【兵力差1000倍】鎌倉の大軍を翻弄した天才軍略家・楠木正成の戦い|赤坂・千早城の戦い

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  • Опубліковано 28 лис 2024

КОМЕНТАРІ •

  • @2GOTAMA
    @2GOTAMA Рік тому +62

    楠木正成、凄すぎる、、、
    これは湯浅が惚れるのも分かる、、、

  • @佐藤田中-s3o
    @佐藤田中-s3o Рік тому +98

    天才だけど人間離れした感じじゃなく、心理を読んで動線を作り低コストのトラップに嵌めて戦場を引っ掻き回す泥臭さがなんか好き

  • @alue0127
    @alue0127 Рік тому +89

    この時代100万人の軍勢がいたら世界征服余裕ですね。
    実際には数万人だと思いますが、それでも幾度となく寡兵で戦い抜いたのはすごい。

  • @tameiki-h6p
    @tameiki-h6p 9 місяців тому +17

    楠木正成は武将の中で一番好き

  • @キャブジョン
    @キャブジョン Рік тому +23

    幕府軍の人数がだいぶ盛っているとは思うけれど、流石楠木正成。凄い武将でした。もっと知りたくなりました。

  • @hrushchev1984
    @hrushchev1984 Рік тому +60

    今年のGWに下、上赤坂城、千早城に行ってきました。
    ちなみに下赤坂状の近くで当時のころの館跡が発掘されており、
    恐らく下、上赤坂城が戦の際の詰めの城として機能していたんじゃないかと思います。
    当時のことはわかりませんが、現在下赤坂城周辺は丘の周辺に千枚田が広がっており、
    当時は冬も田んぼの水を抜かなかったらしいので、攻め手は滅茶苦茶苦労しただろうなと思います。
    泥の中での戦闘が悲惨なのはウクライナ戦争の動画見てると身に染みてわかります。
    あと上赤坂城から千早城までは隠れた山道が存在しているので、
    恐らくは遅滞戦術で幕府軍を千早城まで引っ張り込んだんじゃないかと。
    ちなみに千早城は今も金剛山登山の連絡ルートになっており、当時は金剛山が修験道の行場だったので
    恐らくは金剛山の山伏も楠木勢の味方をして、情報収集やゲリラ戦に参加していたのは間違いないでしょう。
    葛城山や吉野方面に抜けるルート、あるいは和歌山県周辺に抜けるルートもあるから、
    もし仮に千早城が落ちていたとしてもどちらかに行っていたんじゃないかと。
    あと湯浅氏ですが鎌倉末期から南北朝の時代まで和歌山湯浅の豪族として存在しており、
    正成が湊川で亡くなったあとどこまでが真実かわかりませんが、正成の子供か孫が最終的に湯浅氏を頼って
    和歌山に落ち延びたという話があり、今も楠本という姓が和歌山にはあります。
    ちなみに千早城登るとき石段ルートは絶対にやめたほうがいいです。
    幕府軍の苦労を体験したい方にはお勧めですがwww。
    あと100万人の兵士とありますが、太平記は人の数のインフレぶりが半端なく、
    おそらく多くても1万人ぐらいじゃないかと言われています。
    ちなみに100万人だと富山県の人口と一緒です。

    • @敬大川野
      @敬大川野 Рік тому +10

      幕府軍はそんなに少なかったんですね❗
      まぁ確かに、100万の軍となると戦国時代でも聞いた事もなく現実味にかけます。
      僕の勘では幕府軍は10万程度だったんじゃないかと思います❗

    • @すばまろ
      @すばまろ Рік тому +6

      地元の人間ですが、楠本という名字は、千早城ある千早赤阪村、河内長野市などにも多く見られますよ。和歌山の湯浅にも存在していたんですね。この辺りは、高野山への街道がはしっていることもあり、和歌山との結びつきが強いですからね。

  • @giantnioinoba2023
    @giantnioinoba2023 Рік тому +17

    大河ドラマ「太平記」の赤坂城の攻防描写はなかなか良かったです。武田鉄矢さんの正成はカッコ良かったですや。

  • @01tkt63
    @01tkt63 Рік тому +7

    北方謙三氏の楠木正成では籠城戦の過酷さも描写してましたね。
    疲労、空腹、緊張から発狂する兵士を斬り捨てるところは生々しかった。

  • @れんげ-jokl5y
    @れんげ-jokl5y Рік тому +24

    戦国に比べて、このころの戦はほとんど知らないので、とても面白かったです。できればこの時代の戦も続けていってもらえると嬉しいです。

  • @okuto777
    @okuto777 Рік тому +10

    絶対に死んでたまるか、これが武士の誉れ、命乞いでなく戦い続けて勝利する気力。世界の状況も、たった一人から始まる、その一人に同調していく、その人がリーダーと雰囲気を作る。人間の9割は同調していくものをもっている、賢さとも違う人を引きつける魅力、湯浅を自分の家臣にするなど、そのあたりからも察しがつく。

  • @まーしー-g5v
    @まーしー-g5v Рік тому +23

    楠木正成公は地元河内の英雄なので知れて嬉しい

  • @KN9260
    @KN9260 Рік тому +11

    戦国時代よりはるか昔にこんな面白い戦があったとは
    思わなかった。

  • @ミラけん-p4k
    @ミラけん-p4k 10 місяців тому +15

    日本史上最高の天才なのに仕えた相手が悪すぎた。。

  • @gilbertblythe6245
    @gilbertblythe6245 Рік тому +24

    先日千早城行って来ました。城の三方は急斜面で確かに力攻めの攻略は難しそうでしたが…残る一方は金剛山への支脈の尾根筋にあたります。攻めるとすればこの尾根筋ルートを下ってくるのが正解なのですが、きっと押し寄せて来た鎌倉幕府軍は赤坂城での包囲戦の成功体験に固執したのでしょうね。この日は南海千早口駅から徒歩で千早城〜金剛山〜水越峠〜葛城山と約20kmを10時間ほどかけて歩いてきました。今日では…水越峠から金剛山頂を目指しそこから千早城への尾根筋を辿れば千早城本丸へはわずか3-4時間の距離です。今のような登山道は無いにしても山伏か地元民を案内にすれば1000や2000の兵であれば送り込めたと思います。義経や秀吉が千早城を攻めていたら間違いなく…尾根筋ルートを利用したと思います。

    • @memejiro7147
      @memejiro7147 Рік тому

      尾根筋を下るのは いいアイディアだけど、楠木党が実効支配してる金剛山頂上に どうやって兵を上げるのかな?  まだ ヘリは使えない時代だよ(^^)
      千早のある金剛山は 独立峰でなく連山なので この尾根筋の他にも道はあって、実際 人も食料も護良親王の令旨も軍忠状も情報も  外の世界と通じていて、籠城と言っても 世間から孤立してはいないんだよね
      そういう場所を選んだんだろうね
      大河ドラマ太平記の籠城イメージと史実は違うから
      でも、自分たちが出入り出来るなら 敵も出入り出来るなんて サル🐒でも分かる事に 対策してない訳がない
      本丸に入れる人数は 200程度というし、その内の何割かは 戦闘スキルのない アルバイトじゃないか? と自分は思っていて(岩や木を投げるだけならね)、弓矢の出来る者や見張り・伝令を多く 出入り口などに配置したと思う
      騎馬戦も出来る者たちは 麓に潜んでゲリラ戦だろうね
      城兵以外の人々の思惑も 侮れなくて、修験道の人々は 後醍醐天皇が挙兵前に トップ人事に細工して、本山派も当山派も 味方につけている(金剛山は当山派)
      だから 修験者(山伏)は おおむね討幕派で、彼らと同道の時は どの道も難に遭わない と言われたようだよ
      厄介なのが 野伏という奴らで、普段は下級武士とか農民とか手工業者とか運送業者とか山伏とかをしてるけど、相手が 地理に無案内だと分かると 怪しい所に誘い込んで 身ぐるみ剥いじゃう
      斜面から滑落した幕軍兵の 鎧や武具、衣類も剥ぎ取って、にわかに得づいた、とか言う話もあるね
      正成さんが千早の挙兵前に 金剛山周辺を制圧していたとは言え、これだけ大きな山を守れたのは 世の中の反幕府の気分が大きくなっていたんだ と思うな

  • @終末のロキ
    @終末のロキ Рік тому +222

    これから凡そ300年後に豊臣秀吉が朝鮮ヘ出兵した時ですら25万程度って考えたら、幕末で求心力が低下している状態で100万は現実的ではない…

    • @Yutanpo-McNaught
      @Yutanpo-McNaught Рік тому +76

      一億総特攻が本当に1億だった訳じゃないように、この100万というのも数え切れないほど多いという意味合いですかね?

    • @開運たぬき
      @開運たぬき Рік тому +26

      当時の日本の人口が約600万人強らしいというのが、一般的な研究結果。

    • @さっとくん-p4t
      @さっとくん-p4t Рік тому +16

      日本本土7000万、朝鮮2500万、台湾500万、合計1億。

    • @赤山靭負
      @赤山靭負 Рік тому +8

      ​@@Yutanpo-McNaughtなるほど、そういうことでしょうねきっと

    • @JAPANESE-ARMY0310
      @JAPANESE-ARMY0310 Рік тому +10

      @@赤山靭負ちゃんと日本国民として扱ってたのがわかりますね。

  • @OB2-eb2qn
    @OB2-eb2qn Рік тому +52

    現代では当時の兵站確保や行軍日程が合わないなどから
    1000vs5万程度だったのでは?
    が通説でしたよね

    • @ch.8194
      @ch.8194 Рік тому

      京都大阪の法華戦争ては30〜35万が死んだかさんせんしてと書かれてるからまァそれくらいはこの二国だけでも出せるんだから三十万くらいまでなら盛らなくても出せたのでは。法華戦争は応仁の乱の後の混乱からだけど

    • @OB2-eb2qn
      @OB2-eb2qn Рік тому

      @@ch.8194 当時の人口からしたら、かなりの数ですね…

    • @seikiryuu815
      @seikiryuu815 Рік тому +1

      こういうのはかなり誇張するからな

  • @川公
    @川公 Рік тому +51

    実際には幕府軍1~2万、楠木軍は300ぐらいだった

    • @克巳守屋
      @克巳守屋 Рік тому +12

      城の通路は狭く攻める側は小出ししかできん2万いれば充分かと!

  • @Y.H-g9g
    @Y.H-g9g Рік тому +11

    千早赤坂に行ったことあるけど城の周辺とかは狭くて100万の大軍を置けるスペースないもんね
    幕府方の各家が入れ替わり立ち替わりで攻め込んだと考えるのが妥当かな
    正成も最初の赤坂城の戦いのあと、和泉方面に下ってゲリラ戦展開してたの見ると和泉が軍の休息地になってたんだろう
    自分は奈良側から自転車で金剛山目指したことあるけど、大阪側よりも坂が急で何度も休憩しながら登ったよ
    途中の楠木家菩提寺の観心寺に正成のデカイ像があるからぜひとも見て行ってほしい

    • @takabon1085
      @takabon1085 Рік тому +2

      戦前は鉄道旅行ブームと、「天皇の忠臣」だったということで、楠木正成ブームが全国的に起きたみたいですね!
      観心寺もそのブームのおかげで随分と整備されたようです

  • @MrYoshichan
    @MrYoshichan Рік тому +40

    楠木正成には、一度で良いから大軍の指揮をしてほしかった。

    • @226yammada5
      @226yammada5 Рік тому +12

      逆に新田義貞は楠木正成の下なら良い働きしそうなんだけどね

    • @LainLainLain-j6x
      @LainLainLain-j6x Рік тому +11

      大軍と小軍の指揮では求められる才能が全く違うと言うが

  • @sigurehuru9763
    @sigurehuru9763 Рік тому +21

    楠木正成は天才策士としか言いようがない(◎_◎;)

  • @magrander
    @magrander Рік тому +38

    100万はさすがに盛りすぎだ

  • @omi03watanabe
    @omi03watanabe Рік тому +5

    同時代の籠城戦対比として赤松円心の解説もお願いしたい。

  • @hiede7
    @hiede7 Рік тому +5

    すごすぎ…

  • @サムグレコ-m3z
    @サムグレコ-m3z Рік тому +26

    当時の日本の人口での100万人って、そうとう割合が高い感じするな。

    • @55tg
      @55tg Рік тому +18

      それは誇張であって、実際には10万〜5万人前後だった可能性が高いらしい。(それでも当時の人口比率で見ればかなり多い)

    • @豊臣秀吉-y4q
      @豊臣秀吉-y4q Рік тому +6

      ​@@55tg それでも撃退はえぐい

  • @dxspex2292
    @dxspex2292 Рік тому +17

    百万は流石に盛りすぎじゃね?

  • @むらかみまさかず
    @むらかみまさかず Рік тому +9

    最後、尊氏が京都を攻めようとした時も、楠正成の策を用いていれば天皇側が勝利したのだけれどな、公家が武士を下に見てその策を愚策とした。これで正成は最後を決めたのだよね。新田氏もいたから比叡山も加勢して大勝利を収めていたと思うけど。それと北畠顕家が流れ矢に当たって戦死したのも痛い、大塔宮も中々の人物だったと思われるし。千早城自体は、周囲1kr位と記憶にある。そこに千人いたというから人口密度高いと当時思った。大坂方面と奈良方面、どちら側からの攻めも防いだ、最終的には幕府側はトータルで十五万人動員したはず、で正成は、長期間ここを守り抜いた。

    • @memejiro7147
      @memejiro7147 Рік тому +2

      千早の本丸に入れる人数は 200程度というから、あとの人たちは 山中の監視と守り、騎馬戦が出来るクラスの者は 麓に潜んでゲリラ戦…とか 手分けしていたと思うな

  • @しくじり大名を紹介チャンネルゆっ

    恐らくですが、両方の軍が馬謖を知っているんだと思います。
    そして、楠木側がその失敗を逆手にとって、水を確保したと。

  • @雲生活
    @雲生活 Рік тому +1

    自分の出生の地元武将でテンション上がります!

  • @lover7298
    @lover7298 Рік тому +2

    太平記では200万人と書かれていますが、おそらく史実では2万5千人程度となっているので、史実の方が正しいでしょう。
    それにしても、わずか1000人足らずでありながら、ゲリラ戦と戦術、戦略の巧妙な使い分けによって幕府軍に大きなダメージを与えた楠木正成。
    それだけ優秀であった彼が最後は朝廷の体裁のために湊川の戦いで最後を遂げてしまったのは本当にもったいない。

  • @evil-flower009
    @evil-flower009 Рік тому +3

    通常、籠城戦とは後詰(他からの援軍)を前提に行う戦術ですよね。楠木正成はこの二度に渡る籠城戦で何を後詰と考えていたのでしょうか?それはその後の歴史そのものかも知れません。彼は自分の行動により、その後の時代が動くと読んでいたのでは無いでしょうか。籠城戦を成功させた優れた戦術家であると同時に、歴史をも読み切る希代の戦略家でもあったのだと思います。ちなみに、私は登山を趣味としており、千早城があった大阪の金剛山にも登った事があります。現在は頂上まで至る長い階段で整備されて登りやすくなってはいますが、この山は急斜面が連続しており、その昔は中々に攻め難い城であっただろうと想像した事を覚えています。^^;

    • @太田光児
      @太田光児 Рік тому +3

      戦国時代で有名な小谷城もハイキング気分では行けない。登城は、登山同然とおもった。

    • @takabon1085
      @takabon1085 Рік тому +3

      南朝を奈良の吉野山の寺社が応援していて、金剛山頂越えで山伏たちが上赤坂城に物資補給していました
      ま、皆さん書いておられるように登山同然ですから量は知れていたと思いますが、
      精神的には心強かったんじゃないでしょうか🙂

    • @memejiro7147
      @memejiro7147 Рік тому

      同感です👍
      実際、籠城後に 護良親王の令旨を九州四国から奥州までばら撒くのですが、令旨を書く公家は 頂上の転法輪寺に居たとも言われるし、呼応して戦った軍忠状は 千早に届いて 正成が了承のサインをしてます
      表で 派手なパフォーマンスで幕府軍をおちょくるのも 宣伝戦のうち
      彼の戦略は 世論の流れを「討幕」に向かわせる事だった と思います

  • @61taro29
    @61taro29 Рік тому +2

    タワーディフェンスの匠ですね。

  • @takabon1085
    @takabon1085 Рік тому +1

    当時の敗残兵の現実は悲惨です
    奈良の吉野山の寺社が南朝を支援していたこともあり、鎌倉へ帰る幕府軍は紀伊半島を抜けるまで、
    徹底的に山賊化した農民に襲われて、生き残った兵も裸同然の姿で自国へ戻ったようです
    当時の軍は食糧などは現地強奪でしたし、農民にしてみれば田畑を戦場にされてしまうので、
    敗残兵狩りでもしないと、とてもじゃないけどやってられないワケです
    豊臣秀吉が刀狩りをしなければならなかった理由がコレですね😅
    楠木正成は、地の利を生かしたゲリラ戦の名手ですね
    軍資金は当時、千早の山中で採掘されていた銀の鉱山から出ていたのではないか?と考えられています
    今でも、金剛山中に当時の銀山跡があります
    全く有名ではないですが、最初の幕府軍は楠軍の挑発で大阪狭山市の狭山池方向へ誘引されてしまい、
    狭山池の堤防の下で大合戦を繰り広げるなど、千早城に戦闘準備期間を与えてしまいました
    2度目の鎌倉幕府軍は、最初の戦で楠軍に協力して幕府軍に損害を与えた大阪南部の各村を、
    「前回の報復だ!」とばかりに徹底的に破壊し、蹂躙して回りました
    お陰様で我が地元は鎌倉時代後期から江戸時代初期まで廃墟化し、
    ペンペン草も生えないような悲惨な状態だったらしいです🥲🥲🥲

  • @feeniejp.w.1802
    @feeniejp.w.1802 Рік тому +3

    楠公は日本国無双の英雄

  • @赤山靭負
    @赤山靭負 Рік тому +1

    20万とか100万ていう軍勢数は嘘に決まってるよね。北条高時じゃあ大楠公に対して勝負にもならんよね。
    このときまだ鎌倉側であったからきちんと足利“高氏”と表記しているところ、実質的に鑑みて“北条幕府”と言い切っているところ、大変共感が持てます❗

  • @rx-79g91
    @rx-79g91 6 місяців тому +1

    攻めてもダメ、攻めなくてもダメ、兵糧攻めもダメで城を押さえてもダメ、奇策も通じないってどうしろと…

  • @himetanu
    @himetanu Рік тому +2

    凄いなぁ
    尋常ではない男ですね

  • @じゅじう
    @じゅじう Рік тому

    bgmの音量がちょうどいい

  • @sentarou6969
    @sentarou6969 Рік тому

    30年前の大河ドラマ太平記でこの時代のことは初めて知りました。今見返してもいいドラマですが、予算のせいでしょう、谷にかけた巨大はしごは出てきませんでした。大変な犠牲を出したんですね😅

  • @男岩-n6n
    @男岩-n6n Рік тому +1

    当時の日本の推定人口が700-1000万ぐらい…100万は大勢の比喩表現でしょうし、勝った方は戦果を盛るのでそれを差し引くべきでしょう。集合、指揮の問題もあるので散発的な戦いだった可能性も

  • @パトリシア-c3x
    @パトリシア-c3x Рік тому +3

    このあたりの話は、沢田ひろふみさんの漫画「山賊王」を読もう。
    戦の際の名誉ってものの恐ろしさを楠木正成は教えてくれますね。
    この当時、油は植物性動物性だけで、かなり高価なはず。
    よくもまあ、用意できたよね

    • @memejiro7147
      @memejiro7147 Рік тому

      金持ちだったんだよ💰
      当時の戦は まず戦う武士が自腹で戦い、勝ったあかつきに スポンサーから恩賞をもらえる
      貧乏では 戦は始められないんだよ
      他人の戦について行って、手柄を立てたと言って その分の恩賞をもらうのは 貧乏でも出来るから、たいていの中小御家人は 他人の戦について行って 稼ぐんだね
      でもやはり 自分から戦を始めるのは お金💰がかかる
      武具、武器、食料、馬や油も高価だし、情報を得るのに 大枚はたくかも知れない
      何より 軍事政権の幕府を倒す とか、さる🐒でも分かる無理ゲーに ついて行きたい奴なんかいないから、何かで釣って人を集めないといけない
      古今東西 戦争には 金💰がかかるんだよ
      正成さんが 何で財力を得ていたのか? 資料は無いから分からない
      何だったんだろうね😅

  • @左藤明-w7c
    @左藤明-w7c Рік тому

    小さい頃、正成を「まさなり」って読んでた。

  • @kurokuroneko3196
    @kurokuroneko3196 4 місяці тому

    魔術師め、名越勢を弄んでくれたな。

  • @user-dom_2002_alex
    @user-dom_2002_alex Рік тому +4

    足利高氏はいずれにしても裏切ってたとは思います。楠木の奮戦がなかったら新田が呼応してたかはわからないですが。源氏本流の2氏(足利・新田)と近江源氏佐々木氏が立ったことで反鎌倉が成ったと思いますので、楠木氏の奮闘は十分歴史を動かしたと思います。

  • @岸辺緑
    @岸辺緑 Рік тому +1

    物部氏の「稲城」
    すなわち稲を粗末にすると罰があたるのを利用した防衛策
    は籠城にカウントしないのですか。

  • @ぐりもあ-f6w
    @ぐりもあ-f6w Рік тому +11

    太平記の新田義貞が当時どんだけ時節を読めない凡愚・凡将だったかの解説もお願いしたいっす。

  • @ks1tw
    @ks1tw Рік тому

    千早城の戦いの幕府軍が橋を架けるも楠木正成率いる防衛軍が火計で退ける件、まんまキングダムで桓騎の函谷関での戦い方じゃん

  • @佐野レイ-w3q
    @佐野レイ-w3q Рік тому +7

    九戸政実の乱取り上げてください
    奥州再仕置軍の進撃で
    豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に徳川家康が加わり、仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家、前田利長が、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示している。奥州再仕置軍は一揆を平定しながら北進して蒲生氏郷や浅野長政と合流、8月下旬には南部領近くまで進撃した。8月23日、九戸政実配下の小鳥谷摂津守が50名の兵を引き連れて、美濃木沢で仕置軍に奇襲をかけ480人に打撃を与えた。これが緒戦となった。9月1日に九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ちた。九戸政実は九戸城に籠もり、9月2日には総勢6万の兵が九戸城を包囲し、以降攻防を繰り返した。

    • @koubutei-ryu-syu
      @koubutei-ryu-syu Рік тому

      このリクエストに答えてくれてup主ありがたい
      自分も気になってた

  • @正典高井
    @正典高井 Рік тому

    蚊帳の中から、片足出して、楠木正成これにあり❗
         ❔
    足、蚊が攻める
    じゃないかい‼️

  • @KOUMORIish
    @KOUMORIish Рік тому

    日本での元祖ダンジョンマスターは楠木正成かな?

  • @川端治雄
    @川端治雄 8 місяців тому

    三国志の蜀もこうやって魏や呉に勝てなかったものか...?

  • @安田吉東
    @安田吉東 Рік тому +3

    日本史上最高のス一パ一ヒ一ロ一で有る楠木正成!何故大河に成らないのか不思議で仕方無い!何らかの圧力が有るのは明らか

    • @勝也遠藤-x5o
      @勝也遠藤-x5o Рік тому

      90年代に吉川英治原作の
      「太平記」が大河で放映されて
      います。まあ、楠木正成が主役では
      ないですが…
      足利尊氏が主役でした。若い頃の
      真田広之氏が演じていました。
      楠木正成役は武田鉄矢ですけどね!
      しかし、今の変な大河と違って
      見応えがありました。

  • @arheim1
    @arheim1 Рік тому +8

    鎌倉時代の人口800万人です。

  • @ch.8194
    @ch.8194 Рік тому +2

    鎌倉軍弱すぎる…楠が強すぎたのか?

    • @takabon1085
      @takabon1085 Рік тому +1

      正規軍 VS ゲリラ戦ですね

  • @username_unknown_
    @username_unknown_ Рік тому +1

    てか戦国時代に何万とかの兵隊を遠距離移動とかさせてたけど飯とか泊まるのはどうしてたんだろうね
    今でさえそれだけの人数の食糧や水、衣服などなど揃えるとなると数日分でさえ大変なのに謎だよな

    • @太田光児
      @太田光児 Рік тому +3

      小荷駄隊が運搬。陣を張り夜は野営。一部の武将は食糧は現地で略奪。

    • @takabon1085
      @takabon1085 Рік тому +1

      うん。基本的に「現地調達」です

  • @伊藤風河-p5c
    @伊藤風河-p5c Рік тому +1

    いちこめ😊

  • @souaoki6131
    @souaoki6131 Рік тому +1

    この機械音声はほんま聞き取りづらい。人間のナレーションがいいな