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吉野ヶ里で新しい発見がありましたね😊何が出るかワクワクしますねー😊
発掘始まりましたね😃ワクワクです。
日田には日高地区(日高見)や朝日地区(トヨケ神)、大山地区(大山積)、石井(磐井)などの地名があり、古代史を彷彿させます。元々火(肥)国(現在の佐賀県、熊本から大分佐賀関海部)は、日国だったのでは?この地域は「武」の地名(武雄、健男、竹田、龍田、滝尾、健軍)や名前(武内、武石)が多くこれが海部氏、穂積氏などの元となっている気がします。
なるほど、なるほど。 面白いですね。地名をたどるだけで、いくつものストーリーが描けそうです。私も旅にでると、地名が気になって仕方ありません。広島の山奥で簸の川や根の国を発見した時は、飛び上がりそうになりました(→Ⅲの第5話)実際は運転中だったので、飛び上がってはいませんが(笑)。
@@これはどうでしょう 昔広島に住んでいましたが、安芸高田から庄原までは、神楽など山陰文化が強く、山陰の和邇(サメ)を食べる面白い風習があります。大分にも丹後の羽衣伝説と同じ、日出の真那井(この辺りは宇佐神宮、大神氏の所領)から流された先は奈具ではなくて奈多海岸などがあります。人々が移動と共に文化を継承していたのかもしれませんね。
広島のあの辺りも特別な地域の感じがしますね。あと日出の真那井って、いろいろ考えたくなる地名です。真名井フェチです(笑)。
待ってました😂先ずは、お元気そうで安心しました。素晴らしい推察デスね。松本清張の「水行10日・・」を思い起こしました。私達夫婦、年相応にステートジャガーから民草1号、2号に改めました。お二人の大ファンで、古代史探索の旅が続きを楽しみにいたします。
ありがとうございます。まだまだ確定ではないのですが、これ以上の糸口を、現状見つけることが出来ません。次の旅に出なければ(笑)。
奥様の反応が素敵です。日田盆地は攻められたら東側にも西側にも逃げられる。卑弥呼が日々の政治・統治業務にどの程度関与してたかは解釈しにくいですが、卑弥呼は政治的拠点にはいなくて、祭事の拠点として日田盆地に籠ってたというシナリオも考えられます。でも居館が多数の兵士に守られてるとか、楼・城柵があるとか・・・細かい描写がありますね。日田盆地に東夷伝の記述に合致するような居館の遺跡が見つかっていますでしょうか?後漢末の最高権力者の曹操と同じレベルの『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』のような最高級の贈り物を貰えるのは特別な人ぐらい。材料・技術的にどこでも作れる鏡ではなく、作成されたのは専門職人に集まる官営工場だったと推測できる。特別な威信財の鏡が日田で発見されたとなると、卑弥呼の陵墓は日田にあるのかも。甘木市にある『平塚川添遺跡』の多重環濠遺跡も凄く気になります。7世紀の斉明天皇の『朝倉橘広庭宮』も昔から疑問でした。百済復興のための遠征軍の前方拠点として地理的に不便な場所です。(秀吉のように肥前・名護屋城なら朝鮮半島への航海ルートとして合理的だと理解できます。)筑後川の上流域の甘木市・朝倉市・日田のあたりは、大昔から重要な拠点だったようです。弥生時代には久留米・鳥栖ぐらいまで有明海が内陸部まで浸食してた古代の地形上の理由もあると思います。吉野ヶ里遺跡も使われた当時は海から近い場所だった。魚介類が重要な食材だったので、稲作漁労民にとって海・河川から遠くに住むのは難しかったのかもしれません。
筑後川の流域地域は重要で特別な場所だったと、私も思います。『朝倉橘広庭宮』について詳しい内容は知らないのですが、一度破れた倭国が唐の進軍を恐れて内陸の朝倉に構えたか、九州王朝説で言うようにその時の倭国の中心が九州だったのか、或いは戦いに勝った唐軍が大宰府に進駐していたからなのか。???が無数にある古代です(笑)。
40年前の「卑弥呼の道は太陽の道 邪馬台国編 1巻 - - 1983/1/1古村 豊 (著)」はなかなか面白い本でした。銅鏡は測量に使う平板、銅矛は三脚ではないか?と測量会社経営者らしい目線で解説。ユニークなのが地名と漢字の関係。日田→日高郷→日向郷。残念ながら、著者はこの後亡くなられているので、1巻のみ。絶版なのも残念。前方後円墳は「?」と言う感じですが、市内には月隈・日隈・星隈という平地に小さい丘があります。時代的に円墳がふさわしいような・・・。
日田は知れば知るほど奥深いですね。ただの観光地だけだと、勿体ない。われわれマニアにとっては(笑)。
いつも楽しく拝見しています。卑弥呼の墓は、前方後円墳じゃなく円墳では、ないでしょうか。小迫辻原遺跡には、行ってみたいです。次回のupを楽しみにしてます。
ありがとうございます。卑弥呼の墓は径で測れる訳ですから、円墳かもしれませんね。それは宇佐神宮の下にあるのかも知れません。
待ってました(^^)相変わらず面白く勉強させて頂いてます。カズさんの言う、日田🟰邪馬台国に私も魅力を感じます。また巨大な前方後円墳らしき丘?(^^)は驚きですね。ただ故松本清張氏も主張していますが三世紀半に卑弥呼の墓として前方後円墳はいかがでしょう?確かに纏向の石塚古墳は250年代らしいですが引き上げ過ぎと思います。ま!それはともかく食レポも含め次回も楽しみにしております(^^)
大変お待たせしました(笑)。あの丘が前方後円墳だとしても、卑弥呼の墓とは言えないでしょうね。ただ、とてもワクワクしました。
私はその鉄鏡が日田から出土したから邪馬台国は日田だって論法が疑問なんですよねぇ🤔むしろ逆なのではと考えます。鉄鏡が埋められたのがいつなのかこそが重要なのですが、それが分かんないのですよね❓タイミング的には卑弥呼が亡くなって墓に埋葬するとき副葬品として埋めるのが考えられますが、それだと卑弥呼の墓から出土しなければなりません。ダンワラ古墳が卑弥呼の墓だというなら解りますが、どうやらそういう説はないようです。台与の時代になって邪馬台国が移動した説を支持しますが、それなら鉄鏡は移動先の北九州地方から出土するはずです。だって、引っ越すとき所持品すべて持って移動しますよね❓甕が出土するのは解りますが、貴重な鉄鏡が出土するのはおかしくないですか❓そこが私の考える日田説の決定的な矛盾です☝もう一つは、鉄鏡が卑弥呼の死後持ち主が次々と変わり最終的に日下部氏が持ち主になった説。これなら合点がいきます。『卑弥呼に関連する品が出土する場所は卑弥呼時代の邪馬台国ではない』みたいなことを考えているので、先の台与一族の東征の話も面白いとは思いますが、正直う~ん🙄なわけです。魏が「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を卑弥呼に贈った可能性を否定しにくいだけに、こういうことを考えざるを得ないのです。正直、頭の中混乱してます😵💫だから、私が言ってることも的を外しているかもしれません。ホントどうなんでしょうね❓考えることが多すぎて頭痛い。邪馬台国にハマったことちょっとだけ後悔してますよ😅アハハ
「考えることが多すぎて頭痛い」・・その通りですね。でも出来るだけ頭を整理すると、少なくとも自分の考えには行きつけるのではと思っています。おっしゃるように、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡がダンワラ古墳から発見されたからと言って、日田が卑弥呼の都だったと確定できる訳ではありません。といって「日田説の決定的な矛盾」とも言えないと思います。「最終的に日下部氏が持ち主になった説」など間接的なことを含めて、卑弥呼と日田に何らかの関係があったことは否定出来ません。卑弥呼の最期の時は混乱期だったと予測できます。狗奴国から攻撃され魏に救済を求め張政が渡来し最期の時を迎えるもその後また戦乱となる。この時の状況は想像するしかありません。私はこの時筑紫平野は狗奴国に占領されていたと思っています。だから卑弥呼はさらに東に逃れ、その鉄鏡は日田在地の首長に託された・・・と考えています。
@@これはどうでしょう まず、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼が魏の皇帝から賜ったものなのか❓という疑問から始まりますが、これは私も否定しづらいので卑弥呼のものという前提で話をしています。次に、卑弥呼にとって鉄鏡はどういう存在だったのか❓なんたって魏からの下賜品です。命より大切な物くらいに思っていたと考えます。狗奴国との戦になるとき卑弥呼は魏に援軍要請をしています。援軍要請が必要なくらいヤバいと考えたわけです😱まぁ、それでも援軍を要請するくらいの時間的余裕はあったといえます。戦に備えてまず何をするか❓もちろんたくさんやることはありますが、魏からの下賜品の避難は必須でしょう。避難先の一番の有力地は伊都国ですよね☝戦場になりそうなところに置いておくはずがありません。ちなみに、卑弥呼自身は兵の士気に関わるので避難できません。貴重な鉄鏡です。失くしちゃった壊しちゃったなど絶対許されません✊😠敵の手に落ちる可能性もあるのに戦の最中肌身離さずってのは不可解です。ましてや、たかが日田在地の首長ごときに預けるってのもさすがに無理があるような気がします。仮にそうだとしてその首長は鉄鏡をその後どう扱ったのか❓敵が攻めてくるかもしれない日田に鉄鏡持ったまま居座ったわけがありません。当然安全な場所に持って逃げます。なのになぜ日田から鉄鏡が出土したのか❓敵の手に渡る前に土に埋めて隠したというなら多少は納得したかもしれません。0か100か答えを出せる人などこの世に存在しません。0<x<100でしか話は出来ません。邪馬台国論争は推理です。分からないことだらけなので想像が必ず必要になるのは言うまでもありません。どう考えるのが素直な考え方なのか❓どう考えたら合点がいくのか❓矛盾を排除できるのか❓そうすることによって真実に近づけるのだと私は思っています。1800年前の人も現代に生きる我々も同じ人間です。考えることなんか大して変わりませんよ。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が日田から出土したのはどう考えてもおかしいです🤔決定的という文字に反応されたようですが、度合いはこの際関係ないとして矛盾があるのは間違いないです。そこは分からないので・・・とスルーしちゃうと矛盾が矛盾を生み出してしまうので、そこを推理で埋める必要があるわけです。それをしないと、実は金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼が賜ったものじゃないのでは❓いやでも、これほど貴重な鏡を賜る人物は卑弥呼しか考えられないし・・・だとすると・・・という無限ループです😰やはり、どこかで矛盾を断ち切らないといけないようです。そんな感じなので、どうしても私は「うんそうだね❗もう邪馬台国は日田で決まりだね👍😋」みたいにはならないんですよねぇ~(確定したわけではないことは理解しております。)それと、筑紫平野が狗奴国に占領されたなら祇園山古墳の卑弥呼の墓説は完全否定されちゃいますね。私は理系人間なので文章を書くことが苦手です。理系脳はこんな風に考えるくらいに思っていただけたら助かります。長々書いた上にかなり生意気申しました。申し訳ございません。
@@rino_japanese さん、あなたが「邪馬台国は日田で決まりだ」と思っていないことは理解しました。ただ、あなたの推理の中に何一つ卑弥呼が日田に居たことを否定できる論拠はないとと思うのですが・・・だからこの鉄鏡が日田から出土したことを「日田説の決定的な矛盾」とするのはどうかと思うのですがいかがでしょうか?
@@これはどうでしょう 私は日田説を否定していませんよ。卑弥呼は日田にいなかったなんて一言も言っていません☝邪馬台国は伊都国と近い場所に(半径100km以内には)あったと考えているので、その範囲内にある日田説に興味津々です。ただ、肯定的になるには私が『矛盾』という言葉を使って表現した疑問が邪魔をしてしまっているといったところでしょうか。邪馬台国の話はスケールが大きすぎるため、一点だけを見て安易に肯定や否定をするべきではないと考えます。なので、日田説を肯定するも否定するも時期尚早ってやつです。日田説が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を卑弥呼の所持品であったことを前提とするならば、それが卑弥呼と無関係なダンワラ古墳から出土した大きな不思議。ダンワラ古墳自体よく解らないし今さら調べようがないのがツラいところですが、そこは何かしらの仮説で埋めないと話が成り立ちません。それが出来ないと、終いには「鉄鏡は卑弥呼の所持品ではない」と考える方が自然だという話になってしまいます。(現にそういう説もあるようです)私が日田説を否定するならそのタイミング以降になります。一点に拘っていると大局を見失ってしまいます。研究を進めていくうちに矛盾を解消するヒントが出てくる可能性もありますし、今その一点に拘るのは良いことではありません。今回はその部分について、単に貴台がすでにお考えをお持ちなのか確認したかっただけで他意はありません。日田在地の首長の話は聞かなかったことにします。まったく想定していなかったツッコミだったゆえのインスタントな回答だったように感じました。あのですね・・・私は誰かの持論を聞いて「それだ❗✊🤩」みたいになることはあまりないですね。あくまでも自身で結論を出すための判断材料といった感じでしょうか。それゆえ振り回されてしまうこともたまにあるのですが・・・最近、伊都国=糸島さえ怪しいと考えるようになりました。あちらを立てればこちらが立たずみたいなことの連続で頭が痛い。これは『邪馬台国あるある』じゃないですか❓🙂
真意をくみ取ることが出来ず、失礼しました。「鉄鏡が日田在地の首長に託された・・」は、取り消す必要もなく、謎についての可能性の一つです。
動画拝見しました。配信ありがとうございます。卑弥呼の墓は魏志倭人伝の記述が頼りですね。宇佐神宮の境内の亀山に卑弥呼が葬られているとする考えに魅力を感じます。邪馬台国が九州にあったとしたら筑後川に近い日田の地で、土砂の運搬堆積作用で深く埋もれてしまったんじゃないか、なんてぼんやり考えていました。小迫辻原遺跡も魅力的ですね。最後の前方後円墳のような形の地形はおそらく自然地形でしょうが、面白いです。上が宅地化されているのは、もともと起伏がなくて平坦だったからじゃないでしょうか。
そうかも知れませんね。宇佐神宮の境内を掘る訳にはいきませんが。ご存知のように筑後川は昔からよく洪水が出ているので、源流にも近い日田盆地の高台に卑弥呼を住まわせ、鎮める祭祀を行わせたのではないか、と想像しています。あそこの住宅地は、確かに典型的な前方後円墳の形状ではないですがが、何とも言えませんね(笑)。
動画拝見しました。私も邪馬台国は吉野ヶ里〜日田ラインが怪しいと思い今は吉野ヶ里遺跡が見える場所に住み日田にも通算20泊ほどして探索しております。ただ私が怪しいと睨んだのは火山の存在からです。鬼界カルデラで一度全滅している以上いくら時代が離れているとはいえ火山を恐れていたと思うんですよね。卑弥呼は日巫女であり火巫女であったと考えています。伊都国の平原遺跡と吉野ヶ里遺跡に共通する大柱が日巫女だとすれば火巫女の役割を果たすには筑後川から三隈川を移動して日田が良いのではないかと考えたのです。火山を恐れていたならそこを越えることはないので。別なアプローチとはいえ日田を調べて下さっていた方を見つける事が出来て嬉しかったです。
面白いお話ありがとうございます。アプローチが違っても同じ結論に行きつくということは、ますます「怪しい」ということでしょうか。それらがもっと集まれば、確証に繋がるのでしょう。新しい探索結果が出たら、またお教えください。
@@これはどうでしょう 返信ありがとうございます。火山を知らない(火の神と崇める)民=邪馬台国と火山を知っている民=狗奴国=山鹿〜菊池〜阿蘇ラインより南、卑弥呼は鬼道を使う事より卑弥呼の墓の棺に使用した朱色は辰砂ではないか(辰砂=始皇帝→大陸と交流があった事も含めて)という事に着目して色々妄想しています。何か進捗があったらコメント致します。
卑弥呼の墓に朱があったとすれば、おっしゃるように辰砂でしょうね。中国産かどうか分かりませんが弥生期の北部九州の王墓には大量の朱が使われていました。以前見た中国時代ドラマで、医師が患者の傷口に朱を塗るシーンがありました。
@@これはどうでしょう 6月5日に吉野ヶ里遺跡の謎のエリアで発見された石棺の蓋を開けるようなので現地に行ってみます。現在見える所には朱色が無かったので卑弥呼の墓ではないと思いますが副葬品があるか楽しみです。
返信遅くなり失礼しました。本日(5日)ですね。楽しみです。
小迫辻原遺跡に比定する方も多いですが、弥生土器に加え、庄内式や須恵器も混同して発見されているので弥生から中世までの長期間、その地域の中心地だったのでしょうが、大規模遺跡と言えないことからなんとも微妙ですよね。鉄鏡には目を引きますが、物は移動するもので、王墓級の墳墓が多数発見されているわけでもなく、決め手に欠けるように思います。高杯が屋敷跡から出てきたと言ってもどこにでも出てくるものなので、特に卑弥呼を連想させる物でもない。畿内5様式の甕が3世紀以前の土器と一緒に出てきたというなら大きな発見ですが、4世紀前期までずれ込んだとしたなら景行朝のヤマト王権の筑紫出征に重なりますので、そのあたりを詳しく知りたいと思います。
ご意見ありがとうございます。確かに今回の動画で挙げた根拠は「決め手」ではないですね。従ってこれで確定とは言えないと思っています。しかし、小迫辻原遺跡で出土した土器類の整理に携われた久住猛雄氏たちの見解では、大きい方の居館跡(一辺36m)の時代区分は北部九州でのⅠB期、近畿との土器のクロスデーティングによると河内での庄内Ⅱ~Ⅲ式にあたることで、3世紀前半を想定できるとされています。この話や鉄鏡の話は決め手ではないですが、当時の筑紫平野に点在した国ぐにを邪馬台国連合とした場合に、その王達が奴国の王とも相談して日の上る日田の地に日巫女を擁立してかくまい、祭祀をさせたと想像することは理にかなっていると思います。
@@これはどうでしょう ご説明ありがとうございます。卑弥呼がいた場所の解明は、永遠にわからないと思うのですが、想像を働かせ考えるところに古代史の面白さがあるのだろうと思います。引き続き、動画のアップを期待しています。
ありがとうございます。自分の考えを探す、永遠の謎解き旅かも知れませんね。今後ともよろしくお願いします。
魏志倭人伝には、和人は距離を言うときは日数で言うとあるので、水行く云々は和人流の表記の仕方ということになる。恐らくその起点は大陸側にあるのだと思います、
そうかも知れません。私もだんだんそんな気がしてきました。
日田は、今、この漢字を当ててはいますが、訓読み日本語だとすると、一田の意味だった可能性も。日田の盆地を俯瞰すると、盆地を蛇行した川が治水前の過去は、過去三日月湖を沢山作った森林だったものと思われます。流れが変わったときにだけ、河原はススキ等の草が繁茂する湿地帯が生まれた。そこに当時の列島自生のジャポニカ種の稲も生えた。川が蛇行する地の移動は舟による移動を知る群れの勢力圏に成り易い。陸の狩猟系の群れは川や三日月湖に阻まれ侵入が限られた。自ずと、舟で移動する群れの拠点化する地に定着。自生の稲を口にする様に成り、種籾を撒く三日月湖を増やし、他の植物の繁茂を抑制する半自然の「田」が形成されたのかと思います。更に収量を求め、三日月湖の中央部迄、深さを揃え、川から水を引き入れた田んぼが完成した。深さを揃える土砂は三日月湖の周辺のものなので、田んぼの面積は拡がり、その地を独占する様になり、集落の管理する縄張りが為される。縄張りの鳴子で、気付かれたタヌキやイノシシはおかずにされた。『食料生産』は定住を許すことになり、集落を形成させ、同時に余剰食糧を交易品として行くことにもつながる。その様な田んぼ農業文化発祥の地を当時より「ひた」と呼び、今日迄集落の血脈が続き、呼び名がつながったのかもしれません。卑弥呼と邪馬台国が、日田の地にとの根拠にはなりませんが、古代においては特別な田んぼ耕作の発信地だった可能性は在ります。
追記します。卑弥呼も、一御子、一皇子の意味で、名前では無かった可能性も考えるべきと思っています。一御子なら、どの時代にも、どの地域にも、一人は居ることになります。交易し、言語融合が進めた勢力が「ひ」の発音には潜んでいるかもです。
「ひみこ」と「ひた」。一(ひ)ということですね。おもしろい可能性だと思います。
いつも楽しく拝見しております。JR工事により消滅したダンワラ遺跡、古墳の上に住宅地があり調査できない古墳、なんかやるせない感が残ります…主様のお陰で畿内説はないことがわかりましたが何かがほしいですね。九州でも世紀の発見出ないかな…
「世紀の発見」・・いいですね。でも本当に出たら、楽しみは消滅ですかね(笑)。待っていましょう!
小迫辻原遺跡に隣接して山田原(ヤマダバル)という地名があります。邪馬台の発音がヤマダだったと考えたら夢が広がりますね
ヤマダバル・・怪しいですね(笑)。小迫辻原遺跡の北側が「山田」とありました。
コメント失礼します!スーパー地図と言うアプリを使うと昔は平地が少なかったと分かりやすいですよ!
スーパー地形、という地図アプリでしょうか?
なんて仲良い二人なんだ!!
お陰様で夫婦仲はいいですね(笑)。
すごくロマンのある話ですね。現実には前方後円墳であることも卑弥呼の墓であることも可能性は薄いと思われますが、ただ卑弥呼がここ日田に立ち寄った可能性は高いと思ってます。場合によっては日田で亡くなったかもしれません。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡はそれだけ重要な鏡であるということです。他の人もおっしゃてるように当時の日本ではこの鏡はまず作れません。明らかに中国から渡ってきたものです。そして特別な人間しか手に入らないものです。この鏡は宝物ではあるのですが通常一目の触れるような場所に飾られるものではありません。また簡単に人にあげるような物でもありません。つまり、所持していた人と一緒に葬られるべき物です。だから日田で卑弥呼は眠ってるのではないかと考えてます。けれども歴史的遺物の少なさから日田は古代から栄えてた場所でもないような気がします。卑弥呼の前後は動乱期なので逃避の仮宮かもしれませんね。ウエストのうどんは福岡では比較的人気のある店舗です。私も博多うどんが一番と思ってます。
日田からはこれから色んな物が出てくる可能性を感じています。???がいっぱいです。私も博多のうどんが好きです。50年以上前に食べた博多地下街の大福うどんの味が忘れられません。
ダンワラ古墳のすぐそばに日高大神宮なるちいさな神社があります。確か大神宮という名は直接天皇家にかかわる重要な神社にしか使えないと記憶しておりますが、あまりにも廃れており何故大神宮なのかわかりません。日高の日は日の巫女、高は高木神を連想します。また、古事記では邇邇藝命の名前は、天津日高日子番能邇邇藝命、彦火火出見尊は天津日高日子穂穂手見命、鸕鶿草葺不合尊は天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命で神武天皇の先祖はすべて日高を冠に付けてますね。なにか関係があるような気がします。神社の正面に何か龍のような文様が彫ってありますがこれは何でしょうね。
大神宮は確かにそうですよね。日高見國は東国の出であるとおっしゃってる教授もいらっしゃいますが、これでいくと明らかに九州ですね。日田の地がますます怪しくなってきました(笑)。
日田の地名の由来ですが、久津媛が訛って「日田」になったとしている。という説が一般的なようですが、何かすっきりしません。平安時代に成立した『和名類聚抄』では、日高郡とされてて、これが日田となったという説の方が説得力があります。(高木神は稲作をこの地に持ちこみ多くの田ができたので日田になったかもしれません。)日田のすぐそばには霊峰英彦山(日子山)があり英彦山神宮(ここも神宮です)の主祭神は天忍穗耳尊です。摂社に上宮、中宮、下宮があって日本建国の重要な神がすべて祭られてます。ダンワラ古墳は線路工事で破壊されておりここから鉄鏡が発見されされたといわれてますが、発掘場所すら特定できないため今となっては正確にいつの時代の遺物かも調査できません。日高大神宮の築造は恐らく新しいものかもしれませんが、この場所に何かしらの伝承があったのだと思います。日田は天孫族との繋がりが強い場所であったことは状況証拠から見て容易に想像できます。
天孫族と天津日高日子。日子山と日田・日高大神宮。お話を伺ってると、卑弥呼の話は置いておいても日田はただならぬ地のように思えてきました。
吉野ケ里は何国だったんだろう
すみません。そこまで考察できていません。
卑弥呼様を探されてますか?吉野ケ里で文明の痕跡を調査されてますが、規模が小さいような気さえします。私も一度は日田かもと思いました。魏志倭人伝には、女王は鬼道を使うや女王の国の東の海を渡ると倭人の国がある。。(邪馬台国の東は海)また、ここまでが女王が支配する場所である と言うような記述があるようです。(日本全体を支配していたのではないことがわかります)色々と調べて、宇佐神宮の比売大神(ヒメオオカミ)だと私は思うのですが。実は宇佐神宮の元宮(奥宮)大元神社の山頂は禁足地となっています。九州国立博物館に昔の神社の姿が保管されてます。百体神社が勅使道にあったり、隣の国東半島には鬼を祀る文化もあります。ストーンサークルの跡や豊国文字(神代文字)の石碑(ここも禁足地)があったりと卑弥呼に限りなく近いのです。
卑弥呼さんが 「ばれたか~~」と ごぼてんうどんを食べながら いってました。やまいちこく 山一国 山丸ごとの国ですよということでしょうかね?
ですかー(笑)。やまいちこくなら、そうですね。やまたいこくなら、山と台地の国かもです。
説得力のある動画です。まいったな。少し反論したいのですが、例の「女王国より東、海を渡るに千余里に黒歯国、侏儒国・・・」とすると、どうしても方角関係が合わないと思います。私は「黒歯国」は奈良方面の「お歯黒」という習俗が連綿と続いている国と考えているので邪馬台国近畿説は成立しないと思っていてうp様と同じです。箸墓古墳近傍から桃の種が数百個まとめて出てきたから近畿だとかいう人がいますが、当時は鉄漿ではなくて果物から作っていたとありましたから桃の種が出て当然と思います。侏儒国は小人の国ですが、神武天皇が宇陀の血原に討ち入る前に出会った土蜘蛛が小さいと記述があったやに思います。魏志倭人伝に近畿への地理を記述していたんだなあとおもいます。つまり「女王国の東」と書くには日田は山に入りすぎだと。水の便はどうだったんでしょうか。(無論トヨの時代だったら文句ないです。)やはり甘木朝倉扇状地の突端の河岸段丘の上から西に平塚川添遺跡あたりだったらその見当かなと。唐突ですが不彌国は宇美だと思います。遠賀川近辺には大きな国があったと思いますので遠馬国は、などと戯言を。mond
トヨの時代には、その都が宇佐などの瀬戸内海側だったのだろうと思いますが、卑弥呼の時代においてもそこは女王国の範囲内だったのだと思っています。そう解釈しないと、「女王国より東、海を渡る」ことが出来なくなります。
凄いスケール、エジプトピラミッドと負けず劣らず。凄いとしか言いようがありませんね。もしこれが偉人の祭られているということはかなり位の高い人ですね。それは卑弥呼以外には考えるの難しいでしょう。神武天皇は東征する前だし一豪族、熊襲尊も同時代であればこれだけのお墓を持つとすれば、シャーマン卑弥呼になるでしょう。
あれが本当に前方後円墳なのかどうかは、今はだれも分かりませんが(笑)。
@@これはどうでしょう 実は私し熊襲尊が好きです。卑弥呼にとっては大きな壁かと思います。邪馬台国と敵対した中九州の王ですが、熊襲尊は邪馬台国とも対峙、日向の末裔奈良倭ともひざまずかず、まさに九州男児倭尊の卑怯な剣で不覚を取りましたことは誠に無念と云わざるをえません。
ヤマトタケルの残念な(卑怯な)逸話は、当時の賢い英雄の常識だったのでしょうかね。私もクマソタケルに一票(笑)。
@@これはどうでしょう 先生の邪馬台国はここにあったは、畿内説を唱える考古学者の非常識説を証明するものです。私は日本に関する文明においても、世界4大文明説も縄文文明集落文明による世界的な文明発生の元となっていることを今調査しています。農耕種族、石器器具により文明と云うものを最初にきずいたのは1万年前の縄文時代からだと思います。なぜかというと4大文明は集落から他国干渉の発展形となっていますが、縄文は文明と云った基礎が自然に整い、独自の農耕技術を開発していることです。他の部族を侵害せず、お互いの秩序を尊重するような種族がよりあって新しい文明を築いたのは縄文時代の特殊な人間社会のように思えます。他の地区を侵害占領する世界観に、農耕、集落の規律はできないのではないかと思います。よって、日本に中国や韓国から文明をもたらせたとする考古学説も違うし、今のロシアによる他国を侵略するイメージとは縄文文化とは何か世界観が違うように思います。このことにより、邪馬台国畿内説はどうでもよいことです。考古学者には普通に考えてほしいと思います。
日田が江戸時代に天領だったのは、このことと関係あるのかも。
そうですね。私もそう思います。
日田市に財津町もあるし財津姓があります。日田氏の別れだとか書いてありましたが、財津氏は神武天皇以来の系図をお持ちになっていらして日田市に実在します。また於保氏というのがありましてこれは肥前国佐賀に於保神社などがありますが、これも神武天皇の子孫になります。日田という地名は古代史にはどういう位置づけになるのだろうと常々思っていましたが、これではっきりしました。安本美典氏も大田大六氏も触れていない新知識です。これはあなた様の手柄です。お名前を教えてください。 熊本出身の財津一郎氏は既に故人となられましたが、熊本の財津氏は日田の財津氏の別れた子孫です。mond
日田の地が「財津」だったとその意味を考えれば、面白いですね。日田に卑弥呼がいたとするのは、まだ状況証拠レベルですが、自分でも面白い考えかなと思っています。想像するに、筑紫次郎と言われた筑後川の上流部にあってその支流がことごとく集中する盆地ですから、過去には千年レベルの大洪水もあったことでしょう。町が一気に消滅した時もあったのではないか、そう思っています。
日田も宇佐も男の王なんだよ 1 なあ、たぶん。隣の田川の採銅所や香春町、赤川、川崎辺り怪しいんだよなあ。鏡山神社や香春神社、古宮神社に行ってみて感じて下さい。私は東京から行ってきましたよ。
田川方面はまだ訪問したことはありません。気になる遺跡は多いですね。
古代史探求楽しく拝見しています。「水行十日陸行一月」については帯方郡からの日程記事と解釈する説もあるようです。帯方郡からの距離は「一万二千里」と記述されていますので、その日程を「水行十日陸行一月」と仮定すると割と納得感のある数字が出てきます。水行に関する記述には「従郡至倭。循海岸水行」(郡より倭に至るには、海岸に循って水行し)「到其北岸狗邪韓国。七千余里」(其の北岸狗邪韓国に到る七千余里)、「始度一海千余里。至対海国」「又南渡一海千余里。名日瀚海。至一大国」「又渡一海千余里。至末盧国」があり水行は「千余里」が単位とされているように見えます。夜間の水行は危険なため、「水行1日」は「千余里」と見做されていたとすると、水行の合計は7,000(7日)+1,000(1日)+1,000(1日)+1,000(1日)=10,000(10日)となります。「一万二千里」から「一万」を引くと残り「二千里」が「陸行一月」となります。一月=30日とすると2000里÷30日=66.666里(1日)となり、1里=約78m(短里)とすると1日の陸行は約5.2Km。途中国での休息滞在日を考慮すると古代の旅程としては妥当な気がします。また、2000里=約156kmとなり九州北部からは出るのは難しいように感じます。
その解釈は納得しやすいですね。なるほど、なるほど。そう考えると、投馬国は出雲や丹後の可能性も出て来ます。
@@これはどうでしょう 「女王国東渡海千余里。復有国。皆倭種。」と「東」に倭種の国有りと記述しているので、方角の「南」は邪馬台国と同じ方角になるのではないかと思います。九州説で言われる「日向国都萬(つま、都萬神社周辺、現西都市妻地区)」が妥当な気がします。「官曰彌彌。副曰彌彌那利」は天之忍穗耳命や神武天皇(彦火火出見)、手研耳命、神八井耳命、神渟名川耳尊などに「ミミ」つくことや天照大神が最初に葦原中国の平定を命じる国はそれなりに有力な国であったので、魏志倭人伝でも邪馬台国の前に5万余戸の国として記述したのではと想像します。ただ、西都市周辺だけで5万余戸は難しいので宮崎平野も含めて考えないとこの説は成り立ちません。
私も本編動画中で、都萬神社周辺が投馬国の可能性もある、としています。ただ3世紀のこの地方にそこまでの国があったのかまだ検証が必要で、おっしゃるような帯方郡が水行20日の起点であるとすれば、南という方角は西日本どこも成り立つような気がしています。出雲王権に伝わる伝承ではその初代王が八耳王と言われていましたので、彌彌もそうした王を指すのかも知れません。何せまだ闇の中です(笑)。
久しぶりにお邪魔します。以前ほかのページでお話させてもらった者です。最近は大分・日田で発見された鏡に再度興味を持ち、ウィキペディアの記事を見て、なぜこれだけの鏡に注目が湧いていないのか不思議で、このページにたどり着きました。鏡については4~5年前に、中国の専門家によりX線調査の鑑定が実施されています。その結果、三国志の英雄で魏の礎といわれる、曹操の墓に供えられている鏡と、ほぼ同形式であると鑑定されました。皇帝クラスに贈られる超貴重品で、これがなぜ、九州にあるのか? 卑弥呼(邪馬台国)への贈り物か?と、かなり騒がれたことがあります。弥生時代中期の鏡といわれ、日本への上陸時期はまだ不明ですが、現在の日本にある中国の鏡では、最高級品でしょう。はっきり言えば、100枚贈られたと言われる、卑弥呼の鏡より数段価値が上でしょう。発見される順序が逆ではと思われます。曹操の鏡より価値のある物は考えられず、これがもし畿内で発見されていたら、大騒ぎが続いているでしょう。私は邪馬台国連合という考え方で、北部九州説派です。大分は現在でもトヨの国と言われており、卑弥呼の後継者の名前も同じトヨで何か縁を感じます。こんな貴重な鏡の送り先は、大事な同盟国と思われ、スポットがあまり当たっていないのが不思議です。 それと最近は畿内説者と論議する場合、九州説の物証を羅列するより、魏の使者が何の目的で日本を訪れたか? この論理を説明すのが一番効果的でした。これはNHK地デジ番組で放送されたもので、見た方もいらっしゃるでしょう。当時の中国には、しっかりした歴史書があり、魏は周辺国と緊張状態にあったと言われています。そこで魏の敵対国に対し、背後から牽制するための、軍事同盟を結ぶ目的で日本に来たと考えられています。これで分かりますが、はるか遠く、いざと言う時に全く間に合わない近畿には用がありません。まして海を渡ってすぐ、豊富な鉄を持ち、絹を生活で使用している強国が有ります。これでは、はるか遠方の田舎(当時の纏向)に行かないでしょう。当時の中国の世相では観光や経済交流する状況ではありません。この論理を問いかけると、反論や返信がピタリと止まります。物証発見には可能性という逃げ道がありますが、論理に逃げ道は無いでしょう。 くれぐれも御身体にご注意してください。
お久しぶりですおっしゃること、すべてごもっとも。TVでの内容、「軍事同盟を結ぶ目的で日本に来た・・・いざと言う時に全く間に合わない近畿には用がありません。」さらに、ごもっともです(笑)。
@@これはどうでしょう 様最近久しぶりに色々なページにお邪魔しています。阿波説を語る方との論議でも、纏向は無いことは一致しています。多くの人(私の知る限り3名の発掘学者も含む)が、纏向は邪馬台国では無いと言っています。もちろん何年発掘しても、何の具体的物証が出ないので、当然の結果と思います。そこで畿内説は新たな候補地を、どこにするつもりでしょう? この前見た畿内説学者の一人は、まだ纏向遺跡にしがみ付いており、見識を疑いました。もう一人は纏向を本部とし、北部九州との連合国家だったとチンプンカンプンな事を言っていました。どこの国のどの時代にも、本部が出先機関より軍事・文化で、はるかに劣る事はありません。こんな方が本当に学者なのかと、情けなくなりました。私はもう東遷・東征を考える時期なのかと思案しています。
6月5日 吉野ヶ里 謎エリア 日吉神社跡地の石棺 開きますよ~何がでるかなぁ~(^^)
お久しぶりです。九州にいらっしゃると、こんな情報にも出会えるんですね。何が出たか、速報お願いしまーす(笑)。
ネットニュースで見ました。金印? 卑弥呼の朱?出るかなあ😃ua-cam.com/video/lPHXPZhPMXo/v-deo.html
@@これはどうでしょう Mr.吉野ヶ里の高島忠平氏は常々『吉野ヶ里は邪馬台国でない』『甕棺墓の被葬者は渡来系』と仰ってますね~やはり徐福=ニギハヤヒの物部王国筑秦国=筑紫国歴代の誰かの王墓かと。秦氏系 『日吉神社』で隠匿してるなら?面白いですね~(^^)赤色かぁ~ 鉛丹なら卑弥呼?(^^)
確かに吉野ヶ里は、連合国の主要国だとしても邪馬台国ではない、ですね。私も「卑弥呼は日田にいた」と言ってました(笑)。徐福の謎を解かないと、先に進めないか!ところで、日田駅前のホルモンチャンポン食べました。美味しかったです。ただ体調が万全でなかったので、ちょっと胸やけしました(笑)。
@@これはどうでしょう 食べられました? 味濃いですもんね~(^^)報ステでも吉野ヶ里が。邪馬台国か?!!盛り上げといて『あ~、ヤッパリ巻向がぁ』の流れが見え隠れ(^^;)先日 豊の国の神社 遺跡巡りしてきました。宇佐神宮の元宮?の中津市 大貞八幡宮薦神社は内宮が 何と三角池。案内板には 『渡来人による造成』中津市は遺跡が数多くあります。動画にも登場 宇佐赤塚古墳の横に名も無い溜池があり古墳群の中央に『大池』『溜池灌漑』中世にも造られた様ですが現代ではポンプの普及もあり今残るのは古代人による造成が主とか。で、Googleマップでズーム。宇佐から中津市~北九州に多くあるも大分市には無く。筑後ちらほらも熊本には無い。四国では阿波に少なく讃岐密集。驚くのは国産み 伊弉諾宮のある淡路島 小さい溜池の数が!! ビックリ(゚o゚)/対岸 明石の稲美町 名の通り 数多の溜池が。後の中央 大阪と奈良は想像通り。最後まで水稲を拒んだと言われる諏訪にはないですね~。丹後には少ない事から人の移動を妄想しています。ゲノム解析で唯一 九州で弥生人の分布が多い豊の国。先述した『敷葉工法』等で大和を制したのか?古代に豊を冠する神や大王が多い理由がここに?結論 『邪馬台国かは分かりませんが豊の国から大和に東遷したかも?』です(^^)
最近、日本の古代史が気になって調べているうちに、たまたま見かけました。 きちんと整理された説明でとても分かり易く、もっと知る人が多くなるといいなと思ってます。今のところ、「これはどうでしょう」さんの仮説が一番納得感があります。 魏志倭人伝の水行の数字の矛盾に思える記載に関してはとても気になっているのですが、歴史倶楽部さんの、「弥生時代−魏志倭人伝前編、後編」で説明されている、著者の陳寿の政治的立場や時代背景からの洞察が一番説得力があるように感じました(今のところ)。ua-cam.com/video/RnFc8WVVwtM/v-deo.html
ありがとうございます。ご示唆頂いた動画は長編のようなので、時間ある時にまた視聴させてもらいます。今後ともよろしくお願いします。
航空写真での古墳発見、鳥肌立ちました・・。
あれが前方後円墳だったら、ホント凄いことになります🎵
古墳だとしたら、250メートルの直径になりますよ。倭人伝には径百余歩で、150メートル(左右歩で一歩と見た場合、そうでなければ、80メートルくらい)くらいですよ。大きすぎですね。それに卑弥呼の古墳は円墳ですからね。ちょっとちがうかな。
おっしゃるように私も卑弥呼の墓ではないと思います。ただ九州に関して考えると、卑弥呼の時代の後、どういう状況だったのかは記紀をみても断片的にしか分からないので、日田に巨大な前方後円墳があったとしても不思議はないとみています。
日本の神話のモデルに なっている地域ですかね!❤猿田彦が、治めていた地域だと云う 話は聞いたことが有ります😊
猿田彦との関連もありうる訳ですね。猿田彦が九州山地一帯を治めていた「山の神」であれば、邇邇芸命が降臨した時に猿田彦が案内して、さらに南部の高千穂に天孫族を招いた筋書きも見えそうです。
天孫降臨の地について考えてみました。一般的な解釈としては筑紫も日向も高千穂もクシフルタケもすべて地名として考えられ、その読みからどこであるか比定しようとされてるようです。しかし果たしてそうでしょうか?天孫降臨は神話の世界です。その物語に〇〇県〇〇郡〇〇町みたいな具体的な地名で場所を表すでしょうか。その方がむしろ違和感を感じます。この記述は形容詞がふさわしいと思いはじめました。では、形容詞として読んだ場合意味が通るかどうかです。記紀には、”竺紫日向の高千穂の久士布流多気に天降った。”と書いてあります。まず”竺紫”は九州のことを筑紫州と呼び、4つの国(筑紫国、豊国、肥国、熊襲国)で構成されてると記紀に書いてあるのですから筑紫国のことで間違い無いと思われます。逆に言えば当時はまだ日向国は熊襲国の一部と考えられるので宮崎や鹿児島ではないことがわかります。次の”日向”は形容詞の日に向かうで、東の場所もしくは太陽に向かうという意味となります。その次の”高千穂”は稲がすくすく育った緑の田園地帯を表します。”久士”は古くからの、“布流”は広く世間に行き渡ること、”多気”は豊富な食べ物がたくさん採れる場所と百科辞典で調べるとあります。つまり、”竺紫日向の高千穂の久士布流多気”は、現代語に訳せば ”筑紫国の東にある古くから食べ物がたくさん採れる場所として知れ渡ってるところ”に降臨したとなり充分意味が通ります。なので古くから稲作が行なわれ稲のグリーンベルトが広がった場所ということになります。この場所は筑豊地方ではないでしょうか。遠賀川流域は稲作の始まりの地と言われ、筑豊地区の筑穂、穂波、嘉穂、稲築という地区は神功皇后が三韓征伐から凱旋して大分宮へ帰られたとき稲穂が青青としている様をみて「美しき穂波かな」と言ったことからつけられたとされています。また「韓国に向かいて笠沙の御前(岬)に真北とおり、朝日のただ刺す国、夕日の火照る国」という形容は、弥生時代は、遠賀川下流は湖面のように幅が広く夕日が湖面に写し出される様子を言ったものではないでしょうか、東は朝日を遮る高い山はありません。さらに韓国に向かって船出したと思われる宗像「膂宍(そしし)の空国(むなくに)を頓丘(ひたお)から国まぎ」とおって,・・・以下略 にも猿田峠を通って行ける近い場所です。ところで添田付近の赤村と津野地区はかつて「正勝吾勝」の吾勝をとってかつては「吾勝野」と呼ばれていました。そうです天忍穗耳尊の名前に付けられてますね。すべて、日田(英彦山)から繋がってると思います。考古学の見地からも3世紀の遺跡が多くある古い遺跡の多い地域みたいですね。長くなりすみません。
天孫降臨そして神武東征。日本の古代の歴史の中で、最も重要な謎かも知れません。それがいつなのか、何処なのか?「竺紫日向の高千穂の久士布流多気」が地名ではないという観点は、ナルホドと思いました。今残る地名、故地は後付けである可能性さえあります。神話に出てくる地名で、魏志倭人伝と共通する固有名詞は、台与と豊くらいしか思いつかないので、神話の舞台は邪馬台国の時代の後なのではとも思ってしまいます。ご教示ありがとうございました。
後世の人は過去に書かれた文献を読むことができます。そしてその内容を元に勝手に名付けることもできます。現在でも卑弥呼生誕の地は日本中にありますね(笑)。でも天孫降臨の地が宮崎や鹿児島でなければならない理由については一切不明です。だから単純に現在の地名から判断することはできないのではないでしょうか。漢字は発音と意味を同時に持つ言語です。原文の漢字の持つ意味をもっと重要視すべきではと思ってます。でも天孫族の一派が宮崎や鹿児島に来ていた可能性は十分にあると思います。そこから天孫降臨と結び付けれられたかのかもしれません。また、宮崎や鹿児島の天孫系神社の主祭神は天照大御神ではなく大日孁貴が多いようです。このことからこれらは別の神を祭ったものではと疑っております。邪馬台国と神話の時代のクロスポイントは忍穗耳尊の時代あたりではないでしょうか。
その通りかも知れませんね。天照大神の祀られ方は、不思議が多いです。7世紀のヤマト王権にとってどんな存在だつたのか、妄想は膨らむばかりです(笑)。
古代日本においてはそれぞれの国で独自の神を祭っていたと思われます。それらを統合してできあがったのが天照大御神ではないでしょうか。初期の大和朝廷は各国の有力諸侯が合議制で作った国ですので当初は国をまとめるのに必要な存在であったはずです。ところが崇神天皇の時代に変わったと思います。天皇家への権力集中を行うには、同一の祖神が幅を利かせては天皇家もその一豪族でしかないわけで都合が悪い状態となり、天照大御神は大和から離れて遠くに追いやられたのではないでしょうか。物部の祖神である大物主(ニギハヤヒ?)も過去の神としてうまいこと三輪山に葬られました。そこから前方後円墳が巨大になり天皇家の神格化が始まったのではと思ってます。伊勢神宮より天皇家の直接の祖(応神天皇)である宇佐神宮の方が重要視されるのはその由縁からではないでしょうか。
ありがとうございます。そういうことが初期の大和で起きていたのだろうと私も思っています。箸墓造営期のヤマト王権のあり様を解明することが肝要ですね。ただその中で、記紀でいう大物主の本質は未だに確信が持てず、出雲系の神なのではと思っています。三輪山の奥津磐座を実際に見たことがありますが、「出雲王国」の古い王墓のあり様と類似性があるのではと思っています。
ありがとうございます♪私も日田にもいたと思います。女王の連合国ですね。
共感頂き嬉しいです。ありがとうございます。
日田は十分ありえると思います。当時の有明海はいまよりだいぶ置くまで入り込んでいたので日田も今よりずっと海が近いし。交通の要所ですしね。
そうですね。重要な場所だったと思いますね。
誰も誰か?宜保愛子さんに霊視依頼してないの?卑弥呼探す人ならするかと!忖度の集大成では決して見つからんやろ!ツタンカーメンは叔父に毒殺されたと言われてましたね😂
FBI御用達の透視家を連れてきて、卑弥呼の墓を探させるTV番組は、昔見たことがありますが。
すみません😢スーパー地形でした!
いえいえ、有り難うございました。ただ、有料アプリみたいですので必要な時に試してみたいと思います。
卑弥呼はシャーマンですよね 弟が出された言葉を伝えていたという事であれば その存在はあちこちの古墳で卑弥呼の存在を発せられていますが では弟の存在も最も大切ではないだろうかそういう弟の存在であるならば 弟の墓もあっては不思議ではないはずだが それはどこにも見当たらないし 名前すら知らない どういうことなのだろうかと思う 考えるに、この二人の存在はなかったものと考えてしまうのが自然だと考える この名前が出てくる根拠はシャーマンを行う人たちが卑弥呼と考えるのが自然だと思う その根拠はあちこちで、ここではないかと発しているからで そんなにあちこちで云われる存在の人物ではないと考えるし また出ていかないと思うそのような理由から シャーマンは全国的に存在するので総称の人物の事を指すのではないかと思いますよ
卑弥呼の墓がここにあったと、あちこちで騒いでいるのは現代人だけだと思います。日本の史書には当時の記録が残っていません。
@@これはどうでしょう 卑弥呼の墓発見と云えば現代では大きな宣伝効果がありますよね 利権がらみが狙いなんでしょうね
利権絡みかどうか知りませんが、皆さん地元愛が強く、知事さんもPRしたいのでしょう。
鉄鏡の発見で邪馬台国論争に加わりました。
鉄鏡は動く物なので決め手ではないと思いますが、一つのストーリーは提供してくれていると思います。
前方後円墳は、すべて卑弥呼の墓から、却下でいいと思います。時代が後ろだからです。あと、「円墳」または「方墳」で探すのがいいかなと思います。似た時代の平原遺跡は方形周溝墓といいますが、ざっくりいうと、ちょっと丸みのある方墳です。ただ、玉依姫に比定されていて、三種の神器もでているので、皇室の先祖だと思います。サイズは、30mくらいでそんなに大きくなく、殉死者が100人いるので、近くに別の墓があるはずです。卑弥呼、邪馬台国は、「縄文人国家」「海に出やすく温かい土地」「真珠、朱、青石、絹が取れることが必須で、牛馬はおらず、カササギもいないこと」が地理的条件になります。そして南部に別の国があるくらいの隙間があることも条件ですね。これを全部満たせるのは、四国しかないのですが、別に今の都道府県と同じわけはないので、瀬戸内海の山陽地方の一部や、大分の一部が含まれていてもいいように思います。
あっ、邪馬台国四国説/青石について、他のコメントに返信してしまいました(笑)。青石は違うと思うんですが。卑弥呼の墓は、祇園山古墳か宇佐神宮境内が有力候補かなと思っています。
邪馬台国はヤマト国と発音して、現在の奈良県を指しています。 初代神武天皇が紀元前60年に橿原神宮で即位されて以来、長い間奈良県に歴代天皇がいらっしゃいました。 従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
これは面白いです。まあ、鏡1枚じゃあ話になりませんが、ただ、大分は邪馬台国四国山上説の次くらいに、大分は条件が満たされている気がします。日田だと、ちょっと内陸すぎかなあと思います。邪馬台国は完全に海洋国家だからです。
ありがとうございます。ただ、邪馬台国=海洋国家だから・・には少し異論があります。魏から見た卑弥呼は倭人の国を束ねる女王であり、その倭人の国々=邪馬台国連合国が、伊都国、奴国を包含する海洋国家なのだろうと解釈しています。あと一つ。邪馬台国四国説がよく持ち出される「阿波石=青石」ですが、これは青玉にはあたらないと思います。中国では今でも「玉」は翡翠のことを指します。
吉野ヶ里で新しい発見が
ありましたね😊何が出るかワクワクしますねー😊
発掘始まりましたね😃
ワクワクです。
日田には日高地区(日高見)や朝日地区(トヨケ神)、大山地区(大山積)、石井(磐井)などの地名があり、古代史を彷彿させます。元々火(肥)国(現在の佐賀県、熊本から大分佐賀関海部)は、日国だったのでは?この地域は「武」の地名(武雄、健男、竹田、龍田、滝尾、健軍)や名前(武内、武石)が多くこれが海部氏、穂積氏などの元となっている気がします。
なるほど、なるほど。 面白いですね。
地名をたどるだけで、いくつものストーリーが描けそうです。
私も旅にでると、地名が気になって仕方ありません。
広島の山奥で簸の川や根の国を発見した時は、飛び上がりそうになりました(→Ⅲの第5話)
実際は運転中だったので、飛び上がってはいませんが(笑)。
@@これはどうでしょう 昔広島に住んでいましたが、安芸高田から庄原までは、神楽など山陰文化が強く、山陰の和邇(サメ)を食べる面白い風習があります。大分にも丹後の羽衣伝説と同じ、日出の真那井(この辺りは宇佐神宮、大神氏の所領)から流された先は奈具ではなくて奈多海岸などがあります。人々が移動と共に文化を継承していたのかもしれませんね。
広島のあの辺りも特別な地域の感じがしますね。
あと日出の真那井って、いろいろ考えたくなる地名です。
真名井フェチです(笑)。
待ってました😂
先ずは、お元気そうで安心しました。
素晴らしい推察デスね。
松本清張の「水行10日・・」を思い起こしました。
私達夫婦、年相応にステートジャガーから民草1号、2号に改めました。
お二人の大ファンで、古代史探索の旅が続きを楽しみにいたします。
ありがとうございます。
まだまだ確定ではないのですが、これ以上の糸口を、現状見つけることが出来ません。
次の旅に出なければ(笑)。
奥様の反応が素敵です。日田盆地は攻められたら東側にも西側にも逃げられる。卑弥呼が日々の政治・統治業務にどの程度関与してたかは解釈しにくいですが、卑弥呼は政治的拠点にはいなくて、祭事の拠点として日田盆地に籠ってたというシナリオも考えられます。でも居館が多数の兵士に守られてるとか、楼・城柵があるとか・・・細かい描写がありますね。
日田盆地に東夷伝の記述に合致するような居館の遺跡が見つかっていますでしょうか?後漢末の最高権力者の曹操と同じレベルの『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』のような最高級の贈り物を貰えるのは特別な人ぐらい。材料・技術的にどこでも作れる鏡ではなく、作成されたのは専門職人に集まる官営工場だったと推測できる。特別な威信財の鏡が日田で発見されたとなると、卑弥呼の陵墓は日田にあるのかも。
甘木市にある『平塚川添遺跡』の多重環濠遺跡も凄く気になります。7世紀の斉明天皇の『朝倉橘広庭宮』も昔から疑問でした。百済復興のための遠征軍の前方拠点として地理的に不便な場所です。(秀吉のように肥前・名護屋城なら朝鮮半島への航海ルートとして合理的だと理解できます。)筑後川の上流域の甘木市・朝倉市・日田のあたりは、大昔から重要な拠点だったようです。
弥生時代には久留米・鳥栖ぐらいまで有明海が内陸部まで浸食してた古代の地形上の理由もあると思います。吉野ヶ里遺跡も使われた当時は海から近い場所だった。魚介類が重要な食材だったので、稲作漁労民にとって海・河川から遠くに住むのは難しかったのかもしれません。
筑後川の流域地域は重要で特別な場所だったと、私も思います。
『朝倉橘広庭宮』について詳しい内容は知らないのですが、一度破れた倭国が唐の進軍を恐れて内陸の朝倉に構えたか、九州王朝説で言うようにその時の倭国の中心が九州だったのか、或いは戦いに勝った唐軍が大宰府に進駐していたからなのか。
???が無数にある古代です(笑)。
40年前の「卑弥呼の道は太陽の道 邪馬台国編 1巻 - - 1983/1/1古村 豊 (著)」はなかなか面白い本でした。銅鏡は測量に使う平板、銅矛は三脚ではないか?と測量会社経営者らしい目線で解説。ユニークなのが地名と漢字の関係。日田→日高郷→日向郷。残念ながら、著者はこの後亡くなられているので、1巻のみ。絶版なのも残念。
前方後円墳は「?」と言う感じですが、市内には月隈・日隈・星隈という平地に小さい丘があります。時代的に円墳がふさわしいような・・・。
日田は知れば知るほど奥深いですね。
ただの観光地だけだと、勿体ない。
われわれマニアにとっては(笑)。
いつも楽しく拝見しています。卑弥呼の墓は、前方後円墳じゃなく円墳では、ないでしょうか。小迫辻原遺跡には、行ってみたいです。次回のupを楽しみにしてます。
ありがとうございます。
卑弥呼の墓は径で測れる訳ですから、円墳かもしれませんね。
それは宇佐神宮の下にあるのかも知れません。
待ってました(^^)相変わらず面白く勉強させて頂いてます。カズさんの言う、日田🟰邪馬台国に私も魅力を感じます。また巨大な前方後円墳らしき丘?(^^)は驚きですね。ただ故松本清張氏も主張していますが三世紀半に卑弥呼の墓として前方後円墳はいかがでしょう?確かに纏向の石塚古墳は250年代らしいですが引き上げ過ぎと思います。ま!それはともかく食レポも含め次回も楽しみにしております(^^)
大変お待たせしました(笑)。
あの丘が前方後円墳だとしても、卑弥呼の墓とは言えないでしょうね。
ただ、とてもワクワクしました。
私はその鉄鏡が日田から出土したから邪馬台国は日田だって論法が疑問なんですよねぇ🤔むしろ逆なのではと考えます。
鉄鏡が埋められたのがいつなのかこそが重要なのですが、それが分かんないのですよね❓
タイミング的には卑弥呼が亡くなって墓に埋葬するとき副葬品として埋めるのが考えられますが、それだと卑弥呼の墓から出土しなければなりません。
ダンワラ古墳が卑弥呼の墓だというなら解りますが、どうやらそういう説はないようです。
台与の時代になって邪馬台国が移動した説を支持しますが、それなら鉄鏡は移動先の北九州地方から出土するはずです。だって、引っ越すとき所持品すべて持って移動しますよね❓
甕が出土するのは解りますが、貴重な鉄鏡が出土するのはおかしくないですか❓
そこが私の考える日田説の決定的な矛盾です☝
もう一つは、鉄鏡が卑弥呼の死後持ち主が次々と変わり最終的に日下部氏が持ち主になった説。これなら合点がいきます。
『卑弥呼に関連する品が出土する場所は卑弥呼時代の邪馬台国ではない』みたいなことを考えているので、先の台与一族の東征の話も面白いとは思いますが、正直う~ん🙄なわけです。
魏が「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を卑弥呼に贈った可能性を否定しにくいだけに、こういうことを考えざるを得ないのです。
正直、頭の中混乱してます😵💫だから、私が言ってることも的を外しているかもしれません。
ホントどうなんでしょうね❓考えることが多すぎて頭痛い。邪馬台国にハマったことちょっとだけ後悔してますよ😅アハハ
「考えることが多すぎて頭痛い」・・その通りですね。
でも出来るだけ頭を整理すると、少なくとも自分の考えには行きつけるのではと思っています。
おっしゃるように、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡がダンワラ古墳から発見されたからと言って、日田が卑弥呼の都だったと確定できる訳ではありません。
といって「日田説の決定的な矛盾」とも言えないと思います。
「最終的に日下部氏が持ち主になった説」など間接的なことを含めて、卑弥呼と日田に何らかの関係があったことは否定出来ません。
卑弥呼の最期の時は混乱期だったと予測できます。
狗奴国から攻撃され魏に救済を求め張政が渡来し最期の時を迎えるもその後また戦乱となる。
この時の状況は想像するしかありません。
私はこの時筑紫平野は狗奴国に占領されていたと思っています。だから卑弥呼はさらに東に逃れ、その鉄鏡は日田在地の首長に託された・・・
と考えています。
@@これはどうでしょう
まず、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼が魏の皇帝から賜ったものなのか❓という疑問から始まりますが、これは私も否定しづらいので卑弥呼のものという前提で話をしています。
次に、卑弥呼にとって鉄鏡はどういう存在だったのか❓
なんたって魏からの下賜品です。命より大切な物くらいに思っていたと考えます。
狗奴国との戦になるとき卑弥呼は魏に援軍要請をしています。援軍要請が必要なくらいヤバいと考えたわけです😱
まぁ、それでも援軍を要請するくらいの時間的余裕はあったといえます。
戦に備えてまず何をするか❓
もちろんたくさんやることはありますが、魏からの下賜品の避難は必須でしょう。避難先の一番の有力地は伊都国ですよね☝
戦場になりそうなところに置いておくはずがありません。
ちなみに、卑弥呼自身は兵の士気に関わるので避難できません。
貴重な鉄鏡です。失くしちゃった壊しちゃったなど絶対許されません✊😠
敵の手に落ちる可能性もあるのに戦の最中肌身離さずってのは不可解です。
ましてや、たかが日田在地の首長ごときに預けるってのもさすがに無理があるような気がします。
仮にそうだとしてその首長は鉄鏡をその後どう扱ったのか❓
敵が攻めてくるかもしれない日田に鉄鏡持ったまま居座ったわけがありません。当然安全な場所に持って逃げます。なのになぜ日田から鉄鏡が出土したのか❓
敵の手に渡る前に土に埋めて隠したというなら多少は納得したかもしれません。
0か100か答えを出せる人などこの世に存在しません。
0<x<100でしか話は出来ません。
邪馬台国論争は推理です。分からないことだらけなので想像が必ず必要になるのは言うまでもありません。
どう考えるのが素直な考え方なのか❓どう考えたら合点がいくのか❓矛盾を排除できるのか❓
そうすることによって真実に近づけるのだと私は思っています。
1800年前の人も現代に生きる我々も同じ人間です。考えることなんか大して変わりませんよ。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が日田から出土したのはどう考えてもおかしいです🤔
決定的という文字に反応されたようですが、度合いはこの際関係ないとして矛盾があるのは間違いないです。
そこは分からないので・・・とスルーしちゃうと矛盾が矛盾を生み出してしまうので、そこを推理で埋める必要があるわけです。
それをしないと、実は金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼が賜ったものじゃないのでは❓
いやでも、これほど貴重な鏡を賜る人物は卑弥呼しか考えられないし・・・だとすると・・・という無限ループです😰
やはり、どこかで矛盾を断ち切らないといけないようです。
そんな感じなので、どうしても私は「うんそうだね❗もう邪馬台国は日田で決まりだね👍😋」みたいにはならないんですよねぇ~(確定したわけではないことは理解しております。)
それと、筑紫平野が狗奴国に占領されたなら祇園山古墳の卑弥呼の墓説は完全否定されちゃいますね。
私は理系人間なので文章を書くことが苦手です。
理系脳はこんな風に考えるくらいに思っていただけたら助かります。
長々書いた上にかなり生意気申しました。申し訳ございません。
@@rino_japanese さん、あなたが「邪馬台国は日田で決まりだ」と思っていないことは理解しました。
ただ、あなたの推理の中に何一つ卑弥呼が日田に居たことを否定できる論拠はないとと思うのですが・・・
だからこの鉄鏡が日田から出土したことを「日田説の決定的な矛盾」とするのはどうかと思うのですがいかがでしょうか?
@@これはどうでしょう
私は日田説を否定していませんよ。
卑弥呼は日田にいなかったなんて一言も言っていません☝
邪馬台国は伊都国と近い場所に(半径100km以内には)あったと考えているので、その範囲内にある日田説に興味津々です。
ただ、肯定的になるには私が『矛盾』という言葉を使って表現した疑問が邪魔をしてしまっているといったところでしょうか。
邪馬台国の話はスケールが大きすぎるため、一点だけを見て安易に肯定や否定をするべきではないと考えます。
なので、日田説を肯定するも否定するも時期尚早ってやつです。
日田説が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を卑弥呼の所持品であったことを前提とするならば、それが卑弥呼と無関係なダンワラ古墳から出土した大きな不思議。
ダンワラ古墳自体よく解らないし今さら調べようがないのがツラいところですが、そこは何かしらの仮説で埋めないと話が成り立ちません。
それが出来ないと、終いには「鉄鏡は卑弥呼の所持品ではない」と考える方が自然だという話になってしまいます。(現にそういう説もあるようです)
私が日田説を否定するならそのタイミング以降になります。
一点に拘っていると大局を見失ってしまいます。
研究を進めていくうちに矛盾を解消するヒントが出てくる可能性もありますし、今その一点に拘るのは良いことではありません。
今回はその部分について、単に貴台がすでにお考えをお持ちなのか確認したかっただけで他意はありません。
日田在地の首長の話は聞かなかったことにします。
まったく想定していなかったツッコミだったゆえのインスタントな回答だったように感じました。
あのですね・・・私は誰かの持論を聞いて「それだ❗✊🤩」みたいになることはあまりないですね。
あくまでも自身で結論を出すための判断材料といった感じでしょうか。それゆえ振り回されてしまうこともたまにあるのですが・・・
最近、伊都国=糸島さえ怪しいと考えるようになりました。
あちらを立てればこちらが立たずみたいなことの連続で頭が痛い。これは『邪馬台国あるある』じゃないですか❓🙂
真意をくみ取ることが出来ず、失礼しました。
「鉄鏡が日田在地の首長に託された・・」は、取り消す必要もなく、謎についての可能性の一つです。
動画拝見しました。配信ありがとうございます。
卑弥呼の墓は魏志倭人伝の記述が頼りですね。
宇佐神宮の境内の亀山に卑弥呼が葬られているとする考えに魅力を感じます。
邪馬台国が九州にあったとしたら筑後川に近い日田の地で、土砂の運搬堆積作用で深く埋もれてしまったんじゃないか、なんてぼんやり考えていました。
小迫辻原遺跡も魅力的ですね。
最後の前方後円墳のような形の地形はおそらく自然地形でしょうが、面白いです。
上が宅地化されているのは、もともと起伏がなくて平坦だったからじゃないでしょうか。
そうかも知れませんね。
宇佐神宮の境内を掘る訳にはいきませんが。
ご存知のように筑後川は昔からよく洪水が出ているので、源流にも近い日田盆地の高台に卑弥呼を住まわせ、鎮める祭祀を行わせたのではないか、と想像しています。
あそこの住宅地は、確かに典型的な前方後円墳の形状ではないですがが、何とも言えませんね(笑)。
動画拝見しました。私も邪馬台国は吉野ヶ里〜日田ラインが怪しいと思い今は吉野ヶ里遺跡が見える場所に住み日田にも通算20泊ほどして探索しております。ただ私が怪しいと睨んだのは火山の存在からです。鬼界カルデラで一度全滅している以上いくら時代が離れているとはいえ火山を恐れていたと思うんですよね。卑弥呼は日巫女であり火巫女であったと考えています。伊都国の平原遺跡と吉野ヶ里遺跡に共通する大柱が日巫女だとすれば火巫女の役割を果たすには筑後川から三隈川を移動して日田が良いのではないかと考えたのです。火山を恐れていたならそこを越えることはないので。
別なアプローチとはいえ日田を調べて下さっていた方を見つける事が出来て嬉しかったです。
面白いお話ありがとうございます。
アプローチが違っても同じ結論に行きつくということは、ますます「怪しい」ということでしょうか。
それらがもっと集まれば、確証に繋がるのでしょう。
新しい探索結果が出たら、またお教えください。
@@これはどうでしょう 返信ありがとうございます。火山を知らない(火の神と崇める)民=邪馬台国と火山を知っている民=狗奴国=山鹿〜菊池〜阿蘇ラインより南、卑弥呼は鬼道を使う事より卑弥呼の墓の棺に使用した朱色は辰砂ではないか(辰砂=始皇帝→大陸と交流があった事も含めて)という事に着目して色々妄想しています。何か進捗があったらコメント致します。
卑弥呼の墓に朱があったとすれば、おっしゃるように辰砂でしょうね。
中国産かどうか分かりませんが弥生期の北部九州の王墓には大量の朱が使われていました。
以前見た中国時代ドラマで、医師が患者の傷口に朱を塗るシーンがありました。
@@これはどうでしょう 6月5日に吉野ヶ里遺跡の謎のエリアで発見された石棺の蓋を開けるようなので現地に行ってみます。現在見える所には朱色が無かったので卑弥呼の墓ではないと思いますが副葬品があるか楽しみです。
返信遅くなり失礼しました。
本日(5日)ですね。
楽しみです。
小迫辻原遺跡に比定する方も多いですが、弥生土器に加え、庄内式や須恵器も混同して発見されているので弥生から中世までの長期間、その地域の中心地だったのでしょうが、大規模遺跡と言えないことからなんとも微妙ですよね。
鉄鏡には目を引きますが、物は移動するもので、王墓級の墳墓が多数発見されているわけでもなく、決め手に欠けるように思います。
高杯が屋敷跡から出てきたと言ってもどこにでも出てくるものなので、特に卑弥呼を連想させる物でもない。
畿内5様式の甕が3世紀以前の土器と一緒に出てきたというなら大きな発見ですが、4世紀前期までずれ込んだとしたなら景行朝のヤマト王権の筑紫出征に重なりますので、そのあたりを詳しく知りたいと思います。
ご意見ありがとうございます。
確かに今回の動画で挙げた根拠は「決め手」ではないですね。
従ってこれで確定とは言えないと思っています。
しかし、小迫辻原遺跡で出土した土器類の整理に携われた久住猛雄氏たちの見解では、大きい方の居館跡(一辺36m)の時代区分は北部九州でのⅠB期、近畿との土器のクロスデーティングによると河内での庄内Ⅱ~Ⅲ式にあたることで、3世紀前半を想定できるとされています。
この話や鉄鏡の話は決め手ではないですが、当時の筑紫平野に点在した国ぐにを邪馬台国連合とした場合に、その王達が奴国の王とも相談して日の上る日田の地に日巫女を擁立してかくまい、祭祀をさせたと想像することは理にかなっていると思います。
@@これはどうでしょう ご説明ありがとうございます。
卑弥呼がいた場所の解明は、永遠にわからないと思うのですが、想像を働かせ考えるところに古代史の面白さがあるのだろうと思います。
引き続き、動画のアップを期待しています。
ありがとうございます。
自分の考えを探す、永遠の謎解き旅かも知れませんね。
今後ともよろしくお願いします。
魏志倭人伝には、和人は距離を言うときは日数で言うとあるので、水行く云々は和人流の表記の仕方ということになる。恐らくその起点は大陸側にあるのだと思います、
そうかも知れません。
私もだんだんそんな気がしてきました。
日田は、今、この漢字を当ててはいますが、訓読み日本語だとすると、一田の意味だった可能性も。
日田の盆地を俯瞰すると、盆地を蛇行した川が治水前の過去は、過去三日月湖を沢山作った森林だったものと思われます。
流れが変わったときにだけ、河原はススキ等の草が繁茂する湿地帯が生まれた。そこに当時の列島自生のジャポニカ種の稲も生えた。
川が蛇行する地の移動は舟による移動を知る群れの勢力圏に成り易い。陸の狩猟系の群れは川や三日月湖に阻まれ侵入が限られた。
自ずと、舟で移動する群れの拠点化する地に定着。自生の稲を口にする様に成り、種籾を撒く三日月湖を増やし、他の植物の繁茂を
抑制する半自然の「田」が形成されたのかと思います。更に収量を求め、三日月湖の中央部迄、深さを揃え、川から水を引き入れた
田んぼが完成した。深さを揃える土砂は三日月湖の周辺のものなので、田んぼの面積は拡がり、その地を独占する様になり、集落の
管理する縄張りが為される。縄張りの鳴子で、気付かれたタヌキやイノシシはおかずにされた。
『食料生産』は定住を許すことになり、集落を形成させ、同時に余剰食糧を交易品として行くことにもつながる。
その様な田んぼ農業文化発祥の地を当時より「ひた」と呼び、今日迄集落の血脈が続き、呼び名がつながったのかもしれません。
卑弥呼と邪馬台国が、日田の地にとの根拠にはなりませんが、古代においては特別な田んぼ耕作の発信地だった可能性は在ります。
追記します。
卑弥呼も、一御子、一皇子の意味で、名前では無かった可能性も考えるべきと思っています。
一御子なら、どの時代にも、どの地域にも、一人は居ることになります。交易し、言語融合が進めた勢力が「ひ」の発音には潜んでいるかもです。
「ひみこ」と「ひた」。
一(ひ)ということですね。
おもしろい可能性だと思います。
いつも楽しく拝見しております。
JR工事により消滅したダンワラ遺跡、
古墳の上に住宅地があり調査できない古墳、
なんかやるせない感が残ります…
主様のお陰で畿内説はないことがわかりましたが
何かがほしいですね。
九州でも世紀の発見出ないかな…
「世紀の発見」・・いいですね。
でも本当に出たら、楽しみは消滅ですかね(笑)。
待っていましょう!
小迫辻原遺跡に隣接して山田原(ヤマダバル)という地名があります。邪馬台の発音がヤマダだったと考えたら夢が広がりますね
ヤマダバル・・怪しいですね(笑)。
小迫辻原遺跡の北側が「山田」とありました。
コメント失礼します!
スーパー地図と言うアプリを使うと昔は平地が少なかったと分かりやすいですよ!
スーパー地形、という地図アプリでしょうか?
なんて仲良い二人なんだ!!
お陰様で夫婦仲はいいですね(笑)。
すごくロマンのある話ですね。現実には前方後円墳であることも卑弥呼の墓であることも可能性は薄いと思われますが、ただ卑弥呼がここ日田に立ち寄った可能性は高いと思ってます。場合によっては日田で亡くなったかもしれません。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡はそれだけ重要な鏡であるということです。他の人もおっしゃてるように当時の日本ではこの鏡はまず作れません。明らかに中国から渡ってきたものです。そして特別な人間しか手に入らないものです。この鏡は宝物ではあるのですが通常一目の触れるような場所に飾られるものではありません。また簡単に人にあげるような物でもありません。つまり、所持していた人と一緒に葬られるべき物です。だから日田で卑弥呼は眠ってるのではないかと考えてます。けれども歴史的遺物の少なさから日田は古代から栄えてた場所でもないような気がします。卑弥呼の前後は動乱期なので逃避の仮宮かもしれませんね。ウエストのうどんは福岡では比較的人気のある店舗です。私も博多うどんが一番と思ってます。
日田からはこれから色んな物が出てくる可能性を感じています。
???がいっぱいです。
私も博多のうどんが好きです。
50年以上前に食べた博多地下街の大福うどんの味が忘れられません。
ダンワラ古墳のすぐそばに日高大神宮なるちいさな神社があります。確か大神宮という名は直接天皇家にかかわる重要な神社にしか使えないと記憶しておりますが、あまりにも廃れており何故大神宮なのかわかりません。日高の日は日の巫女、高は高木神を連想します。また、古事記では邇邇藝命の名前は、天津日高日子番能邇邇藝命、彦火火出見尊は天津日高日子穂穂手見命、鸕鶿草葺不合尊は天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命で神武天皇の先祖はすべて日高を冠に付けてますね。なにか関係があるような気がします。神社の正面に何か龍のような文様が彫ってありますがこれは何でしょうね。
大神宮は確かにそうですよね。
日高見國は東国の出であるとおっしゃってる教授もいらっしゃいますが、これでいくと明らかに九州ですね。
日田の地がますます怪しくなってきました(笑)。
日田の地名の由来ですが、久津媛が訛って「日田」になったとしている。という説が一般的なようですが、何かすっきりしません。平安時代に成立した『和名類聚抄』では、日高郡とされてて、これが日田となったという説の方が説得力があります。(高木神は稲作をこの地に持ちこみ多くの田ができたので日田になったかもしれません。)日田のすぐそばには霊峰英彦山(日子山)があり英彦山神宮(ここも神宮です)の主祭神は天忍穗耳尊です。摂社に上宮、中宮、下宮があって日本建国の重要な神がすべて祭られてます。ダンワラ古墳は線路工事で破壊されておりここから鉄鏡が発見されされたといわれてますが、発掘場所すら特定できないため今となっては正確にいつの時代の遺物かも調査できません。日高大神宮の築造は恐らく新しいものかもしれませんが、この場所に何かしらの伝承があったのだと思います。日田は天孫族との繋がりが強い場所であったことは状況証拠から見て容易に想像できます。
天孫族と天津日高日子。
日子山と日田・日高大神宮。
お話を伺ってると、卑弥呼の話は置いておいても日田はただならぬ地のように思えてきました。
吉野ケ里は何国だったんだろう
すみません。
そこまで考察できていません。
卑弥呼様を探されてますか?吉野ケ里で文明の痕跡を調査されてますが、規模が小さいような気さえします。私も一度は日田かもと思いました。魏志倭人伝には、女王は鬼道を使うや女王の国の東の海を渡ると倭人の国がある。。(邪馬台国の東は海)また、ここまでが女王が支配する場所である と言うような記述があるようです。(日本全体を支配していたのではないことがわかります)色々と調べて、宇佐神宮の比売大神(ヒメオオカミ)だと私は思うのですが。実は宇佐神宮の元宮(奥宮)大元神社の山頂は禁足地となっています。九州国立博物館に昔の神社の姿が保管されてます。百体神社が勅使道にあったり、隣の国東半島には鬼を祀る文化もあります。ストーンサークルの跡や豊国文字(神代文字)の石碑(ここも禁足地)があったりと卑弥呼に限りなく近いのです。
卑弥呼さんが 「ばれたか~~」と ごぼてんうどんを食べながら いってました。
やまいちこく 山一国 山丸ごとの国ですよということでしょうかね?
ですかー(笑)。
やまいちこくなら、そうですね。
やまたいこくなら、山と台地の国かもです。
説得力のある動画です。まいったな。少し反論したいのですが、例の「女王国より東、海を渡るに千余里に黒歯国、侏儒国・・・」とすると、どうしても方角関係が合わないと思います。私は「黒歯国」は奈良方面の「お歯黒」という習俗が連綿と続いている国と考えているので邪馬台国近畿説は成立しないと思っていてうp様と同じです。箸墓古墳近傍から桃の種が数百個まとめて出てきたから近畿だとかいう人がいますが、当時は鉄漿ではなくて果物から作っていたとありましたから桃の種が出て当然と思います。侏儒国は小人の国ですが、神武天皇が宇陀の血原に討ち入る前に出会った土蜘蛛が小さいと記述があったやに思います。魏志倭人伝に近畿への地理を記述していたんだなあとおもいます。つまり「女王国の東」と書くには日田は山に入りすぎだと。水の便はどうだったんでしょうか。(無論トヨの時代だったら文句ないです。)やはり甘木朝倉扇状地の突端の河岸段丘の上から西に平塚川添遺跡あたりだったらその見当かなと。唐突ですが不彌国は宇美だと思います。遠賀川近辺には大きな国があったと思いますので遠馬国は、などと戯言を。mond
トヨの時代には、その都が宇佐などの瀬戸内海側だったのだろうと思いますが、卑弥呼の時代においてもそこは女王国の範囲内だったのだと思っています。
そう解釈しないと、「女王国より東、海を渡る」ことが出来なくなります。
凄いスケール、エジプトピラミッドと負けず劣らず。凄いとしか言いようがありませんね。もしこれが偉人の祭られているということはかなり位の高い人ですね。それは卑弥呼以外には考えるの難しいでしょう。神武天皇は東征する前だし一豪族、熊襲尊も同時代であればこれだけのお墓を持つとすれば、シャーマン卑弥呼になるでしょう。
あれが本当に前方後円墳なのかどうかは、今はだれも分かりませんが(笑)。
@@これはどうでしょう 実は私し熊襲尊が好きです。卑弥呼にとっては大きな壁かと思います。邪馬台国と敵対した中九州の王ですが、熊襲尊は邪馬台国とも対峙、日向の末裔奈良倭ともひざまずかず、まさに九州男児倭尊の卑怯な剣で不覚を取りましたことは誠に無念と云わざるをえません。
ヤマトタケルの残念な(卑怯な)逸話は、当時の賢い英雄の常識だったのでしょうかね。
私もクマソタケルに一票(笑)。
@@これはどうでしょう 先生の邪馬台国はここにあったは、畿内説を唱える考古学者の非常識説を証明するものです。私は日本に関する文明においても、世界4大文明説も縄文文明集落文明による世界的な文明発生の元となっていることを今調査しています。農耕種族、石器器具により文明と云うものを最初にきずいたのは1万年前の縄文時代からだと思います。なぜかというと4大文明は集落から他国干渉の発展形となっていますが、縄文は文明と云った基礎が自然に整い、独自の農耕技術を開発していることです。他の部族を侵害せず、お互いの秩序を尊重するような種族がよりあって新しい文明を築いたのは縄文時代の特殊な人間社会のように思えます。他の地区を侵害占領する世界観に、農耕、集落の規律はできないのではないかと思います。よって、日本に中国や韓国から文明をもたらせたとする考古学説も違うし、今のロシアによる他国を侵略するイメージとは縄文文化とは何か世界観が違うように思います。このことにより、邪馬台国畿内説はどうでもよいことです。考古学者には普通に考えてほしいと思います。
日田が江戸時代に天領だったのは、このことと関係あるのかも。
そうですね。私もそう思います。
日田市に財津町もあるし財津姓があります。日田氏の別れだとか書いてありましたが、財津氏は神武天皇以来の系図をお持ちになっていらして日田市に実在します。また於保氏というのがありましてこれは肥前国佐賀に於保神社などがありますが、これも神武天皇の子孫になります。日田という地名は古代史にはどういう位置づけになるのだろうと常々思っていましたが、これではっきりしました。安本美典氏も大田大六氏も触れていない新知識です。これはあなた様の手柄です。お名前を教えてください。
熊本出身の財津一郎氏は既に故人となられましたが、熊本の財津氏は日田の財津氏の別れた子孫です。mond
日田の地が「財津」だったとその意味を考えれば、面白いですね。
日田に卑弥呼がいたとするのは、まだ状況証拠レベルですが、自分でも面白い考えかなと思っています。
想像するに、筑紫次郎と言われた筑後川の上流部にあってその支流がことごとく集中する盆地ですから、過去には千年レベルの大洪水もあったことでしょう。町が一気に消滅した時もあったのではないか、そう思っています。
日田も宇佐も男の王なんだよ 1 なあ、たぶん。
隣の田川の採銅所や香春町、赤川、川崎辺り怪しいんだよなあ。鏡山神社や香春神社、古宮神社に行ってみて感じて下さい。私は東京から行ってきましたよ。
田川方面はまだ訪問したことはありません。
気になる遺跡は多いですね。
古代史探求楽しく拝見しています。「水行十日陸行一月」については帯方郡からの日程記事と解釈する説もあるようです。
帯方郡からの距離は「一万二千里」と記述されていますので、その日程を「水行十日陸行一月」と仮定すると割と納得感のある数字が出てきます。
水行に関する記述には「従郡至倭。循海岸水行」(郡より倭に至るには、海岸に循って水行し)「到其北岸狗邪韓国。七千余里」(其の北岸狗邪韓国に到る七千余里)、
「始度一海千余里。至対海国」「又南渡一海千余里。名日瀚海。至一大国」「又渡一海千余里。至末盧国」があり水行は「千余里」が単位とされているように見えます。
夜間の水行は危険なため、「水行1日」は「千余里」と見做されていたとすると、水行の合計は7,000(7日)+1,000(1日)+1,000(1日)+1,000(1日)=10,000(10日)となります。
「一万二千里」から「一万」を引くと残り「二千里」が「陸行一月」となります。
一月=30日とすると2000里÷30日=66.666里(1日)となり、1里=約78m(短里)とすると1日の陸行は約5.2Km。
途中国での休息滞在日を考慮すると古代の旅程としては妥当な気がします。また、2000里=約156kmとなり九州北部からは出るのは難しいように感じます。
その解釈は納得しやすいですね。
なるほど、なるほど。
そう考えると、投馬国は出雲や丹後の可能性も出て来ます。
@@これはどうでしょう
「女王国東渡海千余里。復有国。皆倭種。」と「東」に倭種の国有りと記述しているので、方角の「南」は邪馬台国と同じ方角になるのではないかと思います。
九州説で言われる「日向国都萬(つま、都萬神社周辺、現西都市妻地区)」が妥当な気がします。「官曰彌彌。副曰彌彌那利」は天之忍穗耳命や神武天皇(彦火火出見)、手研耳命、神八井耳命、神渟名川耳尊などに「ミミ」つくことや天照大神が最初に葦原中国の平定を命じる国はそれなりに有力な国であったので、魏志倭人伝でも邪馬台国の前に5万余戸の国として記述したのではと想像します。ただ、西都市周辺だけで5万余戸は難しいので宮崎平野も含めて考えないとこの説は成り立ちません。
私も本編動画中で、都萬神社周辺が投馬国の可能性もある、としています。
ただ3世紀のこの地方にそこまでの国があったのかまだ検証が必要で、おっしゃるような帯方郡が水行20日の起点であるとすれば、南という方角は西日本どこも成り立つような気がしています。
出雲王権に伝わる伝承ではその初代王が八耳王と言われていましたので、彌彌もそうした王を指すのかも知れません。
何せまだ闇の中です(笑)。
久しぶりにお邪魔します。以前ほかのページでお話させてもらった者です。最近は大分・日田で発見された鏡に再度興味を持ち、ウィキペディアの記事を見て、なぜこれだけの鏡に注目が湧いていないのか不思議で、このページにたどり着きました。鏡については4~5年前に、中国の専門家によりX線調査の鑑定が実施されています。その結果、三国志の英雄で魏の礎といわれる、曹操の墓に供えられている鏡と、ほぼ同形式であると鑑定されました。皇帝クラスに贈られる超貴重品で、これがなぜ、九州にあるのか? 卑弥呼(邪馬台国)への贈り物か?と、かなり騒がれたことがあります。弥生時代中期の鏡といわれ、日本への上陸時期はまだ不明ですが、現在の日本にある中国の鏡では、最高級品でしょう。はっきり言えば、100枚贈られたと言われる、卑弥呼の鏡より数段価値が上でしょう。発見される順序が逆ではと思われます。曹操の鏡より価値のある物は考えられず、これがもし畿内で発見されていたら、大騒ぎが続いているでしょう。私は邪馬台国連合という考え方で、北部九州説派です。大分は現在でもトヨの国と言われており、卑弥呼の後継者の名前も同じトヨで何か縁を感じます。こんな貴重な鏡の送り先は、大事な同盟国と思われ、スポットがあまり当たっていないのが不思議です。
それと最近は畿内説者と論議する場合、九州説の物証を羅列するより、魏の使者が何の目的で日本を訪れたか? この論理を説明すのが一番効果的でした。これはNHK地デジ番組で放送されたもので、見た方もいらっしゃるでしょう。当時の中国には、しっかりした歴史書があり、魏は周辺国と緊張状態にあったと言われています。そこで魏の敵対国に対し、背後から牽制するための、軍事同盟を結ぶ目的で日本に来たと考えられています。これで分かりますが、はるか遠く、いざと言う時に全く間に合わない近畿には用がありません。まして海を渡ってすぐ、豊富な鉄を持ち、絹を生活で使用している強国が有ります。これでは、はるか遠方の田舎(当時の纏向)に行かないでしょう。当時の中国の世相では観光や経済交流する状況ではありません。この論理を問いかけると、反論や返信がピタリと止まります。物証発見には可能性という逃げ道がありますが、論理に逃げ道は無いでしょう。
くれぐれも御身体にご注意してください。
お久しぶりです
おっしゃること、すべてごもっとも。
TVでの内容、
「軍事同盟を結ぶ目的で日本に来た・・・いざと言う時に全く間に合わない近畿には用がありません。」
さらに、ごもっともです(笑)。
@@これはどうでしょう 様
最近久しぶりに色々なページにお邪魔しています。阿波説を語る方との論議でも、纏向は無いことは一致しています。多くの人(私の知る限り3名の発掘学者も含む)が、纏向は邪馬台国では無いと言っています。もちろん何年発掘しても、何の具体的物証が出ないので、当然の結果と思います。そこで畿内説は新たな候補地を、どこにするつもりでしょう? この前見た畿内説学者の一人は、まだ纏向遺跡にしがみ付いており、見識を疑いました。もう一人は纏向を本部とし、北部九州との連合国家だったとチンプンカンプンな事を言っていました。どこの国のどの時代にも、本部が出先機関より軍事・文化で、はるかに劣る事はありません。こんな方が本当に学者なのかと、情けなくなりました。私はもう東遷・東征を考える時期なのかと思案しています。
6月5日 吉野ヶ里 謎エリア 日吉神社跡地の石棺 開きますよ~
何がでるかなぁ~(^^)
お久しぶりです。
九州にいらっしゃると、こんな情報にも出会えるんですね。
何が出たか、速報お願いしまーす(笑)。
ネットニュースで見ました。
金印? 卑弥呼の朱?
出るかなあ😃ua-cam.com/video/lPHXPZhPMXo/v-deo.html
@@これはどうでしょう Mr.吉野ヶ里の高島忠平氏は常々『吉野ヶ里は邪馬台国でない』
『甕棺墓の被葬者は渡来系』と仰ってますね~
やはり
徐福=ニギハヤヒの物部王国
筑秦国=筑紫国
歴代の誰かの王墓かと。
秦氏系 『日吉神社』で隠匿してるなら?
面白いですね~(^^)
赤色かぁ~ 鉛丹なら卑弥呼?(^^)
確かに吉野ヶ里は、連合国の主要国だとしても邪馬台国ではない、ですね。
私も「卑弥呼は日田にいた」と言ってました(笑)。
徐福の謎を解かないと、先に進めないか!
ところで、日田駅前のホルモンチャンポン食べました。
美味しかったです。
ただ体調が万全でなかったので、ちょっと胸やけしました(笑)。
@@これはどうでしょう 食べられました? 味濃いですもんね~(^^)
報ステでも吉野ヶ里が。邪馬台国か?!!盛り上げといて
『あ~、ヤッパリ巻向がぁ』の流れが見え隠れ(^^;)
先日 豊の国の神社 遺跡巡りしてきました。
宇佐神宮の元宮?の中津市 大貞八幡宮薦神社は内宮が 何と三角池。
案内板には 『渡来人による造成』
中津市は遺跡が数多くあります。
動画にも登場 宇佐赤塚古墳の横に名も無い溜池があり
古墳群の中央に『大池』
『溜池灌漑』中世にも造られた様ですが現代ではポンプの普及もあり今残るのは古代人による造成が主とか。
で、Googleマップでズーム。
宇佐から中津市~北九州に多くあるも大分市には無く。筑後ちらほらも熊本には無い。
四国では阿波に少なく讃岐密集。
驚くのは国産み 伊弉諾宮のある淡路島 小さい溜池の数が!! ビックリ(゚o゚)/
対岸 明石の稲美町 名の通り 数多の溜池が。
後の中央 大阪と奈良は想像通り。
最後まで水稲を拒んだと言われる諏訪にはないですね~。
丹後には少ない事から人の移動を妄想しています。
ゲノム解析で唯一 九州で弥生人の分布が多い豊の国。
先述した『敷葉工法』等で大和を制したのか?
古代に豊を冠する神や大王が多い理由がここに?
結論 『邪馬台国かは分かりませんが豊の国から大和に東遷したかも?』
です(^^)
最近、日本の古代史が気になって調べているうちに、たまたま見かけました。 きちんと整理された説明でとても分かり易く、もっと知る人が多くなるといいなと思ってます。
今のところ、「これはどうでしょう」さんの仮説が一番納得感があります。 魏志倭人伝の水行の数字の矛盾に思える記載に関してはとても気になっているのですが、歴史倶楽部さんの、「弥生時代−魏志倭人伝前編、後編」で説明されている、著者の陳寿の政治的立場や時代背景からの洞察が一番説得力があるように感じました(今のところ)。ua-cam.com/video/RnFc8WVVwtM/v-deo.html
ありがとうございます。
ご示唆頂いた動画は長編のようなので、時間ある時にまた視聴させてもらいます。
今後ともよろしくお願いします。
航空写真での古墳発見、鳥肌立ちました・・。
あれが前方後円墳だったら、ホント凄いことになります🎵
古墳だとしたら、250メートルの直径になりますよ。倭人伝には径百余歩で、150メートル(左右歩で一歩と見た場合、そうでなければ、80メートルくらい)くらいですよ。
大きすぎですね。それに卑弥呼の古墳は円墳ですからね。ちょっとちがうかな。
おっしゃるように私も卑弥呼の墓ではないと思います。
ただ九州に関して考えると、卑弥呼の時代の後、どういう状況だったのかは記紀をみても断片的にしか分からないので、日田に巨大な前方後円墳があったとしても不思議はないとみています。
日本の神話のモデルに なっている地域ですかね!❤
猿田彦が、治めていた地域だと云う 話は聞いたことが有ります😊
猿田彦との関連もありうる訳ですね。
猿田彦が九州山地一帯を治めていた「山の神」であれば、邇邇芸命が降臨した時に猿田彦が案内して、さらに南部の高千穂に天孫族を招いた筋書きも見えそうです。
天孫降臨の地について考えてみました。一般的な解釈としては筑紫も日向も高千穂もクシフルタケもすべて地名として考えられ、その読みからどこであるか比定しようとされてるようです。しかし果たしてそうでしょうか?天孫降臨は神話の世界です。その物語に〇〇県〇〇郡〇〇町みたいな具体的な地名で場所を表すでしょうか。その方がむしろ違和感を感じます。この記述は形容詞がふさわしいと思いはじめました。では、形容詞として読んだ場合意味が通るかどうかです。記紀には、”竺紫日向の高千穂の久士布流多気に天降った。”と書いてあります。
まず”竺紫”は九州のことを筑紫州と呼び、4つの国(筑紫国、豊国、肥国、熊襲国)で構成されてると記紀に書いてあるのですから筑紫国のことで間違い無いと思われます。逆に言えば当時はまだ日向国は熊襲国の一部と考えられるので宮崎や鹿児島ではないことがわかります。次の”日向”は形容詞の日に向かうで、東の場所もしくは太陽に向かうという意味となります。その次の”高千穂”は稲がすくすく育った緑の田園地帯を表します。”久士”は古くからの、“布流”は広く世間に行き渡ること、”多気”は豊富な食べ物がたくさん採れる場所と百科辞典で調べるとあります。つまり、”竺紫日向の高千穂の久士布流多気”は、現代語に訳せば ”筑紫国の東にある古くから食べ物がたくさん採れる場所として知れ渡ってるところ”に降臨したとなり充分意味が通ります。なので古くから稲作が行なわれ稲のグリーンベルトが広がった場所ということになります。
この場所は筑豊地方ではないでしょうか。遠賀川流域は稲作の始まりの地と言われ、筑豊地区の筑穂、穂波、嘉穂、稲築という地区は神功皇后が三韓征伐から凱旋して大分宮へ帰られたとき稲穂が青青としている様をみて「美しき穂波かな」と言ったことからつけられたとされています。また「韓国に向かいて笠沙の御前(岬)に真北とおり、朝日のただ刺す国、夕日の火照る国」という形容は、弥生時代は、遠賀川下流は湖面のように幅が広く夕日が湖面に写し出される様子を言ったものではないでしょうか、東は朝日を遮る高い山はありません。さらに韓国に向かって船出したと思われる宗像「膂宍(そしし)の空国(むなくに)を頓丘(ひたお)から国まぎ」とおって,・・・以下略 にも猿田峠を通って行ける近い場所です。ところで添田付近の赤村と津野地区はかつて「正勝吾勝」の吾勝をとってかつては「吾勝野」と呼ばれていました。そうです天忍穗耳尊の名前に付けられてますね。すべて、日田(英彦山)から繋がってると思います。考古学の見地からも3世紀の遺跡が多くある古い遺跡の多い地域みたいですね。長くなりすみません。
天孫降臨そして神武東征。
日本の古代の歴史の中で、最も重要な謎かも知れません。
それがいつなのか、何処なのか?
「竺紫日向の高千穂の久士布流多気」が地名ではないという観点は、ナルホドと思いました。
今残る地名、故地は後付けである可能性さえあります。
神話に出てくる地名で、魏志倭人伝と共通する固有名詞は、台与と豊くらいしか思いつかないので、神話の舞台は邪馬台国の時代の後なのではとも思ってしまいます。
ご教示ありがとうございました。
後世の人は過去に書かれた文献を読むことができます。そしてその内容を元に勝手に名付けることもできます。現在でも卑弥呼生誕の地は日本中にありますね(笑)。でも天孫降臨の地が宮崎や鹿児島でなければならない理由については一切不明です。だから単純に現在の地名から判断することはできないのではないでしょうか。漢字は発音と意味を同時に持つ言語です。原文の漢字の持つ意味をもっと重要視すべきではと思ってます。でも天孫族の一派が宮崎や鹿児島に来ていた可能性は十分にあると思います。そこから天孫降臨と結び付けれられたかのかもしれません。また、宮崎や鹿児島の天孫系神社の主祭神は天照大御神ではなく大日孁貴が多いようです。このことからこれらは別の神を祭ったものではと疑っております。邪馬台国と神話の時代のクロスポイントは忍穗耳尊の時代あたりではないでしょうか。
その通りかも知れませんね。
天照大神の祀られ方は、不思議が多いです。
7世紀のヤマト王権にとってどんな存在だつたのか、妄想は膨らむばかりです(笑)。
古代日本においてはそれぞれの国で独自の神を祭っていたと思われます。それらを統合してできあがったのが天照大御神ではないでしょうか。初期の大和朝廷は各国の有力諸侯が合議制で作った国ですので当初は国をまとめるのに必要な存在であったはずです。ところが崇神天皇の時代に変わったと思います。天皇家への権力集中を行うには、同一の祖神が幅を利かせては天皇家もその一豪族でしかないわけで都合が悪い状態となり、天照大御神は大和から離れて遠くに追いやられたのではないでしょうか。物部の祖神である大物主(ニギハヤヒ?)も過去の神としてうまいこと三輪山に葬られました。そこから前方後円墳が巨大になり天皇家の神格化が始まったのではと思ってます。伊勢神宮より天皇家の直接の祖(応神天皇)である宇佐神宮の方が重要視されるのはその由縁からではないでしょうか。
ありがとうございます。
そういうことが初期の大和で起きていたのだろうと私も思っています。
箸墓造営期のヤマト王権のあり様を解明することが肝要ですね。
ただその中で、記紀でいう大物主の本質は未だに確信が持てず、出雲系の神なのではと思っています。
三輪山の奥津磐座を実際に見たことがありますが、「出雲王国」の古い王墓のあり様と類似性があるのではと思っています。
ありがとうございます♪私も日田にもいたと思います。女王の連合国ですね。
共感頂き嬉しいです。
ありがとうございます。
日田は十分ありえると思います。当時の有明海はいまよりだいぶ置くまで入り込んでいたので日田も今よりずっと海が近いし。交通の要所ですしね。
そうですね。
重要な場所だったと思いますね。
誰も誰か?宜保愛子さんに霊視依頼してないの?卑弥呼探す人ならするかと!忖度の集大成では決して見つからんやろ!ツタンカーメンは叔父に毒殺されたと言われてましたね😂
FBI御用達の透視家を連れてきて、卑弥呼の墓を探させるTV番組は、昔見たことがありますが。
すみません😢
スーパー地形でした!
いえいえ、有り難うございました。
ただ、有料アプリみたいですので必要な時に試してみたいと思います。
卑弥呼はシャーマンですよね 弟が出された言葉を伝えていたという事であれば その存在は
あちこちの古墳で卑弥呼の存在を発せられていますが では弟の存在も最も大切ではないだろうか
そういう弟の存在であるならば 弟の墓もあっては不思議ではないはずだが それはどこにも
見当たらないし 名前すら知らない どういうことなのだろうかと思う 考えるに、この二人の
存在はなかったものと考えてしまうのが自然だと考える この名前が出てくる根拠は
シャーマンを行う人たちが卑弥呼と考えるのが自然だと思う その根拠はあちこちで、ここではないかと
発しているからで そんなにあちこちで云われる存在の人物ではないと考えるし また出ていかないと思う
そのような理由から シャーマンは全国的に存在するので総称の人物の事を指すのではないかと思いますよ
卑弥呼の墓がここにあったと、あちこちで騒いでいるのは現代人だけだと思います。
日本の史書には当時の記録が残っていません。
@@これはどうでしょう 卑弥呼の墓発見と
云えば現代では大きな宣伝効果がありますよね 利権がらみが狙いなんでしょうね
利権絡みかどうか知りませんが、皆さん地元愛が強く、知事さんもPRしたいのでしょう。
鉄鏡の発見で邪馬台国論争に加わりました。
鉄鏡は動く物なので決め手ではないと思いますが、一つのストーリーは提供してくれていると思います。
前方後円墳は、すべて卑弥呼の墓から、却下でいいと思います。
時代が後ろだからです。あと、「円墳」または「方墳」で探すのがいいかなと思います。似た時代の平原遺跡は方形周溝墓といいますが、ざっくりいうと、ちょっと丸みのある方墳です。ただ、玉依姫に比定されていて、三種の神器もでているので、皇室の先祖だと思います。
サイズは、30mくらいでそんなに大きくなく、殉死者が100人いるので、近くに別の墓があるはずです。
卑弥呼、邪馬台国は、「縄文人国家」「海に出やすく温かい土地」「真珠、朱、青石、絹が取れることが必須で、牛馬はおらず、カササギもいないこと」が地理的条件になります。
そして南部に別の国があるくらいの隙間があることも条件ですね。
これを全部満たせるのは、四国しかないのですが、別に今の都道府県と同じわけはないので、瀬戸内海の山陽地方の一部や、大分の一部が含まれていてもいいように思います。
あっ、邪馬台国四国説/青石について、他のコメントに返信してしまいました(笑)。
青石は違うと思うんですが。
卑弥呼の墓は、祇園山古墳か宇佐神宮境内が有力候補かなと思っています。
邪馬台国はヤマト国と発音して、現在の奈良県を指しています。
初代神武天皇が紀元前60年に橿原神宮で即位されて以来、長い間奈良県に歴代天皇がいらっしゃいました。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
これは面白いです。
まあ、鏡1枚じゃあ話になりませんが、ただ、大分は邪馬台国四国山上説の次くらいに、大分は条件が満たされている気がします。
日田だと、ちょっと内陸すぎかなあと思います。邪馬台国は完全に海洋国家だからです。
ありがとうございます。
ただ、邪馬台国=海洋国家だから・・には少し異論があります。
魏から見た卑弥呼は倭人の国を束ねる女王であり、その倭人の国々=邪馬台国連合国が、伊都国、奴国を包含する海洋国家なのだろうと解釈しています。
あと一つ。
邪馬台国四国説がよく持ち出される「阿波石=青石」ですが、これは青玉にはあたらないと思います。
中国では今でも「玉」は翡翠のことを指します。