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始皇帝の本名問題、特に「嬴」か「趙」かというのは結局、【本名】って何なの? という1点に集約されます。今回の前半でお話しした内容が史実だとして、姓が「嬴」、氏が「趙」の国王がいたという事実があるだけです。これを、戸籍の本名とネットのハンドルネーム、結婚前の旧姓と結婚後の新姓、のような区別と同じように考えると途端に混乱します。例えが的確かどうか怪しいですが、例えば千葉県船橋市に住む人がいたとして、「あんたの本当の住所は千葉なのか船橋なのか?」と聞かれたらどうでしょう。千葉でもあるし、船橋でもある。県は千葉だし、市は船橋だ。そう答えるはずです。「あんたどこの人?」と聞かれて、その人が千葉と答えやすいか船橋と答えやすいか、そういう部分は観察や議論の余地があります。
セピアさんはよく勉強されていますね。他人の受け売りを話術で上手に話すだけの歴史系UA-camがほとんどですが、セピアさんのお話は毎回、独自の考えが入っていてとても面白いです。これからも頑張って下さい。
今回も面白かったです歴史は過去の出来事なのに、まるで今も生きているかのように変化していきますね現代に生きている人々が研究を続けていて、そしていまだに新しい発見があり続けるというロマンを感じますそれが歴史の面白いところではありますが、一度覚えたことを覚えなおすのはちょっと大変かも…
ひと一人の本名でこんなにエピソードがあるの素直に凄い!!中国史は名前が複雑で覚えられないからってのが苦手な理由のひとつでしたが、名前から歴史や色々な状況を考察できるのなら印象に残りやすいし、こうして覚えられるのは嬉しいです。
今日も面白かったです😊
始皇帝が「始皇帝」じゃなかったというのは興味深いですね歴史ってこうやって更新されていくのが面白いです「聖徳太子」に関してはのちの世の人がそう呼んだってことなんでしょうね歴代天皇の「〇〇天皇」ものちの世の人が名付けてるだけですし、それと同じですね
今回も面白かったです♪新しい資料等で 新しい事が分かるのも 歴史は面白いですね次回も楽しみに待ってます😄
面白かったです。まさか趙高と同じ氏族名だとは思いませんでした。或は趙高があのポジションに居られたのは同じ氏族だった?から何て事もあるのでしょうか?更なる研究を待ちたいところです。
姓と氏の概念て難しいですよね。しかも昔は日本でさえ本名でなんて呼ばないし。でも本当の名前は家族しか知らない、みたいな風習はなんか憧れます
今回も凄く勉強になりました!姓と氏の違い、分かりやすかったです。
呂不韋が父親とも言われているので趙政と名のり後から嬴政と紐付けていったとも考えられそうですね。
これは足利源氏とか新田源氏、織田平氏とか松平源氏みたいなイメージですねもっと遡ると藤原氏の鷹司とか近衛とか
ありがとうございます!
前漢建国のころも戦国時代の封建国家が納得できる理想的国家モデルだったようですね。秦王室、漢王室が滅びたての周王室の代わりを果たしたのかもしれません。
始皇帝が聖徳太子のように、実はこういう名では呼ばれていなかった!最近古代史は多くの研究成果で随分変わって来ていますが、始皇帝という名称は、残して欲しい気がします。相邦が相国に変わったというくだりで、清盛の呼び名を思い出しました。有名な月岡芳年の東錦絵の芳年武者无類で平相国清盛と記されているのは、この中国の名称から来ているのでしょうか?!
安納勉「封神演義」では長男が戦士した戦いでヒレンは国を失ったが長男の子孫が秦を再興した、ヒレンと次男の悪来は紂王に仕えて悪来は周・射の決戦で戦士、三男は周の奴隷になっていたが姫昌(文王)の釈放に協力する代わりに開放するというオファーがきて、それに対してヒレンは、協力はするが奴隷から解放したらそのまま周で仕官させてくれといって、二股をかけた。これが趙氏。のちに重耳の亡命について行って、その後「晋の六卿」となる。 悪は強いという意味。日本でも悪源太・源義平とかいう。ヒは「飛」で著距離走が得意という首長らしからぬ特技を持っていたから。紂王と悪来の死後も残存勢力の間を行き来して長期間レジスタンス闘争を続ける。といったものだったと思う。
姓を賜る文化はもっと後なので、4千年前だかエイという名前を賜っているとは考えられないという謎理論にちょっと不審感を感じているのだけれども、趙で行われた大虐殺事件のぶり返しを恐れた秦が、兄弟という歴史をでっち上げた可能性もありますよね。中華の古代は想像力を刺激し面白いです。となると因みに趙雲もその流れを汲んでいると自覚していたのだとしたら、なんとなく三国志での活躍もわからんでもない。その神話の中国の話をもっと聞きたいです。毎日更新してください。
始皇帝の本名問題、特に「嬴」か「趙」かというのは結局、【本名】って何なの? という1点に集約されます。
今回の前半でお話しした内容が史実だとして、姓が「嬴」、氏が「趙」の国王がいたという事実があるだけです。
これを、戸籍の本名とネットのハンドルネーム、結婚前の旧姓と結婚後の新姓、のような区別と同じように考えると途端に混乱します。
例えが的確かどうか怪しいですが、例えば千葉県船橋市に住む人がいたとして、「あんたの本当の住所は千葉なのか船橋なのか?」と聞かれたらどうでしょう。
千葉でもあるし、船橋でもある。県は千葉だし、市は船橋だ。そう答えるはずです。
「あんたどこの人?」と聞かれて、その人が千葉と答えやすいか船橋と答えやすいか、そういう部分は観察や議論の余地があります。
セピアさんはよく勉強されていますね。他人の受け売りを話術で上手に話すだけの歴史系UA-camがほとんどですが、セピアさんのお話は毎回、独自の考えが入っていてとても面白いです。これからも頑張って下さい。
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歴史は過去の出来事なのに、まるで今も生きているかのように変化していきますね
現代に生きている人々が研究を続けていて、そしていまだに新しい発見があり続けるというロマンを感じます
それが歴史の面白いところではありますが、一度覚えたことを覚えなおすのはちょっと大変かも…
ひと一人の本名でこんなにエピソードがあるの素直に凄い!!中国史は名前が複雑で覚えられないからってのが苦手な理由のひとつでしたが、名前から歴史や色々な状況を考察できるのなら印象に残りやすいし、こうして覚えられるのは嬉しいです。
今日も面白かったです😊
始皇帝が「始皇帝」じゃなかったというのは興味深いですね
歴史ってこうやって更新されていくのが面白いです
「聖徳太子」に関してはのちの世の人がそう呼んだってことなんでしょうね
歴代天皇の「〇〇天皇」ものちの世の人が名付けてるだけですし、それと同じですね
今回も面白かったです♪
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分かるのも 歴史は面白いですね
次回も楽しみに待ってます😄
面白かったです。
まさか趙高と同じ氏族名だとは思いませんでした。
或は趙高があのポジションに居られたのは同じ氏族だった?から何て事もあるのでしょうか?
更なる研究を待ちたいところです。
姓と氏の概念て難しいですよね。しかも昔は日本でさえ本名でなんて呼ばないし。
でも本当の名前は家族しか知らない、みたいな風習はなんか憧れます
今回も凄く勉強になりました!
姓と氏の違い、分かりやすかったです。
呂不韋が父親とも言われているので趙政と名のり後から嬴政と紐付けていったとも考えられそうですね。
これは足利源氏とか新田源氏、織田平氏とか松平源氏みたいなイメージですね
もっと遡ると藤原氏の鷹司とか近衛とか
ありがとうございます!
前漢建国のころも戦国時代の封建国家が納得できる理想的国家モデルだったようですね。秦王室、漢王室が滅びたての周王室の代わりを果たしたのかもしれません。
始皇帝が聖徳太子のように、実はこういう名では呼ばれていなかった!最近古代史は多くの研究成果で随分変わって来ていますが、始皇帝という名称は、残して欲しい気がします。
相邦が相国に変わったというくだりで、清盛の呼び名を思い出しました。有名な月岡芳年の東錦絵の芳年武者无類で平相国清盛と記されているのは、この中国の名称から来ているのでしょうか?!
安納勉「封神演義」では長男が戦士した戦いでヒレンは国を失ったが長男の子孫が秦を再興した、ヒレンと次男の悪来は紂王に仕えて悪来は周・射の決戦で戦士、三男は周の奴隷になっていたが姫昌(文王)の釈放に協力する代わりに開放するというオファーがきて、それに対してヒレンは、協力はするが奴隷から解放したらそのまま周で仕官させてくれといって、二股をかけた。これが趙氏。のちに重耳の亡命について行って、その後「晋の六卿」となる。 悪は強いという意味。日本でも悪源太・源義平とかいう。ヒは「飛」で著距離走が得意という首長らしからぬ特技を持っていたから。紂王と悪来の死後も残存勢力の間を行き来して長期間レジスタンス闘争を続ける。といったものだったと思う。
姓を賜る文化はもっと後なので、4千年前だかエイという名前を賜っているとは考えられないという謎理論にちょっと不審感を感じているのだけれども、趙で行われた大虐殺事件のぶり返しを恐れた秦が、兄弟という歴史をでっち上げた可能性もありますよね。中華の古代は想像力を刺激し面白いです。となると因みに趙雲もその流れを汲んでいると自覚していたのだとしたら、なんとなく三国志での活躍もわからんでもない。その神話の中国の話をもっと聞きたいです。毎日更新してください。