足利のライバルとは到底呼べないしくじり御家人 新田義貞以前の新田氏の歴史【鎌倉殿の13人】
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- Опубліковано 5 жов 2024
- 南北朝時代には、南朝の主力武将として足利尊氏と激戦を繰り広げた新田義貞が出るなど、時代を代表する武士となった新田氏。
ですが新田氏は、源義家に連なる名門でありながら、頼朝に嫌われ、不遇の鎌倉時代を過ごしており、さらに鎌倉時代には滅亡寸前まで追い込まれてしまいます。
その滅亡の危機を救ったのが、のちに戦うことになる足利氏でしたが、元はと言えば、足利氏も新田氏より格下で、鎌倉時代を通じて新田氏は足利氏の子分のような扱いにまで没落してしまっていました。
今回は、新田氏の出自、北関東の有力者から足利氏の子分にまで転落した鎌倉時代の新田氏の活動について紹介します。
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参考文献
田中大喜『上野新田氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)』
amzn.to/3EAP86L
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#鎌倉殿の13人 #大河ドラマ #歴史
地元の新田氏を取り上げて貰ってありがとうございます😊。新田一門の末裔は現在、町の地名の苗字を継いでいる方々も多数地元に多くいます。
新田源氏を標榜する、三河のあの人が天下人になったのだから御の字じゃね。
武士が貴族社会に対抗し、独立を勝ち取っていった、という歴史観が今なお一般的だが、こうした話を聞くと、都とつながりのある武士が地域の支配や影響力を得たといったほうが良いと感じる。
足利は北条におもねる為に河内源氏の通字である「義」の字を封印したりと柔軟だったが、
新田の方はそれこそ三代将軍実朝死後は自分達こそが源氏の嫡流みたいな矜持を封印できなかったのだろう
太平記の内容を鵜呑みにするのは危険だということをよく理解できた 尊氏からすれば 庇護下にある 新田が勝手に自立しようとしたとの 解釈になるのか
もう一族代々の不器用さというかなんというか……ただ不器用さを極めてなかったらここまで新田義貞の名前が後世にも残ってないと思うので、これはこれでw
1991年の大河ドラマ「太平記」・第22回「鎌倉炎上」で、鎌倉に攻め上る新田義貞の軍勢が数万騎に達する旨を幕府の使者から聞いた長崎円喜が「数万?あの貧乏御家人の新田が?皆、頭がどうかしておるのではないか。」と義貞をバカにした場面が、その当時の新田氏が幕府からいかに冷遇されていたかを象徴するものでした。
あの当時の新田義貞は無位無官。初めて叙位・任官されたのは、鎌倉を攻め落として3か月後の元弘3年(1333年)8月でした。
申し訳ありません。
長崎円喜があのセリフを言った放映回は第22回「鎌倉炎上」でなく、
その前の第21回「京都攻略」でした。
Ch運営者様および視聴者の皆様に、この場を借りてお詫び申し上げます。
自分もこの動画を見て《太平記》でのフランキー堺さんの独特な言い回しのあの場面を思い出しました!第一話では少年・小太郎(新田義貞)が少年・又太郎(足利尊氏)をやり込める場面がありましたが、以後は不遇な事が多かったですね。
《鎌倉殿の13人》ではその長崎円喜の先祖にあたる平盛綱(鶴丸)が登場して《北条時宗》の平頼綱と合わせてこの系譜が繋がりましたね。
@@toyo-rex4899 太平記は良い作品でしたね。鎌倉炎上の回は主人公の尊氏がほとんど登場しないままでしたが、当時の大河は今とは違い主人公が絡まなくても重厚なシーンが数多くあり、太平記は北条の滅亡もかなり時間を割いて描いていました。個人的には高時と守時の別れのシーンが好きです。涙が出ましたね。
@@jodien9913様
「太平記」の作中での新田氏の描写の良さに関してはまったく異論ないのですが、放送当時の太平記は、当時のトレンディドラマで有名な俳優さんの起用が多くて、トレンディ大河などと揶揄されて散々な言われ方でしたよ。
当時の評価は、重厚とはおよそ真逆だったような憶えがありますね。
足利は従五位、新田は無位無官、
これだけでも雲泥の差ですね。
隣国だから余計に比べられるから
義貞は尊氏に、対抗心が強くなるのも
仕方ないですね。
これも頼朝流の分割して統治せよという信念に基づく、意図的な不公平なんだろうねえ
新田氏か
難しいですね
鎌倉時代にどこまで総領としての権限があったのか疑わしく、新田岩松が新田氏の総領であった時期もあったにもほぼ間違いなく、義貞は無位無官といわれ、鎌倉攻めでも総大将は尊氏のこども、その後も山名氏等足利氏に従っている一族がいる
平安時代までは足利は義朝と相婿、新田は国司の婿で義平の義父と同レベルだったのでしょうけどね
義重おじさん「大体ワシのせい・・・?」
里見さん「そうだよ」
山名さん「そうだよ」
義兼くん「そうだよ・・・」
頼朝様「そうだよ!!!!」
内容は興味深いけど、こういうのは家系図や地図などと一緒だとありがたいです。
音声情報だけだと誰がどこの誰か分からなくなるので。
山名、里見にちょっと系譜は変わるけど畠山や毛利など
この時代に生まれた家にはなじみ深いものが多くておもしろいですね
室町、戦国初期に活躍した大名家はだいたいこの時代には姿を見せ始めていますからね。
里見、山名を深堀りしたい気持ちを抑えるのに大変でした。笑
新田は頼朝を格上と見てなかったから甘くみてたんだろう。
新田氏の衰退は義重の我こそが嫡流であるという誇り(驕り⁉︎)と立ち回りの悪さが原因だと思いますが、頼朝の嫡流に近い立場の新田氏の力を弱めたいという思惑こそ大であったように思われます。新田氏としては不幸ではありましたが、義経・範頼らのように、誅殺されなかっただけ運が良かったとも言えますね。足利の重用は頼朝が脅威と見做していなかった証なのかも知れないし、必ずしも上手く立ち回れただけとは思えないんですよね…
南北朝の動乱期に一躍、足利のライバルとして新田義貞が浮上出来たのは、足利を失った南朝側の都合によるものというお話、納得です。
何やら昨今、新田一族は細川や吉良と同じく最初から足利一門であったとか、新田が足利のライバルになったのは足利氏の箔付けの為だったとかトンチキな説が横行する世の中なので、この動画は非常に我が意を得たり!といった感じで面白かったです。
平治の乱で新田義重の娘婿源義平(頼朝長兄)が討たれたのがその後の没落の起点にも思えます。そこから南北朝時代足利氏からの形勢逆転の機会を与えられたとも言える新田義貞とも言えなくないですね。
義平は平治の乱に敗れて京から敗走する途上、義朝の命で一人飛騨方面へ下って
再起の兵を募るも、義朝死すの報が伝わるやあえなく四散してしまっています。
何故この時舅の新田義重を頼ろうとは考えなかったのでしょうかね。
…他の源氏が平氏打倒に立ち上がる中、グズグズと日和見をしているような有り様では
ハナから当てにはされていなかったとかw
でもその後の世良田系で徳川家康を輩出したって事になるのでしょう?
ま、嘘歴史は明白だけど😁
新田氏は、私の地元なんです🎵
子供の頃、よく父に連れられて、山城である、金山城に歩いて登りました。
亡くなった父は、医師であり、郷土史家でもありました。専門は、石垣でした。
作家の新田次郎さんが、我が家を訪ねてきて、数日 父とはなしてました。
で完成したのが、小説「新田義貞」 作品の中に、お医者さんがでてきますか、父をモデルに、新田次郎さんは書いてくれました。
新田氏は出自は良いのですが、残念なことに、没落した、斜陽一族ですね。
江戸時代 新田の殿様「岩松」は
「新田様より、持ったさま」 と貧乏をディスられていました😢
猫の絵を描いて、内職していたんですよ(^_^;)
来年の大河の主役、徳川家康は偉くなってから
「俺は源氏の嫡流だ」
「新田義貞の子孫だ」
などといって家門に箔をつけてましたが、実は血統はあいまいかもしれませんね。
家康の数代前は、北国のあたりをうろうろしていた「高野聖」だったとか?
お父様の専門、「石垣」に凄く興味が
(*´ω`*)
神坂次郎著『猫男爵』は幕末から明治にかけての岩松氏と新田荘周辺を題材とする小説で、新田氏は滅んで影も形もないと思っていたので、殿様が猫の絵を描いて鼠封じの内職をしていたのが、太田市の養蚕農家出身の身には大変に面白かったです。
新田一族として取り上げていただきありがとうございます。
少し気になったところは、新田義貞公が相応しくない立場に置かれたといった解説の部分です。
梅松論や源威集の記述や太平記の義貞公の討死を惜しむ京都の人々の心情を表した記述から、筑波大学名誉教授の山本隆志先生は、名将であり、人々に慕われていたとの説を唱えており、南朝での立場が相応しくないかどうかという観点では、この動画とは異なった意見として、相応しかったと思っています。一方で、武士からの人望は、足利尊氏公の方が高かった可能性があったとも思います。
義貞公のバックボーンを鑑みると、義貞公の動きがおかしかったとも思えません。やはり、先祖の無念、新田氏としての歴史的背景(事実として新田氏の初期は足利氏を助けていた)から、突き動かせるものがあったと思いますし、後醍醐天皇の思惑とも合致したのかなと思います。個人的には、それが明治期となって正一位が贈られたことは、一族として溜飲が下がる想いです。
ありがとうございます!
いつも応援ありがとうございます!嬉しいです!
足利と新田は、東山道の本道や武蔵路の駅家としてもワンセット出てきますね。関東で駅家から現代の地名に引き継がれたのは他に特別区の豊島、大井と安房の白浜ぐらいですかね。豊島と大井も、御家人の名字でもありますね。
いつも主様の配信動画と皆様のコメントに脱帽しております。勉強になります。
自分が足利、新田の関係を知る最初の書物は、故 海音寺潮五郎さんの『武将列伝』の足利尊氏だったかと記憶しています。
そこでは、確か八幡太郎義家の二男(或いは三男)の義国が、はじめにめとった正妻の父 上野介藤原敦基の地盤があった上野に根を下ろし、嫡男義重が生まれた。
その後、信濃守 源有房(書には藤原有房と記載)の娘を妻とし、下野足利に移り二男義康を生んだ。
義国の寵愛は、2番目の妻と義康に厚かったようで、いきさつは不明だが、義重は下野の足利?を出て、実母の実家があった上野に戻り、新田荘に拠点を構えた云々…と記されていた記憶があります。
つまり、足利の優位は当初義国の御代より決まっていたように考えられる記述でした。
武将列伝の記載は読んだことはありませんが、義重は父義国とともに新田荘を新たに開発したようです。
義国は都で活動し、新田荘開発についても義国が中央で調整を行い、現地で義重が開発を主導するといった関係のようです。
当時の足利の領地は優遇されすぎだよね。
裏切らなくてもお金に困らなかっただろうに。
貧乏侍の代表格だと太平記に書いてあったような。
だが、後に新田の血を引く(世良田・得川氏という体(テイ)の?)松平氏によって江戸幕府が作られる…。
得川氏についての動画を今製作中ですが、まあガバガバな系図ですよね笑
家康はそれでも、源氏、その中でもあえて新田の子孫ということを特に強調したかったようですが。
@@rekishock 天海も秀忠の作った初代東照宮をわざわざ世良田に移築させるなど、徳川のバックボーンにはかなり気を使ったっぽいですよね。
世良田東照宮は現存する数少ない桃山建築の寺社らしい一度見に行ってみたいです。
それにしても、世良田の利根川の対岸がすぐ渋沢栄一の血洗島だし、あの地域ここんとこ大河づいてますねw
他の方で室町時代の詳しい方の動画では鎌倉時代後期にはすでに「新田氏は足利氏の一門」と位置付けられていたと解説されていますし、神皇正統記にもそう書かれていたそうです。
新田の分家の山名は室町時代には足利一門になっていましたね
というか、新田氏創設時の義重の代からすでに足利一門だよ。弟が家督を継いで足利を継いで、義重は新田荘を開発して新田氏を称する訳だから。
@@nitro2525k 元は父の義国が下野国の足利荘に土着したのが始まりですからね。
けど父の地盤を引き継げたのは長男の義重ではなく弟の義康の方。
ある意味新田と足利の格差はこの時から始まっていたという事か…
源義国を三男とされていますが、最近では生年順で義忠が三男で義国が四男となっていますよね。
自分が子供の頃覚えたときは、三男義国で四男義忠でしたが🥴
義国義忠の順番については自分も認識不足があったようです。ご指摘ありがとうございます!
義家存命の頃の時代はどうも勉強不足で…
@@rekishock
昔は確かに三男義国が通説でしたからね。
義忠と義国は同母兄弟だそうですから、昔の学者さんは何を以て三男義国と定義したのでしょうね。
義親ご乱行の後は、義忠が嫡男扱いとなり平家とも結んで源氏勢力を盛り返そうとしていた訳ですしね。
源義家後継問題も動画にして頂けたらなぁと思います😊
新田は足利本宗家の分家。同族の山名や里見が室町時代でも大名だったのもそのおかげ。
新田義貞は、後醍醐天皇からの拝領妻で不覚を取った。
「勾当内侍」のことですね。
1991年の大河ドラマ「太平記」では、宮崎萬純さんが演じていました。
放映当時は23歳。あの美しさは足利登子を演じた3歳年上の沢口靖子さんと並ぶものがありました。
新田は中先代の乱で一緒に行かなかった。これだけでかなり対立していた事がわかる。北条を滅亡させたのは自分だというおごりがそうさせたんだろうか。
始めから日和見して没落し、その後も幕府の顔を潰し続けて凋落の一途を辿るというやっちゃいけないことをひたすらやり続けた一族やね
娘を側室に求められるって最高のパイプであり源氏一門として許される象徴みたいなものなのに、帰参しつつそれを拒否するって全く持って意味不明なのだがどういうことやろ?
なんで新田が足利のライバルという話がでてきたのかを考えるに、楠木正成と新田義貞については、特に愛国的な人でなくても、この二人には非常に同情するところがあることと、江戸時代、徳川家康が 征夷大将軍になりたくて その為の条件の清和源氏を称する必要から、新田一族の得川の子孫であると称したことから、江戸時代の小瀬甫庵みたいなタイプの人達の内の徳川将軍家に媚びを売りたい人が、新田を持ち上げた、なんてことがあったのかなぁ。
徳川関係であれば、源(新田)義重が徳川家康によって鎮守府将軍を贈官されていますね。
徳川が先陣きって新田を持ち上げた感じがあります。
国體派の重鎮から、貴方の過去世は新田義貞と言われた事があります。重鎮の過去世は護良親王、今の私は琉球源氏の血筋。
製作者は目の付け所が良すぎるw かなりの歴史好きだね
まぁ、中国の農民出身の皇帝とかに比べるとダイナミズムが違うけど、腐っても鯛だから、動乱期には名門というだけでついてくる侍も沢山いたんだろうね。
兄貴の家が落ちぶれて、弟の家が繁栄するのは良くある事。武士でも政治力がある者は勢力を拡大すること可能だし。新田家にはその政治力も軍略も武力も不足していたね。
新田氏は先祖代々決断力が乏しい一族なのが、悲しいところやね(笑)
新田氏が没落したことはよく分かったけど、実際の石高や支配地域が時代を通じてどれぐらい足利氏と開きがあったのか気になりました。
当時は領国が存在しないので荘園比較になると足利宗家は関東、愛知、近畿中心に東北から九州まで全国36箇所に荘園を保有していて、さらに斯波、畠山、吉良、今川などの家臣筋の一門が独自に所領をもっている状態。一方新田宗家は保有していた上野の新田庄の大半を鎌倉末期には分家への分割や没収で失っているような状態で、扱い的には足利分家や新田分家と同格の扱いだったと思う。
@@tsunawataru6122 ご丁寧にありがとうございます。
長男が家督を継ぐというのは必ずしも正しくないです。源頼朝は三男ですが家督を継ぐことを約束されていました。それは母親の出自が天皇や摂関家の世継ぎで問題視されていたのと同じで、頼朝の場合、母は藤原季範の娘で、長男義平の母は尊卑分脈では橋本の遊女・清和源氏系図では三浦義明の娘、次男朝長は波多野義通の妹と、頼朝の母が格上だったからです。義国の長男義重の母は藤原敦基の娘、一方次男義康の母は前述の藤原季範の養女、実は季範の子範忠の娘を祖父の季範が養子にした、つまり頼朝の母の姪に当たる人物です。母親の格という点では、義康の母が上となります。これより家督(=足利氏)を継いだのが義康で、義重は分家すじ(=新田氏)になります。
こういった母親の家格という点で分かりやすいのは徳川家康の異母兄弟の樵暗恵最という僧侶、母親の家格が低いので同年同日生まれなのに僧侶にならされています。
新田一族の政治感覚の鈍さは救いようが無いと思われる。徳川家康の江戸入部の時にもせっかく一族だからと取り立ててもらえる機会だったのをまともな挨拶もせずその他大勢の扱いにされて小旗本の地位しか得られなかった。上手く取り入って系図その他の便宜を図れば一門衆扱いをされて大名も望めただろうに使えない一族。
鎌倉時代はしょうがないにしても、徳川にはもうちょっと上手く取り入れましたよねえ…
家系図の提出を拒否したとも言われていますが…
谷口雄太さんの「中世足利氏の血統と権威」(1万円越える)を初学者向けにまとめた「武家の王 足利氏」がおススメ。
なんで新田が足利のライバルなの?公平に見ていろんな面で格が違う、のだけど。
足利を強く見せるために良きライバルが必要なわけで、そこで引っ張り出されたのが太平記の新田(笑)
徳川史観のなかで武田が高く評価されているのと同じ構図かと。
北畠親房「新田は足利一門」と言ってるくらいなので、もうこの議論は済んだことと思ってます。
分枝の時期についての議論も、じゃあ細川一門なのか?それとも広沢一門なのか?
これは真偽不明ですが、新田の一匹両紋。これは敵味方区別のためにこうしたらしいというハナシも。
中世足利氏の血統と権威、図書館にあったのは見たのですが、パラッと見ただけであまり読まなかったんですよね…
新田の持ち上げられ方についてはあまり詳しくなかったので読んでみます!コメント見てだいぶ興味が湧いてしまいました!
武家の王、足利氏はもうちょっと簡単にまとめた感じなんですね。そちらから見てみようと思います!
@@rekishock さん いやいや、主さんにお勧めとかそんな上からの気持ちは一寸もありません、ワタシを含め初学者へのお勧めの意味です。
え?1万超えの研究本が図書館にあるのですか!? ひょっとして大学の研究者のかたですか?
それは失礼しました…笑
研究者ではないのですが、出身大学の図書館をメインに利用しているだけです!
武家の王は、太平記ベースの話しか知らない人には是非読んで欲しい本ですね。
源氏関連の話がある他の研究者の書籍でも当たり前のように参考文献にされてきてますからね。
これ読んだらもう足利より新田が上なんて恥ずかしくて言えなくなる。
あと「足利氏と新田氏」も読むと、鎌倉期での新田の扱いもわかって、より両者の間の埋めがたい決定的な差がわかりますね。
レキショックさんはNHKの画像を加工して
動画を出してますがNHKから許可を貰っているのでしょうか?
NHKは国民が受信料を払い受信者の財産ともいえるものですけど
まさか無断転載じゃないですよね?
誠忠の名将 千歳のちも輝かん
新田は上杉のライバル
徳川家康が本当に新田義重の末裔だとしたら大逆転勝利したと言えなくもないんだが・・・本郷和人氏が産経に寄稿した記事だと「新田氏の末裔かつ藤原氏」とか言っちゃったらしいので、違うんだろうなあ。
家康は系図改ざんで新田につなげたと言われていますね…
こちらの動画で家康と新田氏のつながりについては詳しく紹介していますのでもしよろしければ!
ua-cam.com/video/VkxTAi_bUY0/v-deo.html
新田義貞公を取り上げてくださりありがとうございます。私は義貞公の庶子、原澤将監道長の末裔です。
源義国→長男:源義重(新田荘を開拓)、次男:源義康(家督を相続し本貫地足利荘を相続)ってことで、足利家の分家として新田氏は誕生しているので、新田義重が足利義康より格上はあり得ない。
河内源氏
もともと分家でありライバルではない ほかにも分家たくさんある
吉良とか今川 斯波 みんな源氏
それと得川(のちの徳川?)
鎌倉時代からずっと新田氏は失敗ばかりだな。後醍醐についたのが最後の大間違いで、これで終ってしまった。もう少し時代の流れを読める人物が出てれば何とかなったんだろうけど。
新田が鎌倉時代を生き延びたのは力無く覇気無く全く無害な存在だったから。
本家の源姓足利が栃木県人気質で優柔不断権力者に全く無害無抵抗無気力、傘下の新田など相手にされていない。
同じ源氏でも佐竹(茨城)、武田(山梨)両氏の強烈な家風歴史とは全く別人種、今も県民気質にそのまま続く。
cmながっ
??
関東の源氏の雄新田尊氏のおかげで影は薄いが。源氏の嫡流であることは間違いない。