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この戦争で唯一の勝者は満州のヌルハチだっただろうな
第二は家康かどちらも天下人へ
@@user-boo972完ぺきな答え
明の勝ち
@@user-zxkyouto 明の勝ち
明と後金の戦争は20年後で、万暦帝は新しい武将を再び任免する時間が完全にあったが、残念ながら万暦帝はオタクで、20年後、やはり同じ武将で、彼らの平均年齢は60-70歳だった
秀吉は明へ出兵したのであって、朝鮮はその通り道という認識
陵墓の建設に最も出費してるのが暗君力高い
小西行長は虚偽の報告でよく生き残ったな。
親が商人だからね。交渉うまいのだろう
小西行长想早日结束无聊的战争,作战久了会有厌倦
でも結局その後滅びますね。
感情を優先した結果滅んだ。
明はこのあと20~30年後には滅亡してしまうんだよな
※朝鮮は清に支配され、明との外交は強制終了します
1644
この戦争の戦費のよるものだとか違うとか色々言われています。国内情勢が悪くなるきっかけにはなっているのかと思います。
加藤清正がオランカイ(渤海地方)に侵入した時、後に明を滅ぼして清を建国するヌルハチが、朝鮮と明への援軍を申し出るんだけど、朝鮮も明も断ってしまったらしいですね。でも加藤清正も、渤海や満州の荒涼とした大地を見て、北から周り込んで明を討つというのは無理だと悟ったとか。
明が滅亡間近の時に江戸幕府に援軍要請したよね。お礼に大陸内の領土割譲しますと。
対外戦争より自国の浪費の方が単体としてでかいのガチ草有能な敵よりも無能な味方の方が危険とはこのこと
当时日本刚完成国家统一,很多武士没有事情做,武士除了杀人别的也不会,所以对于当时的日本,对外作战才是唯一的出路
@@amirtemur2102その武士は後の時代に現代で言う公務員的な存在になってるんだけどね
@@amirtemur2102実際、統一後の時代はそうだよね。江戸になってから行政やらが発達するわけで
@@New-yukkuriIFch 在江戶時代 日本武士是公務員, 文武兼併, 但是在關原大戰的時期,日本武士真的只會殺人,豐臣秀吉本人都不認識漢字。
@@amirtemur2102 现在的日本人也不认识汉字
朱元璋があれほど宦官を政治から遠ざけたのに、全て無駄でした。
明の宦官は当時の世界で最も巨大な特務機関を掌握していた:[錦衣衛]、ナチス・ドイツのゲシュタポに相当する
まぁ、そもそも山海関を突破する戦力は日本になかったからな
清も自力では山海関を突破できなかったが明の守将・呉三桂が明の最後の皇帝・崇禎帝を自殺に追い込んだ李自成に降るのを拒んで清に投降して城門を開いたため入関できました。
大変面白かった。
秀吉が死んだのは明・朝鮮にとっては、かなりの奇跡
日本にとっても幸運だよ。退却できる理由ができたからね。それに、どうせ中朝はこの戦いの後に、女真族に蹂躙され国は消える。
大陸的神風やな
イエ○ス会にとって
真会往自己脸上贴金😅
@@fangH.Z金を塗ると…?
まあ、日本の九州は倭寇が多いから、元々海の戦いに強いし、戦国時代を生き抜いた侍はかなり戦闘力が高かっただろうな。
当時の日本は、鉄砲や砲弾、弾薬の保有量が世界一だったという説もありますね。事実上、その時代の世界最強軍事国は、オスマン・トルコ帝国と、日本だった。ヨーロッパ諸国は熾烈な戦争をやっていたようでも、イギリスもフランスもスペインも、当時はまだ人口や国力がそこまで大きくなかったし、ドイツやイタリアは統一国家の成立が遅れていた。日本は戦国時代から信長と秀吉の時代にかけて、流通や商業もかなり発達していました。
@@silversurfer512 可以为自己的历史自豪 但是盲目的自信是愚蠢的 多去看看世界纪录
実際に安土桃山時代から戦国時代にかけてかなりの鉄砲をバテレンから購入し、技術をコピーして自前の鉄砲を作っております。偏った戦力はあったが事実ではないでしょうか。
@@silversurfer512 あなたの言うことが本当なら、日本軍は日本に戻ってこないはずです、今の朝鮮半島は日本のはずです。しかし、日本はこの戦争に失敗した。この戦争中、日本には大きな大砲さえありませんでした。明軍は日本軍を倒すために大量の大砲に頼った。しかし、明朝の政治腐敗と将軍間の不和のため、戦闘効果は発揮されませんでした。日本の軍艦は大砲すら持たず、造船技術も極めて後進的でした。だからこそ李舜臣に何度も敗れたのだ。当時の火薬帝国はオスマン帝国と明王朝だけでした。スペインの記録がそれを証明しています。明代の海軍は、東アジアで大規模な大砲を備えた唯一の海軍でした。日本のビジネスは明のビジネスとは全く比較になりませんでした。現代の歴史家は、初期の資本主義は明の時代に出現したと信じています。明代になると江南地域に特殊工業生産企業が出現し、農業生産から完全に離れた専門労働者が出現した。経済レベルでも、明王朝は世界で最も発展していました。あなたの国家主義的なレトリックは韓国人と非常によく似ています。日本の将軍たちの記録は非常にばかげており、しばしば数十万人の明軍の殺害を記録している。しかし実際には、明軍が朝鮮半島で失った命はわずか4万兵士に過ぎなかった。
@@silversurfer512这时候的日本野战太拉垮了,骑兵和明军没法比啊😂只能守城
対日戦より陵墓建設の方が高くついたって何よ。
文禄の役の後、ソウルには中国の武将を祀る祭壇が東西南北の方向に建立され、朝鮮王は代々、明と朝鮮の安泰を願って祈りを捧げていたらしい。今は東にある祭壇しか残ってないが、ソウルに行った際には寄ってみるのも悪くないかも。ちな、祭壇の前には闇市というかソウルならではの市場的なものも広がってて、色んなものが入手できるからきっと楽しいと思う。
関帝廟ですね。
万暦帝の「オタク主義」により明王朝の重要な役人は任免されず、退職届を繰り返し提出した役人もいた。万暦帝は相手にしなかったので、豊臣軍と戦った明の武将は20年後に60-70歳になった。これらの武将たちは彼らの人生最後の戦いに参加し、「サルファの役」、努爾哈赤これらの老人武将たちに最後の一撃を与えた
ネタ的には秀吉がもっと長生きしてどこまでいけるかやってほしかった
財政悪化の一言ではなく、具体的な数値や内訳はわかりやすい
なんか他の動画が日本最強!侍最強!みたいなのばっかりで辟易していたので、こういうわりかし中立的な動画は助かります。
豊臣秀吉がもし生きていたならこの戦争はどうなっていたと思いますか?コメントください
一样被明朝铁骑斩杀,日本武士都是150+身高的步兵对抗明朝铁骑根本打不过,史书记载一个女真可以打过30个倭奴,连女真部落都打不过怎么跟大明打
明が滅亡期の時。明が衰えていた時代。秀吉の眼力は正しい。秀吉がもっと若く大陸に渡っていれば中国支配も可能性は有った。日清戦争も清朝の滅亡期。中国王朝の衰退期には勝機が有る
万暦帝尊敬するわ、ここまで動じないニートてすごいです。
それでいて他者に政権を取らさず、自分の代で滅亡させない。ある意味で優秀かも。
7:20島津義弘相変わらずヒャッハーしてて戦争クソ強いの草
結局、3城とも落とせなかったのか
他の動画も勉強になります、、Thanks$無いんですか?
この朝鮮防衛も万暦帝による明滅亡への布石説出てるのマジでおもろい
明亡于财政,其次是天灾和内乱,满洲人入关之前,北京已经被李自成攻破了,皇帝自杀了。
明朝灭于国内的土地兼并和农民起义。后金虽然棘手但不致命,致命的国内农民起义和军队腐败。
島津が強すぎたw
무수히 많은 사람들이 사망했던 슬픈 시기..전쟁은 지도자의 욕심에 의해 죄없는 사람들이 이유 없이 죽어야 하는 너무나 가슴 아픈 사건..다시는 이 땅에 전쟁이 없기를..
日本史って島国根性が先に立って鎖国的な勉強に陥りがちだけど、こうして世界史に打って出て多大な影響を与えてるのを知ると面白いですよね。加藤清正のオランカイ大遠征とか完全に世界史の武将レベルの動線だし、当時の日本がオスマントルコより若干GDPで上回ってるとか知ると胸熱。
なぜ明の人はほとんど画像がないと知てるか, 彼らは大人物ではない, 普通のざこだから, 今の中国では誰も知らないざこだ。日本の側は全部“名将”でした。😅
朝鮮出兵は秀吉の無謀な野望に国内のみんなが振り回された出来事だったとの印象だったが、明の衰退に繋がっていたとは。相手側から見るとおもしろいな。太平洋戦争の末期日本は悲惨な状態だったが、戦争を終わらす方も苦労があると聞く。アメリカは強硬な姿勢を貫いたが、そこら辺のアメリカ側から見た葛藤みたいなものがあったとしたら興味深い。
歴史的に見れば何回も向こう側に出向く侵略の傾向があるのは日本わざわざ何万人も海超えて攻めてくるなんて普通に頭おかしい
11:54 ここガチ草
マネー系池沼なんでしょうね。
両はテ-ルと発音します
2億テールの賠償金とか言うもんね
仮に、本能寺の変がなく信長が生きて居たら 明を征服できたのかな?
そしたら小西行長と加藤清正が先鋒じゃなくて秀吉と家康が先鋒かぁ~。まあ、現実よりは兵站線しっかりしそうだし、めちゃくちゃ良く出来て朝鮮全土平定して日明貿易再開とかかなぁ~(万暦帝には日本降伏した体にしといて現場でやり繰りするしかないだろうけど)
恐らくインドからアフガニスタン辺りまで日本と化していたろうな
南蛮に関心がある信長なら明と朝鮮は放置して、台湾を足がかりに東南アジア方面を攻めて日本化するだろうな
日本の領土の小ささは光秀のせいやね
明攻めの武将として秀吉、光秀、勝家が使えるのがデカすぎる
這場戰爭唯二的贏家分別是大明龍虎將軍努爾哈赤和豐臣五大佬之首德川家康
野豬皮 和 老烏龜 笑到了最後
通貨に中国の両と言う文字を借りてテ-ルをりょうと発言する事に日本はきめました
撤退≠敗北
敗北 這個詞語在中國古代是用來形容 蠻族人 被 漢族王朝擊敗后潰逃北方。 崇禎皇帝是一個非常看重自尊的人。 戰敗對於皇帝來說是極上的恥辱。 所以他選擇玉碎于北京城。
其實近代日本和中國的戰爭,都恰好是中國朝政最弱的時期
明末 清末,都是打完没多久就亡国了(这么一说 民国政府在大陆的统治算不算?)
중국에서는 만력제 를 조선황제 고려천자 로 부른다 전쟁중에도 배고픈 조선인을 위해 개인재산으로 많은 식량 사서 을 보내준 황제이다
谁和你说的? 藩属国就藩属国 朝鲜当时的王在明皇帝面前还不是要跪着行礼
@@左左定坤没必要这么骂他,我通过翻译器看他只是说了万历皇帝用自己的内帑给饥饿的朝鲜人买粮食,这不是攻击中国,说中国的坏话。
@@左左定坤どう読み取ったら、その返信になってしまうのか気になる👀
@@左左定坤你是有什么毛病吗?
@@左左定坤 殷朝是古朝鲜的封建领主,是韩国古代历史的一部分。 “贡”这个词也来自向朝鲜(天子国)献上某种东西的意思。
感谢中国很少介绍这段历史学习到了
老外特别是UA-cam这里,很多老外会各种瞎编啊,推荐你看国内作者朱尔旦的《万历朝鲜战争全史》,应该是世界范围内介绍这场战斗最好的书籍,不要找错了呀
你听老外瞎编中国历史 他们只会美化自己的历史 从一个日本人的角度看中国人 非常奇怪
这种主观性这么强的胡说八道,学到什么了?😅
完全没意义…干脆日本成东亚小罗马算了……
こうやって見ると日本軍も善戦していたんですね。
伊達政宗や黒田如水が本気になれば⁉️明軍を蹴散らすなど造作もないはず兵法処か読み書きも出来たか怪しい李治成の率いる暴徒になす術もなく敗けた明軍に百戦錬磨の二人が何故、手をこまねいていたのか⁉️
両者グダグダでやってただけでしょ。特に秀吉が死んで土地も獲得できんのだから。
@@Unityan 両者の戦力が拮抗していたから一方的にやられた分けでなく善戦と捉えました。 別の見方をすればグダグダとも表現できますが。
中国の正史の明史では、日本がめっちゃ強くて明軍は劣勢だったって書いてあって、ビックリした。
@@たぬ-w8kそうなんですね。
墓に秀吉対応並の国費を使うな。安倍の国葬並みに許せない
秀吉の敗北って朝鮮出兵くらい?小牧長久手は勝てなかったけど、政治的には勝ったようなものだし。
敗北?
むしろ朝鮮で勝ちに勝って荒らしまくってるぞ
また日本の両は金中国のテ-ルは銀ですから
日本軍は野戦が苦手で市街地に隠れることしかできないが、非常に粘り強い。
@user-wy4eq5ur5k 把鸭绿江边的义州 光州的日军赶回日本的明军只善于守城,你的说法没有任何依据 别乱说惹人耻笑
@user-wy4eq5ur5k 第二次明军素质更拉,京营完全就是些临时募的市井无赖。万历中后期的明军能打的西三边军基本都没参与朝鲜之役。
把战败说的这么清新脱俗😅
中 日 朝 関係史朝鮮の北部は昔漢の時代に真番郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される 南部は三韓と称されてその中の一つ国 "百濟" 日本と朝貢関係があり 今現地で出土した倭人の遺跡があります 漢の時代が終わり、次の時代は晋南北朝時代で長年の内乱で朝鮮半島北部は満州に崛起した高勾麗に占領し、今中国の北部も他の異民族に統治され、異民族の統治時代に迎え、北朝と称される、一方、元々の中原にいる統治者と貴族達は南へ移行し、今の長江の付近で新しい都を作り、行政を行い、南朝と称される 北朝と宗主関係を持つ国は高勾麗、南朝と宗主関係を持つ国は 新羅、百濟、倭で 南朝六朝時代 呉・東晋・宋・斉・梁・陳は日本に巨大な影響を与えて今の呉服 吳織 漢織 天竺様 などの言葉も日本書記に記載がある。 中国南北朝時代に日本は倭の五王時代であり、倭の五王(讃・珍・済・興・武)は南朝に征東大将軍 鎮東大将軍 使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍などの官職を授与された。時系列『後漢書』「東夷伝」、『三国志』(魏志倭人伝)により、後漢末 三国時代に "倭国大乱"という2世紀後半(弥生時代末期)に倭国で起こったとされる争乱があってその中に一番有名なのは卑弥呼の邪馬台国である。日本列島で四百余りの国が攻め合いました。後漢末三国時代が終わったら魏晉南北朝(220年-589年、古墳時代)に迎え、日本の倭国大乱も治まってその時、倭の五王の時代に入りました。朝鮮北部(漢四郡)は高勾麗に占領され、南部は日本が影響を与えて南部の三国の政治に干渉していました。(神武東征、倭の五王、征東大将軍、神功皇后、仁德天皇、應神天皇、古墳時代)中国の南北時代が終わって 隋・唐の時代に入り、日本も倭の五王の時代から、大和政権の時代に変わって倭の五王のことも天皇譜系に書き込み、倭の五王の後、日本列島(関西大部の地域)で統一政権が成立しました。隋・唐は高勾麗に征し、高勾麗の勢力は朝鮮北部から中国の東北、今中国とロシアの国境の付近に撤退し、唐・新羅戦争で新羅権を征服しました。一方、日本の勢力は朝鮮南部に強く蔓延し、百濟との関係を強化しました。飛鳥時代 日本の皇極4年 645 年、大化の改新は、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を、皇極天皇の皇居において蘇我入鹿を暗殺して滅亡させた乙巳の変)により始まった(645年 - 650年)、叔母の推古天皇の下、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使 遣唐使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋 唐から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった。因みに、『日本書紀』皇極天皇紀では太子の一族が居住していた斑鳩宮を指して「上宮」と呼称しているほか、子の山背大兄王を「上宮王」、娘を「上宮大娘姫王」とも呼称している[13]。顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている。『日本書紀』では、恵慈が「上宮豊聡耳皇子」の名を使った記述があり、「上宮太子」という記述もある。「上宮」の語は、古くは中国の歴史書『宋書』や『南斉書』[注釈 4]に見え、皇帝や皇太子が居住する場所を表す言葉として用いられている[14]。また、南朝における皇太子は、皇帝の位を脅かす皇帝一族や外戚に代わり、「上宮」にて皇帝支配の一翼を担い、皇帝権を強化する存在として重視されていた。そのため、厩戸皇子が「上宮太子」や「上宮皇太子」などと呼ばれたのは、南朝から百済を経由してもたらされた皇太子や上宮という存在に関する知識が関連しているとする説が存在する。盛唐の時代に 663年、唐と日本の国力を発展しつつ、やっと朝鮮半島で衝突し、戦争が起こりました。白村江の戦いと言われます。両軍の代表は唐の三番目の皇帝 天皇大帝 唐高宗をはじめ、新羅の文武王、唐の朝臣 劉 仁軌で、日本の天智天皇をはじめ、豪族の上毛野稚子、重臣の阿倍比羅夫、百済王の王子 扶余豊璋 です。戦争の導火線、660年蘇定方率いる唐軍が百済の都の泗沘城を攻め、配下の劉仁願が義慈王を捕らえる功績を挙げ、百済を滅亡させる。しかし、龍朔元年(661年)に百済の遺臣鬼室福信らが泗沘城の奪還を試み、守将の劉仁願を包囲した。この際、劉仁軌は自ら志願して検校帯方州刺史を拝して援軍に赴く。結果:唐・新羅連合軍の大勝、朝鮮半島における倭の勢力圏の完全消滅。戦後、唐との関係の修復を図り、遣唐使を派遣し続けました。年表日本 天智天皇 661-671 弘文天皇 671-672 天武天皇 673-686 持統天皇 686-697 文武天皇 697-707 (飛鳥時代:592年-710年) 唐 高宗 650-683 / 中宗 684 / 睿宗 684-690 / 中宗 (重祚) 705-710 / 殤帝 710 / 睿宗 (重祚) 710-712 / 玄宗 712-756 (719-756楊貴妃の時代)最後文武天皇 697-707 飛鳥時代の末期 日本という国号を確立しました。大宝元年8月3日(701年9月9日)に大宝律令が完成し、翌年公布している。 大宝律令において初めて日本の国号が定められたとされる[4]。遣唐使の粟田真人に初めて節刀を与えて唐との国交正常化を目指して日本の国号変更(「倭」→「日本」、どちらも同じ国号「やまと」だが漢字表記を変更)を通告するも、記録の不備あるいは政治的事情からか後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったとみられている。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。また混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けた。
高句麗百済新羅の分国だった古代日本は、高句麗と百済の滅亡を契機に韓国とは別の独立した国家に変貌します。もちろん中世にも高麗の属国と同じ地位でしたが、高麗が滅び、朝鮮王朝が入りながら雨として日本は韓国と対等な国となります。
写得太好了 佩服,歷史學者先生
この戦争で唯一の勝者は満州のヌルハチだっただろうな
第二は家康か
どちらも天下人へ
@@user-boo972完ぺきな答え
明の勝ち
@@user-zxkyouto 明の勝ち
明と後金の戦争は20年後で、万暦帝は新しい武将を再び任免する時間が完全にあったが、残念ながら万暦帝はオタクで、20年後、やはり同じ武将で、彼らの平均年齢は60-70歳だった
秀吉は明へ出兵したのであって、朝鮮はその通り道という認識
陵墓の建設に最も出費してるのが暗君力高い
小西行長は虚偽の報告でよく生き残ったな。
親が商人だからね。交渉うまいのだろう
小西行长想早日结束无聊的战争,作战久了会有厌倦
でも結局その後滅びますね。
感情を優先した結果滅んだ。
明はこのあと20~30年後には滅亡してしまうんだよな
※朝鮮は清に支配され、明との外交は強制終了します
1644
この戦争の戦費のよるものだとか違うとか色々言われています。
国内情勢が悪くなるきっかけにはなっているのかと思います。
加藤清正がオランカイ(渤海地方)に侵入した時、後に明を滅ぼして清を建国するヌルハチが、朝鮮と明への援軍を申し出るんだけど、朝鮮も明も断ってしまったらしいですね。
でも加藤清正も、渤海や満州の荒涼とした大地を見て、北から周り込んで明を討つというのは無理だと悟ったとか。
明が滅亡間近の時に江戸幕府に援軍要請したよね。
お礼に大陸内の領土割譲しますと。
対外戦争より自国の浪費の方が単体としてでかいのガチ草
有能な敵よりも無能な味方の方が危険とはこのこと
当时日本刚完成国家统一,很多武士没有事情做,武士除了杀人别的也不会,所以对于当时的日本,对外作战才是唯一的出路
@@amirtemur2102
その武士は後の時代に現代で言う公務員的な存在になってるんだけどね
@@amirtemur2102実際、統一後の時代はそうだよね。江戸になってから行政やらが発達するわけで
@@New-yukkuriIFch 在江戶時代 日本武士是公務員, 文武兼併, 但是在關原大戰的時期,日本武士真的只會殺人,豐臣秀吉本人都不認識漢字。
@@amirtemur2102 现在的日本人也不认识汉字
朱元璋があれほど宦官を政治から遠ざけたのに、全て無駄でした。
明の宦官は当時の世界で最も巨大な特務機関を掌握していた:[錦衣衛]、ナチス・ドイツのゲシュタポに相当する
まぁ、そもそも山海関を突破する戦力は日本になかったからな
清も自力では山海関を突破できなかったが明の守将・呉三桂が明の最後の皇帝・崇禎帝を自殺に追い込んだ李自成に降るのを拒んで清に投降して城門を開いたため入関できました。
大変面白かった。
秀吉が死んだのは明・朝鮮にとっては、かなりの奇跡
日本にとっても幸運だよ。退却できる理由ができたからね。それに、どうせ中朝はこの戦いの後に、女真族に蹂躙され国は消える。
大陸的神風やな
イエ○ス会にとって
真会往自己脸上贴金😅
@@fangH.Z金を塗ると…?
まあ、日本の九州は倭寇が多いから、元々海の戦いに強いし、戦国時代を生き抜いた侍はかなり戦闘力が高かっただろうな。
当時の日本は、鉄砲や砲弾、弾薬の保有量が世界一だったという説もありますね。
事実上、その時代の世界最強軍事国は、オスマン・トルコ帝国と、日本だった。
ヨーロッパ諸国は熾烈な戦争をやっていたようでも、イギリスもフランスもスペインも、当時はまだ人口や国力がそこまで大きくなかったし、
ドイツやイタリアは統一国家の成立が遅れていた。
日本は戦国時代から信長と秀吉の時代にかけて、流通や商業もかなり発達していました。
@@silversurfer512 可以为自己的历史自豪 但是盲目的自信是愚蠢的 多去看看世界纪录
実際に安土桃山時代から戦国時代にかけてかなりの鉄砲をバテレンから購入し、技術をコピーして自前の鉄砲を作っております。偏った戦力はあったが事実ではないでしょうか。
@@silversurfer512 あなたの言うことが本当なら、日本軍は日本に戻ってこないはずです、今の朝鮮半島は日本のはずです。しかし、日本はこの戦争に失敗した。この戦争中、日本には大きな大砲さえありませんでした。明軍は日本軍を倒すために大量の大砲に頼った。しかし、明朝の政治腐敗と将軍間の不和のため、戦闘効果は発揮されませんでした。日本の軍艦は大砲すら持たず、造船技術も極めて後進的でした。だからこそ李舜臣に何度も敗れたのだ。当時の火薬帝国はオスマン帝国と明王朝だけでした。スペインの記録がそれを証明しています。明代の海軍は、東アジアで大規模な大砲を備えた唯一の海軍でした。
日本のビジネスは明のビジネスとは全く比較になりませんでした。現代の歴史家は、初期の資本主義は明の時代に出現したと信じています。明代になると江南地域に特殊工業生産企業が出現し、農業生産から完全に離れた専門労働者が出現した。経済レベルでも、明王朝は世界で最も発展していました。あなたの国家主義的なレトリックは韓国人と非常によく似ています。日本の将軍たちの記録は非常にばかげており、しばしば数十万人の明軍の殺害を記録している。しかし実際には、明軍が朝鮮半島で失った命はわずか4万兵士に過ぎなかった。
@@silversurfer512这时候的日本野战太拉垮了,骑兵和明军没法比啊😂只能守城
対日戦より陵墓建設の方が高くついたって何よ。
文禄の役の後、ソウルには中国の武将を祀る祭壇が東西南北の方向に建立され、朝鮮王は代々、明と朝鮮の安泰を願って祈りを捧げていたらしい。今は東にある祭壇しか残ってないが、ソウルに行った際には寄ってみるのも悪くないかも。ちな、祭壇の前には闇市というかソウルならではの市場的なものも広がってて、色んなものが入手できるからきっと楽しいと思う。
関帝廟ですね。
万暦帝の「オタク主義」により明王朝の重要な役人は任免されず、退職届を繰り返し提出した役人もいた。万暦帝は相手にしなかったので、豊臣軍と戦った明の武将は20年後に60-70歳になった。これらの武将たちは彼らの人生最後の戦いに参加し、「サルファの役」、努爾哈赤これらの老人武将たちに最後の一撃を与えた
ネタ的には秀吉がもっと長生きしてどこまでいけるかやってほしかった
財政悪化の一言ではなく、具体的な数値や内訳はわかりやすい
なんか他の動画が日本最強!侍最強!みたいなのばっかりで辟易していたので、こういうわりかし中立的な動画は助かります。
豊臣秀吉がもし生きていたならこの戦争はどうなっていたと思いますか?コメントください
一样被明朝铁骑斩杀,日本武士都是150+身高的步兵对抗明朝铁骑根本打不过,史书记载一个女真可以打过30个倭奴,连女真部落都打不过怎么跟大明打
明が滅亡期の時。明が衰えていた時代。秀吉の眼力は正しい。
秀吉がもっと若く大陸に渡っていれば中国支配も可能性は有った。
日清戦争も清朝の滅亡期。
中国王朝の衰退期には勝機が有る
万暦帝尊敬するわ、ここまで動じないニートてすごいです。
それでいて他者に政権を取らさず、自分の代で滅亡させない。ある意味で優秀かも。
7:20島津義弘相変わらずヒャッハーしてて戦争クソ強いの草
結局、3城とも落とせなかったのか
他の動画も勉強になります、、
Thanks$無いんですか?
この朝鮮防衛も万暦帝による明滅亡への布石説出てるのマジでおもろい
明亡于财政,其次是天灾和内乱,满洲人入关之前,北京已经被李自成攻破了,皇帝自杀了。
明朝灭于国内的土地兼并和农民起义。后金虽然棘手但不致命,致命的国内农民起义和军队腐败。
島津が強すぎたw
무수히 많은 사람들이 사망했던 슬픈 시기..
전쟁은 지도자의 욕심에 의해 죄없는 사람들이 이유 없이 죽어야 하는 너무나 가슴 아픈 사건..
다시는 이 땅에 전쟁이 없기를..
日本史って島国根性が先に立って鎖国的な勉強に陥りがちだけど、
こうして世界史に打って出て多大な影響を与えてるのを知ると面白いですよね。
加藤清正のオランカイ大遠征とか完全に世界史の武将レベルの動線だし、
当時の日本がオスマントルコより若干GDPで上回ってるとか知ると胸熱。
なぜ明の人はほとんど画像がないと知てるか, 彼らは大人物ではない, 普通のざこだから, 今の中国では誰も知らないざこだ。日本の側は全部“名将”でした。😅
朝鮮出兵は秀吉の無謀な野望に国内のみんなが振り回された出来事だったとの印象だったが、明の衰退に繋がっていたとは。相手側から見るとおもしろいな。
太平洋戦争の末期日本は悲惨な状態だったが、戦争を終わらす方も苦労があると聞く。アメリカは強硬な姿勢を貫いたが、そこら辺のアメリカ側から見た葛藤みたいなものがあったとしたら興味深い。
歴史的に見れば何回も向こう側に出向く侵略の傾向があるのは日本
わざわざ何万人も海超えて攻めてくるなんて普通に頭おかしい
11:54 ここガチ草
マネー系池沼なんでしょうね。
両はテ-ル
と
発音します
2億テールの賠償金とか言うもんね
仮に、本能寺の変がなく信長が生きて居たら 明を征服できたのかな?
そしたら小西行長と加藤清正が先鋒じゃなくて秀吉と家康が先鋒かぁ~。
まあ、現実よりは兵站線しっかりしそうだし、めちゃくちゃ良く出来て朝鮮全土平定して日明貿易再開とかかなぁ~(万暦帝には日本降伏した体にしといて現場でやり繰りするしかないだろうけど)
恐らくインドからアフガニスタン辺りまで日本と化していたろうな
南蛮に関心がある信長なら明と朝鮮は放置して、台湾を足がかりに東南アジア方面を攻めて日本化するだろうな
日本の領土の小ささは光秀のせいやね
明攻めの武将として秀吉、光秀、勝家が使えるのがデカすぎる
這場戰爭唯二的贏家分別是大明龍虎將軍努爾哈赤和豐臣五大佬之首德川家康
野豬皮 和 老烏龜 笑到了最後
通貨に
中国の両と言う文字を
借りて
テ-ルを
りょうと
発言する事に
日本は
きめました
撤退≠敗北
敗北 這個詞語在中國古代是用來形容 蠻族人 被 漢族王朝擊敗后潰逃北方。 崇禎皇帝是一個非常看重自尊的人。 戰敗對於皇帝來說是極上的恥辱。 所以他選擇玉碎于北京城。
其實近代日本和中國的戰爭,都恰好是中國朝政最弱的時期
明末 清末,都是打完没多久就亡国了(这么一说 民国政府在大陆的统治算不算?)
중국에서는 만력제 를 조선황제 고려천자 로 부른다
전쟁중에도 배고픈 조선인을 위해 개인재산으로 많은 식량 사서 을 보내준 황제이다
谁和你说的? 藩属国就藩属国 朝鲜当时的王在明皇帝面前还不是要跪着行礼
@@左左定坤没必要这么骂他,我通过翻译器看他只是说了万历皇帝用自己的内帑给饥饿的朝鲜人买粮食,这不是攻击中国,说中国的坏话。
@@左左定坤
どう読み取ったら、その返信になってしまうのか気になる👀
@@左左定坤你是有什么毛病吗?
@@左左定坤
殷朝是古朝鲜的封建领主,是韩国古代历史的一部分。 “贡”这个词也来自向朝鲜(天子国)献上某种东西的意思。
感谢
中国很少介绍这段历史
学习到了
老外特别是UA-cam这里,很多老外会各种瞎编啊,
推荐你看国内作者朱尔旦的《万历朝鲜战争全史》,应该是世界范围内介绍这场战斗最好的书籍,不要找错了呀
你听老外瞎编中国历史 他们只会美化自己的历史 从一个日本人的角度看中国人 非常奇怪
这种主观性这么强的胡说八道,学到什么了?😅
完全没意义…干脆日本成东亚小罗马算了……
こうやって見ると日本軍も善戦していたんですね。
伊達政宗や黒田如水が本気になれば⁉️
明軍を蹴散らすなど造作もないはず
兵法処か読み書きも出来たか怪しい李治成の率いる暴徒に
なす術もなく敗けた明軍に百戦錬磨の二人が何故、手をこまねいていたのか⁉️
両者グダグダでやってただけでしょ。特に秀吉が死んで土地も獲得できんのだから。
@@Unityan 両者の戦力が拮抗していたから一方的にやられた分けでなく善戦と捉えました。 別の見方をすればグダグダとも表現できますが。
中国の正史の明史では、日本がめっちゃ強くて明軍は劣勢だったって書いてあって、ビックリした。
@@たぬ-w8kそうなんですね。
墓に秀吉対応並の国費を使うな。安倍の国葬並みに許せない
秀吉の敗北って朝鮮出兵くらい?
小牧長久手は勝てなかったけど、政治的には勝ったようなものだし。
敗北?
むしろ朝鮮で勝ちに勝って荒らしまくってるぞ
また日本の両は
金
中国のテ-ルは
銀
ですから
日本軍は野戦が苦手で市街地に隠れることしかできないが、非常に粘り強い。
@user-wy4eq5ur5k 把鸭绿江边的义州 光州的日军赶回日本的明军只善于守城,你的说法没有任何依据 别乱说惹人耻笑
@user-wy4eq5ur5k 第二次明军素质更拉,京营完全就是些临时募的市井无赖。万历中后期的明军能打的西三边军基本都没参与朝鲜之役。
把战败说的这么清新脱俗😅
中 日 朝 関係史
朝鮮の北部は昔漢の時代に真番郡、臨屯郡、玄菟郡と共に漢四郡と称される 南部は三韓と称されてその中の一つ国 "百濟" 日本と朝貢関係があり 今現地で出土した倭人の遺跡があります 漢の時代が終わり、次の時代は晋南北朝時代で長年の内乱で朝鮮半島北部は満州に崛起した高勾麗に占領し、今中国の北部も他の異民族に統治され、異民族の統治時代に迎え、北朝と称される、一方、元々の中原にいる統治者と貴族達は南へ移行し、今の長江の付近で新しい都を作り、行政を行い、南朝と称される
北朝と宗主関係を持つ国は高勾麗、南朝と宗主関係を持つ国は 新羅、百濟、倭で 南朝六朝時代 呉・東晋・宋・斉・梁・陳は日本に巨大な影響を与えて今の呉服 吳織 漢織 天竺様 などの言葉も日本書記に記載がある。 中国南北朝時代に日本は倭の五王時代であり、倭の五王(讃・珍・済・興・武)は南朝に征東大将軍 鎮東大将軍 使持節 都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍などの官職を授与された。
時系列
『後漢書』「東夷伝」、『三国志』(魏志倭人伝)により、後漢末 三国時代に "倭国大乱"という2世紀後半(弥生時代末期)に倭国で起こったとされる争乱があってその中に一番有名なのは卑弥呼の邪馬台国である。日本列島で四百余りの国が攻め合いました。
後漢末三国時代が終わったら魏晉南北朝(220年-589年、古墳時代)に迎え、日本の倭国大乱も治まってその時、倭の五王の時代に入りました。朝鮮北部(漢四郡)は高勾麗に占領され、南部は日本が影響を与えて南部の三国の政治に干渉していました。(神武東征、倭の五王、征東大将軍、神功皇后、仁德天皇、應神天皇、古墳時代)
中国の南北時代が終わって 隋・唐の時代に入り、日本も倭の五王の時代から、大和政権の時代に変わって倭の五王のことも天皇譜系に書き込み、倭の五王の後、日本列島(関西大部の地域)で統一政権が成立しました。隋・唐は高勾麗に征し、高勾麗の勢力は朝鮮北部から中国の東北、今中国とロシアの国境の付近に撤退し、唐・新羅戦争で新羅権を征服しました。一方、日本の勢力は朝鮮南部に強く蔓延し、百濟との関係を強化しました。
飛鳥時代 日本の皇極4年 645 年、大化の改新は、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を、皇極天皇の皇居において蘇我入鹿を暗殺して滅亡させた乙巳の変)により始まった(645年 - 650年)、叔母の推古天皇の下、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使 遣唐使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋 唐から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった。
因みに、『日本書紀』皇極天皇紀では太子の一族が居住していた斑鳩宮を指して「上宮」と呼称しているほか、子の山背大兄王を「上宮王」、娘を「上宮大娘姫王」とも呼称している[13]。顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている。『日本書紀』では、恵慈が「上宮豊聡耳皇子」の名を使った記述があり、「上宮太子」という記述もある。
「上宮」の語は、古くは中国の歴史書『宋書』や『南斉書』[注釈 4]に見え、皇帝や皇太子が居住する場所を表す言葉として用いられている[14]。また、南朝における皇太子は、皇帝の位を脅かす皇帝一族や外戚に代わり、「上宮」にて皇帝支配の一翼を担い、皇帝権を強化する存在として重視されていた。そのため、厩戸皇子が「上宮太子」や「上宮皇太子」などと呼ばれたのは、南朝から百済を経由してもたらされた皇太子や上宮という存在に関する知識が関連しているとする説が存在する。
盛唐の時代に 663年、唐と日本の国力を発展しつつ、やっと朝鮮半島で衝突し、戦争が起こりました。白村江の戦いと言われます。両軍の代表は唐の三番目の皇帝 天皇大帝 唐高宗をはじめ、新羅の文武王、唐の朝臣 劉 仁軌で、日本の天智天皇をはじめ、豪族の上毛野稚子、重臣の阿倍比羅夫、百済王の王子 扶余豊璋 です。
戦争の導火線、660年蘇定方率いる唐軍が百済の都の泗沘城を攻め、配下の劉仁願が義慈王を捕らえる功績を挙げ、百済を滅亡させる。しかし、龍朔元年(661年)に百済の遺臣鬼室福信らが泗沘城の奪還を試み、守将の劉仁願を包囲した。この際、劉仁軌は自ら志願して検校帯方州刺史を拝して援軍に赴く。
結果:唐・新羅連合軍の大勝、朝鮮半島における倭の勢力圏の完全消滅。
戦後、唐との関係の修復を図り、遣唐使を派遣し続けました。
年表
日本 天智天皇 661-671 弘文天皇 671-672 天武天皇 673-686 持統天皇 686-697 文武天皇 697-707 (飛鳥時代:592年-710年)
唐 高宗 650-683 / 中宗 684 / 睿宗 684-690 / 中宗 (重祚) 705-710 / 殤帝 710 / 睿宗 (重祚) 710-712 / 玄宗 712-756 (719-756楊貴妃の時代)
最後
文武天皇 697-707 飛鳥時代の末期 日本という国号を確立しました。
大宝元年8月3日(701年9月9日)に大宝律令が完成し、翌年公布している。 大宝律令において初めて日本の国号が定められたとされる[4]。
遣唐使の粟田真人に初めて節刀を与えて唐との国交正常化を目指して日本の国号変更(「倭」→「日本」、どちらも同じ国号「やまと」だが漢字表記を変更)を通告するも、記録の不備あるいは政治的事情からか後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因になったとみられている。
それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。
また混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けた。
高句麗百済新羅の分国だった古代日本は、高句麗と百済の滅亡を契機に韓国とは別の独立した国家に変貌します。もちろん中世にも高麗の属国と同じ地位でしたが、高麗が滅び、朝鮮王朝が入りながら雨として日本は韓国と対等な国となります。
写得太好了 佩服,歷史學者先生