【ゆっくり解説】知られざる各地の名士。1万石超え家老4選

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 28 лют 2024
  • ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    にっぽんぽんTwitter 【制作の裏話など】
    nipponppo/status/...
    にっぽんぽんInstagram【偉人の名言】
    pCcP2FQDva...
    歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
    過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
    先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
    こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
    このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
    ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
    ※動画内の素材はすべて引用であり、著作権や肖像権を侵害する目的はございません。
    著作権などに関するお問い合わせはこちらのアドレスまでお願いします。
    osigotoiraihakotira@gmail.com
    #ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説

КОМЕНТАРІ • 17

  • @user-om3sq5qp5l
    @user-om3sq5qp5l Місяць тому

    蒲池家が出てきた時に蒲池法子顔が出て来て吹いた🤭

  • @user-mj2vy1rn4g
    @user-mj2vy1rn4g 3 місяці тому +4

    自分が住んでる町には、龍造寺政家が隠居して起こした村田家が昭和中期まで住んでましたよ。村長さんも輩出してますし。

  • @masao750
    @masao750 3 місяці тому +3

    本多政重は藤堂高虎の斡旋で筆頭家老として前田家に入った。政重は幕府と交渉して新川郡20万石を加賀藩にもたらした。更なる加増は辞退した。諸藩を転々として人の妬み、嫉妬を充分承知していたから。兄正純が宇都宮18万石に加増後失脚とは対象的。
    十年前に金沢城横に本多家家老館があって実践で使用された血痕の付いた槍が展示されていた。

  • @wa33785
    @wa33785 3 місяці тому +2

    越前家の附家老、武生4万石、本多富正。丸岡4万石、本多成重は1624年独立大名化、のち1695年改易。

  • @yh6146
    @yh6146 3 місяці тому +3

    付家老は明治に大名になって男爵になったけど、大藩の家老は男爵になれたからあまり変わらない。

  • @bigmarch8686
    @bigmarch8686 3 місяці тому +2

    肥後細川藩における家老の松井氏は八代城主でもあった。
    一国一城の例外として薩摩への抑えとして残されたらしい。

  • @user-vy9ob7qc7b
    @user-vy9ob7qc7b 2 місяці тому +1

    芸州浅野家の上田宗箇(一万二千石)
    槍働きでのし上がった戦人であり 織部の高弟として茶人としても名を残した

  • @user-nv8uw2rb9h
    @user-nv8uw2rb9h 3 місяці тому +2

    水野って頼朝からなのか。
    同一の一族かは知らないが、
    頼朝の父親が暗殺された所に
    寺が建ってて、そこの住職は
    尾張藩から代々水野家が継ぐと
    命ぜられて、今でも水野家みたい

  • @user-cz4ig2rq1f
    @user-cz4ig2rq1f 2 місяці тому

    関ヶ原、実際は鍋島勝茂公は西軍についてましたよ。他の戦に行っていて関ヶ原には間に合わなかったですが。
    その後に直茂が責任をとって、息子勝茂を幽閉して当主返り咲き九州戦で指揮とってその功で勝茂の助命含む論功うけとってます。

  • @thomasedinburgh
    @thomasedinburgh 3 місяці тому +1

    紀州藩の正式名称は「和歌山藩」というのを押さえてますね。ところで新宮藩主家の水野家は幕末、14代将軍職争いで勝利を収める「南紀派」のリーダーとして活躍しましたが、独立大名でない水野の活動の裏には経済的裏付けがあったのですね。このエピソードそれに第二次長州征伐、紀州藩の主力としての奮戦などが省略されているのは残念です

  • @gsan1135
    @gsan1135 3 місяці тому +4

    有名なところで 宮本武蔵の養子宮本伊織は小倉小笠原藩の筆頭家老 島原の乱には侍大将として出陣 功績を認められて4000石に加増 宮本武蔵も小笠原藩には伊織のことで恩があるので一緒に島原へ。宮本伊織の家系は幕末迄小笠原藩を支え続ける

  • @manacish
    @manacish 3 місяці тому +2

    和泉国伯太藩1万3千5百石の渡辺家は尾張藩家老の渡辺家1万4千石の分家筋にあたるけど、分家の方が大名で格上だったから本家としては面白くなかっただろうな

    • @user-eb6os3li4u
      @user-eb6os3li4u 3 місяці тому +1

      江戸時代はそういうのが多かったですよね。たくさんの大名家があった大久保家も本家筋は2000石の旗本だったと聞いたことがあります。

    • @manacish
      @manacish 3 місяці тому +1

      あと、磐城平藩安藤家と紀州藩の付家老安藤家についても、紀州の安藤家の方が嫡流なのに、磐城平藩の安藤家の方が江戸期を通して大名だったということで、御三家に付けられた万石クラスの家老らはとんだ貧乏くじかと

  • @user-xb4qu9ly8h
    @user-xb4qu9ly8h 3 місяці тому +3

    超高級住宅地の渋谷区松濤に鍋島という、小学校一つ入りそうな敷地の家があったのだけど、縁者なのかな?
    永田町から遠くないし。
    今は税金対策か相続があったのか半分はマンションになっています。

    • @arinko994
      @arinko994 3 місяці тому +2

      おそらく佐賀鍋島藩の江戸屋敷があった場所ではないでしょうか。
      31万石の大名家なので、相当大きな屋敷跡だったのでは…

  • @user-tx5ge2nw7t
    @user-tx5ge2nw7t 3 місяці тому

    ーコメです