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かつて、清盛が頼朝を助命して伊豆に流していたが為に平家は源氏によって滅ぼされた。「同じ過ちは出来ぬ!」と言う覚悟の上での、国松への処断だったんだろうな。
家康のバイブルは頼朝だったので。そう思います
実際、豊臣はきっちり滅ぼしたから徳川に歯向かうことはなかったけど、関ヶ原で仕留めそこなってお家も処罰できんかった島津が後々力を付けて幕末に薩摩として倒幕に動き出すのを見るに、敵は確実に滅ぼさなきゃ子々孫々に脅威となることは必然なんだと思う。
そうですね。そういえば毛利もノラリクラリで逃げてしまいうやむやになって260年後に…。
確かにそうだけど、幕末期の動乱は異国の日本進出とそれに対する幕府の対応がきっかけだからまた別なのでは?徳川家に温情のある土佐山内家でさえも最終的には反幕府側に付いていた訳だし。
幕末は確かに,どの藩が倒幕に向かってもおかしくなかった。
まあ島津は、たまたま大阪に居たから巻き込まれたって感じけどね味方しないと〇されるから仕方なく参陣しただけ井伊直政をやってしまったのは、彼がヤル気マンマンで追撃してきたからだ
島津と毛利はどっちの味方もしなかったんだよな。
18:28市中引き回しって馬で引きずり回す処刑って意味じゃないですよ…縄で拘束した罪人を馬に乗せて「こいつはこんな悪い事をした人間ですよ!」って晒し物にして町をぐるっと練り歩く事です市中引き回しの事をよく西部劇のガンマンがやってる馬で引きずり回す処刑と勘違いしてません?
完全に、馬か何かで町中を引きずり回すと勘違いしてますね(´∀`; )
別にそうゆう意味で絵をのせてないでしょ 馬引きの刑とは別だしわかりやすく載せてるだけじゃないの?
俺も市中引き回しを勘違いしていると思う。これ、勘違いする人が多いんだよね。
それでも残酷だと思う。馬に乗せられて引き回されていたとき、どんなに恐ろしかったか。
@@estorive6111別に残酷かどうかの話は此処ではしてないぞ
子供に罪は無いけど、周りが担ぐ大義を断つのが目的。
アニメ一休さんでも先輩の子坊主が将軍義満と敵対してる勢力に担がれて寺を出ていくエピソードありましたね。一休さん自身も南朝方なので義満とは危うい関係なんですがね映画宮本武蔵 一乗寺の決斗(1964年)でも武蔵は吉岡一門と決闘の際、名代として担がれた12才の吉岡源次郎を戦略として倒してる
そりゃあ子供だからといって見逃したら後で脅威になる可能性があるからな。単に自分の保身というだけでなく色んな人が戦禍に巻き込まれる可能性があるし、戦乱で国力が低下したところを外国に付け込まれたら目も当てられない。悲しいけど仕方ないね。
但し一介の奉行に過ぎず担ぎ上げられる恐れのない三成の子孫は全員助命してます
国家間においても、同じですね
@@たかゆき-u9w 北条時行もかなり鎮圧に手こずったからね。
@@山城弾正さんへ石田三成の娘は津軽藩藩主津軽信牧の正室に、息子は津軽藩の家老になりました。
主さんが如何に真田昌幸信繁親子が大好きなのかがよーく伝わって来ました😂
家康が冷酷すぎるとも見えるかもしれないけど、こればっかりは仕方ないことなんだよね…仮にも源氏の子孫を名乗ってる徳川だけど、その源氏が過去に幼い子供だからという理由で助命された頼朝や義経の活躍で情けをかけた平家を滅ぼしてるから、ここで国松を生かしてたら今度は徳川家が平家の二の舞になる危険性もあったワケだし…多分、家康も自分の孫よりも小さい子を処刑するのは躊躇したと思うけど、だからこそ若い秀忠では無く死期の近い自分が最後の汚れ役を担うつもりだった可能性…
家康も最初から豊臣を好きで滅ぼしたんじゃないのよ。全ての元凶は淀殿ですな。淀殿が徳川に素直に従っていれば滅亡は確実に免れた筈。
この時代の武将はみんなこのくらい普通にやってる
北条時行が足利と戦ったみたいに徳川への対抗の最後の希望みたいになって欲しかった
国松処刑は絶対必要だった豊臣の子孫ってだけで江戸幕府にとって最重要危険人物成長すれば天草四郎や由井正雪なんかとは比べ物にならない乱の主導者となる可能性があるリスク管理は大事だね
平和を守るためには、豊臣家を絶滅させる必要があった。
秀吉も浅井長政の嫡男で10歳の万福丸を信長の命令と言っても処刑している男児は処刑は当時の武家の慣習だった。しかし豊臣秀頼の娘は出家して尼にしたと言っても処刑は免れたしまだ当時としては温情がある方だろう一方で家康は、室町幕府の流れをくむ喜連川藩には寛大な立場も示したし自分に従うものには家康は寛容な姿勢を示してもいるな
そんな国松の父秀頼・・・自身が誕生したことにより義兄秀次は一家もろとも非業の粛清を断行された・・・女子供容赦なく(最年少1才)数十名の連座
アレはホント秀吉がトチ狂ったが故の凶行だよな。秀吉薨去時に秀次が存命だったなら徳川に政権を奪われることはまず無かっただろうし。
因果応報・・・
石田が秀吉を諌めて秀次をして切腹させず許させる器量があれば徳川は天下とれなかったろうに。
まだ一緒に暮らしてなかった駒姫まで斬らせたのはあたおか。無駄に敵を増やしただけだった。
@@北田義和それをやったら三成が関ケ原じゃなくあの時点で殺されて、もっと抵抗少なく徳川の天下が早く来るだけ
信康を手にかけて、すべてが変わったのかな家康公は。
ライオンはボスライオンを倒すとその子ライオンを殺すそうです、すると母ライオンが発情して子孫を残せるそうです
圧倒的に怖い母ライオン
家康に江戸を与えたのと250万石に加増して朝鮮出兵を命じなかったのは自分の天下を家康に渡しても仕方ないと思っていたとしか思えないぜ。秀吉が秀頼が生まれた頃にはボケ始めていたに違いない
秀吉は信長が死んだ後、信長を裏切り、家康は秀吉が死んだ後秀吉を裏切る。正に歴史は繰り返す
秀吉は信長嫡流の秀信生かしてるんだけどね...一方の家康は完全な族滅...
6:41 宇喜多秀家は後に許されて本土に戻ることを許可されたけど本人が八丈島に留まったんじゃなかったっけ
秀吉公も秀次一家を皆殺しにしたのでまさに因果応報かと。禍根を残さないためにも根絶やしにするのは最善の策ではないかと思います。
禍根を断つことは太平の世を築くためには非常に重要。ただその相手はピンポイントに吟味して行うべき。秀次の件は本人もしくは100歩譲ってその家族までなら理解できるけど流石に無関係の侍女まで処断した秀吉は明らかにやりすぎた。
秀次の件があるから本当に秀吉は自業自得だ禍根を残さないのは源頼朝、義経の例があるので男子は例え赤子でも致し方ないけど奥方や娘まですべて犬コロのように処刑したのは極悪非道としか言えない石田三成も止めるどころかそれを執行したので同罪だ
@@成田正哉 しかも正室北政所は勿論、基本的に秀吉に逆らわない石田三成ですら秀次処刑に猛反対したのに其れ等を無視しての強行だからなぁ。
敢えて根絶やしの失敗例として挙げるなら 「ハマスは根絶やしだ!」でガザ地区の民間人まで4万人も殺して周辺アラブ諸国敵に回しまくってより危機的状況に陥っているイスラエルかな
@@究極の救連皇 決行されて三成は「これで豊臣家は立ち行かなくなる」と思ったかもしれませんね。寧々さんと三成が豊臣家のことを真剣に考えていた人材だったと思う。
秀吉の子孫、国松(ゆっくり解説の8歳の子)は大坂落城後、真田大助たちに守られ四国路を通り薩摩に逃れ、島津家重臣の伊集院兼貞にしばらく匿われていたが、後に豊後国日出藩に移り、初代藩主「木下延俊」の次男として入籍後、幕府に届けられ、木下縫殿助延由(きのしたぬいどのすけのぶよし)を名乗った。延俊の遺言により藩領3万石の中から5千石を分与され、支配陣屋を立石に設け、正保元年(1644)国松こと延由は参勤交代を義務付けられた交代寄合旗本衆に列せられたという。立石領は木下家12代で幕末まで続いた。木下家菩提寺の長流寺には延由の位牌があり、裏面には木下縫殿助豊臣延由と記されている。幕府は隠密などの報告により延由が国松だという事を知っていたが、大坂落城から30年以上が経過し、秀頼のことも国松の事もほとんど風化していたのでわざと見逃していた上に交代寄合旗本衆として待遇していたという。
仕返しに 立ち上がったら また 戦になる
豊臣家が一大名として生き残る為に徳川家に対して臣従する判断を淀君が出来ていたら豊臣家が存続出来た可能性があると思います。北政所ねねの様な思慮深さと器量を備えていなかった事が淀君の悲劇
一応淀殿最終的には妹のいる江戸に行くこと乗り気だったみたい。ただ結論出せたのがすでに開戦決まった手遅れのタイミングだったけど。実際の淀殿の性格は昔のイメージより氏政タイプで、優柔不断で自分で決論をなかなか下せない性格みたいで、家康が大阪出たときも自分はどうしたいいかわからないから戻ってきて欲しいと手紙送るほど依存体質だった。ちなみに家康がいなくなってから頼りだしたのが信雄や有楽斎。
そうですね、そんな歴史も見てみたかった。
どうやろ…どっちにしろ家康は豊臣滅ぼしてたと思う
@@kfc9754 その可能性はありますね。仮に一度改易され、大名復帰したとしても、淀君がしゃしゃり出て来てしまえば可能性ありますよね。ただ、国替、減封、官位の剥奪、大阪城という豊臣氏の象徴を取り除き、浪人の解散、目付をつけて置くだけでも充分だったのではないかと思います。その上で、豊臣氏が生き残った歴史を見たかたった。改易後に復活した所もありますしね。
完全に従う意思がないと難しいと思います。大坂城を出ないと難しいと思います。あえて昔の城の字で書きました。
おそらく秀吉は種無しだったから、現実には秀吉の子孫じゃないだろうけどね
私もそう思います。だからこそ生かしておかなかったんだと思います。
@@masa-p3x 淀殿、どこぞのイケメンの僧侶と付き合ってたとか言われてるしおそらく…ただ、秀吉の子供じゃなくても秀頼が信長や浅井長政と血が繋がってるのは間違いないですよね?
@@赤山靭負だからこそってことは、実の子なら生かしていたってことですか?
@user-wu7bz1tt2x家康は豊臣を存続させようと苦心していた説がある。それが真実なら秀吉の実子を生かしておいてもおかしくはない。
秀吉、性病て言うやん!種無して関係してるのかな?とりあえず、奥さんはともかく、正室て負けたとこから連れてこられたみたいだから迷惑!!女に意地汚いねん!!
あっさり斬首だから「残酷に」とは言えないだろ?と思ったけど、他のコメントで「馬で引き回し」を誤解しているのではという意見で納得。
千姫の産んだ子なら 助命される可能性もあったかもしれない…
女子だったらそうなったかも知れませんが、これが男子だったら、たとえ千姫の産んだ子であっても処刑したでしょう。
@@AtsushiMizobe 天秀尼が助命されてるくらいだから、女子なら100%助かったでしょう。男子でも 家康にとって女系とはいえ 血の繋がった曾孫になるので ○さないと思うね🤔
秀頼と千姫の間には男子と女子がひとりづついたらしいけど男子の方は処刑されました…。
@@maskon-r6j 千姫の産んだ子ではありませんよ🤭 もっと勉強してから コメントした方が よろしいかと🤣
@@イトーヨーcardそうですね。権力を奪った上で、高家や、公家といった所で、一応は存続できた様な気がします。最悪、出家かなぁ
徳川家に余裕があれば三国史の覇者になった司馬氏が蜀の劉禅ら三国の君主を貴族として生かし続けたように豊臣家の子孫も生かしてやれただろうが、徳川幕府初期はまだまだ天下は回り持ちという思想が強く、伊達・前田・島津・毛利などの雄藩も健在、秀忠は政治家であるが戦争は下手だから家康死後に大乱が起これば…という「恐れ」があったんだろう。
秀吉の弟である木下家は幕末まで存続している豊臣という家名に対する戦国作法としての処分だったと考えるがね今川やらの名目は大名として破れても血縁の家名は残してるのも武家流の習いであろう
子供でも生かしてはおけないってのはわかるんだけどなんでわざわざ残酷な市中引き回しを選択したんだろう当時の人の価値観はわからないけど子供が苦しめられる姿を見て心証を悪くした民も少なからず居たんじゃないだろうかそれとも時代の変化を示す為にインパクトが必要だったって事なのかな
「あいつはもう捕縛したし、死ぬ」ということを知らしめる、つまり「まだあのお方は生きている」と言うなどして扇動する者をなくす必要があるという判断の上ではないでしょうか。
流石、日本の司馬懿、家康公、禍根を絶つのは徹底している
曹爽一派を族滅するところもそっくり。
国松が殺されたのは当時であれば仕方なかったかもしれないけど、女児は生かしたのは家康らしい配慮と言えるかと。まな真田幸村の戦いぶりは勝った東軍の武将たちによって伝えられ、江戸時代はすでに英雄。軍としては負けたけど、その功績が後世に伝えられた武将としては勝ったと思います。NHKヒストリアの信繁回は号泣しました
平清盛は源氏との合戦に勝ったとき、源氏の血筋を絶やそうとしたけど、継母に懇願されて源頼朝たちを生かしたその頼朝に平氏は滅ぼされることになる……家康公は先人から学んだのではないだろうか
家康は吾妻鏡が愛読書だったらしいからな。
いいとこの子て仕えてる人達がこっそりと他に預けたりして貰われて行くから絶えるってないんよな!!相手方も多分、分かってて見逃してると思うで
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶということでしょうか。
目をつぶって、念仏を100唱えなさい、って言っている間に斬首されるというのは有名だよね。
淀君を娶るまで誰も孕ませることが出来なかった秀吉が急に子供が出来るはずもなく明らかに他人の子でしょう、つまり秀吉の子孫ではない、
平清盛の二の舞はゴメンだよね、そりゃ。自分が家康の立場でも同じことする。
北条時行とかも面倒だったな。
楠木正成の子孫も。
@@室井修-k1rさん、北条時行は平定するまでに10年も要したからね。( いまアニメの主人公になってますが )
逃げ上手の若君
@@室井修-k1r当時から正成は評価が高かったから子孫を根絶やしにしたら尊氏の評価が下がってもっと情勢が混乱したかも知れないし、末子の楠木正儀は実質的に南北朝を終わらせた武将だからなんでも殺せば良いってもんでもないわな
家康は秀吉の子孫を殺したのに石田三成の子は殺さなかったのは謎。
家康が自分の諱を与えていたから…というのもあるかもだけどまぁ秀頼と違って人望の無い三成の子供なんて生かしておいても担がれる事なんて無いし僧になったから実害は全く無しって事で見逃されたんだと思う
オクタビアスは、クレオパトラとカエサルの間に出来た子は死刑に処した。カエサルに大恩があるにも関わらずだ。ところが不思議な事にライバルのアントニーとクレオパトラとの間に出来た子は殺さなかった。それと同じだと思う。カエサルの血を引く子は生かしておいたらローマに取って脅威となるから処断した。しかしアントニーの子ならば毒にも薬にもならないから生かしておいた。三成の子孫は家康に取ってたいした脅威ではなかったのさ。
その件は関ケ原のあと、佐和山城攻略で本来は開城降伏に傾いてたんだけど、手違いで攻め滅ぼされちゃったからその後ろめたさもあった模様、結局三成の血は子孫が3代家光の側室として入って尾張徳川家や公家を経由して昭和天皇にまで入るんだから面白いものである
三成は人望もなかったし、何より20万石弱の大名にすぎなかったから、子孫を放置しても問題ないと判断された。嫡男だけは捕えられたら処刑された可能性はあるが、いち早く出家して難を逃れた。あと、家康と三成は関ヶ原の少し前までは仲が良かったのではないかという近年の研究もある。
豊臣秀頼は秀吉と淀君の子ではなく大野治長と淀君の子である可能性が高いと思います。
石田の子供を放置したのは天下を取らせてくださった石田三成に感謝の気持ちがあったからだろう
石田三成の子どもを生かしてても、誰も反乱のシンボルとは仰がないからじゃ。国松とはブランドが違う
戦国の世ではごくありふれた日常だよ、関ヶ原も大阪の陣も
頼朝を尊敬し研究していたからと言う事もあるけど、関東に移った家康としては鎌倉幕府滅亡後に起こった中先代の乱のことも頭にあったのでは?あれと同じことが上方で起こったら、その比じゃないくらいヤバい状況になるし、この子供一人を生贄にしたことで太平の世が成立したのは結構な部分を占めると思う。
そのわりに、石田三成の子孫は優遇している。
新しい話がない 見るんじゃなかった
怨むなら そなたの爺さんを怨め
歴史を顧みると弱肉強食がこの世の理と再認識させられるね国家が軍事力を競い合って、いざ事が起きたときは強いものが勝つんだなと思うと日本は…
秀吉は家康を討伐しようとしたが、大地震で出来なかったからやろ!
淀殿も講和派と言われているし、豊家滅亡の原因は秀頼の指導力不足と重臣、牢人連中の暴走にだと思うがなぁ…なお、家康が二条城で秀頼に恐怖した云々の逸話は近世になってでてきた二次創作レベルの与太話の模様。
信長も秀吉も統一する能力があったけど統治能力がなかったから後が続かなかった。どっちも持ってたのは家康だけ。家康はやたらと悪者にされがちだけど、200年以上つづく天下泰平の基盤を作った功績はスゴい事だと思います。
関ヶ原の戦いで、家康と秀忠が同時に死んでいたら徳川家がガタガタになるのがわかりませんか?織田家の没落は先代と当主の死亡、優良な後継者がいなかったのが原因ですが、関ヶ原の戦いで家康と秀忠が死んでしまった場合、誰を当主にして、誰が補佐をして、徳川家をどのように立ち回らせて天下をとられるわけですか?貴方がこのようなコメントを書かれている以上、貴方には徳川家がどのように対処するか具体的なプランがあるわけですよね?
@user-ii4lc2oc3b 申し訳ありませんが、私は考察家ではないし、歴史でifはただの妄想にすぎないので、あなたが言われるプラン等は考えておりません。そもそも関ヶ原の戦いで秀忠は遅刻してるので、家康と同時に亡くなる可能性は限りなく低いのでは?あと徳川家に天下取りの力があるわけではなく、あくまで家康にあると思ってます。(事実取ってます)そして自身亡き後を考えて徳川家の基盤を固めたので、あとは誰が将軍になったとしても大差はなかったのかと。それが一番の功績かもですね。長文失礼しました。
@user-ii4lc2oc3bだいぶ頭がぶっ壊れてるね。家康に対する評価のコメントに対してifを提起した上具体的なプランを求める。意味がわからないよ。お前はコミュニケーション能力を磨いた方がいい。考察はそれからだ。
@@清忠真田 実際秀忠軍抜きで勝てるぐらいに西軍の主要大名毛利小早川等を味方に抱き込んでいるわけですし 家康秀忠両名戦死のリスクは考慮に値しない位低い状態で関ヶ原の戦いを始めているのでは 無論リスクゼロでは無いですが そもそも「天下統一をノーリスクで」というのがあり得ない話です 家康は限界までリスクを下げて「ほぼ確実に勝てる」天下統一への道を歩んでいますその上で家康は「統一後の統治者」としての秀忠の育成に成功してもいます
信長は統治までいってないからやってみないとわからないのでは?
「減封」は「げんふう」ではなく「げんぽう」と読むのでは?
げんぽうで合っているはずです!
政(まつりごと)を「せい」って読んでるし、テキストに打ち込んだ通りに読み上げてるだけよ。ゆっくりのシステムわからんけどボカロとかも後から手打ちで読み仮名 を訂正しなきゃならんからね。まぁうp主が本当に間違えてる場合もあるだろうけどゆっくりなんてこんなもんよ。
そんなこと知ってますよ。漢字の読み方など二の次でもいいでしょう。重要なのは内容でしょう。枝葉末節に拘る、神経質な方ですね。
高年齢の秀吉から二回も孕む淀殿怪しいんだよな当時から言われてたけど秀吉の子どもじゃないよどう考えても
お市の遺志を受け継いだ淀の復讐だよ表向きは秀吉の子といいながら実は……淀と三成か、大野治長あたりとの子供だろう秀頼を立てて一時でも天下を夢見た淀は父浅井長政と母お市の無念を晴らしたのではないだろうか??
当時はDNA鑑定もないし血液型すら知られてなかったから、「あなたの子です」と言い張られたら、信じるしかないからね。秀吉も疑ってはいただろうが、高齢で耄碌して、自分が信じたい事実しか信じられなくなっていたんだろう。
@@大門軍団-p7e妄想ありがとう
家康が豊臣を討ち漏らしていたら室町時代からやり直しになっていてもおかしくない。むしろ昔より各陣営戦力が整っているから江戸と大阪の間は焼け野原になっていたかも。
家康は自分の子供もコロちゃんしてるからね、自分の政敵はコロちゃんね!!!
松平信康のこと?あれ信長に命じられて、それを断ったら信長と戦争になりかねないから苦渋の決断で行ったんじゃなかったっけ。
@@タキさん-z3zさん最近の研究では、家康が信康の暴走を止めること出来ず、家康から切腹をさせた。なお、信長にも影響が及ぶので、家康が信長に説明し、信長から「家康のやり方に了解する」のお墨付きをやっただけの事らしい。
@@タキさん-z3z最近では家康と信康派の派閥があり、お家のために家康自らの判断でやったと言われている
家督争いと組織のてっぺん争いを目の当たりにしてきた身としては誰が犯人でもおかしくない。家康公は主犯たる能力も人脈もあるけど、後世に人徳が伝わるくらいの周到さか本物の人徳が有った。惰性で物事を動かさない実直かつ現場感覚のあるリーダーなので一番黒幕っぽくて一番それに相応しくない。その上やってたとしても周りも後世も納得。もうこの人しか居ないよねw
秀吉の子孫じゃなかったからだよ秀頼も国松も秀吉の血筋ではないからね
徳川家康が天下取れたのは秀吉が滅茶苦茶やったから。豊臣家を滅亡させたのは関ヶ原後10年以上頭を下げなかったから。
「何だかな〜〜”家康は家を守る為に嫡男すら葬って居る”“戦国の習い通りに躊躇無く血縁の無い国松を葬るのは必然ですよね。笑」
秀吉は主家の信長の嫡流「織田秀信」を岐阜で城持ち大名にして生かしてたんですよね...やっぱり、豊臣家滅亡は家康の意志の強さと秀頼、淀君の下手打ちが原因でしょうか...😅
家康じゃなくて、秀忠だと思う。
1983年の大河ドラマ「徳川家康」では、秀忠が国松の処刑を主導。葵徳川三代では、秀忠が止めたが、家康が国松を処刑を主導。
孫娘の義理の息子、自身の曾孫に当たったわけだし家康最大のトラウマだったかもね。長男信康の切腹がフラッシュバックしたかもしれない。
婚族ではあるけど、木下家は残ってるからそこまで厳しいわけでもないやろ
ただ石田三成の子孫は厚遇だったという、、、
世知辛い世だよ。
まあ、それが男の子の運命やろな😢
国松に妹がいたのか?知らんかったわ。
国松は千姫の子?家康の曾孫になるのか?
違うのでは?
千姫ではなく、別の侍女との子だったはず。名前分かってたかな?
「逃げ上手の若君」の北条時行の様に国松を生かしておけば必ず反徳川勢力の神輿に担ぎ上げられるのがオチ残酷だがそれが戦国時代の慈悲でもある
家康も最初は穏便に済まそうとしてたっぽいけどね・・・秀頼はともかく、淀君があまりにも暴走するために秀頼も見せしめとして殺さなければならなくなった・・・って感じだとは思うけどね。北条政子と並んでさすがは悪女の一人なだけはある。。
周りの家臣の先見がなかったからという気もします。
冬の陣以降の淀殿は講和派ですよ。夏の陣の原因は、冬の陣で善戦したせいでワンチャンいけんじゃね?となった大野弟をはじめとした重臣共と、他に行き場の無い牢人連中が大きいのではないかと。
まだ淀殿のせいにしてる人いるんだ(笑)
豊臣家滅亡強硬派は秀忠で、家康は豊臣家存続派
1983年の大河ドラマ「徳川家康」は、正にその設定でした。
鎌倉の女児はどうなった?
出家して天秀尼と名乗り、後世に駆け込み寺で有名になった東慶寺の住職となって一生を終えています。
大大名(加藤明成、会津40万石)を一喝して追い返すくらいの権威が与えられてますね。
淀君が豊臣を滅ぼしたと言っても過言じゃあない
なんで?
子供でもせめて処刑でも苦しまず楽に逝けるようにしてあげれば😢なんだかんだ言っても子供には罪はないよね(⸝⸝›_‹⸝⸝)
そこまでして守ろうとした幕府も外国勢力の協力を得た薩長の田舎者に倒されることに。諸行無常。
家康が天下統一なんて野心をもたないで豊臣の世が幕末まで続いたら世の中はどうなっていたのだろう。天皇は東京にいない事はわかる。
本当に秀吉の子なのか疑問がある秀頼が、秀吉の息子ではないという確実な証拠を掴んでいたら処刑はなかったと思う。豊臣家とは全く血縁関係のない子供なら、生かしておいても何の害にもなりませんから。
DNA鑑定あったらねぇ
戦国親ガチャ失敗堪忍堪忍
生き延びて子孫が徳川幕府を滅ぼす…薩摩の勇。
家康は嫌いである。女子供に対する扱いがあまりに悪すぎるからだ。
秀吉もひどいだろ。
信長…浅井長政の長男を磔。秀吉…秀次の家族を皆頃し。三英傑の中だと家康が一番マシ。
@@tnmix661 信長なんて自分の姉を逆さ磔にしてますから。。。
私もそう思います‼️そんなタヌキオヤジと言われている者のどこが良いのか、どこが持ち上げられるのかがわからない❗️
@@OK-ki4ue平和な世の中作ったじゃん?
秀吉嫌いだったんだろうな逆に信長は好きだったんだな
〇刑されたのは偽者で、本物は、木下家で存命ということでは、…
織田信長を殺した黒幕が秀吉だったから。
面白いですねw
木下藤吉郎だからだろうな。
家康は秀頼が秀吉の子供では無いと知っていたのでしょう、また武家が負けた側の血脈を根絶やしにするのは当然で特別"残酷"な行為とは言えません。
タヌキはなんか気に食わん。
@@山喪チャーリー 多分当時も誰もそう思ってたのかもだが、やはり勝ち馬にのりたいからね。
好きになれない
方広寺鐘銘事件を家康の難癖とありますが、上の人間に配慮して改名も珍しくない時代で、しかも相手の名前を分断しているのはマズイ事だと思いますが?言いがかりだと言う意見より、呪詛を疑われても仕方ない・呪詛ではないだろうが非礼であると言った意見のが多いようなんですが?そもそも、家康は穏便に豊臣を傘下にしようとしていたのに、豊臣が無断で官位を賜わる・兵糧や浪人を集めだす・外様最大国力の前田と関係をもとうとしだした挙句に、方広寺鐘銘事件を起こす。豊臣が戦争準備をしていると疑われても仕方ない状況で、方広寺鐘銘事件を起こしているのに、家康の難癖はどうかと思いますが?
確かに国家安康、君 臣豊楽、子孫因象はまことにあっばれな文字なれど家康の胴体と首を切り離し豊臣の世を末長く楽しもうと読めるよね、
ではなんで、当の呪詛の鐘が現存しているの?砕いたり鋳潰してしまうべきでは?
家を守るということにしたいしては正しかったと思うけど日本を守るということに対してはただしくなかったよね秀吉はいい人でもないしむしろ悪魔みたいな男だと思うけどその点においては秀吉のほうが優れてたよね
鬼畜🤣
秀吉の種無し説の根拠ってなんなんですか??
今となっては調べられるわけもないから根拠とよべるものはないただ現状で明らかになってる歴史を辿るとそう考えるのが自然だろうって感じ
これは今では知るよしもないけど、その次の権力者が吹聴した可能性が高い。秀頼が正当な後継者では無いと吹聴すれば豊臣恩顧の大名達の求心力も下がるし、豊臣家への忠誠心も下がる。例えば信長が寺社焼き討ちするキチガイや男色だったなどの話は秀吉が広め徳川慶喜が腑抜けと広めたのは明治政府
オラが命令して殺らせた🎵
北条や平家も族滅してんだから普通じゃね。
ーコメです
頼朝が清盛を裏切らなければ 茶々が野望を抱かなければ と思う。国松 可哀想過ぎる。
徳川家は源氏の血筋、それが源氏のやり方
プーチンと似てますね。
もちろん、源氏の子孫なんて嘘ですけど
藤吉郎の息子がこんな長身な訳無い。おそらく三成の子。武田勝頼が山本勘助の子である可能性に近い。
浅井長政の孫でもあるから、あり得ないことではないと思うけどなぁ…
三成の子説は現在では否定されている。大野治長や祈祷師説はある
このやり取り大嫌い。むしずがはしる。
聴きやすい音声にしてほしい、わざと耳障りな音声にしてると思いますかどうゆう考えですか。半分までいかないでみるのがつらくなりやめまた
かつて、清盛が頼朝を助命して伊豆に流していたが為に平家は源氏によって滅ぼされた。
「同じ過ちは出来ぬ!」と言う覚悟の上での、国松への処断だったんだろうな。
家康のバイブルは頼朝だったので。
そう思います
実際、豊臣はきっちり滅ぼしたから徳川に歯向かうことはなかったけど、関ヶ原で仕留めそこなってお家も処罰できんかった島津が
後々力を付けて幕末に薩摩として倒幕に動き出すのを見るに、敵は確実に滅ぼさなきゃ子々孫々に脅威となることは必然なんだと思う。
そうですね。そういえば毛利もノラリクラリで逃げてしまいうやむやになって260年後に…。
確かにそうだけど、幕末期の動乱は異国の日本進出とそれに対する幕府の対応がきっかけだからまた別なのでは?
徳川家に温情のある土佐山内家でさえも最終的には反幕府側に付いていた訳だし。
幕末は確かに,どの藩が倒幕に向かってもおかしくなかった。
まあ島津は、たまたま大阪に居たから巻き込まれたって感じけどね
味方しないと〇されるから仕方なく参陣しただけ
井伊直政をやってしまったのは、彼がヤル気マンマンで追撃してきたからだ
島津と毛利はどっちの味方もしなかったんだよな。
18:28
市中引き回しって馬で引きずり回す処刑って意味じゃないですよ…
縄で拘束した罪人を馬に乗せて「こいつはこんな悪い事をした人間ですよ!」って晒し物にして町をぐるっと練り歩く事です
市中引き回しの事をよく西部劇のガンマンがやってる馬で引きずり回す処刑と勘違いしてません?
完全に、馬か何かで町中を引きずり回すと勘違いしてますね(´∀`; )
別にそうゆう意味で絵をのせてないでしょ 馬引きの刑とは別だしわかりやすく載せてるだけじゃないの?
俺も市中引き回しを勘違いしていると思う。
これ、勘違いする人が多いんだよね。
それでも残酷だと思う。
馬に乗せられて引き回されていたとき、どんなに恐ろしかったか。
@@estorive6111別に残酷かどうかの話は此処ではしてないぞ
子供に罪は無いけど、周りが担ぐ大義を断つのが目的。
アニメ一休さんでも先輩の子坊主が将軍義満と敵対してる勢力に担がれて寺を出ていくエピソードありましたね。一休さん自身も南朝方なので義満とは危うい関係なんですがね
映画宮本武蔵 一乗寺の決斗(1964年)でも武蔵は吉岡一門と決闘の際、名代として担がれた12才の吉岡源次郎を戦略として倒してる
そりゃあ子供だからといって見逃したら後で脅威になる可能性があるからな。単に自分の保身というだけでなく色んな人が戦禍に巻き込まれる可能性があるし、戦乱で国力が低下したところを外国に付け込まれたら目も当てられない。悲しいけど仕方ないね。
但し一介の奉行に過ぎず担ぎ上げられる恐れのない三成の子孫は全員助命してます
国家間においても、同じですね
@@たかゆき-u9w 北条時行もかなり鎮圧に手こずったからね。
@@山城弾正さんへ
石田三成の娘は津軽藩藩主津軽信牧の正室に、息子は津軽藩の家老になりました。
主さんが如何に真田昌幸信繁親子が大好きなのかがよーく伝わって来ました😂
家康が冷酷すぎるとも見えるかもしれないけど、こればっかりは仕方ないことなんだよね…
仮にも源氏の子孫を名乗ってる徳川だけど、その源氏が過去に幼い子供だからという理由で助命された頼朝や義経の活躍で情けをかけた平家を滅ぼしてるから、ここで国松を生かしてたら今度は徳川家が平家の二の舞になる危険性もあったワケだし…
多分、家康も自分の孫よりも小さい子を処刑するのは躊躇したと思うけど、だからこそ若い秀忠では無く死期の近い自分が最後の汚れ役を担うつもりだった可能性…
家康も最初から豊臣を好きで滅ぼしたんじゃないのよ。全ての元凶は淀殿ですな。淀殿が徳川に素直に従っていれば滅亡は確実に免れた筈。
この時代の武将はみんなこのくらい普通にやってる
北条時行が足利と戦ったみたいに徳川への対抗の最後の希望みたいになって欲しかった
国松処刑は絶対必要だった
豊臣の子孫ってだけで江戸幕府にとって最重要危険人物
成長すれば天草四郎や由井正雪なんかとは比べ物にならない乱の主導者となる可能性がある
リスク管理は大事だね
平和を守るためには、豊臣家を絶滅させる必要があった。
秀吉も浅井長政の嫡男で10歳の万福丸を信長の命令と言っても処刑している
男児は処刑は当時の武家の慣習だった。
しかし豊臣秀頼の娘は出家して尼にしたと言っても処刑は免れたし
まだ当時としては温情がある方だろう
一方で家康は、室町幕府の流れをくむ喜連川藩には寛大な立場も示したし
自分に従うものには家康は寛容な姿勢を示してもいるな
そんな国松の父秀頼・・・自身が誕生したことにより義兄秀次は一家もろとも非業の粛清を断行された・・・女子供容赦なく(最年少1才)数十名の連座
アレはホント秀吉がトチ狂ったが故の凶行だよな。秀吉薨去時に秀次が存命だったなら徳川に政権を奪われることはまず無かっただろうし。
因果応報・・・
石田が秀吉を諌めて
秀次をして切腹させず
許させる器量があれば
徳川は天下とれなかったろうに。
まだ一緒に暮らしてなかった駒姫まで斬らせたのはあたおか。
無駄に敵を増やしただけだった。
@@北田義和
それをやったら三成が関ケ原じゃなくあの時点で殺されて、もっと抵抗少なく徳川の天下が早く来るだけ
信康を手にかけて、すべてが変わったのかな家康公は。
ライオンはボスライオンを倒すとその子ライオンを殺すそうです、すると母ライオンが発情して子孫を残せるそうです
圧倒的に怖い母ライオン
家康に江戸を与えたのと250万石に加増して朝鮮出兵を命じなかったのは自分の天下を家康に渡しても仕方ないと思っていたとしか思えないぜ。秀吉が秀頼が生まれた頃にはボケ始めていたに違いない
秀吉は信長が死んだ後、信長を裏切り、家康は秀吉が死んだ後秀吉を裏切る。正に歴史は繰り返す
秀吉は信長嫡流の秀信生かしてるんだけどね...
一方の家康は完全な族滅...
6:41 宇喜多秀家は後に許されて本土に戻ることを許可されたけど本人が八丈島に留まったんじゃなかったっけ
秀吉公も秀次一家を皆殺しにしたのでまさに因果応報かと。禍根を残さないためにも根絶やしにするのは最善の策ではないかと思います。
禍根を断つことは太平の世を築くためには非常に重要。ただその相手はピンポイントに吟味して行うべき。秀次の件は本人もしくは100歩譲ってその家族までなら理解できるけど流石に無関係の侍女まで処断した秀吉は明らかにやりすぎた。
秀次の件があるから本当に秀吉は自業自得だ
禍根を残さないのは源頼朝、義経の例があるので男子は例え赤子でも致し方ないけど奥方や娘まですべて犬コロのように処刑したのは極悪非道としか言えない
石田三成も止めるどころかそれを執行したので同罪だ
@@成田正哉 しかも正室北政所は勿論、基本的に秀吉に逆らわない石田三成ですら秀次処刑に猛反対したのに其れ等を無視しての強行だからなぁ。
敢えて根絶やしの失敗例として挙げるなら 「ハマスは根絶やしだ!」でガザ地区の民間人まで4万人も殺して
周辺アラブ諸国敵に回しまくってより危機的状況に陥っているイスラエルかな
@@究極の救連皇 決行されて三成は「これで豊臣家は立ち行かなくなる」と思ったかもしれませんね。寧々さんと三成が豊臣家のことを真剣に考えていた人材だったと思う。
秀吉の子孫、国松(ゆっくり解説の8歳の子)は大坂落城後、真田大助たちに守られ四国路を通り薩摩に逃れ、島津家重臣の伊集院兼貞にしばらく匿われていたが、後に豊後国日出藩に移り、初代藩主「木下延俊」の次男として入籍後、幕府に届けられ、木下縫殿助延由(きのしたぬいどのすけのぶよし)を名乗った。延俊の遺言により藩領3万石の中から5千石を分与され、支配陣屋を立石に設け、正保元年(1644)国松こと延由は参勤交代を義務付けられた交代寄合旗本衆に列せられたという。立石領は木下家12代で幕末まで続いた。
木下家菩提寺の長流寺には延由の位牌があり、裏面には木下縫殿助豊臣延由と記されている。
幕府は隠密などの報告により延由が国松だという事を知っていたが、大坂落城から30年以上が経過し、秀頼のことも国松の事もほとんど風化していたのでわざと見逃していた上に交代寄合旗本衆として待遇していたという。
仕返しに 立ち上がったら また 戦になる
豊臣家が一大名として生き残る為に徳川家に対して臣従する判断を淀君が出来ていたら豊臣家が存続出来た可能性があると思います。
北政所ねねの様な思慮深さと器量を備えていなかった事が淀君の悲劇
一応淀殿最終的には妹のいる江戸に行くこと乗り気だったみたい。ただ結論出せたのがすでに開戦決まった手遅れのタイミングだったけど。
実際の淀殿の性格は昔のイメージより氏政タイプで、優柔不断で自分で決論をなかなか下せない性格みたいで、家康が大阪出たときも自分はどうしたいいかわからないから戻ってきて欲しいと手紙送るほど依存体質だった。
ちなみに家康がいなくなってから頼りだしたのが信雄や有楽斎。
そうですね、そんな歴史も見てみたかった。
どうやろ…
どっちにしろ家康は豊臣滅ぼしてたと思う
@@kfc9754
その可能性はありますね。
仮に一度改易され、大名復帰したとしても、淀君がしゃしゃり出て来てしまえば可能性ありますよね。
ただ、国替、減封、官位の剥奪、
大阪城という豊臣氏の象徴を取り除き、浪人の解散、目付をつけて置くだけでも充分だったのではないかと思います。
その上で、豊臣氏が生き残った歴史を見たかたった。
改易後に復活した所もありますしね。
完全に従う意思がないと難しいと思います。大坂城を出ないと難しいと思います。あえて昔の城の字で書きました。
おそらく秀吉は種無しだったから、現実には秀吉の子孫じゃないだろうけどね
私もそう思います。だからこそ生かしておかなかったんだと思います。
@@masa-p3x
淀殿、どこぞのイケメンの僧侶と付き合ってたとか言われてるしおそらく…
ただ、秀吉の子供じゃなくても秀頼が信長や浅井長政と血が繋がってるのは間違いないですよね?
@@赤山靭負だからこそってことは、実の子なら生かしていたってことですか?
@user-wu7bz1tt2x
家康は豊臣を存続させようと苦心していた説がある。それが真実なら秀吉の実子を生かしておいてもおかしくはない。
秀吉、性病て言うやん!種無して関係してるのかな?
とりあえず、奥さんはともかく、正室て負けたとこから連れてこられたみたいだから迷惑!!
女に意地汚いねん!!
あっさり斬首だから「残酷に」とは言えないだろ?と思ったけど、他のコメントで「馬で引き回し」を誤解しているのではという意見で納得。
千姫の産んだ子なら 助命される可能性もあったかもしれない…
女子だったらそうなったかも知れませんが、これが男子だったら、たとえ千姫の産んだ子であっても処刑したでしょう。
@@AtsushiMizobe
天秀尼が助命されてるくらいだから、女子なら100%助かったでしょう。男子でも 家康にとって女系とはいえ 血の繋がった曾孫になるので ○さないと思うね🤔
秀頼と千姫の間には男子と女子がひとりづついたらしいけど男子の方は処刑されました…。
@@maskon-r6j
千姫の産んだ子ではありませんよ🤭 もっと勉強してから コメントした方が よろしいかと🤣
@@イトーヨーcard
そうですね。
権力を奪った上で、高家や、公家といった所で、一応は存続できた様な気がします。
最悪、出家かなぁ
徳川家に余裕があれば三国史の覇者になった司馬氏が蜀の劉禅ら三国の君主を貴族として生かし続けたように豊臣家の子孫も生かしてやれただろうが、徳川幕府初期はまだまだ天下は回り持ちという思想が強く、伊達・前田・島津・毛利などの雄藩も健在、秀忠は政治家であるが戦争は下手だから家康死後に大乱が起これば…という「恐れ」があったんだろう。
秀吉の弟である木下家は幕末まで存続している
豊臣という家名に対する戦国作法としての処分だったと考えるがね
今川やらの名目は大名として破れても血縁の家名は残してるのも武家流の習いであろう
子供でも生かしてはおけないってのはわかるんだけどなんでわざわざ残酷な市中引き回しを選択したんだろう
当時の人の価値観はわからないけど子供が苦しめられる姿を見て心証を悪くした民も少なからず居たんじゃないだろうか
それとも時代の変化を示す為にインパクトが必要だったって事なのかな
「あいつはもう捕縛したし、死ぬ」ということを知らしめる、
つまり「まだあのお方は生きている」と言うなどして扇動する者をなくす必要があるという判断の上ではないでしょうか。
流石、日本の司馬懿、家康公、禍根を絶つのは徹底している
曹爽一派を族滅するところもそっくり。
国松が殺されたのは当時であれば仕方なかったかもしれないけど、女児は生かしたのは家康らしい配慮と言えるかと。
まな真田幸村の戦いぶりは勝った東軍の武将たちによって伝えられ、江戸時代はすでに英雄。軍としては負けたけど、その功績が後世に伝えられた
武将としては勝ったと思います。
NHKヒストリアの信繁回は号泣しました
平清盛は源氏との合戦に
勝ったとき、
源氏の血筋を絶やそうとしたけど、
継母に
懇願されて
源頼朝たちを生かした
その頼朝に平氏は
滅ぼされることになる……
家康公は
先人から学んだのではないだろうか
家康は吾妻鏡が愛読書だったらしいからな。
いいとこの子て仕えてる人達がこっそりと他に預けたりして貰われて行くから絶えるってないんよな!!
相手方も多分、分かってて見逃してると思うで
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶということでしょうか。
目をつぶって、念仏を100唱えなさい、って言っている間に斬首されるというのは有名だよね。
淀君を娶るまで誰も孕ませることが出来なかった秀吉が急に子供が出来るはずもなく明らかに他人の子でしょう、つまり秀吉の子孫ではない、
平清盛の二の舞はゴメンだよね、そりゃ。
自分が家康の立場でも同じことする。
北条時行とかも面倒だったな。
楠木正成の子孫も。
@@室井修-k1rさん、
北条時行は平定するまでに10年も要したからね。
( いまアニメの主人公になってますが )
逃げ上手の若君
@@室井修-k1r
当時から正成は評価が高かったから子孫を根絶やしにしたら尊氏の評価が下がってもっと情勢が混乱したかも知れないし、
末子の楠木正儀は実質的に南北朝を終わらせた武将だからなんでも殺せば良いってもんでもないわな
家康は秀吉の子孫を殺したのに石田三成の子は殺さなかったのは謎。
家康が自分の諱を与えていたから…というのもあるかもだけどまぁ秀頼と違って人望の無い三成の子供なんて生かしておいても担がれる事なんて無いし僧になったから実害は全く無しって事で見逃されたんだと思う
オクタビアスは、クレオパトラとカエサルの間に出来た子は死刑に処した。
カエサルに大恩があるにも関わらずだ。
ところが不思議な事にライバルのアントニーとクレオパトラとの間に出来た子は殺さなかった。
それと同じだと思う。
カエサルの血を引く子は生かしておいたらローマに取って脅威となるから処断した。
しかしアントニーの子ならば毒にも薬にもならないから生かしておいた。
三成の子孫は家康に取ってたいした脅威ではなかったのさ。
その件は関ケ原のあと、佐和山城攻略で本来は開城降伏に傾いてたんだけど、手違いで攻め滅ぼされちゃったからその後ろめたさもあった模様、結局三成の血は子孫が3代家光の側室として入って尾張徳川家や公家を経由して昭和天皇にまで入るんだから面白いものである
三成は人望もなかったし、何より20万石弱の大名にすぎなかったから、子孫を放置しても問題ないと判断された。嫡男だけは捕えられたら処刑された可能性はあるが、いち早く出家して難を逃れた。あと、家康と三成は関ヶ原の少し前までは仲が良かったのではないかという近年の研究もある。
豊臣秀頼は秀吉と淀君の子ではなく大野治長と淀君の子である可能性が高いと思います。
石田の子供を放置したのは天下を取らせてくださった石田三成に
感謝の気持ちがあったからだろう
石田三成の子どもを生かしてても、誰も反乱のシンボルとは仰がないからじゃ。国松とはブランドが違う
戦国の世ではごくありふれた日常だよ、関ヶ原も大阪の陣も
頼朝を尊敬し研究していたからと言う事もあるけど、関東に移った家康としては鎌倉幕府滅亡後に起こった中先代の乱のことも頭にあったのでは?あれと同じことが上方で起こったら、その比じゃないくらいヤバい状況になるし、この子供一人を生贄にしたことで太平の世が成立したのは結構な部分を占めると思う。
そのわりに、石田三成の子孫は優遇している。
新しい話がない 見るんじゃなかった
怨むなら そなたの爺さんを怨め
歴史を顧みると弱肉強食がこの世の理と再認識させられるね
国家が軍事力を競い合って、いざ事が起きたときは強いものが勝つんだなと思うと日本は…
秀吉は家康を討伐しようとしたが、大地震で出来なかったからやろ!
淀殿も講和派と言われているし、豊家滅亡の原因は秀頼の指導力不足と重臣、牢人連中の暴走にだと思うがなぁ…
なお、家康が二条城で秀頼に恐怖した云々の逸話は近世になってでてきた二次創作レベルの与太話の模様。
信長も秀吉も統一する能力があったけど統治能力がなかったから後が続かなかった。どっちも持ってたのは家康だけ。家康はやたらと悪者にされがちだけど、200年以上つづく天下泰平の基盤を作った功績はスゴい事だと思います。
関ヶ原の戦いで、家康と秀忠が同時に死んでいたら徳川家がガタガタになるのがわかりませんか?
織田家の没落は先代と当主の死亡、優良な後継者がいなかったのが原因ですが、関ヶ原の戦いで家康と秀忠が死んでしまった場合、誰を当主にして、誰が補佐をして、徳川家をどのように立ち回らせて天下をとられるわけですか?
貴方がこのようなコメントを書かれている以上、貴方には徳川家がどのように対処するか具体的なプランがあるわけですよね?
@user-ii4lc2oc3b
申し訳ありませんが、私は考察家ではないし、歴史でifはただの妄想にすぎないので、あなたが言われるプラン等は考えておりません。そもそも関ヶ原の戦いで秀忠は遅刻してるので、家康と同時に亡くなる可能性は限りなく低いのでは?
あと徳川家に天下取りの力があるわけではなく、あくまで家康にあると思ってます。(事実取ってます)
そして自身亡き後を考えて徳川家の基盤を固めたので、あとは誰が将軍になったとしても大差はなかったのかと。それが一番の功績かもですね。長文失礼しました。
@user-ii4lc2oc3b
だいぶ頭がぶっ壊れてるね。
家康に対する評価のコメントに対してifを提起した上具体的なプランを求める。
意味がわからないよ。
お前はコミュニケーション能力を磨いた方がいい。考察はそれからだ。
@@清忠真田 実際秀忠軍抜きで勝てるぐらいに西軍の主要大名毛利小早川等を味方に抱き込んで
いるわけですし 家康秀忠両名戦死のリスクは考慮に値しない位低い状態で関ヶ原の戦いを始めて
いるのでは 無論リスクゼロでは無いですが そもそも「天下統一をノーリスクで」というのが
あり得ない話です 家康は限界までリスクを下げて「ほぼ確実に勝てる」天下統一への道を歩んでいます
その上で家康は「統一後の統治者」としての秀忠の育成に成功してもいます
信長は統治までいってないからやってみないとわからないのでは?
「減封」は「げんふう」ではなく「げんぽう」と読むのでは?
げんぽうで合っているはずです!
政(まつりごと)を「せい」って読んでるし、テキストに打ち込んだ通りに読み上げてるだけよ。
ゆっくりのシステムわからんけどボカロとかも後から手打ちで読み仮名 を訂正しなきゃならんからね。
まぁうp主が本当に間違えてる場合もあるだろうけどゆっくりなんてこんなもんよ。
そんなこと知ってますよ。
漢字の読み方など二の次でもいいでしょう。重要なのは内容でしょう。
枝葉末節に拘る、神経質な方ですね。
高年齢の秀吉から二回も孕む淀殿怪しいんだよな
当時から言われてたけど秀吉の子どもじゃないよどう考えても
お市の遺志を受け継いだ
淀の復讐だよ
表向きは
秀吉の子といいながら
実は……
淀と
三成か、大野治長あたりとの
子供だろう
秀頼を立てて
一時でも天下を夢見た
淀は
父浅井長政と母お市の
無念を晴らしたのでは
ないだろうか??
当時はDNA鑑定もないし血液型すら知られてなかったから、「あなたの子です」と言い張られたら、信じるしかないからね。秀吉も疑ってはいただろうが、高齢で耄碌して、自分が信じたい事実しか信じられなくなっていたんだろう。
@@大門軍団-p7e妄想ありがとう
家康が豊臣を討ち漏らしていたら室町時代からやり直しになっていてもおかしくない。
むしろ昔より各陣営戦力が整っているから江戸と大阪の間は焼け野原になっていたかも。
家康は自分の子供もコロちゃんしてるからね、自分の政敵はコロちゃんね!!!
松平信康のこと?
あれ信長に命じられて、それを断ったら信長と戦争になりかねないから苦渋の決断で行ったんじゃなかったっけ。
@@タキさん-z3zさん
最近の研究では、家康が信康の暴走を止めること出来ず、家康から切腹をさせた。なお、信長にも影響が及ぶので、家康が信長に説明し、信長から「家康のやり方に了解する」のお墨付きをやっただけの事らしい。
@@タキさん-z3z最近では家康と信康派の派閥があり、お家のために家康自らの判断でやったと言われている
家督争いと組織のてっぺん争いを目の当たりにしてきた身としては誰が犯人でもおかしくない。家康公は主犯たる能力も人脈もあるけど、後世に人徳が伝わるくらいの周到さか本物の人徳が有った。
惰性で物事を動かさない実直かつ現場感覚のあるリーダーなので一番黒幕っぽくて一番それに相応しくない。
その上やってたとしても周りも後世も納得。もうこの人しか居ないよねw
秀吉の子孫じゃなかったからだよ
秀頼も国松も秀吉の血筋ではないからね
徳川家康が天下取れたのは秀吉が滅茶苦茶やったから。
豊臣家を滅亡させたのは関ヶ原後10年以上頭を下げなかったから。
「何だかな〜〜
”家康は家を守る為に嫡男すら葬って居る”
“戦国の習い通りに躊躇無く血縁の無い国松を葬るのは必然ですよね。笑」
秀吉は主家の信長の嫡流「織田秀信」を岐阜で城持ち大名にして生かしてたんですよね...
やっぱり、豊臣家滅亡は家康の意志の強さと秀頼、淀君の下手打ちが原因でしょうか...😅
家康じゃなくて、秀忠だと思う。
1983年の大河ドラマ「徳川家康」では、秀忠が国松の処刑を主導。
葵徳川三代では、秀忠が止めたが、家康が国松を処刑を主導。
孫娘の義理の息子、自身の曾孫に当たったわけだし家康最大のトラウマだったかもね。
長男信康の切腹がフラッシュバックしたかもしれない。
婚族ではあるけど、木下家は残ってるからそこまで厳しいわけでもないやろ
ただ石田三成の子孫は厚遇だったという、、、
世知辛い世だよ。
まあ、それが男の子の運命やろな😢
国松に妹がいたのか?
知らんかったわ。
国松は千姫の子?家康の曾孫になるのか?
違うのでは?
千姫ではなく、別の侍女との子だったはず。名前分かってたかな?
「逃げ上手の若君」の北条時行の様に国松を生かしておけば必ず反徳川勢力の神輿に担ぎ上げられるのがオチ
残酷だがそれが戦国時代の慈悲でもある
家康も最初は穏便に済まそうとしてたっぽいけどね・・・秀頼はともかく、淀君があまりにも暴走するために秀頼も見せしめとして殺さなければならなくなった・・・って感じだとは思うけどね。北条政子と並んでさすがは悪女の一人なだけはある。。
周りの家臣の先見がなかったからという気もします。
冬の陣以降の淀殿は講和派ですよ。
夏の陣の原因は、冬の陣で善戦したせいでワンチャンいけんじゃね?となった大野弟をはじめとした重臣共と、他に行き場の無い牢人連中が大きいのではないかと。
まだ淀殿のせいにしてる人いるんだ(笑)
豊臣家滅亡強硬派は秀忠で、家康は豊臣家存続派
1983年の大河ドラマ「徳川家康」は、正にその設定でした。
鎌倉の女児はどうなった?
出家して天秀尼と名乗り、後世に駆け込み寺で有名になった東慶寺の住職となって一生を終えています。
大大名(加藤明成、会津40万石)を一喝して追い返すくらいの権威が与えられてますね。
淀君が豊臣を滅ぼしたと言っても
過言じゃあない
なんで?
子供でもせめて処刑でも苦しまず楽に逝けるようにしてあげれば😢
なんだかんだ言っても子供には罪はないよね(⸝⸝›_‹⸝⸝)
そこまでして守ろうとした幕府も外国勢力の協力を得た薩長の田舎者に倒されることに。諸行無常。
家康が天下統一なんて野心をもたないで豊臣の世が幕末まで続いたら世の中はどうなっていたのだろう。
天皇は東京にいない事はわかる。
本当に秀吉の子なのか疑問がある秀頼が、秀吉の息子ではないという確実な証拠を掴んでいたら処刑はなかったと思う。
豊臣家とは全く血縁関係のない子供なら、生かしておいても何の害にもなりませんから。
DNA鑑定あったらねぇ
戦国親ガチャ失敗
堪忍堪忍
生き延びて
子孫が徳川幕府を
滅ぼす…
薩摩の勇。
家康は嫌いである。女子供に対する扱いがあまりに悪すぎるからだ。
秀吉もひどいだろ。
信長…浅井長政の長男を磔。
秀吉…秀次の家族を皆頃し。
三英傑の中だと家康が一番マシ。
@@tnmix661 信長なんて自分の姉を逆さ磔にしてますから。。。
私もそう思います‼️
そんなタヌキオヤジと言われている者のどこが良いのか、どこが持ち上げられるのかがわからない❗️
@@OK-ki4ue平和な世の中作ったじゃん?
秀吉嫌いだったんだろうな
逆に信長は好きだったんだな
〇刑されたのは偽者で、本物は、木下家で存命ということでは、…
織田信長を殺した黒幕が秀吉だったから。
面白いですねw
木下藤吉郎だからだろうな。
家康は秀頼が秀吉の子供では無いと知っていたのでしょう、また武家が負けた側の血脈を根絶やしにするのは当然で特別"残酷"な行為とは言えません。
タヌキはなんか気に食わん。
@@山喪チャーリー 多分当時も誰もそう思ってたのかもだが、やはり勝ち馬にのりたいからね。
好きになれない
方広寺鐘銘事件を家康の難癖とありますが、上の人間に配慮して改名も珍しくない時代で、しかも相手の名前を分断しているのはマズイ事だと思いますが?
言いがかりだと言う意見より、呪詛を疑われても仕方ない・呪詛ではないだろうが非礼であると言った意見のが多いようなんですが?
そもそも、家康は穏便に豊臣を傘下にしようとしていたのに、豊臣が無断で官位を賜わる・兵糧や浪人を集めだす・外様最大国力の前田と関係をもとうとしだした挙句に、方広寺鐘銘事件を起こす。
豊臣が戦争準備をしていると疑われても仕方ない状況で、方広寺鐘銘事件を起こしているのに、家康の難癖はどうかと思いますが?
確かに国家安康、君 臣豊楽、子孫因象は
まことにあっばれな
文字なれど家康の胴体と首を切り離し豊臣の世を末長く楽しもう
と読めるよね、
ではなんで、当の呪詛の鐘が現存しているの?
砕いたり鋳潰してしまうべきでは?
家を守るということにしたいしては
正しかったと思うけど
日本を守るということに対してはただしくなかったよね
秀吉はいい人でもないしむしろ悪魔みたいな男だと思うけど
その点においては秀吉のほうが優れてたよね
鬼畜🤣
秀吉の種無し説の根拠ってなんなんですか??
今となっては調べられるわけもないから根拠とよべるものはない
ただ現状で明らかになってる歴史を辿るとそう考えるのが自然だろうって感じ
これは今では知るよしもないけど、その次の権力者が吹聴した可能性が高い。
秀頼が正当な後継者では無いと吹聴すれば豊臣恩顧の大名達の求心力も下がるし、豊臣家への忠誠心も下がる。
例えば信長が寺社焼き討ちするキチガイや男色だったなどの話は秀吉が広め
徳川慶喜が腑抜けと広めたのは明治政府
オラが命令して殺らせた🎵
北条や平家も族滅してんだから普通じゃね。
ーコメです
頼朝が清盛を裏切らなければ 茶々が野望を抱かなければ と思う。国松 可哀想過ぎる。
徳川家は源氏の血筋、それが源氏のやり方
プーチンと似てますね。
もちろん、源氏の子孫なんて嘘ですけど
藤吉郎の息子がこんな長身な訳無い。
おそらく三成の子。
武田勝頼が山本勘助の子である可能性に近い。
浅井長政の孫でもあるから、あり得ないことではないと思うけどなぁ…
三成の子説は現在では否定されている。大野治長や祈祷師説はある
このやり取り大嫌い。むしずがはしる。
聴きやすい音声にしてほしい、わざと耳障りな音声にしてると思いますかどうゆう考えですか。半分までいかないでみるのがつらくなりやめまた