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UA-camを始めたきっかけが、春分の日にレイラインの太陽を追って、鹿島神宮から諏訪大社まで旅した事でした。千葉や茨城には、聖徳太子や物部氏、蘇我氏の痕跡が有り、春日大社は元々鹿島神宮から、鹿に乗って行った先だったと初めて知りました。これからも、日本の歴史を勉強するために、旅を続け、動画投稿して世界に発信して参りたいと思います。勉強になりました。有難う御座います。
古代人は測量を宇宙や太陽や月に求めてきたという壮大さに震えます。そういう古代史も現在に繋げて来たというのは凄いことです。日本は一筋の歴史がずっと続いてきた稀有な国ですね。すべてを巡ることはできませんので、このチャンネルは資料も含めて貴重です。私は目覚めた友人には色々な面からこのチャンネルを必ず見るように薦めています。
茂木先生詳しいご説明ありがとうございます😊ご自分の脚で確認なさって豊富な知識正確な情報こころ安らぐ風景画面からはっきりと解る音声ガイド先生にめぐり逢えたことに感謝します😂先生ありがとうございます🎉
大好物過ぎて😅何度も見直して視聴したいと思います。茂木先生、ありがとうございます。
先日、参拝してきました。昔は御手洗池のほうから舟で来て参拝したそうで興味深いお話しでした。
神社の写真撮影を趣味にしている67歳です。先月5月26日、人生で初めて不思議な体験をしました。奈良県桜井市の三輪山の頂上でご神体(山全体がご神体ですが)を拝見しているとき、10秒間ほど脳に(自分の脳をはっきり意識したのも初めてです)ピリピリ電流が走るのを感じました。あれは何だったのか1月考えています。前回、茂木先生が要石の近くで磁石を取り出されたとき「なるほど」と思いました。
山辺の道に沿って、奈良盆地東縁断層帯が走っていますね。地磁気の乱れがあるのでしょう。www.pref.nara.jp/44762.htm
鹿島神宮駅から鹿島神宮を経て鹿島サッカースタジアムまで歩いたことがあるのですが、鹿島神宮駅周辺は周囲と比べても窪地みたいな感じで、先生がシミュレーションで示してくれたように、間違いなく海だった場所だと思います。お参りした時は特に知識もなくただお参りしただけでしたが、今回の夏至の鹿島神宮編を見て、また鹿島神宮に行ってみたくなりました。
flood map 初めて知りました!縄文海進の具体的な地図は衝撃です。古代の海は今より広かったのですね。まさに茂木先生ならではのジオヒストリア。海面の高さや地形の変化から、当時を探ることができますね。御手洗池まで船で入れたなんて!今と地形が違うことを理解しながら各地の神社を巡ると新たな発見がありそうです。鹿島神宮、flood mapと方位磁針を見ながら、要石やレイラインの参道、東の一の鳥居を参拝したいです。とても感動しました!ありがとうございました😊
鹿島神宮には2回ほど参拝しましたが、知らなかったことがいっぱいです。茂木先生の視点がとっても勉強になります。意味深さが加わって、また参拝したいと思います。ありがとうございます🙏
先生と一緒に神社参拝してます。夏至冬至が解る縄文人にまで遡る神社、やはり農耕に必要なのと、季節を知ることで、一年の神社の二十四節が解るって、古代の人の知識って凄いですね😳鹿せんべいならぬ、人参やり〜😅奈良の鹿は、せんべいを貰う時にお辞儀をします。奈良の鹿だけだそうですよ、夏越の大祓、私の近所の神社は30日に、半年の汚れを祓いあと半年の無事息災でお祓い祝詞を受けてから、茅の輪くぐりをします。古事記にまつらう謎、解明楽しみです。便利なマップですね、昔の神社が建っていた頃まで解るのですね⛩️👏👏b
レイラインと水上鳥居初めて知りました✨ありがとうございます😊神道なので昔は大好きな鹿島神宮に夏至に参拝のあと当時入ってた神道の団体の仲間と海で浜鍋など楽しんでました✨来年の夏至の日の出を逃さずに来たいです✨
先生の動画とても勉強になります。ありがとうございます。そして、ここに書いてくださる皆様のコメントも、とても勉強になります。ありがとうございます。
修正前のコメントも一緒に移って来れたらよかったですね。何かその時の人の気持ちも消える気がして悲しくなってしまうのですが、そこは流石先生ですね。限定でも残しておいてくださってありがとうございます。
水位を考慮した分析ありがとうございます。
こんにちわ。今回の海面のお話面白く拝見させて頂きました。ただただ貴方様の物事に対します追及感心するばかりです。次回も楽しみでございます。ありがとうございます。
自分でも、知らないことが多すぎます!
いつも素晴しい情報ありがとうございます海面を上げて古代を再現するのはいいですね〜お社が北向きなのは気になっていましたが、納得出来ました御手洗池側のが正門というのも、水路もありますが、太陽が東からというのもあるかもですかね鹿が狩猟民と言う事も納得縄文時代は関東東北が中心と言う田中先生のおっしゃる事とも繋がるんじゃないでしょうか再度行って見たくなりました
さすが茂木先生!とてもわかりやすいです!自分も感化されて、隣町の金鑚神社にお参りに行ってきました。鳥居の中に入ると不思議と頭の中がすっきりする感覚になります。古代の日本人への尊敬の気持ちが強くなりました。いつも為になる動画をアップしていただきありがとうございます!
再アップですね。鎌倉時代とこんなに地形が違うとは。藤原氏と武甕槌大神の謎、とても興味深いです。鹿かわいいにゃ~。
50年以上住んでますが、初めて知りました。茂木先生ありがとうございました。
ありがとうございました。田中先生の書籍の記述がよくわかりました。一人で行ってみようと思っていましたが、この動画を見てものすごく参考になりました。
茂木先生がお参りし終わって一礼したあと、左に何か可愛らしい2羽の蝶々さんらしきものが映っていましたね❣️不思議〜!
蝶々がいつも、案内してくれます。
先生のフィールドワークにお付き合い出来てとても楽しかったです。歴史の宝庫ですね。今度は鎌足の足跡をご本になさるのでしょうか?
福島県須賀川市に鎌足神社があります。昔、円墳だったと聞きました。今は、埋め立てられてしまったが、貯め池があって、どこからか小川が流れていて、魚を採って遊んでいた。その小川は、すぐ近くの釈迦堂川に流れていて、その先が阿武隈川である。釈迦堂川という名前の由来なども気になります。
長野の生島足島神社も参道がレイラインに沿ってました。
東京タワーもエッフェル塔のパチモンみたいなデザインじゃなくて鳥居のデザインで建てれば良かったのではないかと思うのです。
333mの鳥居!
春日大社って、鹿島の神様だったんだ... 初めて知りました。狩猟採集時代の信仰の名残、にしても鹿さんの食欲凄い。
藤原家の子孫が近衛文麿につながるとなると、日本の歴史の奥深さを感じます。
近衛サンは天皇家に対して不遜で、自ら玉座を望んでいたとも云われています…日本を敗戦に導いた独り。大化の改新に真を置いていたのでしょうか
鎌足の娘耳面刀自が大友皇子の妃で壬申の乱の際、鹿島に落ち延びようとしたそうですね。九十九里で力尽きてしまったようですが…関東には貝塚がいたるところにあり、海岸線が結構な高台で驚きます。現在陸地でも未来にまた沈むのかと思うと不思議な気持ちになります。
九十九里に「内裏神社」がありますね。間違いないでしょう。
@@maomao96363 野口実氏が最近の論文で古代の鹿島香取は征夷の兵站であると述べておられて、面白いなと思いました。宇佐八幡が隼人討伐のためだとも…
西の一之鳥居をバックにした茂木先生格好良過ぎます。
先生ありがとうございます。鎌足の母は大伴氏ですものね。色々あるのだろうと想像しております。それでもやっぱりこの場所は縄文の息づかいを感じます。太陽を信仰し人が人を想い祈る✨素敵なフィールド🥰
茨城県常総にある一言主神社も興味深い神社です。
葛城山の神様ですね。
私はまだ詣でてないですが、いや〜鹿島神宮はなかなかの存在ですね。先生動が有難う御座います!。藤原氏関連は歴史の後被せでしょうが、鹿さんのくだりは意味深です。。。鹿、神社様式、縄文とくれば ナフタリ を連想してしまいます。忌部氏は備前、奥出雲、関東方面へ開拓?しております。妄想がもやもやしますが、歴史は楽しい!夢があり且つ、現代の我々に しっかり頭使え と問われている様で、ワクワクします。先生!これからも御指導、宜しくお願い致します。
本シリーズ楽しく拝見しました。鹿島、香取神宮一帯は伊勢神宮とならぶ東の聖地だったのですね。きっと古代において今は失われた大きな祭事が行われていたのでしょう。
縄文の太陽崇拝は、現在の鹿島神宮の祭祀には受け継がれていません。
石岡市から北総辺りだと、縄文時代よりさらに古い旧石器時代の鹿取り用のスリット状の落とし穴が発掘されるみたいですね。縄文時代中期〜後期だとこの辺の縄文人は鹿を仕留めた後その場で解体して頭部は山に置いて帰っていたと博物館の展示資料で見た事があります。説明では運ぶ労力を惜しんだ結果だとなっていましたが私は信仰的な意味合いがあったのだろうと推測しています。
なるほど!
洪水マップ便利を見てふと思いました、もしノアの洪水のような災害が襲っても、古い神社だけはしっかり残っていそう...
いつも「日本愛」が芽生える配信ありがとうございます。奈良在住の古代史好きです。鹿島神宮は、春日大社のタケミカヅチが鹿島のタケミカヅチとは異なるものとしていると何かの本で読んだことがあります。また歴史作家の関裕二氏は、タケミカヅチは尾張氏の祖神で最上位格の神と述べていました。藤原氏が春日大社の格上げのために、尾張氏から譲り受けたとしています。平和的に譲渡されたかどうかはわかりません。
白地に紅く日の丸染めて あ〜美しい日本の旗は
藤原氏(中臣氏)は謎ですね。河内国一宮の枚岡神社も元春日とされていますし、ルーツとなる氏族が鹿島から東大阪にやってきたのかな?それこそ神武東征の際に??
昔は東北、北海道、中部辺りも暖かかったそうですが、寒冷化し大群組んで鹿島から南下して到着しましたのが鹿児島。鹿島の稚児なので鹿児島の名が付きそこから北上、神社の出来ました年号で解るそうです。又鹿児島に、熊襲とか隼人とか元々ない文字やクマはいなかったのですが、関係ない人々が鹿児島に定着し出来ました名前などもあるそうです。
茂木先生の新刊で、そのあたりの話も読みました。私的には、田中先生の高天原関東説はあまりしっくり来ませんでした。色々と揉んでみようと思っています。
音声修正前のコメントに返信いただき、御指導ありがとうございます!通知が消えてしまってたどり着けなくなってしまったので御礼はこちらで
鹿島神宮も行きましょう歩けるうちに🤣🤣🤣🤣🤣
御食子/国子の代に常陸から出たとしてその時点で鎌足が生まれていたかですが、母方の祖父が大伴咋であることを考えても、大和で生まれた可能性は高いでしょう。可多能祜、常盤の時代までは東国にいたかと思いますが、[可多能]が河内の[交野]と関係があれば、その代かもしれません。時期はちょうど丁未の乱、交野の隣は磐船。
キリスト教では、鹿はイエスキリストの化身とされ、新約聖書にある、「鹿が、清い泉を求めて走る」という一節は、イエスキリストが、父である神の元へ走るイメージになぞられています。鹿島神宮は、清い泉も鹿も祀られていますね。不思議です。キリストを初め、旧約聖書のパトリアーシュや、新約聖書の聖人達は、揃って湧き水のありかを探知する能力があって、井戸を掘り当てる事によって、人々からの信頼を勝ち得ていたと言われています。
個人的にこの鹿島神宮や千葉の香取神宮の祭神は阿波忌部の天富命(由布津主命)か、もしくはその祖先にあたる人物ではないかと思っています。そして四国もそうですが、関東には隠された歴史が存在して居ると考えています。ただし、縄文とかではなく古墳時代初期~平安初期にかけて。関東には畿内以上の数の古墳があり、多くの出土品が出ているのに、関東の古墳時代がほぼ無視されているのは非常に不自然に感じます(四国の状況とよく似ている)。ですので関東の方々には関東の真の歴史に早く気づいてほしいと思っています。
天富命を祀る安房神社には機織り、農耕、鹿狩りなど弥生文化の匂いが濃厚ですが、鹿島神宮にはそれを感じないんです。
@@maomao96363 返信ありがとうございました。私は鹿島神宮には直接行った事は在りませんので、現地の雰囲気や匂いは解りかねますが、ただ、阿波忌部の東征以前の関東エリアに神社のシステムが存在していたとは考え難い・・・と思っています。関東における前方後円墳の出現が大体3世紀中庸~3世紀後半の頃になりますので、神社もまたその頃に作られるようになったのではないでしょうか?神社と前方後円墳は共に日本の文化や社会を構成してきた重要な要素ですので、それらが外部から伝わってくるとすれば当然一緒に伝わるだろうと思います。前方後円墳が3世紀~4世紀以降に造られ始めたというのに、神社だけがそれよりずっと古い時代から存在していた・・とは中々想像しずらいですね。神社と前方後円墳の間にはどうやら非常に深いつながりがあるようで、その事について大変興味深い事を日本政府及び皇室!! が述べています。リンクを貼っておきますので、リンク先ページの下の方に、ある文章が記されたパネルを埋めこまれた石が出てくる画像(菊の紋が付いています)が出てきますのでぜひその文章を読んでみてください。www.halex.co.jp/blog/ochi/20180316-15220.html
海から見るととてもよく見えるアプローチだと、思いました。聖徳太子の時代、海からやって来たと思います。星を頼りにして。奥宮がシリウスを拝した方向と一致してるのは、偶然ではないと思います。今回、夏至のレイラインでしたが、太陽崇拝と関わりあるのは、明らかだと思いました。
うちのご先祖、謎が多過ぎます😂鎌足以前の中臣烏賊津使主は対馬で亀卜、その先代は鹿島更に先代は近江、最後は羽衣伝説と天児屋根命へ😓北家秀郷流末端の末裔には伝承も何も残っておりません😓
ご先祖様ですか!調べる価値がありますね。
@@maomao96363 茂木先生の動画で中臣、藤原の来歴が紹介されるのを楽しみにしております☺️
鹿、新潟の弥彦神社にもいますね諏訪大社御頭祭と関係あるのでしょうか?
鹿島系(鹿崇拝)と、諏訪大社(鹿捕獲)は真逆ですね。
鹿島神宮のシリーズ興味をもって拝見しました。現本殿と奥宮の位置関係など、良くわかりました。以前に全国の主な神社の本殿の位置を調べたことがありますが、南向き(多少のずれも含む)は大体6割程度でした。社殿に南向きが多いのは、中国の仏教建築の影響というのが一般的な説ですが、明治時代、内務省の国費による官社の造営、改修にあたり神社設計の指針というものが全くなく(神社建築は地域の風習に準じていた?)、木子清敬、佐々木岩次郎、伊藤忠太などの建築家らが調査した結果「神社社殿は南向きであるべき」的な結論を出した、という一面もあるようです。
鹿島神宮のように「北向き」は稀ですね。
最近配信が少なくて寂しかったです。日本思想マトリックスの執筆で忙しいと思いますが、その一部公開みたいなので楽しませてくれたら嬉しいです
レイラインのサムネを見てて、思ったのですが、レイラインをつないで光通信をしていたというような、考察または先生のご本はありますか⁉️ある動画で山頂がキラッと光ったとか。磨いた鏡の岩とか、。二見ケ浦の、岩の間に60センチの鏡とか。何で鏡?反射しあってモールス信号みたく通信してたら。どこまで光って届くのかな。見えるのかな。夏至の日冬至の日。光通信が日本をめぐる。妄想😂すでに語り尽くされていたら恥ずかしい限り😅
建築家の渡辺豊和さんが、何冊か本をだされていますね。
先生お疲れ様です。思い付きで申し訳ありませんが、古事記で天照大御神が天の岩屋に籠る場面で天の香山の男鹿の肩甲骨の骨を抜いて占う場面があります。そこに天屋根(中臣氏 藤原氏)が出てきます。それから国譲りの建御雷神が葦原中国に行く場面で天迦久神がでてきます。また阿波のことでご存じかも知れませんが徳島県阿波市市場町に建布都神社があります。
強いとわかっている剣(つるぎ)を与えた。剣は、銅剣ではなく、鉄剣と考えるとロマンですね。
鹿島にすんでいたのはおそらく海人族であったでしょう。海人族のいた鹿島に、中臣氏が居住してタケミカヅチを祀っていたのはなぜだろう。その答えを探します。天孫降臨神話からうけとるイメージは、弥生渡来人に制圧された縄文人というものが普通でしょうが、最近はしらべるほど逆の印象になってきました。群馬の金井遺跡で人骨をDNA鑑定すると甲冑武人は縄文系、ミコさんは渡来系という組み合わせでした。鳥取の青谷上寺遺跡の弥生集落でもDNA鑑定はその傾向があったと思います。縄文人は航海技術と弓の技術をもった海人族でもあったので、短時間に兵をあつめて襲撃できたためけっこう強かったようです。神武が海人族との混血であったこと、彼らが加勢したであろうことが、天皇になれた背景にあったのではないでしょうか。鹽竈神社の社伝では、タケミカヅチとフツヌシは、塩土老翁の先導で諸国を平定したとあります。この塩土老翁こそが縄文の海人族だったのでしょう。また、海人族には交易ネットワークをもっていたという一面もあります。三内丸山遺跡の発掘からわかるのは、縄文が交易ネットワークを行っていたということです。それがそのまま弥生、古墳時代へとつづいていたとすれば、大和政権も彼らを通じて物資を調達していたと推測できます。そしてその交易ネットワークが、遠く鹿島までつながっていたとすれば、タケミカヅチが同じ時期に降臨していても矛盾しないことになります。(その交易ネットワークの支配権をめぐってあらそったのが国譲りなのかもしれません)以上のような推測からすると答えは絞られてきます。中臣氏が大和政権と海人族(縄文人?)との間に入って行っていたものとは?????? 海人族の兵としての動員であったり、海人族との交易であったりということではないでしょうか。これが中臣氏がおこなっていた鹿島での祭祀の役割ではなかったでしょうか。長くなり失礼しました。タケミカヅチに関わってくる国譲りや神武東征の時期については、また別の機会にコメントしたいとおもいます。
茂木先生に悠仁殿下の教育係になっていただきたい。
畏れ多いことです。
GHQが焚書した書物に、その点と点を結ぶ為の事柄が書き記されていたのでは為かろぉか?。☝😲⛩️
武甕槌もふつぬしも、叶わなかった、天津甕星を祀る神社が、あります。日立の大甕倭文神社です。皇紀元年だそうです。岩の上にお宮があります。是非おいでください。
鹿島さんは関東随一のお宮だと思いますが、いかんせん交通の便が悪くて、参拝客もあまり多くないのが残念です。
そこがまた良いのです。
茂木先生はそんなことないと思いますが、メルカトル図法の地図に斜めの直線を引いてレイラインのように言っている人がいるようですが、如何なものでしょうか。
Google earth は地球を俯瞰して見ることができます。
(ФωФ)👍
江戸川区に鹿骨神社⛩️ありますね!ししぼね。鹿を放し飼いにした方が御利益ありそうですね!駆除とか罰当たりです。🦌リモート茅の輪くぐり。
UA-camを始めたきっかけが、春分の日にレイラインの太陽を追って、鹿島神宮から諏訪大社まで旅した事でした。
千葉や茨城には、聖徳太子や物部氏、蘇我氏の痕跡が有り、春日大社は元々鹿島神宮から、鹿に乗って行った先だったと初めて知りました。
これからも、日本の歴史を勉強するために、旅を続け、動画投稿して世界に発信して参りたいと思います。勉強になりました。有難う御座います。
古代人は測量を宇宙や太陽や月に求めてきたという壮大さに震えます。
そういう古代史も現在に繋げて来たというのは凄いことです。
日本は一筋の歴史がずっと続いてきた稀有な国ですね。
すべてを巡ることはできませんので、このチャンネルは資料も含めて貴重です。
私は目覚めた友人には色々な面からこのチャンネルを必ず見るように薦めています。
茂木先生詳しいご説明ありがとうございます😊ご自分の脚で確認なさって豊富な知識正確な情報こころ安らぐ風景画面からはっきりと解る音声ガイド先生にめぐり逢えたことに感謝します😂先生ありがとうございます🎉
大好物過ぎて😅何度も見直して視聴したいと思います。茂木先生、ありがとうございます。
先日、参拝してきました。昔は御手洗池のほうから舟で来て参拝したそうで興味深いお話しでした。
神社の写真撮影を趣味にしている67歳です。先月5月26日、人生で初めて不思議な体験をしました。奈良県桜井市の三輪山の頂上でご神体(山全体がご神体ですが)を拝見しているとき、10秒間ほど脳に(自分の脳をはっきり意識したのも初めてです)ピリピリ電流が走るのを感じました。あれは何だったのか1月考えています。前回、茂木先生が要石の近くで磁石を取り出されたとき「なるほど」と思いました。
山辺の道に沿って、奈良盆地東縁断層帯が走っていますね。地磁気の乱れがあるのでしょう。
www.pref.nara.jp/44762.htm
鹿島神宮駅から鹿島神宮を経て鹿島サッカースタジアムまで歩いたことがあるのですが、鹿島神宮駅周辺は周囲と比べても窪地みたいな感じで、先生がシミュレーションで示してくれたように、間違いなく海だった場所だと思います。
お参りした時は特に知識もなくただお参りしただけでしたが、今回の夏至の鹿島神宮編を見て、また鹿島神宮に行ってみたくなりました。
flood map 初めて知りました!
縄文海進の具体的な地図は衝撃です。古代の海は今より広かったのですね。まさに茂木先生ならではのジオヒストリア。海面の高さや地形の変化から、当時を探ることができますね。御手洗池まで船で入れたなんて!
今と地形が違うことを理解しながら各地の神社を巡ると新たな発見がありそうです。
鹿島神宮、flood mapと方位磁針を見ながら、要石やレイラインの参道、東の一の鳥居を参拝したいです。
とても感動しました!ありがとうございました😊
鹿島神宮には2回ほど参拝しましたが、知らなかったことがいっぱいです。茂木先生の視点がとっても勉強になります。意味深さが加わって、また参拝したいと思います。ありがとうございます🙏
先生と一緒に神社参拝してます。夏至冬至が解る縄文人にまで遡る神社、やはり農耕に必要なのと、季節を知ることで、一年の神社の二十四節が解るって、古代の人の知識って凄いですね😳鹿せんべいならぬ、人参やり〜😅奈良の鹿は、せんべいを貰う時にお辞儀をします。奈良の鹿だけだそうですよ、夏越の大祓、私の近所の神社は30日に、半年の汚れを祓いあと半年の無事息災でお祓い祝詞を受けてから、茅の輪くぐりをします。古事記にまつらう謎、解明楽しみです。便利なマップですね、昔の神社が建っていた頃まで解るのですね⛩️👏👏b
レイラインと水上鳥居初めて知りました✨ありがとうございます😊
神道なので昔は大好きな鹿島神宮に夏至に参拝のあと当時入ってた神道の団体の仲間と海で浜鍋など楽しんでました✨
来年の夏至の日の出を逃さずに来たいです✨
先生の動画とても勉強になります。ありがとうございます。そして、ここに書いてくださる皆様のコメントも、とても勉強になります。ありがとうございます。
修正前のコメントも一緒に移って来れたらよかったですね。何かその時の人の気持ちも消える気がして悲しくなってしまうのですが、そこは流石先生ですね。限定でも残しておいてくださってありがとうございます。
水位を考慮した分析ありがとうございます。
こんにちわ。今回の海面のお話面白く拝見させて頂きました。ただただ貴方様の物事に対します追及感心するばかりです。次回も楽しみでございます。ありがとうございます。
自分でも、知らないことが多すぎます!
いつも素晴しい情報ありがとうございます
海面を上げて古代を再現するのはいいですね〜
お社が北向きなのは気になっていましたが、納得出来ました
御手洗池側のが正門というのも、水路もありますが、太陽が東からというのもあるかもですかね
鹿が狩猟民と言う事も納得
縄文時代は関東東北が中心と言う田中先生のおっしゃる事とも繋がるんじゃないでしょうか
再度行って見たくなりました
さすが茂木先生!とてもわかりやすいです!自分も感化されて、隣町の金鑚神社にお参りに行ってきました。鳥居の中に入ると不思議と頭の中がすっきりする感覚になります。古代の日本人への尊敬の気持ちが強くなりました。いつも為になる動画をアップしていただきありがとうございます!
再アップですね。鎌倉時代とこんなに地形が違うとは。藤原氏と武甕槌大神の謎、とても興味深いです。鹿かわいいにゃ~。
50年以上住んでますが、初めて知りました。茂木先生ありがとうございました。
ありがとうございました。
田中先生の書籍の記述がよくわかりました。
一人で行ってみようと思っていましたが、この動画を見てものすごく参考になりました。
茂木先生がお参りし終わって一礼したあと、左に何か可愛らしい2羽の蝶々さんらしきものが映っていましたね❣️不思議〜!
蝶々がいつも、案内してくれます。
先生のフィールドワークにお付き合い出来てとても楽しかったです。歴史の宝庫ですね。今度は鎌足の足跡をご本になさるのでしょうか?
福島県須賀川市に鎌足神社があります。昔、円墳だったと聞きました。今は、埋め立てられてしまったが、貯め池があって、どこからか小川が流れていて、魚を採って遊んでいた。その小川は、すぐ近くの釈迦堂川に流れていて、その先が阿武隈川である。釈迦堂川という名前の由来なども気になります。
長野の生島足島神社も参道がレイラインに沿ってました。
東京タワーもエッフェル塔のパチモンみたいなデザインじゃなくて鳥居のデザインで建てれば良かったのではないかと思うのです。
333mの鳥居!
春日大社って、鹿島の神様だったんだ... 初めて知りました。狩猟採集時代の信仰の名残、にしても鹿さんの食欲凄い。
藤原家の子孫が近衛文麿につながるとなると、日本の歴史の奥深さを感じます。
近衛サンは天皇家に対して不遜で、自ら玉座を望んでいたとも云われています…日本を敗戦に導いた独り。大化の改新に真を置いていたのでしょうか
鎌足の娘耳面刀自が大友皇子の妃で壬申の乱の際、鹿島に落ち延びようとしたそうですね。
九十九里で力尽きてしまったようですが…
関東には貝塚がいたるところにあり、海岸線が結構な高台で驚きます。
現在陸地でも未来にまた沈むのかと思うと不思議な気持ちになります。
九十九里に「内裏神社」がありますね。間違いないでしょう。
@@maomao96363
野口実氏が最近の論文で古代の鹿島香取は征夷の兵站であると述べておられて、面白いなと思いました。
宇佐八幡が隼人討伐のためだとも…
西の一之鳥居をバックにした茂木先生格好良過ぎます。
先生ありがとうございます。鎌足の母は大伴氏ですものね。色々あるのだろうと想像しております。それでもやっぱりこの場所は縄文の息づかいを感じます。太陽を信仰し人が人を想い祈る✨素敵なフィールド🥰
茨城県常総にある一言主神社も興味深い神社です。
葛城山の神様ですね。
私はまだ詣でてないですが、いや〜鹿島神宮はなかなかの存在ですね。先生動が有難う御座います!。
藤原氏関連は歴史の後被せでしょうが、鹿さんのくだりは意味深です。。。
鹿、神社様式、縄文とくれば ナフタリ を連想してしまいます。
忌部氏は備前、奥出雲、関東方面へ開拓?しております。妄想がもやもやしますが、歴史は楽しい!夢があり且つ、現代の我々に しっかり頭使え と問われている様で、ワクワクします。
先生!これからも御指導、宜しくお願い致します。
本シリーズ楽しく拝見しました。鹿島、香取神宮一帯は伊勢神宮とならぶ東の聖地だったのですね。きっと古代において今は失われた大きな祭事が行われていたのでしょう。
縄文の太陽崇拝は、現在の鹿島神宮の祭祀には受け継がれていません。
石岡市から北総辺りだと、縄文時代よりさらに古い旧石器時代の鹿取り用のスリット状の落とし穴が発掘されるみたいですね。縄文時代中期〜後期だとこの辺の縄文人は鹿を仕留めた後その場で解体して頭部は山に置いて帰っていたと博物館の展示資料で見た事があります。説明では運ぶ労力を惜しんだ結果だとなっていましたが私は信仰的な意味合いがあったのだろうと推測しています。
なるほど!
洪水マップ便利を見てふと思いました、もしノアの洪水のような災害が襲っても、古い神社だけはしっかり残っていそう...
いつも「日本愛」が芽生える配信ありがとうございます。奈良在住の古代史好きです。
鹿島神宮は、春日大社のタケミカヅチが鹿島のタケミカヅチとは異なるものとしていると何かの本で読んだことがあります。また歴史作家の関裕二氏は、タケミカヅチは尾張氏の祖神で最上位格の神と述べていました。藤原氏が春日大社の格上げのために、尾張氏から譲り受けたとしています。平和的に譲渡されたかどうかはわかりません。
白地に紅く日の丸染めて あ〜美しい日本の旗は
藤原氏(中臣氏)は謎ですね。
河内国一宮の枚岡神社も元春日とされていますし、ルーツとなる氏族が鹿島から東大阪にやってきたのかな?
それこそ神武東征の際に??
昔は東北、北海道、中部辺りも暖かかったそうですが、寒冷化し大群組んで鹿島から南下して到着しましたのが鹿児島。鹿島の稚児なので鹿児島の名が付きそこから北上、神社の出来ました年号で解るそうです。又鹿児島に、熊襲とか隼人とか元々ない文字やクマはいなかったのですが、関係ない人々が鹿児島に定着し出来ました名前などもあるそうです。
茂木先生の新刊で、そのあたりの話も読みました。
私的には、田中先生の高天原関東説はあまりしっくり来ませんでした。色々と揉んでみようと思っています。
音声修正前のコメントに返信いただき、御指導ありがとうございます!通知が消えてしまってたどり着けなくなってしまったので御礼はこちらで
鹿島神宮も行きましょう
歩けるうちに🤣🤣🤣🤣🤣
御食子/国子の代に常陸から出たとしてその時点で鎌足が生まれていたかですが、母方の祖父が大伴咋であることを考えても、大和で生まれた可能性は高いでしょう。可多能祜、常盤の時代までは東国にいたかと思いますが、[可多能]が河内の[交野]と関係があれば、その代かもしれません。
時期はちょうど丁未の乱、交野の隣は磐船。
なるほど!
キリスト教では、鹿はイエスキリストの化身とされ、新約聖書にある、「鹿が、清い泉を求めて走る」という一節は、イエスキリストが、父である神の元へ走るイメージになぞられています。鹿島神宮は、清い泉も鹿も祀られていますね。不思議です。キリストを初め、旧約聖書のパトリアーシュや、新約聖書の聖人達は、揃って湧き水のありかを探知する能力があって、井戸を掘り当てる事によって、人々からの信頼を勝ち得ていたと言われています。
個人的にこの鹿島神宮や千葉の香取神宮の祭神は阿波忌部の天富命(由布津主命)か、もしくはその祖先にあたる人物ではないかと思っています。
そして四国もそうですが、関東には隠された歴史が存在して居ると考えています。ただし、縄文とかではなく古墳時代初期~平安初期にかけて。
関東には畿内以上の数の古墳があり、多くの出土品が出ているのに、関東の古墳時代がほぼ無視されているのは非常に不自然に感じます(四国の状況とよく似ている)。
ですので関東の方々には関東の真の歴史に早く気づいてほしいと思っています。
天富命を祀る安房神社には機織り、農耕、鹿狩りなど弥生文化の匂いが濃厚ですが、鹿島神宮にはそれを感じないんです。
@@maomao96363
返信ありがとうございました。私は鹿島神宮には直接行った事は在りませんので、現地の雰囲気や匂いは解りかねますが、
ただ、阿波忌部の東征以前の関東エリアに神社のシステムが存在していたとは考え難い・・・と思っています。
関東における前方後円墳の出現が大体3世紀中庸~3世紀後半の頃になりますので、神社もまたその頃に作られるようになったのではないでしょうか?
神社と前方後円墳は共に日本の文化や社会を構成してきた重要な要素ですので、それらが外部から伝わってくるとすれば当然一緒に伝わるだろうと思います。前方後円墳が
3世紀~4世紀以降に造られ始めたというのに、神社だけがそれよりずっと古い時代から存在していた・・とは中々想像しずらいですね。
神社と前方後円墳の間にはどうやら非常に深いつながりがあるようで、その事について大変興味深い事を日本政府及び皇室!! が述べています。
リンクを貼っておきますので、リンク先ページの下の方に、ある文章が記されたパネルを埋めこまれた石が出てくる画像(菊の紋が付いています)が出てきますので
ぜひその文章を読んでみてください。
www.halex.co.jp/blog/ochi/20180316-15220.html
海から見るととてもよく見えるアプローチだと、思いました。聖徳太子の時代、海からやって来たと思います。星を頼りにして。
奥宮がシリウスを拝した方向と一致してるのは、偶然ではないと思います。今回、夏至のレイラインでしたが、太陽崇拝と関わりあるのは、明らかだと思いました。
うちのご先祖、謎が多過ぎます😂
鎌足以前の中臣烏賊津使主は対馬で亀卜、その先代は鹿島更に先代は近江、最後は羽衣伝説と天児屋根命へ😓
北家秀郷流末端の末裔には伝承も何も残っておりません😓
ご先祖様ですか!調べる価値がありますね。
@@maomao96363 茂木先生の動画で中臣、藤原の来歴が紹介されるのを楽しみにしております☺️
鹿、新潟の弥彦神社にもいますね
諏訪大社御頭祭と関係あるのでしょうか?
鹿島系(鹿崇拝)と、諏訪大社(鹿捕獲)は真逆ですね。
鹿島神宮のシリーズ興味をもって拝見しました。現本殿と奥宮の位置関係など、良くわかりました。以前に全国の主な神社の本殿の位置を調べたことがありますが、南向き(多少のずれも含む)は大体6割程度でした。社殿に南向きが多いのは、中国の仏教建築の影響というのが一般的な説ですが、明治時代、内務省の国費による官社の造営、改修にあたり神社設計の指針というものが全くなく(神社建築は地域の風習に準じていた?)、木子清敬、佐々木岩次郎、伊藤忠太などの建築家らが調査した結果「神社社殿は南向きであるべき」的な結論を出した、という一面もあるようです。
鹿島神宮のように「北向き」は稀ですね。
最近配信が少なくて寂しかったです。日本思想マトリックスの執筆で忙しいと思いますが、その一部公開みたいなので楽しませてくれたら嬉しいです
レイラインのサムネを見てて、思ったのですが、
レイラインをつないで光通信をしていたというような、考察または先生のご本はありますか⁉️
ある動画で山頂がキラッと光ったとか。磨いた鏡の岩とか、。二見ケ浦の、岩の間に60センチの鏡とか。
何で鏡?反射しあってモールス信号みたく通信してたら。
どこまで光って届くのかな。見えるのかな。
夏至の日冬至の日。光通信が日本をめぐる。妄想😂
すでに語り尽くされていたら恥ずかしい限り😅
建築家の渡辺豊和さんが、何冊か本をだされていますね。
先生お疲れ様です。思い付きで申し訳ありませんが、古事記で天照大御神が天の岩屋に籠る場面で天の香山の男鹿の肩甲骨の骨を抜いて占う場面があります。そこに天屋根(中臣氏 藤原氏)が出てきます。それから国譲りの建御雷神が葦原中国に行く場面で天迦久神がでてきます。また阿波のことでご存じかも知れませんが徳島県阿波市市場町に建布都神社があります。
強いとわかっている剣(つるぎ)を与えた。
剣は、銅剣ではなく、鉄剣と考えるとロマンですね。
鹿島にすんでいたのはおそらく海人族であったでしょう。海人族のいた鹿島に、中臣氏が居住してタケミカヅチを祀っていたのはなぜだろう。その答えを探します。
天孫降臨神話からうけとるイメージは、弥生渡来人に制圧された縄文人というものが普通でしょうが、最近はしらべるほど逆の印象になってきました。群馬の金井遺跡で人骨をDNA鑑定すると甲冑武人は縄文系、ミコさんは渡来系という組み合わせでした。鳥取の青谷上寺遺跡の弥生集落でもDNA鑑定はその傾向があったと思います。
縄文人は航海技術と弓の技術をもった海人族でもあったので、短時間に兵をあつめて襲撃できたためけっこう強かったようです。神武が海人族との混血であったこと、彼らが加勢したであろうことが、天皇になれた背景にあったのではないでしょうか。鹽竈神社の社伝では、タケミカヅチとフツヌシは、塩土老翁の先導で諸国を平定したとあります。この塩土老翁こそが縄文の海人族だったのでしょう。
また、海人族には交易ネットワークをもっていたという一面もあります。三内丸山遺跡の発掘からわかるのは、縄文が交易ネットワークを行っていたということです。それがそのまま弥生、古墳時代へとつづいていたとすれば、大和政権も彼らを通じて物資を調達していたと推測できます。そしてその交易ネットワークが、遠く鹿島までつながっていたとすれば、タケミカヅチが同じ時期に降臨していても矛盾しないことになります。(その交易ネットワークの支配権をめぐってあらそったのが国譲りなのかもしれません)
以上のような推測からすると答えは絞られてきます。中臣氏が大和政権と海人族(縄文人?)との間に入って行っていたものとは?????? 海人族の兵としての動員であったり、海人族との交易であったりということではないでしょうか。これが中臣氏がおこなっていた鹿島での祭祀の役割ではなかったでしょうか。
長くなり失礼しました。タケミカヅチに関わってくる国譲りや神武東征の時期については、また別の機会にコメントしたいとおもいます。
茂木先生に悠仁殿下の教育係になっていただきたい。
畏れ多いことです。
GHQが焚書した書物に、
その点と点を結ぶ為の事柄が
書き記されていたのでは為かろぉか?。
☝😲⛩️
武甕槌もふつぬしも、叶わなかった、天津甕星を祀る神社が、あります。日立の大甕倭文神社です。
皇紀元年だそうです。
岩の上にお宮があります。
是非おいでください。
鹿島さんは関東随一のお宮だと思いますが、
いかんせん交通の便が悪くて、参拝客もあまり多くないのが残念です。
そこがまた良いのです。
茂木先生はそんなことないと思いますが、メルカトル図法の地図に斜めの直線を引いてレイラインのように言っている人がいるようですが、如何なものでしょうか。
Google earth は地球を俯瞰して見ることができます。
(ФωФ)👍
江戸川区に鹿骨神社⛩️ありますね!ししぼね。鹿を放し飼いにした方が御利益ありそうですね!駆除とか罰当たりです。🦌リモート茅の輪くぐり。