【地方の価値を活かす「アナログトランスフォーメーション」とは何か】地域活性化の専門家 アダム・フルフォード/福島県での取り組み/世界の「地方」との違い【PIVOT TALK】

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  • Опубліковано 1 жов 2024

КОМЕНТАРІ • 14

  • @pivot00
    @pivot00  День тому +1

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  • @Yumi_counselor
    @Yumi_counselor 22 години тому +6

    DXが進んでいくからこそAXも進んでいくのでしょうね。
    災害の多い国であることが身近な人たちを大切にすることにつながっているという視点は斬新でした。
    アダムさんのシャツは、着物のリユースでしょうか?素敵です。

  • @森野クマ-i7k
    @森野クマ-i7k 21 годину тому +7

    現代は田舎の人より都会の人の方が良く歩きますよね。東京なんかだと電車移動だから歩いてばかり。それに比べて田舎は車で移動するから歩くことが少ない。

    • @yhara1012
      @yhara1012 9 годин тому +1

      へぇ、都会は自然が豊かで治安もいいから毎日一万歩いても田舎よりストレスなさそう

    • @森野クマ-i7k
      @森野クマ-i7k 8 годин тому

      @@yhara1012 だからストレス関係ねえだろ。どっちがいいか悪いか言ってんじゃなくて、田舎より都会の方が歩いてるって思ったこと書いただけ。ズレた揶揄やめてくれ。

  • @aka-mt2pn
    @aka-mt2pn 12 годин тому +1

    「相手を思う」「周りの人たちを大事に思う」は、戦前や江戸時代の隣組、五人組みたいなのかわらかるように、相互監視とか他の人に怒られたくない、悪く見られたくない、ハブられたくない、お天道様が見ているというので、外面よくしてるだけということも結構あるんじゃないかと思っています。
    もちろん本気で「相手を思う」「周りの人たちを大事に思う」と思う人も多いと思うけども。

  • @toshihikoyamamoto2981
    @toshihikoyamamoto2981 17 годин тому +1

    過去の震災が日本人の他人に対する配慮を増幅させたことは多少あるかもしれませんが、一番の影響は農作業です。日本人は長い間、食って行くために狭い傾斜地、山奥などで農作業を行う必要がありました。そのような土地ではお互いに協力しないと農業が成り立ちません。一人では水ひとつ引けない。具体的には今でも雨水を飲料に使うような田舎では水源の管理をコミュニティ全体で輪番制で行っています。そこでは強固なコミュニティが生まれましたが、同時に抜け駆けするやつを罰するようないわゆるムラ社会文化も登場しました。絆とムラ社会は裏腹です。

  • @tokyovoice8835
    @tokyovoice8835 14 годин тому

    AXとは非常に興味深い考え方ですね。しかし高品質高性能な製品を武器にしてきた日本をDXとするならば、AXがその受け皿になるには少し荷が重いように思えますね。他国を引き合いにするのは何ですが、AXをより現実的にするために非生産部門の最たる職種である地方議員の大幅削減や仲卸システムの簡素化を徹底的に行う必要があるでしょうね。

  • @hiroyukishibata1971
    @hiroyukishibata1971 День тому +3

    頭の体操、話題作りに過ぎないのでは。豊かな都市と結びつけば、地方の特性を生かした地方都市連携の経済圏をつくることは可能ですが、地方単独での経済圏の育成は不可能だと思う。

  • @masuyou6587
    @masuyou6587 22 години тому

    DXが進むとAXも反対の価値観として欲する。

  • @umikamome-qx8zo
    @umikamome-qx8zo День тому +1

    アダムさんの服装がスタジオとフィットしていて、柄が松でしょうか?模様も若冲のようなイメージのもののように受け取れますし、とても面白いと感じました。
    新しい感性と伝統の融合は、その服装のように新しい価値をもたらしてくれる面もあるのかも
    デジタルと現実を区別して捉えるとそのような発想もあるのかもしれないですが、デジタルと自然や今までの営みがミルフィーユのように重なってきて今があるのではないかという考えから言えば、あえて区別する必要もないかもしれないとも個人的には考えています