三方ヶ原の戦いの真相 最後の補給路を守るため家康は無謀な戦を挑む【どうする家康】

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 30 січ 2025

КОМЕНТАРІ • 68

  • @KATAUKI
    @KATAUKI Рік тому +6

    13:11
    サラッと流していますが、菅沼氏は500人で1カ月間も籠城しました。当時、最強だった武田信玄の軍は約30,000人です。
    これは本当に異常なことです。
    この功績から戦国時代最後の合戦、天下分け目の関ヶ原の戦の際に江戸城本丸は菅沼氏によって守られました。
    また江戸から明治にかけても子孫繁栄した一族です。

  • @rekishock
    @rekishock  Рік тому +28

    生き残ったからいいものの、この時期の家康は、駿河侵攻以降の武田氏との外交、手も足も出ない三方ヶ原の戦いと失敗続きもいいところでした。
    もし信玄が生きながらえていたら、家康は無能武将として語り継がれていたかもしれませんね。

  • @Miki_Nanase
    @Miki_Nanase Рік тому +6

    やはり天下人になるにはとてつもない幸運が必要なんだなあ、と思いました。
    それと元亀の争乱は畿内情勢も含めてまだまだ解明の余地が大きいとも思います。

  • @黒-k7l
    @黒-k7l Рік тому +6

    信長と義昭の関係性については主さんの説に全面的には肯定出来ないものの、三方原の流れは大変得心の行く内容で勉強になりました。
    信玄が上洛までは目指してはいないであろう事と、家康の追い詰められて行く過程はなるほどと思います。
    家康の運命を分けた点で言えば、籠って自滅を選ばなかったという部分でしょうか。
    ここで敗れるといえど信玄を手こずらせ、生き永らえた事が後々彼の経歴や人物像に大きく貢献していますしね。
    逆にあと一歩で寿命を迎える信玄の不運には本人でなくとも無念の程を感じてしまいますね。

    • @rekishock
      @rekishock  Рік тому

      ここまで大敗しながらも、後に徳川氏を支える本多忠勝らを失わずに生きながらえたのは経験値としてはとても大きかったですよね。
      ここまで家康を追い詰めながらとどめをさせないのは信玄の生涯最大の後悔となりましたね。

  • @KATAUKI
    @KATAUKI Рік тому +2

    9:46
    本多忠勝ばかり注目されるけれど、榊原康政の戦略はスゴかったみたいですね。
    徳川四天王の中で一番の戦場戦略家だと聞きました。

  • @直己-g5v
    @直己-g5v Рік тому +7

    16:55 同年(1573年)その(室町幕府を倒す)勢いで浅井と朝倉を滅ぼした。武田はこの後に長篠の戦いで織田徳川連合軍に手痛い敗北を受けた後、力を落とし、最終的には甲州征伐にて武田は滅ばされる事になる。その3ヶ月後に信長は本能寺の変でこの世を去る。

  • @kora5633boke
    @kora5633boke Рік тому +3

    解説の間、当時の地図を載せてくださるともっとわかりやすいと思います🙇‍♂️

  • @げんちゃん-s9p
    @げんちゃん-s9p Рік тому

    三方ヶ原の戦いは徳川家康公にとっては唯一負けた戦いですけど、さいが崖で武田信玄の部隊を追い込み、布橋や小豆餅などの地名をつけらたから、浜松市民にとっていちばん印象深い戦いですよね。

  • @土井孝三-u1e
    @土井孝三-u1e Рік тому +4

    運も実力の内とも申します。

  • @nj3hi0oqn
    @nj3hi0oqn Рік тому +18

    家康がなぜ信長をあこまで助けたか
    信長が天下を取るの知ってたとしか思えませんね

  • @attemboroughdusty7935
    @attemboroughdusty7935 Рік тому +2

    義昭が京から追放されて室町幕府滅亡したと言うのは徳川の時代に言われた話で足利の歴代将軍で京から離れて流浪した将軍は何人もいる

  • @ーおだいじに
    @ーおだいじに Рік тому +9

    ちょうど放送が終わったタイミング!

  • @theshowmustgoon5760
    @theshowmustgoon5760 Рік тому +3

    レキショック様
    なるほど、浜松城に籠城されたら厄介なので、素通りした訳ではなかったのですね。
    ただ家康は追い詰められていたと。
    結局は亡くなってしまったので、分かりませんが、信玄は京都までいくつもりだったのでしょうか。

    • @rekishock
      @rekishock  Рік тому +6

      京都まで行くかは微妙ですが、朝倉氏と美濃を南北に挟み撃ちする構想はあった可能性は高いようです。

    • @theshowmustgoon5760
      @theshowmustgoon5760 Рік тому

      @@rekishock 様
      返信有難うございます。繰り返しで恐縮ですが、ヒトラーはソ連と独ソ不可侵条約を締結しても、いずれは戦う事を考えていましたが、それと同じで信玄側の視点で書かれた本も、信長側の視点で書かれた本も、同盟を結びながらもお互いいずれ戦う事になる…そう書かれた本が多かった記憶があります。
      よく書かれていたのが、信長が足利義昭を奉じて上洛した為、信玄は焦って駿河侵攻を急いだでした。
      しかし、信長からすれば信玄の侵攻は想定外だったのですね。
      後は信長は信玄が病でもう先は長くないことを知っていたなんて話もありました。実際どうだったのでしょうか。
      三方ヶ原の戦いですが、確かに家康は完敗ですが、野球でいえば完封負けではなく、10点は取られたが徳川も3点は取った、こんな感じでしょうか。

  • @Hashimaki31
    @Hashimaki31 Рік тому +6

    信玄はあと一歩で家康を討ち歴史を動かし損なっていたのがよく解りました。後に逆の立場で長篠設楽原の戦いが起こるのは皮肉ですね。

    • @hirose795
      @hirose795 Рік тому +2

      信玄の慎重さが紙一重になりましたね。
      謙信なら即断して討ってそう

  • @daioh_gtonburi9204
    @daioh_gtonburi9204 Рік тому +11

    やはり義景は「ナイスアシスト」としか言いようがない。

    • @rekishock
      @rekishock  Рік тому +5

      義景が室町幕府を滅ぼしたといえるかもしれませんね笑

    • @tostom3701
      @tostom3701 Рік тому +2

      立地が良いからなんだろうけど越前国に領地を持った大名はヒキコモラーになる傾向が強い

    • @はりきたかし
      @はりきたかし Рік тому +3

      今回の説明は、ホントによく分かりました。 昔の歴史観ではない、新解釈の武田信玄の西上作戦は、浜名湖の際の堀江城を目指していたんですネ~信玄が、後、3年でも、生きていたら、徳川家は、滅亡?か、武田家に臣従した家臣クラスになっていた?かもしれない😢😮😮😮

  • @toshis3972
    @toshis3972 Рік тому +3

    将軍義昭は信長が仲介していた甲越同盟の保証人として動いていました。最初に信玄が兵を集めていると聞いた時には『あいつ何考えてんだ』更に兵を動かしたと聞いた時には『謙信が誤解するような動きは止めて欲しい』と信玄の動きを非難した書状を近臣に送っています。微塵も家康に向けて兵を進めていると思っていなかったんですね
    さて信玄死去後の信長と義昭ですが、4月に和解し信長が領内の体制を立て直そうと京を離れると7月に填島城で再挙兵します。この直前には信玄へ再挙兵を促す文書を送っているため義昭は信玄の死を知らなかったことになります。信長は再度講和を願いますが義昭は拒否し填島城は陥落。この時も御所に戻るよう説得するも義昭が拒否。信長は230年も続いた室町幕府体制後の政治体制をどうするか悩み、毛利家に転がりこんだ義昭に何度目か分からぬ復帰を持ち掛けます。交渉では秀吉が窓口となり毛利家と交渉し、後の中国担当となる下地になります
    この交渉で義昭は京へ戻る条件としてなんと信長に人質を要求。仰天した秀吉は交渉を打ち切り信長も独自政権の構築へと舵を切ります。足利将軍としての地位は義昭が保持し続けますが、室町幕府はこの時完全に復活の目を無くしたと言って良いでしょうね

  • @mandamnippon1
    @mandamnippon1 Рік тому

    浜松出身ですが、浜名湖の庄内半島は知りませんでした。籠城される方が信玄にとっては嫌だったはずなので、全滅必至の野戦に打って出た家康の選択は完全に間違いだったと思います。動画では無理をする理由があったとのことですが、ないですね。

  • @WearstFaker
    @WearstFaker Рік тому +9

    正直自分としては、徳川家康はかなりよくやったほうだと思ってる。
    そもそも武田信玄の調略に乗らなかった部下や時間を稼いだ部下がいることこそ、家康の能力の高さの証左なんじゃないかな。わりと戦争で重要な、将兵の指揮の掌握が出来ている。
    戦闘に於いても全く敗北や撤退を考えない将ではなく。壊滅的な敗北を避け、隙あらば突くという姿勢だったんじゃないかな?

    • @もぶえじ
      @もぶえじ Рік тому +3

      今年の大河は最初からチキンな家康で腰が抜けましたが、だからこそ家臣団の結束は武田家を上回っていた。信玄が無双過ぎて恐れ多い武田軍には得られなかったモノ。
      本多忠勝はそういう状況で主君を守る時に無双になれたのかもしれません。
      信玄が勝頼に遺した「謙信を頼れ」の本当の意味は忠義を学ぶ事だったと思います。勝頼にはそれが理解出来なかったから、父親譲りの自分が武力で家康に負けるワケがないと固執したことで有能な家臣を失っていき滅亡へと繋がったと。

    • @WearstFaker
      @WearstFaker Рік тому +3

      @@もぶえじ チキンな家康・・・は、若干語弊があるかもしれませんが、部下に強く出れない上司のような感じではあったと思いますねー。
      書状からでも、年上の部下が、家康のことを同等かのように扱っている書状が、特に初期に多く見つかっています。
      周囲としたら年下の本家の坊ちゃんで、人柄がおそらく、すごくマジメなひとで周囲から応援したくなるような家康像だったんじゃないかな?と思います。
      豊臣秀吉の書状と比べると対極で、秀吉の場合は、人たらしに代表される優しい印象ではなく、部下に対して「俺は信長様のように甘くはないぞ」という部下に恫喝する書状も見つかっていて、かなり上下関係に厳しい人間であることが分かっています。
      勝頼はおそらく、若さがでたのかなぁと。「カッコいいところを見せれば、みんな俺についてくる。」単純すぎますがそういう心理が働いたかもしれません。
      そして、その「カッコよさ」を支えるのが、部下の命や農民の命だとしたら・・・。
      大して利益にもならない戦争をして、重税を課して。なんなら年上の部下が下手に出て、勝頼に諫言したと思います、ですが聞いてもらえない。であれば見限る仲間も出てくると思います。
      見限ろうかなぁーって思っていたら、「今までの年収の倍を出すからうちにこない?」って言われれば誰でも行きますよね。それが木曽や穴山で、家康と勝頼の差なのだと思います。

  • @vianeplus
    @vianeplus Рік тому +3

    無理な野戦には無理にもしなければならない理由があったわけですね。
    義昭も「上洛御苦労」といえば済むだけの権威あるのに腰が据わってないなぁ。

  • @civilization01civilization8
    @civilization01civilization8 Рік тому +1

    3千の部隊というけれど。。。
    幼稚園の遠足でたかだか100人未満程度の子でも統率するのは難しく、中高の修学旅行の数百人程度でも統率・規律を保つのは難しい。
    インフラや連絡手段が発達された現代でもであるが。
    そのどちらも十分に発達していない当時、3千の兵士(といっても、その中で兵士と呼べるのは2割か3割程度でしょうが)を統率し、移動できたのか?
    個人的には、そこがすごく疑問に思ったりする。

    • @rekishock
      @rekishock  Рік тому +3

      そこが指揮官、大名の腕の見せ所ではありますからね。
      どれだけ熟練の兵士でも戦功目当てに抜け駆けして統率が乱れて部隊が崩壊なんてこともザラにありますし、戦闘だけでなく軍隊の移動ですら相当大変だったでしょう。

  • @ほしちえ-q4y
    @ほしちえ-q4y Рік тому +5

    家康は敵より長生き
    秀吉信玄より長生きで運良く

    • @lattehoji1492
      @lattehoji1492 Рік тому +4

      家康が無能だったら長生きしても意味ないし
      織田を引き継いだ秀吉最初から大勢力の信玄のほうが運いいでしょ

  • @リソリソーン
    @リソリソーン Рік тому +7

    自分が子供の頃は義昭が全部裏から操ってたのかと思ってたが、最新説だと信玄主導なんだね。

    • @ふきのとう1
      @ふきのとう1 Рік тому

      😰❄️

    • @ふきのとう1
      @ふきのとう1 Рік тому

      😲🧎‍♂️

    • @ふきのとう1
      @ふきのとう1 Рік тому

      ❤🥵🥵🥵🥵🥵🥵😀😀😀😀🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵😅🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵🥵☀️🌬️😀🌬️☀️😀😀😀😀🙃😅🙃

    • @ふきのとう1
      @ふきのとう1 Рік тому

      😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅👊😅😅😅😅😅😀😀😀😀😀😅

    • @ふきのとう1
      @ふきのとう1 Рік тому

      🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺🥺

  • @The_monspubis_is_my_mother
    @The_monspubis_is_my_mother Рік тому

    信玄は結核でなく胃がんだったんですか?まあ、結核だったら隔離されて隠居になってた可能性はあるので、胃がん説のほうが、晩年まで活躍できた可能性はありますけどね。

  • @高田健一-l7l
    @高田健一-l7l Рік тому +1

    縄張りを荒らされたら打って出るのは当然。

  • @山田カイチ
    @山田カイチ Рік тому +2

    もともと信長無関係に武田と徳川の戦いだったうえに武田の軍勢にたいして後方から追撃できる形になったから城を出て襲い掛かっただけ、目の前のボーナスステージを見逃すほど盆暗じゃなかっただけで家康からすれば合戦は当然の選択

  • @ダイスケ-i9n
    @ダイスケ-i9n Рік тому +13

    信玄に調略される義昭、なんかちょっと草

  • @突っ込み所守
    @突っ込み所守 Рік тому +2

    家康は国広富行かな

  • @中井幸征
    @中井幸征 Рік тому +1

    武田信玄公と武田勝頼公と徳川慶喜公伊達政宗公と明智光秀公と大久保利通と後醍醐天皇が一番大好き💓♥️❤️です🎵もしも武田信玄公が織田信長徳川家康方に石川数正と明智光秀公と本多忠勝と服部半蔵を調略して面白いですね🎵
    武田信玄公が織田信長徳川家康を倒して世界観を見たかったです🎵僕は織田信長と豊臣秀吉と足利尊氏と源頼朝と松平容保と徳川家康が一番大嫌い🙎💔です🎵岡崎城と松本城と清州城と安土城と青葉城と浜松城が一番大好き💓♥️❤️です🎵

  • @宮川匠-f8y
    @宮川匠-f8y Рік тому

    ドラマでは高天神城が落ちたとなっていましたが本当に信玄は落とせたのでしょうか?通説では信玄亡き後勝頼が攻略したはずですが一部の声で近年では信玄は落とせたという説を耳にしました真実はどちらなんでしょうか?

    • @rekishock
      @rekishock  Рік тому +3

      高天神城は信玄の侵攻開始から3週間で降伏しています。
      色々と本を見てみたのですが、西上作戦時に高天神城が生き延びていたとしている本が見つからなかったので、落とせたという認識が正しいかと思います。
      高天神城がないと三河方面への水軍の展開もできませんしね。

    • @宮川匠-f8y
      @宮川匠-f8y Рік тому +1

      歴史は奥が深いですね知らないことがたくさん出てくるありがとうございます!

  • @村岡寿徳
    @村岡寿徳 Рік тому +2

    こんな昔から癌があるのに未だに死亡率一位なのかよ・・・

    • @rekishock
      @rekishock  Рік тому +2

      ウイルスだけではなく生活習慣なども関係しているのでこればかりは…

    • @KokonTouzai-Rekisi-Channel
      @KokonTouzai-Rekisi-Channel 10 місяців тому

      でも明らかに死亡率は下がってるぜ

  • @のらたろう-l8x
    @のらたろう-l8x Рік тому

    兵数多い魚鱗に対して兵数少ないのに鶴翼の陣を敷いたとは、、、センス無いのでは

  • @奇囃子キバヤシの都市伝説チ

    数多のゲーム実況者に糞漏らしと馬鹿にされてる家康ww🤣🤣🤣

  • @リノラ-c8j
    @リノラ-c8j Рік тому +2

    家康が籠城しなかった理由は後ろから狙えば信玄に勝てると思ったから

  • @通りすがりの一言
    @通りすがりの一言 Рік тому +7

    次週、松潤がクソ漏らすのかなぁ~!!

  • @佐藤h-n3l
    @佐藤h-n3l 11 місяців тому +1

    西上作戦においての武田軍の兵力が、2万なんてそんな少ないわけない。正確には武田軍2万5千に北条軍の援兵2千を加えた2万7千が正しい数字。これくらい常識的な事くらいきちんと勉強して下さい。

    • @rekishock
      @rekishock  11 місяців тому +1

      まず、本動画での兵数は西上作戦全体ではなく三方ヶ原の戦いにおける兵数を記しています。
      三方ヶ原の戦いでの武田軍の兵力は2万から3万と史料によりばらつきがあります。
      この内、2万は『当代記』の記述が元になっており、参考文献とした平山優先生の著書でも従属したばかりの遠江衆が山家三方衆など一部を除きほとんど参陣していないことから2万が妥当と推測しており本動画も採用しています。
      仰るとおり総兵力は2万7千ほどかもしれませんが、遠江各城にも兵を置かねばならないため、三方ヶ原に出てきた武田軍は2万余りとするのが妥当でしょう。

    • @KokonTouzai-Rekisi-Channel
      @KokonTouzai-Rekisi-Channel 10 місяців тому

      あくまで三方ケ原単体の数値だろ笑

  • @mishimaensis2109
    @mishimaensis2109 Рік тому +2

    結局、西上作戦全体で見ると武田軍を撃退した家康の勝利てことでしょう。
    何故、局地戦の勝利を大きく取り上げるの。

  • @kokikoki-cd2jn
    @kokikoki-cd2jn Рік тому +3

    なんで高天神城まで落とされたことになってるの?視聴者がなんにも知らないだろうと思って調子に乗ってるの?後の勝頼躍進のシーンもなくなるよね。来週それは間違いでした、と言わなきゃ怒るよ。

    • @rekishock
      @rekishock  Рік тому +4

      確かに「信玄でも落とせなかった高天神城を勝頼が落とした」という話は広く伝わっていますが、高天神城は信玄の侵攻開始から3週間で降伏しています。
      その後、城主の小笠原氏助は信玄の死、家康の反抗をきっかけに再び徳川方に帰属。
      1574年6月に武田勝頼の進行により再び落とされ、遠江防衛の要塞として拡張されていきます。