【わずか21年】正しき世を願った天才 北畠顕家のあまりに短すぎた生涯|石津の戦い
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- Опубліковано 12 жов 2023
- 北畠顕家・石津の戦いについて解説します。
■参考資料
鎌倉幕府とは - 刀剣ワールド
www.touken-world.jp/tips/5690...
北畠親房 - 名古屋刀剣ワールド
www.meihaku.jp/japanese-histo...
戦う美少年はエリート貴族~北畠顕家
www.guidoor.jp/media/kitabata...
北畠顕家
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%...
"鎌倉幕府は何年に成立?正解を言えますか
「1192」「1185」も違う?歴史は「進化」します"
toyokeizai.net/articles/-/120...
【青野原の戦い】北畠顕家の運命を変えた南北朝時代の関ヶ原
love-japanese-history.com/iku...
✅BGM
夜路:oto-no-sono.com
戦国のコンテンツはありふれてるから、
古代や南北朝にフォーカスを当ててくれるのとても嬉しい
ちょうど『逃げ上手の若君』では顕家が絶賛鎌倉攻めの最中。これからどのように石津の戦いに赴くのか楽しみです。
大河ドラマ『太平記』で、後藤久美子さんが演じた北畠顕家公。
太平記は後藤久美子だけじゃなくて、宮沢りえや小田茜も出ていて美少女祭りみたくなってたw
この人と太田道灌は戦神に愛されっぷりが半端ない。
北方氏の「破軍の星」では後醍醐と公家たちに振り回されて命を散らせてしまうのが
虚しかった。楠木正成、正行親子に北畠顕家といい南朝は人材はいないわけじゃない
のにトップの面々が残念すぎる。
北朝に比べると、表面を気にする南朝方。
シビリアンコマンドの犠牲になった。
あの小説では、潔癖症の北畠顕家は北条時行に辛く当たってましたね。
@@user-un6zp8de7m 上奏文の7番目は合理性をそっちのけで体面悪い・縁起が悪いで口出しする廷臣に対する皮肉だろうな。これは戦ではないが江戸時代に暦の改定でもあったし、現在でも似たようなことはあるのだろう。
上が無能だと優秀な配下がいても上手くいかないんだな
戦国時代で大軍勢の攻めながらの長距離移動は上杉謙信の関東攻め、大内義興の上洛、中国大返しとかが思いつきますが
北畠顕家の進軍速度は常軌を逸してますな
後日本史なら木曽義仲の上洛ぐらいかな
昔の時代は戦国に比べて諸勢力が寝返りやすくあまり抵抗が多くなかった...とか?
戦国時代になると在地の大名が領域支配化して城で固めてるからそれをひとつひとつ抜いていかなければならないけど、この時代はまだそこに至ってないですからね。
敵対する軍団が無ければ、とにかく略奪しながら進んでいく、遅れた兵は置いていく、という感じでしょうね
大河「太平記」では北畠親房を近藤正臣さん、北畠顕家を後藤久美子さんが演じてました。
いつも詳しく調べていて面白く拝見しています。
10:20 民生が豊かじゃない上に軍隊が略奪するとなるとこいつらの進軍は災害だな。世はまさに阿鼻叫喚
北畠顕家大好きです❤️
私の曽祖父は北畠顕家を祭った霊山神社の宮司やってました。先祖は足利尊氏に臣従してたけど。
北畠顕家と新田義貞、楠木正成は後醍醐天皇のおかげで煮え湯を飲まされましたね。
元寇の役で鎌倉幕府は倒れたといいますが、文永弘安の役は1274年、1281年後醍醐天皇は生まれる前です。
両統迭立で一代主だった後醍醐天皇が自分の皇統に繋ぐために幕府に反逆して倒幕に繋がって行ったんだと思います。
高師直は北畠顕家や楠木正行など、
南朝の若き芽を摘み取りましたね。
南朝の武将の人材不足がよく分かる。
そういう意味では、源氏の子孫である足利氏の繁栄に貢献した武将であり、英雄ですね!(南朝側にとっては、『南朝キラーの高師直』というところかな…😅。)
こんな凄い人が地元の多賀城居たなんて…戦国時代〜幕末辺りまでは好きだから調べたりとかしてたけど。
北畠軍の上洛戦に、うちの近所の武将が途中(常陸)から加わって京都まで行って帰ってきたな。
貨幣経済の重要性がわかるなぁ
土地本位ではいかんのよ
豊臣秀吉の偉大さよ
上奏文今の政治家にも読ませたい
日本で一番凄い人😊織田信長も憧れた北畠顕家
16歳にして、今の陸自でいう東北方面総監。
しかも伊達やら結城やら、地元の豪族を従えて。
21歳にして、天皇に文句の書状を送りつけるとか。
天才中の天才と思う。
食糧以外に、兵員も現地調達してたらしい?
(行軍について行けない者を置いてきぼりにしていたため ←当時はふつうらしい)
この時期は、個性的に群雄割拠していて大好物。
青野原の戦いのあとの転進については諸説あるけど、人間関係的なものとか手柄云々というのはまず考えにくく、おそらく伊勢~吉野しか現実的な選択肢がなかったんだと思います。
青野原の勝敗の度合い自体が不分明なんですけど、京都に突っ込む余力はなく、旧暦1月の春浅い時期に遠路越前に向かうのも困難で。
ある程度土地勘あればわかるけど、関ヶ原あたりから越前に抜けるルート(しかも大軍)て、長浜から敦賀に行くルートしかない(信長の朝倉進行ルートと同じ)
そのあたりって、佐々木道誉の本拠地の坂田郡も通るしで、普通に突破困難じゃないかなぁ。
吉野行きは、第一に物資の欠乏じゃないかと思います。略奪地からは武器も兵士も兵糧も得られないでしょうし。
上奏文にあるように、武家政治へのバックデートを想定していた彼の構想を後醍醐天皇に訴える目的も含んでいたかと。
そのためにも、現状報告と自身の武力を吉野側にアピールする必要があったでしょう。
@ffs5761さんのご指摘通り、近江突入は危険すぎますし、雪の飛騨越えはもっと無理ですよね。
@@takasorasouran そもそも一回目の上洛で略奪しすぎて、2回目の上洛では物資調達がほぼできなかったと推察しますね。
しかも、美濃、三河は昔からの足利王国。1回目はともかく2回目には対策してるでしょ。そもそもが近江突破が不可能だったのではないかと。
で、青野原の戦いは勝つには勝ったけど実質は負け。主力部隊がほぼ全滅レベルになり戦闘能力を喪失したので伊勢に逃げだしたというのが正しいのかな、と。
そもそも、伊勢から吉野へのルートは今でも酷道ばっかですからね。大軍で抜けていくルートではない。
そう考えてみた場合、青野原で戦った土岐頼遠は負けて、しかも後に歴史的なやらかしwをしてるのに相当擁護されてるのは
このあたりの武功、極めて大ではなかったかとも思いますね。世界史でいうと、マルプラケの戦いみたいなもんではなかったかと。
しかも、足利軍敗北したわりには、ネームド武将は死んでない、城や領土が南朝化されたわけでもないですし。
あと、この戦いの後の石津の戦いなど見ても、最盛時の強さがほとんどない。
というところをみても、青野原以降、まともな基幹戦力がなく、寄せ集めの新規兵の烏合の衆で戦ってたというのが妥当な見方ではないかなぁ。
こう言うの見ているとコーエーでこの時代の歴史シュミレーションゲーム作ってくれないかなぁと強く思うよww
昔は色んな時代ものを出してくれてたんだけどね・・・
今ではかろうじて信長と三国志が出てるけど今後これらもどうなるやら
@@Kei-zh9fh源平合戦も出していた。
楠木といい、北畠といいなんで建武の新政側で最後まで戦ったんやろな
上奏して、ちゃんと主を諫めたりしてるのに、楠木なんて後世で、何も言わずに死ぬまで仕えるお手本みたいな扱い受けて
報われねぇな
みんな後醍醐天皇が悪いといいたくなる
だから、後醍醐天皇は日本の歴代天皇の中では今一つ評価されないほうではないかと思う。
私は、吉野に1度行ったことがありますが、その時に後醍醐天皇が結局その吉野で寂しく亡くなった史実から、ゴダイゴの歌ではなく、杉山清貴さんの唄『風のLonely Way』を思わず口ずさんだことがあります。
足利尊氏として教科書に載っていた肖像画が普通に高師直として出てくるのに感動を覚えた。
最近では、やっぱり尊氏だと言われている。決着がつかないから騎馬武者像と言われる🐎
@@user-ol1us7xr6vでも、脛当の家紋が輪違い故に高師直。
後醍醐天皇自体はキレ者であったが、問題は理解者が少なかったのと、そもそもできることが少なかった。
こういう歴史を次世代の人には知って欲しいですね
信長、家康もすごい人だと思いますがね
17:37
としかずではなく、としたかと読むみたいですよ。
高師直強すぎるよな…
しかしその後その高師直や高一族も皆殺しにされる
後藤久美子でなくてちゃんとした若者のイケメンの北畠顕家見たいんやけど。
略奪もせざるを得なかったとはまさにリアル北斗の拳。
略奪せざるをえないじゃなくて、通り道全部から略奪していって通った後にぺんぺん草も生えないような異常な進軍をしていたが正解。
なので、一回目は京都までたどりつけたが2回目にできなかったのはそのあたりに原因があるし、北畠がすぐ滅んだ理由がその辺にあると思う。
武田信玄よりも早く風林火山の旗をかざした武将☆
今週号のジャンプ、逃げ上手の若君で出てきた
@@daiyualoha1002もうすぐ北畠顕家の終わりですね…
霊山(りょうぜん)であり、りょうざんではありません………。
福島県民
まぁ、これが自動音声の限界でしょう。
同じ福島県人
ゆっくりムービーメーカーの限界だと思うよ…
辞書登録出来るのかは知らんけどさ…
元若松民
功績に報いすぎると閥になってしまう問題などはありますね。室町幕府も結局そうなったかな。兵站の概念がないのだから武士の側の行政能力もたかが知れてる。
さりとて、貴族側は軍事的な判断はからきしで、彼らの能力と当時の中央集権では地方経済の成長に付いていくことが出来ない。
地方の武家の成長を待つしか無かったのでしょうか。
世界的に見ても略奪なんて中世ヨーロッパの戦いでも当たり前になってる事だよ 基本は現地調達(略奪)で賄ってるくらいだ
今みたいに長期保存技術や大量には運ぶが無い時代だからそれに頼るしか無いんだよね ゲームには基本兵糧が腐る概念ないからあれだが
それが基本になるのは蒸気機関つまり汽車などの大量運搬技術が確立されてから
顕家が義貞と合流しなかった理由として、合流する前に後醍醐天皇に17:06のメッセージを伝えようと考えたからではないからかな…
天才的戦略移動の裏に、あの牟田口廉也もびっくりのジンギスカン戦法があった事実。
北畠顕家大河ドラマで見たいわあ…
太平記に登場していました。
鎌倉の場所ずれてる
室町時代って戦乱続きだし、二条河原落書がねぇ…
顕家は鎮守府将軍として東北に派遣され、東北の諸将を平定していったんですね。その中には娘が嫁ぐ安藤(安東)氏もいて娘の子孫が秋田で斗星と呼ばれた安東愛季と秋田実季。秋田氏は関ヶ原の戦いの後、佐竹氏と入れ替わる形で常陸宍戸へ移り、更に福島県三春へ移ります。そして三春藩の藩主として明治維新を迎えます。
この時代余り詳しくないので知りたいのですが北畠顕家が高師直と戦っているとき新田義貞はどういう動きをしていたのでしょうか?
尊氏と対峙していて身動きがとれなかったということですか?
越前で足利一門の斯波高経と死闘中。前年1337年の苦戦から一転して、1338年は2月に越前国府を攻略、石津の戦いの同月5月には高経のいる黒丸城を包囲しているところ。優勢に戦いを進めながら7月に遭遇戦で戦死。
顕家と義貞の戦死した日は1ヵ月半も離れていません。
詳しい解説ありがとうございます!南朝側が勝つ絵はなかった感じですね。顕家と義貞が連携をとれていても難しそうですね。@@user-or3lf2ce2i
ここで「上杉家」が登場ですか?この一族が、後の伊勢宗瑞と対立する「扇谷上杉」と「山内上杉」の始祖となりますね😊
この時代逃げ若から入ったにわかです
杉本城の戦いなんかやと北畠・北条・新田連合軍VS足利・斯波のメイン所が軒並み10代以下で、実力主義すぎて歳とか関係なかった時代やったんやろなって思ってますわ
尊氏のチートとカリスマの前には全てが無になる
霊山城・城主で21歳で戦死した、北畠顕家さん。
武家政権としての成立が1180年説やら1183年説やら1185年説やらであって
幕府呼びは征夷大将軍がいる場所だし、そもそも幕府が後世の名付けなんだから1192年で良いと思うけどなあ
武家政権と幕府は必ずしも=にならないでしょ
おお完全に同意ですな、例えば「江戸幕府は徳川家康の征夷大将軍任官の1603年に開幕」ですが「鎌倉幕府が1185年に地頭の任命権を得て日本を実効支配したから開幕した」に合わせるのなら「関ヶ原以降の各地の領土の切り取りと豊臣直轄領を68万石にした事実を持って江戸幕府開幕1600年」となるはずですからね、結局近ごろの歴史の定説や教科書記載が書き換えられているのは歴史学者たちが自分の功名を残すためにやってる半分イチャモンとしか思えない昭和のジジイでした(ちなみに全国を一円支配したと言う観点なら鎌倉幕府も室町幕府も従わない地域が常にあり開幕時期は“無い”と言う事に暴論ながら落着するのではと思います)
それを言い出すと、将軍がいる場所を幕府と呼んだのもあとからだが。普通は御所、気取った人達は柳営とか呼んでいた。
なにで判断するのが妥当か?かな
結局のところある程度の本命と他候補で構成した複数説がいい気もする
兵糧を現地調達せずに自分のところから兵站を確保するってのは、信長がほぼ最初だと思う。(意図的に現地の食料を略奪することもあったが)
秀吉もその方法を引き継いで四国・九州・小田原攻略のときに大いに活用した。
家康は遠征が少なかったから、本格的に兵站を気にしてってのは関ケ原になってくらいだった。
顕家はなぜか義貞とも正行とも協力して臨まなかった、位が高すぎた所以かな?
まだ正行は幼くとも、楠木の惣領ある程度の動員力は有していたと思われるので楠木は要請があれば軍を出したと思う。
単純に楠木一族が壊滅状態だったからだと思いますよ。
楠木正行ですら当時は15歳くらいだし、堺は北朝が抑えたから金もない。
楠木一族は元々土地がなくて物流や商業で食っていた。だから悪党と呼ばれて土地の分配で地主の武士から人気を得る幕府について行けなくて後醍醐天皇に従ったわけで、堺まで抑えられたら兵に給料払えない。後醍醐天皇も土地はあげたみたいだけど当時は正成が死んで北朝に土地奪われてたはず。
湊川の戦いで正成は700ぐらいしか軍勢がいないんだけど、どうも後醍醐天皇の命令を一族に伝えたら「そんな命令に従いたくない」と言われて総スカン食らって直属部隊しか動員できなかったみたい。で、虎の子の直属部隊は湊川の戦いで壊滅したので兵力はないも同然。そもそも元々大軍を擁する一族じゃないし。
その丸の場所は鎌倉やない!
金沢八景、田浦、東逗子の間や!節子!
某逃げ若も今この最中ね。もうそろそろ……
南朝がもし正統になってたら
顕家は聖徳太子になってたと考えますね。一万円札の肖像になったり。
国宝絵画に描かれたり四谷あたりに
顕家神宮が建って初詣に200万人が集まったり。花将軍にはロマンがありますね。
後醍醐天皇が命がけで戦った武士を軽んじたから愛想つかされて尊氏に武士がなびいたのは確か変な学者の言うこととり上げないでもらいたい
南朝方にも名だたる名将が沢山いたのに上層部がなぁ…
所詮、後醍醐帝も"公家"にしては先進的で有能だったってことか
逃げ若の功績もあまりにも大きいし、まさに令和の歴史漫画でもあり21世紀の太平記でもありますかね。
霍去病みたい
時代錯誤の後醍醐なんぞについてしまったのが大失敗だったな。
いきなり足利尊氏?
当時は足利高氏だよな。
吉野ではなく本拠地の伊勢にいったあたり、単純に兵力が激減していたのでしょう。陸奥からは離れて長いし。足利の戦略はいわゆる十面埋伏の計。
顕家が強いのは東北の武士の強さあってこそ(後の戦国大名の先祖そろい踏み)だから畿内で東北の武士を削れば戦術的にいくら負けても怖くないという計略にはまったのでしょう。結局後醍醐天皇が天皇の権威を高めるために実状に合っていない中華圏の制度をそのまま持ち込むという朝廷の悪癖を繰り返し、「朕は帝だから自分で何でもできるし威光で敵もひれ伏す」とイキリ過ぎた。紙幣は政権に信用がない。宮殿造営は論外。当時は京都から九州東北の統治は困難。威光で勝てると思い込み正成の策を蹴飛ばし軍部への支援を怠り、足利尊氏を見くびり、自分で全部裁こうとして失敗し、自分は偉いと囁く側近ばかり重用した。赤松より蹴鞠の達人重用といい、本当に醍醐天皇と同じ時代だと思ったらダメでしょうに。女装したりイカ汁まみれになったり山で遭難したりしても諦めない不屈の覇気はすごいけど、天皇の権威が低下しているから立ち上がったのになぜその権威がそこまで高くなったと思い込まれたのか。
島津豊久よりも異世界転生してほしい日本の若き武将ですねえ。平野先生、如何でしょうか?(廃棄物陣営になりそうなのが辛い…)
花将軍かな。ロマンある時代だな。
大楠公の子や孫も後村上天皇も。
北畠顕家は、歴史上奥州に居た武士の中でも傑出した人なんですよね~
奥州の有名人、伊達政宗よりも全然すごい戦歴の持ち主です。
ところが、相当の歴史好きじゃないと知らないのです。この動画で少しでも知られると良いですね!
高師直あたりに何度も負けているあたり、戦の天才とは言えないと思います。勢いだけで戦っている感じですね。
同感
むりやり動画のネタにするために大げさな題名にしてるだけ
遠征して補給とかを考える有能な味方が皆無という状況で、当時の足利本軍と互角以上の勝負できるんだから天才は天才だと思う。
この時代は兵站なんて概念ありませんから、完全な現地調達、なので遠征側が不利なのは当たり前なのですが、あんまり慎重に考えてずに無理な攻勢を掛けている印象が強いのです。
@@user-tq9jv1jf7i ハンニバルのポエニ戦争をみたらわかるけど、遠征軍が攻勢をかける、短期決戦思考になるのはどうしても仕方ないし、それが当然だともいえる。
逆に無理な戦術を立てないと仮定した場合、北畠家が奥州、関東をほぼ制覇するまで上洛はしないしできないので、
上洛するときには半世紀くらいかかっても不思議じゃなかったという見方もできる。
どっちみち、南朝方は後醍醐帝が戦略もなんもない命令を乱打するんで公家でもある顕家は抗いようもなく、むしろよく健闘した天才ではあったと思いますねぇ。
それってスキピオに負けたハンニバルは大したこと無いって言うようなものでは?
連戦で消耗した上に本拠地から超長距離離れている状態では速攻掛ける以外選択肢が無い上に相手も時代屈指の名将が相手なのに
こんな形で逃げ上手の若君のネタバレを食らうことになるとは…
情報が歴史探偵の丸パクリ。
ドSな顕家卿の言葉責めを受けたいで〜す。😍💕