・ガンダム
源田実は国賊と認識している。
そんなん言うたんなや!
命賭けて国の為に戦ってたんやぞ
@@いいいあああ-b6u話は信じるが戦果だけが全てなのでな
@@galdoo5760
戦争に行った事も無いのになにエラソーにいうとんねん!(笑)
恥ずかしいないん?
どうかなぁ。一人で決定したことじゃありませんしね。
そう思わされているだけである。国のために戦ったのは山口多聞をはじめ若くして散っていった者たちである。こやつは戦後には国会議員となり米国に媚びを売り保身に走ったのである。自身で調べてみよ
みづぎぃ〜〜
水着って水着のこと?さすがにもう寒くなってきました
でも、ありがとうございます!家族からは笑われています
ミートボール
イシイの?
それは大リーグ用語で、「甘いコースの球?」
いしいとは?
@@shikokuhistory イシイのおべんとクン ミートボール
➡➡ 39:35 実に素晴らしい光景やな。何度見ても・・・飽きへんワイ。ロシア軍の 戦闘機や戦車も・・・はよ こうなってほしいワイ。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
私、武器はまったく詳しくないけど、紫電改にもものすごく弾かれます。
@@shikokuhistory 侵略国家の兵器など・・・滅びて当然やで。ロシア軍の兵器が称賛されることなど許されへんのと同様だワイ。
➡➡ 38:30 フェイク ‼‼‼‼170機も撃墜しとるわけねーやろ。実際は・・・せいぜい その4分の1・・・やで。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
42機は日本国内と満州をあわせて?
@@shikokuhistory 日本国内での戦果・・・アメリカ軍相手の戦果・・・やな。アメリカ空軍機・・・日本軍にとっては・・・簡単に撃墜できる対象ではないワイ。
@@時間無制限永遠 高射砲ってなかなか当たらなかったそうですねぇ。
➡➡ 6:18 戦争 基地外😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
その6時18分にちらっとうつる防空壕(飛行機用)は今もあります。友だちのお父さんがかりだされて、汗だくでつくったそうです。
@@shikokuhistory 例えるならば・・・2024年10月27日現在・・・クルスク州在住のロシア人が・・・ロシアの侵略行為を称賛しながら・・・塹壕堀りをするのと同じだワイ。
徴兵がこなかった年寄が、駆り出されたとうです。今もあれ空港に行くとき、ちらっと見えるんですよね。何にも使えません。
➡➡ 侵略戦争に対する謝罪や反省・・・とうとう最後までなかったワイ。2024年 10月26日 現在の・・・ロシアのテレビ番組同様・・・だワイ。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
侵略は太平洋戦争以から欧米列強国において行われていた訳で…日本の軍隊が当時の現地住民達から
いかに信頼された存在であったか…まあ、これもケイス・バイケイス的な場面もあったには違いないが…マキンやタラワ等の年長者の現地住民達はそのほとんどが、当時の日本の軍人のそれを、心から称賛している事実がある…。アイアム・昭和😝フジタ・ヒデアキ