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暗君でも、家臣が優秀なので、問題無い。田沼は優秀だよ。
ですね。朱子学妄信者の讒言を真に受けてはいけません
田沼意次はわいろもらってませんよ!
賄賂というか付け届けは、当時の潤滑油的存在だから田沼も貰ってたけど、松平定信も老中になるまでは送ってたりしますな。
@@浩三芝崎-t8v仮に貰ってたとして何が悪いのかさっぱり分からない。清廉潔白で政治なんか出来ない。
@@gwdapwd16766 いまの時代でも、カネの話が出ただけで嫌われるからなー政治家って。
家重は最近では実は名君だったのではという説もある田沼意次の才覚を見抜き出世させ家治に「田沼を重用しろ」と遺言を残すなど人事能力は確かであり、予算制度である勘定吟味役を充実させたのも家重だったりする。
家重は言語障害があっただけで,実は吉宗以上に切れ者だったとも言われていますね.
@@山田哲也-t4cさん父・吉宗があまりにも経済オンチ過ぎたので、家重なりに何とかしようとしたのでしょう。しかし、儒教道徳では経済、即ちお金を重んじるのはタブーであり、それ故に「暗君」という評価を免れなかったかも知れません。
当時の朱子学信者が書いた書物のせいで、経済に長けた人物が軒並みネガキャンされてるのが、評価を歪めますよね。
韓国は儒教は国の発展阻害すると言って排除した。それは正しいと思う。
郡上騒動なんかも適切な判断しましたね 当時では異例であった藩だけでなく幕閣まで罪を負わせた
第2位:家重は病弱で言語不明瞭な部分がありましたが、吉宗としては家重の子である家治に期待していたのだと思います。ただ、当の家治はその状況を見て何もしない事を選択してしまったので吉宗の期待外れに終わってしまいました。大岡忠光が家重の言葉を理解できたのが大きいですね。なので家重は忠光が亡くなったと同時に将軍職を息子の家治に譲りました。
暗君でも継続できる組織を作り上げた家康の凄さよ。
暗君でも長子相続を徹底させ、将軍を支えるシステムがなかったら、鎌倉殿みたいに同じ血族同士で潰し合い、幕府なんてさっさと終わっていただろう。
頼朝の源氏嫡流はわずか3代、世代なら2世代だけであっけなく潰えてますから。江戸幕府は本来は7代家継で断絶だったはずが、家康が子福者で御三家をしっかり整備していたから吉宗が世に出てこられた。我が子かわいさは家康も変わりなかったが、母数を増やして盤石の徳川独裁体制を築いた先見性。伊達に鳴くまで待っていない。
室町幕府は義満が死んだら一気にガタ落ちし、形だけの組織と化して行くが、江戸幕府は将軍は誰であれ強い権威を260年近く保ち続けた。この差は大きい。
韓非子が提唱したシステム
中国で言えば、明代に通じますよね。あっちもボンクラ皇帝が続いても簡単には潰れない体制になったんですから。士大夫または武士が官僚として使えた時代ならではで。
家治は適切な人材に政治を思い切り出来る空間を作ったことを考えれば逆に優秀だったのでは?
第1位:家定は生き残った人物だと思います。他の兄弟は幼くして亡くなってしまったので将軍にならざるを得なかったと思います。不運だったのは黒船が来航してすぐに家慶が亡くなったことですね。
第5位:家治自身は優秀な人物だったと思います。本妻とも仲が良かったみたいですね。おそらく、祖父吉宗・父家重を見て自分は何もしないほうがいいと考えたのでしょう。さらに跡継ぎが生まれると女性を遠ざけたようです。そのことによって大奥の出費を抑えたみたいですね。ですが、その跡継ぎが亡くなってしまったのが誤算でした。
家治は凡庸じゃなくて超秀才だったはず。吉宗も期待して大御所になってからは宗治の教育に励んだ。超秀才だったから田沼の天才を見抜き、自らは邪魔をせぬようにひきこもった。家治が出しゃばれば、田沼を快く思わない他の幕臣たちに田沼の悪口を吹き込まれ、田沼排除に利用されるということが分かっていたからだろう。
福島県出身だけど、学校じゃ「白河の清きに魚も棲みかねて、元の濁りの田沼恋しき。」と田沼を評価してました。彼を登用した家治凡庸では無かったと思います。
個人的には4代将軍 徳川家綱をあげたい。父親の家光が現職の将軍のまま死んでしまい、11歳で将軍に。しかし、病弱なこともあって幕政は家臣に丸投げ。とりわけ、寛永の遺臣がいなくなると、下馬将軍 酒井忠清の言うがまま、となり「そうせい将軍」と、言われたとか。世継ぎに恵まれず、また養子を取ることもなく、重病となる。忠清は家康の遺言を無視するかの如く、京都から宮将軍を迎え入れようと画策。徳川将軍家は4代で絶えてしまう可能性もあったわけで、ワーストの資格は十分かと思います。
結果だけを見れば家綱は良かったと言えるが…武断政治が終わり、穏やかな文治政治になったのも彼の時代だ
家光が亡くなる頃にはもう子供が継いでも問題ないくらい、幕府の権威は盤石になってましたからね〜。本人無能でも、老中たちが采配を振るえば問題なし(むしろ無能な将軍が政務をとるよりその方がいい)。 将軍が直接政をして悪法で庶民を苦しめた綱吉なんかよりよっぽどいい。
はは@@藤原鎌平
第3位:家斉は家治の反省があったのかもしれません。なので彼は子作りに励みました。ただ、そのために養子先を探すのに苦労し、中には実子がいるのに家斉の子供を養子にするという藩もありました。それを水野忠成が一手に引き受けたのですから彼の手腕は凄かったと思います。
実子がいるのに家斉の子を養子にしたのは、津山藩の松平家ですね。越前松平家の宗家にも関わらず藩主の素行不良やお家騒動等で5万石まで落ちぶれていたから、家格を上げてもらおうと幕府にお願いして実現、石高が5万石→10万石に倍増しています。
@@toyo-rex4899家斉の男系子孫で唯一残っているのは津山藩に養子にいった斉民の子孫のみですね。
尾張徳川家も家斉の子、養子にしてます。実子いたのにです
家斉の子沢山のおかげで、山田風太郎の、いわゆる忍法帖シリーズのいくつかの題材になったりしてますね。有名なのは「自来也忍法帖」、映画やOVでくノ一を主人公にするシリーズ(R-15相当w)で実写化されました@@toyo-rex4899
こういう時に子供が男児だとめちゃくちゃ処分に困るな
これみて思うのが家康が凄すぎるってことかな。
ワースト5みんな紀州の血筋じゃないか
尾張家は途中で男系が絶えて将軍家や御三卿より養子が入りまくるし、水戸家は男系が続いていたけど家格の低さから事実上将軍を輩出できませんでしたからね。最後の将軍・慶喜も、生まれは水戸家だけど将軍になれたのは御三卿の一つ・一橋家の当主だったからです。
@@toyo-rex4899さん、他の御三家よりも早く嫡男を産んだにもかかわらず、気を使って黙っていて、二番目の光圀が産まれて初めて公儀に報告したくらいですから😢
@962ctrlgfk6 殺したわけではないにせよ、紀州家で兄を2人も亡くし、さらに綱吉の跡を継いだ家宣・家継父子も短い間に亡くなり…そして尾張が嫌われて、結局将軍ミラクルというか怖いというか
第4位:吉宗は紀州藩での成功があるのでそれを幕府でも実践できると考えたのでしょう。新田を開発すれば米が多く取れる、となると武士の収入が増えると考えたのでしょうね。ですが、それは現在では札束を刷っているようなものでコメの値段が下がる代わりに物価が上がるということになってしまいました。
飢饉が起った直後に新田の開発を行ったのであって、これは当然の行為なのでは?
家重は田沼意次を重用して経済を活性化させ、化政文化の発展にも貢献したはず。ここにはありませんが、綱吉暗君説は疑問ですね。荻原重秀を用いて貨幣改鋳(現代の金融緩和)を実施し、元禄文化を支えました。生類憐れみの令は悪法とされていますが、それまで当たり前だった辻斬りなどの殺伐とした空気を変えた側面もあります。逆に家宣は生類憐れみの令を終わらせましたが、新井白石を用いて経済を衰退させました。朱子学の申し子という意味では超優秀ですがね。この時代に経済的センスを持っている人物というのは特筆すべきです。将軍ではありませんが、同じ意味で財政出動した徳川宗春も注目に値します。元禄文化、化政文化が発達した時期は民衆が経済的に豊かな証拠です。食うのに困ってれば、芸術や娯楽に興じる余裕はありませんからね。
5人とも吉宗一族やん😁家斉の冒頭に登場した定信も家重の紹介欄で登場の宗武も吉宗一族。宗武・定信親子も凡庸になっちゃうよ。
まず1番すごいのは大きな戦争ができなくなる江戸幕府というシステムを築き、日本に265年の太平の世を築きあげた家康公が偉大な英雄だとわたくしは昔から思っていますね。田沼意次の場合は、時代劇のイメージもあって賄賂で汚職による腐敗政治を行なった悪徳政治家というイメージが子供の頃からありましたが、歳を重ねるにつれて色々な田沼意次に関する歴史研究本を読んでいるうちに経済を米から金中心にして、いち早く商業を第一に考えた政治を行ったことや、発明家として有名な平賀源内を優遇して、国のために有能な人材を発掘しようとしていたことなどから立派な政治家だと思いますよ。
意次は名政治家 今の日本に必要な人材だと思う
逆に名君として必ず名を挙げられるのが「甲府宰相 綱豊」時代からの実績もあり「6代将軍 家宣」は間違いないでしょうね。
その名君が親子共々10年足らずのうちに相次ぎ夭折してしまい、秀忠公以来の直系将軍が絶えてしまったことは、徳川幕府にとってかなり痛手になったと思います。
家宣は生類憐みの令にピリオドを打った名君
「生類憐みの令」を事実上生み出した怪僧「隆光」に引導を渡しましたね。
さしもの家宣も自身や子供の寿命まで采配する事が出来なかったのでしょうからね。それは初代家康も同じでしょうけど。「5代綱吉」も怪僧「隆光」に出逢い「生類憐みの令」を下して「暗君」の名を欲しいままにしましたがそれ以前は「屈指の名君」だったそうですしね。
家宣がせめてあと10年、家継は50歳まで生きていたら・・・。
10代家治は、清や天竺に興味を持ち、国際感覚を持っていた。田沼意次は、蝦夷(北海道)や樺太に調査隊を派遣したり、開幕以来取ってなかった商人からの税を徴収して、国の財政を立て直そうとした有能な政治家。この二人をただのイメージで、悪く言うのは間違っている。
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お気に入り、ありがとうございます! カナダから感謝です!
兎に角、260年以上も平和な時代を享受出来た時代が今を生きる人々はしっかり視ていく必要あると、思う。
紀州頼宣流(吉宗流)が軒並みランクインw
慶喜は、生まれた時代も将軍就任した時期も悪すぎた。
田沼意次は優れた政治家ですよ。将軍に能力がなかったので田沼意次でないと大変なことになっていた。
これだった尾張家が将軍の血筋になっていた方が江戸幕府としたらマシだったのでは……?正直4位以下は言いがかりの様な気もするけど
継友が将軍になっていたら、そのあとには宗春(もし将軍だったなら名前は違うかも)が出てきて「自由経済政策理論」のもとに重商主義の経済が田沼時代より50年早く到来していたかもしれませんね。
これだけ暗君が続いたのに250年続いた幕府を作り上げた家康すげえなw
優秀な幕臣が活躍できる組織を作った家康公はまさに神君。幕臣が新政府でも活躍したことで今の日本がある。
ほぼ全ての将軍が暗君で揃いも揃って短命なのに240年続いた室町幕府はあまり(全くかも?)評価されない。
@@ひろたかし-w8m歴史への重要性が低いんよなw正直後世に残るようなものを何も残してないw金閣銀閣くらいやろ
@@sハル-m8p 何なら平家政権や鎌倉幕府のほうが室町幕府よりも評価されてるくらい。
家光自身と吉宗の前後
家重と家定は少し障害があったとも言われていますね。それでも将軍を務めたと言うことを評価すべきか色々考えさせられますね。
BGMでかき消されるから音量下げるとか前のに戻すとかなんとかすべき
吉宗は、享保の飢饉後の対策として開墾を奨励したのであって役目を果たしたと言えます。江戸時代にはこの後も飢饉がやってきますが、この開墾がなければもっと被害は大きかったはず。彼の失敗は後継者を無能な徳川家重としたことでしょう。
吉宗の「デフレ下で不景気→スタグフレーション」はおかしいですね。デフレでは物価が下がるが、スタグフレーションというのは不景気下での物価上昇を言います。田沼の「賄賂政治」というのは松平定信の盟友松浦静山の「甲子夜話」にだけにあるので、極めて怪しい話。また当時の考え方では改革での収益の1割程度は自儘に使ってよいということもあった。大奥で遊び惚けて愚鈍となった家重というが、ではなぜに幼少のころから使えた大岡忠光の存在があるの?矛盾。家重は愚鈍ではなかった。生まれついての障害があった。それを忠光が補佐したということ。家重は自らの障害を自覚し、世を納めるのに一番大切なものは有能の家臣を抜擢する目を持つことと悟っていたのだろう。父が大岡忠相を抜擢したように。それで田沼意次の差異を見出し、彼を重用するようにと遺言したのだろう。宗武が家重に反抗して蟄居させられ、登城禁止となり、赦されるも失意の中で世を去る。ところがその子定信もたびたび家重に対しての不敬や田沼に対しての誹謗中傷を行い、家重が切腹を命じるまでに激高するが、意次はそれを諫め、江戸から遠ざける策として白河藩を継がせる。これを定信が俺を江戸から遠ざけたと定信を逆恨みし、後に寛政の改革の時に復讐(佐伯藩の改易)する。逆恨みもいいところ。田沼は25年にわたって老中を務める。そして晩年、家臣たちに「この意次がやったと後年人々から褒められることを一つは残したい」と諮問する。それが工藤平助の赤蝦夷風説考を知ることになり、その中でアイヌが松前藩により「牛馬のごとき扱い」を受けていると知って怒り、アイヌは勝手たるべしとの家康の遺命を守るため蝦夷地の幕府直轄を進めようとした。アイヌ救済である。幕臣たちによりアイヌの人々は救われると喜んだのもつかの間、天明の飢饉などで田沼は失脚、定信は蝦夷など元のままにしろとアイヌを見放す。これが意次の見直し。家康凄かった、という人が多いが、じつは秀忠なのだという人も多い。秀忠の事績を見ると改易した大名の数は一番多いし、朱印船貿易を積極的に行い、幕府財政を豊かにすると同時に戦国終了とともに国内に増えすぎた浪人を積極的に海外に出した。関が原に遅れたというのも、ワザとのような気がする。あの戦、必ずしも東軍が勝利するとは限らず、万が一の時は秀忠が率いる徳川本軍が残る。勝ったとしても徳川軍の傷は少なく済む。家康は秀忠を所掌の前で叱るだけで済む。ただ遅れたでは言い訳できないが、諸将も知る真田にやられたのでは仕方ないか、である。暗愚か名君かは基準が難しいが、このような動画でまずは示していただくと、とても興味がわきます。次も楽しみにしています。
もともと秀忠の軍勢は中山道を制圧する使命があった。それを関ヶ原に向かえなんて言われるもんだから…真田によって遅刻よりも使者が悪天候で遅れたのも不運だったかと
@@天池武士 中山道筋は東軍ですね。唯一真田本家のみが西軍に付いたわけで、真田が何をするかわからんから抑えておけというのが家康の命ですが、3万余騎は多すぎますよ。家康の狙いは保険だと思います。あの性格ですから。
どっちかと言うとデフレスパイラルですね
家治は今だったら人気の将軍(政治家)になってただろうな。側室は跡取りできたら実質用済みで正妻一筋なとこや吉宗の頃以上に倹約に功績を残してるのは大きい
個人的には15代慶喜。在任中も退任後も晩年も。授業で習ってた頃の慶喜評は偉人と思ってただけに落差が大きい。
徳川家綱かっこいい
岸田総理も暗君だよな!
反対に私が選ぶ徳川将軍の名君1.家康(まあ何といっても現在の首都東京の基礎を築いた人物だし)2.家綱(何もしなかったイメージだが[結果として]極悪非道な武断政治を終らせ、大名達を理不尽な改易から救った)3.家宣(悪名高い生類憐みの令を廃止した功績はデカい)時点.慶喜(殆ど将軍らしい事は出来ず在任中は江戸にすら居られなかったが、武家社会を平和的に終わらせ、徳川家の滅亡も防いだ功績は評価)
家宣は将軍就任以前は「甲府宰相 綱豊」でその政治手腕が評価されてましたからね。
家斉はある意味名君特に200年位後の時代に生まれれば、男優として活躍出来た
家斉は多くの実子を各大名家の養子にしていたお陰で,明治維新期の各大名家が徳川一門で占められる事になり,結果として貴族院議員の多くが家斉の子孫で占められた.
単に異常な絶倫男だっただけなので、現代に生まれてたらセクハラ社長と呼ばれて裁判起こされまくりだよ
それはどうでしょうか?将軍だから自分よがりな淡泊な行為だったと思うけど。なので意外と早かったかも。
@@ひろたかし-w8m 早いと言う事は「候(そうろう)」であった
令和の増税将軍 きっしーはこの中ではどのあたりに入るのかな?
15:50 肖像画だけ見れば、名君。
綱吉がいないの意外結構やってると思ったけど吉宗とかのが暗君だったんだ
あくまで日本史素人の私の個人的偏見ですが生類憐みの令はやりすぎだと思いますが綱吉は動画中にも名前だけは出てきた荻原重秀を起用し貨幣改鋳を通じて現在の管理通貨制度に近い理念の金融政策をやらせ当時の好景気を後押ししたことだけでも評価に値します加えて諸藩の監査を通じて将軍権威の向上を狙うだけでなく会計監査に熱心な将軍で勘定吟味役を設置し館林藩藩主時代からの小身だが能力のある家臣を抜擢し幕府財政の健全化に努め長崎貿易に関しても定高貿易法(1685年)を定め家綱時代の貨物市法(1672年)では狙い通りにできなかった貿易赤字拡大と舶来品高騰の阻止それに伴う莫大な量の貴金属流出にある程度歯止めをかけることに成功したことも特筆すべき功績だと思います(黒字化は18世紀中ごろまで待たないといけなかった)ただ、荻原重秀の外の幕府中枢の幹部たちは必ずしも金融や経済の理屈が分かっていたわけではないので(事後の対応を見るに単に悪貨にすることで差額を儲けたくらいの認識だったと想像される)綱吉薨去(1709年)後即座に生類憐みの令は撤回翌年に荻原重秀が失脚し貨幣政策も撤回されてしまいました挙句の果てに新井白石(荻原重秀の政敵)や吉宗(在1716~45年、動画解説の通り)が金融や経済政策も仕切るようになりました吉宗の時代の中盤に幕府財政は一時的に健全化しましたが経済・金融政策がアレなので後半は悪化していきました後の世の田沼意次はそこそこ知名度がありますが綱吉時代に荻原が抜擢されなければもっと早い段階で幕府財政だけでなく江戸時代の日本経済はダメになってたと思いますただ・・・私の見解は今日的価値観(しかも私の個人的偏見)からみた一方的な評価なので歴史学からの各人への評価はまた別のモノになると思います
サムネの将軍の「変顔」につられました。
家光じゃないかね まだ幕閣が家康・秀忠の時代からの家臣だったから江戸時代中期以降の縁故・賄賂だのボンボン幕閣よりはマシなだけで幕府の財政難の元を作ったのは家光だし 名君とても言い難いがね
この動画の基準で行くと結局は1~3代、14,15代以外皆暗君やんけ😮💨
足利将軍よりはみんなマトモ。
木沢長政やってくれや!
吉宗から将軍は紀州からとなってしまったから吉宗が一番悪いように思う。
田沼意次ご落胤説❤父親は足軽、母親は徳川吉宗からの拝領妻。足軽の息子が老中になった事で、当時からご落胤があった。
個人的には徳川15代名君ランキングは、1位慶喜、2位家康、3位秀忠
その通りですね。家康は徳川家の安泰を目指したが、慶喜は国の安泰を目指し、将軍職を擲った。
慶喜は「終わらせる勇気」を持ってしての決断だったと思います。
確かに物語等で取り上げられないような将軍は「暗君」と言えそうだ。在位期間が長いからといって、必ずしも「名君」とは限らないことがわかる。意外なのが超短命の7代家継の名がなく、8代吉宗が入っていること。家継が1位だろうと思っていた。「別格」なのか、それとも評価のしようがなくて「ランク外」なのか?
幼少将軍は評価のしようがないでしょ。
3:00600石なら上士で、小大名なら家老クラスだよ。4:18徳川吉宗は徳川家康の曾孫でもあるが、加藤清正の曾孫でもある。徳川綱吉がランクインしていない理由を教えてケロ。
他にもっとひどいのがいたことと生類憐みの令と晩年に立て続けに起きた天災ー1695年奥州飢饉1698年勅額大火1703年元禄地震1704年浅間山噴火1704年日本全国各地域で洪水発生1707年宝永地震1707年富士山噴火1708年京都大火1709年綱吉薨去ーの事後対応(この頻度で起きたらやった傍からやり直す羽目になるので泣きが入ると思います)を除けば事蹟的ー勘定吟味役の設置による会計監査制度の確立定高貿易法を通じて長崎貿易赤字と貴金属流出に対して一定の歯止めをかけた貨幣改鋳を通じた金融政策で当時の好景気を後押しした武家諸法度の見直し(天和令)諸藩への監査を通じて将軍権威の向上活動 などーに名君と言ってさし障りないからと思いますよ
綱吉がマクロビの始祖っぽい😆
日本の国会議員より徳川家斉の方が可愛く見える。
彼ら徳川将軍と比べたら戦国時代の大名達の方がかなり有能ですよね。今川氏真とかも江戸時代に生まれていれば名君と呼ばれていたでしょう。
家治は決して暗君ではない、将棋にも優れ自分自身で棋譜も作ってます、それに幼少の頃は優秀で吉宗も期待されていたし、田沼意次を起用したのも、彼の能力もさることながら、これからは重商主義に舵を切り替えていかなければ、やっていけないという家治の考えがあったからなのでは?動画主は暗愚と考えずにもう少し考えて挙げたら。
激動の時期に障害のある家定に強引に将軍職を受けさせたのは阿部正弘でしたね。これは明らかに失敗だったでしょう…
オイラ的には鳥羽伏見で逃げ出した15代将軍慶喜がワーストだな
仕方ないけど彼が戦わなかったお陰でそこまで被害が酷く無かったしそれに錦の御旗なんか出されたのに攻撃なんてしたら逆賊
徳川家康とて朝廷に対して一定の配慮をしているし、江戸時代は今の立憲君主制の礎が出来た。だから徳川将軍家は天子様に弓を引くことはしない。ましてや尊皇派の水戸藩出身徳川慶喜は特にその色が強い。錦の御旗が翻った時点で戦意はゼロだったし、そのことで江戸が火の海になってその隙を着いた欧米列強の侵略も防いだ。
@@gwdapwd16766 秩序だった退却なら私も責めません。昨日まで戦うと言っていて何も言わず逃げ出したのだから責任放棄、最低のリーダーです。尊皇、勤王とはまったく別問題で慶喜は最低です。彼は優れた知性はありましたが優れた人間性はありませんでした。
慶喜は、「ワースト」と「ベスト」で評価が2分される将軍ですね。敵前逃亡したのは「ワースト」だけど、速やかに大政奉還したこと・戊辰戦争を局地戦に矮小化し内戦を短期間で終えたことは「ベスト」だと思います。明治政府も後年慶喜に徳川宗家と同じ「公爵」という最高の待遇を与えているのは、「慶喜こそが明治維新最大の功労者」と評価したかたでしょう。
第5代・綱吉が入っていないのは、治世が再評価されている証拠ですね。かつては「犬公方」「天下の悪法・生類憐みの令」と酷評されましたが、やはり戦国時代の「人命軽視」という遺風を完全に消し去り「人命を重視した福祉政策」を実施したという点では上位に入る将軍だと思います。
障害のあった家重と夭折した家継は別格と考えても、本当に凡庸、無能の将軍が多い。実質的な権力者は老中で将軍は飾り物だったから15代続くことができた。
一般的に慶喜が馬鹿将軍と思われてるけど、近年では暗君じゃなく時代の流れに逆らえなかった、悲劇の名君って評価されてるんだよね
家康の再来じゃなかったの?
@@ufj24 まあ、それもあるね…
家重は志村けんのバカ殿様に影響を与えた名君だろ
現代基準では暗君なんて言っても、当時の基準では明君だったりします。老中若年寄合議制で政治する中では、良き神輿となれるのが明君。毛利敬親なんか「そうせい侯」なんて揶揄されても「ご主君は明君」と言われたわけで。十四代継嗣問題で紀州慶福(家茂)が支持されたのは、幕府内基準で明君だったからでもありますし。個人として優秀なのは慶喜でも、あれは良い神輿にはならないし(親父が嫌われていたのが最大の問題点なのは否定しませんが)。後世の価値観だけで判断しない方が良いでしょう。
前時代の室町将軍は暗君こそいたが名君や中興の祖がいなかったからなぁ😅
義教という暴君もいたしな
@@藤原鎌平足利義教は、万人恐怖の政治を行って、自分に歯向かう者を手段を選ばず処分したから。親父より厳しく、政治力は高かった。
神君、二代秀忠公、八代吉宗公、十四代家茂公 個人的にはこの四名が名君と呼ぶに相応しいと思います。
吉宗から暗黒時代始まってて草
将軍新政でない限り、暗君とは言い難い。家斉、家定は人材が枯渇している。吉宗より家慶の方がマイナスだと思う。
諸説あります
さすかドラマになるだけありますね将軍家
3位と1位は納得だがそれ以外は違うかな。 子供だった4代、7代を評価の対象外とすると家光が入ってくると思う。 異論はあるかもしれないが、家康により幕府の基礎固めをしてそれを外様の冷遇等を行い更に盤石なものにしていった。だから家光自身は特に何もしていない。松平信綱達優秀な家臣が行っていた。
綱吉がないのが意外
かつては「犬公方」と揶揄されていましたが、天下の悪法と言われた「生類憐みの令」が実は人間も保護の対象としていて、市中にはびこる野犬の隔離により人的被害を防ぐ、幼児や病人・高齢者の保護などの福祉政策を充実させていたことで、近年は評価が変わってきています。
綱吉は暴君と名君が半々で同居した二面性のある男だった
「生類憐みの令」を出すように仕向けた怪僧「隆光」と出会う以前はその的確な政治手腕で「屈指の名君」だったそうです。
@@藤原鎌平 おっしゃる通りですね。将軍就任間もない頃は大老・堀田正俊というブレーンがいて「天和の治」と呼ばれる善政を敷いていたけど、堀田が暗殺されて大老老中を遠ざけて側用人というイエスマンを重用するようになってからは暴君迷君ぶりが強くなりました。
生類憐れみの令だけで暗君にされがちですが、彼の代で貨幣改鋳をして経済を発展させ、元禄文化を築いた功績は注目すべきですよ。
大岡忠光は影の軍団2では悪者の大ボスだったけど、実際は悪い人じゃなかったですね😲
実際に政務を行うのは、家柄のみでなく能力も加味して選ばれる大老・老中なので問題ない。それが江戸幕府のすごいところ。
ん、北のキム将軍みたいだよな😂
家重はダッフンダをしてるの?
世良田二郎三郎の子孫達😅
でもですよ、個人的には極論すれば「徳川将軍は皆エラかった」と考えています。外国の暴君暗君独裁者たちに比べるとかわいいもの。向こうじゃ大量虐殺や巨大散財、腐敗政治などそのレベルは半端ない。でも徳川将軍にはそこまでの暴君はいない。
僕は、暗君が徳川綱吉と思います🎵 徳川慶喜公と武田勝頼公と武田信玄公が一番大好き💓♥️❤️です
日本語ひどいね外国人?
吉宗一族w
俺的にはワースト1位、5代綱吉(生類憐みの令)、2位、15代慶喜(鳥羽伏見の役で一人だけ逃げ帰った)だな。
綱吉の時代までは江戸は野犬の無法地帯だったみたいだし犬食の文化の残っていたみたいだから日本人の道徳を上げた功績はある
「スタグネーション」ではなく、「スタグフレーション」
吉宗が暗君とは思わなんだ。新しい見識か。
吉宗は一部功績はあるものの、それ以上の経済音痴ぶりが際立っており結果暗君。吉宗自身と松平定信(ちなみにこの人も近年は暗君と言われている。)のイメージUP戦略が成功しているに過ぎない。(まあこのイメージUPの一助となっている暴れん坊将軍も悪いのだが)
日本の徳川将軍に限らず時代が進めば暗君率が上がるのはどの王朝でも同じですね。むしろ中国史とか古代ローマに出てくる暗君に比べたら、徳川将軍はマシな方だと思います。個人的に徳川将軍名君ベスト4はこちらの4人ですね。第4位:三代将軍 徳川家光凡庸で少し頼りなかった父秀忠から代を譲り受け、余は生まれながらの将軍であるという少し強気な名言で有名ですが、参勤交代制の導入、大奥の創設など時代劇で想像する江戸時代の基礎を築き、祖父の初代将軍家康が創設した江戸幕府をさらに盛り立て盤石なものにした将軍だと思います。家光がいなかったら、260年の天下泰平の江戸時代はなかったと思います。第3位:六代将軍 徳川家宣天下の悪法で有名な五代将軍綱吉の跡を継いで将軍となった人物で在位期間は3年で最期は崩御となってしまった将軍ですが、生類憐みの令を即位後すぐさま撤回し、死罪となってしまった国民達を救うために奔走し、多くの命を救った将軍様だと思います。彼は働きすぎて3年で崩御してしまったという説が上がるほど、国民のために働いた為政者だと思うので、それは現代の政治家も見習ってほしいところです。第2位:初代将軍 徳川家康群雄割拠の戦国の乱世を平定し江戸幕府を開き260年にも及ぶ天下泰平の江戸時代を築いた神君なので彼を選びました。家康がいなかったら戦国の乱世はずっと続いていたと思うので、現代の平和な日本や首都東京の基礎と今の日本の基礎を作り上げたのはやはり神君家康公だと思います。卑怯者のたぬきと呼ばれ嫌いと言う人もいますが、彼のいいところやただ天下を取りたかっただけでなく、平和な時代を民達のために作りたかったと言う彼の思いを知ればイメージが変わると思います。1位:十五代将軍 徳川慶喜激動の幕末に最後の将軍として即位した彼ですが、安定した時代ではなく激動の時代に自ら進んで将軍に即位したこと、また日本史に限らず世界史的に見ても、王朝と王朝の変わり目のときは必ず戦乱が起こりますが、慶喜は自らの家が為政者としての地位を失うことよりも、江戸が討幕勢力との戦火に巻き込まれ、多くの関係のない民を巻き込んでしまうというところを心配し、自ら為政者としての徳川家260年の歴史に幕を閉じることを決断し、朝廷に政権を返還する大政奉還を行なった所が、明君だと思いました。大政奉還と江戸無血開城の立役者は勝海舟と坂本龍馬ですが、影の立役者は徳川慶喜公だと思います。作った神君家康も凄いですが、自ら幕を閉じた慶喜もすごいと思ったし、真の名君であると思ったので、一位に選びました。全体的に見ても歴代徳川将軍は優しい心を持った良い為政者ですね。今の暗君増税メガネに比べたらみんな名君です。
先ず、江戸時代の三大改革案の改革の意味が不明です。目的とその利益を得る者です。歴史的に改革でしょうか?単なる収支改善ではないですか?江戸時代は職務給と言うものが無く任命された者は俸禄で必要な職員を自ら雇い、必要な資材を自らの俸禄で賄うことを求められます。何処かの国のように領民を絞り上げて生きる気力まで奪うことをしていません。歴史の根本的な見直しが必要なのではないでしょうか?
デフレよりインフレのほうがいい。数十年かもっと前の日本はインフレ気味だったが、それ以上に経済成長率が高かった。デフレで物価は安くなったが、それ以上に賃金は下がった。
家康 例え幕府が倒されても日本が存続できる手は打っておいた。
吉宗は暴れ過ぎた?😂😂😂
実は全然暴れていなかったとか…ただ武芸には優れていたので、その意味で武闘派将軍のイメージがついた
暗君でも幕府が継続でき、昭和56年まで地球上に存命者がいた幕府をつくりあげた家康は間違いなく名君。その方はウィルバーライトとは2日違いなので、もう明治天皇が即位してたけど、また徳川慶喜が将軍で大政奉還前なので江戸時代生まれ。昭和56年となると山口百恵引退後、ゲームウォッチも発売後、車も普通に通ってると言う、江戸時代からしたらまるで様変わりした世の中になっていた。江戸時代が長かったから孝明天皇在位中に生まれた地球上最後の人間はテレビの存在を知っているなど、家康には想像を付かないものを知ってる人間もいた。
8代の吉宗以後ほとんどの将軍が暗君だったということですね。😂
「実は」なのかな・・・血で全ての才能が継承されるわけがないから・・・ある割合で「?」ってのが含まれる方が自然・・・。まあ、吉宗で系統がかわって、歴史も書き換えられているし、なんとも言い難いけどね。
政治はなにが正解かわからない よかれと思っておこなったことが裏目にでる 吉宗の時代はおそらく多くの国民が望んでいたことを実行したのだと思うが それがすべて裏目にでてしまう 田沼時代に腐敗して苦しめられたひとも多くいたとおもうが 田沼がいなくなっていかに田沼治世が有能であったかがわかる皮肉
家重は名君のはず。
足利将軍の方が名君多い
慶喜
将軍はお飾り。実際の政治・行政は幕閣が行うからあんまり影響は無かった。
ちょ!家光と綱吉が無い!!
綱吉は?
個人的には名君と思います生類憐みの令はやりすぎだったと思いますけど金融政策による好景気の後押し監査制度の構築、徹底による幕府財政の健全化(結果的には不十分だったが)管理貿易制度の見直しによる貿易赤字の是正(黒字化は18世紀中ごろまで待たないといけなかったが、赤字と貴金属の大量流出の構造に歯止めをかけた)3点を高く評価しています
聞き取り辛すぎ音楽がマイナスにしか機能してない長年やってるのに退歩してどうするんだよ・・・
率直な話、幕末を除けば将軍は暗君でも長男であれば一向に構わなかったんですよね。家康が「将軍は家老の奏上した案件に判子を押すだけ」の存在にして後任の秀忠にバトンタッチしてますから、現在の天皇陛下と同じような存在です。こういう組織のほうが日本では長持ちすると家康は理解していたんでしょうね。
誤字が多すぎて信憑性が下がってしまうのではないか。
自分の中では、五代綱吉が暗君ナンバー1です生類憐みの令、生母桂昌院を従一位にするなど、専横甚だしき人物徳川中興の祖である吉宗は諸説あれど、暗君にするのは納得いきかねます
徳川将軍家で一番の暗君は慶喜じゃ!
判断基準が明確ではないのですが基準によっては慶喜は名君にも暗君にもなりますね。
@@お宮さん-r2t 様関東と関西で評価180度かわりますね。
ちなみに私の母方、「高須松平家」の流れです。慶勝公ですね。また、「松平四兄弟」ですね。
大政奉還の決意に坂本龍馬が「大樹公、よくも断じ給えるものかな。余、誓ってこの公のために一命を捨てん」と感激していますね。徳川家にとっては暗君でしょうが、先見の明と無私の心で日本を守り抜いた史上最良の英雄です。
@@竜涎香-g9o 様 果たして坂本龍馬にそれだけの力、ホントにあったでしょうかね?「グラバー一族」が後ろで糸引いてた見た方がいいでしょう。ちなみに私、直でないですが親戚筋の御子孫にお会いしてます。「司牡丹」と云う酒作ってる酒蔵の社長の竹村さんです!
暗君でも、家臣が優秀なので、問題無い。
田沼は優秀だよ。
ですね。朱子学妄信者の讒言を真に受けてはいけません
田沼意次はわいろもらってませんよ!
賄賂というか付け届けは、当時の潤滑油的存在だから田沼も貰ってたけど、松平定信も老中になるまでは送ってたりしますな。
@@浩三芝崎-t8v
仮に貰ってたとして何が悪いのかさっぱり分からない。
清廉潔白で政治なんか出来ない。
@@gwdapwd16766 いまの時代でも、カネの話が出ただけで嫌われるからなー政治家って。
家重は最近では実は名君だったのではという説もある
田沼意次の才覚を見抜き出世させ家治に「田沼を重用しろ」と遺言を残すなど人事能力は確かであり、予算制度である勘定吟味役を充実させたのも家重だったりする。
家重は言語障害があっただけで,実は吉宗以上に切れ者だったとも言われていますね.
@@山田哲也-t4cさん
父・吉宗があまりにも経済オンチ過ぎたので、家重なりに何とかしようとしたのでしょう。
しかし、儒教道徳では経済、即ちお金を重んじるのはタブーであり、それ故に「暗君」という評価を免れなかったかも知れません。
当時の朱子学信者が書いた書物のせいで、経済に長けた人物が軒並みネガキャンされてるのが、評価を歪めますよね。
韓国は儒教は国の発展阻害すると言って排除した。それは正しいと思う。
郡上騒動なんかも適切な判断しましたね 当時では異例であった藩だけでなく幕閣まで罪を負わせた
第2位:家重は病弱で言語不明瞭な部分がありましたが、吉宗としては家重の子である家治に期待していたのだと思います。
ただ、当の家治はその状況を見て何もしない事を選択してしまったので吉宗の期待外れに終わってしまいました。
大岡忠光が家重の言葉を理解できたのが大きいですね。
なので家重は忠光が亡くなったと同時に将軍職を息子の家治に譲りました。
暗君でも継続できる組織を作り上げた家康の凄さよ。
暗君でも長子相続を徹底させ、将軍を支えるシステムがなかったら、鎌倉殿みたいに同じ血族同士で潰し合い、幕府なんてさっさと終わっていただろう。
頼朝の源氏嫡流はわずか3代、世代なら2世代だけであっけなく潰えてますから。江戸幕府は本来は7代家継で断絶だったはずが、家康が子福者で御三家をしっかり整備していたから吉宗が世に出てこられた。我が子かわいさは家康も変わりなかったが、母数を増やして盤石の徳川独裁体制を築いた先見性。伊達に鳴くまで待っていない。
室町幕府は義満が死んだら一気にガタ落ちし、形だけの組織と化して行くが、江戸幕府は将軍は誰であれ強い権威を260年近く保ち続けた。この差は大きい。
韓非子が提唱したシステム
中国で言えば、明代に通じますよね。あっちもボンクラ皇帝が続いても簡単には潰れない体制になったんですから。士大夫または武士が官僚として使えた時代ならではで。
家治は適切な人材に政治を思い切り出来る空間を作ったことを考えれば逆に優秀だったのでは?
第1位:家定は生き残った人物だと思います。
他の兄弟は幼くして亡くなってしまったので将軍にならざるを得なかったと思います。
不運だったのは黒船が来航してすぐに家慶が亡くなったことですね。
第5位:家治自身は優秀な人物だったと思います。
本妻とも仲が良かったみたいですね。
おそらく、祖父吉宗・父家重を見て自分は何もしないほうがいいと考えたのでしょう。
さらに跡継ぎが生まれると女性を遠ざけたようです。
そのことによって大奥の出費を抑えたみたいですね。
ですが、その跡継ぎが亡くなってしまったのが誤算でした。
家治は凡庸じゃなくて超秀才だったはず。吉宗も期待して大御所になってからは宗治の教育に励んだ。
超秀才だったから田沼の天才を見抜き、自らは邪魔をせぬようにひきこもった。
家治が出しゃばれば、田沼を快く思わない他の幕臣たちに田沼の悪口を吹き込まれ、田沼排除に利用されるということが分かっていたからだろう。
福島県出身だけど、学校じゃ「白河の清きに魚も棲みかねて、元の濁りの田沼恋しき。」と田沼を評価してました。彼を登用した家治凡庸では無かったと思います。
個人的には4代将軍 徳川家綱をあげたい。父親の家光が現職の将軍のまま死んでしまい、11歳で将軍に。
しかし、病弱なこともあって幕政は家臣に丸投げ。とりわけ、寛永の遺臣がいなくなると、下馬将軍 酒井忠清の言うがまま、となり「そうせい将軍」と、言われたとか。
世継ぎに恵まれず、また養子を取ることもなく、重病となる。忠清は家康の遺言を無視するかの如く、京都から宮将軍を迎え入れようと画策。
徳川将軍家は4代で絶えてしまう可能性もあったわけで、ワーストの資格は十分かと思います。
結果だけを見れば家綱は良かったと言えるが…
武断政治が終わり、穏やかな文治政治になったのも彼の時代だ
家光が亡くなる頃にはもう子供が継いでも問題ないくらい、幕府の権威は盤石になってましたからね〜。本人無能でも、老中たちが采配を振るえば問題なし(むしろ無能な将軍が政務をとるよりその方がいい)。 将軍が直接政をして悪法で庶民を苦しめた綱吉なんかよりよっぽどいい。
はは@@藤原鎌平
第3位:家斉は家治の反省があったのかもしれません。
なので彼は子作りに励みました。
ただ、そのために養子先を探すのに苦労し、中には実子がいるのに家斉の子供を養子にするという藩もありました。
それを水野忠成が一手に引き受けたのですから彼の手腕は凄かったと思います。
実子がいるのに家斉の子を養子にしたのは、津山藩の松平家ですね。
越前松平家の宗家にも関わらず藩主の素行不良やお家騒動等で5万石まで落ちぶれていたから、家格を上げてもらおうと幕府にお願いして実現、石高が5万石→10万石に倍増しています。
@@toyo-rex4899
家斉の男系子孫で唯一残っているのは津山藩に養子にいった斉民の子孫のみですね。
尾張徳川家も家斉の子、養子にしてます。
実子いたのにです
家斉の子沢山のおかげで、山田風太郎の、いわゆる忍法帖シリーズのいくつかの題材になったりしてますね。
有名なのは「自来也忍法帖」、映画やOVでくノ一を主人公にするシリーズ(R-15相当w)で実写化されました
@@toyo-rex4899
こういう時に子供が男児だと
めちゃくちゃ処分に困るな
これみて思うのが家康が凄すぎるってことかな。
ワースト5みんな紀州の血筋じゃないか
尾張家は途中で男系が絶えて将軍家や御三卿より養子が入りまくるし、水戸家は男系が続いていたけど家格の低さから事実上将軍を輩出できませんでしたからね。最後の将軍・慶喜も、生まれは水戸家だけど将軍になれたのは御三卿の一つ・一橋家の当主だったからです。
@@toyo-rex4899さん、他の御三家よりも早く嫡男を産んだにもかかわらず、気を使って黙っていて、二番目の光圀が産まれて初めて公儀に報告したくらいですから😢
@962ctrlgfk6
殺したわけではないにせよ、紀州家で兄を2人も亡くし、さらに綱吉の跡を継いだ家宣・家継父子も短い間に亡くなり…
そして尾張が嫌われて、結局将軍
ミラクルというか怖いというか
第4位:吉宗は紀州藩での成功があるのでそれを幕府でも実践できると考えたのでしょう。
新田を開発すれば米が多く取れる、となると武士の収入が増えると考えたのでしょうね。
ですが、それは現在では札束を刷っているようなものでコメの値段が下がる代わりに物価が上がるということになってしまいました。
飢饉が起った直後に新田の開発を行ったのであって、これは当然の行為なのでは?
家重は田沼意次を重用して経済を活性化させ、化政文化の発展にも貢献したはず。
ここにはありませんが、綱吉暗君説は疑問ですね。荻原重秀を用いて貨幣改鋳(現代の金融緩和)を実施し、元禄文化を支えました。生類憐れみの令は悪法とされていますが、それまで当たり前だった辻斬りなどの殺伐とした空気を変えた側面もあります。逆に家宣は生類憐れみの令を終わらせましたが、新井白石を用いて経済を衰退させました。朱子学の申し子という意味では超優秀ですがね。
この時代に経済的センスを持っている人物というのは特筆すべきです。将軍ではありませんが、同じ意味で財政出動した徳川宗春も注目に値します。元禄文化、化政文化が発達した時期は民衆が経済的に豊かな証拠です。食うのに困ってれば、芸術や娯楽に興じる余裕はありませんからね。
5人とも吉宗一族やん😁家斉の冒頭に登場した定信も家重の紹介欄で登場の宗武も吉宗一族。宗武・定信親子も凡庸になっちゃうよ。
まず1番すごいのは大きな戦争ができなくなる江戸幕府というシステムを築き、日本に265年の太平の世を築きあげた家康公が偉大な英雄だとわたくしは昔から思っていますね。
田沼意次の場合は、時代劇のイメージもあって賄賂で汚職による腐敗政治を行なった悪徳政治家というイメージが子供の頃からありましたが、歳を重ねるにつれて色々な田沼意次に関する歴史研究本を読んでいるうちに経済を米から金中心にして、いち早く商業を第一に考えた政治を行ったことや、発明家として有名な平賀源内を優遇して、国のために有能な人材を発掘しようとしていたことなどから立派な政治家だと思いますよ。
意次は名政治家 今の日本に必要な人材だと思う
逆に名君として必ず名を挙げられるのが「甲府宰相 綱豊」時代からの実績もあり「6代将軍 家宣」は間違いないでしょうね。
その名君が親子共々10年足らずのうちに相次ぎ夭折してしまい、秀忠公以来の直系将軍が絶えてしまったことは、徳川幕府にとってかなり痛手になったと思います。
家宣は生類憐みの令にピリオドを打った名君
「生類憐みの令」を事実上生み出した怪僧「隆光」に引導を渡しましたね。
さしもの家宣も自身や子供の寿命まで采配する事が出来なかったのでしょうからね。それは初代家康も同じでしょうけど。「5代綱吉」も怪僧「隆光」に出逢い「生類憐みの令」を下して「暗君」の名を欲しいままにしましたがそれ以前は「屈指の名君」だったそうですしね。
家宣がせめてあと10年、家継は50歳まで生きていたら・・・。
10代家治は、清や天竺に興味を
持ち、国際感覚を持っていた。
田沼意次は、蝦夷(北海道)や樺
太に調査隊を派遣したり、開幕
以来取ってなかった商人からの
税を徴収して、国の財政を立て
直そうとした有能な政治家。
この二人をただのイメージで、
悪く言うのは間違っている。
ありがとうございます! カナダから応援してます!
お気に入り、ありがとうございます! カナダから感謝です!
兎に角、260年以上も平和な時代を享受出来た時代が今を生きる人々はしっかり視ていく必要あると、思う。
紀州頼宣流(吉宗流)が軒並みランクインw
慶喜は、生まれた時代も将軍就任した時期も悪すぎた。
田沼意次は優れた政治家ですよ。将軍に能力がなかったので田沼意次でないと大変なことになっていた。
これだった尾張家が将軍の血筋になっていた方が江戸幕府としたらマシだったのでは……?正直4位以下は言いがかりの様な気もするけど
継友が将軍になっていたら、そのあとには宗春(もし将軍だったなら名前は違うかも)が出てきて「自由経済政策理論」のもとに重商主義の経済が田沼時代より50年早く到来していたかもしれませんね。
これだけ暗君が続いたのに250年続いた幕府を作り上げた家康すげえなw
優秀な幕臣が活躍できる組織を作った家康公はまさに神君。
幕臣が新政府でも活躍したことで今の日本がある。
ほぼ全ての将軍が暗君で揃いも揃って短命なのに240年続いた室町幕府はあまり(全くかも?)評価されない。
@@ひろたかし-w8m歴史への重要性が低いんよなw
正直後世に残るようなものを何も残してないw
金閣銀閣くらいやろ
@@sハル-m8p 何なら平家政権や鎌倉幕府のほうが室町幕府よりも評価されてるくらい。
家光自身と吉宗の前後
家重と家定は少し障害があったとも言われていますね。それでも将軍を務めたと言うことを評価すべきか色々考えさせられますね。
BGMでかき消されるから音量下げるとか前のに戻すとかなんとかすべき
吉宗は、享保の飢饉後の対策として開墾を奨励したのであって役目を果たしたと言えます。
江戸時代にはこの後も飢饉がやってきますが、この開墾がなければもっと被害は大きかったはず。
彼の失敗は後継者を無能な徳川家重としたことでしょう。
吉宗の「デフレ下で不景気→スタグフレーション」はおかしいですね。デフレでは物価が下がるが、スタグフレーションというのは不景気下での物価上昇を言います。田沼の「賄賂政治」というのは松平定信の盟友松浦静山の「甲子夜話」にだけにあるので、極めて怪しい話。また当時の考え方では改革での収益の1割程度は自儘に使ってよいということもあった。大奥で遊び惚けて愚鈍となった家重というが、ではなぜに幼少のころから使えた大岡忠光の存在があるの?矛盾。家重は愚鈍ではなかった。生まれついての障害があった。それを忠光が補佐したということ。家重は自らの障害を自覚し、世を納めるのに一番大切なものは有能の家臣を抜擢する目を持つことと悟っていたのだろう。父が大岡忠相を抜擢したように。それで田沼意次の差異を見出し、彼を重用するようにと遺言したのだろう。宗武が家重に反抗して蟄居させられ、登城禁止となり、赦されるも失意の中で世を去る。ところがその子定信もたびたび家重に対しての不敬や田沼に対しての誹謗中傷を行い、家重が切腹を命じるまでに激高するが、意次はそれを諫め、江戸から遠ざける策として白河藩を継がせる。これを定信が俺を江戸から遠ざけたと定信を逆恨みし、後に寛政の改革の時に復讐(佐伯藩の改易)する。逆恨みもいいところ。田沼は25年にわたって老中を務める。そして晩年、家臣たちに「この意次がやったと後年人々から褒められることを一つは残したい」と諮問する。それが工藤平助の赤蝦夷風説考を知ることになり、その中でアイヌが松前藩により「牛馬のごとき扱い」を受けていると知って怒り、アイヌは勝手たるべしとの家康の遺命を守るため蝦夷地の幕府直轄を進めようとした。アイヌ救済である。幕臣たちによりアイヌの人々は救われると喜んだのもつかの間、天明の飢饉などで田沼は失脚、定信は蝦夷など元のままにしろとアイヌを見放す。これが意次の見直し。
家康凄かった、という人が多いが、じつは秀忠なのだという人も多い。秀忠の事績を見ると改易した大名の数は一番多いし、朱印船貿易を積極的に行い、幕府財政を豊かにすると同時に戦国終了とともに国内に増えすぎた浪人を積極的に海外に出した。関が原に遅れたというのも、ワザとのような気がする。あの戦、必ずしも東軍が勝利するとは限らず、万が一の時は秀忠が率いる徳川本軍が残る。勝ったとしても徳川軍の傷は少なく済む。家康は秀忠を所掌の前で叱るだけで済む。ただ遅れたでは言い訳できないが、諸将も知る真田にやられたのでは仕方ないか、である。暗愚か名君かは基準が難しいが、このような動画でまずは示していただくと、とても興味がわきます。次も楽しみにしています。
もともと秀忠の軍勢は中山道を制圧する使命があった。それを関ヶ原に向かえなんて言われるもんだから…真田によって遅刻よりも使者が悪天候で遅れたのも不運だったかと
@@天池武士 中山道筋は東軍ですね。唯一真田本家のみが西軍に付いたわけで、真田が何をするかわからんから抑えておけというのが家康の命ですが、3万余騎は多すぎますよ。家康の狙いは保険だと思います。あの性格ですから。
どっちかと言うとデフレスパイラルですね
家治は今だったら人気の将軍(政治家)になってただろうな。
側室は跡取りできたら実質用済みで正妻一筋なとこや吉宗の頃以上に倹約に功績を残してるのは大きい
個人的には15代慶喜。在任中も退任後も晩年も。
授業で習ってた頃の慶喜評は偉人と思ってただけに落差が大きい。
徳川家綱かっこいい
岸田総理も暗君だよな!
反対に私が選ぶ徳川将軍の名君
1.家康
(まあ何といっても現在の首都東京の基礎を築いた人物だし)
2.家綱
(何もしなかったイメージだが[結果として]極悪非道な武断政治を終らせ、大名達を理不尽な改易から救った)
3.家宣
(悪名高い生類憐みの令を廃止した功績はデカい)
時点.慶喜
(殆ど将軍らしい事は出来ず在任中は江戸にすら居られなかったが、武家社会を平和的に終わらせ、徳川家の滅亡も防いだ功績は評価)
家宣は将軍就任以前は「甲府宰相 綱豊」でその政治手腕が評価されてましたからね。
家斉はある意味名君
特に200年位後の時代に生まれれば、男優として活躍出来た
家斉は多くの実子を各大名家の養子にしていたお陰で,
明治維新期の各大名家が徳川一門で占められる事になり,結果として貴族院議員の多くが家斉の子孫で占められた.
単に異常な絶倫男だっただけなので、現代に生まれてたらセクハラ社長と呼ばれて裁判起こされまくりだよ
それはどうでしょうか?将軍だから自分よがりな淡泊な行為だったと思うけど。なので意外と早かったかも。
@@ひろたかし-w8m 早いと言う事は「候(そうろう)」であった
令和の増税将軍 きっしーはこの中ではどのあたりに入るのかな?
15:50 肖像画だけ見れば、名君。
綱吉がいないの意外
結構やってると思ったけど吉宗とかのが暗君だったんだ
あくまで日本史素人の私の個人的偏見ですが
生類憐みの令はやりすぎだと思いますが
綱吉は
動画中にも名前だけは出てきた
荻原重秀を起用し
貨幣改鋳を通じて
現在の管理通貨制度に近い理念の金融政策をやらせ
当時の好景気を後押ししたことだけでも評価に値します
加えて
諸藩の監査を通じて将軍権威の向上を狙うだけでなく
会計監査に熱心な将軍で
勘定吟味役を設置し
館林藩藩主時代からの
小身だが能力のある家臣を抜擢し
幕府財政の健全化に努め
長崎貿易に関しても
定高貿易法(1685年)を定め
家綱時代の貨物市法(1672年)では狙い通りにできなかった
貿易赤字拡大と舶来品高騰の阻止
それに伴う莫大な量の貴金属流出に
ある程度歯止めをかけることに成功したことも
特筆すべき功績だと思います
(黒字化は18世紀中ごろまで待たないといけなかった)
ただ、荻原重秀の外の幕府中枢の幹部たちは
必ずしも金融や経済の理屈が分かっていたわけではないので
(事後の対応を見るに単に悪貨にすることで差額を儲けたくらいの認識だったと想像される)
綱吉薨去(1709年)後
即座に生類憐みの令は撤回
翌年に荻原重秀が失脚し貨幣政策も撤回されてしまいました
挙句の果てに
新井白石(荻原重秀の政敵)や
吉宗(在1716~45年、動画解説の通り)が
金融や経済政策も仕切るようになりました
吉宗の時代の中盤に
幕府財政は一時的に健全化しましたが
経済・金融政策がアレなので
後半は悪化していきました
後の世の田沼意次はそこそこ知名度がありますが
綱吉時代に荻原が抜擢されなければ
もっと早い段階で幕府財政だけでなく
江戸時代の日本経済はダメになってたと思います
ただ・・・
私の見解は今日的価値観(しかも私の個人的偏見)からみた
一方的な評価なので
歴史学からの各人への評価は
また別のモノになると思います
サムネの将軍の「変顔」につられました。
家光じゃないかね まだ幕閣が家康・秀忠の時代からの家臣だったから江戸時代中期以降の縁故・賄賂だのボンボン幕閣よりはマシなだけで幕府の財政難の元を作ったのは家光だし 名君とても言い難いがね
この動画の基準で行くと結局は1~3代、14,15代以外皆暗君やんけ😮💨
足利将軍よりはみんなマトモ。
木沢長政やってくれや!
吉宗から将軍は紀州からとなってしまったから吉宗が一番悪いように思う。
田沼意次ご落胤説❤
父親は足軽、母親は徳川吉宗からの拝領妻。足軽の息子が老中になった事で、当時からご落胤があった。
個人的には徳川15代名君ランキングは、
1位慶喜、2位家康、3位秀忠
その通りですね。家康は徳川家の安泰を目指したが、慶喜は国の安泰を目指し、将軍職を擲った。
慶喜は「終わらせる勇気」を持ってしての決断だったと思います。
確かに物語等で取り上げられないような将軍は「暗君」と言えそうだ。在位期間が長いからといって、必ずしも「名君」とは限らないことがわかる。
意外なのが超短命の7代家継の名がなく、8代吉宗が入っていること。家継が1位だろうと思っていた。「別格」なのか、それとも評価のしようがなくて「ランク外」なのか?
幼少将軍は評価のしようがないでしょ。
3:00
600石なら上士で、小大名なら家老クラスだよ。
4:18
徳川吉宗は徳川家康の曾孫でもあるが、加藤清正の曾孫でもある。
徳川綱吉がランクインしていない理由を教えてケロ。
他にもっとひどいのがいたことと
生類憐みの令と
晩年に立て続けに起きた天災
ー1695年奥州飢饉
1698年勅額大火
1703年元禄地震
1704年浅間山噴火
1704年日本全国各地域で洪水発生
1707年宝永地震
1707年富士山噴火
1708年京都大火
1709年綱吉薨去ーの
事後対応
(この頻度で起きたらやった傍からやり直す羽目になるので泣きが入ると思います)
を除けば
事蹟的
ー勘定吟味役の設置による会計監査制度の確立
定高貿易法を通じて長崎貿易赤字と貴金属流出に対して一定の歯止めをかけた
貨幣改鋳を通じた金融政策で当時の好景気を後押しした
武家諸法度の見直し(天和令)
諸藩への監査を通じて将軍権威の向上活動 などーに
名君と言ってさし障りないからと思いますよ
綱吉がマクロビの始祖っぽい😆
日本の国会議員より徳川家斉の方が可愛く見える。
彼ら徳川将軍と比べたら戦国時代の大名達の方がかなり有能ですよね。
今川氏真とかも江戸時代に生まれていれば名君と呼ばれていたでしょう。
家治は決して暗君ではない、将棋にも優れ自分自身で棋譜も作ってます、それに幼少の頃は優秀で吉宗も期待されていたし、田沼意次を起用したのも、彼の能力もさることながら、これからは重商主義に舵を切り替えていかなければ、やっていけないという家治の考えがあったからなのでは?動画主は暗愚と考えずにもう少し考えて挙げたら。
激動の時期に障害のある家定に強引に将軍職を受けさせたのは阿部正弘でしたね。これは明らかに失敗だったでしょう…
オイラ的には鳥羽伏見で逃げ出した15代将軍慶喜がワースト
だな
仕方ないけど彼が戦わなかったお陰でそこまで被害が酷く無かったしそれに錦の御旗なんか出されたのに攻撃なんてしたら逆賊
徳川家康とて朝廷に対して一定の配慮をしているし、江戸時代は今の立憲君主制の礎が出来た。
だから徳川将軍家は天子様に弓を引くことはしない。
ましてや尊皇派の水戸藩出身徳川慶喜は特にその色が強い。
錦の御旗が翻った時点で戦意はゼロだったし、そのことで江戸が火の海になってその隙を着いた欧米列強の侵略も防いだ。
@@gwdapwd16766 秩序だった退却なら私も責めません。昨日まで戦うと言っていて何も言わず逃げ出したのだから責任放棄、最低のリーダーです。
尊皇、勤王とはまったく別問題で慶喜は最低です。彼は優れた知性はありましたが優れた人間性はありませんでした。
慶喜は、「ワースト」と「ベスト」で評価が2分される将軍ですね。
敵前逃亡したのは「ワースト」だけど、速やかに大政奉還したこと・戊辰戦争を局地戦に矮小化し内戦を短期間で終えたことは「ベスト」だと思います。
明治政府も後年慶喜に徳川宗家と同じ「公爵」という最高の待遇を与えているのは、「慶喜こそが明治維新最大の功労者」と評価したかたでしょう。
第5代・綱吉が入っていないのは、治世が再評価されている証拠ですね。
かつては「犬公方」「天下の悪法・生類憐みの令」と酷評されましたが、やはり戦国時代の「人命軽視」という遺風を完全に消し去り「人命を重視した福祉政策」を実施したという点では上位に入る将軍だと思います。
障害のあった家重と夭折した家継は別格と考えても、本当に凡庸、無能の将軍が多い。
実質的な権力者は老中で将軍は飾り物だったから15代続くことができた。
一般的に慶喜が馬鹿将軍と思われてるけど、近年では暗君じゃなく時代の流れに逆らえなかった、悲劇の名君って評価されてるんだよね
家康の再来じゃなかったの?
@@ufj24 まあ、それもあるね…
家重は志村けんのバカ殿様に影響を与えた名君だろ
現代基準では暗君なんて言っても、当時の基準では明君だったりします。
老中若年寄合議制で政治する中では、良き神輿となれるのが明君。
毛利敬親なんか「そうせい侯」なんて揶揄されても「ご主君は明君」と言われたわけで。
十四代継嗣問題で紀州慶福(家茂)が支持されたのは、幕府内基準で明君だったからでもありますし。
個人として優秀なのは慶喜でも、あれは良い神輿にはならないし(親父が嫌われていたのが最大の問題点なのは否定しませんが)。
後世の価値観だけで判断しない方が良いでしょう。
前時代の室町将軍は暗君こそいたが名君や中興の祖がいなかったからなぁ😅
義教という暴君もいたしな
@@藤原鎌平足利義教は、万人恐怖の政治を行って、自分に歯向かう者を手段を選ばず処分したから。親父より厳しく、政治力は高かった。
神君、二代秀忠公、八代吉宗公、十四代家茂公
個人的にはこの四名が名君と呼ぶに相応しいと思います。
吉宗から暗黒時代始まってて草
将軍新政でない限り、暗君とは言い難い。
家斉、家定は人材が枯渇している。吉宗より家慶の方がマイナスだと思う。
諸説あります
さすかドラマになるだけありますね将軍家
3位と1位は納得だがそれ以外は違うかな。 子供だった4代、7代を評価の対象外とすると家光が入ってくると思う。 異論はあるかもしれないが、家康により幕府の基礎固めをしてそれを外様の冷遇等を行い更に盤石なものにしていった。
だから家光自身は特に何もしていない。松平信綱達優秀な家臣が行っていた。
綱吉がないのが意外
かつては「犬公方」と揶揄されていましたが、天下の悪法と言われた「生類憐みの令」が実は人間も保護の対象としていて、市中にはびこる野犬の隔離により人的被害を防ぐ、幼児や病人・高齢者の保護などの福祉政策を充実させていたことで、近年は評価が変わってきています。
綱吉は暴君と名君が半々で同居した二面性のある男だった
「生類憐みの令」を出すように仕向けた怪僧「隆光」と出会う以前はその的確な政治手腕で「屈指の名君」だったそうです。
@@藤原鎌平 おっしゃる通りですね。
将軍就任間もない頃は大老・堀田正俊というブレーンがいて「天和の治」と呼ばれる善政を敷いていたけど、堀田が暗殺されて大老老中を遠ざけて側用人というイエスマンを重用するようになってからは暴君迷君ぶりが強くなりました。
生類憐れみの令だけで暗君にされがちですが、彼の代で貨幣改鋳をして経済を発展させ、元禄文化を築いた功績は注目すべきですよ。
大岡忠光は影の軍団2では悪者の大ボスだったけど、実際は悪い人じゃなかったですね😲
実際に政務を行うのは、家柄のみでなく能力も加味して選ばれる大老・老中なので問題ない。
それが江戸幕府のすごいところ。
ん、北のキム将軍みたいだよな😂
家重はダッフンダをしてるの?
世良田二郎三郎の子孫達😅
でもですよ、個人的には極論すれば「徳川将軍は皆エラかった」と考えています。
外国の暴君暗君独裁者たちに比べるとかわいいもの。
向こうじゃ大量虐殺や巨大散財、腐敗政治などそのレベルは半端ない。でも徳川将軍にはそこまでの暴君はいない。
僕は、暗君が徳川綱吉と
思います🎵
徳川慶喜公と武田勝頼公と武田信玄公が一番大好き💓♥️❤️です
日本語ひどいね
外国人?
吉宗一族w
俺的にはワースト1位、5代綱吉(生類憐みの令)、2位、15代慶喜(鳥羽伏見の役で一人だけ逃げ帰った)だな。
綱吉の時代までは江戸は野犬の無法地帯だったみたいだし
犬食の文化の残っていたみたいだから
日本人の道徳を上げた功績はある
「スタグネーション」ではなく、「スタグフレーション」
吉宗が暗君とは思わなんだ。
新しい見識か。
吉宗は一部功績はあるものの、それ以上の経済音痴ぶりが際立っており結果暗君。
吉宗自身と松平定信(ちなみにこの人も近年は暗君と言われている。)のイメージUP戦略が成功しているに過ぎない。(まあこのイメージUPの一助となっている暴れん坊将軍も悪いのだが)
日本の徳川将軍に限らず時代が進めば暗君率が上がるのはどの王朝でも同じですね。むしろ中国史とか古代ローマに出てくる暗君に比べたら、徳川将軍はマシな方だと思います。
個人的に徳川将軍名君ベスト4はこちらの4人ですね。
第4位:三代将軍 徳川家光
凡庸で少し頼りなかった父秀忠から代を譲り受け、余は生まれながらの将軍であるという少し強気な名言で有名ですが、参勤交代制の導入、大奥の創設など時代劇で想像する江戸時代の基礎を築き、祖父の初代将軍家康が創設した江戸幕府をさらに盛り立て盤石なものにした将軍だと思います。家光がいなかったら、260年の天下泰平の江戸時代はなかったと思います。
第3位:六代将軍 徳川家宣
天下の悪法で有名な五代将軍綱吉の跡を継いで将軍となった人物で在位期間は3年で最期は崩御となってしまった将軍ですが、生類憐みの令を即位後すぐさま撤回し、死罪となってしまった国民達を救うために奔走し、多くの命を救った将軍様だと思います。彼は働きすぎて3年で崩御してしまったという説が上がるほど、国民のために働いた為政者だと思うので、それは現代の政治家も見習ってほしいところです。
第2位:初代将軍 徳川家康
群雄割拠の戦国の乱世を平定し江戸幕府を開き260年にも及ぶ天下泰平の江戸時代を築いた神君なので彼を選びました。家康がいなかったら戦国の乱世はずっと続いていたと思うので、現代の平和な日本や首都東京の基礎と今の日本の基礎を作り上げたのはやはり神君家康公だと思います。卑怯者のたぬきと呼ばれ嫌いと言う人もいますが、彼のいいところやただ天下を取りたかっただけでなく、平和な時代を民達のために作りたかったと言う彼の思いを知ればイメージが変わると思います。
1位:十五代将軍 徳川慶喜
激動の幕末に最後の将軍として即位した彼ですが、安定した時代ではなく激動の時代に自ら進んで将軍に即位したこと、また日本史に限らず世界史的に見ても、王朝と王朝の変わり目のときは必ず戦乱が起こりますが、慶喜は自らの家が為政者としての地位を失うことよりも、江戸が討幕勢力との戦火に巻き込まれ、多くの関係のない民を巻き込んでしまうというところを心配し、自ら為政者としての徳川家260年の歴史に幕を閉じることを決断し、朝廷に政権を返還する大政奉還を行なった所が、明君だと思いました。大政奉還と江戸無血開城の立役者は勝海舟と坂本龍馬ですが、影の立役者は徳川慶喜公だと思います。作った神君家康も凄いですが、自ら幕を閉じた慶喜もすごいと思ったし、真の名君であると思ったので、一位に選びました。
全体的に見ても歴代徳川将軍は優しい心を持った良い為政者ですね。今の暗君増税メガネに比べたらみんな名君です。
先ず、江戸時代の三大改革案の改革の意味が不明です。目的とその利益を得る者です。歴史的に改革でしょうか?単なる収支改善ではないですか?江戸時代は職務給と言うものが無く任命された者は俸禄で必要な職員を自ら雇い、必要な資材を自らの俸禄で賄うことを求められます。何処かの国のように領民を絞り上げて生きる気力まで奪うことをしていません。歴史の根本的な見直しが必要なのではないでしょうか?
デフレよりインフレのほうがいい。数十年かもっと前の日本はインフレ気味だったが、それ以上に経済成長率が高かった。デフレで物価は安くなったが、それ以上に賃金は下がった。
家康 例え幕府が倒されても日本が存続できる手は打っておいた。
吉宗は暴れ過ぎた?😂😂😂
実は全然暴れていなかったとか…
ただ武芸には優れていたので、その意味で武闘派将軍のイメージがついた
暗君でも幕府が継続でき、昭和56年まで地球上に存命者がいた幕府をつくりあげた家康は間違いなく名君。
その方はウィルバーライトとは2日違いなので、もう明治天皇が即位してたけど、また徳川慶喜が将軍で大政奉還前なので江戸時代生まれ。昭和56年となると山口百恵引退後、ゲームウォッチも発売後、車も普通に通ってると言う、江戸時代からしたらまるで様変わりした世の中になっていた。
江戸時代が長かったから孝明天皇在位中に生まれた地球上最後の人間はテレビの存在を知っているなど、家康には想像を付かないものを知ってる人間もいた。
8代の吉宗以後ほとんどの将軍が暗君だったということですね。😂
「実は」なのかな・・・血で全ての才能が継承されるわけがないから・・・ある割合で「?」ってのが含まれる方が自然・・・。まあ、吉宗で系統がかわって、歴史も書き換えられているし、なんとも言い難いけどね。
政治はなにが正解かわからない よかれと思っておこなったことが裏目にでる 吉宗の時代はおそらく多くの国民が望んでいたことを実行したのだと思うが それがすべて裏目にでてしまう 田沼時代に腐敗して苦しめられたひとも多くいたとおもうが 田沼がいなくなっていかに田沼治世が有能であったかがわかる皮肉
家重は名君のはず。
足利将軍の方が名君多い
慶喜
将軍はお飾り。
実際の政治・行政は幕閣が行うからあんまり影響は無かった。
ちょ!家光と綱吉が無い!!
綱吉は?
個人的には名君と思います
生類憐みの令はやりすぎだったと思いますけど
金融政策による好景気の後押し
監査制度の構築、徹底による幕府財政の健全化(結果的には不十分だったが)
管理貿易制度の見直しによる貿易赤字の是正(黒字化は18世紀中ごろまで待たないといけなかったが、赤字と貴金属の大量流出の構造に歯止めをかけた)
3点を高く評価しています
聞き取り辛すぎ
音楽がマイナスにしか機能してない
長年やってるのに退歩してどうするんだよ・・・
率直な話、幕末を除けば将軍は暗君でも長男であれば一向に構わなかったんですよね。家康が「将軍は家老の奏上した案件に判子を押すだけ」の存在にして後任の秀忠にバトンタッチしてますから、現在の天皇陛下と同じような存在です。こういう組織のほうが日本では長持ちすると家康は理解していたんでしょうね。
誤字が多すぎて信憑性が下がってしまうのではないか。
自分の中では、五代綱吉が暗君ナンバー1です
生類憐みの令、生母桂昌院を従一位にするなど、専横甚だしき人物
徳川中興の祖である吉宗は諸説あれど、暗君にするのは納得いきかねます
徳川将軍家で一番の暗君は慶喜じゃ!
判断基準が明確ではないのですが基準によっては慶喜は名君にも暗君にもなりますね。
@@お宮さん-r2t 様
関東と関西で評価180度かわりますね。
ちなみに私の母方、「高須松平家」の流れです。慶勝公ですね。また、「松平四兄弟」ですね。
大政奉還の決意に坂本龍馬が「大樹公、よくも断じ給えるものかな。余、誓ってこの公のために一命を捨てん」と感激していますね。
徳川家にとっては暗君でしょうが、先見の明と無私の心で日本を守り抜いた史上最良の英雄です。
@@竜涎香-g9o 様
果たして坂本龍馬にそれだけの力、ホントにあったでしょうかね?
「グラバー一族」が後ろで糸引いてた見た方がいいでしょう。ちなみに私、直でないですが親戚筋の御子孫にお会いしてます。
「司牡丹」と云う酒作ってる酒蔵の社長の
竹村さんです!