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【訂正】0:00- ×丹後道主→◯丹羽道主1/26(日) 9:00-12:00 浦和パルコで「見沼田んぼ」講演会x.gd/PisEpお申し込みサイト(お支払いは当日現金で)x.gd/U8uHF
細かい所ですが、丹羽➡️丹波(現タンバ、古代タニハ←豊受大御神が絶叫?)です。元は旦波とされ古墳の木版や記紀にも表記された地名で、雲海から登る日の出?という説もあるようです。(丹後国風土記には田庭とされ、田庭➡️旦波➡️丹波の様です)
@@maomao96363 豊受大神さまホツマツタエでは天照さまの叔父にあたる方、天照も豊受大神も男性神として、皇室のあり方教えられ正室に瀬織津姫さまに12人の側室制度にされました
最後に先生が『夕陽がキレイ』とおっしゃって居ました。日本の神々は正にこれなんじゃないかと思います。人智を越えた自然の崇高さ。
日本の神々は、①自然そのもの、②祖先神です。
日本てほんとに素晴らしい国です 残っているものがたくさんあって 保存もされて歴史が長いのに繋がりが分かる事 それを知識で頭に入っている先生も凄いです。尊敬します
茂木先生いつもワクワクする動画をありがとうございます❤ 「福島県では3世紀中頃に 会津で前方後円墳が造られます。4世紀になると、 おおやすば 大安場古墳(郡山市)や玉山古墳(いわき市)、桜井 古墳(南相馬市)など中通りや浜通りでも有力者が 現れ、古墳が造られました。古墳が登場する背景 には、広い範囲での人々の移動があったことが考 えられ、会津では北陸地方で使われる土器が、浜 通りでは東海地方で使われる土器が出土します。 このことから福島県の古墳文化は、それぞれの地 域から伝わってきたことが分かります」一昨年行った、福島県立博物館の説明板の一部を貼りました。これを読んで四道将軍の話は史実だと感じました。
神話と一致してますね!
いつもながらワクワクする動画、ありがとうございます!会津、伊佐須美神社神社ですね~凄いパワースポットです!
出会いの地。
茂木誠先生今日も本当にありがとうございます。大変お勉強になりました。私は母親が岩手県ですので、阿弖流為ともれはとても身近に感じます。勇敢な民だったけど最後は処刑されました。何とも悲しい終わり方です。何だか涙が溢れてしまうのです。
いつも素晴らしい動画配信ありがとうございます。教科書では習わない様々な歴史のご紹介いつも目からウロコで拝聴しています。
何となく見始めましたが見応えあり過ぎて驚きました。ありがとうございます😊
先生がいらっしゃる所のお空には龍神様がよくおいでになりますね。
茂木先生って本当に博識ですね。神話は面白い、日本の真の姿が見えてきます。今日も感謝です😊
道民です。道南出身です。道南は渡島半島を差すんですけど、エミシの一派がヒグマを持ってきたことと、「渡島」と出て来たので、驚きとともに古代日本が身近に感じました。北海道って、日本の歴史の中ではなんとなくミソッカス扱いで、これまで寂しく感じていました…。
68歳、勉強になりました。ありがとうございます。
遺跡や科学の発達の裏付けによって、そしてそれを追って行きながら動画にアップして下さる先生の存在に感謝です。これは正しく日本文明の流れなのだと思うと感慨深いものがあります。この先どのようにして日本人の血が混じって行ったかも楽しみです。
茂木先生、初めまして。最近このチャンネルを知り毎日興味深く拝見しております。この古四王神社は地元です。歴代の宮司さん一族が同級生でした。ここは市内の中でも、別空間のような場所です。近隣からは縄文式土器がゴロゴロ出てくることもあり、昔から不思議な様々な言い伝えがあります。わざわざ辺境地まで来て紹介してくださりありがとうございます。
おおっ! 田村神社の亀の件、聞いてみてください。
先生❣️北海道の倶知安町に比羅夫という地名があります。ニセコ・ヒラフスキー場で有名です。阿倍比羅夫そのままの名前が地名として漢字も変わらずに残っていたんですね😮ビックリ‼️学校の授業で蘇我入鹿が出てきた時には…イルカって🐬?と子供心にも腑に落ちず、何故?イルカ?が頭をグルグル🌀して、その後の授業は全く耳に入ってきませんでした😅坂上田村麻呂が金髪の渡来人…って…この年になって判明するなんて思いも依らず驚きました🫢先生の唇ってお釈迦様に似ていると思ってしまったのは私だけでしょうか…☺️
いつも配信ありがとうございます。勉強になります。
先生ありがとうございました。秋田市に住んでいながら知りませんでした。アギダが秋田になったのは明治維新移行なんでしょうね秋田市長は今、穂積市長で知事佐竹さんでした、お辞めに成りますが田沢湖近くの町出身です
▼ このサムネ良しです!!〈“毛”の国〉こと、上野(群馬)、下野(栃木)の由来にそそられます!! 阿倍比羅夫が〈“越”の国〉の長官というのも、始めて知りました。 吉備、筑紫、越、毛、肥、豊...(“総”もありますね) 律令制で、前中後に分けられる前の、行政区分の地図と物語は、浪漫があるし、かえってわかりやすい気がします...
秋田城の外壁の門辺りに野球のバックネットがありました。高清水小中学校のグラウンドでした。とても良い環境で育ちました。あの辺りには大嶽丸伝説があり、田村麻呂が弓を射て倒したとのことです。あと、面白い地名が残ってて、将軍野や幕洗川それです。私は、今は京都にいますが、高校を卒業するまで将軍野にいました。
地名は土地の記憶です。
面白くて3回見ました😊四道将軍の遠征、すごくリアリティーを感じることができました。大毘古さんから子孫の阿部比羅夫まで、そして越から埼玉まで繋がる歴史について驚くことばかりでした。
古四王神社がずっと気になってました。お参りしたいと思ってましら、このチャンネルが出て来ました😊嬉しいです🎶
お疲れ様です😊
秋田県は日本で唯一都道府県の中で「一の宮」の神社が存在しない県なんです。その理由は、出羽国の「一の宮」が鳥海山大物忌神社。もともと秋田県(羽後国)は山形県(羽前国)と合わせて出羽の国だったので、秋田県側には「一の宮」が残らなかったのです。新一の宮を制定した時には北海道神宮とか沖縄の波上宮は指定しているのに、秋田県だけ無いのはちょっと納得できないですよね。私が思うに、この「古四王神社」は「一の宮」に相応しいと思っています。延喜式神名帳にこそ載ってませんが、三代実録には記載があり、歴史が古いのは確実です。ですから近代には国幣小社にもなっているのですし。
意味があるかどうかわかりませんが、古四王神社宮司は亀井さんです
宮司の亀井さんの遥か御先祖様が、田村麻呂さんから、絵に描かれているような亀の甲羅のような兜を頂かれたかもしれませんね🐢
何と!
@@maomao96363 関係の有無は分かりかねますが、由利本荘市の八幡神社の宮司さんも亀井さんです。
たしか?唐松神社の宮司は物部さんです
秋田城行きました!将軍野というとちま近くにありますね。今でも石油が採れるところですよね!先生は本当に博識で勉強になります!
東北には、阿部さんが多いですよね。宮城県の酒蔵、阿部勘は有名です。 越の酒蔵 あべは入手困難酒です。糸魚川にはヒスイの産地 越後一の宮弥彦神社は、ニギヤハギゆかりの神社。
阿部さん安倍さんは松浦から唐津、福岡山口の玄界灘沿岸も多いですね内乱首謀者の一族として流されて定住したらしいけど刀伊、元寇でも活躍してた。
弥彦神社、行ってまいりました!ua-cam.com/video/1VStgdXIxSg/v-deo.html
@ 阿倍比羅夫が晩年、大宰府に赴任してますので、そっちの一族も一応いるのかもしれませんが、福岡や唐津なんかの玄界灘付近の場合は海神安曇一族が支配していた地域ですので、こちらは安曇一族の子孫が基本ですね。大和政権下で一時は水軍のトップにまでなっており、各地に勢力をのばし子孫が散らばり「安曇」の地名を残しています。安曇→阿部、安部、阿倍などの姓に変えたと言われてます。
秋田県横手市在住です。古四王神社は県内あちこちにありまして我が家から近くにもあります。美の国秋田を分かりやすいご解説ホントに勉強になります。いつか横手城さ来てたんしぇ~😊
いつもありがとうございます。貴重な動画いつも勉強になります岩手花巻に胡四王神社があります。関係あるのかもしれないですね。東和町にアラハバキ神を祀った丹内山神社がありますし、至るところに坂上田村麻呂系の神社が相当あります。隆起した早池峰山の周りの神社は瀬織津姫が御神祭で岩手には不思議がいっぱいあります。
おもしろー。古代史は分からないことが多いけど、神話と思われていたものが考古学で裏書きされたりするのも楽しい。遺称地を探すのも楽しいし。畿内や北九州以外の発掘調査ももっと進んで欲しい。
白神山地など縄文の匂いも魅力的な秋田県ですが、ビジネス社から出た「縄文と神道」という本は良いですよ。茂木先生には簡単過ぎますが、日本の精神性が分かります。同じシリーズから浜崎先生の「日本人の断絶を乗り越える」という本も発売されて、ここ数年で一番役に立った本として何回も読み直してます。勉学はしてみるものですね。めちくちゃ難しい小林秀雄や福田恒存が少し身近に感じてきました
なるほど。
この遠征ルートは北前船の影響で能登地方も含めて、京都文化圏に属しているのも面白いです。酒田は古来から陸奥と北陸地方の結節点であり、近隣の鶴岡は出羽三山を有するなど庄内地方は経済面、軍事面、信仰面でも重要地点ですね。
ヒグマ、、、で思い出しましたのが唯一、北海道犬と秋田犬の犬だけがヨーロッパ系のD N A
先生 美しい皇の国をありがとうございます。日本史で阿倍比羅夫はやりましたが、何もわかっていませんでした🙀。あらためて勉強したいと思います!新潟市中央区にも「高志」という地名があります。
秋田県の大仙市にも古四王神社がありますよ
新潟・山形・秋田。比羅夫の遠征ルートに沿って分布しています。
自分で香辛料を調合して、シーフードカレーを作りながらお話に耳を傾けていました。そして遅めのランチが出来上がり、パソコンの前に持ってきたら、画面に映っているのは秋田城の水洗トイレ!!現代はものすごい事まで分かってしまうのですね!お魚系の食生活だとサナダムシ、、、笑いながらシーフードカレー美味しく食べてます😄😄そうそう、吉備津彦さまって桃太郎のモデルと言われているお方ですよね!
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秋田城の城主を秋田城介(あきたじょうのすけ)と呼び、古代から中世の日本において、出羽国の秋田城を専管した国司である。はじめは官職ではなく、国司の一人の任務にすぎなかったが、平安時代中期に出羽城介という令外官となり、鎌倉時代に秋田城介と呼ばれるようになった。最後の城主、秋田城介は織田信忠です
古四王神社の日本海側に降りていく参道からも、綺麗な夕陽が見られたでしょうね🌅朝陽が昇る太平洋側沿岸にも、対応する神社があるかもしれませんね⛩️
北海道に「比羅夫」という地名がありますが、阿倍比羅夫に由来があるという説が有力なようです。北海道から九州まで、当時としてはとてつもない広さで活躍した偉人ですね!「渡島」(おしま)はかつて「わたりしま」と言われていたようですが、津軽の人が「おしま」と言っていたので、それが今につながっているようです。粛慎、蝦夷など、当時の日本は民族的に多様で、秋田は渤海国と人や物が行き交う国際交流都市だったのだと想像します。東北の歴史は興味深いですね!
秋田にいらしてたのですね。私は秋田に住んでいます。地元の神社は阿倍比羅夫が遠征した際に作ったとされる八幡神社があり、東北最古のようです。青森の深浦には田村麻呂が遠征の際に建立した円覚寺があったり、藤原泰衡のなくなった地もあったりと物悲しくもあり昔に思いを馳せたりできる地です。
東北を歩くと、歴史が完結する感じがします。
秋田のジジババは普通にアギタって言うから、単純にエミシ訛ってたんじゃね?説(笑)オガが部族長の名前ってのはビックリした男鹿半島の根元というか行き止まりに船越って上陸し易そうな浜があるので、あそこに上陸した?そういや横に朝廷っぽい響きの天王もあるなー と興味深い動画でした。
トイレネタ、意外に好きです。笑えました!
田村神社の海亀は、ひょっとしたら年号に関係するのかもしれません。ある方のブログより抜粋すると、田村麻呂をめぐる伝説は、東北地方を中心に各地に存在しており田村の地名に通じることから田村地方にも分布し、三春城を本拠とした田村氏は、田村麻呂の子孫と称している。田村麻呂の出生地を、田村町徳定とする伝説も、悪玉姫(あくだまひめ)をめぐる物語の一つである。土地の女である悪玉姫が結ばれる相手は、田村麻呂ばかりでなく、その父親である苅田麻呂(かりたまろ)とするものがある。実際に田村麻呂が誕生したのは758(天平宝字(てんぴょうほうじ)2)年である。その前年に苅田麻呂は、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱に際して、反乱の首謀者の一人に、反乱の妨げにならないようにと都で拘束されたことが確認できる(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)。この時点で苅田麻呂が都に居り、有力な武人の一人と認識されていたことが知られる。苅田麻呂が陸奥国と関係を持つのは、770(宝亀(ほうき)元)年に鎮守将軍(ちんじゅしょうぐん)に任じられたのが最初である。あくまで推測ですが、この時代の年号により、田村の人達が海亀を田村麻呂の父神に奉納しているものかもしれませんね。または、大彦の父君が正史の通りに崇神天皇とすると、物部氏の神話には亀🐢のエピソードは薄いので、物部系崇神王朝ではなく、アマべ系磯城王朝オシヒト第6代孝安天皇の嫡流であることを残すために、大彦の祖先であるアマべ氏の倭国造の祖、または大倭国造、大倭直の始祖である珍彦、宇豆彦、椎根津彦の浦島太郎伝説も関係してそうな気がします。また、さきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に書かれた大彦子孫のヲワケ(イ)という意宇彦・大彦の子孫が若タケル大王仁徳天皇に仕えたと書かかれた内容から、このヲワケイという人物は、おそらく大宮氷川神社を建てた土師氏の、兄多毛比エタケイの縁者かもしれませんね。
当時の食生活がわかる…渤海からのお客様の落とし物?いやもう本当に面白い🤣そんな驚きの後の「ああ!夕陽が綺麗😍」が素敵です
鹿島神宮の御祭神・武甕槌神がおわします常陸・佐竹氏が関ヶ原で西軍に加わって、江戸に来た徳川から秋田藩へ移封されて、北陸~下越~羽州の影響というか文化圏である『コシ』の国の神様をお祀りするのは、時代の流れでもあったのでしょうが、因縁めいたものを感じます。昔ツーリングしてた時に、11月文化の日に北海道で雪に追われて、秋田まで南下しましたがさらに雪に閉ざされて、秋田市の秋田の柵近くで数泊した記憶があります。古四王神社にもその時詣でましたが、日本海文化圏の『古志』国についての知識がまだ無かったので、気比神宮(神功皇后)、彌彦神社(天香久山命)、糸魚川の奴名川姫(翡翠)、といった諸々を関連付けて説明できなかったのが残念です。宮崎正弘氏の著書では継体天皇(オホド王)が古志の大王ではないかという説を唱えておりますね。
宮崎先生の『応神天皇と継体天皇』ですね。あれはおもしろい!
昔から「あきた」だったし、おがもつかるも今に残る地名なんですね。栃木や南福島辺りは、昔から「とち」と読んでいたのも残っています。
本殿の手前 通常なら狛犬さんが鎮座すべき場にいらっしゃらないのが不思議です。
0:47 丹後道主→丹波道主(タンバ) ではありませんか?越→どの様な由来か不思議でしたが古四だったのですね。(但馬の出石神社は元、伊豆志、いろいろ改変?されているようですね)ありがとうございます。
ご指摘ありがとうございます。固定コメントで訂正しました。
@@maomao96363丹羽➡️丹波 です。
山形県山形市門伝、富神山の麓に大之越古墳があります。この辺りは蜂子皇子を羽黒に同行差配した、山伏最高位大越家の初期拠点のあった地です。
坂上田村麻呂は大越家習合徒一門の代表格と記載があることから、日本海側には踏入れなかったのかも。
先生、秋田市寺内とか髙清水公園の秋田市城や古四王神社ありがとうございます。旧国道沿いにありますね、私、地元の人間で寺内じゃないのですが高い所に古四王神社あります。看板は道路だから分かるのですが、一回も登った事ありませんでした港に下がった神明社には良く行きました。髙清水公園にも神社あって、東京の靖国神社のような神社あります。桜が咲く綺麗な所です唐松神社もありがとうございました。
ありがとうございます。岩手県一関市に「田村の梅」というおいしいお菓子があります。東北の歴史楽しみにしております。岩手県に宮古市というところがあったり、浄土ヶ浜・月山・金ヶ山というところがあったりなかなか面白いと思います。言葉のアクセントも少々東北弁とは異なっていたり
岩手はまだ探索しておりません。ぜひ行ってみたいです。
田村麻呂は済州島の人ではないかと考えています。亀も多かったと思われます。それから、高句麗は扶余族ではないか?だから渤海も豚食だったのかと。色々と妄想して楽しんでます。
熊谷あたりに古代王朝があったような話は本当なのでしょうか、、。稲荷山古墳は春に桜がきれい🌸🌸🌸
古代ギリシャ人やローマ人も、棒で、お尻を拭いていました。どこのお城だったか思い出せんませんが、ローマ人は、棒の先に海藻のスポンジを括り付けたもので拭いていたとありました。水でお尻を洗う習慣は、今も、珍しいことではないですね。マレーシアやインドネシアの田舎の個人宅にお邪魔した際は、水の入った桶から水を汲み、洗うようになっていました。
テルマエ・ロマエで「尻」ました。😅
岩手県北上市に行くと普通に照井さんとかいるよね
福岡市の鴻臚館跡でも水洗トイレとその残留物は発掘されて回虫なんかも出ているようです。渤海の人は鴻臚館には来なかったのでしょうか。新羅人がいるから?
「毛野国」の「けの」の由来も知りたいです。
やはり福島県の会津盆地の北部、ラーメンで有名な喜多方市にも、小四王山、小四王(腰王)神社があります。市の西部に位置し、もしかすると山頂から会津盆地が見渡せるような場所になっているかもしれません。
因みに喜多方市には舘ノ内遺跡という古墳があり、それはなんと四隅突出型墳丘墓とされています。この辺りまで出雲の影響が及んでいる可能性があります!
いつもありがとうございます。地名 会津・男鹿の由来勉強になりました。
父が秋田の能代の北の方出身です。男鹿、能代と古代日本と共通の名前あってワクワクしました!みまはまという地名はないですが、みねはまというところが能代近辺にありますね!関係あるかな?
茂木さんありがとうございます!
能代の夏祭り、役七夕での音頭上げに阿倍比羅夫、登場しますね。
いつも配信有難うございます❤ お社に飾られていた亀の甲羅は卜占に使役したのでは?と思いました。でも破れ目は見えなかったから違うかも。😅
東北みちのく一人旅ですか😅ここで一緒に。
まさかの古四王神社!❤毎日、車運転しながら武甕槌神さま大彦さま、比羅夫さまにお祈りしながら、仕事いってました!めっちゃ感激です!神社の御参りもしていて、私も田村神社に亀?カメ?なんで?って思ってました〰️どなたかわかる方、教えてください。(◔‿◔)自分なりに色々、調べて行ってみたけど、わからなかったことが茂木先生の解説頂けて、すごく分かりやすく理解できました。(≧▽≦)ついでをいうと、武甕槌神さまは、なぜ古事記において、加具土命の血から産まれたという描かれ方をされたのか…?ずっとずっと、不思議でならないんです…気になって気になって…夜しか眠れません…
カグツチ→カヅチ?
ミシマセさんは、最初は刃向かっていて、大河でエミシさんを助けて勝利してから、帰順してクマさんを持ってきたとのことでしょうか?エミシさんは、純縄文人と解釈しないと、アイヌ人と混同してしまいます。アイヌ人=縄文人=原住民と長いこと思いこんできました。漢字を日本語に当てはめるために使われていたのが面白い。漢字自体の意味はなかったのでしょうか?漢字には意味の成立ちがあったと思いますが。
この時代(飛鳥〜奈良)にエミシと呼ばれた先住民は、続縄文文化・擦文文化の人たち。アイヌはまだ樺太に住んでいました。漢字は基本的に表音文字として使っています。
@@maomao96363 様ありがとうございました。
討伐すべき対象であった蝦夷なのに貴族である蘇我氏に蘇我蝦夷という名。これが子供の頃から謎でした
このもと、なんか日本海を仰いでみたくなりました。一寸かもしれませんがね。たぶん、いま行ったら厳しい寒さと雪景色があるのでしょう。由芽がありますね。もうすぐ成人の日ですね。厳しい時代は繰り返しますが代々の日本人は代を繋ぎ少しづつ花を開かせたのでしょう。自然の摂理に沿ってね。日本人としての代をつなご。
古四王神社と「越の王」については秋田市太平のお寺のご住職で昔布教師をされていた和尚様から酒席でお聞きした事があるような恐らくは北前船の話から発展して私と母方の苗字(武藤/下間)についての由来の話、そこからの流れだったかと記憶しています数十年振りに懐かしい言葉を偶然目にしたので、不調法ながらコメントを残させて頂きました🙇🏼♂
秋田の歴史を取り上げて下さりありがとうございます😊古四王神社御祭神の大彦命の四道将軍のお話は、出雲口伝だと正史とはだいぶ異なり、後に朝敵の蝦夷とも呼ばれることになるアベ氏祖先でアマべ氏子孫の大彦が、A.D.2世紀中ごろに九州から大和への神武東征神話起源の一つなったと思われる九州物部氏五瀬、ウマシマジの第一次物部東征により、物部氏の武力の脅威から大和を逃れ、出雲富家の協力を断られたため、近畿に帰国し、息子沼川別と伊賀國で王国を作り、アベ姓を名乗り敢国神社を建て、琵琶湖東南岸野洲に近い伊勢遺跡でサイノカミ信仰の近畿式大型銅鐸祭祀を行い、次第に物部勢に追われる様に北陸から東北津軽十三湊に逃れ、後に日本の国名に繋がる日高見国の元になるアラハバキ王国を作ったのは、第10代崇神天皇の代ではなく、倭国大乱と呼ばれている第6代オシヒト大王孝安天皇の皇太子だった様です。A.D.107年ごろにオシヒト大王は、後漢に奴隷を献上しに出向き倭国王帥升の後漢名を受けたようです。正史の崇神天皇の皇太子で四道将軍の大彦が北陸に遠征した物語は、後の景行天皇の遠征話である倭武尊の東国遠征の逸話にヒントを得て大彦が物部氏に追われて津軽まで落ち延びた経緯を基に描かれたように思います。故郷秋田の湊町には、奈良時代に建てられたという高龗神を祭る古い龍神神社跡や、本姓安倍の安東氏寄港地として安東氏ゆかりのお寺が今も残っています。
出雲口伝をぶちこむと話が錯綜しますので、あくまで正史と神社の伝承を中心に動画を作ってあります。
@ 茂木先生様誠に申し訳ございませんでした^_^
千葉県船橋市に船橋大神宮があります。その船橋大神宮は船橋市に鎮座する神社で、本来は、『意富比神社(オオヒジンジャ)』を正式名称として呼ばれているようです。景行天皇40年(110年)創建と伝わる古社で、延長5年(927)に完成した『延喜式』にもその名が記されています。 日本国民の総氏神とされる天照皇大御神を御祭神としてお祀りしており、伊勢と日光を参拝したのと同じご利益がいただけるパワースポットです。意富比神社は、恐らく意富比垝に何等かの関係があるような感じがします。境内に建つ、明治時代に民間の灯台として活躍した「灯明台」は見どころの一つ。和洋折衷の構造で、千葉県の有形民俗文化財に指定されています。
行ってみます!
四道将軍て元々の勢力基盤に(個人的推測ですけどタケヌナカワワケはヤマトタケルの実の父)戻ってヤマト政権の権威を基に勢力範囲を更に拡大したと言う見方も出来ると思います。ヤマト政権は連邦国家なので
ヤマトタケル東征と完全に重なりますね。
人の嘘、時の嘘、空間の嘘に紐解く糸口を残し、後々の賢人に解明されることを望み残した記紀天皇が現存されている中ではありますが茂木先生の探究心が満たされることを祈ります。
どうも有難うございます。航海は波任せ/風まかせということですが、古代人の航海術についてはもう少し調べなければならないと思います。縄文人は黒潮を横切って通商を行っていました。それから、縄文人と太平洋のポリネシア人との関連もあるのではないかと思います。古代のポリネシア人はダブル カヌー、つまり、二連カヌーで大洋を遠くまで航海していました。フィジーの王国が勢力を誇った頃には、ポリネシアやメラネシアを含んだ大通商圏を持っていたと言われています。当然、航海術が基本にあります。海に囲まれていた縄文人が彼らより劣るということは考えづらいです。時代はずっと下って、琉球王国の頃、大陸との通商は主に琉球人の航海術によっていたということが文献にあるそうです。つまり、Chines は沿岸から数キロも離れると操船ができなくなり、それから後は琉球人が操船したと文書に記録が残っていると聞きます。ですから、日本を中心としたか海洋圏における操船は全て日本人が請け負っていたと思ってよいのではないでしょうか。渤海国との通商も同様でしょう。大体にして、巨木に恵まれた日本でポリネシア人以上の船が作れない道理がありません。(追:今のシングルのカヌーでも本州から佐渡ヶ島まで日本海流の分派を横切って、一人で渡ることができます。十分な経験があれば、驚くほどの航海ができたはずです。)
「黒潮を横切って…」とは、どこのお話ですか?
伊豆諸島の神津島の黒曜石が日本を超えて国外にまで流通していたというテーマを書いた本を読んだことがあります。距離的には近そうに思いますが、フェリーが東京湾を出てから暫く進むと、黒潮に入り波が非常に高くなります。そこを縄文時代から行き来していなければ、神津島の黒曜石が流通することはありません。神津島に行けば、今でも黒曜石がゴロゴロしているそうです。
大彦は【安部氏の祖】と正史にも記されています。【東日流外三郡誌】では長髄彦とその兄【安日彦】が東北へ逃れ、安倍王国を作ったと記されています。出雲口伝では、長髄彦は大彦であると伝えています。わたしは正史に記された長髄彦は時代を越えて2人いると推察しています。長髄彦だけでなく、多くの登場人物が、歴史上の実在した人物を重ねたストーリーが展開されているように思います。古事記自体が壮大な和歌として綴られており、いくつもの意味が重ねられています。北陸や関東の国造の多くが実は大彦の子孫であったことが分かっています。大彦は越から信濃に入り、更級郡布施の五明長者窪を本拠地とし、その地で亡くなったと地元では伝えられています。屋敷跡には布制神社が建てられ、大彦がお祀りされています。その近くの山には大彦の墓と言われる【川柳将軍塚古墳】があり、その地は大彦一族の布施氏によって治められてゆきます。会津で出会ったのは北陸道からやって来た大彦勢と東海道を進んだ沼河別勢。当人は亡くなっても、その一族たちはそれぞれ進んで東北へ入っり、道中、途中下車した人たちがその地の国造などになって行ったと思われます。わたしの母の家系も、おそらく、たどれば、【津軽安東氏】に繋がります。大彦族ですね。
場面最後は『2本のケミカルトレーと散布途中のケミカルトレール1本』。東京には見かけない。この県地域にはよくある光景。非公開環境実験?
高志というと、古事記の「高志の八岐大蛇」という表現が最初に思い浮かびました。出雲とも高志は関連があったのでしょうか。
亀 亀甲紋 出雲系との繋がりがあるのかな…なんとなく直感なので 調べてみて下さい!
コシヒカリのコシはこれだったか
阿倍比羅夫や胡四王神社を取り上げ伝えてくださりありがとうございます。阿倍比羅夫さんの一生が最後、九州で終焉したことがはじめてわかりました。私の住む岩手には花巻に胡四王神社があります。宮沢賢治記念館が建つ小高い山頂にあり、古代安倍氏が祀っていた神といわれており、北を向いて建てられているそうです。機会がありましたら、花巻の胡四王神社のご紹介も、宜しくお願い致します。
行ってみましょう!
秋田にいます。この神社知りませんでした!!亀=甲羅=六角形=出雲、関連してないかな?と。出雲族は北から島根まで降りて行ったと聞いてます。事実島根のなまりと東北のなまり(日本海側)は大変似てます。土着宗教として出雲が絡んでいるのかもしれませんね。
なんせ8代-10代の孝元・開化・崇神天皇の3代がポイントですね・・。面白いですねぇ、、茂木先生がより!!数々の記述・口伝から、より精度を上げて真実に近づくことを希望します!!😊
北海道の倶知安町に比羅夫という地名が残っています。スキー場で有名ですね。阿倍比羅夫が蝦夷地まで遠征して来ていたのは事実ではないでしょうか?大河のほとりの大河は尻別川ではないでしょうか?
阿倍比羅夫の蝦夷征伐の目的は、新羅遠征に向けて兵の増員でしょうか。
朝鮮情勢が悪化したので、エミシと和解したのかもしれません。
水洗トイレ凄いですね。(✯ᴗ✯)欧州では城壁の外に撒いていたと言いますから、豪華で煌びやかな服の貴族たちも、糞だらけの道を歩くために、ハイヒール👠を履いていたというお説があるほどです。近代になっても、ドラマ化されたイタリアの国民的ドラマ【ピノッキオ】では、お腹をすかして物乞いしながら町を歩くピノッキオに、建物の上階の窓から、罵声とともに水がぶっかけられるというシーンがありますが、あれもどうやら尿を捨てていたようです。古代ローマでは、ちゃんと大衆トイレが作られていたので、時代とともに後退することも、往々にしてあるということですね。古代ローマ人のお風呂好きは有名ですが、中世イタリア人は入浴をほとんどしなかったので、衛生面での差は格段にあったと思います。ペストなどが大流行するのも理由があるのですね。現在でも浴槽のない家も多く、シャワーだけで生きている人も普通にいます。
mayumi🌻さま毎日入浴出来る習慣のある水の豊かな日本で生活できるのは幸せなことなのですね(^^)
@@nihontaro9さま前の家は浴槽がなかったので、新しく家を建てるときには、「小さくて良いから浴槽だけはつけて欲しい」というのが、第一希望でした。夏はいつも水不足に悩まされます。庭に張った大きめのビニールプールで汗を流して寝ています。💦
@mayumi3300さん、テルマエ・ロマエの映画🎞のケロリン🐸の黄色い風呂桶と濃い顔を思い出してしまいました。🐸はサルタヒコ大神の神使ですね😂
大切な日本の軌跡 ですね。この頃位の年代に宇宙規模の 何かと 地球に何か 出来事が在ったのか🧐 気に成ってます🤔…。
なんだってぇ~の系譜と日本の振り返り・・・脳内ワチャワチャです w昔は右書きだったんですね~左手の人が多かったんでしょうかね?と改めて疑問視してしまった w
東アジアでは毛筆を使っていたので、左←右で問題なかったのです。
@@maomao96363 なるほど~間の取り方が優れていたんですね~木彫技も凄いし~積年のモヤモヤが解消!!ありがとうございましたぁ~
日高見の国…東北地方…会津も国津神の地…大事なものはトキがくるまで隠される…牛頭天皇 素戔嗚、大名牟遅神、少名毘古那神、大山祇やら会津暦、戊辰戦争迄…歴史っておもしろい…
坂上田村麻呂はアテルイらの助命を嘆願したが聞き入れられずこれを哀れみ清水寺に仏殿を建立し鎮魂したと小林恵子(やすこ)先生の本で知りました。ところで桓武天皇も田村麻呂と同じような風貌ではなかったでしたっけ。桓武は天智天皇派ですが何か天武の流れを感じています。ところで粛慎はオホーツク文化圏ですか?アイヌもオホーツク文化圏と聞いたことがあります。アイヌとはどういう関係になるのでしょうか?
武内宿禰が仁徳天皇に北の果ての豊かな地をしりべしと名付け紹介されました。こしのみちのしりは越後ですから、えみしのみちのしりは後志?なのでしょうか。
茂木先生、秋田の市街地は現在同時多発的クマ🐻テロが発生中の模様です。充分にお気をつけ下さい熊🧸
弥生人と縄文人との和合は戦争もあったんでしょうが、結局、【大和・日本人】に併合されていったんですよね!
この場所はすごい。スキタイ系の呪術を越えるくらいの論理を持っているのが、測り知れる、、、、。江戸時代に強化していなければ。
地元の天神神社。阿倍比羅夫が必勝祈願したという伝承がありますね。秋田県北。
追加で。「あぎた」という発音ですが、今でも津軽の人は「あぎた」(アクセントは先生と違いますが)というように、発音してませんかね?母の実家が津軽でして、実家に帰ると、みんな「あぎた」って発音してたものですから。
スポンジに水が染み渡るような感動をありがとうございました(≧▽≦)東国の歴史をかじらせて頂くとなぜかじんわり懐かしい感傷があります。古い日本が強く残っているように感じるからでしょうか(。・ω・。)ノ
主題からずれた話になりますが、地図を観ると、出雲や信濃は四道将軍の遠征経路にはない僻地なのが不自然なんですよね。さらに、四国の話題が国生み以外では記紀には無い?😓
織田信長の方面軍と同じですね 信長もそれに倣ったんですかね
他でも書きましたが、秋田城最後の城主、最後の秋田城介が織田信忠ですからね発想は同じだったのではないでしょうか
いつも ありがとう
亀とは祭神 武甕槌命(甕=亀)のことである。大彦命の祖母 坂戸由良都姫は坂戸天物部命の末裔と思われ、坂戸天物部命は稜威雄走神の子にあたる。そして建御雷神もまた稜威雄走神の子である。つまり坂戸天物部命と建御雷神は同一人物か兄弟もしくは同族関係である。物部氏は物部八十氏と言われ、通婚を重ね複雑化しているが、一部を紐解けば次のような妄想に仕上がる。天穂日が山陰に降臨するより前から、日本海側には広く鍛冶集団おり、氏神を天火明としていた。後に天穂日(因幡素兎)が因幡に勧請されると、因幡にいた天火明の末裔(伊福部)は部民となり、兎部(宇部)と呼ばれる様になった。しかし素戔嗚が日本海側の覇権を握ると天穂日は兎から鳥となり、兎部は鵜部となった。時代が下り、神功皇后・武内宿禰命に日本海側を制圧されると、鵜部は宇部となった。故に伊福部氏は、氏神を天火明とし、系図に素戔嗚や天穂日が入り込み、宇部神社の祭神が武内宿禰という複雑な事になっている。伊福部の末裔は、後世に山背や交野へ拠点を広げ、淤美豆奴神(武位起命)の時代に天之冬衣神が政権で存在感を強くした。淤美豆奴神は謀略で失脚し、天之冬衣神が出雲の盟主となった。天火明、天香具山、天村雲とは名前の意味からも鍛冶にまつわる神名であり、饒速日という五穀豊穣にまつわる神名とは独立して世襲された。天火明=饒速日なのではない。天之冬衣神は大年神側から饒速日を、伊福部側から天火明を襲名しており、天香具山、天村雲とはまた違った流れである。大彦命は式内・川枯神社のあたりに母方の支持基盤があり、少彦名(天若日子)もまた同じ地域に母方の支持基盤があったと思われる。
ちょうど昨年末に、孫たちを連れて、埼玉県のさきたま古墳群に行ってきたところです。稲荷山古墳から出土した国宝の剱(471年製?)、古墳の被葬者?ヲワケの臣の祖先が「オオビコ」さん、子孫に「阿倍比羅夫」さん。(将軍山古墳の被葬者はヲワケと比羅夫の間?)銘文によれば、オオビコさんを初代とすると、ヲワケは8代目になりますね。崇神・・・雄略・(・・斉明)、繋がりますねえ。日本書紀はホントに日本の歴史書なんですね。興味が尽きません。有難うございました!
さきたま古墳群の動画です。ua-cam.com/video/b1xoUeBjbSw/v-deo.htmlsi=-qtQMntfBgP6Aj_i
金錯銘鉄剣。以前は間近に見られる国宝いつか観たいと思ってましたが、調べてみたら、今は現物を展示してないのですね😢
坂上田村麻呂が初代征夷大将軍ということで、坂上は大きく取り上げられるけど、阿倍比羅夫は坂上と比べると扱いがそれほどでもない。北海道まで影響力を広げた功績とかを、左派的な歴史学会は認めたくないから、あえて阿部に触れないようしているのではと思っています。
田村麻呂の前に、大伴弟麻呂という人が征夷大将軍になってますね。
@@maomao96363 さん確かに初代は大伴弟麻呂ですね。失念してました。復習しときます。
崇神天皇の在位期間は、紀元前97年から紀元前30年魏志倭人伝より前だろうから、邪馬台国は奈良でしょうか?
崇神天皇の都は、三輪山の麓の纏向遺跡。紀元後3世紀の中頃ですので、邪馬台国と重なります。
【訂正】0:00- ×丹後道主→◯丹羽道主
1/26(日) 9:00-12:00
浦和パルコで「見沼田んぼ」講演会
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細かい所ですが、丹羽➡️丹波(現タンバ、古代タニハ←豊受大御神が絶叫?)です。
元は旦波とされ古墳の木版や記紀にも表記された地名で、雲海から登る日の出?という説もあるようです。(丹後国風土記には田庭とされ、田庭➡️旦波➡️丹波の様です)
@@maomao96363
豊受大神さまホツマツタエでは
天照さまの叔父にあたる方、天照も豊受大神も男性神として、皇室のあり方教えられ正室に瀬織津姫さまに12人の側室制度にされました
最後に先生が『夕陽がキレイ』とおっしゃって居ました。日本の神々は正にこれなんじゃないかと思います。人智を越えた自然の崇高さ。
日本の神々は、①自然そのもの、②祖先神です。
日本てほんとに素晴らしい国です 残っているものがたくさんあって 保存もされて歴史が長いのに繋がりが分かる事 それを知識で頭に入っている先生も凄いです。尊敬します
茂木先生いつもワクワクする動画をありがとうございます❤
「福島県では3世紀中頃に 会津で前方後円墳が造られます。4世紀になると、 おおやすば 大安場古墳(郡山市)や玉山古墳(いわき市)、桜井 古墳(南相馬市)など中通りや浜通りでも有力者が 現れ、古墳が造られました。古墳が登場する背景 には、広い範囲での人々の移動があったことが考 えられ、会津では北陸地方で使われる土器が、浜 通りでは東海地方で使われる土器が出土します。 このことから福島県の古墳文化は、それぞれの地 域から伝わってきたことが分かります」
一昨年行った、福島県立博物館の説明板の一部を貼りました。
これを読んで四道将軍の話は史実だと感じました。
神話と一致してますね!
いつもながらワクワクする動画、ありがとうございます!
会津、伊佐須美神社神社ですね~
凄いパワースポットです!
出会いの地。
茂木誠先生
今日も本当にありがとうございます。
大変お勉強になりました。
私は母親が岩手県ですので、阿弖流為ともれはとても身近に感じます。
勇敢な民だったけど最後は処刑されました。
何とも悲しい終わり方です。
何だか涙が溢れてしまうのです。
いつも素晴らしい動画配信ありがとうございます。
教科書では習わない様々な歴史のご紹介
いつも目からウロコで拝聴しています。
何となく見始めましたが見応えあり過ぎて驚きました。
ありがとうございます😊
先生がいらっしゃる所のお空には龍神様がよくおいでになりますね。
茂木先生って本当に博識ですね。神話は面白い、日本の真の姿が見えてきます。今日も感謝です😊
道民です。
道南出身です。
道南は渡島半島を差すんですけど、エミシの一派がヒグマを持ってきたことと、「渡島」と出て来たので、驚きとともに古代日本が身近に感じました。
北海道って、日本の歴史の中ではなんとなくミソッカス扱いで、これまで寂しく感じていました…。
68歳、勉強になりました。ありがとうございます。
遺跡や科学の発達の裏付けによって、そしてそれを追って行きながら動画にアップして下さる先生の存在に感謝です。
これは正しく日本文明の流れなのだと思うと感慨深いものがあります。
この先どのようにして日本人の血が混じって行ったかも楽しみです。
茂木先生、初めまして。最近このチャンネルを知り毎日興味深く拝見しております。
この古四王神社は地元です。歴代の宮司さん一族が同級生でした。
ここは市内の中でも、別空間のような場所です。近隣からは縄文式土器がゴロゴロ出てくることもあり、昔から不思議な様々な言い伝えがあります。わざわざ辺境地まで来て紹介してくださりありがとうございます。
おおっ! 田村神社の亀の件、聞いてみてください。
先生❣️
北海道の倶知安町に比羅夫という地名があります。
ニセコ・ヒラフスキー場で有名です。
阿倍比羅夫そのままの名前が地名として漢字も変わらずに残っていたんですね😮ビックリ‼️
学校の授業で蘇我入鹿が出てきた時には…イルカって🐬?と子供心にも腑に落ちず、何故?イルカ?が頭をグルグル🌀して、その後の授業は全く耳に入ってきませんでした😅
坂上田村麻呂が金髪の渡来人…って…この年になって判明するなんて思いも依らず驚きました🫢
先生の唇ってお釈迦様に似ていると思ってしまったのは私だけでしょうか…☺️
いつも配信ありがとうございます。
勉強になります。
先生ありがとうございました。秋田市に住んでいながら知りませんでした。
アギダが秋田になったのは明治維新移行なんでしょうね
秋田市長は今、穂積市長で知事佐竹さんでした、お辞めに成りますが田沢湖近くの町出身です
▼
このサムネ良しです!!
〈“毛”の国〉こと、上野(群馬)、下野(栃木)の由来にそそられます!!
阿倍比羅夫が〈“越”の国〉の長官というのも、始めて知りました。
吉備、筑紫、越、毛、肥、豊...(“総”もありますね)
律令制で、前中後に分けられる前の、行政区分の地図と物語は、浪漫があるし、かえってわかりやすい気がします...
秋田城の外壁の門辺りに野球のバックネットがありました。高清水小中学校のグラウンドでした。とても良い環境で育ちました。あの辺りには大嶽丸伝説があり、田村麻呂が弓を射て倒したとのことです。あと、面白い地名が残ってて、将軍野や幕洗川それです。私は、今は京都にいますが、高校を卒業するまで将軍野にいました。
地名は土地の記憶です。
面白くて3回見ました😊四道将軍の遠征、すごくリアリティーを感じることができました。大毘古さんから子孫の阿部比羅夫まで、そして越から埼玉まで繋がる歴史について驚くことばかりでした。
古四王神社がずっと気になってました。
お参りしたいと思ってましら、このチャンネルが出て来ました😊
嬉しいです🎶
お疲れ様です😊
秋田県は日本で唯一都道府県の中で「一の宮」の神社が存在しない県なんです。
その理由は、出羽国の「一の宮」が鳥海山大物忌神社。もともと秋田県(羽後国)は山形県(羽前国)と合わせて出羽の国だったので、秋田県側には「一の宮」が残らなかったのです。新一の宮を制定した時には北海道神宮とか沖縄の波上宮は指定しているのに、秋田県だけ無いのはちょっと納得できないですよね。私が思うに、この「古四王神社」は「一の宮」に相応しいと思っています。延喜式神名帳にこそ載ってませんが、三代実録には記載があり、歴史が古いのは確実です。ですから近代には国幣小社にもなっているのですし。
意味があるかどうかわかりませんが、古四王神社宮司は亀井さんです
宮司の亀井さんの遥か御先祖様が、
田村麻呂さんから、絵に描かれているような亀の甲羅のような兜を頂かれたかもしれませんね🐢
何と!
@@maomao96363 関係の有無は分かりかねますが、由利本荘市の八幡神社の宮司さんも
亀井さんです。
たしか?唐松神社の宮司は物部さんです
秋田城行きました!将軍野というとちま近くにありますね。今でも石油が採れるところですよね!
先生は本当に博識で勉強になります!
東北には、阿部さんが多いですよね。宮城県の酒蔵、阿部勘は有名です。 越の酒蔵 あべは入手困難酒です。糸魚川にはヒスイの産地 越後一の宮弥彦神社は、ニギヤハギゆかりの神社。
阿部さん安倍さんは
松浦から唐津、福岡山口の
玄界灘沿岸も多いですね
内乱首謀者の一族として
流されて定住したらしいけど
刀伊、元寇でも活躍してた。
弥彦神社、行ってまいりました!
ua-cam.com/video/1VStgdXIxSg/v-deo.html
@
阿倍比羅夫が晩年、大宰府に赴任してますので、そっちの一族も一応いるのかもしれませんが、
福岡や唐津なんかの玄界灘付近の場合は海神安曇一族が支配していた地域ですので、
こちらは安曇一族の子孫が基本ですね。
大和政権下で一時は水軍のトップにまでなっており、各地に勢力をのばし子孫が散らばり「安曇」の地名を残しています。
安曇→阿部、安部、阿倍などの姓に変えたと言われてます。
秋田県横手市在住です。古四王神社は県内あちこちにありまして我が家から近くにもあります。
美の国秋田を分かりやすいご解説ホントに勉強になります。
いつか横手城さ来てたんしぇ~😊
いつもありがとうございます。貴重な動画いつも勉強になります
岩手花巻に胡四王神社があります。関係あるのかもしれないですね。
東和町にアラハバキ神を祀った丹内山神社がありますし、至るところに坂上田村麻呂系の神社が相当あります。
隆起した早池峰山の周りの神社は瀬織津姫が御神祭で岩手には不思議がいっぱいあります。
おもしろー。古代史は分からないことが多いけど、神話と思われていたものが考古学で裏書きされたりするのも楽しい。遺称地を探すのも楽しいし。畿内や北九州以外の発掘調査ももっと進んで欲しい。
白神山地など縄文の匂いも魅力的な秋田県ですが、ビジネス社から出た「縄文と神道」という本は良いですよ。茂木先生には簡単過ぎますが、日本の精神性が分かります。同じシリーズから浜崎先生の「日本人の断絶を乗り越える」という本も発売されて、ここ数年で一番役に立った本として何回も読み直してます。勉学はしてみるものですね。めちくちゃ難しい小林秀雄や福田恒存が少し身近に感じてきました
なるほど。
この遠征ルートは北前船の影響で能登地方も含めて、京都文化圏に属しているのも面白いです。
酒田は古来から陸奥と北陸地方の結節点であり、近隣の鶴岡は出羽三山を有するなど庄内地方は経済面、軍事面、信仰面でも重要地点ですね。
ヒグマ、、、で思い出しましたのが唯一、北海道犬と秋田犬の犬だけがヨーロッパ系のD N A
先生 美しい皇の国をありがとうございます。
日本史で阿倍比羅夫はやりましたが、何もわかっていませんでした🙀。あらためて勉強したいと思います!
新潟市中央区にも「高志」という地名があります。
秋田県の大仙市にも古四王神社がありますよ
新潟・山形・秋田。比羅夫の遠征ルートに沿って分布しています。
自分で香辛料を調合して、シーフードカレーを作りながらお話に耳を傾けていました。そして遅めのランチが出来上がり、パソコンの前に持ってきたら、画面に映っているのは秋田城の水洗トイレ!!現代はものすごい事まで分かってしまうのですね!お魚系の食生活だとサナダムシ、、、笑いながらシーフードカレー美味しく食べてます😄😄
そうそう、吉備津彦さまって桃太郎のモデルと言われているお方ですよね!
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秋田城の城主を秋田城介(あきたじょうのすけ)と呼び、古代から中世の日本において、出羽国の秋田城を専管した国司である。はじめは官職ではなく、国司の一人の任務にすぎなかったが、平安時代中期に出羽城介という令外官となり、鎌倉時代に秋田城介と呼ばれるようになった。
最後の城主、秋田城介は織田信忠です
古四王神社の日本海側に降りていく参道からも、
綺麗な夕陽が見られたでしょうね🌅
朝陽が昇る太平洋側沿岸にも、
対応する神社があるかもしれませんね⛩️
北海道に「比羅夫」という地名がありますが、阿倍比羅夫に由来があるという説が有力なようです。北海道から九州まで、当時としてはとてつもない広さで活躍した偉人ですね!「渡島」(おしま)はかつて「わたりしま」と言われていたようですが、津軽の人が「おしま」と言っていたので、それが今につながっているようです。粛慎、蝦夷など、当時の日本は民族的に多様で、秋田は渤海国と人や物が行き交う国際交流都市だったのだと想像します。東北の歴史は興味深いですね!
秋田にいらしてたのですね。
私は秋田に住んでいます。
地元の神社は阿倍比羅夫が遠征した際に作ったとされる八幡神社があり、東北最古のようです。
青森の深浦には田村麻呂が遠征の際に建立した円覚寺があったり、藤原泰衡のなくなった地もあったりと
物悲しくもあり昔に思いを馳せたりできる地です。
東北を歩くと、歴史が完結する感じがします。
秋田のジジババは普通にアギタって言うから、単純にエミシ訛ってたんじゃね?説(笑)
オガが部族長の名前ってのはビックリした
男鹿半島の根元というか行き止まりに船越って上陸し易そうな浜があるので、あそこに上陸した?
そういや横に朝廷っぽい響きの天王もあるなー と興味深い動画でした。
トイレネタ、意外に好きです。笑えました!
田村神社の海亀は、ひょっとしたら年号に関係するのかもしれません。
ある方のブログより抜粋すると、田村麻呂をめぐる伝説は、東北地方を中心に各地に存在しており田村の地名に通じることから田村地方にも分布し、三春城を本拠とした田村氏は、田村麻呂の子孫と称している。田村麻呂の出生地を、田村町徳定とする伝説も、悪玉姫(あくだまひめ)をめぐる物語の一つである。土地の女である悪玉姫が結ばれる相手は、田村麻呂ばかりでなく、その父親である苅田麻呂(かりたまろ)とするものがある。実際に田村麻呂が誕生したのは758(天平宝字(てんぴょうほうじ)2)年である。その前年に苅田麻呂は、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱に際して、反乱の首謀者の一人に、反乱の妨げにならないようにと都で拘束されたことが確認できる(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)。この時点で苅田麻呂が都に居り、有力な武人の一人と認識されていたことが知られる。苅田麻呂が陸奥国と関係を持つのは、770(宝亀(ほうき)元)年に鎮守将軍(ちんじゅしょうぐん)に任じられたのが最初である。
あくまで推測ですが、この時代の年号により、田村の人達が海亀を田村麻呂の父神に奉納しているものかもしれませんね。
または、大彦の父君が正史の通りに崇神天皇とすると、物部氏の神話には亀🐢のエピソードは薄いので、物部系崇神王朝ではなく、アマべ系磯城王朝オシヒト第6代孝安天皇の嫡流であることを残すために、大彦の祖先であるアマべ氏の倭国造の祖、または大倭国造、大倭直の始祖である珍彦、宇豆彦、椎根津彦の浦島太郎伝説も関係してそうな気がします。
また、さきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に書かれた大彦子孫のヲワケ(イ)という意宇彦・大彦の子孫が若タケル大王仁徳天皇に仕えたと書かかれた内容から、このヲワケイという人物は、おそらく大宮氷川神社を建てた土師氏の、兄多毛比エタケイの縁者かもしれませんね。
当時の食生活がわかる…渤海からのお客様の落とし物?
いやもう本当に面白い🤣
そんな驚きの後の
「ああ!夕陽が綺麗😍」が素敵です
鹿島神宮の御祭神・武甕槌神がおわします常陸・佐竹氏が関ヶ原で西軍に加わって、江戸に来た徳川から秋田藩へ移封されて、北陸~下越~羽州の影響というか文化圏である『コシ』の国の神様をお祀りするのは、時代の流れでもあったのでしょうが、因縁めいたものを感じます。
昔ツーリングしてた時に、11月文化の日に北海道で雪に追われて、秋田まで南下しましたがさらに雪に閉ざされて、秋田市の秋田の柵近くで数泊した記憶があります。古四王神社にもその時詣でましたが、日本海文化圏の『古志』国についての知識がまだ無かったので、気比神宮(神功皇后)、彌彦神社(天香久山命)、糸魚川の奴名川姫(翡翠)、といった諸々を関連付けて説明できなかったのが残念です。宮崎正弘氏の著書では継体天皇(オホド王)が古志の大王ではないかという説を唱えておりますね。
宮崎先生の『応神天皇と継体天皇』ですね。あれはおもしろい!
昔から「あきた」だったし、おがもつかるも今に残る地名なんですね。
栃木や南福島辺りは、昔から「とち」と読んでいたのも残っています。
本殿の手前 通常なら狛犬さんが鎮座すべき場にいらっしゃらないのが不思議です。
0:47 丹後道主→丹波道主(タンバ) ではありませんか?
越→どの様な由来か不思議でしたが古四だったのですね。
(但馬の出石神社は元、伊豆志、いろいろ改変?されているようですね)
ありがとうございます。
ご指摘ありがとうございます。固定コメントで訂正しました。
@@maomao96363
丹羽➡️丹波 です。
細かい所ですが、丹羽➡️丹波(現タンバ、古代タニハ←豊受大御神が絶叫?)です。
元は旦波とされ古墳の木版や記紀にも表記された地名で、雲海から登る日の出?という説もあるようです。(丹後国風土記には田庭とされ、田庭➡️旦波➡️丹波の様です)
山形県山形市門伝、富神山の麓に大之越古墳があります。この辺りは蜂子皇子を羽黒に同行差配した、山伏最高位大越家の初期拠点のあった地です。
坂上田村麻呂は大越家習合徒一門の代表格と記載があることから、日本海側には踏入れなかったのかも。
先生、秋田市寺内とか髙清水公園の秋田市城や古四王神社ありがとうございます。
旧国道沿いにありますね、
私、地元の人間で寺内じゃないのですが高い所に古四王神社あります。看板は道路だから分かるのですが、一回も登った事ありませんでした
港に下がった神明社には良く行きました。
髙清水公園にも神社あって、東京の靖国神社のような神社あります。桜が咲く綺麗な所です
唐松神社もありがとうございました。
ありがとうございます。岩手県一関市に「田村の梅」というおいしいお菓子があります。東北の歴史楽しみにしております。岩手県に宮古市というところがあったり、浄土ヶ浜・月山・金ヶ山というところがあったりなかなか面白いと思います。言葉のアクセントも少々東北弁とは異なっていたり
岩手はまだ探索しておりません。ぜひ行ってみたいです。
田村麻呂は済州島の人ではないかと考えています。亀も多かったと思われます。それから、高句麗は扶余族ではないか?だから渤海も豚食だったのかと。色々と妄想して楽しんでます。
熊谷あたりに古代王朝があったような話は本当なのでしょうか、、。
稲荷山古墳は春に桜がきれい🌸🌸🌸
古代ギリシャ人やローマ人も、棒で、お尻を拭いていました。どこのお城だったか思い出せんませんが、ローマ人は、棒の先に海藻のスポンジを括り付けたもので拭いていたとありました。
水でお尻を洗う習慣は、今も、珍しいことではないですね。マレーシアやインドネシアの田舎の個人宅にお邪魔した際は、水の入った桶から水を汲み、洗うようになっていました。
テルマエ・ロマエで「尻」ました。😅
岩手県北上市に行くと普通に照井さんとかいるよね
福岡市の鴻臚館跡でも水洗トイレとその残留物は発掘されて回虫なんかも出ているようです。
渤海の人は鴻臚館には来なかったのでしょうか。新羅人がいるから?
「毛野国」の「けの」の由来も知りたいです。
やはり福島県の会津盆地の北部、ラーメンで有名な喜多方市にも、小四王山、小四王(腰王)神社があります。
市の西部に位置し、もしかすると山頂から会津盆地が見渡せるような場所になっているかもしれません。
因みに喜多方市には舘ノ内遺跡という古墳があり、それはなんと四隅突出型墳丘墓とされています。
この辺りまで出雲の影響が及んでいる可能性があります!
いつもありがとうございます。地名 会津・男鹿の由来勉強になりました。
父が秋田の能代の北の方出身です。男鹿、能代と古代日本と共通の名前あってワクワクしました!
みまはまという地名はないですが、みねはまというところが能代近辺にありますね!関係あるかな?
茂木さんありがとうございます!
能代の夏祭り、役七夕での音頭上げに阿倍比羅夫、登場しますね。
いつも配信有難うございます❤ お社に飾られていた亀の甲羅は卜占に使役したのでは?と思いました。でも破れ目は見えなかったから違うかも。😅
東北みちのく一人旅ですか😅ここで一緒に。
まさかの古四王神社!❤
毎日、車運転しながら武甕槌神さま大彦さま、比羅夫さまにお祈りしながら、仕事いってました!
めっちゃ感激です!
神社の御参りもしていて、私も田村神社に亀?カメ?なんで?って思ってました〰️どなたかわかる方、教えてください。(◔‿◔)
自分なりに色々、調べて行ってみたけど、わからなかったことが茂木先生の解説頂けて、すごく分かりやすく理解できました。(≧▽≦)
ついでをいうと、武甕槌神さまは、なぜ古事記において、加具土命の血から産まれたという描かれ方をされたのか…?
ずっとずっと、不思議でならないんです…
気になって気になって…
夜しか眠れません…
カグツチ→カヅチ?
ミシマセさんは、最初は刃向かっていて、大河でエミシさんを助けて勝利してから、帰順してクマさんを持ってきたとのことでしょうか?
エミシさんは、純縄文人と解釈しないと、アイヌ人と混同してしまいます。アイヌ人=縄文人=原住民と長いこと思いこんできました。
漢字を日本語に当てはめるために使われていたのが面白い。漢字自体の意味はなかったのでしょうか?漢字には意味の成立ちがあったと思いますが。
この時代(飛鳥〜奈良)にエミシと呼ばれた先住民は、続縄文文化・擦文文化の人たち。アイヌはまだ樺太に住んでいました。漢字は基本的に表音文字として使っています。
@@maomao96363 様
ありがとうございました。
討伐すべき対象であった蝦夷
なのに貴族である蘇我氏に蘇我蝦夷という名。これが子供の頃から謎でした
このもと、なんか日本海を仰いでみたくなりました。一寸かもしれませんがね。たぶん、いま行ったら厳しい寒さと雪景色があるのでしょう。由芽がありますね。もうすぐ成人の日ですね。厳しい時代は繰り返しますが代々の日本人は代を繋ぎ少しづつ花を開かせたのでしょう。自然の摂理に沿ってね。日本人としての代をつなご。
古四王神社と「越の王」については秋田市太平のお寺のご住職で昔布教師をされていた和尚様から酒席でお聞きした事があるような
恐らくは北前船の話から発展して私と母方の苗字(武藤/下間)についての由来の話、そこからの流れだったかと記憶しています
数十年振りに懐かしい言葉を偶然目にしたので、不調法ながらコメントを残させて頂きました🙇🏼♂
秋田の歴史を取り上げて下さりありがとうございます😊
古四王神社御祭神の大彦命の四道将軍のお話は、出雲口伝だと正史とはだいぶ異なり、後に朝敵の蝦夷とも呼ばれることになるアベ氏祖先でアマべ氏子孫の大彦が、A.D.2世紀中ごろに九州から大和への神武東征神話起源の一つなったと思われる九州物部氏五瀬、ウマシマジの第一次物部東征により、物部氏の武力の脅威から大和を逃れ、出雲富家の協力を断られたため、近畿に帰国し、息子沼川別と伊賀國で王国を作り、アベ姓を名乗り敢国神社を建て、琵琶湖東南岸野洲に近い伊勢遺跡でサイノカミ信仰の近畿式大型銅鐸祭祀を行い、次第に物部勢に追われる様に北陸から東北津軽十三湊に逃れ、後に日本の国名に繋がる日高見国の元になるアラハバキ王国を作ったのは、第10代崇神天皇の代ではなく、倭国大乱と呼ばれている第6代オシヒト大王孝安天皇の皇太子だった様です。
A.D.107年ごろにオシヒト大王は、後漢に奴隷を献上しに出向き倭国王帥升の後漢名を受けたようです。
正史の崇神天皇の皇太子で四道将軍の大彦が北陸に遠征した物語は、後の景行天皇の遠征話である倭武尊の東国遠征の逸話にヒントを得て大彦が物部氏に追われて津軽まで落ち延びた経緯を基に描かれたように思います。
故郷秋田の湊町には、奈良時代に建てられたという高龗神を祭る古い龍神神社跡や、本姓安倍の安東氏寄港地として安東氏ゆかりのお寺が今も残っています。
出雲口伝をぶちこむと話が錯綜しますので、あくまで正史と神社の伝承を中心に動画を作ってあります。
@ 茂木先生様
誠に申し訳ございませんでした^_^
千葉県船橋市に船橋大神宮があります。
その船橋大神宮は船橋市に鎮座する神社で、本来は、『意富比神社(オオヒジンジャ)』を正式名称として呼ばれているようです。
景行天皇40年(110年)創建と伝わる古社で、延長5年(927)に完成した『延喜式』にもその名が記されています。
日本国民の総氏神とされる天照皇大御神を御祭神としてお祀りしており、伊勢と日光を参拝したのと同じご利益がいただけるパワースポットです。
意富比神社は、恐らく意富比垝に何等かの関係があるような感じがします。
境内に建つ、明治時代に民間の灯台として活躍した「灯明台」は見どころの一つ。
和洋折衷の構造で、千葉県の有形民俗文化財に指定されています。
行ってみます!
四道将軍て元々の勢力基盤に
(個人的推測ですけど
タケヌナカワワケは
ヤマトタケルの実の父)
戻ってヤマト政権の権威を基に
勢力範囲を更に拡大したと言う
見方も出来ると思います。
ヤマト政権は連邦国家なので
ヤマトタケル東征と完全に重なりますね。
人の嘘、時の嘘、空間の嘘に紐解く糸口を残し、後々の賢人に解明されることを望み残した記紀
天皇が現存されている中ではありますが茂木先生の探究心が満たされることを祈ります。
どうも有難うございます。航海は波任せ/風まかせということですが、古代人の航海術についてはもう少し調べなければならないと思います。縄文人は黒潮を横切って通商を行っていました。それから、縄文人と太平洋のポリネシア人との関連もあるのではないかと思います。古代のポリネシア人はダブル カヌー、つまり、二連カヌーで大洋を遠くまで航海していました。フィジーの王国が勢力を誇った頃には、ポリネシアやメラネシアを含んだ大通商圏を持っていたと言われています。当然、航海術が基本にあります。海に囲まれていた縄文人が彼らより劣るということは考えづらいです。時代はずっと下って、琉球王国の頃、大陸との通商は主に琉球人の航海術によっていたということが文献にあるそうです。つまり、Chines は沿岸から数キロも離れると操船ができなくなり、それから後は琉球人が操船したと文書に記録が残っていると聞きます。ですから、日本を中心としたか海洋圏における操船は全て日本人が請け負っていたと思ってよいのではないでしょうか。渤海国との通商も同様でしょう。大体にして、巨木に恵まれた日本でポリネシア人以上の船が作れない道理がありません。(追:今のシングルのカヌーでも本州から佐渡ヶ島まで日本海流の分派を横切って、一人で渡ることができます。十分な経験があれば、驚くほどの航海ができたはずです。)
「黒潮を横切って…」とは、どこのお話ですか?
伊豆諸島の神津島の黒曜石が日本を超えて国外にまで流通していたというテーマを書いた本を読んだことがあります。距離的には近そうに思いますが、フェリーが東京湾を出てから暫く進むと、黒潮に入り波が非常に高くなります。そこを縄文時代から行き来していなければ、神津島の黒曜石が流通することはありません。神津島に行けば、今でも黒曜石がゴロゴロしているそうです。
大彦は【安部氏の祖】と
正史にも記されています。
【東日流外三郡誌】では
長髄彦とその兄【安日彦】が
東北へ逃れ、
安倍王国を作ったと記されています。
出雲口伝では、
長髄彦は大彦であると
伝えています。
わたしは
正史に記された長髄彦は
時代を越えて2人いると
推察しています。
長髄彦だけでなく、
多くの登場人物が、
歴史上の実在した人物を
重ねたストーリーが
展開されているように思います。
古事記自体が
壮大な和歌として
綴られており、
いくつもの意味が重ねられています。
北陸や関東の国造の多くが
実は大彦の子孫であったことが
分かっています。
大彦は越から信濃に入り、
更級郡布施の五明長者窪を
本拠地とし、
その地で亡くなったと
地元では伝えられています。
屋敷跡には布制神社が建てられ、
大彦がお祀りされています。
その近くの山には
大彦の墓と言われる
【川柳将軍塚古墳】があり、
その地は大彦一族の布施氏によって
治められてゆきます。
会津で出会ったのは
北陸道からやって来た大彦勢と
東海道を進んだ沼河別勢。
当人は亡くなっても、
その一族たちはそれぞれ進んで
東北へ入っり、
道中、途中下車した人たちが
その地の国造などになって行ったと
思われます。
わたしの母の家系も、
おそらく、たどれば、
【津軽安東氏】に繋がります。
大彦族ですね。
場面最後は『2本のケミカルトレーと散布途中のケミカルトレール1本』。東京には見かけない。この県地域にはよくある光景。非公開環境実験?
高志というと、古事記の「高志の八岐大蛇」という表現が最初に思い浮かびました。出雲とも高志は関連があったのでしょうか。
亀 亀甲紋 出雲系との繋がりがあるのかな…なんとなく直感なので 調べてみて下さい!
コシヒカリのコシはこれだったか
阿倍比羅夫や胡四王神社を取り上げ伝えてくださりありがとうございます。
阿倍比羅夫さんの一生が最後、九州で終焉したことがはじめてわかりました。
私の住む岩手には花巻に胡四王神社があります。宮沢賢治記念館が建つ小高い山頂にあり、古代安倍氏が祀っていた神といわれており、北を向いて建てられているそうです。
機会がありましたら、花巻の胡四王神社のご紹介も、宜しくお願い致します。
行ってみましょう!
秋田にいます。この神社知りませんでした!!亀=甲羅=六角形=出雲、関連してないかな?と。出雲族は北から島根まで降りて行ったと聞いてます。事実島根のなまりと東北のなまり(日本海側)は大変似てます。土着宗教として出雲が絡んでいるのかもしれませんね。
なんせ8代-10代の孝元・開化・崇神天皇の3代がポイントですね・・。面白いですねぇ、、茂木先生がより!!数々の記述・口伝から、より精度を上げて真実に近づくことを希望します!!😊
北海道の倶知安町に比羅夫という地名が残っています。スキー場で有名ですね。
阿倍比羅夫が蝦夷地まで遠征して来ていたのは事実ではないでしょうか?
大河のほとりの大河は尻別川ではないでしょうか?
阿倍比羅夫の蝦夷征伐の目的は、新羅遠征に向けて兵の増員でしょうか。
朝鮮情勢が悪化したので、エミシと和解したのかもしれません。
水洗トイレ
凄いですね。(✯ᴗ✯)
欧州では
城壁の外に撒いていたと言いますから、
豪華で煌びやかな服の貴族たちも、
糞だらけの道を歩くために、
ハイヒール👠を履いていた
というお説があるほどです。
近代になっても、
ドラマ化されたイタリアの
国民的ドラマ【ピノッキオ】では、
お腹をすかして物乞いしながら
町を歩くピノッキオに、
建物の上階の窓から、
罵声とともに水がぶっかけられる
というシーンがありますが、
あれもどうやら尿を捨てていたようです。
古代ローマでは、
ちゃんと大衆トイレが
作られていたので、
時代とともに後退することも、
往々にしてあるということですね。
古代ローマ人のお風呂好きは有名ですが、
中世イタリア人は
入浴をほとんどしなかったので、
衛生面での差は格段にあったと思います。
ペストなどが大流行するのも
理由があるのですね。
現在でも
浴槽のない家も多く、
シャワーだけで生きている人も
普通にいます。
mayumi🌻さま
毎日入浴出来る習慣のある水の豊かな日本で生活できるのは幸せなことなのですね(^^)
@@nihontaro9さま
前の家は浴槽がなかったので、
新しく家を建てるときには、
「小さくて良いから
浴槽だけはつけて欲しい」
というのが、
第一希望でした。
夏はいつも水不足に悩まされます。
庭に張った
大きめのビニールプールで
汗を流して寝ています。💦
@mayumi3300さん、
テルマエ・ロマエの映画🎞のケロリン🐸の黄色い風呂桶と濃い顔を思い出してしまいました。🐸はサルタヒコ大神の神使ですね😂
大切な日本の軌跡 ですね。この頃位の年代に宇宙規模の 何かと 地球に何か 出来事が在ったのか🧐 気に成ってます🤔…。
なんだってぇ~の系譜と日本の振り返り・・・脳内ワチャワチャです w
昔は右書きだったんですね~左手の人が多かったんでしょうかね?と改めて疑問視してしまった w
東アジアでは毛筆を使っていたので、左←右で問題なかったのです。
@@maomao96363 なるほど~間の取り方が優れていたんですね~木彫技も凄いし~
積年のモヤモヤが解消!!ありがとうございましたぁ~
日高見の国…東北地方…会津も国津神の地…大事なものはトキがくるまで隠される…牛頭天皇 素戔嗚、大名牟遅神、少名毘古那神、大山祇やら会津暦、戊辰戦争迄…歴史っておもしろい…
坂上田村麻呂はアテルイらの助命を嘆願したが聞き入れられずこれを哀れみ清水寺に仏殿を建立し鎮魂したと小林恵子(やすこ)先生の本で知りました。ところで桓武天皇も田村麻呂と同じような風貌ではなかったでしたっけ。桓武は天智天皇派ですが何か天武の流れを感じています。
ところで粛慎はオホーツク文化圏ですか?アイヌもオホーツク文化圏と聞いたことがあります。アイヌとはどういう関係になるのでしょうか?
武内宿禰が仁徳天皇に北の果ての豊かな地をしりべしと名付け紹介されました。こしのみちのしりは越後ですから、えみしのみちのしりは後志?なのでしょうか。
茂木先生、秋田の市街地は現在同時多発的クマ🐻テロが発生中の模様です。充分にお気をつけ下さい熊🧸
弥生人と縄文人との和合は戦争もあったんでしょうが、
結局、【大和・日本人】に併合されていったんですよね!
この場所はすごい。スキタイ系の呪術を越えるくらいの論理を持っているのが、測り知れる、、、、。江戸時代に強化していなければ。
地元の天神神社。
阿倍比羅夫が必勝祈願したという伝承がありますね。秋田県北。
追加で。
「あぎた」という発音ですが、今でも津軽の人は「あぎた」(アクセントは先生と違いますが)というように、発音してませんかね?母の実家が津軽でして、実家に帰ると、みんな「あぎた」って発音してたものですから。
スポンジに水が染み渡るような感動をありがとうございました(≧▽≦)
東国の歴史をかじらせて頂くとなぜかじんわり懐かしい感傷があります。古い日本が強く残っているように感じるからでしょうか(。・ω・。)ノ
主題からずれた話になりますが、地図を観ると、出雲や信濃は四道将軍の遠征経路にはない僻地なのが不自然なんですよね。さらに、四国の話題が国生み以外では記紀には無い?😓
織田信長の方面軍と同じですね 信長もそれに倣ったんですかね
他でも書きましたが、秋田城最後の城主、最後の秋田城介が織田信忠ですからね
発想は同じだったのではないでしょうか
いつも ありがとう
亀とは祭神 武甕槌命(甕=亀)のことである。
大彦命の祖母 坂戸由良都姫は坂戸天物部命の末裔と思われ、坂戸天物部命は稜威雄走神の子にあたる。
そして建御雷神もまた稜威雄走神の子である。
つまり坂戸天物部命と建御雷神は同一人物か兄弟もしくは同族関係である。
物部氏は物部八十氏と言われ、通婚を重ね複雑化しているが、一部を紐解けば次のような妄想に仕上がる。
天穂日が山陰に降臨するより前から、日本海側には広く鍛冶集団おり、氏神を天火明としていた。
後に天穂日(因幡素兎)が因幡に勧請されると、因幡にいた天火明の末裔(伊福部)は部民となり、兎部(宇部)と呼ばれる様になった。
しかし素戔嗚が日本海側の覇権を握ると天穂日は兎から鳥となり、兎部は鵜部となった。
時代が下り、神功皇后・武内宿禰命に日本海側を制圧されると、鵜部は宇部となった。
故に伊福部氏は、氏神を天火明とし、系図に素戔嗚や天穂日が入り込み、宇部神社の祭神が武内宿禰という複雑な事になっている。
伊福部の末裔は、後世に山背や交野へ拠点を広げ、淤美豆奴神(武位起命)の時代に天之冬衣神が政権で存在感を強くした。淤美豆奴神は謀略で失脚し、天之冬衣神が出雲の盟主となった。
天火明、天香具山、天村雲とは名前の意味からも鍛冶にまつわる神名であり、饒速日という五穀豊穣にまつわる神名とは独立して世襲された。天火明=饒速日なのではない。天之冬衣神は大年神側から饒速日を、伊福部側から天火明を襲名しており、天香具山、天村雲とはまた違った流れである。
大彦命は式内・川枯神社のあたりに母方の支持基盤があり、少彦名(天若日子)もまた同じ地域に母方の支持基盤があったと思われる。
ちょうど昨年末に、孫たちを連れて、埼玉県のさきたま古墳群に行ってきたところです。
稲荷山古墳から出土した国宝の剱(471年製?)、古墳の被葬者?ヲワケの臣の祖先が「オオビコ」さん、子孫に「阿倍比羅夫」さん。(将軍山古墳の被葬者はヲワケと比羅夫の間?)
銘文によれば、オオビコさんを初代とすると、ヲワケは8代目になりますね。
崇神・・・雄略・(・・斉明)、繋がりますねえ。日本書紀はホントに日本の歴史書なんですね。興味が尽きません。
有難うございました!
さきたま古墳群の動画です。
ua-cam.com/video/b1xoUeBjbSw/v-deo.htmlsi=-qtQMntfBgP6Aj_i
金錯銘鉄剣。以前は間近に見られる国宝いつか観たいと思ってましたが、調べてみたら、今は現物を展示してないのですね😢
坂上田村麻呂が初代征夷大将軍ということで、坂上は大きく取り上げられるけど、阿倍比羅夫は坂上と比べると扱いがそれほどでもない。
北海道まで影響力を広げた功績とかを、左派的な歴史学会は認めたくないから、あえて阿部に触れないようしているのではと思っています。
田村麻呂の前に、大伴弟麻呂という人が征夷大将軍になってますね。
@@maomao96363 さん
確かに初代は大伴弟麻呂ですね。
失念してました。
復習しときます。
崇神天皇の在位期間は、紀元前97年から紀元前30年
魏志倭人伝より前だろうから、邪馬台国は奈良でしょうか?
崇神天皇の都は、三輪山の麓の纏向遺跡。紀元後3世紀の中頃ですので、邪馬台国と重なります。