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織田がつき〜 羽柴がこねし 天下餅〜 すわりしままに 食うは徳川〜♪」欄間額に書かれる毎回のタイトルが大好きです。始まりの季節感ある挨拶も素敵。
ありがとうございます!
返信が遅くなって大変申し訳ございません。SuperThanks頂き誠にありがとうございます。大変励みになります
他の歴史解説動画を回ってきたけどやっぱりここのチャンネルが一番落ち着く
一万石からの石高から大名と言うことになり、石高が増えるとその分人やお金を使い治世や様々なことをしなければいけなくなるので結構ストレスの溜まるのが実際の近世大名ですね。
信雄の系譜として小幡藩(群馬県甘楽郡甘楽町小幡)2万石もあります。
江戸時代中期にやらかし(重臣間の紛争+明和事件の連座)て、小幡藩→高畠藩→天童藩(高畠より陣屋移動)へ小幡藩時代には国守格だったのが、高畠藩移封時に無城大名へ
ご無沙汰しております.今宵も台北で楽しく拝見させて頂来ます.久々なテラセン投稿は江戸時代の細かい解説ではなく,まさかなさっぱりメジャーの戦国終わりの解説です.ルーツを認識する事も大事ですね!
天下餅の歌「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに食うは徳川」って誰が詠んだのか知らないけど、いつの時代も上手いこと言う人がいますよね。それにしても、ここ数年、魔理沙のニートネタを聞いていない気がするので少しさみしいです。
信雄さんの転勤拒否は社員の反対にあって断らざるを得なかったとも聴いたことあります。
導入部分で使用された、いつもと違うアップテンポなBGM、良いですね!
いよっ!待ってました!!
実高100万石と言われた伊達家は重臣や一門に城と土地を与えて統治させ、定期的に仙台城に参勤させるという体制を採ったので、大名家たる伊達本家の実質的な石高は20万石くらいだったと言われている。
かいつまんだ知識をこうやって総ざらいしてくれるのは有り難いです。ところで、東軍で減封と改易ってわかれば教えてほしいです。
27:17 宇喜多秀家は斬罪ではなく、八丈島流刑では?
@@MT-rx9ls 本来は宇喜多秀家は斬罪だったが、秀吉の養女で前田利家の娘で、宇喜多秀家の正室で有る豪姫が夫の助命を嘆願して実家の前田家や宇喜多秀家が逃亡先の島津家からの取り成しも有り(宇喜多秀家は豊臣秀吉から気に入られ秀の字を拝領と相続権が無い準養子で有る猶子だった)斬罪から減刑に成って八丈島に遠島に成った。
いつも分かりやすい動画の投稿ありがとうございます!季節の変わり目なので、投稿主もお体に気を付けてください。細かい指摘で申し訳ないですが、動画内で何度か出ている「軍役」は各大名や配下の家臣に対しての役(やく)負担なので、「ぐんやく」読みの方が時代的に即していそうかなと思います。
最新の研究で信長の方が秀吉より寛容だって出てきてます。
9月の半期決算期に懸かってしまって視聴とコメントが遅れました事をお詫び申し上げます。28:40 関ヶ原以後の戦後仕置に伴う大名移封で一番成功したのは、三成憎しで東軍に与したものの豊臣家恩顧の子飼い武将であった福島正則を尾張清洲から安芸広島へ、浅野幸長を甲斐府中(甲府)より紀州和歌山へ更に安芸広島へ、池田輝政を三河吉田(豊橋)から播磨姫路、後に子の代に伯耆鳥取と備前岡山への分地と、それぞれ移封させた事でしょうね。とにかく德川幕府の本拠地たる関八州と名目上でも歴然たる首都京都との連絡通路である東海道や甲州道から豊臣家恩顧の大名を排除して、德川一門の御三家や連枝たる松平家、そして家康への忠誠心が強い譜代大名を封地した事でも解りますね。それが二代秀忠三代家光時代に完成されたと。そして合戦途中の東軍への寝返り組でも小早川秀秋と鍋島直茂への対応の違いには…。ともあれ動画のプロット脚本、動画本編制作とアップロード作業、誠にお疲れさまでした。次なる動画発表を気長に待ちたいと思います。ありがとうございました。
…なるほど。ところで、ゆっくりの介様は、いかがお過ごしで?
太閤検地ってドラゴンボールで言うところのスカウターと戦闘力の導入みたいなもんで石高をハッキリ数値化する事で石高で恩賞を与えられたし、国替えもやりやすくなる。子供の頃はよく理解できなかったけど秀吉にとっては統治する上で必要不可欠な方策だったのが分かりますね。
ただ秀吉の頃の検地はまだ各地の有力国人の土地はアンタッチャブルでたとえその土地の殿様でも検地ができなかったり、検地の責任者である石田三成との仲が昵懇だったら手心を加えてもらったりとか、まあまあいい加減なもんで必ずしも正確ではなかったとか。
豊臣蔵入地が200(222)万石、徳川が256万石というのは家康の存在感の大きさを示す為に古くから用いられている数字ですが、豊臣の数字は完全な直轄領のみであるのに対し、徳川の256万石は動画内で補足されていますように次男秀康の石高に加え、大身家臣の石高を全部合わせた物ですから直に比較するのは正しくないですね…直轄領だけなら家康は200万石も無いですし。
関東 時代の イーアスの直轄地は確か 100万石 ぐらいだったって聞いたような
1万石で大名は徳川幕府からのルールで、秀吉の頃はまだ確定されておらず由利十二頭の中には数百石程度で大名認定されてる者もいた
加賀前田家って100万石と言われてるけど、その割に現在の金沢近辺ってそこまで発展していないから不思議。実高100万石だった伊達家の治める仙台はかなり発展しているのに。仙台は東北や北海道までの通り道だったから栄えた部分もあるんだろうけど、それにしても差があり過ぎる気が。
明治以降の工業化で経済の中心が太平洋側の都市に移行した事と金沢は人口に占める武家の割合が多かったので維新による士族の没落で人口流出が起きたのが影響してるようですね
物流の変化、地形の違いじゃないでしょうか。西回り航路が経済の大動脈だった江戸時代は日本海側の都市が繁栄しましたけど、現在では人口50万人を超える都市は新潟だけですし。また仙台藩は石高のほぼ全てが仙台平野に由来しますけど、加賀藩は金沢平野、富山平野、能登半島で生産力が分散しているという違いもあるかと思います。
旧帝大の存在も大きいと思います現在でも15000人ほど、周辺人口200万とは言え、都心部の若年人口の結構な割合をこの優秀な若者たちが占めていて常に流入してきた事は文化的に極めて大きい。と思います、この結果今ではさらに多彩な大学や専門学校が若い人材を集めていますから。ただ独自の資本力は中央に比べると…というのが悩みかなと。
政宗「やだなあお寺ですよお寺、城じゃないですよぉ^^」
一万石から大名と言うが、加賀前田家や御三家の家老で一万石を貰って居るが大名には成って居ないし、蝦夷の松前藩は米が取れないので格付けで一万石扱いに成ったのが有る。
本多富正の様に大名の話を断って福井藩の筆頭家老となって、幕末迄執政を行った例もあるここの家は大名待遇を幕府から受けている
喜連川藩は1万石も無かったね
安土桃山時代の「安土」はともかく、「桃山」はなんとかならんもんかなと思う。例えば安土伏見時代とか、安土大坂時代とかね。だって伏見城があった場所を「桃山」と呼ぶようになったのは後世のことだものね。「踏み絵」を「絵踏み」に言い換えるくらいなら、安土桃山時代の呼び方も修正すればいいのに。
天下は回り餅ですね
いつの間が新作がリクエストに八州過りをお願いします
江戸時代のお餅料理の話かと思っちゃった( ´·ω·`)
コメント欄の、信長が~を見るまで料理だと思ったのがここにもいます(^^;
羽柴政権下で天下(天皇)の土地・臣民を管理する事を命じられて赴任する事から近世大名となります守護大名時代の領国と同じ地域の管理を命じられた島津・毛利・伊達(伊達氏は守護大名か異論はあるが)などは一旦土地を天下に返して改めて預ける形を取りましたそれが一層ハッキリするのが4代徳川家綱の寛文印知です天下の土地を預かる徳川将軍家から大名・旗本・寺社へ領知判物・領知朱印状・領知目録が下された事で各家中は土地・臣民を天皇に代わって治める徳川将軍家の代官となった瞬間です動画中でも何気なく『領地』と話していますがこれが最大の誤解羽柴政権以降の大名は固有の『領地』や『領民』を持つ訳ではなく現在の道府県知事や市長という階級ですあくまでも天下の土地・臣民を預かる徳川将軍家の代官に過ぎないのですですから領民側から罷免運動として一揆が起きた訳ですね最後に武家には大名と旗本がありますが3代家光までは大名と小名がいました徳川将軍家直轄軍に属するのが旗本(御家人は旗本に付属する足軽)、独自の戦力を持つ武家が大名・小名となり家綱時代に小名はいなくなりますまた大名は戦闘部隊と輜重部隊を組織出来る武家、旗本は戦闘部隊のみ組織出来る武家となります
織田がつき、羽柴がこねし天下餅座りしままに喰うは徳川
天下餅の歌の絵で武将が4人いるけど、杵持ってるのが信長だとしてその相方してる人モデルの人物 何かあるだろうか?
光秀だったりして、一応3日天下と言う天下人として見られてもいますし…まぁ無いか
本日夕刻、シロアリの様な女性来訪!物販の飛込み訪問のようだ。 全く主題から逸れたハナシで相済まぬ😖次は貴君に倣って歴史的なハナシを持て参じよう🙋
大名の歴史ならゆっくりの守のご先祖様、初代潘主を登場させてほしかった。
秀吉とその幕僚達の行政はその後の先駆けとなったものが多く、その中でも太閤検地は各地でバラバラだった度量衡の再統一及び、土地支配の明確な区分という一面があり、各地で暴れていた寺社勢力の縮小、強訴の激減に非常に効果的だった。秀吉を評価するとなぜか半島勢力から批判され、残っている徳川方の資料にも豊臣批判がある為に、秀吉の正統な評価はまだまだ先になりそうだけれど、秀吉が「関白太政大臣」として行政に正当な辣腕をふるった事はきちんと記憶しておきたい。
中名はありません!を追加してください。実は、中名呀いたかもね。大名は、特に近世大名呀中心ですからね。
来た来た
東軍で改易になった大名って誰?
木下勝俊ですね。伏見城に開戦直前まで居たものの逃亡。その後、西軍に鞍替えもしていないので便宜上東軍のまま と言う事になります
我が土佐国の「長宗我部元親公及び長宗我部氏」本当に無念なり(>_< ;)💦
東軍について改易された奴いて草
秀吉は自滅、詰めが甘かった。家康生かしたの最大のミス。
秀吉の妹婿の『羽柴宗家の一門』なので除けません。秀次には東北仕置の支援、蒲生氏郷等に自分の家臣団を貸してる(真田信尹等)等政権の屋台骨ですし秀次事件が起きたら左大臣・右大臣の秀次も菊亭晴季も除外されるので、家康除いたら天皇の行事・式典日程等決める朝議開催権持つ大臣が全滅するので朝廷も機能崩壊起こす秀吉の一族が貧弱すぎるから徳川と羽柴(豊臣)による合併体制へ秀吉自ら進めてた感ある 千姫と秀頼の婚姻とか家康反故にしようと思えばやれたのにやらなかったし
織田がつき〜 羽柴がこねし 天下餅〜 すわりしままに 食うは徳川〜♪」欄間額に書かれる毎回のタイトルが大好きです。始まりの季節感ある挨拶も素敵。
ありがとうございます!
返信が遅くなって大変申し訳ございません。SuperThanks頂き誠にありがとうございます。大変励みになります
他の歴史解説動画を回ってきたけど
やっぱりここのチャンネルが一番落ち着く
一万石からの石高から大名と言うことになり、石高が増えるとその分人やお金を使い治世や様々なことをしなければいけなくなるので結構ストレスの溜まるのが実際の近世大名ですね。
信雄の系譜として小幡藩(群馬県甘楽郡甘楽町小幡)2万石もあります。
江戸時代中期にやらかし(重臣間の紛争+明和事件の連座)て、小幡藩→高畠藩→天童藩(高畠より陣屋移動)へ
小幡藩時代には国守格だったのが、高畠藩移封時に無城大名へ
ご無沙汰しております.今宵も台北で楽しく拝見させて頂来ます.久々なテラセン投稿は江戸時代の細かい解説ではなく,まさかなさっぱりメジャーの戦国終わりの解説です.ルーツを認識する事も大事ですね!
天下餅の歌「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに食うは徳川」って誰が詠んだのか知らないけど、いつの時代も上手いこと言う人がいますよね。
それにしても、ここ数年、魔理沙のニートネタを聞いていない気がするので少しさみしいです。
信雄さんの転勤拒否は社員の反対にあって断らざるを得なかったとも聴いたことあります。
導入部分で使用された、いつもと違うアップテンポなBGM、良いですね!
いよっ!待ってました!!
実高100万石と言われた伊達家は重臣や一門に城と土地を与えて統治させ、定期的に仙台城に参勤させるという体制を採ったので、大名家たる伊達本家の実質的な石高は20万石くらいだったと言われている。
かいつまんだ知識をこうやって総ざらいしてくれるのは有り難いです。
ところで、東軍で減封と改易ってわかれば教えてほしいです。
27:17 宇喜多秀家は斬罪ではなく、八丈島流刑では?
@@MT-rx9ls 本来は宇喜多秀家は斬罪だったが、秀吉の養女で前田利家の娘で、宇喜多秀家の正室で有る豪姫が夫の助命を嘆願して実家の前田家や宇喜多秀家が逃亡先の島津家からの取り成しも有り(宇喜多秀家は豊臣秀吉から気に入られ秀の字を拝領と相続権が無い準養子で有る猶子だった)斬罪から減刑に成って八丈島に遠島に成った。
いつも分かりやすい動画の投稿ありがとうございます!季節の変わり目なので、投稿主もお体に気を付けてください。
細かい指摘で申し訳ないですが、動画内で何度か出ている「軍役」は各大名や配下の家臣に対しての役(やく)負担なので、「ぐんやく」読みの方が時代的に即していそうかなと思います。
最新の研究で信長の方が秀吉より寛容だって出てきてます。
9月の半期決算期に懸かってしまって視聴とコメントが遅れました事をお詫び申し上げます。
28:40 関ヶ原以後の戦後仕置に伴う大名移封で一番成功したのは、三成憎しで東軍に与したものの豊臣家恩顧の子飼い武将であった福島正則を尾張清洲から安芸広島へ、浅野幸長を甲斐府中(甲府)より紀州和歌山へ更に安芸広島へ、池田輝政を三河吉田(豊橋)から播磨姫路、後に子の代に伯耆鳥取と備前岡山への分地と、それぞれ移封させた事でしょうね。
とにかく德川幕府の本拠地たる関八州と名目上でも歴然たる首都京都との連絡通路である東海道や甲州道から豊臣家恩顧の大名を排除して、德川一門の御三家や連枝たる松平家、そして家康への忠誠心が強い譜代大名を封地した事でも解りますね。それが二代秀忠三代家光時代に完成されたと。
そして合戦途中の東軍への寝返り組でも小早川秀秋と鍋島直茂への対応の違いには…。
ともあれ動画のプロット脚本、動画本編制作とアップロード作業、誠にお疲れさまでした。次なる動画発表を気長に待ちたいと思います。ありがとうございました。
…なるほど。ところで、
ゆっくりの介様は、いかがお過ごしで?
太閤検地ってドラゴンボールで言うところのスカウターと戦闘力の導入みたいなもんで石高をハッキリ数値化する事で石高で恩賞を与えられたし、国替えもやりやすくなる。
子供の頃はよく理解できなかったけど秀吉にとっては統治する上で必要不可欠な方策だったのが分かりますね。
ただ秀吉の頃の検地はまだ各地の有力国人の土地はアンタッチャブルでたとえその土地の殿様でも検地ができなかったり、
検地の責任者である石田三成との仲が昵懇だったら手心を加えてもらったりとか、
まあまあいい加減なもんで必ずしも正確ではなかったとか。
豊臣蔵入地が200(222)万石、徳川が256万石というのは家康の存在感の大きさを示す為に古くから用いられている数字ですが、豊臣の数字は完全な直轄領のみであるのに対し、徳川の256万石は動画内で補足されていますように次男秀康の石高に加え、大身家臣の石高を全部合わせた物ですから直に比較するのは正しくないですね…直轄領だけなら家康は200万石も無いですし。
関東 時代の イーアスの直轄地は確か 100万石 ぐらいだったって聞いたような
1万石で大名は徳川幕府からのルールで、秀吉の頃はまだ確定されておらず
由利十二頭の中には数百石程度で大名認定されてる者もいた
加賀前田家って100万石と言われてるけど、その割に現在の金沢近辺ってそこまで発展していないから不思議。
実高100万石だった伊達家の治める仙台はかなり発展しているのに。
仙台は東北や北海道までの通り道だったから栄えた部分もあるんだろうけど、それにしても差があり過ぎる気が。
明治以降の工業化で経済の中心が太平洋側の都市に移行した事と金沢は人口に占める武家の割合が多かったので維新による士族の没落で人口流出が起きたのが影響してるようですね
物流の変化、地形の違いじゃないでしょうか。
西回り航路が経済の大動脈だった江戸時代は日本海側の都市が繁栄しましたけど、現在では人口50万人を超える都市は新潟だけですし。
また仙台藩は石高のほぼ全てが仙台平野に由来しますけど、加賀藩は金沢平野、富山平野、能登半島で生産力が分散しているという違いもあるかと思います。
旧帝大の存在も大きいと思います
現在でも15000人ほど、周辺人口200万とは言え、都心部の若年人口の結構な割合をこの優秀な若者たちが占めていて常に流入してきた事は
文化的に極めて大きい。と思います、この結果今ではさらに多彩な大学や専門学校が若い人材を集めていますから。
ただ独自の資本力は中央に比べると…というのが悩みかなと。
政宗「やだなあお寺ですよお寺、城じゃないですよぉ^^」
一万石から大名と言うが、加賀前田家や御三家の家老で一万石を貰って居るが大名には成って居ないし、蝦夷の松前藩は米が取れないので格付けで一万石扱いに成ったのが有る。
本多富正の様に大名の話を断って福井藩の筆頭家老となって、幕末迄執政を行った例もある
ここの家は大名待遇を幕府から受けている
喜連川藩は1万石も無かったね
安土桃山時代の「安土」はともかく、「桃山」はなんとかならんもんかなと思う。例えば安土伏見時代とか、安土大坂時代とかね。だって伏見城があった場所を「桃山」と呼ぶようになったのは後世のことだものね。
「踏み絵」を「絵踏み」に言い換えるくらいなら、安土桃山時代の呼び方も修正すればいいのに。
天下は回り餅ですね
いつの間が新作がリクエストに八州過りをお願いします
江戸時代のお餅料理の話かと思っちゃった( ´·ω·`)
コメント欄の、信長が~を見るまで料理だと思ったのがここにもいます(^^;
羽柴政権下で天下(天皇)の土地・臣民を管理する事を命じられて赴任する事から近世大名となります
守護大名時代の領国と同じ地域の管理を命じられた島津・毛利・伊達(伊達氏は守護大名か異論はあるが)などは一旦土地を天下に返して改めて預ける形を取りました
それが一層ハッキリするのが4代徳川家綱の寛文印知です
天下の土地を預かる徳川将軍家から大名・旗本・寺社へ領知判物・領知朱印状・領知目録が下された事で各家中は土地・臣民を天皇に代わって治める徳川将軍家の代官となった瞬間です
動画中でも何気なく『領地』と話していますがこれが最大の誤解
羽柴政権以降の大名は固有の『領地』や『領民』を持つ訳ではなく現在の道府県知事や市長という階級です
あくまでも天下の土地・臣民を預かる徳川将軍家の代官に過ぎないのです
ですから領民側から罷免運動として一揆が起きた訳ですね
最後に武家には大名と旗本がありますが3代家光までは大名と小名がいました
徳川将軍家直轄軍に属するのが旗本(御家人は旗本に付属する足軽)、独自の戦力を持つ武家が大名・小名となり家綱時代に小名はいなくなります
また大名は戦闘部隊と輜重部隊を組織出来る武家、旗本は戦闘部隊のみ組織出来る武家となります
織田がつき、羽柴がこねし天下餅
座りしままに喰うは徳川
天下餅の歌の絵で武将が4人いるけど、杵持ってるのが信長だとして
その相方してる人モデルの人物 何かあるだろうか?
光秀だったりして、一応3日天下と言う天下人として見られてもいますし
…まぁ無いか
本日夕刻、シロアリの様な女性来訪!物販の飛込み訪問のようだ。
全く主題から逸れたハナシで相済まぬ😖次は貴君に倣って歴史的なハナシを持て参じよう🙋
大名の歴史ならゆっくりの守のご先祖様、初代潘主を登場させて
ほしかった。
秀吉とその幕僚達の行政はその後の先駆けとなったものが多く、その中でも太閤検地は各地でバラバラだった度量衡の再統一及び、土地支配の明確な区分という一面があり、各地で暴れていた寺社勢力の縮小、強訴の激減に非常に効果的だった。秀吉を評価するとなぜか半島勢力から批判され、残っている徳川方の資料にも豊臣批判がある為に、秀吉の正統な評価はまだまだ先になりそうだけれど、秀吉が「関白太政大臣」として行政に正当な辣腕をふるった事はきちんと記憶しておきたい。
中名はありません!
を追加してください。
実は、中名呀いたかもね。
大名は、特に近世大名呀中心ですからね。
来た来た
東軍で改易になった大名って誰?
木下勝俊ですね。伏見城に開戦直前まで居たものの逃亡。その後、西軍に鞍替えもしていないので便宜上東軍のまま と言う事になります
我が土佐国の「長宗我部元親公及び長宗我部氏」本当に無念なり(>_< ;)💦
東軍について改易された奴いて草
秀吉は自滅、詰めが甘かった。
家康生かしたの最大のミス。
秀吉の妹婿の『羽柴宗家の一門』なので除けません。秀次には東北仕置の支援、蒲生氏郷等に自分の家臣団を貸してる(真田信尹等)等政権の屋台骨ですし
秀次事件が起きたら左大臣・右大臣の秀次も菊亭晴季も除外されるので、家康除いたら天皇の行事・式典日程等決める朝議開催権持つ大臣が全滅するので朝廷も機能崩壊起こす
秀吉の一族が貧弱すぎるから徳川と羽柴(豊臣)による合併体制へ秀吉自ら進めてた感ある 千姫と秀頼の婚姻とか家康反故にしようと思えばやれたのにやらなかったし