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叔父さんは紫電改の設計をしていた。層流翼の説明も、誉エンジンの良さも、中学生の私にも、親切に説明してくれました。日本人は一生懸命に戦ったと思う。悪いところも在ったけど、今の日本人には無い、大切な物が込められた紫電改です。
叔父様は堀辰雄や糸島博士みたいな仕事をされていたのでしょうか?糸島先生の本は何冊か読みましたが、終戦後5年は自決することばかり頭からはなれなかったそうです。
@@shikokuhistory さん。叔父さんは東條英機さんの息子さんと一緒だったそうで、そう高名でもないですが、パッと見たトタンに後光が差すように見える程、頭が良かった感じです。一人の技師として、ゼロの改良などに携わり、海軍一般に携わり、最終に紫電改だったと、聞きました。排気タービンが作れず、挺身隊の若者工員の精度の悪い部品に泣かされ、苦しい現場だった様です。
@@五十嵐仁-k1z すごいすごい!三菱自動車の社長になった方ですか?それと戦争中は阿片王里見の家に下宿していた息子もいましたよね。
@@shikokuhistory さん。そんな有名人では無いですよ。戦後は飛行機エンジニアの道がアメリカに断たれて、新潟の田舎でヤンマーの耕運機屋でした。
なんと貴重な映像。アップありがとうございます!!
四国の地元テレビがしょっちゅう番組にしてくれています。
数年前、愛南町へ行きました。感無量です。343空の活躍はこれだけではありません。この部隊が戦後の皇統護持作戦へと続いて行くのだが、状況によっては日本の将来を託したと言っても過言では無い重要な任務を背負っていました。
その当時の方々が乗り切ってくれたおかげで今日の平和な日本があるのです。
乗り切らなかったらもっと早く戦争終わってたんでは?と考えることもあります。戦争は嫌だ。
@@nears47 それは違う。露にやられてしまうから戦わねばならないのです
源田は戦前戦中戦後と日本の足を引っ張り回したな、責任も取らず上手く立ちまわった
自衛隊の偉い人になりましたね。それはいいけど、部下たちのことは認めて、遺族の面倒をみてほしかったです。
源田は海軍の中でもかなりの部下思いだった人で有名ですよ。なにせあの故菅野直氏が慕っていたくらいですからね。戦後に部下の遺族の方々とも交流を図っています。ここで取り上げられているゼロ戦引き上げの件も、遺族の要望を聞いた源田氏(当時参議院議員)が各方面に働きかけた結果、実現したものです。
お見事な着水です。お疲れ様でしたご苦労様でした合掌
海軍航空で主流派が源田さん。反主流派が柴田さん。この同期2人の対象的な歩みを知ると、現在でも主流でないと物事は変えづらいって事がよくわかる。
柴田さん、ぜんぜん知りませんでした。紫電改行く前に勉強しておきます。
柴田武雄 源田氏と同期でも同じく戦闘機搭乗員詳しくはネットで書いてあります。参考にして下さい。
源田実は国賊と認識している。
そんなん言うたんなや!命賭けて国の為に戦ってたんやぞ
@@いいいあああ-b6u話は信じるが戦果だけが全てなのでな
@@galdoo5760 戦争に行った事も無いのになにエラソーにいうとんねん!(笑)恥ずかしいないん?
どうかなぁ。一人で決定したことじゃありませんしね。
そう思わされているだけである。国のために戦ったのは山口多聞をはじめ若くして散っていった者たちである。こやつは戦後には国会議員となり米国に媚びを売り保身に走ったのである。自身で調べてみよ
ルメイに叙勲させた人でしたよね
そうなんですね。今いろんな本や動画で勉強中です。11月に愛南町に行く予定なのです。
それは佐藤内閣の方針ですでに決まっていたことで、源田さんが決めたことではないですよ。
@@daiki19932002そうですよね。源田さん一人が決定して、実行したこととは思えません。
司令官なのに源田は点でしか物事が見えていない点ではなく線で考えないとね
カイ=シデン………最後のホワイト・ベース乗組員
負けた戦争 今ごろ反省 後悔しても 手遅れだ。生まれた時代が悪いとひどい目に合う。
33:40 79年に83という事はこの婆さん19世紀の生まれか
祖母も生きていたら、いい勝負だったんですけどね。
水木しげる先生が出兵されたラバウル。
源田は軍令部航空参謀として神風特別攻撃隊の立案者なのに、戦後は大西瀧治郎に責任を押し付けて著書等でも一切特攻を語らなかった男。最近のネットニュース「俺は死ぬ係じゃないから」…特攻作戦を採用した男が、終戦直後に言い放った「衝撃的な言葉」参照。
紫電改のタカ」を「少年」(月刊雑誌)だったかと記憶するが、夢中になって読んだことを思い出した。実在した海兵70期;菅野直大尉(飛行隊長)を主人公としたさいとうたかを(たしか・・・)の漫画だった。菅野直は昭和20年に散ったがまだ23歳だった。
紫電改のタカの作者はちばてつやさんでした。
いいねえ
みづぎぃ〜〜
水着って水着のこと?さすがにもう寒くなってきました
ミートボール
イシイの?
それは大リーグ用語で、「甘いコースの球?」
いしいとは?
➡➡ 38:30 フェイク ‼‼‼‼170機も撃墜しとるわけねーやろ。実際は・・・せいぜい その4分の1・・・やで。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
42機は日本国内と満州をあわせて?
@@shikokuhistory 日本国内での戦果・・・アメリカ軍相手の戦果・・・やな。アメリカ空軍機・・・日本軍にとっては・・・簡単に撃墜できる対象ではないワイ。
➡➡ 39:35 実に素晴らしい光景やな。何度見ても・・・飽きへんワイ。ロシア軍の 戦闘機や戦車も・・・はよ こうなってほしいワイ。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
私、武器はまったく詳しくないけど、紫電改にもものすごく弾かれます。
@@shikokuhistory 侵略国家の兵器など・・・滅びて当然やで。ロシア軍の兵器が称賛されることなど許されへんのと同様だワイ。
➡➡ 6:18 戦争 基地外😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
その6時18分にちらっとうつる防空壕(飛行機用)は今もあります。友だちのお父さんがかりだされて、汗だくでつくったそうです。
@@shikokuhistory 例えるならば・・・2024年10月27日現在・・・クルスク州在住のロシア人が・・・ロシアの侵略行為を称賛しながら・・・塹壕堀りをするのと同じだワイ。
徴兵がこなかった年寄が、駆り出されたとうです。今もあれ空港に行くとき、ちらっと見えるんですよね。何にも使えません。
➡➡ 侵略戦争に対する謝罪や反省・・・とうとう最後までなかったワイ。2024年 10月26日 現在の・・・ロシアのテレビ番組同様・・・だワイ。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
侵略は太平洋戦争以から欧米列強国において行われていた訳で…日本の軍隊が当時の現地住民達からいかに信頼された存在であったか…まあ、これもケイス・バイケイス的な場面もあったには違いないが…マキンやタラワ等の年長者の現地住民達はそのほとんどが、当時の日本の軍人のそれを、心から称賛している事実がある…。アイアム・昭和😝フジタ・ヒデアキ
叔父さんは紫電改の設計をしていた。層流翼の説明も、誉エンジンの良さも、中学生の私にも、親切に説明してくれました。日本人は一生懸命に戦ったと思う。悪いところも在ったけど、今の日本人には無い、大切な物が込められた紫電改です。
叔父様は堀辰雄や糸島博士みたいな仕事をされていたのでしょうか?糸島先生の本は何冊か読みましたが、終戦後5年は自決することばかり頭からはなれなかったそうです。
@@shikokuhistory さん。叔父さんは東條英機さんの息子さんと一緒だったそうで、そう高名でもないですが、パッと見たトタンに後光が差すように見える程、頭が良かった感じです。一人の技師として、ゼロの改良などに携わり、海軍一般に携わり、最終に紫電改だったと、聞きました。排気タービンが作れず、挺身隊の若者工員の精度の悪い部品に泣かされ、苦しい現場だった様です。
@@五十嵐仁-k1z すごいすごい!三菱自動車の社長になった方ですか?それと戦争中は阿片王里見の家に下宿していた息子もいましたよね。
@@shikokuhistory さん。そんな有名人では無いですよ。戦後は飛行機エンジニアの道がアメリカに断たれて、新潟の田舎でヤンマーの耕運機屋でした。
なんと貴重な映像。アップありがとうございます!!
四国の地元テレビがしょっちゅう番組にしてくれています。
数年前、愛南町へ行きました。感無量です。343空の活躍はこれだけではありません。この部隊が戦後の皇統護持作戦へと続いて行くのだが、状況によっては日本の将来を託したと言っても過言では無い重要な任務を背負っていました。
その当時の方々が乗り切ってくれたおかげで今日の平和な日本があるのです。
乗り切らなかったらもっと早く戦争終わってたんでは?
と考えることもあります。
戦争は嫌だ。
@@nears47 それは違う。露にやられてしまうから戦わねばならないのです
源田は戦前戦中戦後と日本の足を引っ張り回したな、責任も取らず上手く立ちまわった
自衛隊の偉い人になりましたね。それはいいけど、部下たちのことは認めて、遺族の面倒をみてほしかったです。
源田は海軍の中でもかなりの部下思いだった人で有名ですよ。なにせあの故菅野直氏が慕っていたくらいですからね。戦後に部下の遺族の方々とも交流を図っています。ここで取り上げられているゼロ戦引き上げの件も、遺族の要望を聞いた源田氏(当時参議院議員)が各方面に働きかけた結果、実現したものです。
お見事な着水です。
お疲れ様でした
ご苦労様でした
合掌
海軍航空で主流派が源田さん。
反主流派が柴田さん。
この同期2人の対象的な歩みを知ると、現在でも主流でないと物事は変えづらいって事がよくわかる。
柴田さん、ぜんぜん知りませんでした。紫電改行く前に勉強しておきます。
柴田武雄 源田氏と同期でも同じく戦闘機搭乗員詳しくはネットで書いてあります。参考にして下さい。
源田実は国賊と認識している。
そんなん言うたんなや!
命賭けて国の為に戦ってたんやぞ
@@いいいあああ-b6u話は信じるが戦果だけが全てなのでな
@@galdoo5760
戦争に行った事も無いのになにエラソーにいうとんねん!(笑)
恥ずかしいないん?
どうかなぁ。一人で決定したことじゃありませんしね。
そう思わされているだけである。国のために戦ったのは山口多聞をはじめ若くして散っていった者たちである。こやつは戦後には国会議員となり米国に媚びを売り保身に走ったのである。自身で調べてみよ
ルメイに叙勲させた人でしたよね
そうなんですね。今いろんな本や動画で勉強中です。11月に愛南町に行く予定なのです。
それは佐藤内閣の方針ですでに決まっていたことで、源田さんが決めたことではないですよ。
@@daiki19932002そうですよね。源田さん一人が決定して、実行したこととは思えません。
司令官なのに源田は点でしか物事が見えていない
点ではなく線で考えないとね
カイ=シデン………最後のホワイト・ベース乗組員
負けた戦争 今ごろ反省 後悔しても 手遅れだ。生まれた時代が悪いとひどい目に合う。
33:40 79年に83という事はこの婆さん19世紀の生まれか
祖母も生きていたら、いい勝負だったんですけどね。
水木しげる先生が出兵されたラバウル。
源田は軍令部航空参謀として神風特別攻撃隊の立案者なのに、戦後は大西瀧治郎に責任を押し付けて著書等でも一切特攻を語らなかった男。最近のネットニュース「俺は死ぬ係じゃないから」…特攻作戦を採用した男が、終戦直後に言い放った「衝撃的な言葉」参照。
紫電改のタカ」を「少年」(月刊雑誌)だったかと記憶するが、夢中になって読んだことを思い出した。実在した海兵70期;菅野直大尉(飛行隊長)を主人公としたさいとうたかを(たしか・・・)の漫画だった。菅野直は昭和20年に散ったがまだ23歳だった。
紫電改のタカの作者はちばてつやさんでした。
いいねえ
みづぎぃ〜〜
水着って水着のこと?さすがにもう寒くなってきました
ミートボール
イシイの?
それは大リーグ用語で、「甘いコースの球?」
いしいとは?
➡➡ 38:30 フェイク ‼‼‼‼170機も撃墜しとるわけねーやろ。実際は・・・せいぜい その4分の1・・・やで。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
42機は日本国内と満州をあわせて?
@@shikokuhistory 日本国内での戦果・・・アメリカ軍相手の戦果・・・やな。アメリカ空軍機・・・日本軍にとっては・・・簡単に撃墜できる対象ではないワイ。
➡➡ 39:35 実に素晴らしい光景やな。何度見ても・・・飽きへんワイ。ロシア軍の 戦闘機や戦車も・・・はよ こうなってほしいワイ。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
私、武器はまったく詳しくないけど、紫電改にもものすごく弾かれます。
@@shikokuhistory 侵略国家の兵器など・・・滅びて当然やで。ロシア軍の兵器が称賛されることなど許されへんのと同様だワイ。
➡➡ 6:18 戦争 基地外😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
その6時18分にちらっとうつる防空壕(飛行機用)は今もあります。友だちのお父さんがかりだされて、汗だくでつくったそうです。
@@shikokuhistory 例えるならば・・・2024年10月27日現在・・・クルスク州在住のロシア人が・・・ロシアの侵略行為を称賛しながら・・・塹壕堀りをするのと同じだワイ。
徴兵がこなかった年寄が、駆り出されたとうです。今もあれ空港に行くとき、ちらっと見えるんですよね。何にも使えません。
➡➡ 侵略戦争に対する謝罪や反省・・・とうとう最後までなかったワイ。2024年 10月26日 現在の・・・ロシアのテレビ番組同様・・・だワイ。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
侵略は太平洋戦争以から欧米列強国において行われていた訳で…日本の軍隊が当時の現地住民達から
いかに信頼された存在であったか…まあ、これもケイス・バイケイス的な場面もあったには違いないが…マキンやタラワ等の年長者の現地住民達はそのほとんどが、当時の日本の軍人のそれを、心から称賛している事実がある…。アイアム・昭和😝フジタ・ヒデアキ